2007年冬号 - 一般財団法人住総研

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︿風紋﹀機能特化した集落と多層構成の住居 U 江川、ド川川パ│ム藤 井 明 :J: 2
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︿焦点﹀夕日が丘三丁目の衣まい昭和三 0年代からみた平成のいま1
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崎貴監督に聞く昭和 0年代を再現してみて
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山 崎 卓貝(映画監督)閣き手 H
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野 城 智 也 (東大教一
こうして映画に再現した昭和 三三 年のコ 一
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丁 目 上 係 安 里:
三丁目の暮らしぶ'りを支えるぢの 江上徹:::沼
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子どもがみた昭和 三O年頃の葛飾・小菅遊び場初田亨:::羽
足 刊 行 錯 ロ 均 部川財い信重盛 ぃj q
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三丁目から消えた道具そして失ったもの山口昌伴:::M
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頃 松 山 巌 :fM
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八ひろば﹀メキシコの住宅 事情堀田力一ルロス:::招
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図書室だより﹀腕骨 路 罷 踏 会 伊 東 史 資 料 倉 佐 一 俊 一 叩 ::
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号(通差別号)二O O七千一月五日発行。
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特集日夕日が丘三丁目のすまいろん
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︿すまい再発見﹀集合住宅略史館腕銅製吋伊すか芯一阪空・::白
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編集後記 :
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団法人住宅総合研究財団
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山頂と 麓に商業と防御に特化 した 町が双子都市として共に繁栄する丸パ lムとコ│カ バン。住居は イ
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の立地場所に苦癒していたロこの状況を機能特化したこつの町を
が、交易を生業とする商業都市では、そうすることもできず、そ
た。そのため、防御を主眼とする集落は険しい山嶺につくられた
イエメンは典型的な部族社会で、部族問の抗争が絶え間なかっ
は防御機能に特化した町で、町の周鴎は崖と城壁で守られ、内部
屈が集まり、市場町を形成している。これに対して、コ iカバン
シパ iムは商業活動と農業生産を生業とし、モスクを中心に臨
な崖になり、そこから先は、項部が平坦な山岳地帯になっている。
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0 IM~毒
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1 マフラージ
戸ブローチも可能であるが、かつては、
に入るための城内も一か所しかない。これらこつの町は双子都市
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附 加 納 外 線 。 3阪にステンドグラスで
女の王室霊Z
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られた?ブラージ{王室是正参照)の窓が見える。"
コiカバンの内部は、モスクや溜
この狭い道しかなく、産上から投げ
で出﹂落とす岩が侵入者を桔んできた。
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すい止ム 一E図
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割削
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る。隣家と墜を共有して一体化して
協調査住居は、石造の三階建てであ
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泊
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刊 ﹁J ﹂ 醐 め 池 、 墓 地 な ど の 公 共 施 設 を 除 け ば 、
竺亡を﹁山 L ﹁ し 儲 ほ と ん ど の 建 物 が 民 家 で あ る 。
図子附加山柑, hμUU
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つくることにより解消した事例がある。首都サヌアの西北西約四
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ですしい・あきら/東京大学生産技術研究所教授)
。この地域の庶民住宅の特色がよく表れている。
の丸窓や色ガラスを椴め込んだ半円形の窓など、外部の造形にも
築 八O年ほどの建物であるが、内部の構成に加えて、上下二連
りしながら、午後のひとときを過ごす。
たちが集い、カiトパ i ティを催したり、水タバコをくゆらせた
重要で、回収上階の最も眺望のよい場所が割り当てられ、ここに男
マフラージになっている。イエメン社会では、このマフラージが
寝室である。三階は女の寝室と廊一殿、それに来客用の客間である
/一に一/らン/発ム/くこでム
一 4 つがい一階は羊小屋と飼料置場で、二階は食料庫と居間、それに男の
ー コ ド パ 2 守パ 3 て
中市か山一一山川怖い山。初出削郎一川一プい山岳地帯の住居の特徴をよく遺している。
ワずメト-二こ
M 比 例 蜘 側 F m u 判 部ω 附。いるために、その平面形は不整形であるが、その内部の構成は、
間際シ。にカしパすに筏融制
と呼ばれ、互いに機能を補うことにより永く繁栄してきた。一一つ
3~皆
五回にあるシパ i ム(本誌訪問すに掲載のシパ i ムとは別の町)と
7 食物療
の町の高低差は約一一一五Omで、一向者を結ぶのは患の窪みに沿う一
!便 所
コiカバンである。シパ i ムは千夜一夜物語にも登場する由緒あ
s 努の寝室主
筋の小桂である。今では、舗装された迂回路があり、事によるア
入ロホーJ
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る町であるが、サヌア盆地の端に位霞し、その背後はすぐに急峻
学小農
飼料号変場
苦
言J
事
居間
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3
4
5
Dを借りようと思っても賛し出し中で借りられないこともあることから考え
三丁目の夕日﹄が二八O万人の観客を動員し、いまレンタル厨で映画の D V
昭和一一一0年 代 か ら み た 平 成 の い ま
ると、一部の世代の嬢旧の念だけでブi ムが生まれているともいいがたいよ
夕日が丘一一 一丁目のすまい
昭
和
一
一
一0年代の位置づけ
うに思われる。いまの静かなるブi ムを探ってみれば、現代のすまいや暮ら
しが誼いてきてしまった大事なことを気づかせてくれているのではないか、
西岸良一千氏作の漫画﹃一一一丁目の夕日﹄を原作とする映尚吋ALWAYS
一
コ
了目の夕日﹄が二O O五年から二O O六年にかけて大ヒットした。本号の特
西岸氏の原作は、小学舘﹃ビッグコミックオリジナル﹄の昭和四九年九月
集は、この映画を契機に編まれたものである。
そのような思いが本特集の出発点となった。
その思いに応えて下さるように、本特集には、昭和三0年 代 の す ま い や 暮
が掲載されて以来、ちょうど三二年後の
関誌平成一八年九月二0 日号には第七六九話が掲載されるという、超長期の
ら し を 、 映 画 ﹃ALWAYS三 丁 目 の 夕 日 ﹄ と 絡 め な が ら 見 つ め 直 し た 珠 玉
二O B号に第二一一同﹁べ iゴマ仮頭
連載が続いている。思えば、連載開始時のたった一 O年前が昭和三0年代最
の論稿が並ぶことになった。
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後の年だったのだが、何といまは三0年 代 最 後 の 年 か ら 数 え て も 四 二 年 も 経
ず、いまとなっては、はるか昔の世界を描いていることになる。この時間軸
しを支える基盤も構造も異なっていることを論じている。特に、映画での
指 摘 し た う え で 、 映 画 の シi ン を 引 用 し な が ら 、 二 つ の 時 代 の 関 で は 、 暮 ら
地域全体が共に潤いあう暮らし
っている。連載された頃は、ほんの少し前の時代を描いていたにもかかわら
上のコンパスでもう少し遊んでみると、昭和一二O年 の 閤O年前は大正四年で
第一次大戦直前、そしてさらに一 O年遡った明治三八年は日露戦争の最やと
いうことになる。見方を変えれば、昭和一一一O年 は 日 露 戦 争 と 現 代 の 中 間 地 点
平成時代とは対比的に、昭和一二0年 代 は 夢 と 希 望 が 満 ち て い た 時 代 で あ る と
江上徹氏は、﹁虚構の時代の果て﹂あるいは﹁控造の時代﹂ともいうべき
になる。
﹁一一一丁自﹂の住民の大半が自営業者と家族・住み込み従業員で、地域全体で
共に潤いあう共開利誌に依拠していることが、映画で描かれたようなすまい
い宇品
昭和一ニ0年代を懐かしく思うような世代が社会の意志決定を握っていること
の開放性をもたらしているのに対して、企業一雇用者が大半を占める平成のい
それくらい昔の昭和三0年代が、いま静かなるブ!ムを呼んでいる。
が、ブームを加熱させていることは間違いない。だが、映画﹃ALWAYS
き、町場のネットワークでお互いが結びつきあっていたこと、また、子ども
庖、コーヒー豆の熔煎業、そしてさまざまな職人さんたちが町のなかで息づ
目﹂のモデルになった地域である)では、洋家具製造、洋服の仕立て、骨董一
松山巌氏も、自らの居住体験を振り返りながら、芝愛宕(映画の﹁三丁
ゴミとして大量に捨てたり、賞味期限寸前の鮮度の悪い食材を口にしている。
一見盟かに見えるが、実は未整理の賞味期眼切れの食材が占め、それらを生
ま、冷蔵庫は可処分所得比でみれば格段に安くなり、収納量も飛躍的に増え、
えば、﹁台所は鮮魚鮮菜と乾物箱・漬物桶││冷蔵庫ナシで動いていた L。い
しく冷やしたり、日持ちを良くするための特殊道具であった。日常の食とい
六子ちゃんを痛い目にあわせたシュークリームなど、非日常的な食物を美味
にとっては、さまざまな遊びを展開する豊穣な空間があったことを描き出し
山口氏がいうように、平成のいまは、食べ方の健康さという点からみれば、
まは、住居の閉鎖性をもたらしていると指摘している。
ている。まさに﹁子どもが子どもで、町が町であった頃﹂なのである。松山
昭和一二0年代よりも貧しくなっている。
初田亨氏が描く、昭和一一一O年 頃 の 葛 飾 ・ 小 菅 に お け る 遊 び ・ 遊 び 場 は 、 松
えるきっかけをつくった映画は、どのようにしてつくられたのであろうか?
では、これほどまでに、多くの人ぴとが昭和三0年 代 か ら 平 成 の い ま を 考
記憶のなかのまち、記憶のないまち
氏の﹁私たちがこれからの住まいで考えるべきは、五0年代までは確かにあ
った気軽に腰掛けることのできた縁であり、仕事場であり、路地である﹂と
山氏が描く芝愛宕の世界と重なり AEJo いかに、当時の子どもの遊びが群れ
いう結びはまさに正鵠を射ている。
遊び的で、子どものみならずコミュニティのなかの大人も巻き込んだもので
ミニシンポジウムでは、映画﹃ALWAYS三 丁 告 の 夕 日 ﹄ の 監 督 ・ 脚 本
-VFXを担当された山崎貴氏をお招きし、映画の製作過程についてお話を
あったかが、浮かび上がってくる。
伺った。また、美術を担当された上保安里氏には﹁いかにして三丁目をつく
た本特集の編集企画者の意図とは別に、もう一つの興味深い視点を本特集が
ミニシンポジウムの記録や、上保氏の論稿を拝読してみると、冒頭に述べ
ったか﹂というテi マで寄稿いただいた。
映 画 ﹃ALWAYSコ一丁目の夕日﹄の大事な装置として、人びとが行き交
あぶり出していることに気づく。それは、人の記憶・思いと現実との符合・
便利にはなったが、豊かになったのか?
変化がある。本特集では、小津尚氏が﹁街角﹂に焦点をあて、そして山口昌
う﹁一一一丁目﹂のまちかど空陪と、テレビや冷蔵庫の到来という生活道具の大
まって、自分たちが失ってしまったものを忘却してしまうプロセスである。
の文明の利器が人関を毘め、しかも世代が下がっていくと、毘めに慣れてし
ったのかが、ありありと浮かんでくる。それは、本来人間を豊かにするはず
原稿からは、平成の表向きの締麗さとは裏腹に、私たちがいかなるものを失
て再現することは、八方予を尽くして収集した断片的な材料をもとに新たに
0年代は見ざる未知の世界であり、その物理的環境や社会的環境を映像とし
体的に浮かび上がってくる。両氏やそのスタッフの方々にとっては、昭和一一一
が、いかにして昭和三0年 代 を 再 現 さ れ て い か れ た の か 、 そ の プ ロ セ ス が 具
山崎氏・上保氏のお話や原稿からは、昭和三九年、一一一七年生まれのお二人
恭離、という視点である。
二O世 紀 が 生 み 出 し た 移 動 道 具 は 、 上 野 広 小 路 を 埋 め 、 か つ て そ こ が 広 場 的
環境を組み上げていく創造的作業であったのである。上保氏が一一一了目のスタ
伴 氏 が ﹁ 道 具 ﹂ に 焦 点 を あ て 、 昭 和 三0年代を描き出して下さった。両氏の
な都市空間であったことは忘れ去られている。また、映画にも出てくる木製
おとし
氷蔵庫から電気冷蔵庫への入れ替わり当時は、冷蔵庫は、かつての氷蔵庫が
ジオセットを作っていくにあたって製作されたCAD-CGを見せていただ
、
品
、
試
しナ八'刀 ア ニ メ ー シ ョ ン で 空 間 の 見 え 方 や 雰 鴎 気 を 検 討 す る な ど 、 建 築 設 計
そうであったように、ビール、お客様用メロン、西瓜、そして映画のなかで
指摘し、映画が描く世界にはむしろ昭和一一0年 代 後 半 の 現 実 も 混 入 し て い る
記憶の再現においては、現実から遊離しても、﹁雰囲気﹂の再現が大事で
そのものであるといってよいほどの鍛密な作業をされていることがとても印
このような膨大な再現作業をすることが、映画企画の当初から想定されて
あるように思う。実は、映闘の舞台となった昭和三三年時点で、日本には約
のではないかと述べ、映画が本質的には夢物語であると述べている。
いたわけではない。上保氏の論稿で、映画のイメージを再現できる空間を日
一九億討の建築ストックがあったが、第二次世界大戦後に新築された建築は
象的であった。
本全国探し回ったが、見出すことができず、再現することに意を決したとい
の雰囲気は、まさに、戦後の新築建物が二割弱という雰囲気だし、そうなる
約一九%を占めるに過ぎなかったと推定される本主
あ る ﹂ と い う 、 英 田 の 建 築 家 イ ア ン ・ カ フi ン氏の言説を借用するならば、
再 現 で き て い る よ う に 思 え て な ら な い 。 確 か に 昭 和 三0年 代 の 現 実 の 三 丁 目
と現実から遊離していても、看板が古びていた方が、当時の雰囲気の記憶を
映画の舞台の三丁目
うくだりは、建築の世界に身を置く筆者のような者にとっては胸がしめつけ
日本のまちは﹁記憶のないまち﹂である。実際、筆者の推計主敵によれば、
の看板は真新しかったというのが現実であったのであろうが、戦前の建物に
10
られる悲しい現実である。﹁古い建物のないまちは記法のない人間と同じで
いま現存する建物のなかで、一九五0年 代 以 前 に 建 設 さ れ た 建 物 は 延 床 面 積
真新しい看板がついているとなると、いまの私たちが抱く戦争直後のバラッ
出来映えが、あまりに﹁リアル﹂であったがために、その時代を実擦に生き
代 を 知 ら な い 若 き 股 代 の チl ム が 想 像 力 を フ ル に 発 時 し 生 み 出 さ れ た 映 像 の
けた若い世代がいかに体験せざる時代を解釈しその記憶の再現をしたのかと
和三0年代から平成のいまを考えた視点と、昭和一二0年代後半以降に生を、つ
こ の よ う に 、 本 特 集 は 、 現 実 の 昭 和 三0年 代 を 体 験 さ れ た 世 代 の 方 々 が 昭
クのイメージとの差異が判然としなくなってしまうように思えるからである。
比で一四%を占めるにすぎない。
こ の よ う な 困 難 な 条 件 を 克 概 し て 、 映 像 の な か に 昭 和 三0年代を再現させ
た人ぴとの懐かしさを呼び覚まし映画をヒットさせ、さらには逆に、映画の
いう視点と、ニつの視点が盛り込まれることになった。そのこつの視点のど
た 技 偏 に は 、 た だ た だ 舌 を ま か ざ る を 得 な い 。 こ の よ う に し て 、 昭 和 三0年
ディテールと現実との議離や符合を指摘するさまざまな評論をも巻き起事﹂し
ちらからも、昭和一二0年 代 の す ま い が も っ て い た 開 放 性 が 視 野 に 入 っ て く る
ああ、少し理屈っぽくなってしまった。どうか薦を張らずに、お読み下さ
ことの意味合いを、私たちはもっともっと掘り下げていかねばならない。
たと理解すべきように筆者は思う。
そして、この﹁リアル﹂が要注意である。ミニシンポジウム記録や上保氏
の論稿が種明かししているように、この﹁リアル﹂とは現実を指すのではな
らんことを。
野城智也/やしろ・ともなり
く、記憶内容を指すように思われる。一言い啓えれば、山崎氏と、上保氏が探
求したのは、現実への符合ではなく、さまざまなバイアスがかかって残存し
O
ている記憶内容への符合であった、とも考えられる。
O六年一一月号所紋)。
*文献 l 野城知日也﹁建設年度阿川建築ストソク量の推計﹂(﹃BELCA NEWS
﹄
ニ
東京大学生産技術研究所教授。略歴は 7頁 参
照。本誌編集委員。
このことは、坂崎重盛氏も指摘している。氏は、その論稿のなかで、臭い
の記憶を手がかりに、昭和一一一0年 代 と い う 時 代 の 位 置 づ け の 暖 昧 さ ニ 商 性 を
て物語が発生したわけです。
まさか自分が映画にするとは患っていませんでしたが、西岸
野城(司会)きょうは﹃すまいろん﹄として
は 未 曾 有 の 大 企 画 で し て 、 映 画 ﹃ALWAYS
で雑誌でも読んでいましたし、非常にシンプルでかわいらしい
良平先生の﹃三丁目の夕日﹄という漫画自体、僕はすごく好き
くて:::。松本の昭和四0年代は、東京の一一一0 年 代 に 近 か っ た
に生まれて育ったので、東京に比べると少し臆史の進み方が遅
﹁古い﹂という感覚ではないですね。僕は長野県松本市
たということでしょうか。
さんご自身からすると歴史映画をつくるような感じで始められ
うことかと思ったら、﹁古い﹂という意味なんです(笑)。山崎
が﹁昭和っぽい﹂という言い方を会話でしているので、どうい
野城ちなみに私は昭和三二年生まれですが、平成生まれの娘
でだんだん興味が出てきて、いまは大好きなんですが。
いながらつくり始めたという感じです。つくっていくプロセス
けないぐらい興味がなくて、当時は本当に闘っちゃったなと思
だ か ら 、 東 京 タ ワ ! と か 昭 和 三0年 代 に つ い て 、 僕 は 申 し わ
のです。
ものですから、 コ ニ 丁 目 の 夕 日 ﹄ な ら 、 と い う こ と で 始 ま っ た
せるということは、すごく話に力があるのだと常々思っていた
動させることは比較的簡単だと思うんですが、あの絵で感動さ
絵なのにすごく感動的な場面がたくさんある。リアルな絵で感
三丁目の夕日﹄を監督された山崎貴さんにお話
ALWAYS一ニ丁医の夕日﹄
帥明繭﹃
。
本稿、 9一災1 %真に掲載したスチ
ール写真およびセット写真は、
印﹁ALWAYS一一一丁目の
MDD
。
一
γgの夕日﹄が公開予定。
、
ぐ
,年一一月に♂杭
今
ALWAYS
開映像を含む特典ディスク、 C D
ROM、ブックレ yトなどが付
DVDは発売 H小学館、販売 Hパ
ップから。通常版のほか、豪華版
には、本編ディスクに加え、未公
アカデミー質問最優秀被沼部門独占
をはじめ、情峡爾軸民円引部門を受賞
する。西岸良平による浸盛ヨ一T
g の夕日﹂(同ビッグコミツヲオリ
ジナルいに長期連載中)を原作と
し、東京音ワーが完成する昭和三
一一一年の東京の下町﹁タaRZ一丁冒
﹂を舞台に繰り広げられる人情味
あふれるドラマ。古田岡秀襲、堤嘉
一、小雪、薬師同丸ひろ子、場北真
希に、子役の須賀健太、小清水一
綴らが出演。
監督・ VFXH山崎脇島
脚 本 H山崎車降、古沢良太
企 画 ・ 制 作HROBOT
は、二 O O五年一一月公開開。 B本
を儒います。山崎さんは、﹁中学生のとき、吋ス
タi ・ウォi ズ ﹄ や 吋 未 知 と の 遭 遇 ﹄ を 見 てS F映画を志す﹂
と 、 ブ ロ フ ィi ル に 記 さ れ て い ま す 。 多 く の 映 画 やC Mを 手 掛
けられ、 S F映 画 ﹃ ジ ュ ブ ナ イ ル ﹄ を 初 監 督 。 吋 リ タl ナi ﹄
に 次 い で 吋ALWAYS三 丁 目 の 夕 日 ﹄ は 三 作 自 の 監 督 作 品 に
なります。
まず、﹃ALWAYS三 丁 目 の 夕 日 ﹄ を つ く る こ と に な っ た
経緯からお開きしたいと思います。
初 め は 興 味 が 薄 か っ た 昭 和 三0 年 代
の映画を撮りたかったんですか﹂とよく質問さ
れるんですが、僕自身は昭和三九年生まれなの
い
V発 れ ま す 。 こ の 話 を す る と み な さ ん に が っ か り さ
γ
ゑ畿欝警山崎﹁昭和が好きなんですか﹂とか、﹁昭和
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齢麟醸関
鍋輔
ぷ議謬O
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で 、 特 に 昭 和 三0年 代 に そ ん な に 興 味 を も っ て い な か っ た の で
す。﹃ジュブナイル﹄からずっと一緒に映画をつくっているエ
S Lと か 昭 和 の 町 並
グゼクティブプロデューサー(プロデューサーのいちばん上の
偉い人)がものすごく昭和好きなんです。
みが好きで、何かというと、﹁昭和の映画をつくろう﹂とずっ
というよりは、子どものときのもうちょっと先にあるものとい
のではないかというぐらい、古い建物がたくさんあり、﹁古い﹂
うイメージでした。
夕日﹂製作委員会
画は成立しないので、陪くと﹁東京タワーが出来上がっていく
いなと思っていたところに、ちょうど西岸良平先生のコ一一丁居
二作つくらせてもらったし、少しは恩返しをしなければいけな
言い方をしているんではないかと思いたいですね。
古くて人間味があるという表現のときに﹁昭和っぽい﹂という
愛のある言葉。そんな嫌な感じではなく、かわいらしいとか、
だから、 た ぶ ん お 嬢 さ ん の ﹁ 古 い ﹂ と い う 言 葉 も 、 ち ょ っ と
の夕日﹄を原作にして映画にしたいんだと、ついにそこで初め
すね。﹃ジュブナイル﹄、﹃リタl ナi ﹄ と 、 好 き 放 題 の 映 画 を
プロセスをパックに人びとが暮らしているんだよ﹂と言うので
と言っていました。昭和の映画といわれでも、物語がないと映
山
崎
かれたのでしょうか。
ん と 六 ち ゃ ん 。 そ こ は ス トi リl立てを考えるときに変、えてい
しているのですが、映画にするときにひねっているのは茶川さ
原作。あの漫画で出てくる愛すべきキャラクターがみんな登場
野域昭和一一一O年 と 東 京 タ ワl、 そ れ を 結 び つ け る 西 岸 さ ん の
たかというプロセスを、少しタネ明かししていただきたいと思
ています。そういう観点で、あの懐かしい映像がどう再現され
そのなかの半分ぐらいは映画を見て涙をポロポロ流したと言っ
づくりをしているとか、住まいについて考えている方々が多く、
リーを集めたDVDがありますし、小津監督の映画をはじめ、
か雰囲気は、 NHKの ア ー カ イ ブ ス な ど 、 当 時 の ド キ ュ メ ン タ
のカメラマンが撒影したものを物色したり、建物自体の形状と
ーでしたね。﹃アサヒ、グラフ﹄みたいなものとか、戦後に米軍
のが少なくて、色の精報はものすごく見つかりづらいファクタ
ク ロ の 写 真 は た く さ ん あ っ た も の の 、 カ ラi で 撮 影 し て い る も
山 崎 美 術 チ l ムが本概いっぱいの本を集めたのですが、モノ
な情報を沢山集めなければいけなかったと思うのですが。
山崎さんからみると、映像として再現していくにはいろいろ
います。
山崎原作に出てくる茶川さんつて、ものすごく偏屈なおじい
さん、何やってもうまくいかないおじいさんが、淳之介という
男の子が家に米たことでどんどん変わっていく:::。﹃三丁目
の夕日﹄のキャラクターってほとんど成長したりしないんです
が、唯一あの物語のなかで悪い人から善い人に変わっていく珍
しいキャラクター、非常に映画的ですごく好きなんです。
僕 ら が っ く り た か っ た 昭 和 三0年 代 の 映 耐 と い う の は 、 戦 争
でボコボコにされて、そこから再起していくエネルギーみたい
都電の走る大通り。ストーリ
ーの進行とともに東京タワー
が出来上がっていく。大通り
の町放みはミニチュア。実写
とC Gを何章一にも重ね合わせ
て爾部がつくられた。
映甑の舞ム口である夕日町一一一
了日は横γを入ってすぐのと
ころにある。
みいい感じだと、映画にはちょっと邪魔になってしまうんです。
なものを表現したかったので、茶川おじいさんの哀愁がしみじ
いうものを見たりしたんです。
昭和一一一0年 代 に 撮 ら れ た 映 画 は す ご く た く さ ん あ る の で 、 そ う
いまとなっては面白いエピソードですが、大変だった話があ
昭 和 三0 年 代 の ﹁ さ あ 、 こ こ か ら 立 ち 庇 っ て 上 が っ て い く ん
だ﹂という勢いを体現できるキャラクターにしたいと思い、あ
って、上野駅前のシl ン が あ る ん で す 。 上 野 駅 側 の 資 料 は 見 つ
か る ん で す が 、 駐 車 場 を 挟 ん で 駅 の 方 か ら 見 た シl ンはまった
えて大きく変更して、茶川さんをすごく若くしたのです。
六ちゃんには、原作ではサクラちゃんという妹がいて、その
く資料がなかった。ごちゃごちゃと建物が並んでいるだけなの
ところが撮影の数日前になって、﹃喜劇・駅前旅館﹄のD V
二人の関係がすごくいい感じなんですが、映画ではサクラちゃ
D が 発 売 に な り 、 カ ラi で 駅 前 の 映 像 が 写 っ て い た ん で す 。 早
で、誰も覚えていないだろうということになって(笑)、適当
六ちゃんを原作どおり男の子にすると、女っ気の少ない映画に
んを出すタイミングがなかったので、サクラちゃんの雰閥気も
なっちゃう。見たときにバランスが悪いんです。男の人ばかり
いうちにそれが見つかっていれば大変うれしい資料なんですけ
に想像でつくろうということになったんですよ。
が出てくるしみじみとしたハ iト ウ ォ ー ミ ン グ な 話 っ て あ ま り
れど、撮影産前にそんなものが見つかっちゃったものですから、
六ちゃんに委ねて、一体化させて女の子﹁六子﹂にしたのです。
見たくないので。
見て見ぬふりしたかった。
ものすごくみんなで悩んで・:
きょう会場にお越しの方々は、建築関係の、特に住まい
町の再現
野城
野
城
山崎基本的には、テーブル二つ並べたぐらいの大きな模型を
野域再現するときはどういう両像を組み合わせるのですか。
ったのではないかと思っています。
まいましたよ﹂と言ってくださったので、すごく同呪率は高か
いたという人が映同を兄て、﹁私は思わず自分の家を探してし
大急ぎで大変な思いをして再現したんです。当時そこに住んで
にわかり、うれしいやら悲しいやら、ミニチュア・スタッフが
山時そうしたいところなんですが、建物の雰開気も色も完援
ころを撮った写真を使わせてもらって、つくっていったんです。
ってつくっていくんだというのを確認しながら、途中途中のと
プロセスのドキュメンタリー・フィルムをいただいて、こうや
山崎東京タワーをつくった竹中工務庄から、出米上っていく
ょうか。写真をもとにつくられたのですか?
従ってできていきます。あの建て方もやはり調査されたのでし
野 城 東 京 タ ワ ー が 背 景 と し て 、 ス トi リl が 進 行 し て い く に
オリティを上げていると思います。
は 昔 東 京 タ ワi の 近 く に 住 ん で い て 、 カ メ ラ マ ン を 目 指 し て い
悩んでいたら、撮影の境場に米ているエキストラの女性が、﹁実
真はなかなか見つからなかったんです。竹中工務厨にもなくて
ルがわかるほど近くから撮影した、印刷でないしっかりした写
ワ!の出米かけの写真はたくさん見つかるんですが、ディテー
これにもすごいことがあったんです。速くから撮った東京タ
ジ タ ル で 写 真 な ん か を 加 工 し な が ら 背 景l i上 野 の 森 と か 、 空
ものすごく精密につくるんです。それに、マット耐といってデ
の雰陪気とか!iーをつくって後ろに足して、子前にはすごくた
くさんの人が歩いていたり、市 γ
が走ったりしないといけないの
で、動くものはコンピュータグラフィックスでつくって配置し
ています。
制況がもっていた光の情慨を全部転写していくんです。実際のミ
じ形をつくって、それにカメラマップという特殊な技法で、模
そのデl タを一川コンピュータの小に取り込んで、⋮一一次元の同
テレビが来た日
れがものすごく大きかったですね。
も出来上っていくプロセスをつぶさに撮っておられたので、そ
くわかる、本当に喉から子が出るような素晴らしい資料、しか
う話をしてくれて:::。足場に材木が並んでいるところまでよ
たので、出米上りつつある東京タワーをよく撮っていた﹂とい
ニチュアがもっている影の素晴らしさとか質感の良さ、嬰にあ
らいに簡単にみつかっちやったり、あるいは現物そのものがあ
机二つ並べたほどの大きさの
ある上野駅のミニチュア。こ
れに背景や人物などをC Gで
加え、上野駅のシ!ン、が出来
上がった。
集団就裁で上野駅に着くと、
ただ⋮入社長が迎えに来てい
た六子。社長秘書を夢見るが
るちょっとした雨だれみたいなもの、そういうものはなかなか
った、日の前にある一一一0年 代 と い い ま し ょ う か 。 ラ ッ キ ー だ っ
この模型も、いったん高解像度のデジタルカメラで撮影して、
コンビュ i タ で は 再 現 し き れ な い ん で す 。 ミ ニ チ ュ ア の も っ て
いるいいところをそのままコンピュータの中
C
G に再度貼り付けて建物をつくったのです。植物などはそうい
たことは・::。
普通に飲みにいったときに隣り合わせた人たちに聞くと、
収集しなければいけなかったですね。
どういうことがうれしかった、どういうことが楽しかったかを
野域情報を集めるのは大変なことですね。逆に実に意外なぐ
う レ ベ ル でC Gの 中 で 再 現 す る の は 大 変 な の で 、 板 に 貼 っ て 立
山崎建物は美術監督の上燥さんにお任せして、僕は人の心理、
てくだ
てたり、いろいろ手管を使って再現したのです。
た く さ ん の シl ン を や ら な け れ ば な ら な い の で 、 ミ ニ チ ュ ア
に 頼 っ た り 、 本 当 の 建 物 に 頼 っ た り 、 ミ ニ チ ュ ア とC Gのいい
ところを組み合わせでハイブリッドでつくれたことが全体のク
み
ハHU
すが、どの人に開いても﹁自分のうちが最初に来た﹂というん
れしそうに話してくれるんです。だけど七不思議の一つなんで
ビが来た家なんですね﹂と開くと、﹁実はそうなんだよ﹂とう
一一一一口うんです。﹁ということは、おたくはご近所では最初にテレ
すごくたくさんの人が集まっちゃって、大変だったんだよ﹂と
んなテレビが米たときの様子は克明に覚えていて、﹁俺んちに
しょ、つ?
