参考資料1 - 筑波大学

参考資料1
論文1 『全体論的個人主義としての「負荷有りし自己」と「欲望統整の自己」―チャールズ・テイラーと石橋湛山―』
と盗用されたとの指摘のあった元の文献の対比表
○○○:同一の表現を用いている部分
○○○:漢字とひらがなの違いがある部分
○○○:同様の内容で表現が異なる部分
○○○:引用と認められる部分
○○○:出典が記載されている部分
番号
調査対象論文
盗用されたとの指摘のあった元の文献
頁&行
小松優香『全体論的個人主義としての「負荷有りし自己」と「欲望統整の
自己」―チャールズ・テイラーと石橋湛山―』
「比較思想研究」第 41 号(比
較思想学会、2014 年)pp.134-143
一 近代の不安
カナダ人の政治哲学者チャールズ・テイラーは、しばしば近代的自由の概
念はそれまでの道徳文化を狭螠な地位に追いやり意味の観念から抜け出す
ことで成立したと指摘している。そして、今日我々が抱えている近代特有
の問題は、そうしたことと無関係では有り得ないと語っている。
①
近代的な自由は、
それ以前の道徳の地平から抜け出すことで獲得されま
した。かつて人々は、自分たちをもっと大きな秩序の部分とみなしてい
ました。その秩序とは宇宙の秩序であったり、
「存在の大いなる連鎖」
であったりしたわけです。人間はそうした秩序のなかで天使や天体、そ
してわたしたちの仲間である地上の被造物とともに、
おのれにふさわし
い位置を占めたのです。…近代的な自由は、そうした秩序が信用を失う
ことによって出現したのです。(1)
(1) Charles Taylor, The Ethics of Authenticity, Harvard University Press,
1994, pp.2-3.
そして、近代に特有の懸念として、
論文
頁&行
B チャールズ・テイラー(田中智彦訳)
「第1章 三つの不安」同「
〈ほ
んもの〉という倫理 近代とその不安」
(産業図書、2004 年)pp. 1-16
C 石橋湛山『イプセンの「人形の家」と近代思想の中心』石橋湛山全集
編纂委員会編『石橋湛山全集 第一巻』
(東洋経済新報社、1971 年)
pp.40-48
D 田中智彦「テイラー 自己解釈的な主体と自由の社会的条件」藤原保
信・飯島昇藏編「西洋政治思想史・Ⅱ」
(新評論、1995 年)pp.463-478
P134
上段 L1
~上段 L6
P134
上段 L7
~下段 L1
近代的な自由は、それ以前の道徳の地平から脱け出ることで獲得されまし
た。かつてひとびとは、自分たちをもっと大きな秩序の部分とみなしてい
ました。その秩序とは宇宙の秩序であったり、
「存在の大いなる連鎖」で
あったりしたわけです。人間はそうした秩序のなかで、天使や天体、そし
てわたしたちの仲間である地上の被造物とともに、おのれにふさわしい位
置を占めたのです。
近代的な自由は、そうした秩序が信用を失うことによって出現したので
す。
B
第一に、いわゆる意味喪失についての危惧が、いいかえれば、道徳の地平
が消失することについての危惧があります。第二の危惧は、わがもの顔の
B
P3
L13
~P4L1
B
P4
L3~L4
P134
下段 L2
②
第一に、いわゆる意味喪失についての危担が、言い換えれば道徳の地平 P134
が消失することについての危惧があります。第二の危倶は、わがもの顔 下段 L3
1
P14
L7~L9
の道徳的理性を前にして、目的が侵食されてゆくことへの危惧です。そ
して、第三には自由をめぐる危惧があります。(2)
(2) Charles Taylor, The Ethics of Authenticity, Harvard University Press,
1994, pp.10
ここに書かれているのは、近代の三つの不安である。近代とは、宇宙の秩
序から成る存在の連鎖からの脱却と人間の開放によって、個人が自由に羽
ばたいた時期である。宇宙観、世界観を織り成す秩序が崩壊し、魔術から
の開放とともに人間中心の新たな秩序ができ上がると、人間以外の生ある
ものの存在の意味は極端なまで失われていった。とりわけ、一七世紀に起
きた科学革命後の世界では、道具的理性と科学主義とかが結びつき、しま
いに人間自らの生の意味をも危ういものにしてしまっている。
③
近代の懸念なる源泉の一つは、個人主義にある。もっとも個人主義と言え
ば、多くの人が近代文明の輝かしい達成物であると思われているものであ
る。今日では、人々が自分で自分の生活パターンを選択する権利、どのよ
うな信念を持つべきかを良心に従って決める権利、近代以前の人々には思
いもよらぬほど色々なやり方で自分の生活形態を決める権利をもってお
り、それらは法システムで、守られている。
道具的理性を前にして、目的が浸食されてゆくことへの危惧です。そして
第三には、自由の喪失をめぐる危惧があります。
~下段 L7
P134
下段 L8
~P135
上段 L2
P135
上段 L3
~上段 L9
(一)懸念の第一の源泉は個人主義(individualism)にあります。もちろ
ん個人主義といえば、多くのひとびとが近代文明のもっとも輝かしい達成
とみなすものをも指しています。わたしたちが生きている世界では、ひと
びとは自分で自分の生活パターンを選択する権利、どのような信念をもつ
べきかを良心にしたがって決める権利、近代以前のひとびとには手に負え
そうもないほどいろいろなやり方で自分の生活形態を決める権利をもっ
ています。そしてふつう、これらの権利は法システムによって守られてい
ます。
B
十九世紀にはアレクシス・ド・トクヴィルが、折にふれて同じようなこ
とを語っています。トクヴイルはそういう時、デモクラシーの時代にあっ
て人々は「矮小・卑俗な快楽」を追い求めがちになると指摘したものでし
