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第6課
象徴的な行動
11 月 7 日
安河内アキラ
今週の聖句
創世記 4:3~7、民数記 21:1~9、イザヤ 29:16、ローマ 9:18~21、エレミ
ヤ 19 章、ヘブライ 5:14、エレミヤ 13:1~11
今週の研究
エレミヤ書も象徴や比喩に富んでいます。私たちは今週、このような象徴のいく
つかに目を向け、それらが何であるのか、何を意味するのか、それらからどんな教訓を得るべき
か、といったことを研究します。
月曜日:エレミヤは絶えず拒絶と迫害に直面したために、きっと投げ出したいと思ったのです。
そのような民のために骨を折り、戦う価値があるのでしょうか。折に触れて彼は、
「価値などない!」
と確かに感じていました。
しかし、彼は陶工の手を見たときに、主が人間という粘土を用いていかに働かれるのかという
たとえ、つまり象徴を、間違いなく教えられました。陶工と粘土のたとえの中にどのような真理
がほかに見いだされようと、これは神の究極的な主権を教えています。すなわち、エレミヤの目
からは状況がいかに絶望的に見えたとしても、陶工と粘土の象徴は彼に、民が下す誤った決定、
意図的ですらある誤った決定にもかかわらず、究極的には主がこの世を支配しておられることを
示しました。主は力と権威の絶対的な源であり、現状がどうであれ、最終的に主が勝利されます。
火曜日:この聖句の中に、ユダを襲った悪事の例がいくつか挙げられています。主を捨てること、
「他の神々」に香をたくこと、無実の人の血を流すことに加えて、彼らは「このところを異教の
地」にもしました。ここでのヘブライ語の動詞は、
「異質なものにすること」「奇妙なものにする
こと」
、あるいは「汚すこと」を意味します。「このところ」が神殿なのか、エルサレムなのか、
この聖句には記されていません。しかし重要な点は、この国が主にとって聖きよく、特別なもの
に(出 19:5、6 参照)
、つまり周囲の国々とは異なる、独特なものになるべきであったというこ
とです。しかし、そのようにはなりませんでした。彼らは、自分たちをこの世に対する証人とし
たであろう特性や独自性を失いました。彼らはみんなと同じようになってしまいました。
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水曜日:エレミヤが壺を砕くことになっていた「陶片の門」
(同 19:2)は、陶工たちが働いてい
た場所の近くで、門のすぐ外は、彼らが壊れた壺のかけらを捨てる場所だったのかもしれません。
それゆえ、この象徴的行為はさらに効果的なものになりました。
砕かれた陶器の壺は、何の役に立つでしょうか。壺にひびが入っただけなら、当初の目的では
ないにしても、何かの役に立つかもしれません。しかし、エレミヤは単に壺にひびを入れようと
していたのではありません。そうではなく、壺を砕いて、基本的に役に立たなくしようとしてい
ました。その行為を見、あとに続いた言葉を聞くまでの間に、人々がその警告を理解できなかっ
たとは思えません。もちろん、警告を理解することとそれに基づいて行動することとは、まった
く別の話です。
さらに恐ろしいのは、その行為の明らかな最終的結果です。だれが砕かれた壺を修復できるで
しょうか。主はこの民に未来への希望をお与えになりましたが、差し当たって彼らが方向転換を
しなければ、ユダの国民は、彼らも子孫も破滅します。彼らが嫌悪すべきことや罪深い行為によ
って汚してきたすべての場所は、じきに彼らの死体によって汚れるでしょう。彼らの堕落の深さ
は、その堕落が自らの頭上に招いた罰の厳しさによって、最もよく理解されうるのかもしれませ
ん。
聖書では神さまのことを「主」と呼んでいることがあります。わたしもそれをあたりまえのよう
に、聖書で読んでいましたが、ふと立ち止まってその意味を考えたことがありました。なぜ「主」
と神さまのことを呼ぶのでしょうか。それは人間が考えている「ご主人さま」などというレベル
ではなく、いのちなどのすべてを与えてくださった方という思いをこめて、聖書では神さまを主
という言葉を用いて表しています。
今週の学びでは、神さまがエレミヤに陶工たちの働きをたとえにして、神さまがすべてを支配
されていることを教えようとしています。このたとえもエレミヤ記の中では有名な言葉です。わ
たしたちのいのちは、生まれてくること、性別や特徴など選ぶことができません。気づいたら、
この場所に置かれていたのです。それをたまたま偶然と考えるか、神さまがわたしたちにいのち
を与えてくださったと考えるかでは生き方が変わってきます。
テモテ第二 2:20,21 でパウロは、わたしたちを食器に例えて、大切なのは器ではなく中身に何
を入れるかだと教えています。わたしたちのいのちは自分で選べなかったことは多々ありますが、
神さまがそこにわたしをこのように創造してくださったのは、神さまがわたしにやってほしいと
願っていることがあると信じると、あなたのいのちの意義がはっきりします。それは目立たない、
何かを支えるような働きかもしれません。けれども無くてはならないものです。そしてそのみこ
ころを受け入れることは、あなたが決めねばならないことなのです。