寄生虫感染症とマラリアに対する新規治療方法の発見

子供たちに聞かせてあげたいノーベル賞 2015
《子供たちに聞かせてあげたいノーベル賞 2015》
2015 年ノーベル生理学医学賞
寄生虫感染症とマラリアに対する新規治療方法の発見
他の動物の身体の表面や体内に住んでそこから
するオンコセルカ症やリンパ系フィラリア症の発
栄養を奪い取って生きている生物のことを寄生虫
生率を著しく低下させると共に、寄生虫が原因と
と呼びます。寄生虫によって引き起こされる疾患
なるその他の疾患の拡大を防ぐためにも有効でし
は、人類を数千年以上にわたって悩ませてきまし
た。
た。特に衛生状態が悪く医療制度も整っていない
中国人として初の自然科学賞受賞者となった
貧困層地域において蔓延しやすいため問題は大き
ト・ユウユウ博士はマラリア治療薬アルテミシニ
く、人類の健康と福祉の向上の大きな障壁であり、
ンを発見し、マラリアに感染した患者の死亡率を
世界における健康問題の中でも主要な問題となっ
大幅に低下させました。
ています。そのような背景の中、2015 年のノーベ
これらの二つの新薬は毎年何億人もの人々に投
ル生理学医学賞は、
「線虫による感染症に対する新
与され、多くの人を難病から救い、人々の健康を
規治療方法の発見」
「マラリアに対する治療方法の
改善しました。病気の苦痛を軽減した効果は計り
発見」の二件に対して授与されました。
知れません。
線虫による感染症に対する新規治療方法の発見
に取り組んだウィリアム・キャンベル博士と大村
顧みられない熱帯病
智博士は画期的な寄生虫駆除新薬アベルメクチン
とその作用をさらに高めた改良品を発見しました。
それらの新規医薬品は寄生虫が原因となって発症
私たち人間は膨大な種類の生物の中に埋もれる
ようにして生きています。ネコ、イヌなどの動物
線虫による感染症に対する新規治療法の発見
ウィリアム・キャンベル
米国ドリュー大学名誉フェロー
1930 年アイルランド出身
大村 智
北里大学特別栄誉教授
1935 年山梨県出身
マラリアに対する治療法の発見
ト・ユウユウ
中国中医科学院主席研究員
1930 年中国出身
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たちだけでなく、病気の原因になったり、場合に
の原因になったりします。移動にはリンパ管を使
よっては致死的な影響を与えることもある生物も
うこともあるため、リンパ節が炎症を起こして腫
大量に生息しています。
れ上がります。また、角膜で炎症が起きると角膜
寄生虫は動物(宿主)の身体の表面や体内に住
が濁って損傷し失明に至ります。
み着き宿主から栄養を奪い取って生きている生物
アフリカを中心に 34 カ国で 1800 万人もの人が
です。体内の寄生虫は様々な病気を引き起こしま
オンコセルカ症を発症しており、27 万人が失明、
す。世界の人口の三分の一が寄生虫に苦しめられ
50 万人が視力に障害が出ています。アフリカ地域
ていると推定されていますが、特にアフリカのサ
での失明原因の第 2 位です(第 1 位は緑内障)
。感
ブサハラ(サハラ砂漠以南)
、南アジア、中南米で
染力はそれほど高くありませんが、感染地域で暮
寄生虫による健康被害は顕著です。
らしている人は何度もブユに刺されるうちに感染
今回の受賞に関わるオンコセルカ症とリンパ系
フィラリア症も寄生虫によって引き起こされる病
します。アフリカと中南米では WHO による大規
模な集団治療とブユ対策が行われています。
気の一種です。
リンパ系フィラリア症
リンパ系に寄生するフィラリアという寄生蠕虫
(ぜんちゅう)が病原体で、こちらは蚊が媒介し
て人から人へと感染します。感染するとリンパ系
に激しい炎症を起こし、リンパ浮腫を発症します。
免疫力の低下で細菌感染を起こし足が象のように
大きく腫れる象皮病などの身体障害を発症するこ
とがあります。患者数は 1 億 2 千万人以上とされ
ています。リンパ系フィラリア症が直接の原因で
死亡することはありませんが、免疫力が大きく低
下するため、その他の感染症を併発して重篤にな
オンコセルカ症
る場合がよく見られます。WHO では 2020 年まで
の根絶を目指しています。
オンコセルカ症は河川盲目症とも呼ばれ、回旋
糸状虫による感染症です。症状は激しいかゆみか
マラリア
ら始まり、重症化すると視覚異常を経て失明に至
ります。名前の通り、河川に生息するブユ(ブヨ
マラリアはハマダラカに刺されることによって
とも呼ばれる吸血性の昆虫)が人を刺すことで皮
感染するマラリア原虫よる熱帯・亜熱帯地方に広
膚の中に幼虫が侵入します。また感染者を吸血し
がる伝染病で、最も患者として多いのはアフリカ
