第八章 同僚 - Akira Togawa

第八章
同僚
乏しい光に艶めかしさを隠す女たちの肌と嬌声が飛び交う中、他とは違う雰囲気を漂わせた席があった、
「この娘を働かせたいと言うのね」
「見ての通り、憂いさえ感じさせる顔立ちにこの身体だ、涎もんだろ」
「そうね、でもやっていけるかしら、言葉だって・・・」
「それは問題ない、厳しく仕込んでいるからね。どんなことでも文句一つ言わずに一生懸命働くさ」
「それで今回は何が望みなの?」
「その前に、手当は俺が全額受け取るからね。こいつには必要なだけ俺の方から渡すことになる。神に
仕えていた身体だ、金の使い方も知らないし、使ったこともないからな」
「ふ~ん、お金の価値が分からないのかしら、かわいそうな子」
「その分ママが稼いでくれて構わないよ、そして俺を楽しませてもらうことになる」
「楽しませるって、私の身体が欲しいっていうの?」
「欲しいのは身体だけじゃないんだ、ママの身体と心全てを神に捧げたいと思ってね、我が全能の神に」
「何を馬鹿なことを言ってるの、意味分かんないわ」
「取りあえずは若い娘を紹介して欲しい、神の生贄にできるような若い娘を」
251
「生贄が欲しいっていうことなのね、はっきりそう言ったら」
男の口から涎が垂れているように見えた。
「ウフフフフ」
薄気味の悪い声をだしたその顔は人間の物とは思えないぐらいだった。
「嫌な笑い声だこと」
洋子が寒気でもしたかのように片をすくめて、
「彼女、今日からでも働けるのかしら」
「もちろんいつからでも」
「じゃあお願いしようかしら」そして女のほうを向いて、
「それはそうとあなたのお名前は?」
「本当の名前は発音しずらいからな、ナオミなんていうのはどうかな。異国情緒のある名前だし受けそ
うだろう」
「そうねナオミちゃんね。本当にフィリピンからなの」
「はい、マニラの近くです、何でもします、よろしくおねがいします」
252
「国において来た両親・兄弟のために一生懸命働くということね、分かってるわね」
「はい、一生懸命働きます、どんなことでも」
「さあナオミ、出番だよ」
黒川は威勢よく言ってナオミの背中を押した、ママがそのナオミを引き取って更衣室に連れて行った。
黒川は煙草に火をつけ店内を見回してから、背広の胸ポケットのあたりを何気なく押えて、内ポケット
の膨らみに顔をほころばせた。真新しい小切手がそこには入っていたからである、ナオミを売り飛ばし
て稼いだ金だ。
「ねえこれでどうかしら」
ママがナオミを連れて戻って来た、
「いいじゃないか、最高の女だな」
生唾を飲み込みたくなる光景だった。
「でしょう、これで参っちゃわない男がいたら見たいものだわ」
「俺でさえ下の方が固くなってきたよ」
「そう、一つ言っとかなくちゃ、もう彼女はお店のものですからね、絶対に手を出さない様に、もし守
253
れないようだったら、先程のお金倍返しにしていただきますよ」
「分かってるよそんなこと、それより次のを頼んだよ」
「そうね、それがあなたにとっても一番よ、さあナオミちゃんを誰につけようかしら」
「それについてだが、北柳親子に付けてやってもらいたいんだ」
「一郎さんは難しいわよ、康雄さんの方なら」
「ああ康雄でいいんだ、後は好きなようにすればいい」
「何を考えてるの、あなたって怖い人ね」
「何を言ってるんだ、北柳が邪魔だと言いだしたのは君の方だ、明日にでも康雄を店に連れて行くから
ナオミをつけてくれればいい」
「いいわ、付ければいいのね、後の事は任せたわよ」
「しかし君もひどいもんだな、これだけ搾り取っておいて闇に葬ろうっていうんだから、魔女だな」
「あら、知らなかったの、女は皆魔女よ、男を誑かす為に存在してるのよ」
「男を惑わし、誑かし、狂わして、最後は食いつくしちゃうんだ」
「そうよ、それが男の究極の望みでしょう」
254
「大方の男はそうかもしれない、俺はちょっと違うけどね」
「何があなたの望みなのかしら」
「俺の望みか・・・言っても分からないだろう」
「女を支配すること?」
「そう思うか」
「女だからというわけじゃなさそうね、あなたが支配したいと思ってるのは」
女が眼を剥いた、
「そうだったのね、ナオミを支配して・・・、それだけじゃないわ、真紀って言ったかしら、あの娘も
支配しようとしてるのね・・・そして目標は北柳一族の支配なのね。でも一郎も康雄も死んじゃったわ、
あなたがやったの?
