第153号

共創・共育・共感
尾鷲市教育長だより
2015.11.27.(金)
第153号
子どもを“丸ごと”とらえる!
幅広い子どもの見方をもっていないと、子どもたちの全体像をつかむことはできません。
子どもはいろいろな顔をもっています。
「13歳になるまで七面変わる」といわれます。
「面」
とは顔のことですが、13歳になるまでに、子どもの顔つきは七回ほど変わるといわれます。
成長するにつれて、顔つきが次々に変化するという意味です。13歳とは、子ども時代をい
います。元服前という意味です。
しかし、変わるのは顔つきだけではありません。心も変わっていくのです。それが成長で
あり、発達ということです。一度つくられた心が変わらなかったら、いつまでも幼児期を脱
することはできません。未発達ということになってしまいます。
しかし、その変化は、急激に一夜にして起こるわけではありません。徐々に変化します。
ですから、変化前のものと、変化する今のものとが混在することも起こってきます。当然、
同時期に、いくつもの心が同居することも起こってきます。
小学生をもった母親が、「うちの子は、『勉強しなさい』といわないと、いつまでたっても
勉強しません。ついがまんしきれなくなって、
『勉強しなさい』ときつくいってしまいます。
すると『うるさいな』と反抗します。頭にきて、『どうせ困るのは本人だ』と思って、最近
は、『勉強しなさい』といわないことにしました」という話がありました。
ところが数日後、その子どもが、親の知人の家庭で「ぼくは、親の本当の子どもではない
みたい。きっと、どこからか、もらわれてきたのではないか」といっていたというのです。
そこで、「どうしてそんなこというの」と聞くと、
「親が何となく冷たい。友だちの親は、勉強のことを心配して『勉強しなさい』と口やか
ましくいうけれど、ぼくの親はいわない」と悩んでいることを話したというのです。
「○○君。もらわれてきたなんてことはないよ。あなたはお母さんから生まれたとてもた
いせつな子どもよ。」と話してあげたというのです。
母親に、その話をすると、
「あの子、そんなことをいっていたのですか」とびっくりして、
「そしたら、どうしたらいいんでしょうね。『勉強しなさい』といえば反抗するし、いわな
ければいわなかったで、愛情を疑われるし、どうも子どもの気持がよくわかりません…」。
子どもは、母親に、「勉強しなさい」といってもらいたくないし、また、いってももらい
たいのです。それは、「親からいちいち指図は受けたくない。自力で勉強したい。でも無視
されると不安になる」といった、相反するふたつの価値観の間で揺れ動いているからです。
子どもの心に、こうしたふたつの心が同居しているのです。
子どもは変化し、前進しますが、単純・単線型ではありません。複線・錯綜型です。行き
つ戻りつ、揺れながら登り進んでいくのです。いくつもの心が同居しているのです。
こういう話があります。教室のガラスが割れました。犯人はT雄だとわかっていたので、
教師は、彼をそっと呼んで、「割ったのはお前か」と聞くと、
「ぼくではありません。ぼくの目をみてください」といいます。
しかたなく、証拠を出すと、逃れられず、「すいません」と泣き出して、今度は一転して、
「ぼくは悪い子です。たたいてください」といいます。
その反省ぶりに教師もびっくりして、「反省すればいい。これからは正直にいうんだぞ」
といって帰します。
すると、相談室から廊下に出たT雄は、とたんに、「だれや!先公にチクったのは。ぶっ
殺すぞ!」と、壁を蹴っ飛ばしてわめいていたといいます。
わずか10分の間に、くるくるとT雄の心が変わったのです。いくつもの心があるとはい
え、そのあまりの豹変ぶりに、教師は、「これではなかなかついていけません」「子どもがみ
えなくなりました」と嘆いていました。
かつて、
『いい子・悪い子・ふつうの子』という欽ちゃん主演のテレビ番組がありました。
終わりのころになって、3人の俳優が、『いい子・悪い子・ふつうの子』を演じましたが、
最初は1人で3つの顔を演じわけていました。あの番組のように、同じ子どもが、3つの人
格に豹変するようになってきているのです。
T雄の例でいえば、「ぼくの目をみてください」というT雄は、『いい子のT雄』です。
「すいません」と泣いて反省するT雄は、『ふつうの子のT雄』です。
『ぶっ殺すぞ』とわめいているT雄は、『悪い子のT雄』です。
この3つの顔が、わずか10分の間に、次々に出てきたのです。「13歳までの七面」どこ
ろか「10分間の三面」です。こういう子どもがふえているのです。多面体なのです。状況
や場面によって、見せる顔がいろいろと違うのです。でも、どれもほんとうの顔なのです
ふところを広くし、どのような子どもの顔や心にも、たじろぐことのない、子どもを丸ご
ととらえる幅広い子ども観を確立しておく必要があります。そうすれば、子どものみせるい
ろいろな顔や心に、驚いたり、あきれたりすることなく「これも子ども」「それも子ども」
と、それらのすべての顔を、あるがままに受け入れることができます。