いということを、美術の人たちにもいろいろおっしゃったので
か、いろいろあったわけですが、監督としてどういう町にした
野城当時だって道が真っ直ぐ通っていてツンと澄ました町と
白くないので:
前の大きな通りは桜田通りですが、 あ ま り 限 定 し て し ま う と 面
野城それも時間の流れを追っていますよね。電気冷蔵庫が来
土品?しれ 。
思っていたので、そういうものはできるだけ映画に入れていき
﹁そうだつたへ﹁こうだつた﹂という感じが大事な映画だなと
テレビが米た司、冷蔵庫が来た日、みんながみんな言うネ夕、
なく、町全体が一つの大きな家で、そこにこの人たちが住んで
隣りの家まで上がっていける、家ごとに一区切られているのでは
なくて、タッタッタと降りてくると、そのままタッタッタッと
ただ、一つポイントとしては、家の外とか中とかという意識は
当にいいものをつくってくれるので、安心してお任せしました。
ういう町にしたいんだ!﹂と熱く語った覚えはありません。本
上陳さんは僕の趣味がだいたいわかっているので、﹁こ
る 前 は 氷 屋 さ ん が 氷 を 入 れ て く れ て い る シl ン 、 電 気 冷 蔵 庫 が
いる場所があるという感じ。特にメインのキャラクターである
です(笑)。あれはちょっと解明したい不思議なことですね。
来たあと、捨てられている氷式冷蔵庫をすごく切ない気持ちで
鈴 木 オiト と 茶 川 商 庖 の 人 た ち は し ょ っ ち ゅ う 行 っ た り 来 た り
しなければいけないので、一つの位置からワンカメラで引っ張
ってくると隣りの家まで一気に入っていけるというセットにし
てください、というお願いはしました。
家の庭に入って遊んだり、他人の家の庭をくぐり抜けてどこか
の子どもに対してもみんな怒るし、子どもたちも勝手に他人の
その地域全体が一つの大きな家族であるというか、親はどこ
う話も同時に描いていかなければいけないと思い、その象徴的
に行ったり。そういうことをしても怒られないような場所を再
トは別のところにつくって撮ったほうが効率的にも、いろんな
な 意 味 で あ の シl ンは入れているんです。
デルにされた町はあるのでしょうか。
意味でも得策なんでしょうが、あえて全部建物があって、通り
現したかったんです。普通なら、家の中のセットと外観のセッ
山 崎 実 際 に は 存 在 し て い な い 町 で す が 、 元NHKが あ っ た 芝
もあって、こっちの建物からワンカメラで一気に入っていって
野城住まいの再現のお話を伺っていきたいのですが、何かモ
の愛宕山の下あたりかなという気持ちはあります。町のロング
オープンセットなんですか。
隣りの家までみえるというセットをつくってもらったんです。
映っているんですが、それは気持ち的には愛宕山の影ですね。
ショットのときに、画面の端に山のような、丘のようなものが
昭 和 三0 年 代 を 口 ケ し て き た よ う に 撮 る
屋さんは仕事が少なくなって鹿業する人もたくさんいて、とい
ある。電気冷蔵庫をみんながものすごく喜んでいる陰では、氷
くなっていくんだけれど、それは、捨ててきたということでも
山 崎 昭 和 三 0年 代 と い う の は 、 ど ん ど ん 前 に 進 ん で い く 、 良
見ている氷屋さん。
鈴木家にテレビが来た。町の
人たちはお祝いを持って集ま
り、通りにまで人があふれる。
まるでお祭のよう。プロレス
中継が映し出され皆熱狂する
が、突然映像が途切れる:。
山
崎
野
城
撮影の仕方として、セットの中で物語を組み立てていくので
に何十軒も家を建てて、あの町並みをつくってもらったんです。
ージという、たぶん東洋一の大きなスタジオがあって、その中
現できない場所がたぶんすごくたくさんあって、そこは、通る
ことはあまりない。あのころは﹁空き地﹂という言葉でしか表
く建てないのだったら駐車場にして儲けようとか、放っておく
いですね。必ず持ち、玉がいて、何か建つ予定だったり、しばら
いま東京では﹁空き地﹂という一一一一同葉はほとんど使いようがな
はなく、一二丁目というところにああいう人たちがいて、それは
人にとっては道でもあるし、子どもたちにとっては遊ぴ場でも
メ イ ン の セ ッ ト は 実 は 室 内 な ん で す よ 。 東 宝 に h 9ステ
昭和三0年 代 に あ っ て 、 僕 ら は 朝 夕 イ ム マ シ ン に 乗 っ て 出 か け
あるし、鈴木オ!トは勝手にそこを占拠してゴミを捨てたり冷
なかで、いろんな意味で空き地みたいなものが必要だと・::。
と家をぎっしりつくるつもりだったと思うんですが、撮影する
ではなく、普通のカメラの機材で、でも、昭和一一一0年 代 に み ん
唯一の二階家で、上がったり
から撮ったらいい闘になるとか、これだとこの画は成立すると
山崎映画を撮影するときに、どこかに出掛けていって、ここ
初 か ら そ の シl ンを撮るためにセットをつくったのですか。
れる。ああいう空間的な関係がとても面白かったのですが、最
しているときに、物干し台から﹁おーい、文学﹂と声を掛けら
野城茶川さんが淳之介者を引き取って、まだつっけんどんに
っていったという感じです。
少し建物を間引いて、奥に押しやってそこに空間をあえてつく
から、いいクレーンで撮影するとこうなるだろう、遠慮して
﹁ここから先は写せません﹂という、なんか窮屈な感じのする
カメラワl ク で も な く 、 も の す ご く ハ イ テ ク で も な け れ ば 、 か
といって狭苦しい画でもない、普通にああいう場所があったら
撮れるであろう、撮るであろう普通の画というのをものすごく
意識して撮影しました。
野誠一二0年 代 の 町 は こ う だ つ た の だ ろ う な と い う 想 像 の な か
グ)といいます。これは前代未陪のことですけれど、セットで
いうことを検討するのをロケハン(ロケーション・ハンティン
きなスペースをあけていますよね。また、コミュニティの道で
撮影するのに、本当に町がそっくり一つできていたので、いろ
下りたりの場衡があるため、
セットとはいえ、本当の木造
建築と伺じようにつくられた
という。家庭の中の口問々も応
に霞いである機被や道具、部
品にいたるまで、徹底的に昭
和一一一三年を再現した。ただし
ミゼットのこの裂は、昭和一一一
四年にならなければなかった。
あってもいろいろな人が行き交うんだとか、そういうのは情報
それはセットがもっている魅力、当初に予定したものより全
んな場所からファインダーをのぞいて、このアングルもあると
山 崎 鈴 木 オ lトの隣りにある広いところ。広場というわけで
然広がった、闘が変わったと思うんです。﹁おお、俺、セット
を集めたり、再現するなかで意識として大きくあったのでしょ
もないし、際問、誰の持ち物かよくわからない感じの﹁空き
か、﹁おっ、ここからスゲェいい踊が撮れる﹂とか:::。
地﹂といったほ、つがいいですね。昔はだだっ広かったところに
子どもたちが秘密基地ごっこみたいに際問を抜けていく
いことでした。
野
の中でロケハンしてるよ﹂と。相当珍しいことというか、面白
ころが隙間になっていったというか:::。
城
ぽつんぽつんと家を建てているうちに、だんだん空いていると
、
っ
か
。
でつくられていると思うのですが、家と家との間にわりあい大
オlトのセットとミゼット。
なでロケしにいくとしたら、いいクレーンももっていくだろう
ことさらすごい C Gで 、 も の す ご い カ メ ラ ワi クでやるとか
ていって、そこに住んでいる人たちを現代の装置を使って自由
自動車修理販売業である鈴木
蔵庫を捨てたりしている場所でもある。最初のプランではもっ
山
に撮影するというような映画にしたかったんです。
崎
が、﹁俺、こういうところを見つけると必ず通っていたんだよ﹂
山崎そうです。あそこを見にいって、たしか衣装の野沢さん
ようなシi ンも、 やっぱりそういうセットができてから:::。
十
同
一
。
でが本物なのかつくったものなのか、よくわからないです、正
想像を絶する作業をいろいろしてくれていて、どこからどこま
イに流れていくことが多いので、タイの人から借りたそうです。
ミゼットは本物ですか。
本物です。
よく見つかりましたね。
ミゼットの大ファンの人が、 レストアしてピカピカのミ
ゼットを持っていて、それをお借りしました。特に窓が二つに
分かれているのは初期型で、ものすごく貴重なものらしいです。
それを芙術部、装飾部が寄ってたかつてサビサビのボロボロに
エイジングしたんです。
エイジングしたいちばん大きな理由は、ボディーがピカピカ
だと、天井にぎっしり並んでいる照明設備が映ってしまうこと。
野城そういう町らしさのなかで、貼つである看板とか旗竿が
ぶせたり、サどを描いてもらったりしたのです。塗料自体はゴ
ながら、持ち主がみたら仰天すると思うのですが、ほこりをか
ヒロミ。
売れない小説家・茶川は、駄
菓子屋をやりながら少年雑誌
に首険小説を逮毅している。
殺に捨てられた少年・淳之介
の頭倒をみることになる。
看板建築の茶川商肢のセッ
トの前で茶川淳之介少年と
とつぶやいたんですよ。それが頭に残っていて、後々子どもた
ちが学校から帰ってくる道のロケ場所がなかなか見つからなか
ったんです。その道だけのためにどこか遠くまでロケに行くの
もばかばかしいですし、どうしようかというときに、あの隙間
を通ればセットで撮れるし、その当時の雰囲気も伝わるし、一
石二鳥だなと思って、あそこで撮ることに急速変更したんです。
物干しから呼びかけるという話も最初の脚本にはありません。
物干し台に上って、絶対ここを生かさなければと。特にあの場
面は、まさに高みの見物という心理状態もアングルからつくり
出せるという意味で、非常に映画的、かつ面白い画が撮れて画
変わりもするということで、そういう発見のあるセットでした。
懐かしいということがあると息、つんです。本物を探してこられ
ムでできていて、フワッと載っているだけですから、ちょっと
﹁この世界になじむようにエイジングした﹂とかいろいろ言い
た の で す か ? それとも、ああいうものもいろいろと資料を集
最初からわかっていたんですが、実はミゼットは昭和三四年
ぶつかると剥がれて新品になっちゃうという恐ろしいものがあ
れらしく飾り上げていくんです。美術部がやったところまでは
発売なんです。昭和三三年の映画なので、本当はミゼットが出
めでつくったものなのですか?
なんとなく想像がつくんですが、装飾部が何をどうしていたの
てくるはずはないんですね。だから、未来からきた車なんです
りました(笑)。もちろん、最後はきれいに剥がして、ピカビ
かまでは、僕は把握していません。日本じゅうのいろんなとこ
(笑)。でも、ミゼットという事の形は昭和三0 年 代 の ア イ コ
山崎建物自体をつくるのは美術部というチ!ムで、そのあと
ろからいろんなものを探してきでくれて、オリジナルの当時の
ンといってもいい。時代を代表するデザインだと僕は思ってい
カの状態に戻してお返ししたのですが。
ものを並べてくれたのですが、たぶんつくったものもいくつか
く納得できる。鈴木オ!トという中心人物が乗り胆している率
る ん で す 。 あ の 形 が 出 て く る と 昭 和 三0年 代 と い う こ と が す ご
当時の自動車の部品は日本にはもうなくて、古い自動車はタ
あるでしょう。
装 飾 部 と い う チl ム が 看 板 を 付 け た り 、 小 道 具 を 並 べ た り 、 そ
汚し(日ヱイジング)のわけ
山野 山野
崎城 崎城
嘘の混ぜぐあいはばれたり、ばれなかったりしているんですけ
山崎あえて嘘をついているところもたくさんあります。その
うぐらい忠実に再現しているところもあれば:::。
野城ということは、上野駅前で﹁私の家はどこかしら﹂とい
ットにしてもらったのです。
けどミゼットでやりたいというわがままを言って、あえてミゼ
すが、あれみたいなものなので、これはもう、わかっちゃいる
コンというハリソン・フォードが乗っている宇宙船があるんで
なので、﹃スタi ・ウォ l ズ ﹄ で い う と 、 ミ レ ニ ア ム ・ フ ア ル
いのではないか。
ポリシーに合わない。それは記憶を再現するということではな
はすごく好きですが、ピカピカのセットはどうしても僕の趣味、
内装を想像しているんです。僕は﹃タイタニック﹄という映画
んですよ。それをリファレンスして、頭の中でタイタニックの
装であったり、古いホテルの内装であったり、そういうものな
近く前の話だから、僕の頭の中に浮かぶのは、当然昔の船の内
ピカの船で当たり前なんだけれど、でも、タイタニックは百年
んです。﹁タイタニック﹂は処女航海で沈んだのだから、ピカ
それは﹃タイタニック﹄をみたときにもすごく感じたことな
いたんだ﹂と思うでしょう。
かにあるものを取り出して再現したかった。そうすると、やっ
ーを通す﹂という一言い方をしていますけれど、実際に記憶のな
それが正論かどうかはわからないですが、﹁記憶のフィルタ
ど、見破った入は﹁俺ってすごい﹂とうれしくなるし、そうで
野城看板なんかがサビているのも、考えてみれば当時は:::。
ぱり汚すということが必要なのではないかと僕たちは考えてや
ない人は﹁すごいな。当時はこういう率がサビだらけで走って
山崎そうなんですよ。いいところに気づきましたね(笑)。
野 城 色 で す け れ ど 、 ﹃ALWAYS一二丁目の夕日﹄は、最近
っていました。
﹃スタi ・ウォi ズ ﹄ の 影 響 で す ね 。 そ れ ま で の 映 画 は ピ カ ビ
の 映 画 の よ う な 鮮 や か さ で は な く て 、 昭 和 三0年 代 の カ ラi映
上保さんも僕も汚し好き、エイジング好きなんですが、たぶん
カの宇宙船しか出てこなかったのに、あの映画はものすごく汚
山 崎 当 時 、 小 津 監 督 な ど の カ ラi映 画 は ア グ フ ア と い う メi
画みたいな具合というか、空の青さも昔の日活映画風という感
昭和一二0年 代 な ん だ か ら 、 戦 争 で 焼 け て 建 て 直 し た 建 物 だ っ
カi の フ ィ ル ム を 使 っ て い て 、 ち ょ っ と 独 特 な ん で す よ 、 青 や
じがあるのですけれども、そういうのは意識されて::。
たら、ピカビカなはずです。でも、そういうものをつくると、
赤の発色が。だから、﹁ちょっとアグフアのカラーを意識して
ったのがいまに至るまで続いてしまっているのでしょう。
たぶんすごく違和感を感じてしまうのではないかと思ったんで
ください﹂ということと、記憶のなかから取り出したみたいな
してあるんですよ。それを見て、﹁うわぁ、カッコイイ﹂と思
す。それは人間の記憶の仕組みに影響しているんですが、当時
イメージをもたせたかったので、﹁やりすぎない程度にセピア
実 は 前 作 吋 ジ ュ ブ ナ イ ル ﹄ も ﹃ リ タi ナi﹄ も 、 子 ど も が 見
のことを思い出すときに、当時のままを思い出す人はたぶん少
ファレンスして、ボロボロになったものとか、すごく汚れちゃ
たら現代の話だけど、大人が見たらちょっとノスタルジーを感
トl ンを加えてください﹂と。
った、サビちゃったというイメージを必ずそこに代入して、新
じるようにしたかったので、わずかにアンバー系のフィルター
な く て 、 現 代 に 残 っ て い る 昭 和 三0年 代 の 建 物 の イ メ ー ジ を リ
しい図を描いて記憶を書き替えていると思うんです。
を入れて、 全 体 が シ ッ ク な トl ンになるようにしているんです。
今回もわずかなアンパ iを加えることによって:::やりすぎる
と昭和懐古フィルムみたいになってしまうのですが。
こだわりで登場させた C 臼
。
鉄橋を渡るシ lンは実物の一一一
O分の一のワンゲ iジ。駅に
潜くシ l ンは京都梅小路機関
S Lマニアは前のシリンダー
をマニア用語で﹁動態保存﹂というらしいです。
みんなで見に行ったんですよ。
の部分を﹁釜﹂というんですね。長距離をたくさんの人を運ぶ
どれだけ近づけられるか、それが最大公約数になるかがポイン
って。上野駅に列車が入ってきてみんながそこから降りてくる
すごいんです。あまりのかっこ良さに僕もすっかりやられちゃ
機 関 車 な の で 、 釜 が で か く て 、 力 強 い 。 や っ ぱ りC 臼 の 迫 力 は
トになる映画だと思っていたので、あのとおりではないはずな
というシi ン を 撮 ら な け れ ば い け な い ん で す が 、 梅 小 路 に は 線
区での実物を使って擬影。
んですが、﹁まさにあのとおりだった﹂とか、﹁巾ヨ持の感じをす
路があるだけで、ホームはありません。で、悩んだ挙げ句、そ
記憶とのすり合わせですね。自分のなかにもっている記憶に
ごく思い出した﹂とか、うれしい感想を沢山いただいています。
ーはマニアなくせに、ツララ切りに関してはなぜか何も言及し
臼で、ツララ切りが付いているんですよ。うちのプロデューサ
実は、梅小路機関区に残っていたのは北海道を走っていたC
いのだなということがわかりました。
っ く り し ま し た ﹂ と い う 話 を 開 く の で 、 意 外 とS Lマニアは多
のだろうと思っていたら、いろんなところで﹁あれは本当にび
と言っていたんです。日本じゅうで二人ぐらいしか気づかない
るぞ。絶対に不可能な映像がここに存在しているわけだから﹂
プロデューサーは、﹁S L好 き が こ れ を 見 た ら 、 び っ く り す
がりだということになったのです。
代より、そこにプラットホームをつくったほうがはるかに安上
ないということがわかり、二酬に幾らかかるかわからない車検
いる分にはいいけれど、外に出すには車検に通らなければいけ
機関車にも車検があって、機関区の中、つまり私有地で走って
こで撮影しようという壮大な計画を立てていたらしいですが、
プロデュ i サl は、そのC 臼 を 古 び た 駅 へ も っ て い っ て 、 そ
で、プラットホームと柱をつくって、搬影しました。
山崎はい。あの一カットのために、梅小路機関区に乗り込ん
野城梅小路に?
こにホ i ムをつくろうということになって・:
C 臼に決まっているじゃないか。
れ て い るC 臼 が 一 台 だ け あ る と 。 動 く 状 態 で 保 存 さ れ て い る の
てみたら、京都の梅小路機関区という鉄道博物館に動態保存さ
たが言い出したんだろうという企画なのに。で、いろいろ探し
C 臼じゃなかったら俺は枠りる﹂ぐらいの勢いで(笑)。あん
いう同自体が想像できない。
ニアとしては、﹁昭和一二0 年 代 の 上 野 駅 にC 訂 が 入 っ て く る と
ところが、このプロデューサーは鉄道マニアなので、鉄道マ
必ず出てくるんです。
井 の ﹁ 江 戸 東 京 た て も の 閣 ﹂ の 看 板 建 築 と 大 井 川 鉄 道 のC Uが
て 喜 ぶ と 思 い ま す 。 た い が い こ う い う 昭 和 の シi ンには、小金
山崎その話をすると、エグゼクティブプロデューサーは泣い
見ている人もいます。
みても黍涯のものが実際に動いている。そういうディテールを
のシ i ン に 出 て く る あ の 蒸 気 機 関 車 は 、 蒸 気 機 関 車 フ ァ ン か ら
フリークだけれども:::﹂と一一一日っていました。最初の集団就職
野城ある人が、﹁あの映画はすごいですよ。私は蒸気機関車
C担にこだわる
はないかなと。
ますが、たぶんその人たちは少数派で、概ねうまくいったので
もちろん、 Jめ ん な に 古 く ね ェ よ ﹂ と い っ て 怒 っ て い る 人 も い
務小路機隠区での t
最彩風景。
ているのだから、あえてやっているに違いない。何か意味があ
やっぱりそれは同竜点晴を欠くというか:::。あそこまでやっ
なくて、映画ではツララ切りが付いたまま上野駅に着くんです。
で撮影しました。でも、現代の部分、特にアルミサッシが映っ
山崎向山にある有名なお鰻頭犀さんがいい風情なので、そこ
れは実物ですか。
をつくったり、いろんなことをして隠して、撮影しています。
てしまうと一発でばれちゃうので、テープを貼ったり、上に塀
S Lに は そ れ だ け こ だ わ
るのじゃないかと深読みしている人もいて、面白かったです。
当時を再現するというエネルギー、
野 城 そ の こ つ の シl ン は 、 ワ ン カ ッ ト に し て は 惜 し い 大 物 の
山崎そこは﹁ワンカットでも印象に残る人を使っている﹂と
ったのに、ほかのところで予を抜いちゃうわけにいかない。だ
ね、昼間しか撮影できないですから。僕らは京都に行って、﹁お
いう言い方で:::(笑)。キヤスティングのテクニックとして
ではあまりにもお気の毒というぐらいの・
お、スゲエ﹂といって一カットだけ撮って、大変楽しい患いを
は、ハッとする感じが大事だと思っているんです。強い印象の
俳優さん、女優さんたちを配されていますね。ワンカットだけ
させていただきましたけれど。
ある人でないと、フワッと流れちゃう。でも、難しいですね。
から、全体的なクオリティに対する姿勢、基準点を上げるには
キャスティングの妙
野城使い回されているわけですね。
こを使ったほかの映画とは同じに見えないように加工して:・
部が植物を入れたり、絵を入れたり、いろんなことをして、そ
0年 代 を 撮 る な ら こ こ 、 み た い な 家 が あ る ん で す 。 そ こ に 美 術
だから、ロケ・セットといっていいのかな。そのなかに昭和一一一
な 、 土 管 が あ っ て 、 フ ラ フlプ を や っ て い る 、 あ の シl ンなん
す。遊ぶシーン、いかにも藤子不二雄さんの漫画に出てきそう
野城人びとの暮らしの再現について伺っていきたいと思いま
昭 和 三0 年 代 の 子 ど も た ち
したかったので、あえて顔の売れている方にお願いしたのです。
スター感、あの人もこの人もみんな知っているという感じを出
むところですね。﹃ALWAYS三 丁 目 の 夕 日 ﹄ で は 、 オ ー ル
のか、個性が強い人がいいのか、強くない人がいいのか:::悩
くる人は、顔が売れている人がいいのか、売れてない人がいい
全に映画の人物になれるんですが、一カット、ニカットで出て
の時間を使ってだんだんその人物になっていって、途中から完
主要な人物は、すごく有名な役者さんだったとしても、映画
それが邪魔をすることもあるし・ ..
か、古びた家とか、都内に実在している家を壊す前に幾っか買
山崎あれはハウススタジオというもので、すごく繍酒な家と
かであのお宅をみつけられて:・
す 夢 の シl ン 。 あ の お 宅 は セ ッ ト な の で す か 。 そ れ と も 、 ど こ
先生が酔いつぶれて見る、自分の家に帰って妻子と会話を交わ
野城建築関係の話としては、一つは三浦友和さん演じる宅問
非常によかったんです。しかし美術部は大変だったと思います
セットには随所に路地や隙問問、
空き地などがあり、さまぎま
なシ l ンに活用された。
監督は、セァトではなく、
どこかにある本当の三丁目に
行ってロケしてきたみたいに
撮ることを心がけたという。
山崎当時の家をそのままハウススタジオに転用しているもの
かもかなり取材されて:::。あの時代に流行った遊びオンパレ
い取って撮影のスタジオとして使っている場所があるんです。
で、一からつくったものではありません。
﹁昭和三0年 代 の 遊 び は 何 が 記 櫨 に 残 っ て い ま す か ﹂ と
ードみたいな。
黒 塀 か ら ほ の か に 光 が 漏 れ て い る と い う シl ン が あ り ま す 。 あ
野 城 も う 一 つ 、 淳 之 介 た ち が お 母 さ ん を 訪 ね て い く シi ンで、
山
崎
ットが出来た年はマニアしか知らないだろうけれど、ダッコち
んも出したかったんですが、ダッコちゃんは昭和一二四年、ミゼ
聞くと、 み ん な ﹁ フ ラ フlプ﹂と一一一一日うんですよね。、タッコちゃ
さい﹂とお願いしたり、できることは全部やろうと。
ともかく石鹸素材のシャンプーを渡して、﹁これで洗ってくだ
は知らないですよ。小雪さんが洗っていたかは慢しいんですが、
と忠、つんですが、﹁あった、あったへ﹁俺はあそこを知ってい
いるようなものをたくさん出しすぎてこれでもかということに
ゃんの年はさすがにばれるだろうと。時代のアイコンになって
いたので、自分たちのつくる映画はこういうものなんだよとい
昭和三0 年 代 が 丸 ご と パ ッ ケ ー ジ さ れ た よ う な 映 画 を 自 指 し て
すが、僕たちがつくろうとしたのは、もっと広い画が出てくる
朝 の 連 続 テ レ ビ 小 説 な ど で も 最 近 は 豪 華 なC Gを 使 っ て い ま
れいにみせちゃうんです。実際に白でみたときにはつつわっ、
撮影してみたんですが、フィルムは汚れを純化してしまう、き
も あ っ て 、 こ れ じ ゃ 二0年代の浮浪旧んだよというぐらい汚して
どのくらい当時の子どもの感じが出るかを研究するという目的
同時に、フィルムにしたときにどのぐらい汚れが映るかとか、
んです。 C Gも入れ、大きな風景も入れて、結構お金をかけて。
う こ と を 伝 え よ う と 思 っ て 、 撮 影 前 に 一 回 デ モ リi ルを撮った
なると、それをみる映画になっちゃうので、さじ加減が必要だ
鈴木オ1トの隣地は空き地で、
子どもたちが夢中になってフ
ラフ!プに興じている。土管
い風景だ。これもスタジオの
セァトにつくられた。
が積んであったのもなつかし
る﹂ということがどれだけあるかがこの映画では特に重要と思
っ て い た の で 、 あ え て フ ラ フiプをいっぱい出しました。
野 城 昭 和 三 0年 代 の 仕 草 は 、 い ろ い ろ と 人 物 を 構 成 す る う え
でお考えになったのではないかと思うのですが。
山 崎 特 に 台 詞 回 し は 、 い ま 子 ど も は ﹁ iだ あ い ﹂ と 言 わ な い
で す が 、 あ え て ﹁ 1だあい﹂と言ってもらったりとか。
一向ねえ﹂というのが、スクリーンに映るとちょうどよかったり、
撲ばかりでなく、衣装部、美術部、装飾部、あらゆるパ lト
映画評に、﹁子どもがまだまだきれいすぎた﹂みたいなこと
そこそこにしか映らなかったりして:::。
て、そのエッセンスが濃くなれば濃くなるほど、やりすぎにな
を書かれたのですが、顔とかすごい汚してやっとあれぐらいな
が ほ と ん ど 僕 よ り 若 い 世 代 な ん で す 。 だ か ら 、 み ん な 昭 和 三0
るぐらいでちょうどいいのではないかなと。特に髪型ですね。
ん で す 。 昭 和 二0年代の浮浪旧んが出てくる映画をつくるときに
年代の世界を知らない。みんないろんなビデオなんかで勉強し
刈り上げは子どもたちは嫌がっていました。いま刈り上げで学
はどうしたらいいのだろうかと本当に思いますけれど。
でも、お金持ちの家に住んでいた人は﹁あんなに汚くはなか
校にいくと相当パカにされるらしいですけれど、﹁でも、僕、
役者だから大丈夫﹂と言っていました。子どもが(笑)。
ったよ﹂と言うし、もっときつい環境で育った入は﹁あんなき
スクリーンの上に多重写しにして見てくれていたんだなという
れいな子はいなかった﹂と言うし、みんな自分が育った環境を
出演者たちにはしばらく石鹸で髪を洗ってもらって:::。
シャンプーではなくて?。
のが、そういう感想を開くとわかつて、逆にうれしいですね、
シャンプーだとキュ l テ ィ ク ル が ピ カ ピ カ に な っ ち ゃ っ
て:::(笑)。これは大事なことなんですよ。当時のドキュメ
そこまで真剣に見ててくれたんだということで。
子役の淳之介君たちの清々しい表情が撮れていますよね。そ
ンタリーを見るとわかるんですが、髪の毛の艶が全然違、つんで
は当時いません。だから、あえて:::、本当に洗ったかどうか
野城そうだと思います。
山霊予
す。キュ l テ ィ ク ル が 艶 々 し て 天 伎 の 輸 が で き て い る よ う な 入
崎城
い子であるか。有名、無名を問わずに何回もオーディションを
山崎僕らがやったことというのは、いかにその役にふさわし
仕掛けを考えられたのですか。
ったり出して着たりして、時代の流れの上をずっと、漂ってきで
う、ちょっとドキドキする逸品。実際に洗濯を繰り返し、しま
たものじゃない。超レア物で、あれが破れるともう終わりとい
の着ていた変な茶色いヨレヨレの服は古着なんですよ。つくっ
番、ニ医者替えるのが二番:::、という感じですが、淳之介
繰り返して、それも、きみはきょう一平で、きみは淳之介で、
あの風情になっている服なので、あれと間じものはつくりょう
れは子どもたちがもっている力なのか、それを撮るために何か
きみは三郎ねみたいなことで役を入れ替えながらやっていった
っちゃう。衣装合わせのときに見つけたときはちょっと感動し
ました。これこそ淳之介という、本当に駄目な感じの服があっ
がないんですね。だから、あれがなくなったら大変なことにな
たので。貴重な一着ですね。
んです。どの子が何をやればいいかを決めていったのが撲らの
いうのは彼ら自身がもっているもので、それは彼らの力だと思
仕事です。でも、キャラクター自体の糠きであるとか雰囲気と
いますね。
だから、かなり生き生きゃれたのではないかなと思っています。
るんだよ﹂という状況をどうやってつくっていくかということ。
んとした役者で、怒られる対象でもない。かといって責任はあ
れないという環境づくりには気をつけました。﹁きみらはちゃ
へんを走り田っていたり、フラフiプ を や っ て い て も 全 然 怒 ら
いので、ぬるい雰囲気、本番さえきちっとやれば、あとはその
のときはどうしても緊張が顔に出ちゃう。そういう映画ではな
んです。大人以上に萎縮しちゃって、ここ一番みたいな雰囲気
な映画ですから、どこかには影響していると思います。僕とし
山 崎 ﹃ 東 京 物 語 ﹄ も ﹃ ニ ュ i ・シネマ・パラダイス﹄も好き
くられるときに、意識されておられたのでしょうか。
の中が描かれていますが、ああいつた映画は、今回の映画をつ
ても大事な映画で、しかも昔のシチリアの濃密なコミュニティ
タリア映画の了一ュ l ・シネマ・パラダイス﹄も舞台装置がと
とか、なにか結びつくような感じがしたんです。もう一つ、イ
きて、それが今度の映画でも銀座の和光のあたりを再現したり
野 城 小 津 監 督 の ﹃ 東 京 物 語 ﹄ は わ り と 建 築 的 な シi ンが山山て
未来へのメッセージ
野城淳之介の、盗作されても﹁僕、うれしい﹂と。舞台装置
ては、コメディをつくって、最後にちょっと泣けるといいなと
すごく気をつけたのは、子どもって萎縮してしまうとだめな
か ら い っ て も ほ ろ っ と く る シi ンですし、いい表情ですよね。
思っていたので、当時のコメディというか、特に子どもたちが
おかしなことをやっているというのが好きなので、小津監督の
山崎かわいいですからね。あれに騎されちゃいけないですよ
(
笑
)
。
﹃お平ょう﹄を見ましたね。
山 崎 特 に 淳 之 介 は 、 夏 の シi ンでランニングシャツになりま
れが宅関先生が家に帰ってくるところに影響しているんじゃな
が 全 部 幻 だ っ た 、 幽 霊 だ っ た と い う シl ンがあるんです。﹁そ
ていて、家に帰ってきた、よかったなと思っていたのに、それ
野城何人かのキャラクターは一貫して一張羅のような感じも
すが、それ以外は最初から最後まで一番ですね。映画用語で、
溝口健二の吋雨月物語﹄のなかに、家に帰ると奥さんが待っ
衣装の一番、二番という一宮い方をするんです。ずっと着続けが
いですか﹂と一言われて、あっ、もしかしたら影響しているかも
し れ な い な と 。 あ そ こ は 原 作 に あ る シl ン な の で 、 た ぶ ん 西 岸
さんが﹃雨月物一語﹄から影響を受けて、それをまた僕が間接的
に影響を受けて、でも、僕は﹃雨月物語﹄を見ているので、そ
こからまた直接的にも影響を受けているのかもしれません。
ラストシ i ン、里帰りする六
子を上野駅に送り、完成した
東京タワ!と夕日を見て鈴木
の一一一人が一言葉を交わす。
オiト
息子一平は﹁・::・明白だって、
明後目だって、五 O年先だっ
て、ずーっと夕日はきれいだ
と
。
かしがるのではなくて、﹁今後どうしていけばいいのか﹂を最
終的には考えてもらう映画にしたかったのです。何もなかった
けれど豊かだった│ーその﹁豊かさ﹂というのは、﹁未来﹂と
いう言い方をしてもいいと思うんです。
いまだって、脳天気に考えれば未来はまだまだ聞ける、これ
からどんどん良くなっていくという可能性もないわけではない
ので:::。みんなが向時にそういうことを思うということがエ
L
ているような話)の集合体になっているので、いままでの映画
ネルギーになるような気がするので、そういうことを映画の中
よ
から受けた影響がものすごく大きい映画になっていると思いま
には込めたつもりではあります。
特に、話自体はベタな話(日日本映画で何百聞も繰り返され
す。逆に、なにか既視感みたいなものが映画自体を安心して感
野 城 ラ ス ト の 、 鈴 木 オiト の 三 人 が ﹁ 五O年 後 も 夕 日 が き れ
ちょっと説教くさい台詞ですけれど(笑)。でも、最後
いだったらいいね﹂と言うシl ンがすごく自に残っているんで
ものすごく強い骨太なストーリ!ということですから、僕らと
山崎
だ か ら ち ょ っ と テl マっぽいことを言ってもいいかと思って。
す
。
のをつくろうとしたので、ベタということを今回はあえて堂々
こんなことを開きたいということがたくさんあると思い
ここまで私の興味でお話を伺ってきましたが、 き っ と 皆
ディスカッション
と い う よ う な 裏 テi マをあの台詞は言っているんです。
ま だ こ の 先 五O年もきれいでいなければいけないのではないか、