まさかね、そして浅賀さんも邪魔なのかしら?」
洋子は人間ではない獣を見ているような気がした
「真紀のことを知ってるのか?」
「もちろん知ってるわよ、あなたのお父さんに聞いたもの」
「俺の親父、どういうことだ」
255
「分かってるくせに、あの娘とは兄妹なんでしょう、あなたにとっては手放したくない可愛い妹なんで
しょうね、なんなら私が預かってもいいのよ、いい女にしてあげるわよ、フフフフフ」
「この女狐め、何を考えてるんだ」
黒川は女の顔をじっと見た、この女がどこまで知っているのかを探るように。
「それで彼は君のことをなんて呼んでるの?」
「わたしのこと?なんて呼んでるのかしら、あんまり気にしたことないけど・・・多分、下園さんじゃ
ない」
真紀の言葉に明瞭さがなかった、後ろめたさがあったからかもしれなかった。
先日彼から下園さんと呼ばれて、堅苦しいから真紀さんでいいわよと言ったばかりであった。
その日、夕食に誘われたのである。彼女にとってその誘いは新鮮だった、それが危険と隣り合わせであ
ることは意識されていなかっただろう。
「本当に真紀さんて呼んでいいんですか?」
「あらどうして、おかしいかしら、真紀だから真紀さんよ、志茂田さんから真紀さんて呼ばれてもおか
256
しくないでしょう」
「それでは、真紀さん、今晩何も予定なければ、日頃いろいろお世話になっているんで一杯奢らせてく
ださい」
「う~ん、特に何もないけど・・・・」
真紀も悪い気はしていなかった。
「じゃあいいでしょう、日頃のお礼も兼ねてっていうことで」
「まあいいかな、たまにはね。どこかいいとこ知ってるの?」
「真紀さんに似合うようなところかどうか分かりませんけど、まあちょっと」
彼が片目をつぶったような気がした。
「今日の報告書を書いてからなんで、7時半ぐらいになるかもしれないわ」
「じゃあ8時でいいですか」
結局二人が会社を出たのは8時半を過ぎていた。朝早くからの仕事と気を遣う報告書を仕上げることで、
肉体も精神もかなり疲れていたはずだった。
新橋で下りて向かった先は最近話題のレストランがいくつも入っているビルだった。
257
「こんなとこ知ってるの?」
「いや、初めてなんですけど、大学時代の先輩に教えてもらったんですよ」
「いい先輩持ってるのね」
「いい先輩といえば真紀さんもね」
志茂田の落ち着いた応対ぶりは真紀に好感を与えていた。
店に入ると高いピンヒールの女性が彼らを席へ案内してくれた、席は奥まった場所で他人の眼を気にせ
ず話せる場所だった。
「奥へどうぞ」彼が奥側の席を手で示した、そこに座ると彼女からは店全体が見回せる位置だが、反対
に彼の席からは彼女の顔しか見えないということになる。
「そっちでいいの、私しか見えないわよ」
「ありがたいことですね、美人を正面から拝ませてもらうなんて」
「うまいこと言うのね、いつもと変わり映えしないでしょう」
「それは違いますよ、真紀さんの仕事中の顔は鬼ですから、でも今は・・・」
「鬼はないでしょう、それに今は遊び顔って?」
258
すっかり志茂田のペースでことは進んでいるようだったが、それが真紀にとっても心地よかった。
「遊び顔っていうわけじゃないんですが、なんか仕事の時とは違う素敵な雰囲気に包まれて・・・」
「あらっ、でも志茂田さんに言われてもね、もうちょっと可能性のある人に言われればいいんだけど」
そこへ飲み物の注文を取りにウエイトレスがやってきた。
「お飲み物はいかがいたしましょうか」
「僕はまずビールで後はワインにしたいな、どうします」
「私も一杯だけビールもらおうかな」
「それからとりあえず何かつまめるものを・・・」
ウエイトレスはメニューのある部分を指さして、「こちらからお選び下さい」と言ったかと思うと、「お
飲み物をお持ちします」と下がってしまった。
「その間に選んでおけっていうことですね」
「じゃあ任せるわ、おいしいもの頼んでね」
新鮮な気分が真紀を包んでいた。
アペタイザーからメイン、そしてデザートへ、その間にビールとワインとカクテルが二人の胃袋へ流し
259
込まれていった。そして最後のコーヒーが今日の締めとなるはずであった。
「今日はごちそうさまでした」
彼が伝票にサインするのを眺めながら、彼女は手をテーブルの上で揃えてぺこりと頭を下げた。
彼がそれに応えて「どういたしまして」と言ったのが遠くに聞こえたような気がした。
「でも今日はまだ帰りたくない気分よ」
立ち上がる時、酔いを足元に感じた真紀が言った。
化粧室から出てきた真紀は改めてお化粧を直したようだった。
「こんなんじゃ、一人で帰れないわ」
真紀が甘えたような声をだして、腕をからませてきた。
「分かってますよ、大切な人を放ってなんか行きませんよ」
と言って彼は立ち上がった。
「こっちから行きましょう、タクシー拾ったほうがいいでしょう」
「大丈夫よ、もったいないから電車でいいんじゃない」
「いや、今は大丈夫でもまたがくんときますよ、真紀さん結構飲んでますからね、タクシーのほうは僕
260
がなんとかしますから・・・」
「それじゃお願いしようかな、こういう時には頼りになるわね」
真紀の言葉を聞き終わらない内に志茂田は通りの角までタクシーを捕まえに行っていた。
タクシーはすぐに捕まった、不景気の世の中ではこんな時間になってもタクシーに乗る人も決して多く
はないのかもしれない。
「どちらまで?」
「真紀さん下高井戸でしたっけ、最初に下高井戸へ行ってくれますか、一人下ろしてから祖師谷大蔵へ
まわって欲しいんだけど」
「じゃあ首都高に乗りますか?」
「どっちでも運転手さんのいいほうで」
「乗った方が早いですからね、今なら空いてますから」
タクシーは近くの首都高速入口から吸い込まれるように高速へと入って行った。
高速道路の外を流れていく景色は、今が真夜中であることを感じさせないぐらいに明るかった。真夜中
261
だと分かるのはむしろ渋滞がないからだろうか、それにしてもネオンサインは夜通し輝いているのだろ
うか、志茂田は改めて腕時計を確かめた、暗くて文字盤がよく見えないが12時過ぎだろうと思われた。
「栃木の焼死体事件の捜査はその後も難航しているようで・・・」
カーラジオからニュースが流れてきていた。
「椅子に縛り付けて焼殺すなんて、よくもこんな恐ろしいことを考えつくもんですね」
運転手は独り言っぽく言った。
「運転手さんならどうする」
「どうするって言われてもね、謝って命乞いしたら助けてくれるもんですかね」
「さあ、どうかな。でもこれだけのことをするには何かとてつもない恨みか何かがあるんだと思うな」
「殺されたのはどっかの社長っていうから、何か裏があるんでしょうね。警察もその辺のところをもっ
と徹底的に調べればいいのに」
「警察も馬鹿じゃないから調べてますよ」
「そりゃそうだね、素人が口出す話じゃないやね。でもお客さんよく知ってそうですね」
「その筋の者でね」
262
「本当ですか?
