クリニックだより 気・心・体 第103号 平成27年8月1日 高森内科クリニック *「真実の明治維新史」* (1)徳川時代のイデオロギーとしての儒教と横井小楠 1,横井小楠と儒教 肥後実学党の横井小楠は儒教とりわけ朱子学を、その教えのとおりに研究し実践をし ようとした。それを推し進めていくうちに武士社会否定の革命的大運動となり、アジア 型近代の模索の魁となった。しかし、明治新政府に登用された横井小楠は明治2年に 暗殺されてしまい、明治維新のイデオロギーを先導することができなかった。彼の死後 明治政府は水先案内人なしに暗闇の荒海を漂流することとなった。 儒教の本質を学ぶむつかしさは、儒教のテキストから近代日本的に歪曲されていない 正しいすなおな解釈を引き出すだけの勇気を持つことにある。いや、解釈だけなら勇気 はいらないが、その解釈を公言し実践するには猛烈な勇気を必要とする。それは体制に 対する反逆だからである。 元来の儒教は、「孝」を中心とした教えである。親子の関係(孝)は、当人の意志を 超えて生まれながらに決まっており、人間の力では動かすことはできない。だから親に 孝を尽くすのは子にとって絶対的な義務である。これに比べると君臣関係(忠)は第二 義的である。そして、中国の近世儒教は君臣関係は契約だという考えを守りとおす。 日本の近世徳川時代は儒教でいう「士」と武士という「士」の折り合いをつける努力 の時代であった。より大きい折り合いは、儒教の側からつけられた。日本の近世儒教の 展開過程は、世襲武士支配体制と衝突しないように儒教本来の理念をつくりかえていっ た歴史であり、妥協、堕落の歴史である。 江戸幕府が儒教を体制教学として採用しながら、その儒教の教える政治ができなかっ たのは、身分的に固定された世襲武士が支配階級だということが決定的なブレーキに なっているからである。 小楠は洋学者ではなく儒学者である。儒学者として、世襲武士支配体制は駄目だと いうことを、最もはっきり、最も徹底的に言った人である。世襲武士団がそのまま政治 的支配階級であり常備軍団であるなどということは小楠の儒教原理と全く相容れない。 政治をやるのは、政治的道徳的に最もすぐれた理想主義者集団であり、政治の目的は 人民を幸福にすること、それができないものは「士」ではない。つまり、日本の世襲 武士は儒教でいうところの政治担当者「士」ではないと、明快にきめつけた。儒教的な 意味での「士」でないような世襲武士団は、一般勤労庶民よりはるかにくだらない唾棄 すべき存在だと小楠は考える。これは日本の武家政権に対する根底からの批判である。 明治の王政復古政権に呼ばれて政府の中枢に入ったときに小楠が言わなければなら ないのは「武家の廃止」である。世襲武士団の解散である。廃藩である。それを儒学の 政治思想として提起しなければならない。武家支配の国家から儒教国家へ切換えること、 その目標は理想主義的儒教国家であること。しかし、明治2年の暗殺は、その大構想も まだ実現の緒につかないうちに断ち切ってしまった。小楠を失った明治政府からは、 自分のところでまず正義を確立し、それを世界に及ぼすという理想の存在はまったく 感じ取れない。世界の大勢にいかにうまく乗っていくかというばかりが前面に出ており、 国内体制もその目的に沿って作りかえられていく。明治元年に横井小楠という参与が いたのは、夢かまぼろしかという感じが強い。 維新の政局は、小楠的な理念を媒介にしてこれを見据えていくと、政治から道義性が 失われていく過程に他ならない。もともと少なかったものが、さらに希薄となり、天皇 の支持をとりつづけているかどうかというようなくだらないことが最大の争点になって いく。 武士道に屈伏し矮小化されたエセ儒教を温存しつつ、まるごとヨーロッパ近代に組み 込まれてしまう。明治の天皇政府は、そういう没義道の極致として成立している。その ことに、新しい権力体制の内側で気づいていたのは、やはり西郷隆盛である。彼の死に よって、幕府の覇道から天皇の覇道、すなわち孫文のいう「西方覇道」に直結する道が 確定してしまった。そうなってしまったことの重大さに一部の人々が気付いたのは、 明治20年代に入って、日清戦争をやり、また、自由党が完全にダメになってからであ る。 2,幕藩体制と水戸学(水戸藩独自の儒教理論) 徳川幕府の政治体制は、統治機能は割合に複雑にできているが、統治の思想的原理の 方はおそろしく単純である。その原理は『忠義』ただ一つ。 古来、この忠義という概念ほど、日本人を思想的に堕落させたものはない。江戸時代 の武士どもが無為無策のでくのぼうに成り下がったのは、この忠義さえ尽くしていれば めしが喰えるという体制のためである。 支配体制の方は戦時体制をとり続け、戦時動員をしたままで戦争をしない。ところが、 庶民の生活の方は変わり、いろいろと無理が出てくる。この無理、この誤魔化しは、 いつまでも続くことはできない。武士団というのは、いったい何のために存在している のかということが、いつとはなしに問題にされ始める。武士団など居なくても、この 社会は立派に運営されていくのではないか、ということに人々が気付き始めると、この 特殊な集団の存在意義はたちまち雲散霧消してしまうだろう。 そして、水戸学は、危機に直面した武士階級の救済の理論として生まれた。そうし て、その武士階級の救済の理論は、先に述べた徳川幕府の原理(改変された儒教理論) といろいろな点で食い違っていたのである。そして水戸学は頑迷固陋な理論を振りかざ し、徳川幕府改革派に対して荷厄介な同盟者になった。しかし、歴史は皮肉なもので 水戸学的尊皇攘夷派が井伊大老を暗殺し歴史を大回転していくことになった。 小楠は水戸学に信頼感をもっていた。だから大丈夫だと思っていたのに、以外やペリー の二度目の来航で幕府はあっさりと和親条約を結んでしまった。「無道の国は拒絶する」 という小楠の大原則に反したのである。熊本の小楠は、期待していた水戸の連中がペリー に屈することに踏み切ったのだと知って驚き呆れる。それを知った小楠は水戸学を偽学問 だと断定し、終生許さなかった。絶対に許さなかった。 「大老・井伊直弼による安政の大獄」 幕府改革派、老中堀田、橋本左内らの構想で井伊が大老に就任したときには、開港は もう既定のコースになっていた。残されているのは、それによって日本の方も利益を あげられるような積極的な開港体制に、どうやってもっていくかである。そこに改革派 の苦労があった。ところが、井伊がやったのは、そのような苦労をしている改革派を 弾圧して、先方の言いなりに、押しつけられたとおりの不利な不平等条約を、これから の日本の社会経済の体制をどうするという何の見通しも持たないで、ただ受け入れて 調印しただけである。しかも、改革派への弾圧の強烈さゆえに、維新期において最初の もっとも衝撃的な暗殺がおこなわれ、そうして、明治維新はあのような大掛かりなもの になってしまった。 その大老・井伊直弼に果敢に挑んで歴史を回転させたのは意外にも水戸学派の水戸藩 士たちであった。歴史の皮肉ともいえよう。 3,小楠の思想と行動 幕末維新の英傑達がこぞって小楠に一目を置き、龍馬、松蔭、高杉に到っては師と 仰いでいたのである。実際、龍馬が作成した有名な「船中八策」と「新政府綱領八策」 は、小楠が幕府に提出した「国是七条」と福井藩に提出した「国是十二条」をそれぞれ 下敷きにしているし、また、由利公正が起草した「五か条の御誓文」にも、小楠の「国是 十二条」の影響が色濃い。 小楠は、東アジアの儒教文化と、キリスト教のヨーロッパ文化とを完全に対等のもの としてとらえ、対等の文化同士がぶつかりあった場合に、そこで確保されるべき正義の 条件といった問題を、本気で考えている。相手が強いから屈服し、屈服しついでに相手 の先進文明を急いで真似てしまおうとした幕府や明治政府とは、完全に違う思想態度を 確立していた。欧米がアジアを侵略しているかぎり、その侵略者欧米が先進文明であり えよう筈がないという議論を固持した。この小楠の思想は、ヨーロッパ型近代への追随 がすなわち歴史の発展段階を一つ進むことになるのだという信仰に反省を要求するもの である。 小楠は「西洋文明はあくまで技術として優れているのであって、そこには徳はない。 日本は東洋の徳ある文明をもとに、そこに西洋の科学文明を取り入れるべきだ」と考え た。西洋文明の行き着く先は「覇道」である。日本の歩むべきは「王道」であり、東洋 と西洋の長所を生かした国家をつくり、覇権ではなく「仁義」に基づいた「富国強兵を 超えた理想国家」となって世界の世話を焼け、と説いたのである。 小楠は、まず、徳川幕府の日本や清朝中国よりも、ヨーロッパ諸国の方が、政治的に 優秀であると判定した。儒学者である小楠は、儒教的理想社会という基準に照らして みて、ヨーロッパの人民の方が幸福だと判定したのだから、この判断には重みがある。 むこうの方が堯舜の政治に近いというのである。 しかし、小楠はヨーロッパ諸国が、儒教的基準に照らしてみて完全な理想社会だとは、 けっして考えていない。