秋 田 大 学 要 』

Akita University
秋 田 大 学
要
』
総合 基礎教 育研 究紀
『
特集 諸民族の社会 と文化
2
5-31
(
1
9
94
)
[
バ リ島の文化 と音楽
∼バ リ島 の 音 楽 的知 か ら∼
博
桂
章*
は じめ に
近代 ヨー ロ ッパ にお いては,個 人の 自我や合理性 に基づ く思考 方法,並 びにそれ に基づ くコ
ー ド体 系が発達 して きたが,近年, 人類学 の分 野 では, フ ィー ル ド ・ワー クを通 して, それ と
は異 な る価値体 系 を持 つ世 界が発 見 され,研 究対象 とされ るよ うに なって きた。 山 口昌男は,
「人類学が ここ十数年, 欧米 あ るいは 日本 にお いて問題 展 開, 深 くかか わ って来 た術語」 とし
,「狂気」,「身体 」,「トポス」, 「パ フォーマ ンス」等 を挙 げてい る (山 口 1985)0
て,「異常」
これ らの概 念は, 西洋の合理 的思 想が人間の存在 を考 え る場合 に無視 して きた, あ るいは排 除
して きた概 念 であ る と言 え る。 しか し, 山 口が 言 うよ うに, 人間に とって負の要 因であ る と考
え られ て きた,これ らの側面 を含 んだ存在 が人間 であ り,また,特定 の文化 を考察す る場合 も,
「見 えない闇」の部分 に もHを向け るこ とが必要 であ ろ う(
山口
光 の部分 だけではな く,
1
984)0
音楽学 にお いて も,主 た る研 究対象 を西洋音楽 として きたため に,音楽 の捉 えか た も,西洋
音楽 の体 系 を範 とす る傾 向が あ った。つ ま り,理性 と合理 的 コー ド体 系 に基づ く西洋音楽 に価
7
世紀
値 を与 え,それ以外 の音楽 を周辺的 な もの として位 置付 けて きたの であ る。北沢万邦 は,1
から1
9世 紀初頭 にか けての音楽 を含 め た ヨー ロ ッパ の芸術観 を, 以下 の よ うに説明 して い るo
「
全 ての 『
事物』 は 『
言語』 に よって対象化 す るこ とが可能 であ り, その よ うに して対象化
され た 『
言語』は 『
理性』に よって把握 され るこ とが可能 であ る。 この場合
,『言語』は単 に概
念言語 であ る とは限 らない。芸術 の各分 野 にかか わ る, 固有 の 『
言語』 といいか えて もよい。
いずれに して も, ここでは,感情 の領域 を通 じて 『
知覚 され た もの』 は, つねに 『
概 念化 され
た もの』 として理性 の領域 で とらえ るこ とが可能 であ る とされ ていた」 (
北沢
1
986)0
西洋音楽 にお いては,平均率 と和声法 の獲得 に よって,理性 に よる合理化 が可能 にな り, 普
楽 の表現 の世 界が広 まった とい えるo Lか し,合理 的 コー ド体 系 を徹 底 的 に追求 していけば,
人間存在 の基盤 とな る,不合理 な面 を切 り捨 てて しま うこ とに な り, 音楽 が 人間か ら疎外 され
る状 態 を招 くこ とにな る。 ま して現代 において は,北沢が言 うよ うに,作 品 を通 じての作 り手
と受 けて との互換 的伝達 を可能 とす るひ とつ の共 同体 が成立 しに くいの で,作 り手 と受 け手 と
の間は, もはや鏡像 関係 では な くな り,「人格 的 な ものであろ うとマ ス・メデ ィアに よる非 人格
的 な もの であ ろ うと,非互換 的 で一 方的 な伝達 作用 が現 れ る」 (
北沢
1
988)0
この こ とは, 日本 の現代 の音楽教育 の なか に も,容 易 に見 て とるこ とが で きるO 日本 の学校
では西洋 の古典 音楽 が人類が作 り出 した音楽 の なか で,至上 の もの として考 え られ て音楽教 育
が行 われて い るが 1
)
,それ に もかか わ らず,一般 人で西洋 苦楽 を愛好 して い る者の数 は多い とは
言 えない。 また, 音楽 を専 門 とす る大学生 は,教職 に就 いて後 に, 自己の音楽 的噂好や 音楽 的
位 置 を生徒 に示す こ とが ほ とん どな く,大学 で学 んだ体 験 と教職 につ いてか らの音楽教 育観 と
の間に, 断絶 が生 じてい るか の よ うであ る(2)0
- 2
5-
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この ように,音楽におけ る合理的 な コー ド体 系は,合理性 を徹底的に追求 した者,あ るいは,
よ く訓練 された技術や耳 を持つ個 人に とっては,豊か な世 界であ るが,一般 人に とっては, 了
解す るこ とが 困難 な世 界である と言 える。
これ らの こ とが産 まれ る一 因に,「
西洋の古典 音楽は,謂 わば光 の部分 として捉 え られ るため
に,積極的に追 い求め られて きたが, しか し,.