た際に皮膚内の仔虫を吸い込み、仔虫がブユの体
のサブサハラ(サハラ砂漠以南)に住む子どもた
内で感染性の幼虫に成長します。成虫は 15 年も人
ちです。日本では 1960 年代以降ハマダラカによ
間の体内で生きてメスは最大 20 センチにも成長
る感染は見つかっていませんが、感染地域に渡航
し、卵を産み続けます。卵からかえった前期幼虫
した人が現地で刺され帰国時に持ち込むことがあ
が次の感染を引き起こしたり、目に移動して失明
り、輸入感染症に分類されています。発症すると
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発熱し、マラリア原虫は赤血球に感染するため赤
血球が破壊されて貧血症状を呈します。重篤化す
医薬品企業での改良と発売
ると錯乱や腎不全が起き、脳が損傷して死に至る
こともあります。
世界で 34 億人の人々がマラリアに感染する可
一方、当時メルク社の研究者だったウィリア
ム・キャンベル博士は寄生虫生物学の専門家です。
能性のある地域で生活しており、3 億~5 億人がマ
キャンベル博士は大村博士が有用な物質が含ま
ラリアに感染し、毎年 50 万人もの人がマラリアで
れていることを発見したストレプトマイセスの培
命を落としています。
地を入手し、その寄生虫への有効性を検討しまし
た。その結果、静岡県伊東市のゴルフ場で採取し
富士山が見える場所には良い微生物がいる
た土を培養した培地に含まれる成分の中の一つが
家畜寄生虫に対して著しい駆除効果があることを
大村博士はワインの発酵生産に刺激を受けた微
確認しました。
生物学者であり、微生物由来の天然物の単離の専
試験サンプルには様々な物質が溶け込んでいま
門家でもあります。微生物の持つ有用物質の生産
す。それらの中から寄生虫に作用している物質を
能力に着目した研究を長年続けており、寄生虫治
突き止め、化学的な構造を決定し、アベルメクチ
療薬の開発においても、土壌中微生物のストレプ
ンと命名しました。この物質は化学的に構造を変
トマイセスに注目しました。ストレプトマイセス
換することによってさらに効果が高められたイベ
は古くから抗菌活性を持つ物質を多数作り出すこ
ルメクチンへと改良されました。
とが知られており、1952 年にノーベル賞を受賞し
たセルマン・ワクスマンのストレプトマイシンの
発見は有名です。大村博士は各地で採取した土の
サンプルを培養し、寄生虫駆除できそうな作用の
ある物質を持つ細菌を地道に探しました。実験し
たサンプル数は 5000 以上となりましたが、その
うちの 50 種類程度が新薬の候補となりました。
北里研究所とメルク社は共同でイベルメクチン
を牛や馬などの家畜寄生虫駆除用動物薬として発
売しました。イベルメクチンはとてもよく効く薬
として畜産農家に歓迎され、商業化に成功したこ
とから、人間に感染する寄生虫に対する効果が試
験されました。その結果、効果的に寄生虫の幼虫
(ミクロフィラリア)を駆除し、オンコセルカ症
などの治療効果が確認されたことから、人間用医
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薬品としても発売することに成功しました。この
マラリアはかつて、1930 年代に開発されたクロ
ように大村博士とキャンベル博士による貢献によ
ロキンまたは 1940 年代に開発されたキニーネに
って、寄生虫が原因となる疾患症に対する強い効
よって治療が行われていましたが、マラリアの原
果を持つ新たな薬が誕生しました。
因生物であるマラリア原虫が突然変異を繰り返す
近年の医薬品開発は病気の原因となっているタ
ことによってこれらの薬の効かないマラリアに変
ンパク質の構造をコンピューター上で再現し、そ
化してしまい、治癒率は低下を続けていました。
の構造にフィットするような医薬品の構造をデザ
1960 年代後半、マラリアを撲滅するための努力は
インする手法や、医薬品メーカーが持つ大量の物
失敗し、患者数は増加に転じました。当時、中国
質ライブラリに対して、明確な方向性を持たず手
はマラリア対策を国家の重要な課題としてとらえ、
当たり次第に評価するランダムスクリーニングな
ト・ユウユウ博士は、マラリア治療薬開発専門の
どが増えてきています。それも方向性の一つでは
科学者として国家によって育て上げられました。
ありますが、土壌中には人間の役に立つ細菌がた
ト博士は新規のマラリア治療薬を開発するため
くさん活動しています。そこから今後も効果の高
に、伝統的な漢方薬の研究に取り組みました。マ
い医薬品が見いだされ、未だ有効な治療薬のない
ラリアに感染した動物での薬草療法の大規模な研
