C-4 第33代推古天皇 推古天皇 第 33 代天皇 在位期間 593 年 1 月 15 日 - 628 年 4 月 15 日 先代 崇峻天皇 次代 舒明天皇 誕生 554 年 崩御 628 年 4 月 15 日 小墾田宮 陵所 植山古墳→磯長山田陵 御名 額田部皇女 異称 豊御食炊屋比売命 豊御食炊屋姫尊 父親 欽明天皇 母親 蘇我堅塩媛 皇配 敏達天皇 子女 菟道貝蛸皇女 竹田皇子 小墾田皇女 尾張皇子 田眼皇女 皇居 豊浦宮・小墾田宮 - 16 - * 「推古」とはどんな人なの? 父親は北陸から出てきて新王朝を築いた継体天皇の皇子で旧王朝の血統を継ぐ欽明 天皇で、母親はこの時期に台頭してきた新興勢力・蘇我稲目の娘・堅塩媛(きたしひめ) です。 稲目は既に大臣(おおおみ)の位にあり二人の娘を欽明の妃として送り込み皇子女を 多くもうけていたため外戚(がいせき)としての地位を固めつつあった。 堅塩媛は七男六女を生み、稲目の支援のもとに竹内街道沿いの要所(現在の太子町あた り)に蘇我一族の分家・堅塩媛家を設置して勢力を張っていたので、その娘である額田部 皇女は非常に恵まれた環境で育ち、将来を嘱望されて蘇我一族期待の星だったのだろう。 *「推古」はどうして皇后になれたの? 「欽明」には「継体」直系の皇后・石姫で皇子を生んでいたため「欽明」歿後この皇 子が何の問題も無く敏達天皇として即位した。「敏達」の皇后も非蘇我系・広姫が既に おり皇子・押坂彦人大兄皇子を生んでいたので、蘇我氏の外戚としての地位が危機に面 したが、天が蘇我に味方したのか皇后・広姫が若死にしたため蘇我一族の切り札・額田 部皇女をその勢力を背景に皇后に擁立した。 当時のルールとして皇后は天皇の皇女であること、皇后の生んだ皇子が第一位皇位継 承権を有することがあり、稲目の後継者・蘇我馬子としてもあせったことでしょう。 *「推古」は皇后時代どんな活躍したの? 「敏達」の皇后時代の働きは記録には残っていないが、排仏派だったとされる「敏達」 が半島から請来された仏像を馬子にのみ崇拝することを赦したとしているのは皇后の 口添えによるものと考えられる。 「敏達」歿後の皇位継承も最有力候補・押坂彦人大兄皇子が成人に達していないこと を理由に、「推古」の同母兄である皇子を用明天皇として即位させたのは「敏達」の遺 言としているが「推古」の働きによるもので叔父・馬子の外戚としての地位を確立させ たといえる。 「敏達」の歿後の皇后は殯宮に専念していたが、当時の習慣として前大王の殯期間は 皇后が摂政して決裁権を有していた為に、大臣・馬子はこれを活用するため通常は数ヶ 月の殯期間を引き延ばし68ヶ月も続け、この間異母弟・穴穂部皇子が皇位を狙って美 貌の皇后を姦すべく殯宮への乱入事件を理由に弑逆の詔を出し、「用明」の短命死、物 部氏討伐戦、「崇峻」の擁立と弑逆等の波乱の連続でしたが馬子による専制権確立に貢 献したといえる。 *「推古」がなぜ最初の女帝となり飛鳥文化が花ひらいたの? 「推古」は「敏達」の皇后 10年、殯期間 6 年を経て 39 歳で即位したが容色衰えず伝 説の女王・卑弥呼に擬される巫女(みこ)的存在で、そのカリスマ性と共に皇后時代に 大王を補佐して実務を経験しており、殯期間には皇位継承紛争と大豪族間の勢力争いで - 17 - 事件が多発したが叔父・馬子の支援で激動時期を乗り切った自信を持っていたと考えら れます。 更に「崇峻」が暗殺され「嗣位(ひつぎのくらい)、すでに空し」と記されているの は「欽明」の皇子世代から次世代の敏達・用明の皇子群への移行期で有力継承者不在の ため更なる混乱が予想された。 Aシリーズ:A-5「女帝の起源」参照 女帝は本来中継ぎ役であり、「推古」も当初は我子・竹田皇子の成長を待つつもりで 即位したが若死にしたためその目的を失った。しかし過去の経験から譲位による皇位継 承紛争の再燃と理想主義者の聖徳太子に対する本能的な危惧感で譲位を諦める決心を して終生在位したことと当時としては異常な長寿だったため長期政権となったのだろ う。 