一般 人に とっては,光 の部分 だけ を自己の世 界
観 のなかに組入れ るこ とが 困難 であ る」とい うこ とが あるか もしれ ない。従 って, 多 くの者 は,
西洋 の古典 音楽 を,啓蒙的 な もの, あるいは教養 として受 け入れ るか,無関心 に なる以外はな
い。
最近 の民族音楽学 では, 人類学等の方法論の影響 を大 き く受 け,音楽 を人間の持つ不合理 な
面 を も映 し出す鏡 として捉 えようとす る傾 向が あ る。 その意味 では, イン ドネ シアのバ リ島の
音楽 は,音楽 の演奏や構造 の中に人間の不合理 な面 をも取込んだ興 味深 い存在 であ る といえる。
この小論 では,バ リ島におけ るこの ような音楽的知 の在 り方 を論 じるこ とに よって、合理的 な
コー ド体 系だけに基づ か ない音楽 と人間 との在 り方の一例 を示す と共に,併せ て,現代 日本の
音楽の在 り方に対 して示唆 を得 るこ とも目的 としてい る。
1.バ リ島の文化 におけ る両義性
「人間の心の中には善 と恵の両方の面が あ り,全 くの善 人や全 くの悪人はいない。 お腹が空
いていた りした時 には悪の部分 の割合 が 多 くな り,幸せ な時には善 の部分 の割合 が 多 くなる。
人が悪 いこ とをす るのは,その人の悪 の部分 が 多 くな るか らだ」
(
3
)
とい うのが,バ リ人の人間に
対す る基本的 な考 え方であ る。 人間の行為 は このふたつの極 の相対的 な割合か ら生 じるもので
あ り,物事 を明確 に規定す るのではな く,相対的 な もの として捉 えようとす る。愛媛 県 とほぼ
同 じ面積 の島に,2
0
0万人余 りの人々が住 むバ リ島では,善悪 を明確 に規定す ると,人々の間に
緊張や対立 を生み,共 同の農作業が不可能 になるので, この ような人間に対す る認識の仕方が
生 まれ たのだろ う。
人間の悪の面 を肯定す る とい う世 界観 は,バ リ島の伝 説におけ る世 界観 に も反映 されてい る。
有名 なチ ャロンア ラン伝 説は,新 しいエ ビ- ソー ドが挿入 され るな ど,様々 な改変が加 え られ
ていて,現在 では聖獣バ ロンの伝 説 と結 び合 わ されて観光客 のために演 じられ るが, 元の筋は
以下の ように展開す る。
「
1
1世紀 のは じめに,バ リの王子が ジャワの大王エル ランガになった。母 の大后チャロンア
ランは,ジャワ王家の出で,バ リ出身の夫,つ ま り国王 とともにかつ てバ リ島を も治めていたO
ところが国王 (
ェル ランガの父)は后が魔法使 いであ るこ とに気がつ き,后 を森 に追放 した。
国王が死 ぬ と,や もめ となった大后 -チ ャロンア ランは,魔法 を教 え込んだ弟子 た ちを使 って,
息子 であるエル ランガの王国に復讐 して,王国 を荒廃 させ よ うとした。 そ うした復讐 のかげに
は, チ ャロンア ランの美 しい娘 (
ラナ ・メンガ リ)に, 貴族の若者が誰 も結婚 を申込 もうとし
ない こ とへ の恨みがあった。
大后 -魔女 チャロンアランに よる王国破壊 の謀みにたい して, エル ランガはや む な く兵 を送
ってチ ャロンア ラン とその一味 を滅ぼ そ うとして。 けれ ども彼女 の恐 るべ き魔力の まえには,
手 も足 も出なか った。 そこでエル ランガは,高僧 ムプ ・バ ラタに助 け を求め, 息子バ ウラをチ
ャロンア ランの娘 の許 に送 った。 その娘 の心 を掴 み,母親 チャロンア ランの魔 力の秘密 を知 る