まま日本や近隣国で不安が増しているデング熱や
究と、生薬に関する古い文献を 1000 年以上前の
エボラ出血熱治療薬なども開発されることが待た
ものまでさかのぼって詳細に検討する二本立ての
れます。
研究を行い、最終的には 200 種類の植物から 400
種類近い成分を取りだして効果を調べる実験を行
1600 年前の文献をヒントに発見
いました。
その結果、ヨモギ科の植物クソニンジンから有
コラム:微生物が作る医薬品
2015 年のノーベル生理学医学賞ではいずれも天然物が作り出す化学物質が医薬品として開発されまし
たが、他にも微生物から誕生した薬はたくさんあります。
○抗生物質「ペニシリン」
1928 年にアレクサンダー・フレミングが青カビから発見した人類初の抗生物質。全く関係の無いブ
ドウ球菌の研究をしていたところに青カビが混入し、青カビの周辺にはブドウ球菌が生育していないこ
とに気づいたフレミングは青カビに菌を殺す物質が含まれているのではないかと考え発表しました。
○結核薬「ストレプトマイシン」
ストレプトマイセス(放線菌)から取り出された初の結核用抗生物質です。米国ラトガース大学の微
生物学者セルマン・ワクスマンと彼の研究室の学生アルバート・シャッツによって発見されました。
○免疫抑制剤「タクロリムス」
筑波山から採取した土の中に生息していたストレプトマイセスが作り出す物質として 1984 年に当時
の藤沢薬品工業の研究によって発見され、臓器移植時の拒絶反応抑制やアトピー性皮膚炎の炎症を抑え
る薬として開発されました。
○コレステロール合成阻害剤「コンパクチン」
青カビが作り出す物質の中から、アルバート・アインシュタイン医科大学留学研究中だった当時の三
共株式会社の生化学者遠藤章博士によって発見されたコレステロール降下薬です。この物質の構造を基
本にしてさまざまな効果が強く安全性の高い物質が開発され、世界中で現在も使用されています。
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効成分を抽出することに成功しました。ト博士は
で使用されています。その他のマラリア治療方法
感染した動物および人間の両方で、後にアルテミ
との併用療法において、患者全体の 20%以上、子
シニンと呼ばれる薬草成分の治療効果を試験し、
供の患者の 30%以上についてマラリアによる死
治療試験の初期段階ですでにマラリア原虫を速や
亡率を低下させていると推定されます。アフリカ
かに殺す作用があることを確認。ここに重症マラ
についてみれば毎年 10 万人以上の命がアルテミ
リアの治療における新しい種類の医薬品が誕生し
シニンによって救われているはずです。
ました。
アベルメクチン及びアルテミシニンの発見は重
篤な寄生虫疾患を患っている患者のための治療に
革命をもたらしてきました。キャンベル博士、大
村博士、ト博士による寄生虫病治療の発見によっ
て受けた人類の利益は計り知れません。
《受賞者プロファイル》
ウィリアム・キャンベル
寄生虫学者、生化学者
元メルク社上級科学者
今回の受賞研究が人類に与える効果
米国ドリュー大学名誉フェロー
1930 年 アイルランド出身
アベルメクチン及びアルテミシニンの発見は寄
1957 年 ウィスコンシン大学で学位取得
生虫病の治療を根本から変えました。今日アベル
メクチン誘導体のイベルメクチンは、寄生虫症に
大村 智(おおむら・さとし)
悩まされている世界のすべての地域で使用されて
化学者
います。特に貧しい国に対してはメルク社から無
北里大学特別栄誉教授
償提供を受けたイベルメクチンを WHO が 1987
韮崎大村美術館長
年から配布しています。
1935 年 山梨県出身
イベルメクチンは、多くの種類の寄生虫に対し
1968 年 東京大学薬学博士
て極めて有効である一方で、副作用はとても限ら
1970 年 東京理科大学理学博士
れたものです。オンコセルカ症とリンパ系フィラ
1975 年 北里大学薬学部教授
リア症が蔓延している国々の人々の健康と福祉の
改善におけるイベルメクチンの重要性は計り知れ
ト・ユウユウ
ないものがあります。オンコセルカ症とリンパ系
中国中医科学院主席研究員
フィラリア症の治療は非常に有効に進められてい
1930 年 中国浙江省出身
ますので、これらの病気は WHO の計画通りに根
1960 年代後半 マラリア研究に着手
絶に成功するかもしれません。
2000 年 中国中医科学院主任教授
一方、中国漢方薬から取り出されたアルテミシ
ニンは、世界のすべてのマラリア患者の多い地域
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