偉大なる暗闇 高橋英夫 講談社オンデマンドブックス 廩 廨 廡 廢 廛 廚 廝 廣 廖 序章 ホモ・アミクスの世界―― 友情空間のたたずまい ―― 聖者の涙―― 三谷隆正 ―― 志賀直哉の家庭教師 独身者たち―― 粟野健次郎・狩野亨吉 ―― 「ギリシア人」ケーベル 「哲学概論」 薩摩武士 落第 ドイツ語の教室 偉大なる暗闇 清談会 次 廬 理想主義の終焉 目 終章 主要文献一覧 242 222 201 171 150 122 103 83 62 41 23 著者から読者へ 271 6 278 偉大なる暗闇――師岩元禎と弟子たち 序章 清談会 そろそろ時間だった。遠くの教室の扉があき、入乱れた足音が廊下を遠ざかっていった。まだ ベルは鳴り出さないが、こちらの教室でもちょうど区切りのいい所まできた。神学校生徒ハンス・ ギーベンラートは入学当初の希望を打ち砕かれてしだいに痩せ細り、ラテン語やヘブライ語の授 業も寮生活も、息苦しくなっていた。 ダス・ガンツエ・ビルト・ヴイー・アイン・ラウヘンダー・アーテムツーク・イム・ヴインター・フエアガンゲン 「では、今日はここまでにしておきます」 訳し終った「すべての光景が冬の煙った息のように消え去っていった」というドイツ語のあと ウンテ ルム ・ラ ート に鉛筆でしるしをつけ、テキストを閉じて、生徒たちに軽く会釈すると、少壮、まだ三十代半ば の一高教授竹山道雄は扉を排して廊下に出た。左手にヘルマン・ヘッセの『車輪の下』のテキス トと黒表紙の大きな出席簿をかかえ、いつもなら左廻りに時計台の真下の正面階段へ向うのを、 何となく右廻りに裏階段へ向った。午後三時をすこしまわっている。今授業が終ったのは、ドイ ツ語を第一外国語とする文乙三年のクラスである。文乙三年というと、ゲーテの『ミニヨン』 、ニ ーチェの『悲劇の誕生』などを使ってきたが、今年は当りのやわらかなヘッセにした。しかし一見 やさしそうな文章なのに、なかなかむずかしい。内容からいっても、ハンスや親友のヘルマン・ 6 序章 清談会 ハイルナーの悩みは、寮生活の一高生に人ごとならぬ関心を掻き立てたようだ。どうやらこのテ いち よう キストは成功だったらしい。 銀杏並木の弥生道と平行している本館裏側の廊下は、中庭への通路の部分で一旦絶ち切られる ので、外気にふれることになる。かなりの寒さだが、陽ざしは思ったより暖かそうだ。午前中の 薄曇りが、いつの間にか微光を含んだ青空になっている。その青さは上空を駆け抜けてゆく風の 気配を感じさせるのに、建物や木立の蔭の空気は貼りついたように動かない。ちょっと不思議に 思われた。しかし同時に、こんな午後、つとめを了えた解放感であてもなしに歩きまわってみた ら気持がいいだろう、ふとそんなことを思った。それは、今の授業の昂ぶりがまだ体のどこかに 残っていたせいだったかもしれない。 いつもは行かない駒場駅の方へ散歩してみることにした。教官室で手を洗い、テキストや書類 ほお ば を鞄にしまい、外套を着て、本館正面から外に出た。右手の倫理講堂、左手の図書館、両方から 吊鐘マントに朴歯の下駄という古典的正装の生徒たちが出てきて、三々五々正門に向っている。 つり がね 彼らに少し遅れて砂利道を踏みながら正門を通過し、ひとり右に折れた。帝都電鉄の電車に乗る のであれば、前を連れ立っていった生徒たちのように左折すれば、一高前駅はすぐだが、今日は 隣の駅、駒場か、できたらもう一つ先の池ノ上まで歩くのだ。右側は高い植木を垣根にめぐらし た一高の敷地がつづき、左側は荒地である。古材木や砂利が積んであったり、枯草が踏み荒され たりしている。 7 荒地の向う、少し低くなった所に帝都線の線路があって、渋谷を出て吉祥寺に向う電車が過ぎ ひまわり ていった。 「もうトンボを追う子供もいなくなったな」と思う。そういえば気候のいい頃は、犬を 連れた西洋婦人が歩いていたり、向日葵が咲いたりもしていた。それが今日は寒さの中に静まり かえっているのだが、こうして歩いていると、なぜか「束の間の充溢」 、そんな思いがしてくる。 何だろう、これは。ヘルマン・ヘッセの余韻なのか……。やがて荒地のはてが崖になっているあ たりまで来た。笹や雑木がまばらに生えた斜面に、危うげに踏み固められた道がついている。注 意していても石ころを踏みそうだ。そこまで来て竹山道雄は立ち止った。 いわ もと てい 崖の下から二人の人物が上ってくるのが見えた。誰だろう。しかし眼を凝らすまでもなく、一 人は一高の名物教授で、現在は講師をしている岩元禎、もう一人が一高教頭の三谷隆正であるこ しゆく あ とはすぐ分った。岩元先生はやがて七十歳という老齢のために、三谷先生はまだ五十歳前とはい え宿痾である肺の病のために、崖地を上るのがつらそうで、まだこちらに気付いていない。声を かけようか、と一瞬迷ったが、そのまま下りてゆくと、二人は気配に気付いて途中で立ち止った。 「先生、お揃いでどちらへいらしたのです」 「竹山君か。いまな、柳君の日本民芸館で琉球のものを参観してきたのよ」 びん がた 「民芸館」 「参観」がはっ 岩元老先生はいつもの癖で、相手の眼をじっと見据えながら答えた。 きりと「ミンゲイクワン」 「サンクワン」と聞える。岩元禎は鹿児島の人である。 「そうでしたか。新聞にも紹介記事が出ておりましたね。 〈琉球染織展〉でしたか。紅型とか黄紬 8 序章 清談会 飛絣とか……」 「うむ、綺麗なものじゃった。わたしの国の織物ともちょっと似ておってな」 そういう二人の話に頷いている三谷先生の頬には、かすかな赤味がさし、それが微笑のように も見えたが、口はつぐんだままだ。肩で息をしている先生は、口を開くのが少しつらいのだ。し かしそんな三谷隆正の様子は、いましがた柳宗悦の日本民芸館で見てきた沖縄の織物や民芸品の 生命力が、精霊のようにほっそりしたこの人物に与えた影響を示していたのかもしれない。影響 というより、それは肉体への圧迫感であっただろうか。三谷隆正の生来の寡黙さの中で、何かが 起っていた。 「竹山君もこれから参観かね」 「いいえ、ちょっと陽ざしを浴びて歩いてみたくなったものですから……」 「私らはこれから一緒に夕食でもしようと話していたのじゃが、君もどうかね」 「有難い仕合せです」 「こういう機会はこれからなかなかないでしょうから、ちょうどいいでしょう。前にたしか酒井 善孝君の案内で、四人で上野広小路のトンカツ屋に行ったことがありましたね」 と、三谷隆正も一言はさんだ。三人はゆっくりと崖を上った。 岩元禎は明治三十二年以来一高でドイツ語を教え、ある時期からは哲学概論も担当してきた最 長老で、すでに今から六年前、昭和七年に同僚の菅虎雄とともに教授を退いたが、引き続いて講 9
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