なによりも彼らは、アジアを侵略しており、また、ヨーロッパ 諸国相互の戦争も繰り返している。これは儒教の根本思想である「仁」に合致しない。 堯舜の政治に近いところまで行っているけれども、肝心のところがズレているというの だ。 小楠は、儒教の理想である堯舜の政治とは、人民の幸福を実現することだと確信して いるから、ある国の政治がすぐれているかどうかは、この基準で計る。 儒教的原理の理想主義化を進めた小楠は、自国も他国も平等公平に評価し批判する 基準を持てたのに対して、儒教の悪しき日本化を極度に押しつめた水戸学・正志斎にあっ ては、日本の国だけは評価や批判を超越した唯一最高の存在だと、無条件に前提にして しまう。儒教の悪しき日本化が、なぜそうなるかは、私は徳川の武士世襲支配階級制度 が、儒教のもつ政治批判性に耐えられないからだと思っている。一応の完結した全国的 支配体系を構築した徳川幕府は、他に適当な支配秩序思想がみあたらないので、儒教を 採用してみたものの、儒教のもつ政治理想を実現しようとすれば、武家支配そのものを 廃止しなければならないかもしれないと気付き、その政治的理想主義と革命性を毒抜き して、日本は特別の国だということにしてしまった。 小楠の開国の方の論理を追求してみる。まず、開国は世界の大勢でやむをえない、 との大前提を置く。開国してヨーロッパ人と国際交渉をもつ。これは異質文明の接触で あり衝突である、ヨーロッパもアジアあるいは日本も、それぞれの世界で普遍的とされ ているルールを持っている。開国を大前提とした場合の、最も大切な問題は、このルー ルをどうするかということである。相手が軍事的に強いからという理由でヨーロッパ的 なルールを全面的に受け入れてしまうか、それとも、双方がそれぞれのルールを主張し あって、より普遍性の高い共通のルールを確立するかである。望ましいのはむろん後者 であって、そのためには、アジアあるいは日本の側では、アジア的な普遍的価値の普遍 度をより高める努力をしなければならない。そうしてはじめて、ヨーロッパ的なルール のある部分は積極的に評価でき、別の部分は断固拒否するということが可能になる。 日本では、異質文明拒絶派と、相手の文明全面受け入れ派とが主流を占め、異質だけ れども対等の二つの文明の出合いとして応接できる努力をしようとする考え方はごく 少数派にとどまってしまった。日本至上主義が貫けなければ、より強い相手のルールに 乗り替えてしまうのである。尊王攘夷か、ヨーロッパ近代か、である。開国直後の、 文明接触の原則を確立する思想的営為の最も大切な時期に、日本人は、日本至上主義の 尊王攘夷に大きなエネルギーを取られてしまい、そのエネルギーは幕府と天皇政府を 取り替えることにしか役立たなかった。それは、アジアとヨーロッパの衝突に際して、 アジア側にも、全人類の将来のためにも、少しも寄与しなかったのである。むしろ、 天皇政府ができてアジアに迷惑をかけたぐらいのものである。 それは、後期水戸学が、元来は普遍的で理想主義的な要素をもつ儒学を、極度に日本 至上主義的なものにつくりかえたことにある。そのことが逆に、日本人からヨーロッパ 近代の押しつけに対抗する力を奪ってしまったのだ。一見すると、日本人の力を結集で きたようだが、本当は思想的に堕落させ無力化してしまった。なまじ日本人エゴイズム を結集したばかりに、アジア全体の思想の力を弱めてしまったとも表現できるかもしれ ない。アジア全体の思想であるものからアジアを欠落させ、その結果、アジアも日本も 敗北させてしまった。しかも、明治の日本は、けっして敗北したなどとは思っていな かった。今もそう思っているように。 (2)明治維新と革命 1,明治維新は基本的には革命でない移行の仕方に属している。 1871年の廃藩置県からさらに地租改正、秩禄処分と続く一連の措置は、一面では絶対 主義的中央集権機構の完成であると同時に、他面では、それが封建権力として存続する ための基盤を自らの手で破壊したという意味で、ブルジョア国家化への第一歩を踏み出し たことを意味する。日本の天皇制は、専制的ブルジョア国家体制だったといえよう。 戦後の「民主化」が革命でなくて「再編」に留まり得たのは、戦前の日本が絶対主義 などではなくてブルジョア国家だったことの証拠だと考えている。ブルジョア国家日本 を支配していた構成要素のなかで極度に専制的反動的部分が切り捨てられて、専制的 ブルジョア国家から民主主義的ブルジョア国家に変わったのである。 2,とりあえず国家を創った倒幕派もまたそれに協力した形になった公議政体派ともに 旧来の封建支配者であることが注意されなければならない。彼らは、支配者階級に属し ていながらも、幕藩体制というこれまでの支配機構が、国内の矛盾をおさえる力も、 またとりわけ欧米列強に対抗する原理も持たないことに業を煮やし、自己の存立を危う くする危険を犯しながら、あえて徳川幕府を倒して維新政権を作り上げ、廃藩置県に よって封建領主制さえも廃止してしまった。 3,しかし、このように成立した国家とその担い手は、かつての自分たちの基盤であっ た封建的要素をつぎつぎ切り捨て、自由民権運動のようなブルジョア民主主義的要求 も、一方では専制的抑圧を加えるとともに、他方では国家主導による資本主義化のより 一層の促進や議会制度の解説などによって切り抜け、ついに大正デモクラシーにも、 軍部ファシズムにも、敗戦にも耐えて、その国家の同一性を守り続けるという独特の 近代国家の出発点をきずきあげてしまった。 だから、明治維新の最大の秘密は、封建支配者がそのような近代国家を創ったという ところにある。あるいは、資本主義社会への移行にあたって、その資本主義的要求より も、ともかくも「国家」を創るという要求の方が先行しており、しかもそれに成功した ところにある、と言い換えてもよい。さらに言えば、それができるところに日本民族の 強さも哀しさあるということになろうか。 4,これは、もっと大きな目でみれば、それまでの中国を軸とした東アジア文化圏に おける「国家」原理から、十五、十六世紀以来ヨーロッパが主導していた近代的国家 原理への転換を意味している。中国的国家原理とヨーロッパ的な近代国家の原理、幕末 の日本はその二つの国家原理の本質的なちがいの大きさに耐えきれず、はやばやとヨー ロッパ的な近代国家の原理へと走ってしまったのである。その意味ではわれわれは、 その考え方で創出され発展してきた日本国家から脱出する方向をわれわれはまだ発見し えていないのだ。 5,幕末に、武力において優越した西洋列強が、異質の原理、異質の正義をもって日本 に迫ったとき、これに対する反応は三つのタイプがある。 一つは、あっさりと先方の原理の優越性を承認して、一日も早くそれを学び取ろうと する姿勢である。これは、それまでの日本には守るべき積極的原理がなかったことを 暗に承認するのと、うらはらの関係にある。幕府の開明派官僚には、このタイプに属す るものが多い。 二つめは、西洋のすぐれていることを、とりわけ武力ではかなわないことを承認させ られてしまい、それを承認しつつ、あるいはそれに目をつむって、日本が世界に優越し て根拠として日本の国体と天皇を持ち出すタイプである。これは、中国に対して日本の 優越性を主張する論法として長い時間をかけて用意されたものが、西洋とのきびしい 接触に際して、一気に前面に押し出されてきたものである。吉田松陰の議論は、この 典型である。 三つめは、西洋の政治が、現在の世界では最もすぐれていることを評価しながら、 なおも、その持つ本質的病弊をするどく指摘する。そうして、それを批判する視角とし て、それまでに日本人が知っていた唯一の普遍的政治思想である儒教を、さらに理想 主義的に読み替えたものを持ち出す。西洋の政治思想を一つのすぐれた普遍的思想だと 認め、それから多くのものを学びとろうとしながら、しかも、西洋列強が現に行って いるアジア侵略や相互殺戮は容認しようとせず、それを克服する理念を、やはり普遍 思想として追求している。 日本人は、ここから出発して、明治維新をなしとげ、明治国家を作り上げたとき、 第三番目のタイプの思想は、完全に落としてしまった。一番目と二番目の寄せ集めで、 近代日本国家はつくられる。それが天皇制国家であるのは、二番目の思想が軸となった からである。これが日本人にはいちばんわかりやすかった。 6,幕府を倒してしまったのだが、そうやって成立した薩長を軸とする明治新政府も 武家政権であることに変わりはない。武士階級内部での政権の構成に変化があっただけ で、武士が他の諸階層を支配しているという根本的な構造には何の変化も起こっていな いからである。 だから、本当の困難さは、この後にあった。武家政権である明治政府が、武家政権で あることをやめねばならない。つまり、自己否定しなければならないのである。これは 幕末の政権争いがどのように帰結しても、勝利した政権が必ず直面した課題である。 維新政権にとっての厄介さは、なまじ徳川幕府を倒すという大変革をやってしまった ために、本当の課題が見えにくくなったところにある。