ためであ る。計略 は まん ま と成功 した。魔力の秘密 を知 ったムプ ・バ ラダはチャロンア ラン と
その手下 たちを退治 しよ うとし,激 しいたたかいの末 に, チ ャロンア ランを滅ぼす。 ムプ ・バ
-2
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ラダは, 呪文 の力に よってチ ャ ロンア ラン を うち負か し,滅ぼす が, その際罪の赦 しを与 え る
の を忘 れ る。 その ため もう一度彼女 を挺 らせ た上, その罪 を慣 わせ, ふ たたび滅ぼす こ とにな
る」 (
中村
1
983)。
この筋 では,最 後 に 「
悪」, あ るいは 「闇」の世 界の象徴 であ るラン グ
が滅ぼ され るが,劇
(
4)
の クライマ ックスは ラングが勝 利 を納 め, 誇 らしげ に ダ ンス を踊 る場 面 で あ る とい う (
中村
1
983)
。 また,プ リタア タン村 のガム ラン(5)の グルー プの演 出では,最 後 にバ ロン とい う聖獣 が
登場 し, ラング と決着 のつか ない戦 い を続 け なが ら,物語 は終 わ る。 このバ ロン とい うのは,
日本 の獅 子舞 いに似 た聖獣 であ るが,絶対 的 な強 さを持 ってい るのではな く,「出て きて,す ぐ
に戦 いに負け るよ うな,わ りとだ らしの ない怪獣 であ ま り頼 りに な らない」(6)。善 に絶対的 な位
置 を与 え るのではな く,悪 の要素 i
)
世 界に取 り込 み, それ を紀 り上 げ るか の よ うであ るO
悪」や 「闇」の部分 を取込 むのは,特異 な文化 のあ
西洋 の合理 主義 が排 除 して きた,所謂,「
りよ うに見 え るが,心理 学者 の河合 隼雄 に よれば, この こ とは人間に普 遍的 な もの であ り, 人
間の心 の原型 であ る とい う。彼 に よれ は,正常 と異常 とは明確 に区別 され る ものではな く,表
層- の現 れ方 の相違 に過 ぎない。 その下 には 「
境 界領域」が あ り,「いか な る人 も境 界領域 には
い り込 む可能性 を もってい る」 (
河合
1
991)D また,不可解 で こわい ものの存在が 人間には必
要 であ り,近代 人は畏 れ を失 って しまってい る とい う(7)。
バ リ島におけ る不可解 で 怖い ものが ラングであ り,バ リ島民 は, 内にあ る怖 い闇の世 界 を理
性 に よって排 除す るこ とな しに, ラング とい う魔女 の形 を借 りて, 目に見 え るよ うに外 に現 し
てい るのであ る。 言葉 を換 えれ ば, 人間の 内にあ る異界 を外 に変換 し, その変換 され た異界 を
も含めて 自己の世 界観 を形成 してい るの であ るo 内か ら現 れ 出た異界 は制御 され ない と, 危険
に満 ちた i
)
の とな る。従 って,チ ャロンア ラン劇 が上演 され る前 に,「ラングの仮面 には,十分
魔女 ラング-チ ャロン
な供 え物 が なされ, 彼女 の怒 りを招 か ない よ うに配慮 されてい る」し,「
ア ランの役 に扮す るのは,魔女 の危険 な霊 を躯 で受 け止め,耐 え うるだけの力 を もつ,年期 の
入 った男の演者 であ る」 (
中村
1
983)
。 この よ うに内な る異界 を外 に現す際 に生 じる危険 を避
け るため に, 十分 な手続 きが踏 まれ, その よ うな手続 きは形式化 され てい る。
2.パ リ島の音楽の象徴性