た。わたしたちは情念の欠如に苦しんでいるのだ、そう表現されることも
ありました。キルケゴールが「現代」を見つめたときの言い回しです。
このような目的の喪失は、視野の狭窄と結びつけられました。個人の生
活にばかり関心を寄せるようになったため、ひとびとはもっと広い視野を
失うことになったのだ、と。
いいかえれば、個人主義には何ごとも自己を中心にするという暗黒面があ
って、それがわたしたちの生を平板で偏狭にし、意味の乏しいものにし、
他者や社会に対する関心を低くさせているというわけです。
近年ではこうした懸念が―誰もが知っている現代の決まり文句から三
つばかりあげれば―「寛大な社会」の報いを案じ、
「ミーイズム世代」の
B
P3
L2~L7
しかし、こうした個人の開放が、必ずしも良いことばかりではない。それ P135
上段 L10
は、
~上段 L11
④ 一九世紀にアレクシス・トクヴィルが、デモクラシーの時代にあって、人々
は「矮小・卑俗な快楽」を追い求めるようになると言い、キルケゴールが
「わたしたちは情念の欠如に苦しんでいるのだ」と表現したことである。(3)
(3) Charles Taylor, The Ethics of Authenticity, Harvard University Press,
1994, pp.4
個人主義に生きる私たちは、個人の生活ばかりに関心を寄せ、もっと広い
視野を見失うことになった。目的の喪失、視野の狭窄を引き起こしている
のである。
そもそも個人主義には何事も自己を中心にする暗黒面があり、それが私た
ちの生を平板で偏狭なものにし、意味の乏しいものにしてしまっている。
他者や社会に対する関心を低くしてしまっている。
近年ではこうした懸念が、
「寛容な社会」の報いを案じ、
「ミーイズム」の
行状や「ナルシズム」の蔓廷という形で表面化している。生が平板で偏狭
P135
上段 L11
~上段 L14
P135
上段 L14
~上段 L17
P135
上段 L17
~上段 L20
P135
上段 L20
2
P5
L4~L8
B
P5
L10
~L11
B
P5
L13
~L15
B
P5L16
~P6L4
なものとなってしまった感覚、そうした事態が自己陶酔の嘆かわしい状況 ~下段 L2
と関係している感覚は、舞い戻っている。
行状に眉をひそめ、
「ナルシシズム」の蔓延を憂うという形で、ふたたび
表面化してきています。生が平板で偏狭になってしまったという感覚、そ
ういった事態は常軌を逸した嘆かわしい自己陶酔に関係しているという
感覚が、現代文化に特有の形をとって舞い戻ってきたのです。
(二)世界の脱魔術化は近代の別の現象に、しかもとてつもなく重要な現
象に関係しており、これまた多くのひとびとを大いに悩ませています。そ
の現象は道具的理性の優位と呼ぶことができるでしょう。
「道具的理性」
(instrumental reason)ということばで意味しているのは、所与の目的に
対するもっとも経済効率の高い手段は何か、その適用を計算するとき用い
るタイプの合理性のことです。その場合の成功のものさしは最大効率、す
なわち、費用対効果の最適比率にほかなりません。
世界の魔術化からの開放は、
近代の別の現象をも生み出し人々の悩みの種 P135
となっている。それが道具的理性と呼ばれるものである。道具的理性とは、 下段 L3
所与の目的に対する最も経済効率の高い手段は何か、その適用計算をする ~下段 L8
際に用いる合理性のことである。その場合に成功のものさしは、費用対効
果の最適比率にほかならない。
B
P6
L6
~L11
この費用便益分析とそれによるテクノロジーとが、社会の至る所で産業構 P135
下段 L8
造と一体化することによって支配的な地位を占めている。
~下段 L10
⑤ 医療現場における人間の死生やケアの問題などにおいても、人間の尊厳や
ケアの本質から問題視するのではなく、多〈の場合が、テクノロジー中心
の医学アプローチに抑え込まれてしまう。本来人間らしい感受性に満ちた
ケアを提供しているのはたいてい看護師であるにもかかわらず、社会も医
療機関も、高度な科学技術の知識をもった専門家の貢献に比して、看護師
の貢献を軽視するのが常である。
⑥
このように道具的理性が優位に立ちテクノロジーが支配的な位置を占め
るようになったことは、生が軽んじられ偏狭になってゆく事態の一因でも
あるように思われる。これにより人間を取り巻く事物は、もはや人間の心
と響き合うことを止め、その深さも豊かさも失われていく。
P135
かつて私たちに役立ってきた常在的な物、耐久性のある物、その多くは表
情豊かで温かい物であった。それが、寿命の短い、見かけだけの取り替え
可能な商品に取って替えられた。今や私たちの周囲はそうした商品で埋め
つくされている。
⑦ この非人格的なメカニズムが社会を覆い被せるように強化されるにつれ、
私たちは、生ある環境との「多面的な結びつき」からますます疎遠となり、
道具的理性とテクノロジーの奴隷となることで、個人からも集団からも、
自由の大半をもぎ取られてしまっている(4)。
(4) Charles Taylor, The Ethics of Authenticity, Harvard University Press,
1994, pp.4-12
P135
下段 L10
~下段 L16
P135
下段 L17
~下段 L21
下段 L21
~P136
上段 L2
P136
上段 L2
~上段 L6
3
ところがこうしたケアの本質は、多くの場合、テクノロジー中心の医学の
アプローチによって抑え込まれてしまう。しかも、そのような人間らしい
感受性に満ちたケアを提供しているのはたいてい看護師であるのに、社会
も医療機関も、高度な科学技術の知識をもった専門家の貢献に比して、看