それでも、できあがった政権 が、やはり武家政権であると自覚されていれば、本当のむつかしさはこれからだという ことが、武家政権であり続けるか自己否定するかという選択も含めて、はっきりと見え たに違いない。 ところが不都合千万にも、維新政府は、天皇政府と自己表現していたのだった。薩摩 と長州は、幕府の権威を相対化するために天皇を引っ張り出し、天皇をかつぎ続けた あげく、本当は武家の武力による主導権争いの一方の勝利者であるのにすぎないものに 「王政復古」というわけのわからない衣装を着せてしまったのである。混迷のすべては ここから出発する。多年の運動が成功して新しい政治体制が生まれたことになってしまっ たのであり、多くの人がそう錯覚してしまったのである。そうして、その主は武家では なく、武家の発生よりずっと前から日本を永遠に支配すると定められていた血統の子孫 なのであった。 このため、維新政府のもとでは、政権の基本的性格を変えるほどの改革がこれから 進行するのだということ、武家政権の自己否定をやるのだということが、意識されにく くなった。政権が天皇に帰一したことによって基本的問題は解決し、あとは天皇の意志 に従って前進すればよいのだと、途方もない夢想が、表向きは正しいとされる。たとえ ば廃藩置県。本当はこれこそが「革命」なのであり、これを強行した中枢部、大久保や 木戸や西郷はこれが「革命」であることを重々承知して武力の手配をしたのだが、表 向きは、すでに王政復古によって正当な支配者としておさまりかえっている天皇の行政 命令で、すませてしまったのだった。秩禄処分についても同じことがいえる。 7,西郷と大久保の争いが、征韓・非征韓の対立として噴出した根本の原因は、上述し たような革命の次元のズレにあると思われる。武家同士の争いの次元で天皇政府が成立 し、本当に革命的に争わなければならない問題つまり武士支配をやめるかどうかという 次元は、天皇の行政命令で通り抜けしまう。そこでどうしても溜まってくる澱のような ものが、征韓・非征韓という、元来はちっとも対立していない問題をめぐって火を吹く のである。 そうして、歴史の現実はそれをまともに煮つめる方向に進展しなかった。天皇ですり 抜け、「不平士族」の反乱を天皇政府に刃向かったという理由で鎮圧したからである。 天皇政府は革命を省略した。それゆえ大久保と西郷は革命をめぐっての対決も協力も せず、征韓をめぐって、いや、もっと厳密には、西郷を朝鮮に派遣することについての 天皇の裁可をめぐって、参議会運営のテクニックで争い、敗れた西郷はあっさり下野し てしまった。それにしても、西郷の征韓論とはなんだったのだろうか。 8,戊辰戦争は、倒幕派諸藩と佐幕派諸藩との間で、つまり、武士団と武士団の間で 闘われた。少なくとも、実際に闘った武士たちの大多数はそう思っていた。武士と非 武士が闘って非武士が勝ったのではない。勝ったのも武士である。したがって、戊辰 戦争が終わったときも、新政府は武士の目からみれば武家政権である。その頭領が、 徳川将軍の代わりに天皇になっただけのことだ。だから、全く新しい性格の国家をつく らねばならぬと予感している新政府中枢のメンバーにとって、最も困難な相手は、新し い武家政権をつくったと信じている武士大衆であった。彼らをそのままにしておいたの では、折角の新政権が本当に武家政権のままで永続しかねない。 さいわい、倒幕という目標があるあいだは、この難問は表面には出なかった。それぞ れのグループが、みな幕府を倒しさえすれば自分たちの夢見ている理想社会が手に入る と思っていた。しかし、蓋をとってみると、新政府の権力は、武士階級の利害を超越し て官僚に転化してしまった倒幕派指導者の手に握られていた。攘夷どころか、幕府以上 の積極和親の外交が展開される。武士階級の自己回復運動は、ここまで来て、実は自己 否定運動であったことがはっきりした。社会的に無用者になっていることに気付きはじ めた武士大衆が攘夷という目標をつかみ、その目標をかかげて戦い、その運動によって 体制を破壊してしまったのである。武士大衆が尊皇攘夷に熱中して幕府を倒したために、 武士そのものの存在が危うくなってしまった。 9,彼ら討幕派は欧米の「富強」の理由をたちどころに理解し、立憲制度の必要性まで、 幕末の段階で理解していた。彼らは実際に幕府を倒し、藩制度を廃止し、武士の特権を なくし、国民皆兵・国民皆教育の制度をつくり、近代工業を移植し、立憲制の基礎まで 作った。「武士の革命」は立派な近代化革命だったのである。 1864年の勝海舟・西郷隆盛会談に始まり、1871年の廃藩置県の断行まで続いた「革命 派武士」の団結は、1873年の征韓論分裂後、四つの政治路線に分かれた。そしてしら ずしらずの間に対立を深め、「議会派」→「立憲派」→「強兵派」→「富国派」の順で 政治勢力を失っていった。「武士の革命」としての明治維新は、1880年9月の米納論 の不裁可をもって終焉したのである。 明治政府も薩長二大勢力が運営し、在野勢力と化した「議会派」は自由党という一大 野党として、むしろ勢力を拡大していった。しかし、薩長藩閥政府と呼ばれた明治政府 は、「革命派武士」によってではなく、合理主義的な「文武の官僚」によって運営され るようになった。「革命派武士」と「文武の官僚」とは、同じ人物、同じ階級(士族) によって構成されていたが、両者の間には明らかな相違があった。 「薩摩、長州による武断的な明治維新は日本の歴史になにをもたらしたのであろうか。 征韓論だとか日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、そして太平洋戦争、日本 の近代の歴史は諸外国に対する侵略の歴史ではないか。こういう政府が明治維新によっ てつくられたのではないだろうか」。 (3)天皇と天皇制 1,幕府はなぜ天皇制を存続させたのか? 徳川幕府は歴史上はじめて、天皇を公然と廃止できるだけの実力を備えた権力である。 徳川氏は、みずから天命を受けたと唱えて、自分の単一の朝廷を組織するだけの力を持っ ていた。それなのに、どうして徳川幕府は、天皇を廃止し、天皇の朝廷をつぶしてしま わなかったのか。天皇と朝廷の存在が徳川氏にとって遠い禍のもとになるかもしれない ことをよく承知しており、それゆえに苛酷なまでの統制を加えながら、しかもその息の 根を絶たず、彼らのままごと遊びのために、十万石も割いたのは何故か。 なぜ自分たちは支配しているのか、ということが理由づけられなければならない。その 理由づけは、儒学に求められた。儒学はその点、まぎれもなく支配者の思想である。 儒教の経典は、支配の制度・支配の根拠・支配の歴史・支配者の資格、さらに支配者の もつべき哲学的世界観、処世態度にいたるまで、微細にわたって述べてくれている。 この儒学をうまく活用すれば、困難は切り抜けられるかにみえた。また、利用の仕方 によっては、天皇(制)をつぶしてしまえるかもしれなかった。しかし、これも十分に 適合的ではなかった。すなわち、原典を読めば、自分たちを力づくで押さえている武士 たちが支配者としてふさわしくないことは、明々白々歴然としている。経典に書かれて いる原理と歴史、現実の中国の王朝交替つまり「革命」の歴史、どちらかみても、日本 の現在の支配体制は打倒すべきなのである。 したがって、天皇は、儒学の「理想主義」が、幕藩体制を覆してしまう可能性をもっ ていることへの対抗価値として、近世社会の、支配者側・被支配者側の双方から、改め て持ち出された。しかも、こんどは、独自の価値を備えたものとしてである。即ち、 中国の聖人天子を上回る価値を持つものとして、世界最高の価値を持つものとして、で ある。 ともかく天皇あるいは天皇制は、近世徳川時代になって、その徳川の武士支配体制を 維持するために、特別の意味を新しく附加された。天皇制は、古代以来、何度か変質 させられ、滅亡の危機に瀕し、そのたびに、新しい属性を附加されることによって生き 延びてきたのだが、この近世徳川時代には、政治的経済的にも最も無力になったかわり に、思想的には、儒学の理想主義の毒を消すために、最も強力な新しい価値を附与され た。つまり、日本は、儒学の全面的適用を拒否しうる特別の地域であり、その特別性は 神々とその末裔である天皇によって理屈抜きで保証されているということにされたので ある。 どんな場合にも守られてしかるべき「何か」が天皇をめぐって存在していると考え、 それが日本人にとって最も大切な価値〈日本そのもの〉だと信じていることが、共通の 大前提となっているのだ。国学者流にいえば、それは万世一系の価値なのであろうか。 何か破りがたいものが天皇をめぐってあり、そこに日本の価値、天皇のもつ日本の価値 を認めようとするものである。天皇があるゆえに日本であり、天皇があるゆえに日本は 尊いという発想である。そうして、はなはだ厄介なことに、過去の日本人は世界に対し て日本の独自性を主張する方法を、つきつめたところ、それしかもたなかった。 