昭和58年2月には、長年の間、諸般の事情により行ってき た海側13

西柴団地の歴史❷
○昭和40年代後半
昭和40年代後半になると、分譲地内も次々と新築住宅が建設され、西柴団地の街並みを
形成しはじめました。(下写真:西柴2丁目付近の昭和45年と47年)
昭和48年4月には団地内に西柴小学校が開校して、子供たちが安心して通える活気のある
地域に成長していきました。
西柴2丁目付近
(左:昭和45年頃、右:昭和47年頃)
昭和48年4月1日西柴小学校開校
(小学校10周年資料より)
○昭和50年代中ば
昭和56年10月13日、米軍小柴貯油施設の爆発・炎上
事故がありました。当時この貯油施設には、米軍の34
基のタンクがあり、航空機燃料が備蓄されていまし
た。 西柴団地でも屋根などに70余件の被害が発生した
と当時の自治会広報誌に記録されています。
この事故が発生するまで、近接地にこのような施設
が存在していたことは、ほとんどの住民の皆さんがご
存じなかったのではないでしょうか。(この施設は平
成17年に日本に返還されています。)
貯油施設
西柴団地
米軍貯油施設と事故写真(横浜市内米軍施設の沿革より)
不気味に上がる黒煙(広報西柴団地より)
○昭和50年代後半から60年代初め
昭和58年2月には、長年の間、諸般の事情により行ってき
た海側13メートル道路の道路封鎖解除が決まり、車止めの撤
去がされました。(当時西柴団地内には9ヶ所の自動車通過
禁止区間があったそうです。)
それにより、まだ移管されていなかった道路の公道への移
管の第一歩が踏み出しました。
その後昭和61年12月からは、バスの運行が開始され、住民
の皆さんの利便性がさらに向上した街並みに変化していきま
海側の柵を撤去する前の13m道路、通る車も
した。。
なく子供のあそび場になっていた。(同上)