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第5号
Southern
南
Wind
風
島根 県 立 松 江 南高 等 学校
長野
博
「デミアン」
異文化理解はその国の言語で思考できてはじめて本物になるのかもしれない
~
( H27.7.27 )
~
The
校長
何かの本を読んだとき、その本、あるいはその本の解説に、別の作家の作品が出てくる場合があ
り、興味をひかれることがある。これが続けば、一冊の本から次々と連鎖的に様々な本を読むこと
になり、これが読書の楽しみの一つでもある。ある同僚に「多読」と言われたことがあるが、私の
場合その一因はここにある。
何年か前に村上春樹の「ノルウェイの森」を読んだ。そこから派生して何冊かの本を連鎖的に読
むことになった。この時は結果的にヘルマン・ヘッセに辿り着き、代表作「車輪の下」「デミアン」
「シッダールタ」の三冊をたて続けに読んだ。
ヘルマン・ヘッセは 19 世紀から 20 世紀にかけてのドイツの作家である。「デミアン」はヘッセが
40 歳を越えた頃の作品で、主人公のシンクレールの多感な青春時代を描いたものである。
ところで、「車輪の下」もそうだったが、この「デミアン」も日本語訳に強い癖があり、はじめは
読みづらかった。正直言って「車輪の下」を読み始めた頃、下手な翻訳だと思った。直訳過ぎて読
解に苦労したのである。それでも一冊を通して読むと、何となくこの強い癖に慣らされてしまった
し、むしろ面白くなってきた。何より、この直訳過ぎる文章により、情景がより一層際立つのであ
る。「デミアン」も同じだった。どちらも高橋健二という日本人翻訳者による日本語訳である。高橋
氏自身もドイツ文学者として数々の作品を発表している有名な方であると、後になって知った。
シンクレールが 10 歳の頃、厳格な家庭環境に見えながら、厳格なのは家族だけであり、周囲は何
もかもが世俗的であったことについての記述である。
(
「デミアン」(訳:高橋健二)第一章「二つの世界」の前半部分から引用)
たしかに、私は明るい正しい世界に属していた。私の両親の子だった。しかし、目と耳をどち
らに向けても、いたるところに別なものがあった。私は別なものの中で暮らしていた。よしや、
それは私にはしばしば親しめず気味悪かったにせよ。また、そこでは通常やましい良心と不安を
持ったにせよ。それのみか、私はときおり、何よりも好んで、禁じられた世界で暮らした。そし
て、明るい世界に帰ることは ― たとえそれがきわめて必要であり、ありがたいことであった
としても ― 美しさの乏しい、より退屈な、より味気ない世界へのあともどりのようであるこ
とさえ珍しくなかった。
さて、南高の生徒諸君は一読して理解できただろうか。
原文を読んでいない私が偉大な文学者に対して失礼だが、私なら次のような文章にするだろう。
たしかに私は厳格な両親に育てられ、明るく上品な家庭に育った。しかし、一方で私の周りに
はいたるところに世俗的なものが溢れていた。たとえ私がそれを嫌い、その環境の中で暮らすこ
とに不安を持っていたとしても、事実、私はその中で暮らしていたし、時には好んでそうしてい
た。そして、たとえ明るく上品な世界に戻る必要があったとしても、それは味気なく退屈な世界
であり、私はそうした世界に戻ることには抵抗があった。
<裏面に続く>
<表面から続く>
私が中学生の頃、英会話クラブの講師から英語の発音をほめられ、”Your pronunciation is good.”
と言われたことがある。大学生の頃、なぜか私のまわりには外国語に堪能な友人が多かったのだが、
彼らにこのことを話した。すると彼らは一様に「発音が良ければ ”good”でなく”fine”を使うだ
ろうし、本当に上手ければ”Your pronunciation is American”って言うはずだ。お前は適当にあしら
われただけだ。」と言うのである。
確かにもっともな話だ、ある単語が日本語と英語の一対で存在するわけではない。その単語に含
まれる意味やその単語が表現する世界は、その言語特有の広がりを持っているのである。だから、
同じ単語でもその文章に応じて訳し方が変わるのであり、これを意訳と呼んでいる。しかし、意訳
でも伝わりにくい雰囲気は多くある。意訳に使う日本語が見つからない場合も多い。そんな時に我
々は横文字をそのまま使用する。
「グローバル」や「コミュニケーション」などはその一例であろう。
ただ、個人的には「リスペクト」のように、日本語を使えば良いのにわざわざ…と思うものも少な
くはないが・・・。
私が「車輪の下」や「デミアン」を読んでいて感じた「際立つ情景」は、この直訳的文章の奥底
に想像できるドイツ語の単語によるのである。
例えばの話だが、高橋氏が”Your pronunciation is American”を翻訳すれば「君の発音はアメリカ
人だ。」とでもなるのかもしれない。少々おかしな翻訳だが、これにより読み手は”American”を連
想し、 ”good”でも”fine”でもない形容を理解する。「すばらしい」という翻訳では表現できな
かった深みを感じさせてくれる、こういうことだ。
私はドイツ語はわからないし英語も苦手だが、高橋氏の直訳的な日本語の元になったドイツ語の
単語について、日本語ではこのようにしか翻訳できないが、おそらくもう少し違う意味で使われる
単語なのだろうと推測した。そして、文章を読み進めるうちに、その少し違う意味が理解できたの
である。だから、おそらく、外国文学の本当のおもしろさは原語で読まなければわからないのだろ
うと思う。
私が大学生の時、商社に勤めていた私の叔父に「博、英語を話すだけでなく、英語で物事を考え
られるようにならんといけんぞ。」と言われた。未だに話すことすらできないが、言われたことの意
味はようやくこの年になってわかってきた。
<生徒の皆さんへ>
本校もようやく夏休みに入ります。わずか三週間ほどの夏休みで、課題も多く、休み明けのテスト
も気になるでしょう。それでも先週までとは違う三週間が始まります。本を読みましょう。本は君た
ちの感性を高め、多くのことを語ってくれます。簡単な作品で原語が英語の作品であれば、原語版に
挑戦してみませんか。今の君たちには想像もつかないでしょうが、将来、君たちの多くは英語で物事
を考えるようになっていると、私は確信しているのです。