ご一緒の女性、寝ちゃってるんでしょう」
運転手は信用していないぞと言いたげだった。当の真紀はいい気持になって志茂田の肩によりかかって
いる。
「お客さん、飲ませ過ぎたんじゃないの?」
運転手の顔がバックミラーを通して二人を眺めていた。
「別に僕が飲ませたわけじゃないよ、彼女が好きで飲んだんだから」
「しかし、それじゃあ下高井戸ではいさようなら、っていうわけにもいかないでしょう」
「しかし下高井戸のどこか僕は知らないから、起きてもらうしかないでしょう」と言って「もうすぐ着
きますよ、起きてくれないと」と真紀の肩を叩いた。
「もう着いたの?」
寝ているのだか、酔っ払っているのだか、
「駅からね・・・」
「もうすぐ下高井戸の駅ですよね」
車は甲州街道から一筋入って下高井戸の駅へ向っているように見えた。
263
「駅の前で停めますか?」
「取り敢えずちょっと停まって」
と運転手のほうへ向かって言ってから、真紀のほうへ向きなおって、
「駅からどっちへ行くんですか、今甲州街道のほうからきたんですけど」
「踏切を渡って、そのまま斜めに日大桜丘高校のほうへ行って・・・桜丘高校を過ぎたら信号を右へ入
ったところで下してもらえれば」
「そこがお宅ですか」
「ちょっと歩くけど、その先車は入りにくいからそこでいいの」
「じゃあとにかくそこまで行ってください」
と運転手のほうへ。
「はいここですけど、桜丘高校を過ぎたところの信号を右へ入ったところですね」
確かにそこから先は狭い路地になっている、しかも街灯もぼんやりとして通行人に明るさを提供してい
る様子でもない。しかし真紀はさっさとドアを開けて外へ出ていた。
「ちょっと待ってください、送っていきますよ、運転手さんおいくら?」
264
「いいのよ、ここからなら一人で帰れるから、大丈夫よ」
「いや何かあったら、心配だな」
「そんな、志茂田さんに心配してもらわなくても大丈夫よ、すぐそこだから、それにタクシー帰しちゃ
ったら、あ
とどうすんの?」
「甲州街道まで出ればなんとかなりますよ、とにかくちょっと待ってください、それでおいくら?」
「え~と、8360円になります、領収書要りますか」
「ええいただいときます、あ~と1万円札しかないな、いいですか」
「はい、おつり1640円、うまくいくといいね」
運転手が片目をつぶってみせた。
「本当に大丈夫だって言ってるのに」
と言いながらも真紀は志茂田の左腕に彼女の腕を預けてきていた。
「気持ちのいい夜だし、たまにはいいじゃないですか、こうやって歩くのも」
「どうしたの、らしくもないんじゃない」
265
「どうしてですか」
「だって志茂田さんもてるんでしょう、私みたいな・・・」
ちょっと間をおいて「噂よ」
「僕が?別にもてませんよ、そりゃあ時々飯を食いに行くぐらいの女の子はいますけどね、それだけの
ことだし・・・今は仕事で勢一杯ですよ」
彼もちょっと間をおいて、
「真紀さんと一緒に仕事するのが楽しいんです」
「へえ~、私と・・・・・」
タクシーを下りてから薄暗い路地をもう100m近く歩いたかもしれなかった、確かに狭い道で車がす
れ違うのは難しそうだった。
「そう真紀さんと一緒にいる時間が楽しいんです、実は最近そのことに気が付いて、仕事が楽しいとい
うより真紀さんと一緒にいるのが楽しいんだってわかったんです」
志茂田の足は止まってしまった、彼と腕を組んでいる真紀の足も止まらざるを得なかった。
前後左右どこを見ても薄暗い路地だったが、そこに立っている街灯だけが立ち止まった二人を照らし出
266
していた。
「志茂田さん、それは・・・」
真紀の心臓がズキンズキンと波打っていた。
「真紀さん」
志茂田は真紀と組んでいた左腕をそのままに、右腕を背中にまわして彼女を引きよせ、すばやくキスし
ようとした。
真紀はその瞬間何が起こったのか分かっていた、というよりそうあることを期待すらしていた。だから
彼が彼女を強く引き寄せた時、彼女は眼を瞑り、顔をそして唇を彼の方へ向けていたのだ、無意識のう
ちに。
唇と唇が一瞬触れ合って、触れてはいけないものに触れてしまったかのごとく、反発するように離れた、
そして次の瞬間二つの唇はお互いを欲し合うように、伸びたゴムが反動で縮むように吸い寄せられてい
った。
「だめ、だめよ。これは忘れて、なかったことにして頂戴」
「真紀さん・・・」
267
「本当にだめなのよ、ご免なさい・・・すぐそこだから」
立ち止まって固まってしまった志茂田の腕をふりほどいて真紀は歩き出した、走りだしたいぐらいの気
持ちで、
「今日はどうもごちそうさま、楽しかったわ」そして「おやすみなさい」と付け加えると我慢できなく
なって走り出していた。
まさか志茂田が、そんな気があるなんて思ってもみなかった「嘘よ、嘘に違いないわ」走りながら真紀
は自分に言い聞かせていた、
「あの人って冗談がうまいのね、明日になったら『まさか本気にしていたんじゃないでしょう?』って
言うにきまってるわ、馬鹿馬鹿しい、こんなことで悩むなんてことないのに」
しかし表に出てくる言葉とは裏腹に真紀の心臓はドキドキしていた、走ったせいもあったかもしれない
が、志茂田に強く引き寄せられて唇を合わせたときの感触が彼女の体からも唇からも消えていかなかっ
たからだろう。
「明日は亮二と会う日だわ、今日のことは忘れてしまおう」
部屋に帰ったらゆっくりと湯船につかって今日のことは洗い流してしまおうと思った。
268
彼女が忘れてしまおう、洗い流してしまおうとした志茂田との出来事を見ていたものは狭い路地の街灯
だけだった。
「誰かを愛するということは、その人間の人格すべてを受け入れるということでしょう。つまり彼女の
すべてを理解できるなら彼女のすべての行為を認めることができるのではありませんか」
「最近は楽しくないというより何かにつけ引っかかることがあるんだ」
「恋に落ちるというのはそういうことかもしれませんよ、相手のことが気になる、気になり過ぎる、例
えば今までだったら気にならなかったことまでが気になってしまうなんてことがあるんじゃないです
か」
「そういうことかもしれないな」