だが、徳川時代に、一種の安全弁的な機能しかもたなかった天皇制思想が、厄介きわ まりない現実的働きをみせるようになったのは、中国と日本(中国・朝鮮と日本と言っ てもよい)という伝統的関係の中に、近代的ヨーロッパが、優者として割り込んできた ところからである。この時から、徳川時代に用意されていた近世的な天皇制思想が、 とほうもない機能を発揮するようになった。 1853年の徳川幕府はどうも、相手が自分より強そうだという事実のもつ圧迫に耐え られなかったようである。そのため、自分の手に余る存在を承認してしまっては自己の 統治体制が崩れるのだという関係への配慮が、明らかにおろそかになってしまった。 諸大名に諮問した瞬間から、武家内部における徳川氏の絶対的優位性があやしくなり 始め、それはやがて、武家の諸階層に対する優位まで危うくしそうである。 3,長州と薩摩による天皇の政治利用 尊王攘夷を声高に叫ぶ長州・薩摩のテロリストたちを動かしていた桂小五郎(木戸 孝允)や西郷吉之助(隆盛)、大久保一蔵(利通)たちには、その実において「尊王」 という意識が強烈にあったかといえば、それは全くない。それは、倒幕のための、その ためのテロ活動のための単なる「大義名分」にすぎなかった。 孝明天皇とは、長州人が口を開け「尊王攘夷」をわめいていた、まさにその時の「尊王」 に当たる人である。この天皇は、倒幕も天皇親政も考えたことは微塵もない。政治は 幕府に委任しているし、そうあるべきものというのが、孝明天皇の一貫した考え方で あった。その意味で、「尊王佐幕」の筆頭に位置づけるお方であろう。そうなると、この 天皇がおわす限り長州・薩摩は武力倒幕できなくなる。倒幕という目的の最大の障壁が 孝明天皇、その人であったのだ。 大久保利通は「勅命といえども、万人が承服できない非正義のものならば、それを 勅命と認めない」とし、勅命を相対化している。すなわち、幕府が長州再征を行うこと が孝明天皇は勅許された時、「非正義の勅命は勅命に非ず・・・」と西郷のあてた手紙 の中に書いた。大久保利通は天皇やその勅命をどのように認識していたかがよく分かる。 「偽の倒幕の密勅」 岩倉具視や大久保利通たちは天皇の政治的意思を表明する「勅許」というものを、己 たちの目的を達成するために偽造した。偽勅を下すとは、長州・薩摩が、そして岩倉具視 が、如何に天皇を軽んじていたかの証左となるものである。 「倒幕の大義名分の欺瞞」 武力を動員して伐つためには大義名分がいる。幕府の罪を揚げるとすれば、通商条約 を天皇の許可なく結び、経済の混乱をつくったことと、幕長戦争を強行して社会的混乱 を招き、日本がめざしていた挙国一致の体制を自ら阻害した、ということなるであろ う。しかし、この二つの大罪には天皇(孝明天皇)の勅許があるのだ。徳川慶喜の主導 の朝議で決まったことであっても朝廷と天皇にも罪がないとはいえないのである。これ では倒幕を正当化できないし、賛同を得ることもむつかしかったのである。 明治維新に際して日本は国家を作り直さなければならなかったが、その新国家は初め から天皇制国家としてできあがったわけではない。国家を作り直していく過程で天皇制 国家に落ち着いたのである。もちろん国家と天皇は初めからくっついていたけれども、 その天皇は国家によって吟味され、国民の意識の底に流れているものや、これから教育 によって生み出す可能性のある観念までもがすべて検討された結果として天皇制になる ことが決められ、長年月を経て天皇制になった。 (4)徳川慶喜の行動と評価 1,ペリー来航と和親条約・通商条約 ペリーは、安政元年(1854)2月、幕府の回答を求めて再度浦賀に来航する。前年 の軍艦四艘に倍する九艘もの軍艦を引き連れての来日であった。軍事的圧力(脅迫)が 有効であることを前年の来日時に学んだのである。事実、幕府側は、これらの軍艦多数 をもってする圧力に加え、たとえ戦争になっても通商関係樹立の目的を達すると脅かし たペリーの前に、弱腰外交と評されることになる措置(和親条約の締結)をとりあえず 選択する。その際、幕府が言い訳としたのは、いま現在米国側の要求を拒絶しうるだけ の軍事力が備わってはいないということであった。そして、この口実は後に欧米各国と 修好通商条約を締結することを余儀なくされた際にも用いられた。 軍備(鉄砲大船)を整えたうえで、将来交易を拒否するというのがそれであった。 しかし、こうした論法では、ほぼ永遠に通商拒絶ができないことは明らかであった。 げんに、その後、幕府は批判勢力から「いつになったら通商拒絶(攘夷)を行うのか」 と問い詰められ、そのことで権威をますます失墜させていく。 米国は、幕府との交渉にあたって、米国流のやり方を貫いた。自分たちの価値観を 強引に日本側に押しつける手法であった。すなわち、現代風に表現すれば、自分たちの 生き方が、「グローバル・スタンダード」となるべきものであり、それに日本側は無条件 で従わなければならないとした。その際、特に問題とすべきは、文明面はともかく、 本来その国の独自性が尊重されるべき文化面も含めて、いっしょくたに自分たちの優位 が主張されたことである。そして、自分たちの開国要求を幕府が受け入れねば、たちま ち戦争におよぶと脅かした。とにかく、米国は妥協的な姿勢はまったくみせずに、自分 たちの要求への回答をひたすら幕府に迫ったのである。 2,一桑会時代までの慶喜 慶喜の活躍は江戸ではなく京都であった。27歳から32歳まで京都・大阪で奮闘した が、将軍として江戸城で活躍することはなく、江戸城に入ったことが一度もない征夷 大将軍であった。江戸幕府と朝廷・孝明天皇の間に立って苦心惨憺であった。 江戸の幕閣と対立しながら、孝明天皇の意を尊重しながら、一橋・桑名・会津の三人 で京都の政治を切り盛りをしたことで、一桑会政権とも言われている。 在京幕府首脳部 在京徳川家首脳部 禁裏御守衛総督:一橋慶喜 禁裏御守衛総督:徳川慶喜 京都所司代:桑名藩主(松平定敬) 京都所司代:桑名藩主(松平定敬) 京都守護職:会津藩主(松平容保) 京都守護職:会津藩主(松平容保) 3,大政奉還と慶喜 本当は、天皇や朝廷など出る幕はない。これはあくまで武家の間の武家政権をどう するか、という問題である。では、天皇や朝廷は、なぜ出てきたのかと言えば、武家の 間での徳川宗家の絶対的優位性を、相対化するためである。つまり、徳川政権は、天皇 からの政権委任という架空の観念と、征夷大将軍叙任という形式を媒介として相対化 され、他の武家はそれを通じて幕府を揺さぶったのである。 つまらない小細工を労さず、天皇などを媒介にせず、だれがいま支配する力を持って いるかについて、武家の間で赤裸々に争われたならば、どんなにわかりやすかったで あろう。武家ばかりではなく、武家支配そのものに疑いをもつ下級武士や草奔層の活動 も、天皇と結びつくというような厄介な思想構造を持たなければ、近世の武家支配の 本質とそれへの対決という現実が、はっきりと目に映ったはずである。それが、天皇 などという面倒なものを引っぱり出したために、なにがなんだかわからなくなり、その 混迷は明治・大正・昭和だけでなく平成の今日までいまだに続いている。 この当時、幕府から出された公文書はいくつかあるが、それらにすべて共通している のは、「対外関係を重視して、慶喜が大政奉還を決断した」という主張である。 また、慶喜は、幕権の回復はもはや不可能だとする認識であった。これまでのような 幕府政治の存続、ましてその再編強化などを意図して、大政奉還を決断したわけでは ないようである。 幕府ではなく朝廷が主体となって成立する新しい政権の下、旧幕府・諸藩が協力して 富国強兵めざすことこそが、日本をとりまく厳しい国際情勢下にあって、独立を保つ 唯一の方策であると慶喜は考えたようである。これこそ、慶喜が大政奉還を決断した 最大の理由であったと考えられる。 4,戊辰戦争初期の敗北 大久保と西郷らがあえてクーデター方式にこだわったのなぜであろうか。一つには、 参預会議の解体以来の、慶喜に対する根強い不信感があった。二つ目は、大久保と西郷 は、新国家の創設に当たって、人心の覚醒を切実に求めていた。安易な気持ちで新政府 の創設に加わられたら、馴れ合い精神の充満した旧態依然とした国家に堕すという、彼 らの強い危機意識によっていた。すなわち、形は天皇を頂点に据える国家であっても、 内実は旧幕府関係者や諸藩主それに公家が加わった、ごった煮のような封建国家が成立 することを彼らは恐れたのである。 そして、天皇を擁する薩摩・長州は、天皇を擁しただけでは自動的に勝利になりは しないと痛感した瞬間から戦闘の挑発に入った。 一方、慶喜の側は、和戦両様の構えをとった。「和」としては、クーデター政権の内部 対立に乗じてこれに喰らいこむことである。「戦」としては、京都にできているクーデ ター政権を武力で叩き潰すことである。ただし、この二つのコースは、あらかじめどち らか一つに狙いを定めないといけない。二股をかけてはいけない。 鳥羽・伏見の緒戦は、本当は薩摩が相手だった薩摩は京都の中で孤立していた。しか し、幕軍の不手際で初日、二日目と、決死の薩摩軍に勝たせてしまうと、政治的状況に 変化が起こった。