だ﹂と言って違和感がないぐらいにはきれいだ、ということは、
す。いい話ですね(笑)。五O 年 後 の 夕 日 が 、 彼 ら が ﹁ き れ い
も・::Lと言っている夕日こそが、実は五O年 後 の 夕 日 な ん で
た ら 出 て き た 夕 日 な ん で す 。 つ ま り 、 彼 ら が ﹁ 五O年 後 の タB
あの夕日は実際に撮影した夕日です。本当にその場所に行っ
しちゃうんだけど、まあ子どもがき悶うことだからという:::。
子どもに言わせるという手管がありまして、大人が言、っと反発
まとは違う豊かさが描かれている﹂という受け取り方をしてい
ます。それは山崎さんたちがこの映画をつくろうとしたときの
意図と一致しているのか、ほかにもいろいろ込められたメッセ
ージがあるのか、そこのところをお開きしたいのですが。
の青春時代の映画だと僕は思っているんです。若いころはお金
山 崎 ﹃ ALWAYS三 丁 目 の 夕 日 ﹄ は 、 戦 後 の 日 本 と い う 国
もないし、地位もない。だけど未来がある。﹁これからいろん
なことができるぜ!﹂という感じ。
戦争でコテンパンになってぐったりしたところから、﹁さあ、
さん
野
これからは惑いことなんか何もないんだ。良くなる一方なん
だ﹂と純粋に信じられた時代の力を映画にすることによって、
僕らも含めていまちょっと元気がなくなってきているので、懐
城
野城映画を見た多くの人たちが、﹁何もなかった時代の、
とやろうと思ってやりました。
しては骨太感、エパ i グ リ ー ン な 感 じ と い う か 、 変 わ ら な い も
ベタな話ということは、つまり生き残ってきたストーリー、
動できるものにしているのではないかと思うんですが。
し
、
ます。ぜひご自由に質問していただきたいと忠います。
しボ l ッとしていたような気がする(笑)。もう少し人間が考
空間については、あの町がすごく小さく閉じた感じがするん
えて立ち止まっているとか、即断しないとか::・。
言語!?服部容生(千葉大名誉教授)あの町の通りが
ですね。島があそこにあって、外の町というふうに:::。愛宕
曲がってつくられたセットの秘密
曲がっています。いろんな意図があってそうし
議濃祭 WY
山の下のあたりのイメージだとおっしゃったんですが、東京の
襲撃い¥抗(之、議扮
銀ぶ附九階樹勢たのだと思うんですが、その秘密を教えてほし
ではないことです。どうしても役者さんのスケジュールとか、
もう一つオープンセットと明らかに違うのは、光が平行光線
成しているので、そこまでの距離感というのがあります。
エクステンションという手法で、ブルi パックで撮ってC G合
うにはスタジオの壁があるわけで、その先の風景は、セット・
いですが、もちろんセットで撮影していますし、セットの向こ
山崎当時を知っている方にそういわれると、ぐうの音も出な
感覚と違うかなと思ったんです。
ありました。そのへんがリアリズムという意味でちょっと私の
町はもっと広く連続的だという感じが僕のイメージのなかには
夕日間川三了Bのメインストリ
ート。手前右に茶川市間応、そ
の向いが鈴木オ iトだ。東洋
一といわれる東宝スタジオ第
九ステージに町放みをそっく
り制組んで被影。背景はC G合
いのです。曲げると閉鎖感のようなものが出る
よ僚安里(美術監督)僕は昭和三七年の東京
でしょう?そういうことを意図されたのでしょうか。
ゑ畿麟欝 w
F
V
畿輔調機騒議欝・青山の生まれですが、実捺に僕が住んでいた
ぶ議鐘襲警ろは、青山もまだ空き地だらけで、防空壕の跡
繍鱒畿鱗議毅響町が結構曲がっていたんです。僕の子どものこ
などもあり、適当に道ができてそこに家が建っていったという
ような感じでした。たぶん僕の家のまわりの感じが反映してい
ると忠、つんです。区画整理されていない様子が出て昭和の感じ
成された。
けて、それを全部大きなトレーシングペーパーみたいなもので
現するためには、天井に細かいライトをものすごくたくさんつ
季節変えをしなければいけないという制約があって、室内で撮
がするかなと思ってつくったんですが、セット上で真っ症ぐに
実際にセットを考えるときに、最初に3DCGで一戸一一戸建
影せざるを得ない。そうすると、太陽の平行光線を様似的に再
物をつくって、コンピュータ上でスタジオの中を構成して記置
拡散させて、平行光線ではないけれど点光源ではないという光
つくってしまうと単調になり、閥的にもちょっと曲げておかな
を決めていって、その状態で一閤監督にチェックしてもらって、
で撒影するわけです。
いといい感じにならないということもあります。
町の構成を決めています。
上 傑 そ う で す 。 テ ク ス チ ャ lを描いたりとか、塗り給してい
かありませんよという印象が生じた原因だと思います。わざと
ね。それがたぶん狭い感じ・::・これはセットです、ここまでし
撮影されたものだということは潜在的には感じると思うんです
だから、たと、ぇ空を合成してあったとしても、これは室内で
きます。
あの舞台を、烏のような一つの閉じたコミュニティにあえでし
C Gの下絵の上に今度は人が子を加えるのですか。
服部﹁時間と空間﹂というと難しい言い方になってしまいま
たということではないです。
野城
すが、あの時代にしては時間の流れ方が速いような気がするん
ほかにもC Gを使って昭和を再現しようとした映画は、﹃ス
ですね。映画だからしかたがないのかな、少しせわしないとい
う感じを受けました。私はちょうど学生時代でしたが、もう少
nHu
ι
q
はまずないはずです。もちろん当時掻影された映画は別ですが。
比 較 し て い た だ く と す ご く 進 化 し て い る と 思 い ま す 。 ﹃A L W
AYS一二丁目の夕日﹄以上に広い位界を写し込んだ昭和の映画
パイ・ゾルゲ﹄とか:::いろいろありますが、そういうものと
ね
。
服部いまの東京はそういう町になってしまっているんですよ
重なっていって、すごく退屈になってしまうんです。
いろんなシi ン を 撮 っ て も 、 画 の 印 象 が み な 同 じ に な っ て し ま
う。同じ場所で撮っているという感覚が潜在的にどんどん積み
そこはかなりうまくいったと思いますね。
そ う だ つ た の だ と 思 い ま す 。 昭 和 三0年 代 に 流 れ て い た ゆ っ た
時を知っている方に﹁もう少しゆっくりだった﹂といわれれば、
あるアングルから見ると見えるけれど、ちょっと動くと見えな
間ととらえていて、曲がっているために、その先にあるものが
にしなければいけないのです。それはセットの中のねじれの空
そうですね。僕らは画変わり感ということをすごく大事
り と し た 時 間 を テl マにしようという映画もきっとあると忠、つ
くなったりする。あるいは、つくらないセットというのがあっ
時間の問題でいうと、これも勝ち目がないですね(笑)。当
んです。小津監督の映画のなかにあらわれる、﹁いい感じの時
て、廊下の先はつくってないんだけれど、何か部屋があるよう
出 す の は 、 か ら っ 風 で ゴ ミ が 通 り の 向 こ う 側 に ダl ッと吹き飛
服部ありがとうございます。僕が当時の東京でいちばん思い
しをいただけると:・:。
部分は意識しなかった、テーマではなかったということでお許
は感動に集約していくという映画でしたので、あえてそういう
っと喜劇、ドタパタでいろんなことが起こって、それが最後に
る作品もあると忠、つんですが、僕らが呂指したのは、もうちょ
平野智子(東大生産技術研究所)一軒一軒の£に一J
事なことなんです。
にならない﹂というその﹁いい感じ
なるのです。土俵さんが言った﹁曲げておかないと、いい感じ
山時サービスでもあるし、また映画のレベルを上げることに
撮部一一穂のサービス精神ですね。
をすごく多用するんです。
に感じさせる。そのために、あえてねじれの構図みたいなもの
間がたつています
ばされていっちゃうのを、遠いなと感じたこと。それと連想し
てつくったものなのか気になります。一軒一軒繍欝醸欝際麟噛
舞台装置の家を見て、どのぐらいの手聞をかけ畿議二役、ヘご議
山崎室内セットでも屋外セットでもそうですが、ねじれの構
んですね。
上燥さんにお開きしたのは、それが影響しているのかと思った
う場所なのかもしれないんだけど(笑)。曲がった道のことを
突然出てくるという感じがする。愛宕はひょっとしたらそうい
んと柱を組んで、二階にも上がれるようにつくっています。そ
建築と同じように、建築屋さんに構造計算してもらって、ちゃ
上線鈴木オ!トと茶川高応は、相当な費用をかけて、実際の
ですから。
壊してしまうのはすごくもったいないなという感じがしたもの
普通の建物を建てるようにつくったのですか?語録襲警
V
図というのは、映画セットをデザインするときの鉄則なんです。
のほかの建物はいわゆるセットです。
側、議〓議機
⋮
というのが、いちばん大
てみるのだけれど、子どもたちが三丁目の町を出ていって、都
たとえばあの道がすとんと奥までストレートな道だとすると、
L
電 の 通 り へ ず っ と 走 っ て い く シl ン が あ る で し ょ う 。 大 通 り へ
L
ということ白体がエンターテイメントにな
山
輔
一色戦務イザ一初田亨(工学院大学教授)九州の豊後高田に
スタッフみんな昭和三0年代が大好きに
ど一か月。撮影後、壊すだけで一週間かかりました。
i ムじゃないし、予算をかけたわりには地味なご近所物語だし、
いというか、悔しいというか、昭和ブl ムはそんなにすごいブ
プロデューサーが言っていたのを軽く考えていた自分が情けな
がつくれたのではないかと自食しているところがあるんです。
忠って。昭和ブl ムがあるんだとしたら、そのコアに近いもの
す、うわぁ、 弘兼憲史さんがオl ルウエイズと言っている、と
籍選一一¥了細川﹁昭和の町﹂というのが一 O年ぐらい前につく
たぶん映画としては全然だめな成績を残して、僕の中では悪い
東宝のいちばん大きい h 9ステージに、建て込むのにちょう
られ始めたのだなあと、感慨深かったのですが、
ふだんは V シネマとかヤクザ物などに関わることもあるスタ
歴史になるのではないかと思っていたのですから。
機許総議機議輔られ、﹁昭和﹂が親しみ、懐かしきをもって見
J%r
﹁昭和﹂というものについて、映闘を撮る前と後で印象は変わ
られたでしょうか。
﹁ナンジャタウン﹂や新横浜の﹁ラーメン博物館﹂など、昭和
グリコ﹂がパカ売れしたり、豊後高田の﹁昭和の町﹂、池袋の
昭和時代のおまけのおもちゃが入っている﹁タイムスリップ
になるのか、自分の山中に明確な答えはもっていなかったんです。
最初のうちは、昭和がいったいどういうエンターテインメント
た﹂と。いろんなスタッフが親と一緒に映画を見にいって、﹁本
いて、﹁いやあ、おまえがこんな映画をつくるとは思わなかっ
辞だったということがわかるような(笑)、激しい感動をして
いままで﹁よかったよ﹂と言ってくれていたのはやっぱりお世
僕自身もそれまでS F映画だったので、今回は親の反応が、
(笑てそれはすごくいいなと思って:::。
ッフの人たちが、﹁ようやく判明に見せられる映画がつくれそう
ブ!ムがいろんなところで散発的に起こっていますが、プロデ
当におまえのやっている仕事がよくわかった。おまえは立派な
山崎僕は、ヱグゼクティブプロデューサ!のあまりの熱意に
ューサー日く、﹁散発的に起こっているんだけど、俺にはコア
仕事をしている﹂と言われたという話を開いて、ああ、なんて
だへ﹁親孝行だから、頑張るんだ﹂みたいなことを言っていて
がみえない﹂と。昭和ブi ムがもしこの世にあるとしたら、﹁俺
いいことが起きたのだろう、といまは思っていますけれど。
突き動かされて、しぶしぶこの企画に乗ったという感じなので、
はそのコアになるものをつくろうと思うんだよ﹂と一言っていた
発があったんですよ。﹁なんでわざわざ映画で昭和をやらなけ
当初は、実は、僕以上に、 C Gスタッフなどにものすごい反
﹃
ALWAYSコ一丁目の夕日﹄が出来上ってみると、﹁オー
ればいけないの。そんな地味な建物とかつくらなければいけな
んです。
ルウエイズ﹂という言葉が、昭和ブl ムの代名詞みたいにいろ
﹁いたずらにハリウッド映画を真似するのではなく、撮影でき
ないのだけれど、みんながすごく見たいと思っているものをC
いの﹂と。だけど、出来上がってみると、評判がいいわけです。
で出したり、漫岡吋黄昏流星群﹄を読んでいたら、突然昭和つ
G で再現するということは、日本映画の C Gの使い方のまさに
いろなところで使われ、東海林さだおさんが昭和のことを書い
ぼい風情の町に紛れ込んだときに、﹁これじゃオi ルウエイズ
これこそお手本だ﹂みたいな記事が載ったりするので、みんな
たエッセイ本を﹃ショ i ジ君の ALWAYS﹄というタイトル
の世界だな﹂と一言っているのをみて、僕はすごく感激したんで
) 0 ﹁昭和大好き﹂
みたいな感じになっている
すっかりいい気になってしまって、 ﹁俺は最初から昭和がやり
ないと。僕は監督の責任というのはそこまでだなと思っていて、
て、みんなに﹁なんてことやっちゃったんだ﹂とはまず言われ
興行成績はどうなるかわからないけれど、この映画をつくっ
映画だったね﹂と言われるのが監督の仕事だと思うので、まあ
のが微笑ましくありました。
土 居 浩 ( も の つ く り 大 学 ) 僕 は ﹃ALWAY
S﹄ と い う の を 誤 解 し て い て 、 生 活 の 膝 史 を 描
クリアしたかなと。そこでやっとホッとしたという次第です。
たかった﹂と(笑
いたのだと思っていたんですが、きょうのお話
昭和三0年代のトiン・アンド・マナー
だわっておられるなという印象が強くなって、お聞かせいただ
開設鳥明夫(側エクスナレッジ)現代の設定の弘愚麟欝学
J
総縁切れ二も
映像だけで見せるというタイミングなんですが、その目的は、
い ろ ん な 資 料 を 調 べ て 、 そ こ に 流 れ て い た 空 気 と か ム lド は た
く大きな遠いではありますが、つくり方のアプローチとしては、
山崎実際、現実に存在していた、していないというのはすご
方、物語として、そこに何か本質的な違いがあるのでしょうか。
があって、それに近づけていく方向なのですね。映画のつくり
〆蕗畿臨砲際&綴
1LLV
き た い の で す が 、 や っ ぱ りC 臼を出さなければいけないとか、
シュというのをやります。とりあえず撮影できたフィルムを全
山 崎 撮 影 が 終 了 し 、 編 集 も し た と こ ろ で 、 映 画 は オl ルラッ
と忠われたのはどこだったのでしょうか。
そのいろいろななかで、制作途中で、﹁よし、これでいける﹂
S Fというと、現実からどんどん離れていく方鞠醐珊灘欝鴻タ
向 に 映 画 は 進 ん で い く の で す が 、 ﹃ALWAY 繍
ヤ
S一ニ了目の夕日﹄は、昭和三一0年代という事実議議議一%句、
いい映画だったか惑い映画だったかは、トータルすると﹁いい
を伺っていて、﹁記憶﹂というキーワードにこ
ストーリーの背景として重要
な役都の東京タワ lo 建設時
の資料を一光に、時間を追って
工事が進む様子を忠実にC G
で再現している。実は作業員
の姿まで捕かれているのだと
だいたいの流れがこれでいいのかということのチェックと、ラ
ぶんこんな感じだったのではないかということを想像しながら
い
、
っ
。
イティングとか、衣装とか、各パ lトでどえらいミスをしてい
つくるという意味では、非常にS F映 画 に 近 い ア プ ロ ー チ で し
部つなげて、 C G抜 き の 、 音 楽 も 入 っ て い な い 状 態 で 、 台 詞 と
ないかどうかを確認するためです。その段階はつまらない映画
感覚があったみたいなので、こっちは現実だから、こっちは現
た
。 C Gチi ムに開いても、 S Fの 何 か を つ く っ て い る と い う
実じゃないからという違いは、あまり製作途中はなかったです。
ですよね。未完成な:::。
そ の オl ル ラ ッ シ ュ で 女 子 た ち が 泣 き 出 し て 、 そ の あ と 、
みんな涙日で話していたので、ああ、これはいけるな、記憶を
り上がっている(笑)。それをまた生き生きとうれしそうに、
ん だ け ど 、 あ の と お り な ん だ よ ﹂ み た い な こ と で ウ ワl ッと操
想そっちのけで、﹁いや、うちもテレビがいちばん最初に来た
頑張っていたその上の年代の人たち。はたしてその人たちが、
ぱりメインターゲットは団塊の世代、そしてあの時代にすごく
ちをがっかりさせたらまったく意味がない映画なんです。やっ
だけれど、知っている人がたくさんいるということ。その人た
ただ、一つの遠いは、現実にあったことを僕らは知らないん
物語の中でそんなに突飛なことが起きないというだけで:
﹁
オi ル ラ ッ シ ュ 、 よ か っ た ね ﹂ み た い な 話 で 盛 り 上 が っ て い
再生する装置になっているなと。確実に第一のターゲットに関
これを享受してくれるのかどうかは、すごく怖かったですね。
るところで、団塊の世代が多い製作委員会の人たちが映画の感
しては大丈夫だと。
なるんですが、昭和一二0年代は、僕がいくら﹁こうなのだ﹂と
S Fは、﹁こうなのだ﹂と昔、えば、﹁そうなのか﹂ということに
﹃
ALWAYS三丁目の夕日﹄はそういうところを出す物語の
というのは、すごいかわいいなと思いましたね。残念ながら
通に撮られた風景のなかに同じような形をした家が並んでいる
設定ではなかったのですけれど。
一言っても、﹁いや、それは違う﹂と一言われれば勝ち告はないで
すから。どれだけ実際に知っている人たちの記憶に近づけられ
そう思って、﹃ALWAYS三 丁 目 の 夕 日 ﹄ で は あ え て い ろ
っと素敵だなと思う感覚だと忠、つんですが、そこまでやれれば
ある種キッチュな部分。いま見ると、それがかわいいな、ちょ
志岐さんがおっしゃっていることは、ペラペラなというか、
いろ汚したわけですが、エイジングに関しては賛否両論でした。
さらにいいのではないかなと思います。それは僕は嫌いではな
るかということです。そのまんまをつくるんではなくて。
九対一ぐらいでみんな喜んではくれていますけれど、でもやっ
ベラベラの材料にペンキを塗っているという感覚でしたから、
れはすごく高度なことなんですね。だから、どうしてもわかり
和三0年 代 の ム ー ド を 伝 え ら れ る の か も し れ な い の で す が 、 そ
混在させなければいけない。それができれば、本当の意味で昭
新しく建てたものもあって、古いものも新しいものもいろいろ
当時を正確に描写しようとしたら、焼け残ったものもあれば、
て出来上がっているかどうかを大切にするんです。
の映闘を一つの固まりとしてみたときに、ある哲学にのっとっ
かということをよく言います。シナリオ、美術、衣装:::、そ
映 画 で は ﹁ ト ! ン ・ ア ン ド ・ マ ナl﹂が通っているかいない
い。それはそれでありだなと思います。
お仕事をされていますね。そういった経験から、きょうの話は
野 城 志 岐 さ ん は 昭 和 三0年代の公団住宅を移築して再生する
ぱりあれがだめだという人もいますね。
いまはもう見かけなくなった
車株台での食事風景。明間柄臨時悼
の下、家族会員が丸い食卓を
翻む。
茶川に淳之介を冊押し付けたヒ
ロミだが、茶川に魅かれるよ
うになり、ライスカレーをつ
くって一緒に食べる。味も具
も当時のものを調べてつくっ
たとい、っ。
再現するときには、本当はそのとおりにやらなければいけない
やすい昭和三0年代の世界観みたいなものにト!ン・アンド・
いかがですか。
志岐祐一(建築家)僕はどちらかというと九
対一の一のほうかなと思って:::。でも、実際
に仕事をすると、やっぱり九のほうにつくって
んだなと思いはしつつ、それはできない。山崎さんは﹁エイジ
マナーを統一してしまう。
しま、つんですね。あの当時は、建築材料が悪く、
ング魔﹂と伺ったからもう結論はみえているんですが(笑)。
当時の家って家の形、子どもの描く家の絵と同じ形をしている。
ところの物語なんですが、あれはかわいいなと思いましたね。
当時の建売住宅でしょうか、同じような住宅が建ち並んでいる
山崎小津監督の﹃お竿ょう﹄という映画が僕はすごく好きで、
に出会ったことってなかったですか。
にわりあい空間があるセットを紐まれている。室内を撮るとき
志岐もう一点、さっき光の話をされましたが、建物のまわり
すけれど。
ている、統一されている世界だったのではないかなと思うんで
沌としていました。昭和三0年代はそれよりもうちょっと整っ
質がミックスされていましたね。サッシなんかも出始めて、淳
その世界観というのはだいぶ覚えているんですが、やっぱり材
昭和四0年代のころになると、僕も物心がついているので、
いまはおしゃれになったというのか、みんな箱の形になってい
ちょっと貧相だけど何かエネルギーがあるような、そんな感覚
ますが。あれも昭和三一一一年ごろの映画ですから、あのころに普
線﹂という言い方をしますが、レンプラントの絵みたいな、こ
光が当たっているのではなくて、映画では﹁レンプラント光
こうです﹂ということは意識していないです。全体にベタッと
山 崎 昼 間 の 太 陽 の 光 に 関 し て は 、 特 に ﹁ 昭 和 三0年代だから
ったのかなと思うのですが、いかがでしょうか。
年代っぽい住宅の感じを再現するためにこだわったところがあ
わ り あ い 窓 が あ っ て 、 外 光 が 入 っ て き た と き の 光 の 感 じ 、 三0
にはいろいろライトを入れるのでしょうけれども、小さい家で
ょうのお話を伺ってものすごく納得しました。
そういう点からすると、少し違和感を感じました。しかし、き
ヵ。それが僕の子どものときの町が変わっていく風景なので、
ので真っ黒に塗られていて、印象としては、常に新しくピカピ
進んでいるシステムかもしれません。コールタールのようなも
カッと開けてそこに入れる。カラスも撃退するから、いまより
す。道路に黒い木でつくったゴミ箱が置いであって、ふたをパ
家の界隈のことですごく印象に残っているのはゴミ箱なんで
いときには明るいところにいたりとか。逆にすごく意識したの
するんです。辛いことがあったら暗いほうにいったり、うれし
のなかをキャラクターが動くことによって、心理描写をしたり
っち側に光溜りがあって、でも奥には暗いところがあって、そ
ントは万年筆というのがふつうで、僕が中学校に入ったのは昭
が、これがいちばんの小道具でした。当時、中学入学のプレゼ
ってきました。映画をごらんになった方はわかると思うのです
実は、監督にサインをしていただこうと思って、万年筆をも
い﹂と一一一両われるほどのことではないですよね。
茶川が淳之介の実の父親にご﹂んな低級品をうちの子はもたな
から選んだのです。やっぱり中級品ぐらいの感じですか。じゃ、
いやっという感じで、装飾部が当時のものとして探してきた中
な い し 、 向 い の 鈴 木 オl ト か ら 借 り た お 金 で 買 え る い ち ば ん い
山崎クリスマスプレゼントなのであまり高級なものでもいけ
してしまい、探し出してきょう持ってきたのです。
ントされました。映画のなかでこれを見て僕はものすごく感激
和三七年でしたが、映画に出てくるのと全く同じものをプレゼ
淳之介を、金満家の実の父親
が連れていってしまう。悲嘆
にくれる茶川の手に遺された
て買ってあげた万年筆。
深尾さんは、全く向じ万年筆
をゆ学入学のお祝いにプレゼ
ントされたという。まだ大事
にとっておられて、シンポジ
ウム会場で披露された。
のは、借金をしてまで淳之介
にクリスマスプレゼントとし
は夜の光です。
当時はまだ、蛍光灯をみるとみんながびっくりして﹁蛍光灯
は明るいね﹂という時代ですから、裸電球しかない家だと、光
溜りは電球の下だけにできていて、まわりは暗く落ちている。
はすごくいいなと思って、ちょっと意識しました。たぶんその
その光の中に家族がみんな入ってご飯を食べている。それは僕
暗 い 部 分 と い う の が 三0年 代 じ ゃ な い か な 。 逆 に い ま そ れ を や
ろうとすると、結構賀沢な話になっちゃう。部屋って万遍なく
照らされていて。
うのはいい設定だと思いますね。
深尾言われるほどではないです。茶川が一生懸命買ったとい
誌齢三子一深尾精一(首都大学東京教授)映画は家内と
φ
山崎よかった。すごい話だな:
jj
九 二一一欝大変楽しませていただきました。ただ、違和感
三0年 代 を 思 い 起 こ す デ ィ テ ィiル
、
野城最後に小雪さんがビルの屋上で予に目にみえない指輪を
JJ
ぺ
吋
二
⋮
﹁ 一九%引汁 γ
2
v匂 い も 感 じ ま し た ( 笑 ) 。 荻 窪 で 生 ま れ て 育 っ て 、
保4
かざすシi ンは実に昭和っぽくて、あれはC G合成なのですか。
それともどこかで実写されたのですか。
あそこは実写でいこうということで、
いい風情の屋上を
J J dゾ ¥ 都 電 の 終 点 が 荻 窪 で し た か ら 、 都 電 も 非 常 に 懐
かしい感じをもったのですが、僕のイメージは、やっぱりもう
少し新しいというか、明るい感じなんですね。
山
崎
あればいいかなというのを確かめようと思って、砧にある東宝
屋上で撮るってどういう感じかな、どのぐらいの屋上の広さが
・。なかなか理想的な屋上がなかったんですよ。で、ある日、
探して、制作部がいろんなところを走り由ったんですけれど
忠っていたんですが、﹁きょうから僕の家ではお父さんが早く
を食べたりするほうが気兼ねなくていいと思っているのかなと
ているシi ンがすごくうらやましかった﹂と。僕は個人でご飯
たのですが、 そのときに子どもたちは、﹁みんなでご飯を食べ
﹁
三0年代みたいな暮らし方をなんとか取り一民すにはどうし
帰ってこれそうなときは待つようにします﹂とか一一言うわけですの
こで撮影しようということになって、見上げのシl ンは、小雪
たらいいと思いますか﹂という授業内容だったんですが、その
の古い撮影所の屋上に上がったんですね。そうしたら、﹁ある
さんと直接かかわる看板の脚だけ東宝の屋上に木の棒を二本立
ときハッとさせられたのが、﹁挨拶をすればいいと思います﹂
これは捨てたものじゃないなという感じがしましたね。
てて、あとは全部C Gでつくっているんですね。うれしいです
と一言われたんです。一言葉としては簡単なことなんだけれど、挨
じゃん、ここに﹂という話になって:::。見下しのシl ンはこ
ね、それを実写と言っていただけると。
拶をするということは、コミュニケーションが発生するわけで
んだということがわかって、そこから会話が成立したり、いろ
はないですか。戸を掛けることによってあの人はどういう人な
いろなことが始まっていったりする。子どものときからしょっ
高山登(捕。ホラス)昭和一一一0年代は、住宅公
思い出を刻む暮らしを取り戻す
F
ってきて、暮らしも当然のことながら、時代の
イ〆問が住宅の大量供給を始め、自動車の時代がや
ちゅう﹁挨拶をしなさい﹂とは一一一日われたけれど、なんで挨拶を
h臨醐醒
49
猶覇噂大きな転換期でした。ミゼットですが、大和ハ
しなければいけないのか説明してくれた大人は一人もいなかっ
謬欝務総L
ウスが、庭先に建てる子どもの勉強部屋といって二畳ぐらいの
たんですよ。﹁挨拶をすればいいと思います﹂と言った子はス
開
三
三ν
簡単な﹁ミゼットハウス﹂を売り出したのが、ハウスメーカー
ゲェなと思ったんですよ。﹁挨拶﹂という言葉の意味が僕はこ
の年になって初めてわかりました。
のはしりとなったのです。
いまの時代は人間関係が希薄になってしまいました。映画を
ことは言えませんが、いろんな入に話を開くと、実は若い子た
山崎僕自身も近所づき合いは希薄ですから、あまり偉そうな
関してお話をいただけたらと思います。
ケーションは、またすぐ復活するものだと思うんです。あえて
夫があることによって、それを後押ししてあげれば、コミュニ
ョンをすごく求めていて、何かそこにちょっとした仕掛けや工
われがちですが、実は若い子、小さい子たちもコミュニケーシ
だから、 いまコミュニケーションがなくなってしまったと忠
ちが意外とそういうコミュニケーションに飢えているんです。
他人と接触したくないなというふりをしながらもみんなで集ま
製作された立場から、いまの住宅、町づくり、コミュニティに
引きこもって、﹁あまり人とかかわり合いたくない﹂という子
って暮しているということは、やっぱりコミュニケーションと
そういうことを後押しできるような、たとえば集合住宅の中
いうのはいちばんコアな部分だと思うんですね。
が多いのかと思ったら::。
NHKテレビの﹁課外授業・ょうこそ先輩﹂という番組に出
演して、小学生に﹃ALWAYS三了目の夕日﹄のことを話し
うのは、思い出の強さという意味で、ものすごく気持ちの変化
テレビがない世界に突然ある日テレビがやってくるとい
があるといいのかなと思いました。コミュニケーションをした
が大きかったと思うんです。最近いろんなものがあるだけに、
に全員がそろえる場所、自然にそこに集まっちゃうような場所
がっている若い子たち、子どもたちがム自然に集まれる場所があ
・レコーダーが来ても、なかなか箱を開けないで置いておくみ
たいな感じは、僕自身の中にもあります。だから、落差の大き
何 か 買 っ て き で も あ ま り う れ し く な い 。 新 し い ハ iドディスク
い思い出をなんとかしてつくってあげないと、みんな忘れてし
るということは、大事なこと。昔だったら、井戸のまわりにお
ってあげなければいけないのではないか。わざわざ隣りの家に
れど、いまの時代になってくると、あえてそういうものをつく
まいますもんね。それはすごく大事なことだと思います。
気持ちが戻っていける原点、原風景みたいなものをどうやっ
てつくってあげられるか。あのときにあれがあったという目盛
り、刻みがないと、なかなか人は昔の感覚に戻れない。自分の
んです。そういうものをつくっていってあげるというのは本当
りがあった、イベントがあったということですね。それがいま
に大事なことだと思いますね。
記憶のなかで、たぶんテレビが来た瞬間に一瞬で戻れると思う
会場の当財団セミナー釜いっ
ぱいの参加者を迎えて行なわ
れた今悶のミニシンポジウム。
﹃すまいろん﹄では、毎号の
野城みんな普通の人なんだけど、普通の人びとそれぞれに祭
に つ き ま し で は 、 財 閥 ホi ム
特集のコア記事として、こう
した形でミニシンポジウムを
開催しています。今後の予定
てそういうものをつくっていかないといけないのではないかと
ういう空間を用意するということだから。でも、これからあえ
それって賛沢なことですけれどね。各住戸の面積を削ってそ
のではないかという感じがします。﹁ハレ﹂ばかりのほ、つがい
まりうれしくない。落差をつくっていってあげないといけない
も、いまはずっと﹁ハレ﹂だから、﹁ハレ﹂の中にいてもあん
段が﹁ケ﹂だったので、﹁ハレ﹂があったと思うんですね。で
山崎﹁ハレ﹂と﹁ケ﹂という意識があるじゃないですか。普
はあまりにも多すぎて、物を見せられでも平板だと:::。
思います。
いじゃないか、と普通は思いますもんね。
ベlジをご覧下さい。
高山団塊の世代も、ああいう映画をみれば、ああ、そうだ、
野城意図的に﹁ケ
をつくると、怒られそうな気がしますけ
懐かしいな、、っちが最初にテレビを入れたんだと、いろんな形
れど。
(文責
H編集部)
いただくことができました。本当にありがとうございました。
本当に素晴らしい映画をつくられた監督に間近にお話をして
L
で 話 が 躍 り 上 が る 。 そ う い う 小 さ な 良 き 思 い 出 は 、 七O 歳、八
気づきになりました。
境づくりを目指さなくてはいけないと、きょうは私自身、いい
と﹂なんだなと思ったんですね。子どもたちに思い出の多い環
O歳 に な っ て も 、 生 き 甲 斐 、 支 え に な っ て い く 。 要 は ﹁ ふ る さ
らの集合住宅などには大事なのではないか。
ている。さりげなくそういう空間があるということが、これか
てああだこうだいいながら酒を飲んだり、ピアノを弾いたりし
のだと思うのですが、たいがいみんな部屋にいないで、集まっ
楽家とか絵描きが集まっているところなので、より一層そうな
いめいの部屋のほかにサロンみたいなところがありました。音
きらり﹄で、主人公が東京に行って住んでいるアパートは、め
昨 秋 ま で 放 送 さ れ て い たNHKの 朝 の 連 続 テ レ ビ 小 説 ﹃ 純 情
というわけにはいかないので:::。
いってビンポl ン鳴らして、﹁コミュニケーションしましょう﹂
ばちゃんたちが集まって、井戸端会議が行なわれたわけですけ
山
崎
はじめに
映 画 ﹃ALWAYS三了目の夕日﹄は、
エグゼク
でした。これはもうハリウッドのプロダクションデ
一肢をやったことなど数、えるほどしか経験ありません
資料、資料、資料
シ ョ ン デ ザ イ ナi魂が鎌首をもたげました。
かで街を作らなければ:::。不安も反而、プロダク
ットだな﹂。全部セット 1
一から全部私の一段のな
ストサムライとか)を作るようなスタンスに近いと
ザイナi (美 術 数 督 ) が 日 本 を 舞 台 に し た 映 前 ( ラ
昭
和
一
一
一0 年 代 素 人 の 私 に は 、 と に か く 資 料 が 必 要
山崎監叔 UJU﹁なぜ、俺が﹂と思ったらしく、昭和
れもその人個人の記憶でしかなく、やたらにチェッ
ーとして一雇わないか、という話もありましたが、そ
いる人たちがいるので、そういった人をアドバイザ
で す 。 ス タ ッ フ か ら は 、 悲 に 三0 年 代 通 と 呼 ば れ て
一一一三年にタイムスリップするS Fも の と 、 最 初 は 考
クされても仕事にブレーキがかかるので、とても手
ので負けてたまるか﹂。あれ、何か変?