「例えばの話、真紀さんが別の男と食事をしているとする、昔だったら気にならなかったかもしれませ
んね、でも今では違う、相手の男は彼女の同僚で、残業で遅くなったのでごく軽い気持ちで一緒に食事
でもしていこうということになったのかもしれない、でも今はそれを見過ごすわけにはいかないでしょ
う、なぜなら昔より深く彼女を愛しているだけに独占欲も支配欲も強くなっているから」
269
「何を言っているんだ、何故そんなことを」
「時に愛情は研ぎ澄まされ過ぎた感情となって相手を傷つけることもあるということです。そしてこの
ような時期にはお互いに我慢と忍耐が必要だということでしょうね、二人が我慢と忍耐の時期を乗り越
えた時本当の愛が実るだろうと思われます」
「ということは僕に何かを我慢しろと言ってるんだな」
「あなたにもやりたいことがあるように、彼女にもやりたいことがあるんでしょう」
「彼女がやりたいことで僕に言えないようなことがあるというのか」
部屋には亮二の外に誰もいなかった。
ナオミと亮二は公園にいた、公園の中の池に浮かべたボートに乗っていた、ボートを漕いでいるのは亮
二だ、彼女はボートの向かい側に座り左手の指先で池の水と遊んでいたが、右手はボートのへりを掴ん
でいた。雲ひとつないお天気もボートが池の真ん中まで来た途端徐々に雲が現れてきて、いまや太陽の
明るさはまったく見えなくなってしまった、ここで雨にでも降られたら隠れようがない。
彼女は店にいる時とは全く違った服装をしている、白いTシャツにジーパン、何もしゃべらないが、顔
270
は明るく、時折亮二のほうへ向ける顔にも笑みが含まれていた、亮二も彼女と一緒にいられる時間と空
間を楽しんでいた。
しかし亮二の不安が現実のものとなるのにそう長い時間がかかったわけではない、空が曇り色をさらに
濃くし、生暖かい風が頬を撫ぜ、一粒二粒と肌に雨粒を感じたと思ったら間もなく本物の雨がやってき
た。
亮二はすでにその時を予想して岸に向けボートを漕ぎだしていた、亮二は一生懸命ボートを漕いだ。一
かき、二かき、ボートは力強く岸辺に近づいて行った、そしてボート乗り場の木枠にぶつかる音、係員
が慌ててボートを手繰り寄せ、二人が岸に上がるのを手伝った。亮二は無意識のうちに彼女の手を取っ
て走り出した。
二人はやっと雨宿りできそうな建物までたどり着いた、そして建物の中にベンチを見つけた。一生懸命
走ってきた二人はベンチを見つけた途端そこへへなへなと座り込んでしまった。
彼女は最初頭を左右に振って、次に笑顔で大丈夫だったことを亮二に伝えた。
亮二は彼女の笑顔に引き込まれるように彼女のほうへ体を少し傾けて、左腕を彼女の肩に回した、亮二
の左手が彼女の肩を軽く抱いたことが合図となったかのように、彼女が体を彼の方へ傾けて、彼女の頭
271
が肩に触れるのを感じた。濡れた白いTシャツが肌にぴったりとくっついて彼女の胸の形を顕わにして
いるように見えた、彼女の体温が肌に感じられ、ずっとこうしていられればいいのにとも思った。亮二
はその場を納得させるように彼女の肩を抱く左手に少し力を入れた。彼女の身体がまた少し彼に近づい
たような気がした、彼女の体温がもっと彼の方へ流れてくるような気もした。彼女の肩を抱いてじっと
していると心臓の鼓動が聞こえてくるようだ、ゴットン、ゴットン、ゴットン、聞こえてくる鼓動が自
分のものなのか、彼女のものなのかも定かでなくなってくる。太陽はまったく雲に隠れてしまい、雲と
雨空が現実の時刻をも隠してしまったかのような時間帯、聞こえてくる音は心臓の鼓動だけだった。
周りに誰もいないことを一瞬目で確かめると、亮二の左手が彼女の頭を軽く引き寄せて、彼の唇が彼女
の唇に押し当てられた、
彼女の体内の何かが一瞬彼を押し返したように感じられたが、その一瞬を通り過ぎると彼女に抵抗の印
はなかった。離れかかった彼の唇が、今度は強く自信を持って彼女の唇を捉えた、彼女の唇はすでに開
かれていて、彼女の舌の先が彼の唇を舐めようとしていた。
彼が両手で彼女を抱きしめると、彼女も強く彼に身体を預けてくる、そして彼女の胸の膨らみが女の肌
の柔らかさを象徴するかのように彼の中で押し潰されていった。
272
亮二は頭の中が真っ白になりそうだった。
ナオミは彼のことを受け入れてくれている、彼が望めば望むだけ二人の関係はもっともっと進展してい
けるかもしれなかった。亮二としては先のことを想像せざるを得なかった、そこには燃え盛るような期
待と、押しつぶされそうな躊躇の念があったのだ。
期待が躊躇に勝ったと思った、その瞬間彼の手が彼女の肌の上で遊ぶように動いていた。Tシャツの裾
から彼女の領域に入り込んだ彼の右手はやがてブラに行く手を阻まれかけたが、彼女の背中に回した左
手の助けを借りてブラのホックをはずし、大きくふくよかな獲物を手の中におさめようとしていた、目
の前にふくよかな二つの隆起が浮かび上がってくるような強い感触にとらわれてしばし見とれていたが、
自らの手の中に納めようと一歩先へ手を伸ばした瞬間・・・・・。
すべては夢の中の出来事にすぎなかった、亮二の眼ははっきりと一人だけのベッドのフットボードを捉
えていた、隣を見ても誰もいるはずはなかった、まして雨の日にベンチに座っているわけではなかった、
それは目覚まし時計で無理矢理起こされたものとは全く違った感触に彩られていた。
どうしてナオミの夢なんかを見るんだろう、亮二にはいくら考えても分からないことだった、ナオミと
の時間といっても何も無いに等しい、たった一度クラブの席で一緒になっただけだ、客とホステスとし
273
て。その後は電話をしても空振りに終わり、挙句の果てに彼女は自殺、彼が再び彼女を目にすることは
なかったのだから。彼には下園真紀という恋人がいる、そして黒崎洋子という愛人もいる、彼女たちの
夢を見るなら分かる気がする、しかし一度も肌も合わせたこともない、ほとんど会話らしい会話もした
ことのないナオミの夢を見るなんて、ある意味信じられなかった。そこに何か重要な意味があるのだろ
うか、何かが隠されているのだろうか?