仁和寺宮嘉彰親王が征討大将軍に任命され、錦旗を押し立てて前線に 出てきた。天皇の命令で逆賊を討つという形式を整えたのである。 しかし、慶喜は覚悟ができていなかった。鳥羽・伏見で予想外の敗戦を喫すると、彼 自身がいちばん大きく動揺したのである。そうして、大阪城も大軍勢も打ち捨てて、 側近だけで江戸へ逃げ帰るという、彼の人生における最大の愚行を演じてしまった。 しかも、最精鋭の軍艦開陽丸に乗って帰ったものだから、せっかく確保していた大阪湾 の制海権も放棄することになった。 また、将軍職を辞していたとはいえ、部下をいわば見殺しにして、戦場から脱出した ことは、一軍の将にある者としては、許される行為ではなかった。また、自分の誠意 (朝廷に抵抗する気持ちがまったくない)を表すために大阪を退去するのであれば、 老中のうちせめて一人は残し、対応に当たらせるべきであったであろう。 この敗北と逃走によって、慶喜は日本国大君の資格を失ってしまった。将軍でも亡く なってもなお日本国の元首だと外交団によって認知されていた、その自明性が消えたの である。外交団は京都の新政府と、江戸の慶喜の政府とを、日本を二分する対等の交戦 団体と認め、局外中立を宣言した。 慶喜が、薩摩の打倒を強く願ったものの、京都での戦争自体に踏み切れなかったの は、天皇の面前での戦争を嫌ったことによる。そのため、出軍する兵士には、「決して 兵端を開くことの無いように」といった趣旨の下知(指図)がなされたという。 「大阪城脱出は計画的だった?」 慶喜の大阪城脱出は、前もって計画されていたものだと思われる。そう考えなければ、 辻褄が合わないことが多すぎるのである。 そして、「敵前逃亡」に等しい慶喜の行動に対して、いまでも定説が確立していると は言いがたい。これは、明治期の慶喜が頑として、この時の事情(真意)を吐露しな かったことに、むろんよっている。なぜ慶喜がこのような行動にでたのか、その謎は 深い。 5,江戸に帰還してからの慶喜 慶喜は江戸城に一度も入ったことのない将軍であった。そして、江戸に帰った慶喜の 気持ちに動揺があまりなかったことであろう。大阪城を抜け出すときは、江戸で再起を 計るつもりは無かったと思われる。戦争をするつもりなら、大阪に集中している大兵力 は貴重である。榎本武揚が指揮する2000トン級の最新鋭軍艦の開陽丸は大阪湾にあり、 薩摩・長州の軍艦などものの数ではなく、大阪湾の制海権は完全に掌握していた。その 様な優位な状況を放棄したことは、武力による徳川王朝への道を放棄したのであろう。 鳥羽伏見の戦いに敗れた時点で慶喜は大きな決断をしたと思われる。 臆病者と謗られようが戦わずに江戸城を明け渡すことで朝廷への恭順を貫いたのは、 政権交代を円滑に進めるためであったようだ。薩摩・長州を幕府の力で抑えることは 可能だが、それでは国が乱れる。両藩が天皇を戴いている以上、その無理難題を甘んじ て受けるのが臣下の取るべき道と観念した。言い換えると、朝敵とされた慶喜こそ明治 維新の最大の功労者なのかもしれない。 6,総括 私は薩長による倒幕に反対である。幕府を支持するわけではないけれども、それを 倒すのに薩長が天皇をかついで新政権をこねあげたのは感心できない。王政復古などと いうことをやって歴史の筋道をすっかり混乱させてしまうよりは、もう少し幕府が続い て、慶喜主導下の近代国家ができていた方が話が分かりやすくてよかったのではと思う。 昭和に入って大東亜戦争を起こし、原爆を落とされ、戦後、米国の従属国家になって いるのは、明治維新のやり方に遠因があると思われる。そして、ペリー訪問以来、米国 は日本とって厄介な存在であったが、現在でも別な意味で厄介な存在である。 明治維新は、薩長両藩によって展開された粘り強い、しかも一貫した武力倒幕運動が もたらした成果というより、ワンチャンスを確実にいかした在京薩摩藩指導者(対幕 強硬派)の起死回生の策がものの見事に決まったといった方が、より適切であったと いうことである。 大久保らがあえてクーデター方式にこだわったのはなぜであろうか。慶喜の「大英断」 によって、「天下の諸侯」を京都に招集し、「衆議を尽くし」たうえで、「万事公論」に もとづいて新国家を運営していくことが決定をみたが、このような話し合い路線では、 新国家が旧態依然としたものになると判断して、クーデター方式というショック療法が 選択されたと想像されるのである。 だが、これはいうまでもなく、幕末政治において大きな潮流になりつつあった公儀 世論を尊重せよという声を否定するものであった。また、後年の有司専制の先駆けを なすものでもあった。だから、クーデター後、「是を正大公明とやいわん、是を衆議を 尽くして的当を求めるといわん、・・・天下万民の公議を用いず・・・」といった批判 を浴びることになったし、明治の政治の姿勢を方向付けるものであったとも考えられる のである。 長年にわたって、西郷・勝両者の美談として語り継がれてきたが、江戸への進軍の 動きを押しととどめたのは、アーネスト・サトウの状況分析に導かれたイギリス公使 パークスの反対であった。パークスが反対した最大の理由は、慶喜が対外親和には果た した実績と、慶喜らを討伐するにいたった経緯をきちんと説明していないという外交上 のミス、というものであった。恭順を示している者を討伐する政府を欧米諸国の政府は 容認できないというものであった。西郷は大きく譲歩し、江戸城総攻撃を中止すると 決断し、急ぎ駿府そして京都に向かい協議した。それまでの対徳川強硬路線から協調 路線に百八十度方向を転換した。まさしく豹変である。 幕末、米国・英国・仏国の意向は日本の国政を左右する力があったのである。14代 将軍家茂が入京し、第二次長州藩征討を開始するとき急死したが、その遺体は米国の 軍艦で至急江戸城へ運ばれたという。慶喜が大阪城から脱出したとき、慶喜を幕府軍艦 に案内したのは米国の軍艦であったという。そして、官軍の江戸城攻撃はイギリス公使 パークスの意見で突然中止された。このように、米英と徳川幕府の間には私たちが知ら されていない大きな外交パイプ(アーネスト・サトーやハリスか?)があったと推定 される。 米国も、英国も幕末・維新期の外交文書を完全には公開していないとのことであり、 ペリー来航、薩英戦争、戊辰戦争に関する機密情報はまだまだ封印されているようだ。 これが公開されないと幕末・維新の真相は分からないであろう。 (5)孝明天皇 明治維新があのように大掛かりなものになり、明治以降の日本近代史を混乱・混迷に 陥らせた直接の原因は孝明天皇である。孝明天皇のとても強い「攘夷と公武合体」への 意向が、徳川幕府を揺さぶり混乱に陥らせていった。 その混乱を修復し徳川幕府を救うという蛮勇をふるったのが井伊直弼(大老)であっ た。しかし、井伊はあまりにも有能な人材を殺しすぎた。井伊の蛮勇がなければ、明治 での近代化はもっと違った豊かなものになり、歴史も捻れたものにならなかったとこと であろう。 奇妙なことに、明治政府の孝明天皇への対応と、明治天皇への対応はまったく違う ものがある。孝明天皇の事績はあまり評価されず、孝明天皇を祀る神社は創建されない し、民間で孝明天皇を祀る神社を創建しようとしたときは認可をしなかった。薩長の 尊王攘夷はどうなったのであろうか。本当に奇妙な理解に苦しむ対応である。おそらく ここには歴史の闇があるのであろう。 (6)西郷隆盛・大久保利通と薩摩藩 慶応3年(1867)12月の西郷隆盛や大久保利通が、的を天皇に絞り、天皇の周囲を 親薩長系の公卿でかためておいて、それを武力で包囲するという一種の人質作戦をとっ て「王政復古大号令」を発したのも、彼我の力関係が伯仲し迷走している局面から脱却 する手段として、そんなに悪くはなかったであろう。 しかし、クデーターで新政権を生み出したため、旧幕府と新政権とはいったいどこが 決定的に違うのか、言いかえれば、幕府と倒幕派はどういう政策の違いが原因でここま で争ってきたのか、一向に明らかにされていない。旧い機構をすべて廃止して「王政復 古」の新体制を作るのだというスローガンばかりである。 西郷や大久保はあせった。しかし、上述の経過の中のどこからも、大軍を動員して旧 幕府を討つという契機は出てこない。これは、「政策の違い」を掲げて革命をするので はなく、政争を、天皇を人質にしての「王政復古」で百事御一新というところにしぼっ てしまった報いだと言えよう。 それで、西郷ら倒幕派は、そういう真の王道を掲げえないので、代わりに「万世一系 の皇統」をかついで、王政復古させてしまった。政策の代わりに血統を置いたのである。 問題のすりかえであり、維新史上最大のインチキである。 明治以後の日本人のおそらく誰もが想像してきたほど、薩長両藩の「倒幕芝居」に おける役割は、圧倒的なものではなかった。すくなくとも、薩長両藩が英雄的な行動を 起こし、ほとんど独力で幕府を倒したのではない。別の言い方をすれば、薩長両藩が藩 を挙げて一貫して武力倒幕をめざす運動を展開した結果が、倒幕につながったわけでも ない。