思い、逆に情熱が湧いてきました。﹁外人に日本も
えたようです。
設定もは一︿体的になってきます。映画を作る時に、ま
も入手し熟読しました。またインターネット上に多
出版されている写真集、書籍類を片っ端から何十冊
ま ず 手 始 め に 、 最 近 の 昭 和 ブi ムのおかげで数々
間ですが、自分たちで一から資料収集を始めました。
ず最初にロケハン(ロケーション・ハンティング)
数ある昭和一ニ0 年代に関するサイトや、士口い写真を
脚本が出米上がってくるにつれ、この映闘の舞台
ロケハンの挫折
フで探しに行きます。北九州、松山、間山、荒川区
近い写真資料などが集まり、おおまかな骨子と雰鴎
集 め た サ イ ト 、 市 町 村 の ホl ムペ l ジ な ど か ら 千 枚
といって、脚本に出した現実の場所をメインスタッ
などに、十けい商応衡が現存しているとの情報を元に
ロ写真であったせいか、どうも安気感が摘めない
気は摺めましたが、ほんの数枚以外ほとんどモノク
捜索に行きました。
昭和の向底街として観光地にしている所や、過疎
あまかった。
選 ん だ の が 、 四O歳 の 山 崎 貴 監 督 と 四 二 歳 の 私 で し
と具体的になりつつある領に、阿部氏がスタッフに
し た 映 闘 が 、 漫 画 コ ニ 丁 目 の 夕 日 ﹄ を べ i スにやっ
ま し た 。 氏 の 長 年 の 希 望 だ っ た 昭 和 三0 年 代 に 設 定
終わりました。十年ぐらい前だったら、まだある程
部分がかなり限定され、ロケハンはほとんど徒労に
は兇えなかったりして、搬影アングルを切り取れる
たり、アルミサッシだったり、十日すぎたり、東京に
ましたが、
化していて古い娃物が残っている街など見てまわり
見終わった後どうもしっくりこない。懐かしくない、
りからカラーになった小津の映闘は期待大でしたが、
どんどん卒送りして資料収集。特に昭和三三年あた
いつい名作映画を見入ってしまう誘惑と戦いながら
問中山沢、小津、成瀬、大映映画など片っ端から、つ
(カラl 写 真 の ほ と ん ど は 戦 後 、 米 軍 が 撮 っ た も の
た 。 二 人 と も 映 画 は 二 本 のS F映画の経験しかなく、
度残っていたようですが、壊してしまった物はもう
が)。後述するが、この違和感が後々この映画の美
奇践すぎる(当時の新口聞が奇腿なのはあたりまえだ
ティブプロデューサー阿部秀司氏の企画から始まり
昭和三三年にはこの世にまだ彩も形もなかった昭和
二度と戻らない。この映画の美術担当としてかなり
ただ小津の映画で日本間のセットの極意を学ぴま
術のトi ンの方向性を決めた。
に限られる)。それでは映画。
三0年 代 素 人 に 重 交 を 任 せ よ う と い う の で す 。 阿 部
洛胆しましたが、それ以上に、古い建築や町並みが
院料日目く、﹁やっぱりメインの一二下回商応街はセ
もう残っていないことに哀しみを感じました。
い建物の関に新しい民家が挟まってい
l
r
n
氏 ギ ャ ン ブ ラi。
私はか恰夫術。という仕事を二十数年やってきまし
た が 、 ほ と ん ど がC Mや ミ ュ ト ジ ッ ク ク リ ッ プ な ど
で、抽象的なものや非現実的なものが多く、日本家
です。あの感動をおぼえた佃島の看板建築は外せま
まず膨大に集めた資料の中からピックアップ作業
三丁目町内セットの構想
谷町の近代的なオフィス街のすぐ裏なのでまるで期
せん。月向日仰の鍍金屋、伊勢佐木町の商宿、根岸の居
手していた愛宕山界隈の抗日の写真を予に、ビンゴ!
待していませんでしたが、一歩進むごとに次々と現
酒屋など、美しい建物を選び出しました。最終的に
が、これはちょっと嬉しい誤算でした。虎ノ門や神
細い通り沿いには朽ち
東京タワーにはど近い港区愛宕山周辺に行きました
れる昭和三0年代の残紹
した。 手 前 の 部 屋 の 襖 の 問 か ら 覗 く 隣 の 部 屋 、 そ の
てはいるが看板建築が数軒並ぴ、当時のままであろ
部屋の窓から破く庭の垣根、その奥に覗く憐の家、
荒川区辺りの下町はロケハンの時にさんざん行った
う民家も区幽単位で残っている。また愛宕山に続く
べl ス と な る モ デ ル は 見 つ か っ て お ら ず 、 原 作 の
O軒 以 上 作 ら な け れ ば な ら な い の で す が 、 こ の 作
一
業 は 楽 し い 。 た だ 、 肝 心 の 鈴 木 オlト と 茶 川 商 厄 の
インドアな資料収集に見切りをつけていざ外へ。
ので、東京の中で最も十口氏家残存率の高い月島、佃
摩耗したコンクリートの階段を交っていくと、街の
さらにその家の窓の奥に・・・・・・奥行!
烏へ。写真集とかでよく見る看板建築などの現物を
規模が仰撒できる・・・・・・。
りしてしまった私の中で、バラバラでまとまりの無
なんだ、最初にここに来れば良かったんだ。遠回
はないし、このこ粁はメインの芝居場であって、脚
したが、やはり漫画でありリアリティのある建物で
吋三丁目の夕日どをもちろん参考にしようと思いま
トといえども意外に
でみました。ミゼッ
ミゼットをぶち込ん
階家を作って、 3 D
G上にまず簡単に二
C Gを使うので、 C
を設計する時に3 D
るか?私はセット
どういった構造にな
工場を開業するには、
改造して自動車修理
は、普通の二階家を
ま ず 、 鈴 木 オlト
思いました。
リジナルで作ろうと
ないので、全くのオ
満たさなければなら
本上の要求をすべて
かったイメージが急速に噛み合いだした。事前に入
γ
マニアックな古建築マニアになっているのに自分で
見 て 感 動 。 昭 和 三0年 代 素 人 が い つ の 間 に か か な り
ている。是非保護して欲しい。
気がつき苦笑。このあたりは美しい建物がまだ残っ
ダメもとで一一一丁目のおおよその設定となっている
図 -3 飲み屋やまふじ庖内セットプラン。女優が小雪さんに決まって悩む。
上品に見え過ぎないように、花柄の座布団とか、少しあばずれ感を出
すための小道具を多く取り入れる。
しました。必然的に居間の位置が決まり、その奥の
テカイ。 周 り に 作 業 ス ペ ー ス を 取 る と 、 一 階 を 占 拠
(美しい仰向の看板建築)の上部、電柱の先端など
ジ オ の 高 さ が 足 り ず 、 鈴 木 オlト の 屋 根 や 、 八 百 屋
で補完されているので判らないと思いますが、スタ
ら、もういっぱいいっぱい。川町一附では最終的にC G
にあるスタジオの援が見えてしまうと、もの凄いカ
数でなるべく抜けを無くし(セットの聞からうしろ
に上がって東京タワーの位置を確かめ、最小限の一戸
ッ ト 数 に 背 景 をC Gで 合 成 し な く て は な ら な く な
あとは二階にふハちゃんの部屋と、一平の部庭、物干
部屋、廊下、台所、便所を小津テクニ yクで配置し、
方で、何故通りの両側が抜けていないのかと恩われ
る)、なるべく効率的に並べています。映画を見た
ここで役に立ったのが、 3 Dでモデリングされた
セットの二 m後 ろ は ス タ ジ オ の 壁 で す 。 た だ し 、 絵
た方がいらっしゃいましたが、そういった事情です。
は、すべてC Gで補完しています。
建物たちでした。バーチャルなスタジオに建築物を
あまかった。
建て込み塀を立て、木を鍛え、その場を歩き、二階
し場を階段でつなげれば出来上がり。
柱の配援に見落としがあり、作業場の面積を確保
して部品取りに使っていました。やるな!お互い。
でミゼットのや古をゲットし、務踏なくばらばらに
そ の こ ろ 龍 部 さ ん も 、 ヤ フi オ ー ク シ ョ ン で 格 安
やら、タイから送ってもらいました。
もらい、ジャッキやら、タイヤメーカーの砧郡看板
ホ 1ロー
コーディネーターがいるので、日十速連絡して探して
いるではないか。幸い現地に仲の良いロケーション
イではまだミゼットべ i スのトゥクトゥクが走って
考えました。ミゼット、ミゼット:::。あっ、タ
ツなどが入手が難しいらしく、困っていました。
今 回 は 特 に 鈴 木 オlト で 使 う 昔 の 道 呉 類 や 取 の パ ー
五倍は凄い物を集めてくるので、放っておきますが、
資料をもとに打ち合わせをします。私の指示の一
本目の付き合いです。私のセットプランや、膨大な
す。今聞も装飾は絶大に信頼している龍田さん、一一一
いて、美術監督が、それぞれに指示を出し統括しま
大道具)と装飾部(小道具、持ち道呉)に分かれて
映画の美術セクションの中は、美術部(建物ほか
装飾、小道具の発注
営への確認作業にも使、えました。
またこのバーチャルなプランを動画で出力して民
的には良かったと思います。
するために、二階の半分を一本の角柱で支えていま
した。素人発覚。ただし最終的には修正して、織影
時には、二十人近くニ階に上がっています。
駄菓子屋の茶川商底は、唯一私の記憶のみで考え
ました。子どもの頃よく通った近所の駄菓子屋です。
私にとって駄菓子屋は他にありません。記憶の再現
として、いろいろな駄菜子屋を参考にしました。
さて、おおよその建築物が決まったところで、そ
ット設計に使う簡単なC Gと 、 最 終 的 に 画 面 に 合 成
れぞれ一軒ずつ 3 Dで モ デ リ ン グ し ま し た ( 私 が セ
ですが、これにより後々の作業、熟考が、てきめん
さ れ る 高 度 な 臼 組 の C Gは別物です)。面倒な作業
そうこうしている間に、セットを建てるスタジオ
に効率良くなります。
の東宝スタジオ第9 ス テ ー ジ に 決 ま り 、 意 気 揚 々 と
が、ゴジラなどを撮っていた東洋一の広さ(四百坪)
スタジオの床関商を3 D上 に 入 れ 込 み 、 建 物 を 脚 本
に沿うように配列していきました。
あまかった。
日本一、東洋一の面積を誇るスタジオでも、通り
全部を入れるのは不可能。通りを最長にとるために
ス タ ジ オ の 対 角 線 上 に と り 、 鈴 木 オlト と 茶 川 潟 応
を中央に置き、脚本上にある空き地や商底を入れた
3Dシミュレーションによる策室スタジオ N
o
9
tこ入れ込まれた、三丁目町内。スタジ
オ内に建てる限界の大きさ。さらに高さが足らずに、 2路上部や屋根などが削られた。
罰 -4
傘東宝スタジオ No9
災I
I
I
弓今d
日
U
とにかくこのセットの出来に多大な功績を与えた
龍凶さんと装飾部チームに感謝したい。日本中から
レ ア 物 の コ レ ク タl ズ ア イ テ ム を ふ ん だ ん に 集 め て
くれました。
閲耐を拍き上げ建て込みが始まりました、クラン
セット建て込み
クイン(撮影開始)まで一か月。連日一一一0 1五O 人
の大道具さんたちが働いています。そして慌ててい
ます。こんなに大きいセットを初めて担当した私だ
大道具さんの仕事も段々と進み、塗装仕上げの段
けが、ぺ i スを判っていなかったようです。
階になってきました。すべて私的には順調でした。
だ が こ こ で 、 最 大 の 問 題 発 覚 1・ 茶 川 商 応 は ぽ ろ ぽ
ろ で 、 鈴 木 オl ト は 新 し 目 の 家 で 、 こ っ ち の 看 板 は
錆び付いていて、こっちの看板は新しいとか、計画
した通りに仕上げていくと、全然しっくりこない、
懐かしくない。やばい、巨大なお金をかけたセット
がまとまらない!
phd
し、気がつくと見学に来た年配の御偉いさんたちが
鈴木オi ト の 二 階 で 居 心 地 よ さ そ う に ご ろ ご ろ し て
いたり、やっと重責をまっとうできたと思いました。
めでたし。
一部には、﹁一向し過ぎなんじゃないの﹂とか言う
人もいましたが、私には聞く立はもうありませんで
した。
その後、スタジオに収まっていない大通りに続く
商応街を、群馬県の館林にある飛行場に、滑走路を
大通りに見立てて建てたり、飲み屋やまふじをセッ
トで作ってみたり、いろいろなロケ先を作り込んだ
りしましたが、一日⋮方針が決まれば後は楽しい作業
でした。
映耐を見た方が、美術監督がこんな若造だと知っ
おわりに
たら、見方が少し変ったでしょうか?私も最初は
外人感覚でしたが、最後に頼りにしたのは、自分の
ごせi1
だったの?美術監管が遊ばなければ、映嗣に匂い
と、﹁上総君、おはドキュメンタリーを作るつもり
話をする機会があって、私が悩んだことなどを話す
その後、日本映画界の巨匠美術監骨・機木品氏と
中にある昭和でした。
米た(実は昭和三四年発売だから、昭和三三年には
図
汚し(経年劣化)が入つてないと、私にはまるで懐
存 衣 し て い な か っ た の だ ) ミ ゼ ッ トMP3な ど 、 ピ
いました。さすが。
が出なくてつまらないじゃない﹂と一蹴されてしま
セットに入れた未来から
かしさ、優しさがやってこない。しかし、焼け野原
カピカの新車同様にレストアされていたので、ぼろ
ぶっ壊せ11
からまだ十一一一年後、新しい物の方が多いはず、愛宕
ぼろに錆ぴさせました(もちろん落とせる塗料で)。
そ の 時 誰 か が 、 ﹁ こ の 映 耐 は ド キ ュ メ ン タ リi で
にとって懐かしい昭和の原風景なのだと、セットが
アルなタイムスリップした昭和三三年ではなく、私
とてもなじみました。私が作ろうとしていたのはリ
吋
美術監官。
一九六⋮一年生まれ。映川側、ビデオ、 C Mなど
の美術制作を手掛ける。山崎武監料日の前作﹃ジ
ュ ブ ナ イ ル ヘ ﹃ リ タl ナi﹄でも美術を担当。
ALWAYS三丁目の夕日﹄で日本アカデミ
ー投故優秀美術貨を受賞。
上位州安里/じようじよう・あんり
この映画から匂いを感じていただけたでしょうか?
山辺りは笠襲を逃れた部分があるとか、勝手に自分
は な く フ ァ ン タ ジi だ﹂と一一一日うのを聞き、あれ、そ
出来上がったセットは、これこれって感じで私に
んなこと判っていて始めたはずなのに、資料の鬼に
山崎監督もセットを見てとても気に入ってくれた
出来上がって初めて判りました。
ランプ。
で 言 い 訳 を つ け て み た り 、 あ ! だ 、 こi だ 一 人 で ス
前 述 の 小 津 の カ ラl映耐に感じたのと似た違和感。
3Dシミュレーシ 2 ンによる三了呂田T
内。さまざまなアングルから検討し
l
l
皇、道幅、セットと CGの境界線などを決める。
て、家の自c
なっているあいだに自分で白分の仕事にブレーキを
か け て い た 。 そ れ を 理 解 し て か ら は 、 い け11
よ
三丁目の暮らしぷらを支えるもの
0年代とでは、暮らしを支える基盤、ないしは構造が大きく異なっており、
多用した開放的な住まいのつくり等々の例をとりあげて詳述する意味は、そ
ちゃぶ台を囲んだユカ鹿の食事やだんらんの様子、縁側での交流、引き戸を
ベルリンの壁や東西冷戦構造の崩壊と重なるようにして新しい年号の時代が始ま
映 画 の ラ ス ト シi ンは鈴木オlトの一家一一一人が、完成した東京タワ!と三
はないだろうか。
れほど大きくないように思われる。今日の昭和ブ!ムやその背景、そして平
ρ 成。の響きとはほど遠い、不安・不信と混乱の事態で
平
って一一O年近くが経つが、今、日本を覆っているのは耐震強度偽装やライブドア
税といった、その年号
ある。そうした中で、 いつの頃からか昭和が静かなブ iムを迎えている。
丁自の向こうに輝く夕日を眺めながら言葉を交わすという場面である。母ト
あしたあさって
モヱと父則文は﹁今日もきれいね﹂、﹁きれいだな﹂と息子一平に語りかける。
一平は﹁当たり前じゃないか。明目だって明後目だって、五O年 先 だ っ て ず
こ れ は 、 ﹁ 建 築 ジ ャ ー ナ ル ﹂ に 連 載 し て い る 映 画 評 で 吋ALWAYS
目の夕日﹄をとりあげ、﹁昭和が省みられる理由﹂と題して書いた文章の冒
ーっと夕日はきれいだよ
と答える。それに対してトモエたちは﹁そうね。
顕である。本特集の問題意識も、大部分はこのタイトルに重なっているだろ
そうだといいわね﹂、﹁そうだといいな﹂と応じるのである。この美しい夕日
の時代認識である。彼は戦後の日本社会について、現実という言葉との対比
今 日 の 昭 和 ブi ム の 背 景 を 考 え る 上 で 一 つ の 示 唆 を 与 え る の は 、 見 田 宗 介
かと恐れる。
語るとすれば、﹁そうだったらよかったのにね﹂ということになりはしない
は、果たしてかつての夕日と同じように美しいであろうか。右のセリフを今
タ フ ァ ー で あ ろ う 。 あ と 一 年 余 り で 、 そ の グ 五O年 先 。 に な る 。 平 成 の 夕 日
L
う 。 昭 和 三0年 代 に 関 心 が 向 け ら れ る の は 何 故 な の か を 問 い つ つ そ の 時 代 を
は 、 映 画 の 中 で も 描 か れ た 、 昭 和 三0年 代 の 社 会 が 持 っ て い た 夢 や 希 望 の メ
期待するかも知れない。確かにそれは重要ではあろう。ただ、現代と昭和三
生活のされ方、あるいは家電に代表される生活用具等に関する記述、描写を
フィジカルな空間の在り様や、食事・だんらん・就寝・調環等々の具体的な
すまいや暮らしぶりという一言葉から人は、特に建築に関わりを持つ人は、
課題はグ三丁目の暮らしぶり。というものだ。
のである。むろん、観想の中心はすまいである。そして、ここで与えられた
振り返りながらも、単なる懐旧で終わらせず、平成の今を見つめようという
丁
成の今を省みようとする問題意識からすれば、もう少し幅広い視点が必要で
徹
事件、幼い子どもの殺害や八O O兆円近い政府の借金、社会保欝の切り下げや増
はじめに
江
上
O年)、夢の時代(一九六O年1七0年代前半)、虚構の時代(一九七0年代
と 現 実 と い う 対 比 を 設 定 し 、 戦 後 の 昭 和 史 を 、 理 想 の 時 代 ( 一 九 四 五 年1六
を用い、実に鋭い時代区分を提起した。即ち、理想と現実、夢と現実、虚構
この批判を、大きな時代の転形期という認識枠組みと関連づけてみたいと思
日を批判的にとらえるためには適切ではないかと考える。そして可能ならば、
関心の重点を置いて暮らしぶりを眺める方が、昭和を省みることで平成の今
は、暮らしを支える基盤ないし構造が大きく変わっており、むしろそちらに
戦争、黄教授の論文、耐震強度偽装と並べれば、それはグローバルな事態と
メラを回し、建設途上の東京タワーが見える広大な町並みを映した後、集団
映 画 は 冒 頭 、 鈴 木 オlト か ら 夕 日 町 三 丁 目 の 通 り へ 、 更 に そ の 上 空 へ と カ
すまいの開放性とそれを支えるもの
うのである。
中葉1九O年)という一二つに区分したのである。
先に引用した映画評では、かでは九0年 代 以 降 、 す な わ ち 平 成 の 時 代 は 何
と呼ばれるべきか。と開い、次のように続けた。か見出の教え子大津真幸は
もいえよう。社会は一面で人間関係の束だが、その中でウソが幅を効かせる
就 職 の 中 学 生 た ち を 載 せ た 列 車ilむろんS Lだーーや、一杯飲み屋やまふ
﹁虚構の時代の果て﹂と呼んだが、私は﹁控造の時代﹂としてきた。イラク
ようになっているのだ。これは人間の精神にとって相当にキツイ状況である。
じ及び茶川商底等の描写を挟んで上野駅へと移り、今度はそこから逆方向に
丁目の概要を紹介しているのである。これで、夕日町三丁目が、現在の日本人
昭和が省みられるのは、そこで受ける傷の癒しと、この事態への批判を求め
河原宏は﹁日本人はなんのために働いてきたのか﹂(ユビキタ・スタジオ、ニ
の多くが居住している、いわゆる住宅地や団地ではないことがすぐにわかる。
場面は動いていき、都電が走る大通りを経て、再ぴ三了自の通りへと入り、鈴
O O六年)の中で、グいうまでもなく人間社会は﹁信﹂によって成り立ってい
昭和ブl ムということでマスメディアによく取り上げられる町として、大
木オiトに一民る。つまり、監督や脚本家は映画の始めの方で、実に子捺よく三
ます。宗教には信仰、政治では信義、経済には信用、社会生活では人と人相
分県豊後高田市の﹁昭和の町﹂があるが、それと同様、三丁目は商活街なの
てのことではないだろうか。﹃ALWAYS三 丁 目 の 夕 日 ﹄ は そ の 両 方 に 応
互の信頼、そうして自分自身にとっては自信と信念。精神に分割はないから、
である。画面に出てくる鈴木オlト 一 家 や 茶 川 と 淳 之 介 の す ま い は と て も 開
えている。と。
と述べているが、今日の社会では
滅亡の時代や、中世から近世への転換期となったヨーロッパ封建制の危機の
だ時代は過去にもあった。例えばポリス的世界が崩壊していった古代ロ i マ
﹁信﹂を揺るがす主要閣の一つである。このように﹁信﹂が根底から揺らい
この﹁信﹂が大きく括らいでいるのである。ウソや担造は、現代において
それと対面する形で三丁目の人びとが茶の間やそれに続く仕事場に溢れかえ
お披露目シl ンだろう。鈴木家の茶の間には縁側を背にしてテレビが置かれ、
の開放性が最もよく示されている場面は、鈴木家にテレビが届けられた夜の
え、通りに百出してオープンな仕事場や応を持っているという事情がある。こ
放的であるが、そこには当時の一般のすまいや生活が持っていた開放性に加
4
時代、あるいは律令制的古代社会が衰微していった平安末期から鎌倉時代
っている。これは多少カリカチュアライズされた極端な描写であるが、当時
これらが一体となって﹁信﹂があります
等々である。多少大袈裟な捉え方をすれば、現代はそれらに比すべき、相当
は一般の住宅地でももらい湯ならぬもらいテレビが普通に行なわれていた。
総側や桜子の引き違い戸の玄関を持つ昭和のすまいと、縁側を失い、固い
それを見せてもらいにゆくということは殆ど考えられないであろう。
しかし、今日の住宅地で、高品位テレビを購入した家庭へ、近所の人が度々
に大きな転形期といえるのではないだろうか。
先に、三丁目の暮らしぶりを眺めるにしても、細かな生活の現象形態に重
点を置くのではなく、もう少し幅広い視点が必要ではないかという主旨のこ
と を 書 い た の は 、 こ の よ う な 問 題 意 識 か ら で あ る 。 昭 和 三0年代と今日とで
ってきたのか、セキュリティへの要求は何故高まってきたのかという問題が
それだけでは片手落ちだと思うのである。そもそも、何故住居は閉鎖的にな
の点ではすまいのフィジカルな開放性を求めることには意味がある。しかし、
まっている昨今にあっては、ますます毘鎖化が加速される可能性がある。そ
夙に鈴木成文先生が指摘してきたところである。セキュリティへの要求が高
うな遠いに関係していることは確かだろう。現代の住居の閉鎖性については
扉の玄関を持つ現代のすまいといった、フィジカルな条件の変化が上記のよ
このような文化が支配的となり、かつての自営業や家族従業者が多数だった
る住宅地にあっても、住民相互の共同性を生み出す別のモメントがない限り、
うシステムが導入されればなおさらである。そのような雇用者が多数居住す
文化が支配的になる可能性が高いといえる。今日のように成果主義などとい
競争関係にあることが普通だ。つまり雇用者の世界では、競争的関係やその
って企業内の労働者相互の競争を生み出す可能性があり、向業種他企業とも
それが各人に公正に分配される保証はない。むしろ小さなパイの分配をめぐ
場合も、各人が努力して企業単住で収益を増大させる可能性はあるわけだが、
先に、三丁目は商庄街であると書いた。つまり住人の殆どは家業を持つ自
あるだろう。コ二丁目の夕日﹄を見ると、その点を深く考える必要性を感じる。
互いの信用、信頼関係がそこでの空間や日常生活の開放性を支、えているので
事をして客や町の人びとの信用を得なければならない。そうして築かれたお
だが、家業を受け継ぎ、代々そこで営業を続けるためには、きちんとした仕
ある。田村隆一は、町というものは住民が一二代続くと成立すると語ったそう
模索されるべき時代であろう。例えば、小貫雅男の菜鴎家族を基礎とした、
労働とは異なる仕事の仕方や、賃労働の拡大・深化を抑制するような方法が
というものの拡大や深化の限界が示されているように忠われる。現代は、賃
先進国での高い失業率や現代日本の不安定雇用の広がり等をみると、賃労働
を 再 考 す る 必 要 が あ る の で は な い だ ろ う か 。 こ こ 三O年 近 く 続 い て い る 西 欧
仮に現代が先述したような大きな時代の転形期だとすれば、仕事のあり方
時代に比すべき開放性を支える基盤は形成されないであろう。
ある。多少頼りない仕事ぷりの住人もいるが、一一一丁目の開放性も同様の構造
森 と 海 を 結 ぶ 流 域 地 域 間 に よ る 緩 や か な レ ボ リ ュ l ションの提案や、
営業者である。そうした人の仕事や生活にとって何が大事かといえば信用で
で支えられている。今日のすまいが閉鎖的なのは、こうした信頼関係が地域
長く検討されてきたベーシック・インカム構想等がある。そのような新しい
ALWAYS三丁目の夕日﹄の原作は、三O年以上も前から﹁ビッグコミ
E Uで
る。更には家族の中でそれが成立していなければ、すまいはその内部におい
社会の中で、あるいはより広い社会との関係の中で成立していないからであ
とができればと思う。
仕事の仕方や生活のあり方と結びつく形で、すまいやまちのことを考えるこ
今 日 の よ う な 、 八O パーセント台半ばが一庭用者という時代とは仕事のあり方
ックオリジナル﹂に連載されている西岸良平の漫画である。連載とはいって
贈物とコミュニティ
ても閉鎖的となるだろう。
映画で描かれた昭和三三年は、わずかではあるがまだ雇用者、つまりサラ
や社会の構造が違うといってよい。このような構造の違いは﹁信﹂とどう関
も連続ものではなく、各回読み切りである。その膨大な数の短編の中から、主
リーマン・賃労働者よりも自営業者や家族従業者の方が多かった時代である。
わっているのだろうか。スペースも限られているため、ここでは誤解を恐れ
なエピソードにつながるものとして一二話が選ぴとられ、非常に巧みに一本の
商直信単位で考えると、各々の経営者が努力して客の信用を得ることが町全
自営業の場合は、同業者を除いて敵対的競争関係に陥る可能性は小さく、
的な温かさを最もよく表現しているのは、クリスマスをめぐる物語であろう。
画に仕上がっている。幾つかのエピソードがあるが、原作が持っている人間
脚本に練り上げられ、春から冬への四季の移り変わりを取り入れた美しい映
吋
ず、誌を単純化して述べてみたい。
体の集客力向上につながり、お互いが潤う可能性がある。雇用者・賃労働の
んでいる六子は、切符をもらっても青森に帰ろうとはしない。そんな彼女に
青森までの列車の切符である。口減らしのために家族に捨てられたと思い込
に 出 て 来 て 鈴 木 オlト に 住 み 込 み で 働 い て い る 六 子 に 贈 ら れ る 、 彼 女 の 故 郷
信じている││野球盤を除く一一一つがより重要だろう。一つは集団就職で東京
くるが、父母から一一千に贈られる││一平はサンタクロースから贈られたと
の祝いよりもプレゼントの方にある。映画の中では四つのプレゼントが出て
宗教色の薄い日本人にとってクリスマスの中心は、昔も今もイエスの誕生
と、お金で問題を処理しようとする。しかし淳之介は、茶川のグよかったな、
を連れ戻そうとする彼は、 Jあ ん た に も そ れ 相 応 の お 礼 を さ せ て も ら い ま す 。
いるのが、淳之介の実父、王子興産社長の川淵である。茶川の許から淳之介
上記のエピソードに登場する三丁目の人びとの対極的存在として描かれて
に与え合う。という活動がコミュニティなるものの中核にあるということだ。
もにグ贈物。やグ好意、親切。という意味を持っている。つまり、必ハに、い
一緒に、共間で。という意味であり、 555は。義務、職務。という意味とと
ここには監督たちの、平成の時代への批判が込められているように思う。
本当のお父さんだ。お金持ちの家だぞ。何でも買ってもらえるぞ。という説
上野駅へ向かう。ここには親と子、雇い主と従業員の間の温かい交流がある。
現代が大きな転形期だとすれば、我々はお金、マネーについて再考すること
対しトモエは、母親から送られて来た手紙の束を渡し、子どもの顔が見たく
二つ呂は、駄菓子屋を営む貧乏作家茶川が、一杯飲み患やまふじのおかみ
が 必 要 で は な い だ ろ う か 。 世 界 のGDPの総計の一 O倍 以 上 の 価 格 に 相 当 す
得にもかかわらず、川慌の率を降り、茶川と暮らすことを選ぶ。
ヒロミに贈る想像の中の指輪である。お金のない茶川は指輪を買うことがで
るドル紙幣が、今、グローバルに流通しているといわれる。そんなものを信
ない親なんているはずがないと諭す。六子は手紙を読み、涙を流し、慌てて
き ず 、 実 際 に ヒ ロ ミ の 前 に 差 し 出 す の は ケl ス だ け で あ る 。 茶 川 の 気 持 ち が
に、コミュニティでの人間関係は時として大変面倒なものである。これを市
用してよいのだろうか。映画の中の罵り合いや取っ組み合いにみられるよう
場や貨幣の力で、半ば自動的に処理するのは近代的でスマートにも思える。
ののし
つけられていない指を灯りにかざしてうれしそうにグきれい。と一吉田うのだ。
わかるヒロミは、グその、いつか買ってくれる指輪つけてよ々と言い、何も
こ の か い つ か 買 っ て く れ る 指 輪 。 は 、 鈴 木 オiト 社 長 の グ い つ か 立 派 な 会 社
しかし、現代はこのやり方が限界を迎えている、あるいは限界を超えて広が
り過ぎているのではないだろうか。我々は今、市場化や貨幣利用の限界を踏
に。と同様、当時の人ぴとが持っていた希望や夢を表すものだろう。
三つ呂は、ひょんなことから茶川が面倒をみることになった淳之介へ、サ
まえ、コミュニティの意義を再評価し、交換に頼り過ぎることなく、贈与や
しいた
ンタクロースから贈られる万年筆である。妾の子として生まれ、恐らく虐げ
分配を活用した生活の豊かさを求めるべき時代にいると思う。
江上徽/、えがみ・とおる
九州産業大学工学部建築学科助教授。
一九六九年、九州大学工学部建築九千科卒業。
七問年、同大川子院博士潔税問中佼取得恨一円子。九
州産業大学助手、講師を経て、八五年より製
戦。専門分野は住宅計湖、建築計制問。共相官舎
に、﹃住まいの一 O O年﹄(ドメス出版)、占有
らしのシステムと環境﹄(九州大学出版会)、
均九州の建築家とお見合いする本﹂(企業制粗食
建築ジャーナル)、司国際化と文化の多綴性﹄
(九州大学出版会)、吋デザイン概論第三版﹄
(ダヴィッド社)、ほかがある。
られて育ってきた淳之介はサンタクロースの存在を信じていない。そこで茶
川は一計を案じ、一一一丁目の子どもたちからアクマと恐れられている医者の宅
のである。計画は上手くいき、淳之介はサンタクロースの存在を信じ込む。
関にサンタの役を頼み、淳之介にも子どもらしい気持ちを抱かせようとする
サンタの役を果たした宅聞は茶川やヒロミからお礼を一言われると、グいや、
私の方こそ楽しかった。今日は楽しい。実に楽しい。と応える。
このクリスマスをめぐる物語は、一一一丁目の住人の開に濃密な交流があり、
そこがまだコミュニティと呼ぶにふさわしい空間だったことを示すものであ
4 ハに、
る。そもそもの055cEqという一言葉の元となったラテン語の2 5は
三丁目の鋳角
尚
る。しかし、当時のことは、写真や文献でしかわからないが、良い思いがで
で知るあこがれの姿であり、その場へ行けば、現実はやや遠くからわかるの
だったのだろうか。塔状の建物等がある姿は、絵葉書・写真等
現在もヨーロッパの都市には、カフェのあるような街角がいたるところに
である。むしろ、現場の印象の決め手は、そうした速くからのシルエットよ
L
ある。路函電車路線網が充実した都市に至つては、停留所とともに街角がさ
りは、近くに来たときの建物足元高さの情景のはずだ。そこの地上付近の場
きる﹁街角
らに多く見かけられる。一五 m前後の道路の交差点でも、路面電車が走り、
要素があれば、急いで通り過ぎる場でしかなく、親しめる場でもなく、﹁街
が、よそよそしかったり、お巡りさんが見張っていたり、逆に危険や不快な
m弱の角の歩道にも、カフェのテーブルが置かれて、憩いや交流の場にな
一
っている。さまざまな人のとどまる姿も見える場であり、花や子どもや町の
角﹂というよりは、単なる晴れがましい交差点なのだ。
雪 を か ぶ っ た 蒸 気 機 関 車 が 、 ゆ る や か に 上 野 駅 の タ ー ミ ナ ル ホl ムに到着
なぜ=一丁目? 多様さと学びの場の時代
貧しきゃいかがわしさを連想させることもある。ロマンチックなイメージを
乞いや客引きの混ざる喧騒の上野駅前から、中央通り、江戸通りのそれぞれ
し、列車から降りる人びとの中に、山形から帰ってくる父の姿を見つけ、物
﹁街角﹂の時代があったのだろうか。
を聞いたことを思い出す。あのころの三丁目角は、都電の音や姿とともに、
の都電が交差する日本橋室町一一一了目交差点を目印に、ともに家路につき土産
お上のお達し高札の場やさらしの場があった。一方、明治中期以降、鉄道馬
どを照合しても、そうした夢多き街角を想像させない。むしろ、橋詰には、
が混じり、パイキンや虫もスウィング、グループしていた。角の建物は、カ
メラ屋さんと時計宿とペットショップで、交差点のランドマ iクとしては、
時には大八車や馬の姿も見かけ、鉄粉、馬糞のにおいの中にガソリンの匂い
﹁街角﹂をイメージさせる姿が、東京のみならず、全国の目抜き通りにでき
車や路面電車が出現した時代では、角にランドマ l クになる建物が出現して、
江戸時代の通り角の姿として、浮世絵や名所図会では、大庄の宣伝の絵な
想像させるような使い方の﹁街角﹂で語られる昨今だが、この閣でそうした
行 動 と 繋 げ て ﹁ 街 角 でO Oする﹂﹁街角に立つ﹂といった使い方をすると、
のだろうか。言葉としては、悪いイメ i ジにつながることもある。たとえば、
長老の行き交う姿もある。しかし、ここ日本での、﹁街角﹂は、快適な場な
街角はあったのか?