父の資料の中にあった「聖母園」の3文字が亮二の頭の片隅に残っていた。
雨の日に訪ねた時のことが鮮明に蘇ってくる。
雨の中に立っていた女の子がいた。
「君はここに住んでるの?」
「ずっとここに住んでるのよ、ここが私のおうちなの」
「ご両親のことは分からないんだね」
女の子は首を横に振った。
亮二は女の子に傘を差しかけて、
274
「雨が強くなってきたから、もうおうちに帰った方がいいよ」
「あなた優しい人みたい、私のお兄さんになってくれればいいのに」
「僕も君みたいにかわいい妹がいたらいいな。君、名前何て言うんだい」
亮二は女の子に妹以上の存在を感じていたが、
「私、百合香っていうのよ、また会いに来てくれるでしょう」
「ああまた来るよ」
「約束よ」
しかし亮二は二度と聖母園を訪れなかった。
朝霧警部補が黒崎洋子に会うのは3回目か4回目か。
新垣も朝霧の心中を測りかねていた。
「洋子さん、あなたが生まれた子供の処置に困って「聖母園」に赤子を預けた事実はもう隠せないと思
いますがね」
洋子は朝霧の眼を恨めし気に見ただけだった。
275
「その子は女の子だったんですね、男の子では無かった」
洋子の口は貝より固かったかもしれない。
「その子の名前は昭島百合香、あなた自身が中里氏に昭島百合香と名付けてくれと言ってるんですね」
「そこまではいいんです。黒川太一のことは知ってますね、彼も「聖母園」の出身者だということも。
あなたと彼とはどういう関係にあるんでしょうかね、まさか彼もあなたの子というわけではないでしょ
うね。もしそうだとするとあなたは17歳で彼を産んだことになるんだが」
洋子の口は開かなかったが眼は過去を映していた。しかし残念ながら朝霧にも新垣にも彼女の過去の映
像は見えてこなかった。
「見るだけじゃつまらないんじゃなくって」
「歳をとると美しい物を見ているだけでも身体がわくわくするんだよ、君の肌、君のあの時の顔、どれ
もこれもこの老いぼれを若返らせてくれるんだよ」
「何を仰ってるのよ、まだまだいけますわ、私に任せて」
「はははは、相変わらず好き者だな君は、姉さんとは一味違ってるな」
276
「北柳様は姉のほうがお好みだったんでしょう」
「夏子もいい女だったが、残念ながら運のない女だった。それであの男の子はどうしたかな?」
「男の子?」
「知らなかったのか、わしと夏子との間の子だ、確か太一という名前だったと思うが」
「太一、太一って仰るの?
もしや黒川太一?」
「そうだな下園のやつと反りが合わなかったようだな、夏子の旧姓を名乗っていたようだな」
「お認めにならなかったんですね」
「残念ながら当時はそういう状況じゃなくてね、夏子には済まん事をしたと思っている。まあそれもあ
ってあいつをうちで引き受けることにしたんだが、どうも行き違いがあってあいつには恨まれとるらし
い、これも自業自得と言えばそれまでのことだが」
「黒川太一は姉との間にできた子供だったんですね」
「わしは個人的には認めてるんじゃ、いずれ法律的な手続きもせにゃいかんと思ってる、夏子が亡くな
ってからはあいつも一人で苦労しただろうからな、夏子ももう少し生きていてくれればなあ」
「あら、姉が生きていたら私にまで回ってきたかどうか」
277
「あれは下園のやつと一緒になりたいと言って出て行きおったんだ、しかたがないだろう」
「私を康雄さんに払い下げたようにですか」
「いやそれは違う、全然違う、お前の方は康雄が俺の眼を盗んで・・・、しかしあいつは身体のことが
あるからな」
「あの人はあなたの許しを得たというようなことを言ってましたけど」
「そんなことは断じてない、わしがお前のような女をあんなやつにくれてやるなんてことはない」
新たな事実の発見は捜査本部に活気を与えていた。
「『聖母園』から黒川太一を引き取った北柳一郎は、遺言書を書き換えて黒川太一を相続人の一人に加
えてます。これは動機になりうるんじゃないですか」
新垣刑事が帰って来るなり切り出した。
「どういうことだ、詳しく説明してくれないか」
「北柳一郎の弁護士によると、太一は夏子が康雄と別れて下園義と結婚してから生まれた子ですが、母
親を自動車事故で失った後家出して母親の旧姓である黒川を名乗ったようです。その太一を施設から引
278
き取って、帝都石油販売で働かせていた一郎は、贈収賄事件の後遺言を書き換えて、黒川太一を相続人
に加えたんだそうですが、弁護士は太一は康雄の子ではないかと言ってます」
「太一は一郎の子じゃないのか。自分の子だからこそ相続人の一人に加えたんじゃないのかな、施設の
中里は一郎の子ではないかと言ってたが」
新垣はすぐにメモを取り出して確かめながら、
「確かに中里氏は太一は一郎の、そして昭島百合香は康雄の子供だろうと言ってますね」
「いったいどっちなんだよ」
「鑑定の結果待ちですね」
新垣刑事の方が冷めていたのかもしれない。
「早くしてくれないとこっちの方がおかしくなりそうだな。黒川夏子についてその後何か分かったか」
「97年の自動車事故については夏子本人の運転ミスによるものということで決着してますが、一部異
論もあったようです」
「異論とは?」
「下園義が後に『ブレーキが効かなかった』と証言しているんです、つまりブレーキに細工されたんじ
279
ゃないかと」
「それで?」
「再調査が行われましたが、特に問題は見つかりませんでした」
「つまりは下園の言う『復讐』が現実性を帯びるわけだ」
「しかし誰が実行するのかということですね」
朝霧の耳に新垣の言葉は入って来なかったようである。
「状況が複雑化するのは夏子が北柳康雄と別れた後下園義と結婚し、太一を産んだ辺りからだな。何か
あるんじゃないだろうか、我々のまだ知らない秘密が」
「26~27年前のことですからね」
「調査しがいがあるっていうものじゃないか。まずは太一が誰の子なのかはっきりさせよう、一郎か康
雄か。次にどうして夏子は下園義と結婚したのか、妊娠してるんだよ、下園の子でないこともはっきり
している」
「つまり黒川にも動機があるし、下園にも動機があるということですね」