護師の貢献を軽んずるのが常なのである、と。
B
テクノロジーが支配的な地位を占めるようになったことは、さらに第一の
テーマとの関連で議論してきた事態、つまり生が偏狭で平板になってゆく
事態の一因でもあったと考えられます。人間をとりまく事物はもはや、人
間の心と響き合うことをやめ、その深さも豊かさも失ったと言われてきま
した。
マルクスが言わんとしたのは、これまでわたしたちの役に立ってきた常在
的な物、耐久性のある物、その多くは表情豊かであった物が寿命の短い見
かけだけの取り替え可能な商品にとってかわられ、いまやわたしたちの周
囲はそうした商品で埋め尽くされているということでした。
このパラダイムのためにわたしたちは、環境との「多面的な結びつき」か
らますます身を引いてゆき、そのかわりとして、ある限定された利益を提
供すべく設計された生産物を欲しがり、購入するようになっているという
のです。
B
P8
L8
~L11
P8
L12
~L14
B
P8L16
~P9L3
B
P9
L4~L6
同じように、近代における個人主義の問題を早くから警告し、思慮ある個 P136
上段 L7
人の確立を求めて論陣を張っていた日本人がいる。石橋湛山である。
固より近代の思想と雖も、
その初めて中世主義に反抗して起こった当時 ~下段 L7
にあっては、随分極端なる個人、すなわち社会的要素を忘れた個人とい
うものの主張に走ったものである。
彼等は中世の絶対主義に対する反動
として、個人の能力というものに極端な信仰を置いた。…彼等が極端な
る個人主義を主張したのは、
これを以て現実を最も良く改造し得ると信
じたからである。然るに彼等は、その信仰の誤っておることを最も痛切
にかの産業革命の結果によって実生活の上に味わされた。
蓋し彼等は個
人の能力の極度なる発現は自然に社会の幸福を増進すると考えたので
ある。自由競争は彼等が実生活上のモットーであったのである。彼等は
科学を研究した。機械を発明した。而してこれこそは人類の生活を改善
する唯一の機関だと考えたのである。彼等の頭には政治もなかった。工
場法もなかった。社会学もなかった。唯だあったものは個人的能力であ
った。しかしこの彼等の理想の現れた産業革命の結果は何うであった
か。果して人類の生活を改善し、幸福にしたか。彼等は失望せざるを得
なかった。
而して彼等は無制限なる自由競争の決して人類の理想でない
ことを知った。
…個人を制約するに社会的要素を以てせんとする思想の
発生をみたのである。(5)
(5) 石橋湛山「石橋湛山全集第一巻」東洋経済新報社、1971 年、46-47 頁
湛山がこれを「東洋時論』に書いたのは、一九一二年である。当時、領土
の対外拡張に熱中する一九世紀の帝国主義に対し、内治優先、実質経済に
よる国家間関係を主張していた。そのためには、思想上、社会生活を尊重
する自己の確立が急務であった。自己本位とはギリシャ時代以来の個人主
義の共通要素、いわば個人主義と称するものの具備しなければならない基
本的特徴である。これに対し社会的要素の重視は、近代の個人主義に特有
の性質というべきものである。
⑧
ギリシャの個人主義は、
「ありのままの人生自然」を最美最完なるものと P136
して尊重し、その改造を怠ったため、社会の生活に混乱をもたらし、つい 下段 L16
~下段 L18
に滅びてしまった。
ありのままの人生自然を尊重し、この人生自然を以て最美最完なるもの
を与うるものと考えたギリシャ人には、その哲学も、芸術も、唯だこの人
生自然の最美最完なる真相を見出す為めの機関として存在した。
かのギリシャ個人主義が、近代の個人主義と異って、その社会的生活を
混乱せしめ、終にこれを亡すに至ったという原因も亦実ここにある。
人間の介入しない自然のまま、自然状態が神であり、宇宙であった。ギリ P136
シャ時代の人たちはその与えられた自然を守り従うことしか知らず、そこ 下段 L18
に生きる個人こそ真の実在であり、現実の真相であるとみなしていた。自 ~下段 L23
4
C
P45
L1~L2
C
P45
L8~L9
らの手でおのずから見合ったかたちに社会を変え、住み善い満足する社会
を創り出そうとはしなかった。
⑨ その結果、人生を享楽しようとした個人が、強力な外寇と内訌によって社
会が崩壊していくにつれ、だんだん縮小していった。個人は目の前の現実
に失望し、ついには自らの主観の小窩中に逃げ込んでしまい、主観主義に
陥ってしまった。
⑩
しかしかく倫に受動的なる態度を以て、現実に対し、これを享楽せんとし
た彼等は、強力なる外寇と内訌との為めに彼等の社会が漸次に政治的に破
壊せられて、彼等に現実享楽の満足を与えなくなるや、彼等は段々その現
実を縮小して、終に主観の小窩中に逃げ込んで了うの止むを得ないことに
立ち至った。
さて斯くギリシャの現実満足主義は、その自然の結果として主観主義に
陥った。
而してここへ現れて来たものが中世の絶対主義である。ギリシャの思想は
この世を愛した。中世の思想はこの世を悪んで出世間的絶対的実在を求め
た。ギリシャの思想は現実に満足を求めた。中世の思想は現実を不満とし
て超現実の神の世界を理想とした。
即ちギリシャの思想が差別の相を重んじ、個々の個人の欲望を重んじたの
に反して、中世の思想は平等の相を尊び、禁欲的生活を尊んだ。
十字軍の前後より徐々に起り来った政治上及び経済上の思想の変化から、
終に名目論者の明かに絶対主義に反抗して個人主義を唱出し来るに及び、
終に新なる近代思想によって取って代らるるに至ったのである。
近代の思想は、中世主義の現実を軽んじ個人の欲望を無視したのに反抗し
て起った現実本位、個人本位の思想である。
P136
下段 L23
~P137
上段 L4
ここへ出現したのが中世の絶対主義である。