i
事
その庖上のシェパードの大きな看板があった。そこは、あこがれや、かわい
の丁目の番号の順は、おおよそ都市の中心となる地点から遠ざかるにつれて
ところで、﹁三丁目﹂は、﹁一丁目﹂とはどう違うのだろうか。全国の各町
東京駅乗換え次のJ R神田釈を出て、賑わいのなくなった日銀通りを一
う今の状況とを比較する。仙台から新幹線の終電で毎週末に、通勤のように、
それは、約半世紀前のこと。そこで、自分が東北から東京の家族宅へ向か
効率の逆さの区分
てこ、三となっているようだ。東京は道路原標あたりからであろうが、そ
が経路にない。三丁目の角は、今はこつの銀行と証券会社とコンビニエンス
mほど歩き、共同ビルの一部の室町の家に一人着く。三丁目交差点は、近い
きゃ、好奇心をそそる寄り道したくなる場所でもあった。
の方向から路面電車の停留所と電車の動きとともに一、二、一一一と数えられ、
ストアに変わっている。そして道路断面構成は車道と御影石の歩道で構成さ
oo
中央通りの都電停留所には、室町三丁目、須田町三丁目、通り一二了目もあっ
た。それらは、震災後の度画整理や水路埋立てで生まれた交通の主要交差点
れて、主にサラリーマンが急いで渡るだけの、どこにでもある、車への注意
が必要な交差点でしかない。
であり、目印とされていた場所でもあった。
ところが、一了目境や、川を渡って町名が変わるような交差点や、睦史的
が、ム自動車を最優先してきた弊害は、一言い尽くせないだろう。速く通過する
上野広小路のような、歴史的には広場的な場所も自動車に埋められてきた
残っているが、室町一一一了目などのかつての写真は、なかなか見つからない。
車道だけ拡大確保して、通行するだけで、駐車しないことが前提。駐車場は、
な場所、銀座四丁目のような面開発をした角は、かつての絵や写真が数多く
晴れがましく、あこがれの姿を見せてくれる、交番のある一丁自境とは、や
車道と一体で不可欠のものとして整備していないこともあり、率は駐車場を
が展開する。だから﹁チヨット危なく、子どもだって大人だって、わくわく
躍さん、薬屋、コーヒー庄が並び、ちょっと歩く間に、さまざまな音や匂い
場所を走るケi スも多く見かける。市民のための公共交通が優先し、石の舗
かの市電の道路断面でも、駐車帯はあるが率道はなく、自動車は軌道のある
一方、ヨーロッパ都市には、交通ネットワーク上の工夫のみならず、街な
﹁街角﹂らしき時代があったのだ。
や達、っ。思い起こせば、ややはずれ、一一一丁目、昭和三0 年 代 に 、 普 段 者 の
生き生きする﹂一一一丁目の交差点だった。今ではあり得ない人間関係もあった。
装の場合は、自動車の乗り心地はやや減少し、スピードダウンする。車を街
が歩道をあちこちで横断し、歩道の安全を更に危険にするシステムでもある。
ホi ムレスのおじさんとも友だちだったあの少年の頃は、サラリーマンとも
に入れるならば、まずは駐車の場の確保を優先し、歩道脇は棚を設けなくて
探しに不要に街なかを走る。駐車場の確保を建物側に義務づける方法は、車
友だちであり、玩具のパチンコで練習してパチンコ屋へ本番にともに向かっ
も安全になっている。
その情景を思い出に重ねると、語り尽くせない。脇には、パチンコ底や鰻
たり、野球の練習のために、村野藤吾氏設計の旧・森五ビルの壁面に一緒に
今はもうあり得ないことだろうが、その頃は、そうした子どもをまちの一員
とパンツとサンダル姿のハナタレ小僧が、都心をチョロチョロすることは、
乗せてもらって、都内の知らない場所に連れて行ってもらえた。ランニング
わかりにくく、上り下りの多い地下鉄に変えてきた。弱者対応や安全性は、
等の弱者にとってありがたかった地上の路面電車をなくし、コストがかかり、
コストのかからない頭上高架にした。一方、日常の市民の交通では、高齢者
っている。通過していくだけの新幹線や高速道路は、地下であるべきだが、
ところが、日本の都市では、道路のみならず公共交通施設も逆の区分にな
としてあるときは遊ぴ、見守り、育ててくれていた。そこは、さまざまな人
後手で、言い訳的で、昇降機の設置等、コスト高を招く。﹁街角﹂になれる
当てて返り玉を捕ったり、あるときは、配達の軽トラックの後ろにこっそり
が、人として学ぶ場でもあったのだ。
総合的に地域の環境が分断され、交流の場が失われ、閉じこもる。精神的に
は、制服姿のガードマンが立ち、事故の懸念から子どもや弱者を排除する。
設けられることもある。建物の高層化の引き換えとして設けられる公開空地
の相場に留まらないよう管理される方向で、ガードフェンスなど遮断の設備が
なる建物の底地権利の配分ができるかの疑問、双方の工事中の営業補償等を
沿道の地権者が多く、権利変換計画が不明な容積率移転、移転先の受け肢と
うし、整備のあり方も納得できるものが望まれる。仮に工費を除外しても、
道づくりに税金を使うならば、当然、正しい使われ方の手本とすべきであろ
らば、マスコミも、なぜという疑問とともに、賛否両論の意見を報道した。
一つは、数千億としている事業費をめぐり、景観改善が主な目的であるな
不調な状態が時として犯罪を招くこともあろう。私の母校のように高架鉄道
い案を示しているようにさえ見える。また、その案が、地元の頑張りゃ負担
考えて多分二千%でも困難と予想され、長期どころか千年かかってもできな
はずの場は、車で危険であり、催しゃ活動はもとより、歩行者や弱者は、そ
や車道などによって隣接の公園等とともに狭まれている例もあるが、地域の
によるものとするのであれば、公が起こした問題の開発の多大な後始末を、
場のはずの小学校は、校庭も街から遮断され、さながら監獄のような施設と
なる。誤った構造の見せかけやおかしい仕切りで築いた間違いは、偽造マン
更に池元への責任転嫁、回避しているに過ぎないと評価されかねない。基盤
が見えないだろう。
つながりかねない。しかし、解決は困難な開題であり、疑問指摘だけでは先
の物的な誤りの積み重ねのみならず、責任転嫁、無責任の更なる積み重ねに
ション事件よりも深刻ではないのか。
交通と水環境の都市基盤の再構成
本当の﹁街角﹂は、建物の形だけでできるものではなく、 基 礎 条 件 が 不 可
河は、最重要基盤の一つだった。都市
川に水内を設け、一時水を抜いて空堀りして工費の大幅削減と利用空間や機
速道路だけの事業費がかさむトンネル化ではなく、運河の状態である日本橋
これに対して、詳細な検討はまだまだであるが、私論の小案として、①高
の中心を流れる川を道路に、更にオリ
サーバー施設などの民間商業施設利用の活用と合わせて、その定期分譲等の
能を拡大して、②川の地下を自動車専用道路のみならず、駐車場、モールや
欠だ。都市や環境を支える基盤には、道路や公園があるが、 か つ て 河 川 ・ 運
ンピック時その上に高架道路を築いた
収誌から事業費の殆どを賭い、③逆に赤字続きの公共予算に対しては、固定
という、水辺を忘れた過去から決別し、
以前よりも快適で市民に親しめる水辺
現在、 日 本 橋 室 町 の 角 の ど ル の 建 替 え 建 設 現 場 の 仮 囲 い に は 、 ﹁ 福 に 出 逢
市民としての願いと活動
組織づくりが必要なのは一言うまでもない。
実現には、コンセンサスや、従来の技術や細分化された体制を越える姿勢と
文化の場となる、という案がないわけではない。しかし、いずれにしても、
に貢献でき、⑥公共交通機能や歩行者空間を充実させ、⑦街角的な賑わいや
件としないで、むしろ沿道施設がにぎわいに貢献でき、⑤安全や環境を再生
資産税や地代等の発生が税収を生み、④沿道の地権者の難しい移転を必要条
いるが、いくつかの波紋を呼んでいる。
都高速道路を移し変える案と理解して
法によって無くし、その浅い地下に苦
は、川沿いの建物を容積率移転等の子
員で構成された案が発表された。概要
の改善の話題があり、日本の代表的委
げるようになった日本橋上の高架道路
一方、日本では、最近首相も取り上
に変えたソウルの例もある。
東京・京橋から銀座の姿の変遷図
﹁追分﹂にまつわるエピソードの表示
ディスプレーがされていて、﹁辻﹂や
う 街 角 室 町 二i 四丁自﹂という題で
域内の不信感をあおられることもあった。一方、自己所有の場を活性化のフ
ばするほど、壊して利誌を受けようとする開発側からは、中傷が流され、地
その苦労は並大抵ではない。保存・維持や新たな場づくりの願いに努力すれ
最近は、日本橋の扶で、環境ヒアリングの調査を目的に、毎週土日の昼、
リースペースに街角づくりの一部へと試行してみたが、その維持や管現につ
﹁このすばらしき世界﹂などの曲をBGMとして、私自ら、改善素案の展示
や、﹁まちは教室﹂と題して、学習の
る。それらは、再認識のみならず、通
を絵葉書の配布とともに行なっている。この一連の活動は、﹁意味不明﹂﹁秩
いてもいろいろ労苦がある。
り角を﹁街角﹂にしたいという願いと
序を乱す﹂﹁怪しげなパイキン﹂的活動とも受け止められないかという不安
場としての機能を表示している所もあ
呼びかけ、更につくるという宣言を感
たが、その閣には、こうした原稿の機会をいただけ、街往く子どもたちなど
と、もう二年以上の月日が経つこともあり、そろそろ引き上げ時と考えてい
しかし、イメージの手本、ヨーロッ
喜んでいただいた方々もあって、できればもう少し続けようと、資材運びに
じさせてくれる。まずは、素敵な﹁街
パに見る街角は、流血や市民革命等の
新たにリヤカーも用意してみた。街角の﹁街﹂は、行ないの中に土を積み上
角﹂の実現を楽しみにしたい。
歴史的な背景があり、日本とは違う市
げてつくる﹁まち
﹁宇品 φ
り﹂
宮城大学一卒業機恕学部教授・デザイン情報学
科設問デザインコース長。
一九七五年、東京慈術.大学美術学部建築科卒
業。間大学院修士課程修了。側環境設計研究
所主任を経て、側小沢設計計幽蜜を設立運営。
地区環境総括備計煩から、まちなみ環境整備、
共問事業等の構想・一一汁則前倒・設計・鮫壊の一速
に従事し、建物の誘導と併せた歩行者の道、つ
くりゃ小公閥、駅前広場、ストリートフアニ
チャーなど設計デザインも行なう。将来イメ
ージを絵コンテや絵葉舎にまとめ卒業化する
手法を開発。九七年から現職。著書に、 ruD・
C Gシ ス テ ム 建 築 家 の た め の 映 像 活 用 術 ﹄
(彰一回社)、絵本吋東京のまちづくりい(藤森
照信と共著、彩国社)、吋古代日本を発掘する﹄
(
会6巻・復元図担当、岩波書官肋)、叫アーバ
ンイラストレーション﹄(共著、鳳山社てそ
の他がある。
小津尚/おざわ・ひさし
でもあるのだから。
であり、いろいろな聞を知る﹁まち﹂であり、根気をも
民社会がある。日本の昭和三0年代に
って時や出会いを待つ
L
見せたふれあいの街角の多様性は、つかの間のことであり、与えられたよう
な民主主義と混乱の中のかりそめの姿だったとすると、新たに創り出すには、
それなりの努力が必要になろう。ところで、バブル経済等の補撲や経済の低
場や生活の場への変革を求めて来ている。もう、与えられることを期待する
迷等による赤字の国家財政は、教育、福祉、厚生等の予算縮小とともに、現
考えや対策から卒業しなければならない。
街角づくりも同様なのだろう。かつて私が、広場や通りの計画やデザイン
した場のなかには、ご﹂の駅前広場チョ l気 に 入 っ た ﹂ と い う 戸 も 開 く こ と
ができ、ごみを自主的に拾う姿を見、別件では、広場に町民の方々たちが入
魂式をしてくれたうれしい経験もあるが、それらは、案の検討段階で、より
多くの意見をいただき、ともに学習するような提案への協力や市民の願いが
あってのことだと思い起こす。更に、計画・設計する立場は、所詮お手伝い
一住民としてそうした場を得ょうとすれば
のよそ者の報酬を伴う気楽な労力でしかない。
一方、自身が住んでいる町で、
子どもがみた昭和三O年頃位 鮪⑧小菅 遊び場
十
口
ず
くもっと同時に、田舎のような風景も持っていた。いわば、下町に回合的な
には工場も多くあった。また、出回の問には畑もみられた。近くには荒れ果
ものが入り込んだ場所という感じである。家の前には師闘がひろがり、付近
てた畑の原っぱや、それほど大きくはないが池などもあった。
駄菓子屋もあった。二軒の駄菓子屋があったが、行くお応は近い方の駄菓
や大雨の時には、必ずといってよいほど水が出て、床下浸水にはよくなった。
私が小学校の頃には、さすがに床上まで浸水することはなかったが、台風
留守番をしたものである。またこの駄菓子屋では、冬には﹁もんじゃ焼き﹂
頼まれたこともある。その時は、自分が大人になったような気持ちになって、
は、歳をとった人が多かった。駄菓子屋が留守にするときなどは、留守番を
子屋といつも決まっていた。どういう訳か、駄菓子屋のおじさんやおばさん
場所によっては、床上まで水がきた家もあり、私たちが通っていた小菅小学
をやっていた。
金丸山小を飼育している家があり、台風の後には、逃げてきた金魚が綾瀬川や近
をまいたところで危険だから、そばに寄らないように﹂と注意されたが、あ
その頃になると、学校の朝礼で、﹁田闘に赤い旗の立っているところは、薬
も蚊帳は必需品だった。田国には、害虫駆除の農薬がまかれるのが普通で、
家の前の田闘では、蛙の声や虫の音がよく聞こえた。蚊も多く、どの家で
私の住んでいたところは長屋が多かったが、小さな庭をもった独立住宅も
まり気にする子どもはいなかった。
葛飾というと、現在では﹁フ│テンの寅さん﹂で有名になり、﹁下町の生
出てきて花火を見ていた。はるか遠くに、十円玉くらいの大きさに花火が見
火﹂が家の前から見、えたのを覚えている。花火の時には、多くの人が家から
高い建物もなかったので、遠くまでよく見えた。夏の夜には﹁両国の花
まれですね﹂といわれることが多いが、私の印象では、下町の雰囲気を色濃
ちなどは平気で家に上がり、中まで入っていったりしていた。
何軒かあった。夜はともかく、昼間、鍵をかけている家はなく、友だちのう
くのドブ川を泳いでおり、朝日十く、たま網をもって捕りにいったこともある。
挟んだ西小菅の町では、屋根まで水が出たこともあった。川の上流の方で、
校に、長いこと避難していた人たちもいた。私の町は東小菅だが、綾瀬川を
台風の時である。
るまで、近くの小学校の二階に何日間も避難していたという。キヤスリ│ン
だが、すぐに水はこなかったものの、やがて押入れの上まできて、水が引け
私が生まれて間もなく、台風で利根川の問先防が決壊した。親から聞いた話
葛飾@小菅
初
冊
斗
日
u
d
えるのである。
一一一軒長屋
仕事をしており、母は近くの工場に勤めていた。道路側に、ニ畳の大きさの
私の家は、三軒長屋の端にあった。家では、父親が洋服の仕立てや修理の
パスに乗って、家族連れで浅草には時々出かけた。浅草の酋の市には、毎
玄関と台所が並んであり、その後ろに六回日と、父の仕事部屋であったこ畳の
夜鹿とカニ取り
年のように出かけた。また北千住まで、﹁都電の花電車﹂を見に出かけたこ
部屋、そして押入れと便所が付いていた。そこに親子八人が住んでいたので
とη
'
ともある。夕食の後、夜肢と称して、近くの堀切菖靖国の駅付近まで、家族
ある。私は六人兄弟の末っ子だった。今考えると、そのような狭い家によく
うな状況であった。同じ長患の人で、家賃が払えずに夜逃げした家もあった。
連れで歩いて出かけることはよくあった。駅の近くの底をひやかし、牛乳屋
近くには荒川放水路や綾瀬川があったが、川川で遊ぶのは危険と、学校から
家には、ラジオはあったが時計はなく、隣の家に時間を需きに行ったこと
住んでいたと忠うが、付近に生活していた人びとの生活も、ほとんど同じよ
禁じられていた。ある夏、荒川と綾瀬川の開の水門のところで、遊んでいた
が何度かあった。また、醤油や砂糖なども、隣の人と、よく貸したり借りた
によって牛乳を飲んで帰ってくる程度のものだったが、とても楽しかった。
子どもが溺れて亡くなったこともあった。学校の先生や大人の人たちが、大
りしていた。この頃の夕食のご馳走は、餅の代わりにうどん粉でつくった団
けてから、その穴の奥の方と忠われるところに火箸を刺し、ニ本の火箸を交
に連れて行ってもらった。火箸をこ本持って、地上に見えるカニの穴を見つ
で、子どもだけで行くことはなかったが、二番目の兄に、よく﹁カニ取り﹂
が、そんなときは、父親だけが夕食のおかずにとんカツを食べていた。朝早
ロッケが夕食のおかずのときもあった。天ぷら屋におかずを貰いに行くのだ
家では、大きなお釜いっぱいにお汁粉をつくって夕食としていた。また、コ
また、近くの家でお汁粉をつくったときには、私を呼んでくれたりしていた。
子を入れたお汁粉で、家でつくると、近くの子どもまで呼んで皆で食べた。
互に穴の上まで刺してきで、カニを穴から追い出すのである。そして、穴か
く、近くの乾物屋に、兄や姉のその日のお弁当のおかずなどを買いに行かさ
私の家から荒川放水路までは、子どもの行く距離としては少し速かったの
騒ぎをしていた記憶がある。
らカニが出たところを子で捕まえるのだが、時には失敗して、カニの甲羅に
れることもあった。
この頃、子どもの楽しみにしていたものに、﹁紙芝居﹂がある。紙芝居が
火箸を刺してしまったこともある。また、小学校へ上がる前のことと思うが、
刊レ喝の
町を回って合図してくれる。子どもたちは、{永からお金をもらってきて集ま
来ると、紙芝居のおじさんが、カチカチ、カチカチと木を打ち鳴らしながら、
ν
' とり﹂をした記臨もある。現は食べたが、
家族で荒川放水路に出かけ、﹁腕
カニは食べず家で飼っていた。荒川放水路の土手には、バッタが沢山いた。
り、駄菓子を買って紙芝居を見せてもらうのである。小遣いは五円くらいだ
なかでも、殿さまバッタを捕まえることが子どもたちの大きな喜びだった。
夏には、黒砂海岸や谷津、稲毛など、京成電車で千葉の海岸に﹁潮干狩
ったと思う。家の近くには、﹁ロボちゃん﹂と呼ばれる紙芝居のおじさんが
学校の近くに、﹁粘土細工﹂のおじさんがやってきて、品物を並べること
り﹂や﹁海水浴﹂によく出かけた。潮干狩りでとってきたアサリは、食事の
と、右側にお化け煙突が見えた。四本になり、ニ本になり三本になるのが面
もあった。一年に何関か来たのだろうか、一一回くらいのようにも思うが、よ
米ていた。
白く、よく電車の窓から見ていたが、何で一本にならないのかと、がっかり
く覚えていない。素焼きした粘土の型と粘土を買って、型に粘土をはめてつ
時の味噌汁の実になった。京成電車に乗り、千葉と反対の上野の方面に行く
もし、不思議でもあった。
な ど を く れ た と 思 う 。 粘 土 細 工 の お じ さ ん は 、 一 週 間 か ら 一 0 5く ら い 同 じ
して色をつけて仕上げた。確か、よく出来たものには、賞品として新しい型
くった作品の出来映えを競うのである。型をとった粘土に、色粉をかけたり
しかった。子どもにとって、夜は怖い世界で、お使いなどを頼まれると、い
い道を一人で歩くことは怖かったが、皆で声をはり上げて歩くのはとても楽
ちん、ブ!ラブラ﹂と皆で芦を合わせて家の近くを歩いて回るのである。時
ちょうちんや缶詰の空きカンでつくったカンテラを持って、﹁お盆のちょう
今考えれば、大工のおじさんにはアルコールが入っていたのであろう。
やいや出かけるのが普通であったが、このときばかりは楽しい夜になった。
ところに来て、いつの間にかどこかに移っていった。
夏休みは、毎日のように遊び歩いており、終わり頃になると、ほとんど子
をつけていなかった宿題がたまって、憂欝になったのを覚えている。学校で
近くには、子どもを集めて﹁幻燈﹂を見せてくれるおじさんもいた。その
家では、時々、夜に子どもを集めて、幻際会を聞いてくれた。おじさんは、
の勉強はつまらなかったが、毎日が楽しかった。小学校一年生の遠足は、京
成電車に乗って江戸川に行ったが、その時、付き添いに米てくれたのは、中
いつも焼酎をコップで飲みながら、上機嫌に幻燈を映していた。後で知った
機械を借りてきて、子どもたちに幻燈を見せてくれたのであろう。
のだが、そのおじさんは銀行の守衛さんだったという。おそらく、銀行から
学生の姉であった。遠足で、友人の一人が迷子になり、大騒ぎだった。
テレビを初めて見たのも、この頃である。下の兄と姉の通っていたそろば
ん塾にテレビがあり、見せてもらいに行っていた。そろばん塾には、多くの
たちであったが、遠う子どもも混じっていた。そのうち、近くの家でテレビ
泊まったりしていた。翌日には、ご、王人もアルコールから醒めており、奥さ
になるおじさんもいた。夜、奥さんが子どもを連れて私の家に逃げて来て、
近くには、普段はやさしいのだが、アルコi ルが入ると人が変わったよう
を買った家があり、それからは、毎晩のように、その家にテレビを見せても
んが子どもを連れて家に戻っていった。
子どもがテレビを見にやってきていた。ほとんどは、識に通っている子ども
らいに行っていた。私のうちでテレビを買ったのはそれよりもずっと後で、
が一番卒く、なんとなく白後であった。一一階からは、速くに消防署の火の見
なり、部屋が足りなくなったのであろう。近所で、二階をもった家は私の家
仕事部屋に広げ、一一階に六畳を増築している。その頃には、子どもも大きく
その後、長屋の私の家の部分を改造して、玄関を土間と一一一畳からなる父の
がっていた。帰りも、見つからないように隠れながら静かに降りてきたが、
しさは、今でも覚えている。荒川放水路が真下に流れ、どこまでも景色が広
ように上がり、塔の一番上まで昇っていった。塔の上から見た景色のすばら
ように、隠れながら建物の中に入っていき、さらに長い階段を音を立てない
連れられて、刑務所の塔の上まで行ったこともあった。誰にも見つからない
お父さんが、小菅刑務所に勤めていた学校の友だちもいた。その友だちに
やぐらが見えた。一番上の兄が結婚したときには、そのニ階で結婚式を挙げ
階段を降りきったところで見つかってしまった。そういえば、刑務所から脱
私が小学校六年生の時である。
た。またそのうち、他の兄弟も結婚して、住むところを別に構え、家族も減
走した人が出て、刑務所に勤めていた父親が、責任を取って勤めを辞めたた
ぐ遊びに出かけ、家には夕方遅くなるまで戻らなかった。
近くに公園はなかったが、遊ぴ場はいっぱいあった。学校から帰ると、す
子どもたちの遊び
めに、転校していった友だちもいた。
っていった。
近所の人びと
家の近くには、職人や、工場などの勤め人が多かった。その中でも私の印
象深い人ぴとに、大工さんと、銀行の守衛をやっていた人がいる。
大工さんは、毎年お設の頃になると、近くの子どもたちを集めて、小さな
この頃の遊びに、﹁缶けり﹂﹁鬼ごっこ﹂﹁かくれんぼ﹂﹁すいらいかんちょ
のは、 縄跳びくらいだったと思う。
ニは、ドブ川や稲を植えていない池のようになった田園でよく捕った。割り
遊びで、二つのグループに分かれて行なった。じゃんけんのように勝てる役
う(水雷艦長?ごなどがあった。﹁すいらいかんちょう﹂とは、一種の戦争
国掴や原っぱでも遊んだ。田闘では、夏にはザリガニ捕りをした。ザリガ
箸の先に糸をつけ、そこにするめを結びつけ、ザリガニがはさむのを待って
動靴を履いて、スケートの真似をして遊ぶのである。稲の切り株があちこち
冬は凍った田闘の上で遊んだ。工場の裏の田園は一面凍りついており、運
が残っていたのであろう。私も小さい頃は、大きくなったら戦争に行くもの
プが負けになるという遊びだ。子どもたちの世界には、まだ戦争というもの
えあうゲi ムで、先にすべての子どもが捕まって(死んで)しまったグルー
と負ける役が決まっており、グループごとに役を決めておいて、相手を捕ま
にあったが、子苧ともにとって楽しいスケート場になった。季節はいつであっ
と思っていた。
に遠くまで出かけ、家に帰るのが遅くなって怒られたこともある。
吊り上げるのである。メダカもたくさん捕れた。友だちと二人でメダカ捕り
たのだろう。臼鷺が飛んできて、田園で餌をとっているのをよく見た。授業
私は、﹁虫捕り﹂が大好きだった。夏休みなどは毎日のように、網とかご
くして、なるべく重心を下にして強くしていた。﹁メンコ﹂は、裏側に蝋燭
﹁メンコ﹂はまあまあの腕前だった。﹁べ l ゴ マ ﹂ は 、 や す り で 削 り 背 を 低
ともよくあった。私は、﹁べ i ゴマ﹂が下手だったが、﹁ピl玉﹂は強かった。
﹁ビ!ダマ (玉)﹂﹁べ l ゴマ(駒)﹂﹁石蹴り﹂﹁メンコ﹂などで遊んだこ
を持って遊び歩いていた。大きな木のある農家ではよく蝉が鳴いていた。と
を溶かした磁を塗って重くし、強いものをつくったりした。
中に、教室からずっとお鷺を見ていて、先生に叱られたこともあった。
りもちを細い竿の先につけて、高いところにいる蝉などを捕っていた友だち
初回亨/はつだ・とおる
工学院大学工学部建築学科教授。
一九六九年、工学院大学工学部建築学科卒業。
七一年、岡大学院工学研究科修士課程修了。
工学院大学工学部建築学科助手、諮問、助教
授を経て九五年より現職。専門分野は、建築
史、都市史、建築怒匠。主な著書に、句協間倣と
創造の空間史﹄(新訂版、彩国社)、﹃和風モダ
ンの不思議い(王国社)、円繁華街の近代都市・
東京の消費安間同ゐ(東京大学出版会)、司東京
都市の明治﹄(ちくま学芸文庫)、﹃職人たちの
西洋建築い(ちくま学芸文庫)、などがある。
二000年、﹁職人および抑制市住民からみた
日本の近代建築に関する一迷の研究﹂で日本
建築学会党(論文)、﹁繁華街の近代﹂で日本
都市計画学会石川賞を受賞。
いき、子どもたちの遊び場であった空き地もなくなっていった。
れていった。道路と建物敷地の境や、家々の聞にはブロック塀が建てられて
いつ頃からだろうか、近所の田園や池が埋め立てられ、そこに家が建てら
ろうそく
もいた。子どもにとって、昆虫の王さまはカブト虫だったが、カブト虫は家
の近くにはおらず、売りに来たのを買ってもらった。夏休みの工作の宿題は、
いつも﹁昆虫採集﹂だった。
{永から少し遠いところであったが、田闘の中に原っぱがあった。子どもた
ちにとって、原っぱは大きな空き地で、思う存分、棒などを振り回すことが
でき、﹁チャンパラごっこ﹂などをした。また、家の周りには、小さな空き
地があちこちにあった。小さい庭を持った独立住宅は木でつくられた塀で周
りを固まれていたが、長屋は塀で固まれておらず、建物と建物の間には臨閉
があり、子どもたちの絶好の遊び場になっていた。
道路に率が通ることもなく、自転車もまれにしか走っていなかった。町中
が子どもたちの遊び場で、走り回り、大声を出して遊んだ。もっとも、町中
といっても、遊び歩く範囲はある程度決まっており、隣組の子どもたちと遊
ぴ場が重なることはほとんどなかった。遊ぶ友だちも、問、五人から七、八
人くらいのグループで、仲間はいつも決まっていた。また、女の子と男の子
が一緒になって遊ぶことはほとんどなかった。女の子と一緒になって遊んだ
特集@夕日が丘三丁目のすまいろん
三丁目から消えた道具
出口 昌伴
ふと見まわすと、身のまわりにあったはず
の道具が見当たらない。いつしか消えている。
あるいは似て非なるもの、形骸ばかりのもの
に変わり果てている。
たとえば祖板。木製足付きの下駄型だった
はがね
のが足なしプラ板に。包丁も鍋を軟鉄で包ん
でばなっき
だ重い出刃と菜切りのセットがステンのベラ
ベラ文化包了一本に。氷塊一貫一討を納めた木
製氷繭康が白い巨塔冷凍冷蔵庫に大変革を遂げた。
図- 1 肥後守
11
包丁のリズムに目覚めて
そして失ったもの
あや
目覚めの引金は台所の立目だった。コツコツコッコココココココ:::、今朝
の昧晴汁の同社一一ハは茄子と聴けた。﹁台所の音﹂は幸田文の小口問から惜用、包丁
足 付 組 板 は 床 と 共 鳴 し て よ く 響 く リ ズ ム 楽 器 だ っ た 。 三0年代は総じてこ
のリズムで料理人の腕を察し、家人の心境を聴き測ったという。
まごまとよく働く甲斐甲斐しい子の音を聴かせた。。フラ板は音無きが如く、
音を立てても包丁捌きに気が入つてない。替わって調理家電がビィ i ンビン、
チン、ピイ、ピッピ。台所の食材も泥付き丸ごとから加工済、調理済に変わ
って台所の音は﹁声変わり﹂。中学生だった私のそれより十数年遅れの声変
わりだった。
柳樽八
台所の声変わりは食味に深くかかわった。ことさら火味が大きく落ちた。
さんまいわし
おこしたた
秋万魚焼くけぶり昇りて鰯雲
うちわガス
堅炭をカッカと蛾して遠火(遠赤外線)の強火、滴る脂が火に落ちてあげ
る煙を渋団扇で秋風に散らすには路地に七輪持ち出した。これが瓦斯台では
なま
昭和一二0年 代 な か ば の 、 と あ る 朝 。 中 学 生 の 私 は 夢 に 廃 さ れ て 最 悪 の 目 覚
魚が煙臭くなり、皮は焼け焦げ芯は生、これじゃ焼き魚ではなく、ただ焼け
E っきり
め。それも私の将来を辿る夢。大学受験から結婚、会社勤めの一部始終から
i タイ
死んだ魚の毘体にすぎない││七輪捨てて半世紀、調理家電はお節介商品開
Eも り ケ
諦念退職後のたづき(生業)に慣れぬパソコン指吃。胸襟電話に心臓吃驚
発を究めたが、料理の一品焼きもの、 といえる焼き魚の出てくるガス器具・
あるパイトゆぴ
で坂道を転げ落ち、ハッと目覚めて元の中学生に返り咲く﹁胡蝶の夢﹂。夢
家電の火の具は未だ無い。
いま
中で辿ったその半世紀は、パキッといって損益大赤字の﹁悪夢﹂であった。
台所の音
具景観、私たちは何を得て、何を失ったのか。その損益計算表を纏めてみたい。
昭
和
一
一
一0年 代 、 三 丁 目 の 日 常 生 活 の 道 具 立 て が 変 わ り 果 て た 半 世 紀 後 の 道
玩呉のろくすっ l
まない時代、肥後守一
丁で玩具を無限に作り I
Hした。ただ昭
和3
5if
-の浅沼稲次長¥
1
殺害事f
ヰ以降、「子
どもに刃物を持たせない逮動」によっ
て、子どもの工作能力は失われてゆく。
生活技術喪失の時代へのフ。レリュード
i
イラスト・ i
J
者
。
であった。
;
柱時計の時鐘、 ラジオの時報
ボーンボl ンボ!ン:::蒲団の中のぬくぬく極楽は束の間、寒冷地獄にと
び出す毎朝の大決心は迫られた。
柱時計の重々しい時鐘は障子を突き抜け欄間をすり抜けて﹁家族の時﹂を
告げた。やがて家族を括る時の鮮は断たれ、各室の置時計に替わり、個々人
の腕時計へ。私は中学への進学祝いは﹁腕時計でなければ暴れるぞ﹂とまで
拘泥したことを思い出す。
'レつヲ﹂ノ、
腕時計に﹁家族の時﹂の桂桔からの解放を託していたのかと今にして思う。
それは半世紀を経ずして日本を覆った家庭崩壊の予兆の物証だったのか。
当時は野球の時代、ラジオの実況放送は三丁目の路地を辿っていると、次
次と家のラジオを聴き繋いで歩いていけた。時報は家々から一斉に﹁町内コ
ミュニティの時﹂を告げた。
やがて家の内は襖が壁と化し、外側はサッシとなって、家族の時、町内の
1976
1968
1
9
6
0
1952
1944
1
9
3
6
1920
時の音は閉め切られていった。
畳の変容、 そして椅子座圧勝の謎
畳はもと畳める敷物だったが、置敷きの畳めた畳から近代には敷詰めに転
ずる。昭和三0年代には畳はまだ可動の床具の棋性を保っており、大撮除に
おもてでばおもて
1
0
0
*テーブル
50
0
年次
図 -2 食卓形式の移り変わり
1
9
2
6 (昭和]元)年、箱l
賠を圧倒l
した点株台だが、 1
9
5
6(
ni
!