それよりも、在京薩摩藩指導部が「窮鼠猫をかむ」思い出反撃に転じたのが功を 奏して、最後の最後の段階で倒幕が達成されたといったほうがより史実に近いといえ よう。そういう意味では、在京薩摩藩指導者にとって、倒幕は「僥倖」の結果といって よいかもしれない。 島津久光が体調を崩し、藩政にはほとんどタッチし得なくなった慶応3年下半期以降 の薩摩藩の有様(状況)は大きく変化したのである。それは、久光および小松の目が 届かなくなることで、本来は少数派であった西郷・大久保両者の独走(暴走)がこれか ら後始まる。なかでも重要な役割を演じることになったのが大久保であった。彼は、再 上洛した京都にあって、その持ち前の剛直さ(強引さ)を一段と強烈に発揮することに なる。そして島津茂久を、やがて繰り人形として自分たちの思う方向(対幕強硬論)に 引っ張っていき、結果的に薩摩藩を幕末政治史の主役の座に据えることに成功する。 それは、大政奉還後の小松や島津久光が必ずしも望んでいたことではなかった。 西郷たちが密かに進めていた薩長芸三藩の挙兵計画が頓挫したのは、薩摩藩の混乱が 引き金となった形であるが、実際は国元では幕府との武力対決を見据えた上方出兵への 反対論が凄まじかったからである。そして、度重なる出兵によって薩摩藩の財政は危機 的な状態であり、在京薩摩藩代表の西郷は藩内からその責任を追及され、進退窮まる 状況に追い込まれることが予想された。そのため、慶喜の横暴を糾弾することで批判を かわし、一気に武力もって窮地を脱しようと目論んだわけである。 すなわち、この事態に立ち至った西郷は次の手を打つ。倒幕の密勅の発給である。 まさに策略家の面目躍如たるところである。10月8日、西郷と大久保の連名で武力倒幕 を正当化するための宣旨の発給を、明治天皇の外祖父である前大納言の中山忠能と議奏 の正親町三條実愛に要請した。武力をもって慶喜に一味する京都守護職の松平容保と 京都所司代の松平定敬を打ち払うようにという趣旨の天皇の命令が薩摩・長州藩に下る よう求めたのである。西郷としては、この密勅降下により薩摩藩内の出兵反対論を抑え 込み、茂久の率兵上京を実現しようと目論んだ。それほど西郷たちが追い込まれていた ということである。 西南雄藩討幕派史観の大きな罪は、明治以後の日本人が、その実態以上に幕末期の 政治過程を英雄的なものとして受け取ったために、他国ことにわが国の周辺諸国に対し て、変な優越感を持つに至ったのではないかということである。つまり、自分たちは 中国・朝鮮をふくむ他のアジア諸国とは違って、自らの力で雄々しく旧体制を打倒した んだという意識を強く植え付けられた。 また、江戸期の日本社会が営々として培ってきた合議や衆議を重んじる声に押されて 旧体制が打倒された側面にあまり目が行かず、華々しい武力倒幕芝居との関連で旧体制 の破壊が論じられるようになったことである。それが、雄々しく猛々しい日本人像とな り、日本のアジア世界におけるリーダー的役割の過度の鼓吹ともなったのではないか。 明治初年の征韓論的発想、その後の海外雄飛論、そしてその仕上げともいうべき大東亜 共栄圏的発想、こういうものともつながっているのではないだろうか。 西郷隆盛という人物を端的に表現すれば、政治に道義性を持ち込もうと本気で考え、 そのことに失敗した男である。西郷でもやはり失敗した。しかし、そのことを本気で 考え、かつ失敗したからこそ、今日まで語り継がれる西郷像ができあがった。 西郷は明治10年(1877)9月、鹿児島の城山で自刃した。奇しくもその四ヶ月前、 木戸孝允(桂小五郎)が病死し、翌明治11年(1878)5月に大久保利通が暗殺される。 およそ一年ほどの間に、維新三傑が三人ともこの世を去ってしまった。ペリー来航から 明治元年までが15年、明治政府成立から西南戦争までが10年。そしてみんないなくなっ てしまった。歴史とは非常なもので、25年かかった御一新はもういっぺんやり直しと なった。武士の時代ではなくなってしまった。近代国家を目標にした新しい国づくり、 四民平等を目指した社会づくりが始まった。 (7)攘夷運動の実態 長州・薩摩藩は、実行不可能と分かっていながら、幕府を追い詰めるために攘夷を 政治的に利用した。かりそめにも幕府を困らせるに足るものは、どんなことでも利用し た。自分から進んで外交をやろうとする意志があるにもかかわらず、当分の間はこれを 隠し、攘夷を利用して幕府を追求した。 その後まもなく、攘夷の実行を求めてきた両藩が政権を奪取して明治政府を樹立する。 幕府に代わって外交権を掌握したまではいいが、自分たちが外交の矢面に立ったこと で、無理な注文を求めてきたつけがまわってしまう。それまでの経緯からすれば、条約 を破棄して諸外国とは断交し、攘夷を実行するという公約をはたさなければならなかっ た。 ところが明治政府は豹変するのである。慶応4年(1868)正月に鳥羽・伏見の戦い で勝利すると、明治政府は諸外国に対して、兵庫開港など幕府の外交方針を踏襲すると 宣言。そればかりではない。公使が御所に参内して天皇の謁見を受けることまで許した。 幕府以上に開国和親の姿勢を示し、攘夷派の公家や志士たちはもちろん、対極の立場に いた慶喜にとっても信じられないほどの豹変ぶりであった。 (8)維新後の廃藩置県と版籍奉還 維新政府にとって、廃藩置県は、武士階級の中での編成替えであったので、まだ対応 が容易であった。問題は版籍奉還であった。これは武士階級の中の編成替えだけでなく、 武士階級をなくす政策の一歩であり、これがなされないと明治維新という革命が成就 しないのである。これも、最後は西郷隆盛が武力を持って押し切ったのである。 「版籍奉還と士族・卒族問題」(特に長州藩における士族・卒族問題) 江戸時代には、武家社会と農商民はかなり厳格に区分されていた。武士階級を支配 階層として様々な特権を与えた幕藩体制は、一般民の混入を避けるために、士籍を厳重 に管理していたからである。武家社会の成員を一括して士卒と呼び、そのうち大夫・ 上士・下士を正式な武士として士分としたが、その下に士分でない準武士、すなわち 半人前の侍として「軽輩」がいて、現場の所用を務め、「卒」と呼ばれた。軽輩の下に も様々な職種の武家奉公人がいて、職名は「中間」「六尺」「小者」であるが、身分とし ては「陪臣」「臣隷」と呼ばれた。陪臣は武家社会に職場を有する平民である。 長州藩(周防と長門)には多くの卒がいた。朝鮮半島に近く、弥生時代・古墳時代・ 飛鳥時代はもちろん平安・奈良時代まで、半島からの移住民が多かった。毛利氏が支配 する前は大内氏の支配であったが、大内氏の祖先は半島から来たと言われており、大内 氏支配下の武士には先祖が半島出身者がかなりいたという。大内氏が毛利氏との戦いに 負けた後、大内氏支配下の武士の多くは毛利氏の卒になったという。そして、その卒を 多く抱えていた長州藩は士と卒との関係調整に長年苦慮してきたという。 明治4年(1871)に戸籍法が施行され、これに基づき翌年「壬申戸籍」が作成され るが、その準備のために発せられたのが明治2年(1869)6月25日の知藩事家禄令で ある。その中に、「戊辰の役に参加した陪臣は平民籍に戻さない」というものがあり、 卒族とみなされ、家禄が終身支給されることになった。これを「明治三年卒族」と言う。 実は、この点にも戊辰戦争の目的があったと言われている。 明治5年(1872)、明治新政府は「明治三年卒族」の内容を再検討した。士族と平民 に分けることとし、旧来の卒のみならず、代々奉公の陪臣から卒籍に編入した「新卒族」 も一躍士族にした。すなわち、戊辰の役に従軍した陪臣は、勤続の代数にも拘わらず、 全員が新卒族になっていたため、ここでもう一段飛躍して新士族になった。そして、 士族になったので明治新政府の官吏になる資格を得、官吏として登用されて明治以後の 社会の上層階層になった。これをもって、江戸時代以前には決して士分とは認められな かった足軽はもとより武家奉公人までが、幕藩体制が崩壊した後に「士分」と認められ たのである。つまり族籍問題の本質は、幕藩体制の旧身分から引き上げられて新卒族に なり、さらに新士族に変じた陪臣階層の資格問題にあったのである。 実はここにこそ、明治維新を長州藩が担う決定的な理由があったのではないかと言わ れている。すなわち、長州藩を明治維新の立役者にしたのはこの新士族であり、高杉 晋作の奇兵隊が強かったのはこの陪臣や農民を隊員にしたからであった。 明治維新の根本目的は、開国の衝撃がもたらす日本列島社会の分裂を避けることに あり、そのために最も必要とされたのが「中間・小者」という卒族を士族に入れる身分 解放であった。明治維新は、武士階級をいきなり解体したのではなく、「百姓以下」の 武家奉公人を士族にする身分解放と、卒族を士族に引き上げる武家民主化により、多数 の「新士族」を創ったうえで武士社会を解体したのである。 また、このことはあまり知られていないが、明治4年8月28日の太政官布告は、近世 社会が士・農商の良民社会とその他の賎民(穢多非人など)社会を縦割りにしていたの を廃し、以後は両社会を統合することの宣言でもあった。