ギリシャ思想は現実の世を最 P137
善なるものとしていたのに対して、中世の思想はこの世の世界を不平等な 上段 L5
もの、醜いものと捉え、その救済を出世間の絶対的存在に求めた。現実を ~上段 L14
不満なものとして超現実の神の世界を理想とし、平等を尊び禁欲の生活を
善とした。ところが、十字軍の前後より徐々に起こった政治および経済上
の変化から、ついに名目論者の絶対主義に反対して再び個人主義が唱出し
た。近代の初期の個人主義である。これは、中世主義の現実を軽んじ個人
の欲望を無視した反動として、現実本位、個人本位の思想であった。
C
P42
L8~L10
C
P42L13
C
P43
L1~L3
C
P43
L3~L4
C
P43
L8~L10
C
P43
L12
~L13
ギリシャの個人主義とも異なる自由放任をモットーにした人間解放、個人
の絶対的自由を謳歌した極端な個人主義であった。社会は常に変わるもの、
自らの手で作り変えるものと考え、自らのなかに芽生える多様な欲望を実
現する道具とみなされていった。その結果、そこには自己の欲望と他者の
欲望を調整する機関、多様な欲望を統制する政治も工場法も社会学もなか
ったため、個人の解放は社会の富を作り出したが同時に貧困、格差、失業
などの社会問題を一緒に生み出した。ここに極端な個人主義の最大の問題
が残る。
彼らは、欲望の満足を外に求めるのが最大の特徴であった。領土拡張主義
は、その典型である。個人の能力に絶大な信頼を抱き、自己の能力の発展
こそが人生を幸せにする道と考えていた。産業革命により多くの機械を生
み出し、科学を発明し、自由競争に打ち勝つことが自らの生活を豊かに改
善の方法であった。しかし機械力に依る産業の発達は、人々に必ずしも幸
福を与えなかった。その結果、富む者と富めない者との格差は広がり、失
P137
上段 L14
~P140
上段 L16
5
業者、貧困層が流出し、ついに社会の混乱を招いた。故にそこで個人の能
力過信の迷妄は破られ、そこから個人を制約し、社会的要素を重んじよう
とする思想が起こったのである。
二「欲望統整の自己」と「負荷有りし自己」
「この各人の欲望を無制限に解放する」
信条に代わる哲学を創らなければ
ならない、湛山はそう指摘する。外に眼を向けた個人主義から、自己内で
欲望の統整を可能にする哲学を立てなければならない。自己と他者、個人
と社会の関係を調整し統一する哲学でなければならない。湛山は、これら
を満たすものとして社会生活の重視を挙げている。彼は社会的要素に重点
を置いた個人のあり方から現実改造を目指していった。そこには、自己の
欲望と他者の欲望を調整し統一を図ることの重要性、自己とは他者と社会
のなかで共に生き生かされていく存在であるとの認識がある。彼のいう正
しい個人主義とは、個人と他者の欲望を調和し、自己欲望を制御すること
で社会の統一をはかり、それによって常により善い社会を志向する個人で
あった。個人の中に社会を取り入れて、社会的制約を是としたかたちで、
自己実現、社会実現を目指していくものである。
このように考察すると、生きた時代、活躍した年代、それぞれの立場は異
なれど、テイラーと湛山の両者が近代の歪んだ個人主義とそれに纏わる問
題に対して、批判の限を向けていることは興味深い。テイラーは、一九二
八年生まれの現代の哲学者で、二一世紀の抱える諸問題から近代全体を振
り返り、多様なる善の道徳空間、大いなる存在のコスモスが見失われてい
ることや自己の関心ごと、日常生活にのみ集中する個人、また自己の道徳
観念について問題視している。そのなかで、自己の問題、道徳的理性とテ
クノロジーに支配された歪な社会構造を抉り出し近代の抱える課題として
提示している。一方、石橋湛山は一八八八年から一九七三年まで生きた人
物で、人生の大半はジャーナリストとして晩年は政治家として活躍し、思
考と実践を架橋しながら自らの思索を深めていった。彼は、個人の解放が
現実化し始めた近代半ばから、ヨーロッパで広まる自由放任主義による行
き過ぎた個人主義、科学の発展により目的と手段を取り違えた個人の生き
方についてその限界を見抜き、それに代わる抑制の効いた個人主義、思慮
ある個人主義の確立を提唱していた。絶え間ない自由競争が人生の幸福を
もたらさないこと、個人の欲望の更なる追求は社会に混乱を招くことにつ
いて早い時期に診断し、日清日露戦争を経た頃から個人の生活に根ざした
産業社会を考えなければならないとして「人中心の産業革命」論を唱えて
いった。
湛山の社説を解読する際に若干気をつけなければならない点がある。
彼は
6
学者でも理論家でもない、学生時代には徹底的にプラグマティズムに学ん
だジャーナリストである。その点からしても、彼の本意を読み取るために
は、その折々の時代背景、社会状況を加味したかたちで織り込んで判断し
なければならない。彼の書かれた言葉のみを追いかけていくと、真意を見
失うのである。そこに解読の難しさがある。
こうしたことを踏まえた上で湛山とテイラーの思索の跡を辿り、
その真髄
のみを掘り起こしていくと、両者には社会との繋がりを重視し、他者との
関係性のなかで自己は位置づけられていることを再認識するよう呼びかけ
ているように思われる。時代や社会の潮流を無視して自己の欲望を満足さ
せることはできない。近代は自己実現、自己達成の時代と言われるが、自
ら欲望があるように他者にも欲望がある。それをどう調整し折り合いをつ
けて統一した社会に成立させていくかの問題である。湛山の言論時代の日
本は近代化の途上にあった。個人はお国のために忠誠を尽くすことが義務
づけられ滅私奉公が謳われた時代である。そのなかで、湛山は自己の目覚
めを呼びかけて個人を鼓舞してまわり、婦人の解放も盛んに行った。そう
