②第30代敏達天皇

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第30代敏達天皇
敏達天皇
第 30 代天皇
在位期間
572 年 4 月 30 日? - 585 年 9 月 14 日?
先代
欽明天皇
次代
用明天皇
誕生
538 年?
崩御
585 年 9 月 14 日?
陵所
河内磯長中尾陵
異称
渟中倉太珠敷尊
他田天皇
父親
欽明天皇
母親
皇后石姫皇女
皇后
広姫
額田部皇女
夫人
老女子
菟名子
子女
押坂彦人大兄皇子
竹田皇子
糠手姫皇女 ほか
皇居
百済大井宮
訳語田幸玉宮
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*「敏達」とは誰なの?
飛鳥時代の天皇で継承問題が全く無しにすんなり即位したのは「敏達」のみである。
その理由は父が「欽明」で第二皇子ながら長兄は「欽明」没前に亡くなっており、母
が先先代の宣化天皇の娘である石姫で直系中の直系のため誰もが異議を唱える余地が
無かったことによるのだろう。
当時大王候補条件として「血統」が確立したようで、更には成年男子及び指導者能
力が考慮されたと考えられるが、血の濃さが最優先されたため近親婚が多く同母兄弟
のみは忌避されたが、母系家族がゆえに子供は母親の里で育てられるため異母兄弟の
結婚は認知されていた。
妃として息長真手王(おきながまておう)の娘・広姫と蘇我稲目の娘・堅塩媛(き
たしひめ)を母とした欽明の娘・「推古」(額田部皇女)がいるが、先に皇后となった
のが広姫で没後に「推古」が皇后となったとされており、時の権力者・蘇我氏の娘を
差し置いて息長氏の娘を皇后にしたのが謎とされている。息長氏は伝説の神功皇后の
末裔とされこの一族が認知されていた可能性がある。広姫を母とする押坂彦人大兄皇
子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)が皇祖大兄と称され、
「推古」以降の飛鳥時
代の天皇は全て彼の系譜に繋がっているのは事実である。
*「敏達」は廃仏派だったの?
「敏達」は政(まつり)ごとに関心が薄く文化に関心を持ち寵臣・三輪逆(みわの
さかし)に全てを委ねていたとされ、蘇我、物部等の有力豪族が取り仕切っていた可
能性がある。
従って豪族間の主導権争いが激しく、欽明期に導入された仏教信仰の可否が争点に
なり、
「敏達」が仏教に対し消極的だったため崇仏派の蘇我氏の勢力拡大を阻止するた
め疫病の流行を理由に物部氏等が仏像廃棄を強行したとされている。
最近の発掘調査で物部氏も造寺していたとされ完全な廃仏派では無く、政争の道具
としたにすぎないのではなかろうか?
倭国にとって仏教は蕃国(となりのくに)の宗教であって、ただちに国教として導
入する必要性は無く「欽明」も「敏達」も共に豪族の意向に任せていたが当時の最新
技術、文明が伴ってくるメリットは捨て難いと認識していたようである。
しかし疫病は免疫性を有しない倭人にとっては脅威で、技術・文化を伝達する半島
からの渡来人に帯疫者が紛れていると忽ち蔓延する可能性があった。
「敏達」も疫病が原因で没したとされ新奇文化をもたらした渡来人にその原因があ
った可能性がある。
*任那再興を本気で考えていたの?
