「勤皇の母」松尾多勢子

「勤皇の母」松尾多勢子
― 長野の農家の妻が京都・東京で活躍
和歌から国学に傾倒 ―
島崎藤村の名作『夜明け前』に、松尾多勢子の名が十三回も出てくる。
「半蔵の周囲には、驚くばかり急激な勢いで、平田派の学問が伊那地
方の人たちの間に伝播し初めた。飯田の在の伴野という村には、五十歳
を迎えてから先師没後の門人に加わり、婦人ながらに勤王の運動に身を
投じようとする松尾多勢子のような人も出て来た」
幕末・維新の女性といえば、坂本竜馬の妻おりょうのように、男を陰
で支える存在というのが普通。ところが、多勢子は農家の妻でありなが
ら、歴史の表舞台で男たちと対等に渡り合った。映画タイトル風に言う
松尾多勢子
と、何が彼女をそうさせたのか。
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多勢子は文化八年(一八一一)伊那郡山本村(現飯田市山本)の竹村家に生まれた。幼いこ
ろから学問好きで、十九歳で伴野村(現下伊那郡豊丘村伴野)の地主・松尾元珍に嫁ぐと、養
蚕などの家業に精を出すかたわら、福住清風について和歌を学んだ。この和歌の才が後年、公
家や武士との付き合いに役立つ。
和歌を通して国家意識に目覚めた多勢子は、国学者・平田篤胤門下の岩崎長世が飯田へ来た
折、伊那郡座光寺村(現飯田市座光寺)の名士・北原稲雄の紹介で門人となる。桜田門外の変
と皇女和宮の降嫁という、幕末重大事件のころだ。
『夜明け前』にも書かれているように、当時の長野は平田学派が多かった。明治元年には全
国千五百人門人の六百六十三人を占め、中でも伊那郡は三百八十六人と最大。ちなみに女性は
全国で二十五人。平田学派を支えたのは武士よ
りも庶民、それも豪農層で、そのため学風も書
斎的ではなく実践的になったという。これが多
勢子の行動哲学となり、平田学派のネットワー
クが活動の舞台を提供した。
それでも五十過ぎまでの多勢子は、家業と子
育てに専念する。松尾家は造り酒屋に天竜川の
渡し、金貸し業も営むという多角経営。月例の
和歌の会を「養蚕で忙しいから」と欠席するこ
城山の山頂(城山公園)から木曽山脈を望む。
ともたびたび。もっとも、夫婦で江戸に旅しな
眼下に広がるのは多勢子の生家がある飯田市山本
がら、和歌を詠むという楽しみもあった。江戸
では高須藩主が直々に対面したというから、かなりの豪農だ。
五十一歳になった多勢子は元気いっぱい。夫は隠居し、家業は長男が継いで、重荷から解放
されていた。そこで長年の夢を果たすことに。歌詠みの夢は、京都に行き、歌に詠まれた名所
を見物し、公家の指導を仰ぐこと。その京都は当時、攘夷の空気が満ち、勤皇の志士が集まっ
ていた。この偶然が、多勢子と志士たちとを出会わせる。
三条通の旅籠を宿にした多勢子は、平田学派の武士などと交流し、やがて平田派と親密な公
家・白川資訓の屋敷で開かれた歌会に参加する。当時、公家には誰にでも古典和歌の専門知識
を売る習慣があった。多勢子も大金を使うが、家業がそれを支える。この席で多勢子は、身分
の低さに萎縮することもなく、堂々と自分の歌を朗詠し、勧められるままに杯を飲み干したと
いう。
『たをやめ(手弱女)と明治維新』
(ぺりかん社)を書いた米国の女性史家アン・ウォルソー
ルによると、十九世紀の米国女性は、閉経から晩年期までを「黄金の過渡期」と呼んでいた。
その年齢の女性は新しい活力が湧くらしく、マーガレット・ミードは「閉経後の活力」と言う。
結局、多勢子は半年も京都に留まる。この間、後に廃仏毀釈を進めた津和野藩士の福羽美静
や日本初の軍歌「とことんやれ節」を作った長州藩士の品川弥
二郎らと交わり、連絡員として重宝がられた。そのかたわら、
若い志士たちの相談に乗るなど、まさに「勤皇の母」として名
を馳せる。ほかにも「歌詠み婆さん」「斡旋婆」「女丈夫」など
と呼ばれた。
やがて多勢子は伊那に帰り、時代は維新を迎える。実家に彼
女を訪ねて来る者は後を絶たず、多勢子は人脈を生かし、武士
長野県飯田市山本の城山(じょ
を新政府に紹介する労も取っている。旧幕府の旗本だった高須
うやま)にある多勢子の歌碑「旅
藩も彼女に頼り、活動資金さえ提供した。
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衣ふりかへれども秋霧の立へだ
てたる古さとの空」
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多勢子の名声をさらに上げたのは、明治政府の重臣・岩倉具視の依頼を受けて東京の家に移
り住み、三人の娘たちの世話をしたこと。一方、平田学派は神仏分離の政策に乗って権勢を誇
ったが、その行き過ぎから政府の宗教政策が見直されると、一転、要職から追われる。藤村の
父・半蔵はそんな中で精神を病み、不遇の半生を送った。
晩年の多勢子は、松尾家の家母長として恵まれた日々を過ごす。養蚕を手伝い、子や孫の縁
談をまとめ、来客があれば昔話に花を咲かせた。そして家族に看取られながら、八十三歳で大
往生する。
(多田則明)
「サンデー世界日報」10 月 29 日号
掲載