したい点からすると、彼の論文は政治経済政策について思想的に捉えたも
のが多く、時には個人の解放を強調したものや国民国家建設の時代風潮か
らしても個人に向けたものよりも国家、社会のことを語ったものが多い。
しかし彼の思考様式から考えると、社会、国家、世界は個人が集合して作
り出すもの、人間が動かすもの、その改造の契機と益は「個人に始まり個
人に返る」ものと捉えていた。したがってその論調に沿って彼の思想全体
の真意に迫ってみると、他者認識の必要性、社会的要素の重要性を主張し
ていたように感じられる。
社会とは何かと申すと無論奥の個人に依って組織せられているもので
あることは明かですが、其の個人と云うものは、社会に取っては、恰度
一個人の欲望に当るものと見られます。
一人の人間は多元の欲望を持っ
ていますが、社会は多元の個人を持っている。而して其の多元の個人が
夫々無限の欲望に依って働きますので、そこで社会は進歩し、発達する
訳であります。併し玆に於いても亦、多元の個人だけでは分散して、社
会としての生活は成立せず、
そうなれば個人も亦生存ができないことに
なりますから、其処に調和統一の必要が生じる。(6)
(6) 石橋湛山「石橋湛山全集第 11 巻」東洋経清新報社、1972 年、278-279
頁
湛山は、これを「欲望統整」論として述べている。その下地は、そもそも
ウィリアム・ジェームズと田中王堂にある。この哲学には、自分の心の声
を聞く自然本位(個人主義の第一原理)と同時に個人的欲望が発展変化する
7
につれ、周囲との関わりや変化する境遇に応じてそれを統制、制御し適応
させる欲望統制(個人主義の第二原理)
、社会の現実をより良く発展前進す
るように全体の欲望を統整統一し、境遇を改造していく現実改造(個人主
義の第三原理)の側面が含まれている。社会生活を営むことで人生を豊か
にするという目標の下で、社会生活を構成する諸々の要素を一元的、作用
的に捉え、相矛盾する二側面のどちらにも極端に走らず、動的にその均衡
を保ち、その統一を図るのが湛山の思考方法であった。
石橋湛山の個人主義の萌芽は、山梨尋常中学校時代の後期、大島正健校長
を通じて間接にクラーク博士の感化を受けたときから始まったと思われ
る。その後、早稲田大学で田中王堂の薫陶を受けて次第に定式化した。そ
の基本的特徴の第一は、自己の内なる声に耳を傾け、自己本位、自然本位
を強く打ち出すことであった。湛山はルソーの「自然に返れ」の主張に同
調し、それを「一切の文明の根源に返り、我が内心の声に直ちに聴かんと
する根本覚悟」として自己の覚醒を喚起していった。それは、自己の目覚
めを促す「自然に返れ」を、湛山は、総てのものを建設し改造する第一の
出発点と考えていた。
一九一一年八月に書かれた社説「没我主義とは何ぞや」では、次のように
述べている。
元来、人はその如何なる人種、如何なる国民を問わず、その周囲に付着
しておる種々の伝習、粉飾を篩い落とし、篩い落として、洗ってみれば、
その後に残るものはただ一つの自我である。
自我が人の最始にして最終
の一点である。この一点を出発点とし、立脚点として、人は一切の理想
を懐き、一切の行動をとる(7)。
(7) 石橋湛山「石橋湛山全集第一巻」東洋経済新報社、1971 年、180-181
頁
湛山は、この自我の内容を時々刻々とやってくる欲望と規定し、この欲望
を満足させる自己実現を人生、社会活動を推進する原動力、または人生、
社会活動の最始最終の目的と見ている。この認識に基づき、彼は国家そし
て文芸、宗教、道徳主どの諸観念を終極の目的と見ず、自己実現と欲望統
一を助ける機関とみなしているのである。
注目すべきは、
その自己の欲望が決して社会生活から切り離されたもので
はないことである。湛山のいう生活とは、人間の営む現実の社会生活であ
り、湛山の求めた自己も社会と共に成りつつある存在で、自己実現もこの
現実の社会生活を通じてでしか実現されないものである。個人と社会、欲
望と境遇、理想と現実を一元的に捉え作用によってその調和、統一を通じ
て相対的な自己を実現していくのは、個人主義の第二、第三原理である。
8
湛山は「境遇」の重要性を認めると同時に、この境遇を形成する歴史的な
要因、宗教、哲学、道徳、政治、法律等を重んじている。
⑪
⑫
ところで、テイラーの最初の著書『行動の説明』
(The Explanation of
Behaviour, 1964)がメルロ=ポンティに影響された行動主義批判であっ
たとすれば、
『へーゲル』
(Hegel, 1975)は近代の認識論そのものに対する
批判を含意していた。テイラーによれば、近代の認識論は世界像を脱魔術
化しただけでなく、それに対応する近代に固有の人間像―自己規定的な主
体(self-determining subject)―をもうみだした。それは意味のコスモス
という観念なきあと、自己の源泉を客体化された世界にではなく、ひたす
ら自己の内面にもとめる主体である。もっとも、近代に特徴的な自律
(autonomy)の観念や自己責任(self-responsibility)の観念は、この自
己規定的な主体という人間像とともにあらわれたのであり、したがってそ
れは、近代の道徳意識の形成に与かって大きな力があったといえる。その
意味では自己規定的な主体は、近代の認識論の影響のもとに成立したとは
いえ、かならずしも全面的に否定されるべきものではないだろう。そして
テイラーにおいても、
「政治的アトミズム」
(political atomism)という近
代の政治哲学に支配的な人間観が成立するのは、自己規定的な主体が特定
の理性概念と結びつくときなのである。
かつて人間が意味のコスモスの一部とされていたときには、その秩序を
分有する(participate)能力が理性の謂であったのに対して、世界像の脱