先帝・
「欽明」の遺言でもあり何らかのアクシヨンは不可欠だったし、半島では新羅、
百済、高麗の三国が激しく覇権争いをしており、各々の国からの協力要請が頻繁にあ
りその争いに便乗することで任那再興の可能性を計っていたのは事実でしょう。
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それに新羅に滅ぼされた任那周辺には倭人の末裔が多数居住して百済や新羅の要人
として活躍している背景で情報も入ってきていたようである。
実態として日本書紀による「日羅事件」や「烏羽之表」等の逸話が存在する。
「日羅事件」は敏達12年(583)に百済ナンバー2の高官・達卒(だちそち)
まで上り詰めた日系百済人・日羅を倭国に招聘し来日を果たし、任那復興策を問われ
て国の基盤確立を最優先と進言するも、百済の筑紫侵攻政策と云う百済国の最高機密
を暴露して自国を裏切ることとなり同行の百済人により暗殺された。
「烏羽之表」とは半島三国の一つ高麗からの国書が隠匿目的?で烏の羽に書かれて
いたため倭人には読めなかったが、この国書を渡来人の王辰爾(おうしんじ)が読み
解き「敏達」の激賞を受け高官に取り上げられたと。
王辰爾の出身は諸説あり謎ではあるが実在の人物であることが通説となっている。
六世紀ごろに半島南部の弁韓地方からの渡来人でこの事件で朝廷に重用されたのでは
ないかと考えられ、一族から船、津、葛井、白猪、菅野等の姓を得て系類として拡が
っていった。
実在根拠として王辰爾の孫に当たる王後の墓が柏原市松岡山で発掘され、我国初め
ての墓誌が出土し「船王後の墓誌」として確認されている。
鋳造の銅板に戊辰年(668)と辛丑年(641)の記載あり最古の記年表記資料
であり、更には「天皇」の表記があり天智7年(668)に天皇号使用の事例として
天智説がその根拠となっているが江戸期に発掘されて正確な出土地点や埋葬状況が不
明のため謎が残されたままである。
*皇后・額田部皇女(推古)はどんな権限を持っていたの?
大后号の成立は大王位の政治的地位確立を前提とし、大王妃のうちで特定の女性に
付与される称号で後の皇后を意味するもので、社会的基盤を有する私部(きさいべ)
の設置で敏達七年(577)に確立されたとされる。
大后の機能は大王の死後の殯宮(もがりのみや)において大王霊を奉斉し即位儀礼
に当たっては大后の奉斉する大王霊を次代の大王に付与するもので、殯宮儀礼の期間
は大王に準ずる地位を占める者とされた(和田説)
「敏達」の殯は585~591年と6年間の長期にわたって営まれ、本来なら殯宮
儀式の終了後に次代の大王即位儀礼が行われるのが常であるから異例で謎とされる。
要因として大臣・蘇我馬子が姪にあたる大后・額田部皇女を擁したのに対し、大連・
物部守屋が穴穂部皇子や押坂彦人大兄皇子と結んで、各有力豪族が王族を巻き込んで
政治的地位強化を図ろうとした結果と云えよう。
従って「推古」は蘇我馬子を背景としてその権限を活用しようとした可能性はあり、
更には周囲を認知させるだけの才能の持ち主だったのだろう。
<註>
成年男子:大王資格として大人の判断を要求していたようで成年達成年齢は20歳以
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上を可とした
神功皇后:息長宿禰の娘で第14代仲哀天皇の皇后となり第15代応神天皇を生んだ
とされる伝説の皇后で日本書紀では卑弥呼に擬せられている
堅塩媛:蘇我稲目の娘で兄弟に小姉君や蘇我馬子がおり、蘇我氏の権力拡大の原動力
になったと考えられ欽明天皇陵に合葬されたとされている
任那:日本書紀に「任那日本府」として朝鮮半島南部に倭国の出先統治機関を記して
いるが宋書倭国伝にも「任那」がみえる。562年に新羅に奪われ消滅した
墓誌:埋葬された故人の経歴を記した記録が残されるのが通常なるも、我国では6C
頃までの出土が無く謎とされており「王後墓誌」が最古の出土品である
殯宮:大王が没すると特定期間喪に伏し大王霊を弔うが、この大王霊を次代大王に引
き継ぐ即位儀礼で正規の大王誕生となり、この儀式を主催するのは大后でこの
間大王の権限を有するとされる。通常1カ月程度である。
穴穂部皇子:欽明と小姉君(蘇我稲目の娘)の皇子で大王継承有力候補で同母兄弟に
は聖徳太子の母(用明の皇后)や崇峻がいるが蘇我馬子に攻め滅ぼされた
三輪逆:敏達の寵臣で敏達の殯宮に乱入しようとした穴穂部皇子を阻止したためうら
まれ物部守屋に誅された
私部:大后の私有部民で、中国。漢代に皇后に付属する官を「私官」としたことから
称され大后の地位が制度的に確立するも大化の改新で廃止された
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