バ リ島の文化 が, 人間の内面 にあ る 「異界」 を,形式的 な手続 きを経 て外在化 させ る もので
あ る とした ら, 音楽 は彼 らの世 界観 の 中で どの よ うな位 置 を 占め てい るのだ ろ うか。音楽 もま
た,合理 的 な思考法や理性 の働 きを越 えて,別 の世 界 を出現 させ るよ うに作 用 してい るのだ ろ
うか。
バ)
)島にお いては,楽器 自体 が霊的 な力 を帯 びてお り,楽器 の製作や保 管 には一定 の手続 き
が必要 とされ てい るO この こ とにつ いて 田村 は以下 の よ うに記 してい るO
「ガム ラン作 りた ちは, 特 に大型 の ゴングの作 り手 た ちは,選 ばれ た人々 であ った。職 人の
リー ダー とな るべ き人物 は, その霊 的 な精神 力 を基準 に選 ばれ たO それは時 には天啓 に よるこ
とす らあ る とい うっ何 故 な ら, ゴング作 りは技術 的 のみ な らず霊 的 に極 め て危険 な作業,す な
わ ち悪霊 た ちの強力 な妨 害 を うけや す い作業 だか らだ と言 う。 リー ダー以下十一,二 人で ゴン
グはつ くられ るが, その期 間彼等 は本来 の名 前 を捨 て, ジャワの英雄 伝説のパ ンジ物語 の主要
人物 の名 を身に付 け る。過去 の英雄 たち と同一化 して その力 を借 りよ うとい うのだ ろ う。 この
よ うな霊 的 な手続 は現在 ではほ とん ど行 われ な くなって しまったが,精神 的 には まだは っ き り
と痕 跡が残 ってい る。作業 の前 には,先 人 たちの墓や作業場 の守 り神 に供 え物 を忘 れず,精神
- 2
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力 を集 中す るために,各々のや り方で斎戒 を とり行 な う」 (
田村
1
9
8
6
)
。
これはジャワ島の ソロのガム ラン作 りにつ いて記 された ものであるが,バ リ島において も同
様 であ ると想像 で きる。 もし, そ うであるな らば,作 り手が伝 説上 の名前 を借 りるこ とは,バ
リ島において も,楽器 自体 が異界に属す るものであるこ との説明 とな る。
また,バ リ島の音楽 は, スレン ドロ とい う,半音 を含 まないほぼ等間隔の 5音音階 と,ベ ロ
ッグ とい う,半音 を含む 5音音階が用 い られ るが,北沢 は,ベ ロ ッグが 「
荒御霊 をも含 む神 々
の喚起や シズメの体 系の表現」であ るのに対 して, ス レン ドロは,バ リ人の起源 を説明す る「
異
,「半音 を含 むベ ロ
邦人であ る中国の王女」の音のモー ドの象徴 であ る としてい る。彼 に よれば
ッグのモー ド体 系 は,たんに土着的 な ものであ るとい うだけでな く,悪霊や魔女 さえ も含む神 々
,「ス レン ドロ とベ ロ ッグはたんに
や霊 のあ らゆ る状 態の表現 を可能 にす るものであ る」
。 また
二つの音のモー ド, あるいは 『
音階』 であ るのではな く,バ リの神話的思考 の,相補的で相 関
的な二つのモー ドなのであって,それ 自体 が宇宙論的 な座標軸 をあ らわ している」(
北沢
1
9
8
6
)
こ とになる。
音楽 が演奏 され るの も,霊的 な場 であ り,神 々に対す る供物 とともに音楽 に よって も,神 々
,
異界」あるいは「
神
を招 いた り,悪霊 を退散 させ た りす る。バ リ人に とっては,楽器や音楽 は 「