,
和3
1
) 年、テーブルの台頭が決定的と
970-72(昭和 45-47)年、卓 f
f
R台はテーブ/レの前に撤退する。 2
8
4件の際i
き取りをもとに
なり、 1
アフター・コーデイングにより作成/井上忠吉i 。石毛皮道、井上忠利、 UJ 口品伴他、民 t~J共同研
究 T現行t
E
I本における家庭と食卓 J - - 際立氏絞学博物館研究報告別冊 1
6号 J 6
9頁
。
けた立働き式キッ
チン前に卓献台に
鹿して食事など遅
れた光景に頭さぬ
よう、公団は当時
高価だった椅子鹿
用テーブルを添え
て震賛した(椅子
長qレ
晩
、
吋
一
,
は居住者負担だっ
た)。行政側が設
囲な指導理念を堅
持した姿勢は敬眼
に価するが、その
理念自体は誤りで
あったii少なく
とも確たる論拠を
欠いていた。
昭
和
一
一
一0年代は、
かぷれ
原日本人の本音の
居心地と西歌気触
時を同じくして居室に梼子座式家具が。西欧足物家具は土問に置くものを
って泣くのだった(テーブル食主略者・大都市では、主人一八・一%、主婦四三・一%、
子はと予を挙げさせられ、お前ん家は遅れてるとなじられたと、子が家へ帰
念。占り
そこには子どもの涙が効いていた。学校の先生に、ぃ臼十祇ムロで食事している
お床板の間はおろかカi ベットカパ iド畳の上も構わず置く現不尽、 もう出
子ども二六・悶%。中小企業庁﹃長期需要調査報告﹄一九六八年刊より)。
米の指導層の信念は昭和一一一0年 代 住 宅 公 団 nDKにも遵守され、 せっかく設
日本国民は遅れた床腹式から漸次西欧椅子産式に移行すべし、 と の 明 治 以
然環境が生み出した技術哲学と居住捧式を四季の巡る温帯の生活モデルとし
ロンドン・パリは札幌よりずっと北の樺太と同緯度の北国である。その自
サハリン
鰭自といってよい現代日本居住様式が確立。
していく。
形式主義との葛藤の時代だったが、昭和四五年、普及率で食堂セットが卓献
4
口はこぜん
学校帰りの子らは飽かず眺めた。だがやがて畳とみればカーペットで覆う奇
数
ム口に勝った(罰 12)。
は回宜を揚げて表に干してパンパンパパン。路地には畳屋が出張って表替え。
・チャブ台
件
習が蔓延、畳はたんなる不動の床材と化し、覆いの下でその名も化学畳に堕
1
5
0
米植
、¥
精米計量米植
臼杵
電気製裏面機
延し板
電気餅掲機
ノ
延し棒
ミキサー
指鉢
摺小木
ジューサ一
包丁
万能調浬器
寸燐
電池ライター
火焚斗
電気アイロン
ていた。四0年代に入ると客足がまばらにな
り、五0年代には庄を畳む凋落ぶり。四丁目
に電器庄ができて荒物屋から一品ずつ移って
いったせいである(表 i11
家電製品の値打
i│信心証すお布施料
さんしゅのじんぎ
﹁三種神器﹂と尊称された家電機器(洗濯
機・冷蔵庫・白黒テレビリ昭和二九年)がい
懐中電灯
ローソク電球
厨芥処理器
卯茄で器
れぽり
換気扇
テレビジョン
電気毛布
電気製ノ fン器
入ん妙
みた椴引熔
無無ご無無湯胡肘熔
、¥
蝋燭
理
/
電気ポット
'ftt熱魔法瓶
、¥
薬缶
かにも神器そのものであった証明を挙げよう。
ホットカーペット
蚊取線香
電気カトリ器
消滅
消滅
た迷妄が、近現代日本の生活文化変容の損益が大赤字となる敗因だった。
保温ジャー
ラソプして冷凍庫へ
おか守ら
花
莫
i
i
l
'
f
家電製品の正体i│生活実体の空調化
電動米とぎ器
飯櫨
昭和一一二年東芝広告のサブ・キャッチには
真空掃除機
あだ
米とぎ然
﹁贈って喜ばれ使って楽しい﹂とある。え?
電気冷蔵庫
答・療取
一
二
丁
三丁目にテレビが来た日、町内こぞってその前に詰めかける光景を ﹃
電気フライパン
み裁くのに御神楽を奉納するキモチ、である。
氷蔵庫
けんけんがくがく
電気オーブン
フライパン
楽しい?消費者は神さま。神さまにお楽し
電気櫓ゴタツ
家具調コタツ
目の夕日﹄は再現している。冷蔵庫も洗濯機も一生ものの家宝購入の感動を
天火
実用を超えた超越的御神体、だから贈答品に
、、
伴ったから機種選定の家族会議は侃侃誇詩。そこには我が家にも文化生活始
トースター
ロースター
なり得たのであった。
矩縫
まる、の健全な未来への期待があった。当時電化は文化と同義であった。
焼網
欽炎
家電製品という物神崇拝の新興宗教におけ
電気アンカ
足i
昆器
しかし機能陳腐化と短命化戦略による消費財化か仇となって、一九八0年
電気炊飯君主
羽釜
'4!:~~プレート
る御神体の価値観はそれらの値段によって測
、¥
代に入ると家電はかつての輝きを失っていく。そうした商品操作の担い手は、
電気ストーブ
火鉢
じつに一一一丁目初のテレビに魅入られた当時の中学生を中心とする世代だった。
ノ
文化鍋
電化生活
日用品雑貨
文化生活
日用品雑貨
図 -3 贈 っ て 喜 ば れ 使 っ て 楽 し い 家 庭 電 気 器 具
神器、だからお中元アイテムになり得たのだ。 1
9
5
6年6月初日新間広告。
行火
生活とは道具を使う手技を謄き、手順をわきまえて目的を実現する生活技
、¥
システム
扇風機
ルームクーラー
術の体系がその実体である。その生活技術から飯炊きを炊飯器に、洗濯は洗
電気乾燥機
団扇
濯機にと、徴に入り細を穿って割き取り、商品化して生活場へ還送するのが
物干し
民需向けの産業技術であった。その挙旬、生活の実体が空洞化していった。
電気洗濯機
ちょっと
スチームアイロン
E
ま
i
先i
f
反
f
1
生活者の生活技術の喪失ぷりは、一寸停電してみれば明白であろう。
七輪
電器庖
荒物屋
電気コンロ
電気レンジ
↓¥道、
ノ
湯裂斗
文化生活から電先生活へ
昭和 4
0年代まで 昭和 4
0年 代 か ら
夕日が丘三丁目には一軒の荒物屋が﹁文化生活臼用品雑貨﹂の看板を掲げ
表 - 1 文化生活から電化生活へ
ゆえに九0 4ものでさえ(現在は一一一004がフツl) 八万×一二×一O×五日
よい。現在の大卒初任給を計算の都合上二四万円とすると、八万円の三倍、
所得は現在の五分の一以下、だから少なくとも五倍の負担感があったと見て
大卒初任給は八千円だったから月給の十倍。生活困窮時代だから自由可処分
けだから、家族数の減少と食力の減退に反比例して大容量化した冷蔵庫は、
化しつつ大容霊化していった。冷蔵庫の本性は食材の経時劣化を遅らせるだ
年九O%二五0 4。冷たい美味しきから何でも﹁押し入れ﹂、一時食品庫と
八%一 004、三五年五・ニ%一五0 4、四O年五一・四%二004、四五
から、背丈を競いつつ徹底普及を遂げた。普及率と容量は、昭和一一一二年一て
冷蔵庫は実用ではなく物神崇拝新興宗教の御神体の代表三種神器の一神だ
は鮮魚鮮菜と乾物籍・漬物桶 i │冷蔵庫ナシで動いていた。
一二OO万円に相当する。臼黒テレビは昭和一二O年時点で一インチ一万円。
賞味期限の迫った食材から食べていく﹁新鮮な食材の鮮度を下げ不味くして
れる。電気冷蔵庫の量販第一号は昭和二七年、容量九0 4で約八万円。当時
初任給は一万円だったから、一四インチもので一六八O万円の宣担に相当し
まず
た。冷蔵庫の普及率は昭和三五年にはやっと五・一一%だが、一O年後には九
食べる器械﹂と化した。この前ったつもりの私の評価が、じつは甘かった!
限前だった(京大・高月絃﹃台所の一 O O年﹄所収論文、ドメス出版、一九九九年)。
ある謂査で台所から出る賞味期限表記のある未調理ごみの四O%が賞味期
くうちから
O%。神通力が働いていたと見てよいだろう。
やおろず
新文明で救いを授け給う新八百万の神々の御神体だからこそ、そんなべらぽ
うなお布施料に家計を張ってでも、我が家への御降臨を勧請したのであった。
冷蔵庫は﹁食材を買ってきて冷やして捨てる器械﹂になりつつあるのか。向
調査では、台所ゴミのうち調理クズ(生ゴミ)が五一一一%あったという。
生ゴミとは、﹁さらに手をかければ食べられる食材の部分に、予をかけな
冷たい美味から白いブラックボックスヘ
氷蔵庫から電気冷蔵庫に移る時代、氷蔵庫の庫内はお父さんのビi ル、お
なる。昭和三0年代には、半世紀後には
捨てられている部分をほとんど食べてし
まっていた。食材はすべて生命体の屍体
だから、はじっこまで食べ尽くすのが身
体にいい。冷蔵庫ナシの時代は﹁食べる
健康﹂の時代だった。
ら手鏡を出して化粧をつくろう様子。北田
大道のゆく子に和装の淑女、歩きなが
老境で呂にした一景が印象深い。
三丁目の中学生が悪夢から覚める寸前、
そしてメールの時代へ
手紙から電話、
みながら浜辺を歩いていて、はたと立ち止まってパチリ。こ
のあと電気冷蔵庫は白いブラックボソクスへと変容していく。
千葉県鵜際海浮にて、 1
9
7
2年
、 i
f
王者搬彩。
いと決めたもの﹂であり、調理クズの九割は何とかすれば食べられるものに
図-5 氷 蔵 庫 か ら 電 気 冷 蔵 庫 へ
f
きあした浜辺をさ迷えば合のことぞしのばるる……と口づさ
客さま用のメロン、特別お八つの商瓜など冷たい美味日賛沢の象徴で、台所
図 -4 人 は 高 齢 化 社 会 に 、 道 具 は 短 命 化 社 会 に
昭和3
0年代を境に H
'iえた鈴掛屋さんとな外な所て、再会。上海・
長する住宅問地の入口脇。 1999王子、令官名"
i
:
t
故
彩
。
同済大学に隣J
父があんな失礼なものは置かん、矧があったら訪ねて来い、と電話を斥けた
コ日の中学生の家には電話が引いてなかった。貧乏だから、ではない。
れ5
1
Uシ﹂
の淑女は鏡を使、つに人目をさけて物陰に身を寄せ、顔まで扶に隠したもの。
からである。メールで暗一時が起こるのは胸底にコミュニケーションの作法が
昭
和
一
一
一0年代から遥かなる半世紀後の、未来からの来訪者は、
文化変容の損益計算表は大赤字と出た
たら、ま、世も末だろう。
(その残浮でも)息づいているからである。メールで時一嘩が起こらなくなっ
しりぞ
だが彼女は堂々まる出し。追い越しざまに、独り大声を発しているのが耳に
しゃぺ
入った│!なんだケ!タイか。昔は大道で独り喋くるのは﹁頭の不自由な
人﹂にきまっていたのに。
ぬけがら
1 1 昔は景色を見たり人目を気に
目ず
はあ
かたをさまよい、
、ら
景ぬ色
ケi タ イ し て い る 人 は 心 こ こ に あ ら
も人も無きが同然。人を魂の蛇にする器械
したりして、実体のある人間として歩いていたものだった。そんな姿が、い
じらしく忠われてくる。
生に返り咲いて、寝覚めが悪かったと一一一日った。
当時の生活者、食は貧しかったが健康な食べ方をしていた。家電メーカー
ケi タ イ に と っ て 電 話 は も は や お ま け 機 能 に す ぎ ず 、 ケ ー タ イ は テ レ ビ で
あ り カ メ ラ で あ り 楽 器 で あ り 財 布 で あ り メ ー ル で あ る 。 そ の メl ルでは激し
へのお布施に命を張った文明生活の未来像も精神的に健全であった。だがは
ではこの生活変容の大赤字をどうしたらいいか。近・現代の考古学的発掘
レター
い陪一嘩がよく起こる。なぜメl ル で は 感 情 が い き ち が う の か 。 要 は 手 紙 と メ
とんどその直後から、みんなで力を合わせて神器をただの消費財に庇め、生
と断った。事の依頼は手紙でも失礼で、ちゃんと出向いて依願すべきだった。
を、もっと広く、掘り拡げることである。ことにその精神史を、物に結自問し
ある。
主な著書に、吋問問閣を引かない住まいの設計術﹄
(王国判官)、﹃和風探索!にっぽん道具考﹄(筑
摩書一芝、﹃地球・道具・考﹄(住まいの図書館
出版局・住まい学体系)、﹃世界一周。台所々の
旅﹄(角川05テ17n)、﹃台所空間学その
様型と未来﹄(エクスナレッジ)、よ口所の一 O
O年﹄(編者、ドメス出版)、よ口一昨の一万年﹄
(農文協)、﹃日本人の住まい方を愛しなさい﹄
(王国社)、﹃水の道具誌﹄(岩波新地日)、なとが
ダストリアルデザイン研究所を経て、現職。
道具学会事務局担当破事・日本生活学会編集
扮当理事・日本産業技術史学会理事。
早稲閃大学理工学部迷築学科卒業。 G Kイン
山口回目伴/やまぐち・まさとも
やむなく手紙で頼むのだから書き方(書礼)に従わなければ依頼が成立し
いわば命令になるのだから、カチンと来て当然なのである。
電報である。だから用件なり意見が一方通行となり、伝達事項の記述のみの、
い っ た が 、 レ タ ー は 情 と 報 を 合 わ せ て い る の に 対 し て メl ルは報しかない、
(配達人)に頼まず電気で報ずるのが電報である。レタ!とメールは違うと
富山一一のように宛先へ配達する、届ける、報ずることをいい、これを飛脚
(机下、御元へ)、添書(追伸)。これが手紙HT淳司であって、富山口は﹀一円
ほどお願い申し上げます)、札詞、日付、署名、宛先姓(名)殿(様)脇付
要、件名設定のうえ主文←末文(総括)←結尾(右取り急ぎ宜しくご高配の
時候の挨拶と先方や当方の状況を仮定し(交渉の舞台設定)、達意日用件概
けに、送信の相手と自分の位置づけを設定する礼詞(謹一時﹀拝啓)を掲げ、
は情状を伝えて、その楽打ちの上で報(報い)を得る手続きである。それだ
むく
ている哲学・思想の紋様を編年し註していくのが、手順というものであろう。
おとし
ールの混同が原国なのだ。
活の実体を空洞化し、家庭を崩壊させ、道をゆくにも虚空に惑うコミュニケ
止'4
づい
なかった。一挙の依頼や承諾も情報交換だが、情報は情と報に分かれる。手紙
ーション不能社会を形成していった。
昭和三0年 代 は 電 話 の 大 普 及 期 だ っ た 。 と い っ て も 三 三 年 六 月 、 や っ と 五
O万台突破(東京都)。事の依頼はもとより御機嫌挨拶さえ﹁電話で失礼﹂
当
時
の
中
特集⑧夕日が丘一一一丁毘のすまいろん
ファンタジーとして消費される
﹁懐かしの昭和一二0年代﹂と、 消えてゆく生活の臭い
重盛
ったもの、 ラ ジ オ や テ レ ビ 番 組 と い っ た 思 い 出 の デ ィ テ ー ル を 出 し 合 っ た り
して雑談に興じることはある。しかしそれは、ぽくにとっては罪のない時間
つぶしでしかない。
もっと本音を一言ってしまえば、ぽくは自分の過ぎた日のことを思い出すの
は面倒くさいのだ。
これまで、何度か履腰書のようなものを書かなければならなかったことが
とんど興味を抱いていないことに気付かされることとなった。
あるが、その度に自分が自分の過去に、とくに、その。年表的過去。に、ほ
﹁ノスタルジl かあ、もう自分たちが子どものころのことが話出かしい。と
人に迷惑かかるわけではないし﹀と、生来のいい加減さに居亙っているのか
が、かなりどうでもいいのである。︿自分の過去だから適当でいいじゃん、
昭和何年にOO小学校入学、何年にOO中 学 校 入 学liの、この﹁何年﹂
いうことで作品(商品)になる時代になったのかあ﹂
あるいは、自分の過去にこだわるということに、ある種の自己愛のような
もしれない。
丁目の夕日﹄が昭和一一一O年前後の世相や風俗のピi スを集めて、それで夢物
んは一九四七年、昭和二二年の生まれ。ぽくは昭和
七年生まれ。 ーさんは
ぼくは︿口当たりのいいノスタルジ!かあ﹀と感じたのである。囲みにーさ
話は﹃三丁目の夕日﹄である。ーさんは﹁いいですねえ﹂と言ったけれど、
もしれない。いや、これは自己弁護でした。
ものを感知して、それを屈避するような精神的関御装置が作動しているのか
もちろん、なにかの話の流れで、子どものころの遊びゃ、街の様子、流行
自分の子どものころのことについて特別の思い入れを持つてはいない。
いった時代のあれこれに、ノスタルジi に川似た感情を抱くことはあっても、
ぼくは、自分が体験できなかった、明治や大正、あるいはまた昭和初期と
語、ファンタジーをつくりだす力作であることに気が付かなかったのである。
と、ちょっとシラけたような気分になったことを覚えている。このときはコ二
そのときの率直な感想は、
平のコニ了目の夕日夕焼けの詩﹄である。
﹁ビッグコミックオリジナル﹂誌上ですでに人気連載となっていた西岸良
の言葉だったので、かえって気になりコ一一丁目の夕日﹄をチェックした。
仕事場ではムダロなどきかず仕事に集中しているクールなタイプのーさん
から﹁一一一丁目の夕日、いいですね、ぇ﹂という一言葉を開いた。
もう一ニO年 ほ ど 昔 に な る だ ろ う か 。 自 分 よ り 五 歳 年 下 の 仕 事 仲 間 の ー さ ん
﹁懐かしの昭和一二0年代﹂ i iノスタルジーの実態
坂
崎
もっ元気﹂。子ども時代に出会ったこつが原点だった。
あった。﹁空へと向かう巨大な構築物と、終戦から経済成長への昭和が
この﹃ALWAYS三丁目の夕日﹄は二八O万人の観客を動員する大ヒッ
ドンピシャ、団塊の世代。彼より五歳上のほくは戦中生まれ、ものごころつ
しかも、うかつなことに、ぼくはぼく自身が戦中の生まれであるという意
トとなり、 また今年(第二九凹)の日本アカデミー営こ二部門で最優秀賞を
くころは敗戦後のドサクサの時代であった。
識が、ほとんどというか、正直いうとまったくない。感覚では戦後生まれと
獲得する。
ば話にもなるまい、ということで書庖をめぐり五冊のコニ丁目の夕日﹄を入
日﹄を見、この映画の出典たる西岸良一平の﹃三丁目の夕日﹄に当たらなけれ
ま あ 、 そ ん な こ と は ど う で も い い 。 と に か く 吋ALWAYS三 丁 目 の 夕
が﹃三丁目の夕日﹄の中のサエない物書き、茶川竜之介的ではないか!
と、こうしたことを今でも、原稿用紙にか手書き。で書いているほく自身
借りることができた。
次の庖では一本だけあるにはあったが貸し出し中で、返却されるのを待って
DEOをレンタルで借りようとしたが、最初に行った宿にはDVDしかなく、
この映画を、 ぼくはVIDEOで見た。家に DVDの装置がないので V I
信じて疑わないのである。
で、ここまでがプロロ i グ。これからコ二丁目の夕日﹄と﹁昭和三0年代
ブi ム﹂について触れていきたい。
O年ほど前くらいからだろうか、街の中で﹁懐かしの昭和﹂とよく出合
一
うようになった気がする。もちろん、この﹁昭和﹂は、ぽくが関心を抱き続
けている昭和初期﹁エロ・グロ・ナンセンス﹂の時代の﹁昭和﹂でもなけれ
﹁昭和﹂でもない。いわゆる﹁懐かしの昭和一二0年代﹂なのだ。
ば、﹁生めよ殖やせよ﹂や﹁欲しがりません勝つまでは﹂の戦前、戦中の
この﹁懐かしの昭和一一一0年代﹂が、とくにここ数年、やたらと目につくよ
﹁一一一丁目の夕日映画化特別編﹄
手した。たまたま書庄で子に入れたその五冊とは、
また大衆的なパーや居酒屋の内装、さらには近代的なビル内に出現するバー
コ ニ 丁 自 の 夕 日 傑 作 集 そ の 1 ︹心に残る話︺﹄
うになったと思いませんか。本や雑誌のエディトリアル、あるいは商品企画、
チャルな街の一角のコンセプトが﹁懐かしの昭和一二0年代﹂だったりすると
コ 二 丁 目 の 夕 日 傑 作 集 そ の 2 [乗り物大行進ピ
コ一一丁目の夕日︹雪ダルマ︺﹄
いうことが。まさに﹁昭和一一一0年代ブーム﹂。
そして、機、熟したりという感じで登場したのが去年(二O O五年)公開
とくに、この中の﹃映同化特別編﹄は巻頭にカラl 四ページの映画からの
﹃三丁目の夕日︹夕日小学校編①︺一学期﹄
シi ンが掲載され、︿映画︹ALWAYS三 丁 目 の 夕 日 ︺ に 散 り ば め ら れ た
された映画﹃ALWAYS一一一丁目の夕日﹄である。
O月 二 八 行 号 ) に 、 こ の 映 画 を 企 画 し
つい先週の朝日新聞(二O O六年一
デビューの夢捨てきれない茶川竜之介は、原作では、どう見てもいい歳をし
たとえば、駄菓子屋をやりながら少年雑誌に寄稿しつつも純文学の小説家
のディテールなど、必ずしも原作どおりではない。
れている。もちろん、映画での、登場人物のキャラクター設定やストーリー
つまり、映画のストーリi の原作にあたる一二編の作品が集められ編集さ
ロ編のエピソード﹀と見出しが付けられている。
たプロデューサー・阿部秀司氏の特集記事(文日平出義劫氏による)が載っ
ていた。彼のニ一一口を引用する。
﹁地味な内容で観客を呼べない﹂。そんな周りの反対を押し切って制作
した。映画館に足を運ばない団塊の世代を狙った。
と語る阿部秀司氏は一九四九年、つまり彼も団塊の世代の生まれである。
もう少し彼の言葉を引用したい。
小学三年の一九五八(昭和三一二)年に見た建設途中の東京タワーが心に
戸同d
ハ
U
では昭和三0年代とはどういう時代だったのだろうか。この時代は本当に
身体的記憶を時代の年号と照らし合わせる作業が必要となる。
ている。また、集団就職で﹁鈴木オート﹂に就職する﹁六さん﹂は、映画で
﹃一二丁目の夕日[雪ダルマ]﹄の本の背のコピーにあるように︿温か 1 い思
た中年男(しかも初老に近い?)だが、映画では吉岡秀隆演ずる青年となっ
は可愛いい女子﹁六子ちゃん﹂と変えられている。しかし、話の大筋は映画
い出が残る昭和三0年代行﹀だったのだろうか。また、この時代の空気や臭
ざっと復習してみたい。
昭
和
一
⋮
一O年(一九五五)
﹁昭和一一0年代﹂にさかのぼると
臭いの記憶がよみがえってきた
ことで
いはどのようなものだったのだろうか。まずは、年代的にキーワードを拾う
でもほぽ原作を尊重しているといってよい。
先に、この映画を企画したプロデューサー・阿部秀司氏は団塊の世代であ
ることを記したが、﹃一一一丁目の夕日﹄の原作者・西岸良平は一九四七年生ま
れ、これまたズパリ、団塊の世代なのである。
臨みに﹁団塊の世代﹂という言葉は 2広辞苑﹄にも載っている。
だんかいーの・せだい ︹ 団 塊 の 世 代 ︺ ( 他 世 代 に 比 し 人 数 が 特 に 多 い
この年にハナ肇・谷啓らがクレ l ジlキヤツツを結成。石原慎太郎﹃太陽
の季節﹄発表。ラッシュアワーのため新宿駅で押し屋採用。ジェ i ムス・
ところからいう) 一九四七i四九年のベビi-ブi ム時代に生れた世代。
つまり、戦後の一九四七、四八、出九のこの﹁一一一年間﹂に生まれた人たち
ディi ン主演の﹃エデンの東﹄上映。テレビ C M ﹁ミルキーはママの味﹂
﹁週刊新潮﹂創刊。手塚治虫﹃鉄腕アトム﹄、武内つなよし﹃赤胴鈴之
昭和コ二年(一九五六)
(不二家)。
が団塊の世代と呼ばれているわけだ。原作者とプロデューサーが団塊の世代。
それに対し、この映画の監督・脚本・ VFXの山崎貴は一九六四年生まれで、
彼らとは一まわり以上も年下ということになる。
助﹄、横山光輝﹃鉄人諸問ゴが人気。また貸本マンガが盛ん。ホッピングブ
昭和三0年代を子どもの心と肌で知っている原作者と映画のプロデューサ
ー。これに対し、昭和三九年生まれ、物ごころつくころ、一二0年代は想像上
葉山﹁ケ・セラ・セラ﹂、小坂一也﹁ハ iト・ブレイク・ホテル﹂。流行語
ーム。﹁太陽族﹂が流行語に。流行歌は、一一一橋美智也﹁表愁列車﹂、ベギl
一
の過去の時代となっていた監督によって﹃ALWAYS γ目の夕日﹄は生
まれたのである。
ブl ムが起き始めたころから、心のどこかにひっかかるものがあったのだが、
ある。いや、これは、もっと以前から、いわゆる﹁懐かしの昭和一二0年代﹂
徳のよろめき﹄。三波泰夫﹁チャンチキおけさ﹂、フランク永井﹁有楽町で
糞尿処理をバキュームカーに改める。東京の人口世界一。一一一島由紀夫吋美
昭和三二年二九五七)
に﹁もはや戦後ではない﹂。
︿﹁懐かしの昭和一一一0年代﹂とは、本当に、たとえば東京の昭和一一一0年代な
逢いましょう﹂、浜村美智子﹁バナナ・ボiト ヘ テ レ ビC M ﹁クシャミ三
映画を見、また西岸良平の漫画を読んでいるうちに気になりだしたことが
のだろうか、また、ひとくちに一一一0年代といっても、その初頭と終り近くで
回ルル三錠﹂(三共)、﹁ジンジン仁丹ジンタカタッタッタl﹂(仁丹)。
﹁鳩の街﹂ほかの赤椋消える。売春防止法施行。日劇でウエスタンカーニ
昭和三三年二九五八)
バル。川上哲治引退。皇太子婚約発表。ミッチi ブi ム。﹁女性自身﹂創
は、まったく世相や印刷俗が異なるのではないか﹀という、当然とい、えば当然
ぼく自身のクロニクルにはほとんど関心がない人間が、般の中の時代とそ
な疑問が生じていたのだ。
の空気には妙に気になったりする。そのために、逆に自分の子どものころの
ルに設置。電気洗濯機、冷蔵庫、 テレビがコ二種の神器
l マの休日﹄上映。
刊。東京タワl完成。流行語に﹁団地族﹂。若原一郎﹁おーい中村君﹂、平
昭和二八年(一九五三)
0
﹃鉄道員﹄﹃大いなる西部﹄上映。テレ
尾日田章﹁星はなんでも知っている﹂
昭和ニ七年(一九五ニ)
ット。トニ l 谷の﹁サイザンス﹂が流行。
LO
﹃ゴジラ﹄
テレビ本放送開始。 NHK ﹁ジェスチャ l﹂開始。吋君の名は﹄空前の大ヒ
~音
L
とタイトルされている。﹁干いも L、サツマイモを乾燥したもの
しい臭いでもあった。
な、いわば撮っ辛い臭い。エグ味のある世帯くさい臭いだが、それこそ懐か
丸いチャブ台。これは独特の臭いがした。醤油か味噌をしみこませたよう
ガソリンの臭いが感じられるような気がしたものである。
だった。また、道の水たまりの表面に浮かぶ虹色のガソリンの被膜からも、
自動車も臭いを発していた。当時、車の排気ガスはハイカラな憧れの臭い
コケの臭いがするのだ。
り陽の当たらないいつも湿った塀には、うっすらと緑色のコケが生え、その
原作にはよく描かれる木の塀も、実際は臭いがした。とくに、夏でもあま
も﹂は映画には出てこないが、その味と臭いは懐かしい。
までも食べられるが火であぶったほうが香りがよく甘味が出る。この﹁干い
だろう。これをぽくの家では、単に﹁かんそういも﹂と呼んでいた。そのま
も兄ちゃん
映画での導入部、﹁鈴木オl ト﹂に就職のエピソードは、原作では﹁干い
と、数年さかのほるだけで、ぐんぐんと戦後色が濃厚になってゆく。と、罰
トリップ本邦初の﹁額縁ショ i﹂大ヒット。
マッカl サi 元帥帰国。 NHKラジオ体操復活。ラジオ東京放送開始。ス
昭和二六年(一九五ご
﹂
。
霞。﹁もく星口す﹂大島に墜落。流行語に﹁ヤンキー・ゴ lホi ム
白井義男フライ級世界チャンピオンに。銀鹿に森永の球形の大型ネオン設
ロ
時に、子どものころのぽくの鼻の記憶もよみがえり始める。
そんな疑問が生じたので、今度は昭和三O年以前、 に逆行してみる。
的にも成長著しいものがあったのではなかろうか。
配は﹃一一一丁目の夕日﹄で描かれている世界よりももっと今日的であり、経済
昭和三0年代初頭から前半にかけてでも、すでに実際の祉の中の空気、気
なのだろうか。
出が残る昭和一二0年代H﹀なのだろうか。裸電球と丸いチャブ台の一二0年代
ードをざっと拾ってみたが、いかがなものだろうか。これが︿温か 1 い思い
と、昭和三O年から、東京タワ!の建った三三年までの世相・風俗のキーワ
ビで﹃月光仮面九 C Mでは﹁のり平の固定忠次﹂(桃屋)。
迷裁の絞〈現在、 5
1巻の単行本とスペシャノレ版が刊行されている。
シャープ兄弟と木村・力道山が闘う。街頭テレビが新橋ほか都内タl ミナ
岸良平「三丁毘の夕日 J (小学館ビッグコミックス)
昭和ニ九年二九五四)
の表紙と真 (
r
l
決闘イヒ特別編 J P
4
2
4
3、コオロギの吸)
(ちくま文庫)
F寺島町奇諌(全)J
の表紙と亥 (
P
1
2
4
1
2
5、げんまいパンのホヤホヤ)
煙突から東京タワl へ。生活臭のただよう生活から無臭の生活へ。この急
なのだ。
夕日の中に建ち上がる東京タワーは、もちろん無臭で、電波を送信する鉄塔
れる風呂屋の煙突にせよ、それらは煙をのほらせ臭いを感じさせる。しかし、
漫画﹁一二丁自の七不思議﹂に登場する千住のオバケ煙突にせよ、よく描か
れない。
たちの身の周りから、生活の突いが消えてゆくことを象徴していたのかもし
いや、ことによると、この映画に描かれている東京タワ!の建設こそ、私
臭いを拾い忘れたのだろうか。
す る が 、 映 画 で は そ れ が あ ま り 感 じ ら れ な か っ た 。 映 画 で は 昭 和 三0年代の
﹃一一一丁目の夕日﹄では、ところどころにまだ、その臭いを感じさせてくれは
こういう臭いが生活から消えていったのはいつのころからだろう。漫画の
た。しかも春夏秋冬、季節ごとに微妙にちがう。
もっと言えば、朝には朝の臭いが、夕方には夕方の、夜には夜の臭いがし
滝田ゅう
速な推移こそが﹁懐かしい昭和三0年代﹂の実像だったのかもしれない。
