「メディア」博物館探訪(第5回) 山梨平和ミュージアム・石橋湛山記念館

総合メディアセンター報,第5号,2015年3月
コラム
【連載】「メディア」博物館探訪(第5回)
山梨平和ミュージアム・石橋湛山記念館 −言論メディアと経済学−
一般教育科 山舘 順
初秋の一日東京から少し足を伸ばして甲府市南郊の山梨平和ミュージアム・石橋湛山(たんざん)記
念館を訪れた。湛山(1884−1973)は甲府出身の経済評論家、研究者で戦後蔵相となり、短期間首相も
つとめた。平和ミュージアムという名のように地元の戦跡、空襲の記録に重点を置いているが、経済学
者湛山の業績も展示紹介している。今回は彼のこの方面から紹介する。
湛山の九十年に及ぶ言論活動は雑誌「東洋経済新報」主筆としての新聞・雑誌を通じた出版メディ
アが中心で、
全容は 15 巻の全集に結実している。中でも戦前の日本で植民地放棄を唱えた
「小日本主義」
は今も異彩を放つ。
経済学関連では昭和五年(1930)当時の浜口首相と井上蔵相が緊縮政策と旧平価による金輸出再開(い
わゆる金解禁)を推進し、
結果的に輸出不振、
昭和恐慌をもたらしたのに対し、
金輸出再禁止を求めた「不
景気対策の検討」等が展示される。
湛山はまた 1930 年代初めより明確にリフレーション政策を支持、
「過去のデフレを訂正し、経済界の
活動発展を常態に回復するのに必要な程度まで通貨の供給を増加するのがリフレーションだ」とした。
1920 年代に英のアービング・フィッシャーが唱えたリフレ理論は、国民生活を破壊するハイパーイン
フレを避けながら他方で 2%程度のインフレ目標を掲げて通貨供給量を増やすものであり、目標達成と
共にインフレを抑制する点が特徴だが、戦後の昭和二十一年に湛山が蔵相としてこれを実行すると「イ
ンフレ大臣」と評されるにいたった。
しかし 21 世紀以降小泉内閣の経済政策が景気改善につながらず、その後安倍内閣がリフレ理論を軸
に転換をおこない、金融の大幅緩和実施に至るに及び改めて注目されている。
英のケインズは民需と同様軍需も経済の重要部分とみなし、これに倣った日本の蔵相高橋是清は不
況脱出に成功したものの軍部の独走を招き、抑えようとした末ついには 2・26 事件で凶弾に倒れる悲劇
となった。
湛山は平和主義志向が強く、経済ブロック間の対立激化に向かう世界の中でインフレを軍需と民需に
分けて前者を抑制、後者を重視してファシズムを警戒した。
吉田茂と異なり GHQ に迎合しなかったり、まだ国交がなかった頃から日中貿易再開を模索したり日
蓮宗、キリスト教を思想的な背景にプラグマティストの面目を保った。
前記の植民地放棄論の理由もあくまで植民地経営が経済的に「儲からない」ことであり、すでに大正
年間ワシントン条約において主張を始めている。
言論メディアに残した彼の足跡の巨大さに比べ小規模にすぎるほどの慎ましい記念館であるが、彼
の言論内容を考えるとむしろその慎ましさの方がふさわしいのかもしれない。
【山梨平和ミュージアム・石橋湛山記念館】
JR 身延線南甲府駅より北へ徒歩 15 分、開館毎週月・木・金・土・日の 12:30-17:00 休館 火・水・祝
大人 300 円、中・高・大生 200 円、tel. 055-235-5659,
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