すなわち、身分解放という 大政策も密かに行ったのである。 (9)戊辰戦争とその怨念 1,会津藩士屍体は埋葬が許されなかった 白虎隊とそれ以外の一般戦死者一切に対してなんらの処置をもしてはいけない、もし 反すれば厳罰に処すると官軍は命じていた。会津開城の9月23日以降うち捨てられて いたが、軍務局への再三の陳情もあって、翌年2月14日から、白虎隊は飯盛山、一般 は阿弥陀寺と長命寺の埋葬を始めることができた。阿弥陀寺には1281体を、長命寺に 145体を埋葬して終わった。 この新政府側の人道に外れた行為(屍体を半年近く放置させていた)は会津の人の心 に深い屈辱を植え付け、子から孫へと伝えられてきたという。 2,靖国神社合祀における差別 靖国神社は、京都霊山での文久2年(1862)の招魂祭に発し、明治2年(1869)の 東京招魂社の創建を経て、明治12年「別格官幣社・靖国神社」と改称された。祭神は 当初は鳥羽・伏見戦以来の戦死者であったが、明治12年の第11回合祀から同33年の第 28回までに、嘉永6年(1853)以降鳥羽・伏見戦までの戦死者等の合祀も終えた。 ここに祀られるための条件は、「唯皇室の御為めに身を献げて忠勇にしたがひ、死し ても亦護国の神たらむことを期した」ことである。 個々での問題は、元治元年(1864)の蛤門(禁門)の変で、朝廷側に立ったから官軍 であるはずの会津側戦死者が靖国神社に祀られず、逆に皇居に攻め込んだがゆえに賊軍 であるはずの長州側の戦死者が靖国神社に祀られるという逆転現象が起こったことで ある。具体的には、蛤門の変における長州側の指揮官・家老、福原越後・益田右衛門介 ・国司信濃ら、また憤死した真木和泉・久坂玄瑞・入江九一らは、逆徒でありながら いずれも明治21年、正四位に叙されて合祀された。反面、彼らと戦った忠義の士、会津 32名と薩摩・桑名・彦根藩士は、明治40年頃からの再三の陳情により、彼らから遅れ て、大正4年4月27日にやっと合祀されたのである。 戊辰戦争で奥羽列藩同盟に加盟して明治政府軍と戦って死んだ者は靖国神社に祀られ ていない。明治政府軍の戦死者は祀られている。東軍の諸藩が弓を引いたのは薩長土肥 に対してであって、天皇に対してではない。孝明天皇が最も信頼していたのは会津藩主 ・京都守護職の松平容保であったのに、明治天皇になったら一転して賊軍とされるのも 不可思議なことである。この不条理はいったい何によって説明できるのであろうか。 会津は戊辰戦争敗戦から昭和まで約60年間、薩長藩閥政府の順逆史観による差別に 臥薪嘗胆の日々を送ってきた。明治政府発足後も、賊軍=負け組とされた藩の出身者は 露骨に疎外され続けた。官への道は閉ざされたため、学者・医者・技術者といった分野 で身を立てるしかなかった。閥なんか頼りにするわけにはいかず、自分で自分の道を 切り開くよりほかになかったのである。 4,福島の人、東北の人の怨念のもたらすもの 「日本の近代化が失敗したのはなぜか」 近代日本の最初のボタンの掛け違いは、戊辰戦争の総括であったと思われる。あの ときに敗者の処遇を過ったことによって、それから後、近代日本には「怨霊」のような ものが取り憑いてしまった。それは靖国神社問題が象徴的である。 みんな靖国神社というとA級戦犯の合祀問題を指摘するが、もっと深い問題がある。 それは靖国神社が戊辰戦争の官軍の死者を祀るためのものであって、賊軍の兵士の鎮魂 のためのものではなかったということです。神道の伝統から言うなら、滅ぼされた側の 人間が「祟り神」にならないように祀るのが当然です。崇徳上皇も菅原道真も平将門も、 それが怨みを残して死んだからこそ祭神として祀って、呪鎮した。政治的戦争の勝者の 陣営の死者だけを祀り、敗者を朽ちるに任せたというのは、日本の宗教的伝統からの 逸脱です。もし、明治維新のあと、日本人全体が戊辰戦争だ斃れたすべての死者たち、 日本が甦るために戦って死んだ人々のために、敵も味方もなく哀悼の涙を注ぎ、その 鎮魂を願うということをしていれば、日本はあの戦争で塗炭の苦しみに遭うことも、 原爆を落とされることもなかったという気がします。 あの戦争があそこまで暴走したのは、「賊軍のルサンチンマ」が少なからず関与して いたのではないだろうか。表層的には天皇制イデオロギーが過激化したものだと見られ ますが、無意識的な層には戊辰戦争・明治維新以後の近代日本の統治システム全体を 否定しようとする暗いルサンチンマがあったのではないか。旧賊軍の子弟が数少ない 社会的上昇のチャンスを求めて陸軍に殺到した。雌伏半世紀でようやく「薩長藩閥に 借りを返す」機会が訪れたというふうに感じたのではないか。薩長が作った明治の体制 を一度根本から作り替えなければならない、こんなシステムは一度壊さなければなら ない、そう思っていたのではないか。この人たちが満州事変を起こし、昭和維新を呼号 して二・二六事件を起こし、日中戦争を始め、対米戦争を始めた。この一連の動きの中 に、日本の明治以来の統治システムへの敬意や山河に対する深い哀惜を感じることが できません。 日本軍国主義というのは、のぼせ上がった軍人たちが、その権力欲と愚鈍さゆえに国 を滅ぼしたというよりも、むしろかれら自身の心のどこかに「こんな国、滅んだって いい」という底なしのニヒリズムを抱えていたのではと、そんなふうに思えます。口に は出さなかったけれど、昭和維新を目指した人々は天皇をひそかに憎んでいたのでは ないか。彼らの父たち兄たちは、半世紀前にまさに「朝敵」の汚名を着せられ、天皇の 名において殺されていったからです。「勤王」の赤誠を以て仕えたのに、天皇に見捨て られたという事実をトラウマ的な体験として抱え込んだ「旧賊軍」の陸軍軍人たちが 天皇に素朴でストレートな敬愛の念を寄せていたとはとうてい思われない。 戊辰戦争から敗戦まで、帝国政府は東北のコントロールに失敗してきました。今でも 失敗し続けています。このようなねじれは、それは、福島原発事故、東日本大震災の 復興問題を通じて、一挙に表面化してきました。 (10)明治維新は南朝回復運動か 皇統南北論とは、「万世一系の皇統」とは、現に仰ぐところの北朝皇室か、それとも 足利覇権に追われて歴史の闇に隠れた南朝皇統のことなのか、を論ずる歴史疑義である。 室町時代以来、識字階級の心理に潜在していた南朝正統論は江戸末期になり、南朝の 忠臣・楠木正成(楠公)を顕彰する政治運動として、突如発露しました。 楠公は後醍醐天皇の皇子大塔宮護良親王を支えて足利尊氏に対抗したため、足利氏が 擁立した北朝から逆臣と見做されて、「後南朝勢力」が蠢動して政権をしばしば不安に 陥れた室町時代には、朝敵の扱いを受けていました。 その半ば謀反人扱いの楠公を初めて顕彰したのが水戸二代藩主徳川光圀で、楠公戦死 の地湊川に元禄5年(1692)、楠公墓碑を建設しました。幕末に至り、水戸の藩儒で烈公 の師会沢正志斎が、天保5年(1834)に著書「草堰和言」で国家功臣の祭祀の必要を 論じ、例として「楠公贈左中将」を挙げ、これが各藩に伝わります。 明治に入り維新の諸事多端の中で、雄藩が先を争って楠公社創建の許可を求めました。 雄藩首脳は、楠公顕彰の本質が実は南朝復元運動で、これが維新の真の目的の一つだっ たと覚り、新政権参加の意思を表すために楠公社の設立を争ったものと思われる。 楠公社の造営は尾張・薩摩・水戸三藩の競願となったが、これを国家自体のなすべき 重要事業と判断した新政府太政官は、慶応4年(明治元・1868)4月に神祇事務局に 命じて湊川神社を創建を決めた。 現皇統が北朝系であることから南朝正統論を唱道することを避け、南朝皇統に尽くし た楠木正成の事績を大和士魂として称揚となすのは、尊王攘夷志士らの士魂を楠公尊崇 に導き、間接的に南朝復元を維新の大義名分としたものと考えられる。 「南北朝正閏問題」 室町時代の「明徳の和約」で皇統が一本化されて収まった南北朝問題は、水戸藩が 藩主徳川光圀の命を受けて長年の苦労の末に編纂した『大日本史』が、三種の神器の 所在を基準にして南朝を正統と断じたことで、新たに「正閏の問題」を提起しました。 ここで「閏」とは、「正式ではないが偽りでもなく、正規に準じるもの」との謂です。 したがって皇統の正閏問題とは、南北両統のうちいずれが正統で、何れが閏統か、と いう問題です。 明治43年(1910)の教師用教科書の改訂に当たり、地方の一教師が疑問を呈出した ことから南北朝並立論が問題化した。しかも、同年6月に生じた大逆事件の被告幸徳 秋水が秘密裁判の中で、「現天皇は南朝から皇位を簒奪した北朝の子孫ではないのか」 と発言したことが、それに輪を掛けた。山縣有朋が決着をつけるべく、明治天皇の聖裁 を仰いだところ、意外にも明治天皇は「南朝=正位・北朝=閏位」と裁定されました。 北朝の子孫である明治天皇はなぜ南朝が正位と裁定されたのであろうか。これも歴史の 闇である(明治天皇は北朝系天皇・孝明天皇のお子様であるから北朝系の筈である。それ が、南朝を正位とするからには、ひょっとすると明治天皇は南朝系かもしれません)。 これ以前にも南朝が正位とする動きは起きていました。