平成 27 年 3 月 1 日 眼と精神 まつもと いっせい 世界を引き受けること、そんな勇気と意志をその眼孔に湛(たた)へながら 亡くなった少年と大人。不条理な殺人(テロ)によって失われた、なにものに も代え難いいのち、ではあるけれど、その二人によって選ばれた死は、その背 後の、確実に私たちを生かしている、いわば日常のいのちそのものを救済して いると言っていい。 日常に潜む「いのち」の絶対的主張(殺意)に出会った時の、 「いのち」の処 し方が、極めて動物的に理にかなったものになってしまうことに、何かに例(た と)へることもできないほどに、悲しいのだけれど、二つの死には、なぜか無 力感がそこに漂うことを拒否した、強い意志が感じられ、いま悲しむことより 先に為(な)すべきことを為せという、強い言葉で書かれたバトンを手渡され たように感じているのは、わたし一人ではないだろう。 1945 年の終戦からほぼ1年後に生れて、ものごころついたときもまだ、戦後 .... の混乱期を抜け出すこともできずにいた会津若松市の「スラム」 (レンタイ)と も言える場所近くで育っていた経験からは、毎日が不条理とは隣り合わせで、 いつなんどき、思いもよらない事件に巻き込まれて、学校の赤煉瓦塀に磔(は りつけ)にされることがあっても、決して「想定外」ではないぐらいに、社会 が混迷していることは、子供にも「想定内」のことどもであった。 生徒会開催中に、会長が壇上で刺し殺されたことがあったほどに、学校とい えども、決してサンクチュアリ(聖域)ではなく、むしろコロッセオという方 が似つかわしいような、どこか暗い情動が突然頭を持ち上げることが、日常茶 1 飯事、カオスのように渦巻いていて、さらにおおきなカオスが、大人達の社会 であるような、その投影劇を演じさせられている、マリオネットの役柄でしか、 生かされないそんな絶望の淵を見ようと思えば、見ることのできた時代である ことを、誰よりも子供達は感じていた。 今年になって58日の間に、矢継ぎ早に続いた「死」が、この国の向かうべ き未来を、はっきりと告知してくれていることを、一日でも早く気づくべきだ と思う。 そして、この「死」を好物にして、いまなお肥大化しているものがいるとす れば、それは言うまでもない、国家という名の狂気であり、その狂気に仕えて 良しとする、信徒以外になく、しかもその信徒たるや、卑賤民(舛添要一)な らぬ被選民であり、それに連なる「幸」僕達というほかないだろう。 亡国はイコール戦争であり、社会の崩壊は常に「死」と甘い匂いで満ちてい る。 2
© Copyright 2024 ExpyDoc