そして、そのトドメが昭和一二九年の東京オリンピックの開催であり、それ
に向けての、それこそ﹁三丁目﹂の街並みなど蹴散らすような怒濡の都市整
備だったのではないだろうか。
テーマパ i クで再現されるような﹁昭和三0年 代 ﹂ は 、 私 に は 壊 か し く な
ファンタジー
い。西岸良平の作品も、そこから生まれた映画も、実に美事とは思う。しか
し、それらは、当然のことだがあくまでもフィクションであり、夢物語なの
である。柴又に﹁寅さん﹂がいないように、﹁三丁目の夕日﹂は現実の昭和
0年 代 で は あ り え な い 。 そ れ を か 事 実 。 と 思 う ほ う が お か し い 。 作 家 に 対
一
しても失礼だろう。
ぼくは、ここしばらくコ二丁目の夕日﹄漬けになっていたが、この問、い
つも頭の隅で思い続けていたのは、東京の下町の一角、戦前、戦中の玉の井
の生活を描いた滝田ゅうの﹃寺島町奇語﹄であった。
ここで﹁きよし﹂少年を主人公として描かれる、したたかな生活臭と生活
音の豊能さは、いっそ豪勢といっていい。その生命力あふれる猿雑さに圧倒
され、昨易しつつも、ノスタルジiを感じてしまうのだ。
﹃一一一丁目の夕日﹄はテi マパ!クになりうるだろうが﹃寺島町奇語﹄はそ
う容易にはなりえない。夢物語とリアルの差である。
坂崎重盛/さかさき・しげもり
エッセイスト。
一九六六年、千葉大学問出装学部法問学科卒業。
横浜市計画局公開凶部を経て、遊戯空間研究所
設立。八一年、出版プロデューサi集団、帆阿
波采討を設立。著書に、﹃﹁秘めごと﹂礼賛﹄
(文春新書)、ご業からはじめる東京町歩き弘
(実業之日本社)、﹃Tokyo老舗・十日町・お
忍び散歩﹄(朝日新開社)、吋蒐集する猿﹄(ちく
ま文康)、吋趨総局術i快楽的生活の発光と壌
文社)など。
能﹂(二玄社)、﹃東京本遊覧記﹂ (um
日本路地-機丁目平会会長を務めるなど町歩き
の達人として活縦、明治期の﹁東京名所絵﹂
やステッキのコレクターとしても知られる。
私のすまいろん
子ども、か子どもで、
冊、炉開であった頃
松出巌
には超高層マンションがニョキッと輩、ぇ、山も廃
ーの先端部だけが見える。あらためてこの光景を
屋群も見下している。旧制の左端の上には東京タワ
この文章を書いている我が家の二階から、廃屋
挑めると、私にはじつにいろいろな思いが湧いて
芝愛宕@東京タワI
になっている隣家が見える。トタン板を張った壁
。
覚、えているのだが、その後の工事風景は記憶から
消えている。通学路からも家並みの向こうに工事
風景はいつも見え隠れしていたはずだが、気付け
ば校庭の向こうに一気に巨大な鉄塔がヌッと現わ
れたという印象が強い。
私はさして東京タワl見物には関心がなかった。
家族も同様で、四歳上の兄も地方から親戚がタワ
l見 物 に 米 た の で 案 内 し た が 、 た だ た だ 人 の 列 が
並んでいた記憶ばかりが残っていると話した。私
にはパリのエッフェル溶の偽物としか忠、えず、展
望台に上るのも嫌で、実際に上ったのは開場して
から十数年後であった。面白かったのは、真夏の
ときである。校庭に白く反射していた強い陽射し
が一転して、黒々とした積乱雲の影でおおわれる
やがて雨が降り出し、パリパリ、ドi ン、ドl ン
と、私はいつも校舎の窓からタワiを見つめた。
と雷がタワl め が け て 落 ち 続 け る 。 あ の 激 し い 光
景は忘れられない。
隣家のさらに隣りも、その前の家も、その隣りも、
は一九五八(昭和三一二)年だが、その年の四月に
東京タワーが完成し、展望台などが開場したの
あの頃には私は気付かなかったが、タワーが輩
その先の家もすでに十数年前から廃屋である。我
私は中学に通いはじめた。私が入った中学の校庭
オリンピックの年には全校生徒を合しても百人ほ
v
ノ¥づh
が家の南側には十数軒の鹿屋が並んでいる。すべ
からは、タワーの工事風景がよく見えた。校庭の
どに減り、廃校となっている。都内で二番目に早
も屋根も錆が浮き、その上を蔓草が這っている。
て大手デベロッパ!の土地となり、やがて臣大な
南側にある小高い丘がタワ!の敷地だったからで、
のクラスメートとは離れて、一人だけでタワl真
町の変貌にさして気付かなかったのは、小学校
に超高層マンションが建設中である。
く統廃合された小学校であり、現在ではその敷地
大きく変貌したのである。私が卒業した小学校は、
郎(昭和一二九)年の東京オリンピックを境にして
、えた時期から、我が町も少しずつ変わり、一九六
再開発が進められるはずで、情地に建つ我が家も、
数台のトラックが土壌を立てて走り廻っていた風
タワ!の下脚部が出来上がった時期だったのでは
景を眺めた記憶がある。おそらく入学した頃は、
二階の窓からは廃屋群の屋根越しに、愛宕山の
ないか。八の字形に鉄骨が組み上った姿は、よく
北側の路地に建ち並ぶ五軒の家々もいずれは同じ
こんもりとした紘が望める。しかしその繰の布端
ように廃屋になるだろう。
中央に、ピJ
レ群に函まれた現在の愛宕山。東京タワーから。
写真/編集部
換えに更地となり、そこに十階建てのビルが建っ
た父の仕事場、石置き場がなにがしかの金と引き
なかった。変化に気付かされたのは、石工であっ
な変動であったことに、中学生の私は考えも及ば
いったことも気にせず、さらにそれが時代の大き
じみとは次第に疎遠となり、彼らが町から消えて
下の中学に入ったためだろう。小学校時代の幼な
である。汽船の姿を見た気もするが、高層ビル群
東京湾がそこから眺められたか、この記憶も援昧
つめれば、江戸湾が望めたらしい。子どもの頃に、
江戸以来の景勝地として名高い。急な石段を上り
い低い山だが、それでも都区内では高い山であり、
る町であった。愛宕山は海抜二六メートルしかな
どない小さな二階家が軒を接して建て詰まってい
ける職人が多かった土地である。彼ら職人たちが
して使ったためである。もともと寺院の仕事を請
たときに、江戸城に近い芝の寺院を仮の公使館と
幕末の開国後、欧米諸国の役人たちが滞在し始め
て職の家をよく見かけた。これも理由があって、
た私の子どもの頃には、洋家具製造と洋服の仕立
増上寺や青松寺など名刺もあり、寺読が多く、ま
の名は、この地が日本の洋家旦ハの発祥地であるた
て洋家具と洋服を作りはじめた。殊に﹁芝家具﹂
まった現状を考えると、どうしてもあれは偽の記
め、戦後も全国でよく知られていた。さらにいえ
公使館の家具を作り、それが機縁となって、やが
のだ。父は仕事場を失い、気力を失い、急に老い、
憶である気にもなる。それでも朝夕に船が鳴らす
ば、骨董庖やコーヒー豆の熔煎業者も多かった。
ですっかり囲まれてしまい、夏に開かれる東京湾
私が大学三年の冬に没した。
汽笛はよく耳にしたし、空を見上げれば、トンビ
これも明治以降に来日した欧米人の趣好や散化に
花火大会の花火でさえ、もはや見え難くなってし
いや、そうではないだろう。中学から高校の私
が円を描いて舞っていたのはたしかに見た。海は
走った日本人のために生まれた職業であったに違
のだが、陵昧である。なにしろ忘れたい思い出な
はまったく嫌味な奴で、時代の変化に遅れてしま
今よりずっと近かった。
たときである。オリンピックの翌年だったと思う
うのは烏鹿な連中たちだとさえ思っていたのでは
変わる、といつでもあの頃は十倍程度のビルだっ
ないだろうか。ちまちました家々が一気にビルに
芝匿であった。ついでにいえば、江戸つ予の代名
宕﹂であった。戦前はこの辺りは、港一区ではなく
子どもの頃、地名は﹁愛宕﹂ではなく﹁芝愛
かといえば、私が子どもの頃まで、それらの職人
なぜ、 このように古くからの町の来歴を語った
いない。
たが、そんな町の変貌を限の辺りにして、これか
寺社に関係する職人も多く、加えて大工、鳶職、
なり商人なりが町のなかで生き続けていたからで
本来は江戸の町人地、つまり下町の西の端にある
材木商、電気応、水道業、建材底、父の仕事であ
ある。他に飾り職、表具職、塗装職、板金職など
いやいや、これも今となってはよくわからない。
愛宕で、小さく商売を始め、次には神田に移転し、
った石工職も各町内には二、一一一底は必ずあった。
詞として﹁芝で生まれて、神田で育つ﹂という一言
ただわかるのは、それだけに東京タワーが建つ前、
活を育て、やがては江戸のや心地である日本橋に
町場の職人たちは仕事のネットワークをあの当時
葉がよく使われるが、しかしそれは誤解である。
一九五0年代前半の町の姿が、私が小学生だった
進出するという、商売の出世スゴロクを意味して
は保ち、互いに仕事を配分していたのである。
で建築設計を学ぽうとしたのではないだろうか。
頃の人びとの暮らしが、より生々しく記憶に蘇っ
いるのである。江戸から明治初頭は、大都市江戸
らは建築の時代とおぼろげながらにも感じ、大学
てくることだ。単なる懐古趣味だと思う人もある
とはいえ人びとは徒歩で往き来をしていたから、
下町の範囲は狭く、東は上野御徒町、西は愛宕辺
手に砂利や砂を扱う唐を切り盛りしていたから、
歩いて十分ほどの新橋には建築金物や道具を扱う
親戚からは﹁砂利屋のおばさん﹂と呼ばれていた。
いま一つ町の来歴を語れば、 江戸以来、 芝には
りまでだったのである。
因みに私の伯母の一人は、伯父の死後も職人相
だろう。しかしあの生々しさはなんだろう。
父親の働く姿があったまち
私が育った町、愛宕は、愛宕山をぐるりと庭な
いている姿を見て知っていた。
た。親たちの仕事は教えられなくとも、多くは働
なく、大半は町に住み、町のなかで仕事をしてい
水道業などなど、企業に勤めるサラリーマンは少
青果庄、酒屋、パン応、時計荷、印刷業、料理人、
チンコ庖、八百屋、理髪応、理容室、レコード応、
立て職、自動車整備業、布地商の他、そば屋、パ
私の小学校の同級生の親たちもまた、家具職、仕
商庖がずらりと並ぶ通りがあったことも懐かしい。
わし実行したのである。銭湯も子どもの遊び場で、
遊ぴを、彼らは放課後に銭湯に集まり、密議を交
し、ワァ l ッと叫んで逃げる。そんなたわいない
がいる。彼らは懐中電灯でアベックをパッと照ら
アベック(あの頃はカップルとは呼ばなかった)
イイ感じの、もしくはより濃厚な場面を展開する
て数人で日比谷公国に出かける、そこにはかなり
たちが考えた遊びで、夜になると懐中電灯を持っ
示を垂れた。少年探偵団ゴッコとは、私の同級生
がいる、今後そのようなことはしないようにと訓
ゴッコと称して、夜間に日比谷公閣をうろつく者
かれていた。石工は月に一、二度探り減った石撃
符が張られ、仕事場の炉の前にも小さな神械が置
には神様がいた。台所には荒神様が、便所にも護
米た。午の日は稲荷に油揚げを供えた。他にも家
仏壇や神棚に供える草花は日々、花屋が届けに
で、むしろ愉しみにしていたのである。
ならなかったが、その日はまた赤飯を必ず炊くの
祝認を奉した。その間、子どもも正座しなければ
には、近所の神社から神職が訪れ、神棚と稲荷に
習慣は彼が死ぬ前日まで変えなかった。毎月一日
点し、手を打ち、なにごとかを祈っていた。この
たミニチュアの神社のような稲荷の小嗣に燈明を
ら南側の一坪ほどの中庭にある、石を刻んで作っ
伝いはした。ふいごにも神様がいて、毎年一一月
ふ
のりと
路地の多い町であった。職人たちの仕事場兼住
近所には四軒あった。私は父と兄と毎晩通う銭湯
に新たな刃をつけるため、炉に火を焚き、赤く盤
テレビ放送は始まっていたが、まだ各家庭に普
八日はふいご祭りを行なった。ミカンを供え、神
うま
まいも長屋か、長屋に毛の生えた程度の小さな建
があって、別の銭湯に集う少年探偵団ゴッコの仲
を熱し、鎚で叩く。炉にはふいごがつけられ、子
じつに豊富で、しかも私の家の前には石置き場が
及せず、なにより子どもたちは路地で、町全体で
事の後にそのミカンを得意先や近所に、九つ、十
こ、フじんご
物で、私は職人たちがいろいろな物を作っている
間には加われながった。校長先生の訓示を聞いた
どもの私もふいごを押して、風を送るくらいの子
あり、そこで毎日のように私は近所の幼なじみと
遊ぶことに忙しかった。現在の子どもたちが溢れ
一個、十五個と奇数にして配る。近所に配るのは
のみ
姿を日々眺め、商人が客とやり取りする様も自然
ときは、叱られた彼らを気の毒と思うより羨まし
一緒にチャンパラゴッコを楽しんだ。寺社の境内
る情報の渦に巻き込まれ、しかも少子化社会であ
子どもの役目で、﹁このミカンはふいご祭りのミ
っち
と覚えた。その上、路地は子どもたちの遊ぴ場で
くてたまらなかった。
も、焼夷弾で焼けた原っぱも、さらに進駐車が立
り、狭い路地まで率が通行するため、仲間と共に
カンで、食べると風をひきません﹂と口上を述べ
S ケン、竹馬など路地の遊びは
あった。べ i ゴ マ 、 ケ ン 玉 、 メ ン コ 、 高 の り 、 隠
ち去った跡地も町のあちこちに点在していたから、
遊ぶチャンスを失っている。私はなんと賛沢な子
れん坊、新蹴り、
遊ぶ場所に不自由することはなかった。
る。ふいご祭りの後は、モチッキから始まって年
末年始の行事が続いた。モチッキは自分の家の分
ども時代をおくつたのだと強く思う。
子どもの行動範酉は、今思えばかなり広い。銀
座 の デ パ ー ト に は エ ス カ レ l タiやエレベーター
ばかりか、近所の家の分もついたから、その日は
父は祖父の代から始めた石工を継いだ。父は朝
こうした神事やしきたりは石工の我が家ばかり
まちを育てる
にも行ったし、日比谷公閣では管理人に隠れて魚
起きると、まず茶の間にある仏壇と神棚の水を替
でなく、 職 人 の 家 な ら 多 か れ 少 な か れ 伝 え ら れ て
に乗りに出かけたし、勝関橋が昇降する姿を眺め
釣りもした。あれはいくつのときか。小学校の校
え、榊や生花を供えてから手を合わせた。それか
多くの人で賑わった。
長先生が朝礼で、近頃君らのなかに、少年探偵団
いたと思うし、それが職人仲間のつながりともな
り、近隣の人たちとの具体的な結びつきになって
まちにゆるやかに聞いたすまい
路地は住まいの一部であり、人びとは草花を育て、
道往く人の限を楽しませてもいた。こうした住ま
いの形も現在では消えつつある。
名が染められていた。印半天は一種の相互扶助を
先や仕事仲間から贈られた半天であり、屋号や氏
れていた。我が家のものもあったが、大半は得意
家には多くの印半天が茶箱にきちんと収めら
加えれば、我が家は狭かったが、家族の他に、働
からこそ人びとは互いに助け合っていた。私事を
本中が敗戦の傷を背食って貧しかった。しかしだ
間は過去の記憶に甘い。まずあの頃を考えれば日
私は、いささか美化しているのかもしれない。人
ば、私たちがこれからの住まいで考えるべきは、
ま気楽に他人の家に入ることは出来ない。とすれ
う身体感覚がある。だから散米人のように靴のま
しかし日本人は住まいのなかでは履物を脱ぐとい
らという提案を本欄で読んだ。面白く興味深い。
さて、 ここまで述べた五0年代前半の町の姿を
証していた。得意先や仕事仲関の冠婚葬祭、ある
き手を失ってしまった伯母(砂利屋の伯母の姉)
五0年 代 ま で は 確 か に あ っ た 気 楽 に 腰 か け る こ と
いたと思う。
いは緊急時には、この印半天を者て職人は駆けつ
一家一二人が閑居していた。そのため兄も私も寝る
リビングルl ムをかつての客聞のように使った
け、必要なことを手伝い、逆に得意先は、我が家
のできた縁であり、仕事場であり、路地であり、
しるしばんてん
にことがあれば函倒をみる。さらには各町内での
町は大人を大人として扱い、大人たちは町を育て
の役割だった。子どもが子どもであったように、
に腰かけ、あるいは仕事場に現われ、ハスと話し込
物を脱いで上る客は珍しかったが、玄関の小座敷
は薄かった。職人の家は客も多い。茶の間まで履
バシーの高い暮らしに慣れすぎて、あの当時の町
い。しかし本当にそうか。私たちは現在のプライ
わしいからこそ消えるのだと意見が出るに違いな
こう述べると、当たり前だ、そんな暮らしは煩
町に聞くことではないだろうか。
ていた。
む客は当然ながら日々数人はいた。子どもの私も
の暮らしを人間関係が煩わしく面倒臭いと思い込
住まいには個室もなく、どの家もプライバシー
場所は茶の間であり、個室などなかった。
しかしこうした関係を壊したのも一九五0年 代
客にはきちんと挨拶をしなければならなかったが、
んでいるのではないのか。私の記憶に残る生々し
行事には率先して参加する。これが一人前の大人
の後半、高度成長が始まった時期だった。我が家
嫌ではなかった。客の多いことは父の仕事が、父
ハンナ・アl レントによれば、プライベイトと
を思い出せば、石工の仕事の基本は、基一石や石塀
碁礎が普及するにつれ、仕事は激減した。石工の
いう用語には﹁欠如している﹂という観念を含ん
きとは、町も大人たちも子どもたちといきいきと
仕事ばかりか、町がビル街へと変わるにつれ、町
でいる。完全に閉じた私生活は人関の真の営みが
の人格が他人に認められていることの証しであり、
場の職人の仕事は一様に激減していった。こうな
欠けているというのだ。あの頃の住まいは扉一枚
を作ることではなく、木造家屋の基礎となる沓石
れば、職人たちのネットワークも、得意先との相
で外部を遮断することはなかった。格子戸があり、
していた姿だ。町も人関も楽しく息づいていた。
互関係も切り崩される。つまり町の在り方が表面
客が腰かける縁があり、仕事場があり、町にゆる
ω
ω
松山巌/まつやま・いわお
作家。評論家。
東京芸術大学美術学部建築科卒業。建築設計
に携わる一方、評論・執筆を倒始。吋乱歩と東
京
﹄ (PAReo出版局)で日本推攻作家協会
賞受賞をはじめ、匂うわさの遠近法﹄(虫一円土
社)、吋問聞のなかの石﹄(文幾春秋社)、﹃群衆い
(読売新開社)、句松山綴の仕事 路上の症候
群ゐ句松山綴の仕事 手の孤独、手のカ﹂(中
央公論新社)、吋建築はほほえむ﹄(西田舎
底)、など著書多数がある。
子どもにとっても誇りであった。
的なビル化ばかりでなく、人の結びつきも変わり、
やかに開いていた。今思い出すのは、夏に家の前
を作ることであった。ところがコンクリートの布
町は町ではなくなっていった。
で縁台将棋を近所の人と楽しんでいた父の姿だ。
見られている。これからの住宅建設は、
るであろう住宅の五五%は二戸建てと
できない。その結果、不健康な生活と
ラは整備されず、公共サービスは利用
は数年かかる。家の建設中にもインフ
宅事情
メキシコのハウジングストック
低所得者情に向けられるべきである。
背景
必要である。これは、平均すると一年
O O年 ま で の 住 宅 需 要 を 満 た す
一
一
一 二
ために、新規に二三一二O 万 戸 の 住 宅 が
メキシコでは、住宅需要はこつの矛
盾した供給方法のもとで噌大している。
ないのは一一一一日うまでもない。周辺に住宅
や品質など疑わしく、安全は保証され
なる。さらにセルフビルドの家の構造
メキシコの現在の住宅はおよそ二郎
地方から都市部へ職を求めて流入す
が建ち次第、インフラの整備を政府へ
インフォーマルハウジング
要求することになる。
iに見るように、この需要は、
る人口と都市部の労働者階級の貧困化
間に約七五万戸となる。
が進んだため、労働者は住民をメキシ
0 0万 戸 あ る が 、 こ の 数 は 、 将 米 の 人
メキシコの社会階簡を六つに分けた小
表
た に 一 八O 万一戸の住宅が必要である。
で、ミニマム、ソ!シャル、エコノミ
コの大都市周辺部に移さざるを得なく
口増加を考えると不十分で、今なお新
今後も都市化による人口地加の加速が
ツクと分類される低所得者層の市場に
a
エルネスト・セディジョ大統領(一
ハウジングファイナンス
とが望ましい。
スを利用し、公共サービスを受けるこ
とで建設し、フォーマルなファイナン
が発行された太地に土地利用計画のも
セルフビルドの住宅は、土地登録証
続くと予想されるからである。
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集中する。これらは、最下腿からせい
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九九四 1 二000年 ) 以 降 、 ハ ウ ジ ン
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議緩幾緩響、一一イ遊設古山川山口
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M住い出
現在、住宅
層である。
久的に保証する土地登録証は発行され
納税を逃れるかわりに土地の所有を恒
額を支払い土地を陣納入する。しかし、
給額の増加を可能にした。
タ ー が ま か な っ て い る 住 宅 ロ l ンの供
ら で あ る 。 表12の よ う に 、 民 間 セ ク
することを、五臼的として改定されたか
の住宅金融の規則が、住宅需要に対処
の一戸建て
な い 。 も っ と 極 端 な ケi ス で は 、 土 地
霊童畿警メ子斜?一町
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緩機饗幾察髪、ンもにな k p
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の割合は八
保有の代価を払わずに、かつてに土地
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五・三%で
ナ リi は 、 こ の シ ス テ ム 改 革 は 成 功 し
もかかわらず、公正ではなかった。コ
しかし、住宅の供給は、制度改正に
ルツシ
ムヤミン
みノヤ
マシノルデス
セルフビルドのため、住宅の完成に
に住むケl スもある。
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ミソエミレブ
後建設され
あるが、今
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グファイナンスが増加した。民間企業
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住宅は、主にフォーマルセクターと
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インフォーマルセクターによって供給
されている。フォーマルセクターが供
給する住宅は、土地登録証の発行にお
いてもインフラにおいても問題はない。
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しかし、インフォーマルセクターが供
(
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)
必要戸数
給する住宅は、住む土地を手に入れた
ものの、上下水道、電気などのインフ
ラ整備がされておらず、さらに治安も
良くない。
一方、最近になって財政計耐が修正
床笛積
戸数
マーケット
セグメント
されたことが住宅供給を加速させてい
る。このような加速的な住宅建設は、
天然資源の消耗を伴う結果となる。
ここでは、メキシコの住宅状況を簡
単に紹介したい。
表 - 1 2003年現在の住宅数および住宅計画数
なかったと主張する。なぜなら、低所
得者への融資よりも、高所得者への融
資のみが優遇されたからである。それ
の住宅購入に限り融資が卦訂されるので
どころか、低額領金者は、中間般向け
公務員および民間の会社員に融資す
みあヲ令。
るメキシコの主な公的住宅供給、五体は
次のとおりである。
住宅基金
①-Z司()之﹀︿可一民間の給与所得者用
③句()ぐ窃
一住宅街の低所得者層向
ν()
、吋日山一公務員の住宅年金基金
②ω国間三全開開発銀行
ω
④明02﹀呂
け基金
図
の
〆
恒
表
フォーマルハウジングに関して、メ
将来の挑戦
中央部は非常に乏しい。メキシコでは
いない。南東部には十分な水があるが、
エネルギーに関してみると、住宅建
キシコの全国住宅委員会は、環境に配
フォーマルハウジングの資源利用
慮した住宅建設基準を開発するプログ
ラムにとりかかっている。開発途上国
政府が補助金を出しているが、補助は、
であるメキシコは、経済発展とともに、
古同い消費を生みはするものの、水のイ
ンフラへの公的投資が低いため、水質
る。二OO三年の全電力消費の二五%
は良くない。
設の傾向は、異なる環境に影響を与え
された。メキシコの家庭の平均的な電
その五O%は適切な設備の使用により
一般家庭では、ごみの分別やリサイク
たりの廃棄設は年間二四O同となる。
部の七五%の一般家庭における一人当
旧態依然としている。メキシコの都市
メキシコのごみ処理方法は、いまだ
関しては、現在解決策がいくつか検討
一方、インフォーマルハウジングに
考える。
境負荷)の概念が実現の一助になると
のためには、環境効率(環境品質/環
天然資源を守ることが章一要である。そ
ジングに統合するために、セルフピル
ュ
ドを規制する政策と小額融資の実現が
検討されている。
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堀田カルロス/(い白ユg
000年、メキシコ・モンテレイ工科
一
一
大学大学院修士課程・建設プロジェクト
マネジメントコ iス修了。メキシコの大
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︿口自﹀説。 nE2
手ゼ、不コン︻口問。aqomQ
3
ハリ﹀)に勤務しハウジング関連業務に携
わる。一一O O四年より東京大学大学院工
学系研究科博士謀総(建築学導攻)在学中。
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国
(
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ω官 。 者 ゲ ) は 住 宅 用 と し て 消 費
電力セクターのかかえる大きな問題
削減が可能となるかもしれない。
ルはほとんど行なわれておらず、ごみ
~再三回
力使用量は一四四キロワット時/月で、
は、北の国境地借の年間平均気温一二O
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されている。というのも、いままでの
2"出.
己~.
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0. : : l 百 ' 0
面 白
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の処理方法というのは、基本的に混合
メキシコシティ郊外 Nezaのインフォーマルハウジング。低所得者層
の人びとは、都市郊外の山の谷間、斜酒i
等に、彼らお身で不安定な土
合のヒに住宅を主主て生活している。
一一メキシコの新聞“ Laj
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試みでは十分な成果が得られていない
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メキシコの州
者、夢想家、結築家:::。伊東忠太(一八六七 1 一
建築家、廃史家、批評家、旅行家、漫画家、教育
ち、その途中にトルコを訪問した。今から約百年前
治三八)年にかけて、伊東は世界一周の遊学に旅立
-)。一九O 二(明治一二五)年から一九O 五(明
トルコ革命を経て、今のトルコでは、トルコ帽も泉
訪問は日露戦争の最中だった。それから二O年後の
らしにも連続している(写真
と、メシl ・メフメット・パシャ・ジャミィのドー
の装飾は、上岡崎奥の柱頭にあった。ジャミィを巡る
八(明治四二年に発表され﹁建築進化論﹂として
察した覚書きが残されている(写真
合って、やはり巧みだなあと感じた。
う人ぴとの表情や身振りに伊東のスケッチが重なり
べl ルもまず目にすることが無い。それでも行き交
3)。 伊 東 の ト ル コ
九五四年)に一肩書きを付けるとしたら、これでもま
に彼が何を見て、何を考えたのか。フィールドノ!