「それで黒川夏子の死因は自動車事故なんだね、そこに疑問はないんだな。殺されてからということは
280
無いだろうね、もう一度確かめてくれないか。それから「聖母園」の支払いはどうなった?」
「一郎の個人口座から支払われています」
「ということは一郎にはそれを支払う理由があるということだな。下園の療養費の面倒を看る必要があ
るということは、夏子を押し付けたからと考えるのか、それとも事故に関して何か負い目があるのかな。
それはそうと「聖母園」のもう一人の女は何処へ行ってしまったんだ、まだ掴めないのか?」
「昭島百合香ですね、まだ確かな事は・・・」
別の若い刑事が、
「ちょっと気になることがあるんですが」
「咲田、何だ、言ってみろ」
「六本木のクラブの方をあたっているんですが、1か月ほど前にクラブのホステスの一人が自殺してい
るんです。名前はナオミ、フィリピンから来ている娘のようですが、写真で見ると昭島百合香と似てい
なくも無いんですよ。この写真です」
咲田刑事がテーブルに2枚の写真を並べた。
「こちらがナオミ、クラブから借りてきました。そしてこちらが昭島百合香、「聖母園」から借りてき
281
た写真です、彼女は顔に火傷跡があるんで、こちら側からの写真しか無いんだそうです」
「う~ん、似ているとも言えるが、この火傷跡はちょっと隠しきれないんじゃないか。当然クラブのマ
マは知ってるはずだな。自殺したホステスのことをもっと探ってくれ。新垣、ママに会いに行こうか」
「俺もママの方がいいな」咲田の呟きが残った。
「お前じゃ敵わんだろう」別の年輩捜査員が咲田の肩に手を掛けて言った。
書類を広げ始めた真紀に隣の席の志茂田が身体をできる限り斜めにして話しかけてきた。
「真紀さん、今日はどうですか? 部長も一段落付いたら付き合うって言ってたから呼んだらどうかな、
ここのところ毎日毎日夜遅くまでやったんですから身体にもご褒美あげないと」
「う~ん」
真紀は一瞬考えた、亮二にも会いたかった。
「今日はちょっと他にもやることがあるからまた今度にしない?」
「ええいいですよ、じゃあ先輩の都合のいい時に、でもあんまり先になると部長も忘れちゃうかもしれ
ないし」
282
「そうね」
真紀が携帯を持って席を立ったのはその直後だった。
「ねえ、今晩の計画まだ間に合うかしら」
席に戻ってきた真紀が志茂田に語りかけた。
「え~もちろんですよ、でもいいんですかその用事とやら」
「知ってる子と食事に行く約束だったんだけど、連絡付かないからいいわ」
「じゃあ行きましょう、いいところ探してありますから」
「いろいろ知ってるのね、楽しみだわ、それで部長は?」
「声掛けときますよ、うまくいけば部長の奢りになるかもしれないし」
「そうね、頼んだわよ」
「それで部長は来るのかしら」
ガラス窓を通して海を見下ろすことのできる窓際のテーブルに真紀と志茂田の二人が座っていた、二人
283
の前にはそれぞれ飲み物だけがグラスの半分ほど残って、手をつけられていない食器とナプキンが並べ
られていた。
「遅れるけど行くからって仰ってたんですけどね」
「連絡してみたらどうかしら」
「そうですね、あまり遅くなってから来てもらうのも悪いですからね、ちょっと連絡してみます」
志茂田は携帯を掴んで立ち上がっていった、レストランの外で掛けるつもりなのだろう。
部長が来られないんだったら、今日じゃなくてもよかったかなと多少の後悔も芽生え始めた真紀に戻っ
てきた志茂田が声をかけた。
「部長が今日は行けそうにないからって、二人だけですね」
「そう、お腹も減ってきたし、何か食べたいわ」
「この店はシーフードが旨いんです、まずは鯛のカルパッチョなんかどうですか、それから・・・」
「任せるわ、美味しいものよく知ってそうだし」
「じゃあ適当に取って二人でつつきましょうか」
二人の会話と食欲は続いていた。
284
「結構大きな船が見えるわね」
「後で海辺へ出てみませんか、今日は気持ちよさそうですよ」
「いいわよ」
勘定をすませた二人が海辺へと連なる遊歩道へ出てきた。海の見える遊歩道にはところどころにベンチ
が置かれているが、どれも二人連れに占領されていた。気候がよくて、景色がロマンチックで適当に薄
暗く、かと言って暗過ぎない、絶好のデートスポットなのだろう。ベンチに座ってじっと抱き合ってい
る者、キスしている者、いろいろなカップルがいるが中には見ている側が恥ずかしくなるような行為に
夢中になっている者もいるようだ。
「歩くのも気が引けるわね、まっすぐ向いて誰も見ないように歩かないと」
真紀が志茂田の袖を掴みながら小声で云った。
「別に悪いことしてるわけじゃないから」
言いながら志茂田は真紀と腕を組む様に左脇を開けた、そこへ真紀の腕を導いたのである。
「僕らもどこか座りませんか」
「ええ」
285
真紀の答えは小声で不安気だった。
やっと見つけたベンチに座ったものの話は弾まなかった、息苦しいだけだった。そして気を紛らわすよ
うな志茂田の言葉、
「真紀さんて彼氏いるんでしょう?」
「どうして?」
「だって彼氏がいるんだったらこんなことしてたら悪いかなって思ったから」
「じゃあ志茂田さんは、彼女はいないの?」
「時々飯食いに行くぐらいの女性はいますよ、でも彼女と言えるのかどうか、深く付き合ってるってい
うわけでもないし」
「じゃあ私も同じかも」
「そうなんですか、本当に大丈夫?」
「何が、大丈夫って?」
「例えば・・・」
彼の手がいつの間にか真紀の肩を抱いていた、その手が彼女を強く引き寄せて、彼の唇が彼女に近づい
286
てきた。
真紀に抵抗はなかった、ただ目を閉じただけだった。
彼の唇が彼女のそれと重なる、彼女の無抵抗を受け入れのサインと取ったのだろう、彼の唇が軽く開き
彼女の唇を舐めるように、彼の舌が彼女の唇を舐めて唇の間へ割って入ろうとしてきた。
彼女は唇を固く閉ざした。
彼の唇は彼女のそれから離れ、頬をつたって耳たぶのあたりへさまよっていった、
「真紀さん、好きなんです、僕の気持ちを分かってください」
真紀は黙っていた、いまのところされるがままにしていた。
「真紀さん、付き合って欲しいんです、仕事上のこととは別としてプライベートで付き合って欲しいん