魔術化以後、世界は自己の目的を実現するための手段の体系とみなされ、
理性はそこに秩序を構成する(construct)能力と同一視されていった。そ
れは真理が手続き的な正しさと同一視される過程でもあった。テイラーに
よればそこから、自己以外のあらゆるものを客体化して手段化する理性、
すなわち「道具的な理性」
(instrumental reason)があらわれてくる。自
己規定的な主体がこの新たな理性概念と結びつくとき、自己は世界から遊
離する(disengage)ことをもとめられる。すなわち自己規定的な主体は、
世界とのあらゆるつながりから超然とした自己としてみずからを規定す
るようになるのである。それは個人と社会との関係においては、あらゆる
社会制度、あらゆる社会的紐帯からの遊離を意味する。自己の特殊人間的
な能力は政治社会を前提にするわけではないとされていったとき、人間は
政治社会がなくとも自足できる存在であるとされ、人間が社会的動物であ
ることは否定されざるをえない。こうした見解を政治的アトミズムとよぶ
ならば、近代の政治意識は自己規定的な主体を前提にするかぎり、政治的
一方、テイラーは近代の問題を解明しながら近代の認識論を批判してい P140
る。近代の認識論は、世界像を脱魔術化しただけでなく、それに対応する 上段 L17
近代に固有の人間像―自己規定的な主体―をも生み出した。それは存在の ~下段 L6
連鎖という意味のコスモスの観念なきあと、自我の源泉を客体化された世
界にではなく、ひたすら自己の内面に求める主体である。もっとも、近代
に特徴的な自律の観念や自己責任の観念は、この人間像とともに現れたの
であり、したがってそれは、近代の道徳意識の形成に与って大きな力があ
ったといえる。その意味では、自己規定的な主体は、近代の認識論の影響
力のもとに成立した。テイラーにおいてアトミズムという近代の政治哲学
に支配的な人間観が成立するのは、自己規定的な主体が特別の理性と結ぶ
つくときである。
かつて人間が意味のコスモスの一部とされていたときには、
その秩序を分 P140
有する能力が理性にあった。それに対して、世界像が脱魔術化されて以後、 下段 L7
世界は自己の目的を実現するための手段の体系とみなされ、理性はそこに ~下段 L23
秩序を構成する能力と同一視されていった。それは真理が手続き的な正し
さと同一視される過程でもあった。テイラーによればそこから、自己以外
のあらゆるものを客体化する理性、すなわち道具的理性があらわれてくる。
自己規定的な主体がこの新たな理性概念と結びつくとき、自己は世界から
遊離することを求められる。自己規定的な主体は、世界とのあらゆる繋が
りから超然とした自己として自らを規定するようになる。それは個人と社
会との関係においては、あらゆる社会制度、あらゆる社会的紐帯からの遊
離を意味する。こうした見解をアトミズムとよぶならば、近代の政治意識
は自己規定的な主体を前提にする限り、アトミズムの刻印を避けられない
といえよう。そしてテイラーによれば、その刻印は自然状態を想定する社
会契約論はいうまでもなく、義務論的自由主義のうちにまで認められるの
である。
9
D
P464
L7~L16
D
P464L17
~
P465L8
⑬
テイラーは、
このアトミズムの感覚が義務に対して権利を優先させるあら
ゆる理論の背景にあると指摘する。社会契約論においても義務論的自由主
義においても、はじめに立てられるべき根本原理は、権利は自由な個人に
帰せられるというものである。社会の一員としての義務はそこから生まれ
るに過ぎない。また社会の正当性は善き生を可能にすることではなく、根
本原理に則った同意や合意事項といった手続き的な正しさに求められてい
く。ところが、元来権利と自由の擁護は、人間の尊厳を守るためのもので
あり、それは他の生物にはない特殊な能力を有する人間としての地位に由
来する。そしてその能力は、成長とともに開花する潜在的な能力であるが
故に、侵害されることなく発展させなければならない。本来権利と自由の
擁護が重視されるべきは、そのためである。そして、そうであるとすれば、
その能力発展のためには善き社会が必要であり、善き生を営むための義務
は、自らに在するものとなる。
善き生、警告社会のためには、健全な権利と自由の擁護が必要であり、そ
のために課せられる義務は、権利や自由と同等の重みを持っている。
アトミズムの刻印をさけられないといえよう。そしてテイラーによればそ
の刻印は、自然状態を想定する社会契約論はいうまでもなく、義務論的リ
ベラリズムのうちにまで認められるのである。
テイラーは政治的アトミズムが、義務に対して権利を優先させるあらゆ
る理論の背景にあると指摘する。社会契約論においても義務論的リベラリ
ズムにおいても、はじめにたてられる根本原理は、権利は自由な個人に帰
せられるという原理である。社会の一員としての義務はそこから派生的に
導きだされるにすぎない。また社会の正当性は、善き生を可能にすること
にではなく、根本原理に則った信約(covenant)あるいは同意(consent)
といった手続き的な正しさにもとめられていく。ところが権利と自由の擁
護は、人間の尊厳の擁護であり、それは特殊人間的な能力をもつ人間とし
ての地位に由来する。そしてその能力は、成長とともに開花する潜在的な
能力であるがゆえに、侵害されることなく発展させられなければならな
い。権利と自由が擁護されるべきなのはそのためである。そしてそうであ
るとすれば、そうした能力の発展には善き政治社会が必要となり、その社
会を擁護する義務は派生的ではなくなるはずである。
P141
上段 L1
~上段 L15
D
P465
L9~L17
P141
上段 L15
~上段 L17
⑭