廃仏派で政敵の物部守屋を滅亡させた大臣・馬子は専制権を手中にし、それまでは蘇 我氏の氏神的存在であった仏教を飛鳥寺建立することで国家的宗教に格上げしようと してこれを推古女帝は容認しただけでなく積極的に支援した。 この頃の仏教は単なる宗教でなく大陸文化や最新技術を伴うものであり、当時の国際 状況は「隋」が「漢」以来中国の全国統一を果たし高句麗討伐のため出兵したため、第 三者的立場にあった倭国の軍事支援を期待した半島各国との国交が活発となり,更には 「隋」との直接国交を目論んで従来百済のみに依存していた文明に新たな大陸文化が加 わり、技術を含めて大量に流入してきており、その技術を習得して国産化し我国独自の 文化を加味しながら飛鳥文化の華を開かせたのは「推古」による長期安定政権維持のお 蔭といえます。 *推古朝における聖徳太子と蘇我馬子の位置付けは? このテーマが推古朝の最大の謎で我国の正規の史書である日本書紀では当時の中心 人物である蘇我馬子は殆ど登場せず、聖徳太子のみがクローズアップされているは異状 でこれが日本書紀の信憑性を疑う要因の一つともなっているのは事実である。 しかしこの謎は当然の結果で日本書紀の編纂を影で主宰したのは藤原不比等で、彼の 父である鎌足が蘇我本宗家を滅亡させた大化改新の首謀者であったことからも馬子の 功績を歴史に残すことが出来なかったことで肯ける。 従ってこの推古朝をこの時期の最高の権力者である蘇我馬子抜きで語ることは不可 能で代行者が不可欠になり、これに選ばれたのが聖徳太子だったのではなかろうか? 確かに聖徳太子は実在したのは事実でしょうが8世紀初旬に生じた聖徳太子信仰が きっかけになったのでしょう。これの文献的根拠として713年ごろ成立の「播磨風土 記」の印南郡大国里条に「聖徳王の御世」の記載、「伊予風土記」の伊予湯岡碑文「法 王大王」等があり既に聖人化が発生しており、日本書紀が完成したのは聖徳太子の没後 100年頃で史上の偉人として偶像化されていたのでしょう。 更なる謎は第1回遣隋使(600年)の記録が日本書紀には無く、中国史書・ 「隋書」 に記載された史料から隋帝に謁見し倭国の状況を奏上、倭王は「多利思北孤」(たりし - 18 - ひこ)と称する男王と紹介したとある。日本書紀には608年小野妹子を派遣し、隋の 外交官・裴世清を連れて帰り飛鳥に至る。この時対応した大王は推古とは明記されてお らず不明なるも飛鳥に5カ月近く滞在した裴世清は女帝を感じ取っていたはずが、帰国 後の報告には「倭王」とのみ記し女王と述べていない事実は謎である。7世紀後半に唐 と新羅に女帝が出現するがこの時期までは皆無で記録に残さない訳がない。従って飛鳥 滞在中対応したのは蘇我馬子であり皇太子の厩戸皇子だったため勘違いした可能性は 考えられる。 <註> 旧王朝の血統:武烈天皇の妹・手白香皇女と継体天皇との皇子が欽明天皇 がいせき 外戚:娘や姉妹を天皇に嫁がせ生れた皇子を即位させ天皇の親族となり権力を握ること 堅塩媛家:蘇我一族として飛鳥の拠点に分家を設立して勢力を張った、境部家、倉山田 家、小姉君家(穴穂部皇子や崇峻天皇一族)、上宮王家(聖徳太子一族)があった ぬ か たべ のひ めみ こ とよみけかしきやひめ 額田部皇女:推古天皇の幼名1で成人して豊御食炊屋姫と呼ばれた おっさかひこひとおおえのみこ 押坂彦人大兄皇子:第一皇位継承候補であったが非蘇我系で排斥され即位出来なかった がその子・田村皇子が即位して舒明天皇となった 用明天皇:推古の兄で小姉君家の穴穂部間人皇女を皇后として聖徳太子を皇子とした もがり しのびごと 殯 :天皇の歿後陵墓に葬るまでの間生前の功績を偲ぶため殯宮を建て 誄 をした 物部氏討伐戦:廃仏派を理由に大連・物部守屋を滅亡させた戦、聖徳太子も参戦した すしゅん しいぎゃく 崇峻の擁立と 弑 逆 :小姉君家の皇子を即位させ崇峻天皇としたが馬子を討とうとした やまとあやのあたいこま ため 東 漢 直 駒 に暗殺された - 19 -
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