です」
真紀がされるがままになっていたからかもしれない、志茂田の手がエスカレートしていった、肩から前
に回ってきたのだ。
「それはだめよ」
真紀は身体を放してしまった志茂田の胸の中に身体を埋めるようにした、
287
「しかし私にとってはやっぱり愛情というのとはちょっと違うと思うの、でも好きよ、もっと違う形で
会えたら、恋人になれたかもしれないけど」
「あ~あ、なんて僕はついてないんだろう、こんな素敵な人とこんな素晴らしい夜を一緒に過ごしてい
るというのに、愛も語れないなんて」
「いいじゃない、こういう付き合いの形があったとしても」
「こういう付き合いって、友達っていうことですか」
「そうね、恋人じゃないなら、友達よね」
真紀は立ち上がって「腕を組むぐらいいいわよ、でもそれ以上はだ~め」
「冷たいなあ、仕方がないか」
彼女の提供した腕に彼の腕を組んで、
「でもまたチャレンジしますからね」
二人はそのまま遊歩道を歩いていった、二人にとって言葉は無用だった、言葉の世界から離れている分
身体が熱くなっていくのが分かった、それぞれの想いは違っていたかもしれないが。
遊歩道の終点まできた時、志茂田が、
288
「タクシー拾いましょう、送りますよ」
「いいわよ、まだ十分間に合う時間だから」
「部長のOKを貰ってきているから大丈夫です、真紀さんがこの前みたいに酔っ払っちゃった時のため
に」
「あなたって嫌なこと思い出させるのね、でも今日は全然」
「平気ですか。何を聞いても大丈夫ですか」
「何か?
気になることでもあるの」
「実はちょっと・・・言いにくいことなんですけど」
「何よ、もったいぶって、早く言いなさいよ」
「いいんですか、実は営業の浅賀さん、ご存知ですよね」
志茂田の言葉が真紀の胸の内を探る様に響いた。
「ええ、知ってるわ、彼が何か?」
「この間、学生時代の仲間と六本木で飲んでたんですけど、何時頃だったかな、結構遅かったですね、
多分12時過ぎてたんでしょうね、浅賀さんとクラブのママみたいな女性がビルから出てきてタクシー
289
に乗り込むのを見たんです。間違いないと思います」
真紀に何も言うべき言葉は無かった。
「すごいなと思いました。あの辺のクラブは高級ですからね、うちの給料じゃとても無理ですよ」
真紀の沈黙を意識してかどうか、志茂田は喋り続けた。
「あのビルに入っているクラブで「ル・ジタン」という名前聞いたこと無いですか。うちの北柳元常務
の親父さんで元参議院議員の北柳一郎の贈収賄事件てあったでしょう。あの舞台となったのが「ル・ジ
タン」なんですよ。そこのママだと思いますよ、あの女性」
「『ル・ジタン』のママ?」
階段を下りてきた水商売風の女性が亮二に声をかけたあの場面を真紀は忘れていなかった。
「ちょっと調べてみたんです。浅賀さんのお父さんて5年ぐらい前に亡くなられてるんですけど、かつ
て北柳会長の顧問弁護士で会長の関係する件はすべて浅賀弁護士が携わっていたそうですよ」
「どこでそんなことまで・・・」
「ちょっと興味があったものですから」
「あんまり変なことに興味持たない方がいいわよ」
290
「どうしてですか」
「だって会長も常務も殺されたんでしょう、しかも犯人はまだ捕まって無いって言うし」
「それが浅賀弁護士と関係あるんですか?」
「まさか、そんなことを言ってるんじゃないわ」
「真紀さん何か知っているんじゃないですか」
志茂田は真紀と眼を合わさないようにしながら控えめに言ったつもりだった。
「私が何か知ってるんじゃないかって?
それどういうこと」
「いや別に特に意味は無いんですが・・・でもどうして浅賀さんなんでしょうね、黒川さんなら分から
ないでもないのに」
「黒川さんなら、どうして」
「だって警察の事情聴取があったでしょう、あの聴取で黒川さんは有力な容疑者ということになったら
しいですよ」
「黒川さんが?」
「私も黒川さんじゃないと思いますね、黒川さんも浅賀さんもそんなことのできる人じゃない。もっと
291
別の人ですよ、多分警察も想像もつかないような」
志茂田は真紀の眼を見ていなかった、この時の真紀の眼を見ていたら、彼女の意識が何処にあるか分か
ったかもしれないが。
亮二の朝はいつも同じだ、特別なことがない限り。しかし今朝は特別なニュースが放送されていた。
「昨夜遅くJR中央本線国立駅と立川駅の間の踏切で、下り快速特急電車が踏切内で酒に酔って寝てい
たと思われる男性をはねた模様です。電車は急停車し乗客にも急停車の影響による軽傷者が出た程度で
したが、男性の遺体は損傷が著しく人物確認に手間取っている模様です。地元の警察によるとこのあた
りは夜間人通りも少なく、事故を目撃していた人間もおらず、どのような状況で男性が踏切内に立ち入
ったのかまだ分かっていないようです。しかしながらその後の警察の調べで、男性の身元を確認できる
ようなものが何も見つかっていないとの報告もあり、現場の捜査関係者の間ではこの男性が何らかの事
件に巻き込まれて殺害されたのではないかとの懸念もあるとのことです。現在被害者の身元の特定が急
がれており、新しい情報が入り次第引き続きニュース速報でお伝えいたします」
亮二は何も思い出せなかったが、事件との強い関連性を意識させられるような感触が頭の片隅に残って
292
いた。それが何か言葉でははっきり表せない、でも何かある、何か思い出せないものが頭の中にあって
それが表へ出てこようとしているようだった。
「俺がやったんじゃない、俺じゃない」
急いでパソコンのスイッチをオンにする、ウィンドーズが立ち上がるまでの時間が長く感じられる。
「俺じゃない、俺は何にも知らないのに」
亮二は頭を抱えてうずくまった、頭の中の空想と現実世界との調和がとれないかのごとく。
「下園君今すぐ302会議室まで来られるかな」
部長から真紀に電話があった時は何とも思わなかったが、会議室が近づくにつれ部長の言い方が気にな
りだしていた、部長は電話でもメールでも必ず何の件かをはっきりさせる人間だ、部下にも常にそれを
注意してきた、しかし今日は違う、何故だろう?
