⑨岡寺の本尊仏

G-9
岡寺の本尊仏
重文 塑造 如意輪観音坐像
重文
銅造
菩薩半跏像(胎内仏)
*岡寺とは
近鉄岡寺駅の東3kmで多武峰山麓中腹にあり、山号は東光山、院号は真珠院、法名は
龍蓋寺(りゅうがいじ)で通称岡寺と呼ばれて、犬養万葉記念館近くの石の鳥居が岡寺へ
の参道になっています。飛鳥川沿いから東の山腹に朱色の三重塔が望めますが昭和に弘法
大師記念行事で再建されたものです。
この辺りは明日香村岡と呼ばれているが、天武天皇の皇子・草壁が住んでいた岡宮が在
ったとされ草壁皇子はのちに岡宮天皇と追号されたことからもその伝承があったのでし
ょう。
この岡宮を下賜されて建立したのが岡寺で、飛鳥では宮跡を寺院にした例は多く川原寺
や豊浦寺等があり、現在の伽藍は急坂を登った山腹にありますが西に隣接する平坦地の治
田(はるた)神社境内も発掘調査により出土した瓦や礎石から創建時の岡寺域内で、現在
の神社は後に豊浦地区から移転してきたものと考えられております。
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龍蓋寺と云う名の由来はこの地の住民を苦しめていた龍を創建者である義淵僧正が法
力で封じ込めたとされ、現在も本堂前に在る池に蓋をして厄をもたらす龍を閉じ込めてい
るとして厄除け信仰の寺として西国三十三ヵ所七番札所となっている。
詳細はF-8飛鳥の寺院シリーズ参照
*義淵とは誰?
岡寺の創建者で父母が長年観音菩薩に祈願して授かったとされ出自不明なるも、天智天
皇により天武の皇子・草壁と共に岡宮で養育され、出家して元興寺(飛鳥寺)に入り法相
を修め、草壁皇子没後岡宮を賜り岡寺を創建した。
大宝三年に僧正となり門下に行基、良弁、道慈等の高僧を輩出し奈良時代の政界、宗教
界に多大な影響力を残した。
没後奈良時代に作製された木心乾漆義淵僧正像が残されており国宝に指定され、現在国
立奈良博物館に常設展示されており我国初期肖像彫刻の代表作である。
*なぜ本尊が空海作なの?
寺伝によるもので現在本堂に本尊として安置されているのが上記左の塑造・如意輪観音
坐像で、弘法大師・空海が印度・中国・日本と三国の土を使用して作成したとされる像で、
空海は法相宗を義淵僧正―道慈―慶俊―空海の系統で学び、義淵の高徳を偲び、その菩提
を弔う意味で本尊として如意輪観音の塑造大仏を安置したとされ、その胎内に上記写真右
の銅造・菩薩半跏像を収めたがこの金銅仏は現在国立京都博物館に寄託されている。
この胎内仏は創建者・義淵が創建時に本尊とした小金銅仏とされており献納48体仏
(G-4参照)に相通ずるモノで、渡来系の仏師が製作した白鳳仏説もあるが不詳であ
る。
*なぜ二臂なのに如意輪観音なの?
現在本堂にある塑造像は4.85mもある巨像で塑造としては我国最大の作品である。
日本三大仏として金銅仏・奈良東大寺大仏、木造仏・長谷寺十一面観音菩薩、塑造仏・岡
寺如意輪観音菩薩がある。
本像は補修時の調査で胎内仏の如く左脚を踏み下げて座る半跏像と推測されており、過
去のある時期に現在のような結跏趺坐の姿に改修されたのでしょう。
この本尊は一面二臂で右手が施無畏印、左手が与願印を結んでおり、二臂の如意輪観
音像は密教伝来前の古い形式のもので、天平勝宝年間に東大寺僧・良弁により創建された
とする石山寺の本尊(秘仏)があるが希有で、他に上醍醐寺如意輪堂の本尊が在るのみで
ある。
現存する多数の如意輪観音像は平安時代に伝来された密教の影響で流布した 六臂(六
本の手を持つ)を有し、片膝を立てて思惟する姿でインド彫刻風の新しい作風による密教彫
刻の代表作として観心寺の本尊がある。
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望月信成、佐和隆研、梅原猛共著の「仏像、心のかたち」にも記されているが如意輪観音信
仰は平安期の貴族の間に広がり、天皇一代の守護本尊の一つとして普賢延命菩薩、不動明王
と共に宮中に祀られるようになったのは、観音が持つ「如意宝珠」の功徳により財宝も意のごとく
なり、「宝輪」により煩悩を砕く力を持つと信仰されていた。
創建時の本尊とされる胎内仏の小金銅像は渡来人による作品で如意輪観音とされている
がこの像容を弥勒菩薩としている事例もある。
従って胎内仏が如意輪観音と称されていたことが主要因でしょう。
<註>
はるた
治田神社:五世紀末に石川盾が豊浦地区を開墾したが雄略に刑死させられ、その地を蘇我
氏が引継いだとする伝承がありこの地神を祭ったのが治田神社で小治田臣の氏
族名に由来
おおあまのおおじ
大海人皇子:天武天皇のことで天智の弟とされているが当時は草壁皇子の宮を造るような
権力は有していない
ろうべん
良弁:東大寺興隆に活躍した高僧で二月堂良弁杉が有名、三月堂の秘仏・執金剛神像は良
弁の念持仏とされている
ぎょうき
行基:奈良貴族文化隆盛の蔭で疲弊していた民衆の救済に活躍した聖僧
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