話的な世 界」 と結 びつ いた ものなのであ る。
3.パ リ島における音楽演奏の意味
バ リ島においては,音楽演奏 自体 の中に も,理性や合理的 な思考方法 を越 えて, 人間の身体
に直接作用 し, 異界 を出現 させ る要素 が隠 されている。 とは言 って も,バ リ島の音楽が合理 的
な面 を もっていないか とい うと, そ うではな く,複雑 で知的 な構造 を持 ってい るし,音楽の創
作 も知 的な過程 を経 てい る。
バ リ島の音楽 で特徴 とな るのは コテカ ン と呼 ばれ る技法 であ る。 語例 に示 され て い るよ う
に(
8
)
,普通 はガ ンサ と呼 ばれ る 1対 の青銅製の鍵盤打楽器 の一方が,ポロス とい うパー トを演奏
し, もう一方がサ ンシッ とい うパー トを演奏 す る。 この二つのパー トは,謂 わば入れ子式にな
ってお り,1対 の楽器 に よってひ とつの旋律 を形成す る。しか し,この旋律 は装蝕的 な旋律 であ
り,1対 のガンサ に よ り素速 く進行す る装飾的 な旋律 の背後か らは,大ガ ンサに よるゆ っ くりと
した定旋律 (
ウガル)が聞 こえて くる。
リズム構造 につ いて言 えば,フレー ズは普通 8柏が単位 とな り,8柏 日毎 に ゴングが打 たれ,
この 8拍 目が最 も強 い柏 にあた る(9)。イン ドネ シアの音楽 では,2の倍数 の柏 にア クセ ン トが付
け られ,1柏 目よ りも 2相 目,2相 目よ りも 4柏 目,4柏 目よ りも 8柏 目に強 いア クセ ン トが付
け られ る とい う リズム構 造 になってい る。あ るいは,8柏周期 で鳴 らされ る大 ゴングが小 ゴング
に よって 2分割 され, さ らには 4分割 され る とい うこ ともで きる。つ ま りは,楽器の音色の重
な りに よ りオスティナ- ト(
1
0
)
を形成す るこ とにな るO西洋 の概 念 では,時間は過去か ら現在,未
来- と直線的に流れてい くもの として促 え られてい るが,バ リ島の リズム構造 は,この よ うに円
環的であ り,あたか も始 ま りも終 わ りもない,神話的時間の中で音楽が鳴響 くかの ようであ る。
バ リ島の音楽 は,楽器や演奏 され る脈絡 自体が,神話的 な世 界 を映 し出 しているが, それで
は,音楽構造 の どの ような要素 が,理性や合理性 を越 えた もうひ とつの世 界 を作 り出 してい る
のだろ うか。
バ リ島民は二元的な世 界観 に生 きてい るとい うが (
中村
1
9
8
3
)
, ガム ランの楽器 も 2台で一
オンバ ッ) を産 む ように,微妙 に高 さを変 え
対 をなす よ うに編成 され, 2台の楽器 の書が喰 (
-2
8-
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て調律 されている。皆川厚一 に よる と,オンバ ッは波の意味であ り,「
音楽 以前 に,音 その もの,
あ るいは楽器 それ 自体 が生 き物 として呼吸 し,波 を発 してい る考 え方 で あ る」 とい う (
皆川
1
9
85)
。
また,上記の コテカン とい う技法 は,相手の音 に 自分 の音 を入れてひ とつの旋律 を紡 ぎ出す
ものであ るが, この よ うな技法 は中川の言 う 「
意識の横滑 り」 (
中川
1
98
8)を産 み出 し易 くす
他者 との相互性 を身体 的 な行為 を通 して,つ ま り活動す る身体 を基底 として根
る。あるいは,「
拠づ け る」 (