ドアをノックして302号室へ入ると、そこには部長と人事部長が並んで座り、会議テーブルの向かい
側には見知らぬ人間が二人座っていた。
「失礼します」
293
「すまん、急に呼び出して、実はこちら・・・」
と部長が紹介しようとするのも待ちきれない様子で向かい側の二人の男が立ち上がった。
「我々警視庁捜査第一課の朝霧と新垣と申します、志茂田陽介さんの件でいくつかお伺いしたいと思い
まして」
真紀にはまだ何のことか分からなかった。
「すみません彼女にはまだ何も知らせてないんで、ちょっと私からこれまでのいきさつを説明したほう
がいいと思うんですが」
部長は両刑事の顔色を伺ってから、
「志茂田君が亡くなったんだよ、昨日今日はとりあえず病欠ということにしてあるが、実は事故死でね、
君もニュースで見ているかもしれないが一昨日の中央線の踏切での事故、知ってるかな?」
真紀がかすかに頷いたように見えたので部長は話を続けた、
「あの事故の被害者が志茂田君だということらしいんだが。彼の携帯電話が見つかったんだが、その電
話で最後に連絡しようとしたのがどうも君らしいんだ、実際には繋がらなかったようだが」
真紀の顔は青ざめていたんだろう、身体も震えていたのかもしれない、あまりの突然の悲劇の知らせに
294
どう反応していいのか混乱しているようだった。一瞬の後ヘナヘナと身体全体が床へ崩れ落ちていく有
様だった、会議テーブルの端を掴もうとした手も滑ってうまく掴めなかった。もし刑事の一人新垣が咄
嗟に彼女を抱きとめることがなかったら、彼女は完全に床に崩れ落ちていただろう、若い新垣が抱きか
かえるように真紀を椅子に座らせた。
「お気持ちは分かります、部長さんこの状態では質問は無理だと思いますので改めて出直したいと思い
ますが・・・」
人事部長が「そうしていただければ非常に助かります、彼女の精神状態が落ち着いたところで改めてお
願いいたします」と頭を深々と下げた。
部長も同様に頭を下げて「それじゃあ失礼して彼女を医務室へ連れて行きますので、後を宜しくお願い
します」
部長が真紀を連れ出すのを見送る様に中腰に立ち上がった両刑事だったが、そのまま帰ろうとはしなか
った。
「人事部長さん、ついでですがちょっとお聞きしたい事がありまして」
「はい、私で分かる事なら」
295
「亡くなった志茂田氏のことなんですが、彼は最近親会社のほうから出向してきたということでしたね」
「ええ、親会社の人事から、うちで引き受けて欲しいということでしたので」
「そのようなことはよくあるんですか」
「いやあまり例は無いと思います」
「何か特別な理由でも?」
人事部長は刑事の質問が何を意味しているのか理解しようと思ったが、よく分からなかった。
「いいえ、特に理由などありません、単なる人事交流の一環だと」
「嘘を仰い!」
朝霧の強い口調が人事部長の顔面へ突き刺さった。
「調べれば簡単に分かることですよ。何か特別な理由があって志茂田氏は親会社から派遣されてきたん
でしょう、その特別な理由というのは」
朝霧は人事部長の眼をじっと覗き込み、その眼に現れるであろう不安もしくは恐怖の表情を掴もうとし
ていた。
「本当に何も特別なものなんてありませんよ」
296
「彼が帝都石油本社でどういう経歴を辿ってきたのか、ご存知ないようですね。新垣、教えてやってく
れ」
新垣刑事が手許のファイルに眼を遣りながら、
「帝都石油における志茂田洋介氏は会長直属の保安部門に所属していたのですよ」
「会長直属の保安部門?
何ですか、それは」
「人事部長がご存知ないとは、驚きですな。北柳一郎会長の個人的護衛部隊ですよ、北柳会長というの
はいろいろなことに手を出しておられたようで、中には少々やばいこともあったようですね。先日の贈
収賄事件もしかりですが、身の安全を心配する必要もあったんじゃないでしょうかね」
「しかし何故そんな人間がうちに?」
「そこなんですよ、彼は多分会長の指示でこの会社で何かを探っていたと考えられます。じゃあ何を探
っていたのか。我々が考えてるのは会長の息子である北柳康雄氏と同じく会長の私生児でもある黒川太
一氏の行動について探っていたのではないかと思っているんです」
「しかし北柳常務は先日殺害されましたよ」
「そこなんです、北柳康雄氏が殺害されたことについて、志茂田氏が何かを知っていたんじゃないかと。
297
だから彼は殺されたんじゃないかと疑っているんです」
「彼の最後の電話が下園君宛だというのは?」
「実は彼の最後の電話は下園さん宛では無いんですよ、ただ彼の携帯電話の履歴に彼女宛ての電話が何
通かあったので、関係を調べたいと思いましてね」
*
*
*
つ
づ
く
*
*
*
298