建築から住まいを見つめる限差しは、人ぴとの暮
だ足りないかもしれない。日本で最初の建築史家と
トを片手に追想したいと考えたのだ。
念堂などの設計作品によって今も親しまれている。
gg門あり﹂とメモし
アヤ・ソフィアで﹁千変万化の妙﹂と記した曲線
して知られ、﹁学会改名論﹂や﹁建築進化論﹂を唱
現在、伊東が生波に収集し、生み出した資料の一
口
氏
ロ
白
ムに﹁美なるぴ可 N出
えた明治きつての論客であり、築地本願寺や震災記
部は日本建築学会建築博物館に所蔵され、公開され
伊東の観察は宗教建築にとどまらない。石造と木
た着色スケッチと寸分たがわぬ形と色が見つかった。
知られる﹁建築進化の原刻より見たる我邦建築の前
4)。 一 九O
フィールドノiトの末尾に、将来の日本建築を考
ている。一部とはいえ、量は多大である。活動に対
造を巧みに叫組み合わせたトルコの民家にも視線を向
O
門
口
出
応して内容も幅広い。建築界だけでなく、社会で広
けている。現地でどの建物かを特定することはでき
で、日本では教えられてこなかったピザンティン建
あるらしい。伊東はアジアとヨーロッパの中隠地点
多彩な造形に魅かれている。そうした体験を通じて
築からイスラム建築にかけての太い流れを実感し、
薬害絵i │一九一四(大正一ニ)年から一九五O (昭
予定表、妖怪画など、内容は多岐にわたる。
設計作品のエスキl ス、論文や講演の骨子、日誌、
一万ページを超える。国内や海外での建築調査記録、
書き統けられた備忘録で、全部で七回冊、総枚数は
一九四七(昭和二ニ)年まで半世紀以上にわたって
フィールドノi ト││一八九三(明治二六)年から
を簡単に説明したい。
資料あつてのことである。伊東忠太資料の主な内容
こうして一世紀前の視線を追うことができるのも、
資料の概要
︿日本らしさ﹀の定義も変わっていったに違いない。
物を写真にも写している。﹁非常に七円円宮門巾25﹂
ちに臼を見張る様子が浮かぶようだ。
﹁凡そ東洋的なる﹂というメモから、初めてのかた
トルコは今まで考えられていた以上に重要な地で
範に活用されるべき伊東忠大資料。筆者は務理に携
なかったが、アンカラ滞在中に民家の断面や粁廻り
途﹂と共通するものだ。
わった一研究者に過ぎないが、この場を借りて価値
を丹念に描いたスケッチがある(写真!2)。同じ建
写真一 2 アンカラの民家のスケッチ
を﹁自慢﹂させていただきたいと思う。
伊東の眼をトルコで追う
先日、トルコを訪れた折に、伊東中川太資料の中か
伊東思太資料 倉 方 俊 輔
ら、彼のフィールドノ lト を 複 写 し て 行 っ た ( 写 真
蔵書探訪・蔵書自慢
nHu
nhU
日本建築学会建築博物館
七年に筆者を合む﹁伊東忠大未公開資料特別研究委
子夫人が日本建築学会への寄贈を決意され、一九九
分類し、詳細な羽録を作成された。逝去の後、知恵
にも通じていたことから、大切に保砂一目された資料を
東祐順氏は伊東忠太のご子息であり、中国建築など
は、故・伊東祐順氏と知恵子夫人の尽力だろう。伊
資料が護理、保管されるまでの経緯で特筆すべき
整理と保管の経緯
その他││橋拓本、地図、スケッチ、書類、書簡など。
古 写 真ll国 内 外 の も の が 全 部 で 三O 三八枚。
たものを合わせ、全部で一六四八通。
書 簡li伊 東 宛 の も の と 伊 東 が 親 族 や 関 係 者 に 書 い
生 ・ 大 学 院 生 時 代 ( 一 八 八 九 1九一一一)の日記一七冊。
う き ょ の 旅i j東 京 帝 国 大 学 工 科 大 学 造 家 学 科 の 学
一七枚。
和二五)年まで描き続けられた時事漫画。総数三七
12
員会﹂が学会内に発足した。もし、伊東祐順氏の分
トルコ人のスケッチ
写真一 3
住総研図書室だより
写爽 - 1 フィールドノー胡ト第九巻の表紙
写察 - 4 将来の日本建築を考察した覚謬き
一一図版はすべて、日本建築学会建築博物館所蔵資料より
類と目録がなかったら、われわれは資料の山を前に
途方に暮れていただろう。作成者を良く知る人物が
資料に深く関わる必要を怠わざるを得ない。
ニOOO年 に 資 料 が 正 式 に 寄 贈 さ れ た 後 、 ﹁ 伊 東
忠太資料整備小委員会﹂が新たに立ち上がり、博物
館の勤務経験のある山口俊治氏(玉川大学)を中心
に、保存状況の改善や貸出し・開覧規郎の制定が進
められた。現夜では申請を受け、資料の劣化状態等
間覧や貸出しを行なっている。
を鑑みながら、一定の条件を定めて一般への資料の
ニO O三 年 に は ﹁ 拡 張 す る ア ー カ イ ブ 伊 東 忠 太
展﹂が日本建築学会建築博物館で関かれた。また、
O O三1四 年 に は ﹁ 伊 東 忠 太 の 世 界 展 ﹂ が ワ タ リ
一
一
ウム美術館、 KPOキ リ ン プ ラ ザ 大 阪 、 伊 東 の 生 地
である山形県米沢市の上杉博物館の三館に巡回した。
多くの関係者の貢献の上に立って、今、伊東の業績
が新たに読み解かれ始めている。
誰でも簡単に海を波れる。しがらみから離れて意
見を交換できる。そんな時代になって、ようやく解
決できることもあるのかもしれない。住まいや暮ら
しに関心がある方々に、もっと利用していただきた
い伊東忠大資料である。
念方俊輔/くらかた・しゅんすけ
明泉大学・東京理科大学非常勤講師問。
一九九四年、早稲聞大学現工学部慾築学科卒
業。一九九九年、間大学段博士課程修了。専
攻は日本近現代建築史。伊東忠太および士口阪
絵正の研究により、二OO六年度日本現代繋
術奨励役、稲門建築会特別功労賞を受賞。主
な著書に、主口阪隆正とル・コルビュジエ﹄(王
国松)、吋伊東忠大を知っていますか﹄(共著、
王悶担)、﹃住宅七 0年代・狂い咲き﹄(共著、
エクスナレソジてなどがある。
最近の動き
ws
ライフスタイ/レ j
数多くの意見や提案があり、それらを参
聴取があった。
コレクティブハウジング研究委員会)の成
果を記念事業として、フォーラム、展示会、
イング
財団研究論文集尚お﹂に研究論文とともに
O O七年三月に発行予定の﹁住宅総合研究
恒例の財団交流会聞かれる
掲載される。
住総印刷シンポジウム、すまいろんミニシ
して開催される予定である。
O年記念シンポジウムまたはフォーラムと
中長期計画に基づき、従来のフォーラム、
を利用してバーベキューで、楽しく和やか
当日は晴天にも恵まれ、当財団自慢の中庭
との誌に花が咲いた。
の方々のご参加をいただき、久々に先輩方
今年は、例年に比べて多くのO B・O G
に行なわれた。
スタートするべく検討を加えている。
二O O五年度(二O O四年度研究論文を
OO五年度研究助成論文査読始まる
一
一
社会との連携活動等、より関かれた形で蒋
O月二
七日、昨年と同様に財団の先輩、職員への
研究助成関係では、技術・調査研究や研
創立五七年の記念行事として、一
見直し再生を行なう。住宅総合研究財団研
感謝の気持ちを込めてパーティを間開催した。
出版・機関誌発行および図誉室等の事業も
創立六O年記念卒業は、二O O八年度の
ベi ジ上で閲覧できる閲覧会員制度や地機
究論文集、寄贈された博士論文等がホi ム
ふ'h
のと、従来の活動に創立六O年記念事業の
次に、その他の案件として、二年後に迎
究実践活動も助成対象として枠(助成額)
員会﹂のこつの委員会に話題が集小した。
える創立六O年と公益法人の新制度の施行
・若手住宅研究者を対象に顕彰する﹁住総
を広げる。また、一一月記念式典で、中堅
研大賞(仮称ごを新設する。
の高い財団を目指し中長期計闘を策定して
いること、また、その計一聞の中に創立六O
がほぼ問時期であることから、より公益性
冠を付けて実施するものがある。
卒業活動の一部として新たに設定されるも
財団創立六O年記念事業計画の方針
岡まる
会、浬事会に諮り決定したい設の話があっ
れた。ここで確定された﹁研究評﹂は、二
ニO O七年一月の研究運営委員会で審議さ
﹁研究評﹂作成のための査読が開始され、
ニO O六年一二月からそれぞれの論文の
7/21 第 2
7回1
1
;
総研シンポジウム
ンポジウム、江戸東京フォーラム等は、六
出版・報告書等で公開する。
7
3閲江戸東京フォーラム「杉悶玄
2/24 第 1
白と小塚原の f
士
官f
場
」
3/5 第 3回f
主宅史料研究委員会
3/8 第 64居住教育委員会
4/7 第 8殴住教育論文発表会
1
9同研究述営委員会
4/14 第 1
0
0
7年度研究助成キックオフミーテ
6/14 2
て、一一月定例理事会は滞りなく終了した。
考にして、最終的には一九年度中容の評議員
2/13 買~631自住教育委員会
合む)一一一回編の研究論文が提出された。
員会
1
1
/
1
5 第 5jjj]コレクティフツ、ウジング日「 5
E
委員会
1
1
/
1
6 理事会
1回江戸東京フォーラム委員会
12/6 第 3
1
2
/
1
6 第 6@[ハウスアダフ。テーションフォ
ーラム「出版記念フォーラム」
1
2
/
2
2 ~存 6 羽コレクティブハウジング砂f 究
委員会
2007年
1/1
4 第1
1
8図研究運営委員会
1/1
5 第6
9凶すまいろん公 [
m政談会&ミニ
シンポジウム「今、なぜシェア腿住
か
」
第8
9回すまいろん編集委員会
8回図書情報委員会
1/17 第 7
1/29 第 3図住宅研究史委員会
公開普及事業では、特別課題研究委員会
第2
2凶世界のすまい方フォーラム委
年の記念事業そのものも成り込んでいると
ストハウスー脱・血縁と ~I' ・定住の
(住宅研究史委員会、住宅史料研究委員会、
第 2伺住宅研究史委員会
1
0
/
1
7 第 25@ハウスアダブテーション日わ主
委員会
1
0
/
1
9 第 4凶コレクティブ'ハウジング荷「明E
委員会
1
0
/
2
7 創立記念交流会
1
0
/
2
8 第 1医!コレクティフーハウジングフォ
ーラム
1
0
/
2
9 事1
9
[
司住教脊フォーラム r
i
:
I
:
ま
い
・
まち学手?が"
'
1
:カ論をひっくり返す一
学びの P
!をI
l
J
J
うJ
8凶告1立記念日
11/6 第 5
第 2回住宅史料研究委員会
1
1
/
1
1 第1
6回 l
止界のすまい j
jフォーラム「ゲ
のことで、この二つの計画についての意見
1
0
/
1
0 耳
H7
2i
[
1
)iJ:J='東京フォーラム「日本の
町 家 京l
u
n
誌とJ)1l建の意味」
7的
[
'
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!
[
,I
J
'
I
1
'
,
十
日
委
員
会
1
0
/
1
1 第7
8[i1jすまいろん書編集委員会
1
0
/
1
6 第8
ここでは特に、特別課題研究委員会の中
市唱。
2
0
0
6年
の﹁住宅研究史委員会﹂、﹁住宅史料研究委
して、平成一八年度上半期事業報告があっ
その後、議案の審議に移り、報告事項と
な説明があった。
度改革の現況や今後の兇通しについて簡単
議事に入る前に、辺市中長から、公益法人制
定例理事会が一一月一六日に開催された。
一平成一八年度上半期事業が報告された
関監
L監TT
監良治2
1
イベントだより
異文化交流付賃貸(若者版グループ
ホーム)
第一六回フォーラムが一一月一日、講
クティブハウジングの暮らし・住まい・ま
ムを開催した。﹁多文化社会におけるコレ
第一回コレクティブハウジングフォーラ
講師に、波多野純委員(日本工業大学教授)
ールで、大場修氏(京都府立大学教授)を
の意味﹂は、一 O月一 O 日、北沢タウンホ
第一七二回﹁日本の町家i京町家と卯建
二五年に及ぶ町家研究の成果
稲葉武司氏(建築と子供たちネットワi ク)
ち﹂というテ17で、コレクティブハウジ
第三の住形態﹁コレクティブハウジング﹂
の二人を講師に迎え、第一九割住教育フォ
の司会で開催した。
山悶清氏(俗人イエまちネットワーク)、
ーラム﹁住まい・まち学習が学力論をひっ
ングの先進国であるスウェーデンから、推
取締役)、司会に清水郁郎委長(大同工業
らの知性の脊み方を述べた。稲葉氏は﹁人
もを取り込んだ活動の報告と、実践の判明か
びの質とは何か﹂をテ!?に、地域と子ど
山閃氏は﹁地域を山手ぴ舎にするときの学
かん森田肋住者)、小畑晴治氏(日本間開発構想
て、坂元良江氏(コレクティブハウスかん
ンベリ氏を講師に、またコメンテ!タとし
イン・シェ lネッケル氏とインゲラ・ブロ
進普及のための活動を担ってきたシェステ
型で平入である。卯建はあるが、次第に消
主に旧城下町にあり、京町家と同様に通柱
柱型、家屋形式は平入、卯建がある。②は
る。そして、①は京都にみられ、構造は通
都型町家﹂、③﹁在地刑本町家﹂に分けられ
近世近代の町家は、①﹁京町家﹂、②﹁京
くり返す﹂を一 O 月二九日に開催した。
大学助教授)を迎え、﹁ゲストハウスl脱・
研究所)、小泉殺生氏(小泉アトリエ、研究
師 に 今 一 生 氏 (CreateMedia代 表
鼠縁と非・定住のライフスタイル﹂という
?に、デザインをするカである設計知能と、
工環境学期臼と学力の関係について﹂をテ!
潔知能が総合的に働くことの黍要性などを
吋何かを知っている﹄という知識である学
委員(湘北短期大学)、コ l ディネ!トは小
会委員)をお迎えした。司会は大橋寿美子
の町家にみられる。③は在郷地にあり、構
えて、土蔵造りに変わる。この形態は江戸
日本でゲストハウスが禁場した背景は、
テ!?で開催された。
mされなくなった大都市
谷部育子委員長(日本女子大学)であった。
一部、妻入もある。以上の類裂を中心に、
討論では、町家の地域性、妻入と平入が
九O枚の図と写真を示しての講演であった。
バブル崩壊後、利
の社{吃等を業者が借り上げ、九日現人を置か
8本の子どもたちはいろんなことを知っ
説き、理論的な観点からの意見を述べた。
造は大梁型で卯建はない。平入であるが、
ず、位閣安旅行者や外国人等に一か月単位で
なタイプのコレクティブハウジングがあり、
スウェーデンでは、現在凶八のさまざま
部忌を貸したことにある。一九九0年代後
ているにもかかわらず、それらを応用して
混合している町のとらえ方、海外の吾首入と
半に、インターネソトの北口及により若者を
の象徴といわれるが、卯建のある町とない
平入の世帯刷問、さらに、卯建は防火援や家格
いる。日本においても、少子高齢化、ライ
フスタイルの多様化といった多文化社会の
ライフスタイルとしての一選択肢となって
居住のメリットとして、①住居資が安価、
まち学習﹂は、デザインする、ものを似る、
中で、コレクティブハウジングの瑛念、暮
何かを生み出したり、巡応して問題を解決
②係証人不安のため、フリi タiや外国人
問題を解決するという動きに大きな可能性
らし方、佼まいの形は、住まいやまちづく
することが苦手といわれている。﹁住まい・
の入居が容易、③外同人もいるため、典文
を与える。
小心に主として首都閲で急速に広まった。
化交流のチャンスがあること、④人水族に縛
さらに、ゲストハウスでは管破人不在な
られない脱出胤縁的交流が可能、等がある。
ので、住人の自己支任と
ら多くの活発な怒兇が
会体討論では会制明か
クティブハウジングの価値、成立条件を確
りのひとつの回答といえる。最後に、コレ
究に対し、当財団は研
*講師の一連の町家研
意見交換があった。
あるもの等、近世近代の町家をめぐって、
町の違い、また、片側だけのものと両側に
論へ中央公論美術出
﹃近世近代町家建築史
(参考図書一大場修者
在が欠かせない。そして、忍耐強く活動し、
版、二O O五年)
究助成を行なった。
情報提供していくことが重要であると述べ
事業主体、行政の支援、居住者と事業者・
られた。
行政のつなぎ役となるコーディネータの存
めにも、価値を理解し事業として取り組む
稲葉氏(左)と山田氏(右)。
認した。今後日本で実現・普及していくた
出た。地域のやで子ど
もと地域住民がともに
成長する、品)十社融合に
り返せるのではないか、
よって学力論をひっく
って締めくくられた。
という希望的見方をも
大場氏の講演の様子。
なる。そこで、伎人松互
のコミュニケーションが
必須であるため、引きこ
もりやD V被害者の社会
復帰の第一歩となる可能
性にも言及した。
今氏(右)と清水委員。
ニ パ │ サ ル デ ザ イ ン つ て な に7h(あ か ね
委員会﹂を設置した。調査対象マンション
三月に報告書に纏めた。この報告書を踏ま
臨書室だより
え、新たな事例も多数取り入れながら、日
る た め に ヒ ア リ ン グ を 実 施 し 、 二O O五 年
日さまざまな課題に取り組んでいる管理組
を五三件に絞り、内在する問題を深く捉え
所蔵雑誌では、﹁ユニバーサルデザイン﹂
バーサルデザイン﹄(同)等を受け入れた。
合、専門家、行政の方々の一助となればと
ルデザイン﹄(向)、中和正彦吋まちのユニ
今 川 は 、 二O O六 年 九 月 か ら 一 一 月 に お
や ﹁ 都 市 計 画 ﹂ の 二 六O 号(一一O O六年)
考えこの本を出版することになった。
書房)、足野恭子﹃くらしの中のユニバーサ
凶書室で受け入れた図書を中心に紹介する。
で、ユニバーサルデザインと共生社会とい
学益出版社内山
m
べ│ジげ
A 5判
2520m円
(税込)
ハウスアダブテ!シヨンの事例から﹄
﹁自分らしく住むためのバリアフリー
住宅総合研究財団・編
O例 取 り 上 げ て い る 。 多 く の 人 に と っ て よ
れた事例を、第一部で一五例、第二部で一ニ
ったコンクi ル に よ り 日 本 全 国 か ら 寄 せ ら
本書では、財団が五年間にわたって行な
ア ダ ブ テi ションの考え方である。
円未で心満ちて快適に暮らす、これがハウス
に合わせて替えてゆくことにより、自分の
めない。家や周辺の人や環境も含めて自分
高齢になっても、障害があってもあきら
u
y
r
H
う特集が組まれている。
二O O六 年 一 月 に 逝 去 さ れ た 苅 附 倶 也 氏
故菊岡倶也氏伺蔵資料を受入
図書室案内
の川蔵資料を、箔同氏が館長を務めていた
建設産業凶書館より為的を受けた。建築・
開 室 時 間 一 九 二 ニO i 二ハ一 O O
一
ニ
一 O Oは 係
(一二・ 001 一
建設関述の社史、機関・同体山丸が小心であ
休室・土問拙日日限日祝祭日他
員対応業務は休み)
﹃都市開発協会卜年決へ﹃住宅金融公山仲間
利用資格一一八歳以上の方
八し凶建設研修センター)、
卜 年 史 へ よ エ 建1 0年 の あ ゆ み ﹂ ( 会 間 後
利用形態二一刊全開架式(資料貸出はしておりません)
L(
設業協会)、吋東急建設の二十五年へ﹃雌鳥
詳細お問い合わせは
﹃
一
一
一O年 の あ ゆ み
る。﹃時・人・大林一八九二一九九ご、
山地設社山丸一九七O 年 ! 二000年 へ ﹃ 東 武
c
r目=・ 0戸}也¥門C印可。﹃﹁D口円eEE
﹃片付日)一¥¥宅当者︺巴凹
マ ン シ ョ ン 符 現 セ ン タi)、 等 で
住宅総合研究財団小規模マンション研究委
管理と逮営の事例問﹄
吋小規模マンション│闘ったときの処方議 1
新刊だより
建 設 五O年 の あ ゆ み へ ﹃ 戸 剖 建 設 百 二 十 年
山台、﹃建築研究所K O年 ヘ 吋 三 井 不 動 産 開
L(
十年史ヘ﹃東陶機器七卜年山台、﹁二O 年の
あゆみ
みの↓心。
ユ ニ バ ー サ ル デ ザ イ ン ・ バ リ ア フ リ j等 に
関する資料
当 財 団 主 催 ハ ウ ス ア ダ ブ テi ションコン
クールに寄せられた事例の集大成である
次号予告
側年春号
特 集 H今、なぜシェア岩住か
︿住山市⋮﹀
今、なぜシェア居住か
小林秀樹(千楽大学)
︿公開座談会﹀
共に暮らすことの意味
鴎谷拓(商谷荘)
篠原靖弘(松蔭コモンズ)
司 会 H小 林 秀 樹 ( 千 葉 大 学 )
︿ミニシンポジウム﹀
シェア居住を考える
初見学(東京理科大学)
小林秀樹(千葉大学)
司会日小林秀樹(千葉大学)
四月発行
︿記事﹀
関西におけるミングルと共生居住
丹羽哲矢(久米設計)
ビジネスモデルとしてのシェア居住の可能性
γ土砂映(千葉大学)
高齢単身者のシェア居住
三浦研(大阪市立大学)
︿すまいのテクノロジー﹀
小竹のシェアハウス
高 橋 真 奈 美 ( プ ラ ネ ッ ト ワi クス)
︿私のすまいろん﹀
日欧でシェア居住を経験して
定行泰甫
小規模マンションは、東京二三区内だけ
岩波書応
していただくために出版することとした。
らしく生きるためのよりどころとして活用
丸井隆人
︿すまい再発見﹀
曙ハウス
︿ひろば﹀
シェア居住と家守と団地の祭り
田中・様子・柏尾(千葉大学)
でも、一ニO 戸以下のものが約三四%を占め、
りよい住まい、つくりのヒントになり、自分
波書脳)をはじめ、藤本中川久吋福祉小丹市川学
管理運常など、いわゆる﹁小規模マンショ
員会・編著
入門﹄(鹿ね出版会)、日本建築学会﹃Q &
三日一分らしく住むためのバリアフリl﹄(山石
A高齢者の住まいづくりひと工火﹄(中央法
ンにまつわる問題﹂が多く存在し、社会的
mベi ジ
A 5判2205問
にも大きな課題となってきた。
︿住総研ニューズレタ│﹀
︿図書室だより﹀
東京芸術大学大学美術館
光井渉(東京芸術大学)
タイトルは仮題、執筆者は変わることがあります。
(税込)
規出版)、坂本務治﹃バリアフリl住宅﹁計
住 総 研 で は こ の 問 題 に 着 目 し 、 二O O
二
一
年に﹁小規模マンション管理に関する研究
画・設計﹂パーフェクトマニュアル﹄(エク
スナレッジ)、武村誠﹃建築家のためのバリ
アフリi の知識﹂(オl ム社)、成松一郎﹃ユ
d斗pnu
募集開始
研究・印刷・出版助成係
明 記 し 一 回O 内切手を貼る)を同封して申し込む。
ードする、または、返信用封筒(角二封筒に宛名を
申 請 用 紙 一 当 財 鴎 イ ン タ ー ネ ッ ト ・ ホ ー ム ペ l ジからダウンロ
(消印有効)
印 刷 助 成 お よ び 出 版 助 成 は 二O O七年五月末。
応 募 期 限 一 研 究 助 成 は 二O O七 年 二 月 末
応募方法一所定の申請用紙により、財団宛て提出する。
選考方法一-当財団研究運営委員会で選考し、程事会で決定する。
州共通事項
容一出版絞受の一部を出版社に直接送金する。
数一数件程度。
除く。
応募資格一グループ、他人を向わないが、既存の団体・級織を
版予定の未発表の研究成果。
た研究でありながら、公刊の機会に窓まれない、出
象一住関係分野、あるいは、他分野に及ぶ学療的な優れ
制出版助成
O O七年度 住 宅 総 合 研 究 財 団 助 成 募 集 概 要
ーーーニ
研究@印刷@出版助成
川研究助成
を含む。
象一住関係分野の研究とし、他分野に及ぶ学際的な研究
体・組織を除く。
応募資格一当該研究のためのグループとし、他人、既存の団
O O万円程度。
一
一
ニO O八年一
O月コご日まで
件数・額一一一一O件程度、一件当たり一 001
の一七か月問。
研 究 期 間 二O O七年六月一日 1
同一研究論文は、当財団発行の﹃住総研研究論文集﹄
に収録し、関係機関へ寄贈するほか、丸善株式会社
から発売する。
∞印刷助成
象-住関係分野、あるいは、他分野に及ぶ学際的な優れ
た研究でありながら、公刊の機会に恵まれない、原
稿が完成している研究成果。
除く。
応募資機グループ、倒人を関わないが、既存の団体・組織を
数数件程度。
容一当財団が印刷・公刊し、著者、関係機関へ寄贈する
ほか、丸善株式会社から発売する。
cmFF3也一¥¥さ考委・︺ロ∞o
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回一]宵巾ロ}内山、ロ⑤︺己的
o
r巾門戸O円・︺℃
γml附東京都世出谷区始時例4丁目 m
一
番8号 電 話 一 03:348415381 FAX一03348415794
u
申請用紙申し込み先・応募先財団法人住宅総合研究財罰
立
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内{牛
立
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公
、
士I
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牛
﹁すまいろんいのご購読について
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月、夏口す七月、秋号一 O 月です。したが
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幻
一
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千代間区神間神保町 l
﹁すまいろん﹂は次の応頭でも販売しており
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@南洋堂堂日時
財団法人住宅総合研究財団
一
Tmi附主口小都世間谷区船橋四了目 mU18
郵便振替“東京 D O l l B 3 6 6 3 9
電話(03)348485381FAX(03)34845794
集合住宅歴史館
昭和 3
0年代の集合住宅と再会する
写真と文/志岐祐一
たことのない者は、どこから借りてきたか慌
寮で、日々を送っていた。と、当時を経験し
アパートで、あるいは同僚と相部屋の会社の
明日の姿をダブらせながら、共同便所の木造
若者たちは、問地族に羨望と嫉妬の限差しで
ートの生活が始まっていた。都会に出てきた
九五八)年、銀座に程近い晴海では高階アパ
東京タワーがその姿を現した昭和三三(一
常備されたものである。セールスポイントの
ダイニングキッチンとして利用されるように
は当時安価なイスやテーブルが無かったため、
チンにはテーブルも展示されているが、これ
九五八年から正式採用。またダイニングキッ
ス流し台は、公団発足後に開発が始まり、一
石研出し。 2DKと と も に 諮 ら れ る ス テ ン レ
のである。流し台はステンレスではなく人造
けられている。近年すっかり見なくなったそ
能を確保するため階段側には無双の地窓が設
挟んで南北にレイアウトされていて、換気性
の連続長屋である。二階の二部屋は、階段を
側 は 三 畳 間 の 3 Kに専用践がつく。標準六一戸
と台所、風呂と便所、二階に南側に六畳、北
いう。さて住宅のほうは、一階に問・五畳間
駅で夫が履き替えた長靴を持って帰宅したと
既にレトロ感が漂うものになってしまったが、
⑧集合住宅歴史館
団 地 や ダ イ ニ ン グ キ yチンという一一局葉自体、
ものだったか?
て昭和一二0年 代 の 集 合 住 宅 の 実 体 は い か な る
しい勝手な恕像を働かせてしまうが、果たし
いて水漏れでトラブルが生じたなどと、こと
洗液機置き場に困り、バルコニーや廊下に置
スノコを取り外すと底の深い洗濯流しとなる。
を作って見せたのである。また浴室の洗面は、
初 め は 、 と に か く あ る 技 術 を 動 員 し て 2DK
に公団が取り組むのはもうしばらく後のこと。
ている。 B F釜 や 非 木 製 浴 槽 の 開 発 、 規 格 化
一つであった浴室には、木製の浴槽が置かれ
カ ッ ト を 採 用 、 型 枠 の 転 用 性 を 高 めpcaも
の内法寸法を統一し、内装材を共通化、プレ
る構造体断磁の変化を外部にとることで継体
大きな目標であった。そのため上下階で生じ
ので、中層住棟に遜色ない建設費での実現が
駆けて、公団が前川図努に設計を依頼したも
九五八年入居)である。米るべき高層化時代に先
となり、住宅の影が薄くなってしまったが、
でない。洗漆機の普及のほうが予想外だった。
洗濯をする場のことを考、えていなかったわけ
の採用により、将来における規模拡大の可能
計が行なわれた。もちろんメガストラクチャ
多用するなど、生産過程にまで踏み込んだ設
三番目は晴海高層アパート(東京都中央区/一
その苓及に大きな役割を果たしたのが昭和三
洗漆機については公毘住宅に分が強いのだが、
んな部分を見つけては捻る見学者も多い。
である。現在では独立行政法人都市再生機構
O (一九五五)年に設立された日本住宅公団
集合住宅に関するさまざまな技術開発を行な
@テラスハウスと高層への取り組み
う と と も に 、 賃 貸 分 談 合 わ せ て 延 べ 一 五O 万
の都市機構が、東京都八王子市の都市住宅技
日本一の大家であることに変わりはない。そ
クト。と、これも時代がかった話になるのだ
理事業による衛星都市建設のモデルプロジェ
常盤平岡地(千葉県松戸市)とともに土地区画整
日野市/一九五八年入居)である。多摩平団地は、
二番目は多摩平団地のテラスハウス(東京都
この建物のデザインの本質があると思う。
と材料の関係を突き詰めていく設計の姿勢に、
めモルタルを多用する作り方に対して、部材
ートの施工技術や精度の悪い部品をつなぐた
でもない。しかし当時の未熟な鉄筋コンクリ
性を確保したことや、意匠上の特徴は一宮、つま
一戸を供給し、現在も八O 万 戸 近 く を 管 理 す る
術研究所に集合住宅歴史館を開設している。
が、﹁都会の劣悪な環境をのがれ郊外に住む﹂
集合住宅歴史館では、公団側制成期の三つの
⑧凶枚の玄関扉
⑧公団住宅のはじめ
タウン﹄として登場した。旬以寄のJ R中 央 線
を呉羽化した団地で、﹃富士山がみえるニュ i
中層の北入り階段室型で、公団住宅の代名詞
年入居)。公団住宅入居第一号団地ではないが、
は夫婦そろって長靴を履いて出かけ、道官は、
路は舗装されていなかった。雨の日の出勤に
豊岡駅は、当時は本数も少なく、駅までの道
した﹁住宅設備の変遷モデル﹂、建築、電気、
台所、浴室、便所などの水周りの変化を展示
官山アパートのニつの住戸や、公団発足後の
このほかに集合住宅歴史館では、同潤会代
一つ目は、蓮根鴎地(東京都板橡区/一九五七
住宅が移築部材を使って再現展示されている。
ともなる2 D Kの 標 準 的 な 間 取 り の 最 初 の も
右/蓮根団地 2DKの 6畳 間 か ら ダ
イニングキッチンを望む。
下/蓮根団地の浴室と i
先濯流し。洗
面用にスノコを置いている。
建築部品の変遷と 4枚の玄関扉。奥
から順に公営古石場、同 j
閉会鷲谷、
公団。
機械の部品をテ!?にした﹁集合住宅部品の
年後のすまいを田ゅう
五O
団 発 足 後 の こ の 五O年 は 、 こ と 技 術 の 革 新 の
﹁住宅設備の変遷モデル﹂を眺めると、公
﹁集合住宅部品の変遷﹂には、四枚の玄関
歴史であったなとつくづく感じる。歴史館自
変遷﹂などの展示が行なわれている。
扉が展示されている。一枚目は、東京で最初
体、昭和四八(一九七三)年から始まる住宅
面も高さ方向もなんの不足も無く納まってい
部 品 オ ー プ ン 化 を 目 指 し た 研 究 の K E P実 験
る。住宅の空間も確かに大きくはなった。機
に 建 設 さ れ た 公 営 集 合 住 宅 、 古 石 場 住 宅 (一
の不燃化を目指した非木造集合住宅の生活に
能性、安全性、生産性、経済性、どれを見て
九二三 ) の も の 。 木 製 桓 戸 は 非 常 に 頑 丈 な つ く
おいて、どことなく住人の気配を感じさせる
も明らかに前進したが、そのベク トルに間違
た 躯 体 に 、 昭 和 三0年 代 の こ れ ら の 住 戸 は 平
仕掛けを見ることができる。二枚目は同潤会
いは無かっただろうか。歴史館を訪れたとき、
棟を再利用したもの。次世代の住宅を試行し
鴬谷アパートこ九二九)の銅製桓戸。その二
ノ ス タ ル ジl の 先 に 何 か を 見 つ け て も ら え れ
りではあるが、通風を得るために設けられた
年前の代官山アパ ート で は 、 木 製 の 建 具 を 金
ば幸いである。
無双窓やその両脇のすりガラスには、初めて
属板で覆って耐火性能を持たせていたが、関
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棟つ川崎町問。
一九九O年、東京都立大学工学部建築工学科
卒業。九六年の代官山アパートの調査、住 戸
再現を機に、集合住宅歴史館の企画・整備 ・
展示にかかわる 。主な展示に﹁東京建築展﹂
(
江 戸東京博物館 二O O二)、わたしの同潤会
アパト展(建築博物館二 O O三)、戦前住宅
の再現(渋谷区博物館二 O O五)、昭和 三0年
代の公団住宅(花王ミュ lジアム 二O O七)
などがある。関東学院大学非常勤講師。
日東設計事務所。
志岐祐一/しき ・ゅういち
東大震災の復興も一息っき、ようやく鋼製の
建具を採用するに至った。ここでも建具の上
半分にはめられているガラスに採光の機能以
目 二 九 五六 ) の 銅 製 枢 戸 。 表 面 は 装 飾 の 無 い
上のものを感じる。三枚目は、公団発足二年
が付いている。シ リ ンダー錠の採用により鍵
単板となり、来訪者を確かめるだけの覗き窓
一本で公私を分けることができるのも公 団 住
宅のセールスポイントであった。新たなコミ
ュニティでは、団地内の非常によく計画され
た遊ぴ場や商庖街、集会所でのサークル活動
が社交の場となった。そして玄関扉は、プラ
イベ ート な 機 能 と と も に 家 庭 内 の 問 題 の 多 く
を閉じ込めてしまった。四枚目は、プレス加
工が導入され、安価で大量の生産が可能にな
ったもの。その後、窓は小さなドアスコープ
に な り 玄 関 扉 の ス タ ン ダ ー ドになっていった。
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への出演を承諾して下さり.
、また美術担
当のず
上僚安星写 ん も執筆を快く引き受け
て下さったこミであった 。
電話で山崎さんにお願いした除。
に﹁私
編集後記
﹁すぷんのん﹂の編集委員会メンバー
が老荘の域に達しているためか、 全員、
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﹁ 称 H住総研)は
住宅総合一研究財団(
昭和二﹂ 二年、当時め清水建設社長・清水
ヂ刊すまいろん獅年寄
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二O O七年 一月 一五日発行
発行日財団法人住宅総合研究財団
500円
発行人 刑峰政克義
頒価
一住宅の総 合酌研究、および成果の公開 、
守康雄によ 北 戦後の窮迫しわ住宅問題そ、
一実践、普及によって解決オるごとを目的
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しでくる 。円映 画 底 督 の 毎 日 は 脊 椎 運 動
T E L、(03)348415381
一 現 在 は 住 宅 下 問 す る 研 究 助 成事業を中
FAX(93)348415794
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の連続官、 一瞬間的に意方決定しなければ
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一心とし、寸住宅総合研究財団研究論文集﹂
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山崎久んご自身の言葉 町
一中谷礼仁さんに熱烈に支持さ打たために
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一に立つよう、公益事業につとめております? 片山和俊(東京芸術大学建築科敬夜}*
しまっ
まって,
本国守編集中に、同じスタッフ・配役で、
?日 L で‘いく、と瞬く聞に決、
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﹁すまいろん﹂は、活動の 一環と
一この 小林秀樹(千葉大学工学部教授)
一た。担当者としては、﹁三丁目﹂という
分度は高速道路ができる前の日本橋を舞
中谷礼仁(大阪市立大学建築学科助教授)
一と、透くを見つめるような表情で熱く映 ' 台に ﹃
続 ・ALWAYS三丁目のタ眉 ﹄
一して、成果の 一端を、市民、実務者、研
服部本生(千葉大学大学院名誉教授)
が本年一一月に封切かれるごとが発表さ
一一幽論会語る編集委員め面々・材団職員の
一究者の皆様に、より広く、より手 軽にご
野城智也(東京大学生産技術研究所教授)
守方々の期待のプレッシャーを受けるなか
れた。住総研図 書室の秘 書 に山崎さん、
一理解い えだくとともに きその意完交流の
一で、編集企画をスタ ートさせるこどにな
ったが J も
土俵さんは関心をお持ちであ、
一場に なることを願って刊行(季刊)され
、
一った。
しかしたら、図 書室の古い資料類が昭和
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一ているものです J ζ利用のほど、よろし も - 'f u '
一幸運だったのは、何のってもなく飛び
の映像再現に活用事れることになるかも a 一
3
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制作 H建築思潮研究所
一くお願い申し上げます 。
印刷・製本 H慶昌堂印刷株式会社
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しれない 。次 作が本当に楽しみである 。
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