テイラーにとって、善き社会とは、そうした個人をして自由と権利を可能
にする社会であり、そこにおいて初めて特殊な能力を有した人間力も開花
されるのである。したがって、権利と自由は社会の一員としての義務と一
体のものといえよう。
テイラーは、そうした社会に置かれている健全な自己を、社会や共同体の
文脈に織り込まれた存在で負荷を背負った自己、すなわち「負荷有りし自
己」と意味づけている。人間は生まれながらにして孤立した存在ではない。
家族をはじめ学校、地域等さまざまな共同体に属し、そのなかでアイデン
ティティを形成していく。そこには、浮遊した個人など見られない。
⑮ ところがアトミズムは、そうした社会と義務の意義を否定するところに成
立している。それゆえ、アトミズムを受容したまま権利と自由を擁護しよ
うとすれば、そのために不可欠な要件がアトミズムによって侵食されてし
まうというパラドクスに陥っている。これを回避し、真なる善き生、善き
社会を考えるならば、道具的理性と結びついた自己規定的な主体を典型と
する近代の人間像それ自体を問わなければならないであろう(8)。
(8) 田中智彦「テイラー―自己解釈的な主体と自由の社会的条件」藤原保
P141
上段 L18
~上段 L21
テイラーにとって善き社会とはそうした社会であり、そこにおいてはじめ
て、特殊人間的な能力も開花させることができる。したがって権利と自由
の擁護は、社会の一員としての義務と一体であるといえよう。
D
ところが政治的アトミズムは、そうした社会と義務の意義を否定するとこ
ろに成立している。それゆえ、政治的アトミズムを受容したまま権利と自
由を擁護しようとすれば、そのために欠くことのできない条件が政治的ア
トミズムによって侵食されてしまうという、一種のパラドックスにおちい
らざるをえない。それを回避しようとするならば、道具的理性と結びつい
た自己規定的な主体を典型とする近代の人間観それ自体を問わなければ
ならないだろう。
D
P466
L5~L7
P141
上段 L21
~下段 L4
P141
下段 L4
~下段 L11
10
P466
L7~L11
信・飯島昇藏編「西洋政治思想史・Ⅱ」新評論、2010 年、463―477 頁
⑯
テイラーによれば、
自己のアイデンティティは絶え間ない対話のなかで自
己解釈を通じて生成されるものであるという(9)。ここでいう自己解釈とは、
言語を通じて言葉の網の目のなかで行われ、その言葉は自己に先立って存
在している。これは言語を共有する他者との間に自己は逃れ難く位置づけ
られていることを意味する。言語活動の深化に終わりがないように、言語
習得の過程にも終わりはない。言語の網の目は、同時に他者との対話の網
の目でもあることを示唆している。つまり、自己は常に他者との対話の中
で自らを豊かに深めいく存在であり、その意味において、自己が自己であ
り得るのは他の自己との関係のなかにおいてだけなのである。こうした点
を鑑みると、他者との対話は自己解釈に欠くことのできない構成要素のひ
とつであり、アイデンティティは他者によって規定される部分が本質的に
備わっている部分があることになる。これは、近代の認識論が生み出した
ような自己規定的な自己はあり得ないのである。そしてテイラーはそこか
ら、絶対的な完全な自由というのもまたありえず、ただ、状況づけられた
自由があるだけであると指摘する。
ところでアイデンティティが自己解釈をつうじて形成されるとすれば、
自己はみずからのアイデンティティを独力では形成できないことになる。
自己解釈は言語の網の目のなかでしかおこなわれえなかった。また言語の
網の目は、志向性の条件として、自己に先立って存在していた。これは、
自己が言語を共有する他者のあいだに逃れがたく位置づけられているこ
とを意味する。というのも、基本的な言語を獲得するためだけにさえ、自
己は他者との対話を必要とするからである。しかも、言語は汲み尽くしえ
ないものであるがゆえに、言語活動の深化に終わりはなく、したがって言
語を獲得する過程にも終わりはない。ここに言語の網の目は、他者との「対
話の網の目」
(webs of interlocution)でもあることになる。すなわち、自
己はその全生涯にわたって他者関係の網の目のなかに位置づけられてい
るのであり、自己が自己でありうるのは、他の自己との関係のなかにおい
てだけなのである。そしてそうであるとするならば、他者との対話は、自
己解釈に欠くことのできない構成要素のひとつであり、アイデンティティ
の形成には、他者によって規定される部分が本質的に備わっていることに
なる。むろんテイラーは、アイデンティティの規定が完全に他者に委ねら
れているといおうとしているのではない。テイラーは慎重に、アイデンテ
ィティは部分的に(partly)他者によって規定されるという。それはアイ
デンティティが、他者によってだけ規定されるものではないが、さりとて
自己だけで規定できるものでもないことを意味している。それゆえテイラ
ーの意図は、自己と他者との相互関係をつうじて形成されるものとしての
アイデンティティと、そのアイデンティティに固有の両義性とを示すこと
にあるといえよう。
このようにしてアイデンティティの形成は他者を前提にすることから、
近代の認識論がうみだしたような自己規定的な主体はありえないことに
なる。テイラーはそこから、絶対的な自由もまたありえず、ただ状況づけ
られた(situated)自由だけがあると指摘する。
P141
下段 L12
~P142
上段 L6
(9) Charles Taylor, Human Agency and Language: Philosophical Papers
1, Cambrige University Press, 1985, pp. 45-76.