中村
1
9
8
4)とい う,相互主観性 の世 界が形成 され ると言 って もよい。 ガム ランは
「
打つ, 叩 く」 とい う身体性 を強 く帯 びた動作が 中心 になっている合奏 なので, 非 日常的な世
界 を出現 させ易 い。筆者 は,かつて メラネ シアの島で,祭 のダンスに加 わったこ とが あるが,
踊 りの輪 の外 で観察 しているの と,実際に踊 るの とでは大違 いで,今 まで見慣れた村の風景が
全 く別 に見 え,異次元の世 界に迷 い込んだ よ うな錯覚 をもった こ とが ある。
コテカンに よ り作 りだ され る旋律 は, 同時に鳴 らされ るウガル とい う大 ガ ンサ にわ る走旋律
を装 飾 した ものであ り,その結果,異 なる楽器 に よる同質的 な旋律 が層 をな して聴 こえて くる。
さらには,8柏 に 1度打 たれ るゴング,お よび,小 ゴングに よって打 たれ る音 も,旋律 の骨組 と
な る重要 な音が打 たれ る。従 って, ガム ランの合奏 は, 音密度 の異 なる多層的 な旋律か ら構成
されてい るこ とにな り, この ような旋律 の立 ち現れ方 は,全体 として,音の うね りの よ うな も
の を産み出 し, また,鍵盤打楽器 の音 よ りも僅か に遅 れて打 たれ るゴングの書 は,音の うね り
の効 果 を高め る。 この結果, ガム ランの演奏全体 は, 円環的な無限の リズムに乗 った,音色 と
密度 の異な る空間的 な響 きとして立 ち現れ, その響 きに身体 を委ね る者に意識の 「
横滑 り」状
態 を起 こさせ,異界に導 き入れ る と言え るだ ろう。
4.バ リ島の音楽知 か ら
バ リ島の文化 は, 人間の負の要素, あ るいは闇の部分 を排除 して しまうのではな く, それ ら
を も顕在化 して,謂 わば紀 り上 げて しまうとい う性格 を もってい る。心理学者がい うよ うに,
譜面 :コテカンの方法
- 2
9-
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身体感覚 も含 め て,非合理 的 で理性 では制御 出来 ない面 を もつのが 人間 であ る とす るな らば,
バ リ島の文化 は,これ らに対 して,明確 を位 置 を与 えてい るこ とにな る。事実,バ リの人々 は,
居場所感覚, あ るいは, 人類学 の領域 で最近取 り上 げ られ てい る 「トポス感覚 」が発達 してい
る とい う (
中村
1
9
8
3
)
0
音楽 につ いて も,神 話的世 界観 と結 びつ いてお り, また, 非理性 的 な身体感覚や,共 同主観
性 を排 除 して しま うの ではな く,む しろ,それ らを音楽構造や 演奏 の 中に取込 む こ とに よって,
バ リ島民の 中に位 置づ け され てい る。
しか し,バ リ島の音楽 は合理 的 で理性 的 な面 を持 って いないか とい うとそ うではな く, 明瞭
な形式が与 え られてい る。 なぜ な らば, 人間の非理性 的 な部分 を外 に表現す るため には,形式
に よって統御 され る必要 が あ るか らであ る。
バl
)の音楽,特 に新 しい ゴング ・クビャ- ル とい う編成 の音楽 を聴 くと,複雑 な構造 を もっ
て い るよ うに思 え るが, しか し基本 的構 造 自体 は単純 であ り, その単純性 こそが, 多層的 な響
きに よる豊穣 さを産 む こ とを可能 に してい る し, また,規定 され たテキス トを越 えた偶 然的 な