三 全体論的個人主義
以上のように、
石橋湛山は一九世紀の自由放任主義を批判的に考察するこ
とによって正しい個人主義を主張し、テイラーは、六〇年代以降の新自由
主義に鋭くメスを入れることで道徳観念と真正さの倫理をはじめとする倫
理文化の快復につとめている。自己は共同体の紐帯から遊離した存在では
ない、さまざまなコミュニティに位置づけられ自己解釈を絶えず繰り返し
ながら生きていく存在であること、それをテイラーは「負荷ありし自己」
P142
上段 L7
~P143
下段 L5
11
D
P470L4
~
P471L4
の言葉で表した。湛山は「欲望統整」のなかで、自己は多様な欲望を持つ
存在であり自己実現、自己達成のために生きる存在であるが、それは決し
て自らの欲望のみに身を任せる利己主義とは違う。他者の存在とその価値
を尊重し、関係性なかで自らは生かし生かされる存在であることを前提と
している。そこでは、自己の欲望を制御し、他者の欲望との統一をはかり、
協調性を保ちながら自己を生成していくこと、それが是であることを述べ
ている。しかし一方で、人間は矛盾を抱える内在的存在であり、その人間
が集う社会、国家もまた多くの矛盾を孕んでいる、それをどう統整し、統
一するかという際のその手腕にはエートスが見出されなければならない。
何故に一と多というような事が、昔から議論の題自になったかと申す
と、元来人間そのものに、多の側面と一の側面とが存しているからであ
りまして、従って人生(及び人生から発生して構成せられる宇宙)は、
観方によって多元とも見え、又一元とも見えるのであります。
併し斯様に多と一とは人間に本来具わっている二つの側面であると
云うこと自身が既に証明致しております如く、
それは共に人間の生活に
取って必要欠くべからざる要素でありまして……:或場合には、人は
「多」の方面に注意を向け、又他の場合には「一」の方面に重きを多く
置く必要を生ずることがあります……それは全く其の時の社会の要求
に従って変化するのであります。がそれだからと云うて、多を強調する
時代に、決して一を棄てているのではない。一を強調する時代に於いて
も亦多を棄てているのではない。実際の生活に於いては、矢張両方とも
尊重しているのであります(10)。
(10)石橋湛山「石橋湛山全集第 11 巻」東洋経清新報社、1972 年, 276 頁
湛山は「一」と「多」それは人間そのものの姿であると論じる。ある時は
「一」を、別の時は「多」を強調するように、それぞれの変化に応じた観
方の違いであり、その両者ともに相補い尊重すべきもので、それらのバラ
ンスが重要である。政治、経済、哲学、道徳、宗教などの制度や倫理はこ
れらのバランスをとるための手段であり、彼は、この考えを社会論、国家
論に援用していった。個人の生活においても社会の生活においても、また
国家の政策においても「一」と「多」は本来協働する性質のもので、絶対
に相容れないものではないと見ている。実際の現実世界においても全体と
個人、個人と社会など相対するものを互いに不可欠なものとみなし、バラ
ンスをとっていくのが常であった。こうした考えは、今日の学問である公
共哲学の文脈でみれば、全体論的個人主義と言われるものに等しいであろ
う。これは現代においてもなお意義深い。個人主義、自由主義は決して完
全なるものではないことを示している。全体論とあるように、個人は孤立
12
無縁に存在しているのではない。現実の社会生活に根ざし、さまざまな種
類のコミュニティに属し、その共同体の束縛を受けながら他者とともに生
きている。したがって、そこにおいて個人の概念も自由の裁量も、時代や、
社会という共同体に位置づけられ、そこでの状況と関係性によって制限さ
れたものとなるのである。このことを思想的に解明したのが、テイラーで
ある。
石橋湛山の社会論および国家論には、
彼の言論が輝いていた頃の時代状況
からしても、確かに功利主義的色彩が強く、現代の視点でみれば、当然限
界があることも否めない。しかし、彼の初期の言論には、それらの基盤と
なっている文明観、生物観、人間観が滲み出ており、道義的言論人であっ
たことが読み取れる。これは、-一つの湛山の新たな面を映し出しており、
その湛山の限界を補充する意味でも、テイラーの鋭い指摘は重要である。
こうして過去と現代の二人を同じ俎上で比較することは、両者の道徳的性
質を顕著に示す上で、意義あることと思われる。
(1) Charles Taylor, The Ethics of Authenticity, Harvard University Press,
1994, pp.2-3.
(2) Ibid, p.10.
(3) Ibid, p4.
(4) Ibid, pp.4-12.
(5) 石橋湛山「石橋湛山全集第 1 巻」東洋経済新報社、1971 年, 46-47 頁
(6) 石橋湛山「石橋湛山全集第 11 巻」東洋経清新報社, 1972 年, 278-279 頁
(7) 石橋湛山、前掲第 1 巻、180-181 頁。
(8) 田中智彦「テイラー―自己解釈的な主体と自由の社会的条件」藤原保
信・飯島昇藏編「西洋政治思想史・Ⅱ」新評論、2010 年、463-477 頁
(9) Charles Taylor, Human Agency and Language: Philosophical Papers
1, Cambrige University Press, 1985, pp. 45-76.
(10) 石橋湛山、前掲第 11 巻、276 頁
(こまつ・ゆか、公共哲学・国際関係論、筑波大学、人文社会系准教授)
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