響 きを産 み出す こ とも可能 としてい る。 そ して,バ リ島民 はその響 きに身 を委 ね る とき, もう
ひ とつ の世 界 を も自己の世 界 に組 入れ るの であ る。
バ リ島民の音楽的知 を, もはや神 話 的思考 を忘 れ た現在 の 日本 の音楽状 況 に適用 す るこ とは
難 しい。 しか し,理性 的 で合理 的 な音楽 のみ を善 として捉 える態度 か らは,それ 以外 の もの を,
中心か ら排 除す るこ とに よ り, 自己 を位 置づ け る傾 向 を産 む こ とは容易 に想像 で きる。始め に
も触 れ たが, 音楽 を専 門 とす る学生 は,在 学 中には合理 的 コー ド体 系 に基づ く音楽 を善 な る音
楽 として, それ以外 の音楽 を排 除す るが,排 除す るこ とに よって得 た位 置づ け は,卒 業 し状況
が変 わ る と, もはや それ らの音楽 を, 自己の音楽観 の 中で位 置づ け るこ とが困難 とな る。
作 曲家 の柴 田南雄 は 「日本 人の音感 は,縄文 時代 か ら現代 まで変化 していないの ではないか
l
l
)
, 音楽 的民族性 とい った ものは,嫌悪 し,排 除 しよ うといて も,深
と思 う」 と語 った よ うに(
層 には存在 してい る もの であ る。 ロ ックの よ うに,我 々の 内にあ る, 身体 的 で非理性 的 な音楽
と,合理 的 コー ドに基づ く音楽 の両方 の音楽 の在 り方 を認め るこ と,並 びに, 両者 を融合 す る
こ とが,現代 の音楽 的課題 では ないだ ろ うか。
註
日本音楽も含めた非西洋音楽の指導も,学習指導要領に規定されているが,音楽教師の意識では,これらの
音楽は周辺に位置づけられている。
(
2) 1993年の桂による秋田大学音楽科卒業生の追跡調査から。
(
3
) バリ島,プリアタン村の I
daBa
gusTi
l
e
m 氏との個人的会話より。
(
4) 原義は未亡人で,チャロンアランのことOチャロンアランの化身がラング。
(
5) 金属打楽器を中心としたインドネシアの合奏音楽の総称。
(
6) 山城 (
1
982) 編の座談会での,小泉文夫の発言。
(
7) 山城 (
1982) 編の座談会での,河合隼雄の発言。
(
8) 皆 川 (
1986) の譜例を引用したものであり,大きく分けて 3種類の方法が示されている。
(
9) 強弱アクセントてはなく,書の疎密によるアクセント。
(
1
0
) 短い旋律や リズム等の繰 り返Lo
(
l
l
) 1993年 9月 27 日に,秋田大学教育学部音楽科の主催で行われた講演から。
(
1)
-3
0-
Akita University
河合
Fメタフ ァー としての音』
F
沈黙のパ フォー マ ンス』
史子
1
986
」『季刊
「
青銅 の響 き
「
表層 に泡立つ音楽」
『
魔女 ラング考』
1
984
『
述語集 』 (
岩波新書)
厚-
1
985
山口
p.
458
岩波講座 『日本 の音楽 ・ア ジアの音楽 』
「
バ リの古典 音楽
岩波書店
岩波書店
」『包』
9号 p.
412
昌男
1
984
『
文化 と仕掛 け』
1
985
『
文化 人類学 の視覚 』
山城
1
4号
雄二
1
983
皆川
自然 と文化 』
真
1
988
中村
秋
献
『イ メー ジの心理 学 』 青 土社
1
988
中川
文
万邦
1
986
田村
考
隼雄
1
991
北沢
参
筑摩 書房
日本放 送 出版協会
祥二 (
蘇)
1
982
『
仮面考』
リブ ロポー ト
- 31-
第 3巻
岩波書店