維新志士が主導権を握った 明治新政府が、戊辰戦争および函館戦争の最中にも拘わらず、「建武中興十五社」の創建 と南朝遺臣への贈位を行ったのは、正にそのためであった。明治10年(1877)、貴族 院の前身元老院は、皇室が従来公式系図としてきた『本朝皇胤紹録』に代わる明治政府 の公文書として『簒輯御系図』を編纂・作成しますが、その編集方針は、史実を『本朝 皇胤紹録』に基づきながら、皇統正閏観から南朝正統論に切り替えたものであった。 (11)先行した統帥権の独立 戊辰戦争、西南戦争を体験した明治政府は軍の統帥権に困ることを体験した。政府の 参謀長が戦場での重要事項を決定するのに文官である総督宮(有栖川宮熾仁親王)に 理解と許可を求めねばならなかった。戦場と政府は遠く離れていると連絡をとるのに 難儀した。それゆえ、明治11年、明治政府は山縣有朋の献策にもとづいて、「参謀本部 と参謀本部条例」を作成した。 これにより、参謀本部は独立した軍令機関となり、参謀本部長は陸軍卿(陸軍大臣) に優越する地位が与えられた。天皇の親裁をえた参謀本部長の軍事事項命令を陸軍卿は ただちに実行しなければならない。そして、陸軍卿を閣僚のひとりとする太政大臣(総理 大臣)も、軍令に関するかぎり天皇の親裁をえた参謀本部長の軍事事項命令に従わなけ ればならないことになった。このようにして、政府から独立した統帥権ができあがって しまった。 したがって、明治22年に憲法ができたとき、すでに統帥権は独立していたから、軍隊 にかんする憲法の条項はたったの二条しかなかった。明治政府は国の基本骨格を決める 前に軍事優先国家の道を選択していたのである。これが、昭和の戦争へつながっていく 道筋になったのであり、統帥権の独立は明治維新が生み出した「鬼っ子」であった。 (12)明治維新での捩れが日本近代史に与えた影響 1,江戸時代・徳川幕府の終焉 265年にわたる平和の中で作られた江戸時代は戦争を必要としなかったので、武力で は次々と戦争をしてきた欧米に対し著しく劣っていた。それゆえ、ペリーの太平洋艦隊 が浦賀に入航し開国を要求した時のショックは大きく、日本は長い心地よかった眠りか ら覚めて、開国せざるをえませんでした。また、早急に強力な軍隊を作って植民地化を 防がなくてはなりませんでした。そのために、体制の変革・明治維新は不可避でした。 1853年から1868年は開国をめぐる陣痛の時期でした。どうしても開国と富国強兵は 必要でしたし、そのための体制変革も不可避でした。 黒船到来以前から幕府は危機感を募らせていました。その中で、老中首座阿部正弘は 開国維新を目指し広く意見を求め、人材を登用しました。そして堀田正睦、大久保一翁、 勝海舟などを登用し、明治以降につながる政策ラインの基礎を作りました。 しかし、日米修好通商条約の調印問題で国論は大きく割れました。孝明天皇は頑なに 攘夷を主張し、日米通商条約締結後の「孝明天皇による条約拒否と戊午の密勅」が「安政 の大獄と幕府政治の大混乱」を引き起こし、最初の歴史の捩れの引き金になりました。 特に、大老・井伊直弼による安政の大獄は日本変革の流れを大混乱に陥れました。 そして、さらに薩長の攘夷派が幕府を追い詰めるために攘夷を言い募り、幕末の混乱 をひどいものにし、日本が分裂し外国勢力に侵略されかねない重大な危機に追い込んで しまったのです。しかし、結果的には開国政策しかないことが明確になるのです。 その大混乱も坂本龍馬らが提案した「大政奉還」と「船中八策」で収束しそうになり、 民主的政治体制への変革は目前でした。すなわち、幕府が大政を奉還し、有力諸侯と 公卿をメンバーとする議事院(新政府)を作り、幕府は倒されるのではなく、新しい 政府の中心として朝廷とともに諸侯や公卿をリードするという「平和革命」を目指して いて、その完成は目前でした。 この平和革命に慌てた武力革命派の西郷や岩倉は、偽勅と言われている倒幕の密勅を 発し、江戸の騒乱を演出し、なんとか鳥羽伏見の戦いにもっていって、武力による倒幕 を果たしたのです。結果として、西郷・大久保・岩倉の陰謀が成功して幕府は武力で 倒されました。江戸城こそ、西郷と勝の交渉で無血で引き渡されましたが、その後の 奥羽越戊辰戦争で大量の血が流されました。東征大総督の有栖川宮が江戸に入城のは 1868年5月21日、それから奥羽戦争をへて、榎本武揚が函館で降伏する1869年5月 18日まで一年一ヶ月ほどの戦いが続きました。フランスが幕府を、イギリスが薩長を 応援し、あわや列強の直接介入を招きかねない危機を体験しました。 奥羽戊辰戦争が終結しても、武士と武士との戦いはまだ終わりませんでした。1874 年の江藤新平の佐賀の乱、1877年の西南戦争と続きました。 維新後、日本は薩摩と長州の独裁的リーダーシップのもとで、富国強兵・軍国化の道 を歩みました。しかし、薩長が主導する政治運動が、江戸という時代を、あるいは、 江戸幕府を全否定する必要があったのでしょうか。開国政策を積極的に進めてきたのは 江戸幕府であり、薩長の側は、むしろ、尊皇攘夷の立場で、少なくともある時期まで は、開国政策に反対したのです。このような薩長の革命路線が明治以降の日本の歴史に 大きな捩れを作ることになったのです。 2,明治維新は大きな捩れを作ってしまった 尊皇攘夷から尊皇開国への転換は、ある意味では日本近代史を狂わせる大きな捩れを 内包しました。つまり、政策的には幕府の正しさが証明されたが、権力闘争では幕府が 敗北したのです。西郷の言うように「尊皇攘夷」というナショナリズムを煽ることに よって薩摩と長州は幕府を倒したが、政策的には幕府の政策を受け継ぎ、それをさらに 大きく展開していったのです。岩倉具視、大久保利通、伊藤博文、山県有朋ももともと は攘夷論者でしたが、ある時点から(薩英戦争、下関戦争後)、彼ら自身は開国への舵 を切り、攘夷というナショナリズムを梃子に倒幕を実現したのです。つまり、西郷の 言うように「尊皇攘夷というのはネ、ただ幕府を倒す口実よ」ということなのでした。 幕府の開国政策が早い時期に朝廷や薩摩・長州藩に受け入れられていれば、おそらく、 明治維新はなかったか、異なった形になっていたでしょうし、その後の歴史も変わって いたことでしょう。現実的かつ適切な選択をした幕府が尊皇攘夷のエネルギーに翻弄 され、結局は倒幕になってしまったのは、何とも歴史の皮肉としかいいようがありませ ん。思うに、徳川幕府は革命されるべき政治体制ではなかったのですが。 3,昭和維新と敗戦につながってしまった「攘夷思想」と「維新での捩れ」 日露戦争により財政は窮乏化が続き、そして昭和大恐慌等の影響によって経済が極度 に疲弊し、農村は貧困にあえいでいました。そうした中で政党政治の腐敗と無能を非難 する声が高まり、いわゆる「昭和維新」への流れが軍部を中心に急速に拡大していった のです。軍部を中心とする維新の主力は、政財界の軟弱外交を非難し、新たな「尊皇 攘夷」を主張していったのです。そして1933年、日本主席代表松岡洋右は国際連盟から の脱退を宣言し、1940年の日独伊三国同盟へと舵を切っていったのです。これはまさ に開国の否定であり、鎖国であり、攘夷政策への転換だといえます。 東南アジアからのエネルギー源を確保したうえでの自給自足を目指した大東亜共栄圏 という攘夷圏を作ることが、厳しい国際情勢の中での日本の大陸侵攻の目的であったと 言われています。すなわち、日本の権益を中国、東南アジアまで拡大し、そこに欧米と 対抗できる自給自足できる攘夷体制を作ろうとしたのです。そして、明治維新をもたら した尊皇攘夷思想は維新とともに尊皇開国に変わりましたが、昭和維新の尊皇攘夷は 敗戦まで開国に変わることはありませんでした。 4,攘夷思想がいつの間にかニヒリズムに変わっていったのはなぜか 戊辰戦争の総括において捩れがさらにひどくなった。あのときに敗者の処遇を過った ことによって、それからあと近代日本には「怨霊」のようなものが取り憑いてしまった。 靖国神社に招かれた魂は、明治新政府側にたって斃れた者の魂だけが選ばれ、旧幕府側 で闘って斃れた者の魂はすべて排除されました。日本の変革の戦いにおいて斃れた者の 魂が等しく祀られるべきでした。 そして、明治維新以降、奥羽列藩同盟に加盟した藩・県は貧困と蔑視に耐えた忍従の 歴史であり、その桎梏から逃れる数少ない道である軍人を選んでいく者が多かった。 昭和維新は表層的には天皇制イデオロギーが過激化したものと見られるが、無意識的な 層には戊辰戦争・明治維新以後の近代日本の統治システム(薩長が作った明治の体制) 全体を一度根本から破壊しようする暗いルサンチンマがあったのではないだろうか。 彼ら自身の心のどこかに「こんな国、滅びたっていい」という破局願望、すなわち、 底なしのニヒリズムを抱えていたのではないだろうか。そして、口には出さなかった けれど、昭和維新を目指した軍人は天皇をひそかに憎んでいたのではないだろうか。 なぜならば、彼らの父・兄たちは勤王の赤誠を以て仕えたのに、朝敵の汚名を着せられ、 天皇に見捨てられ、天皇の名において殺されていったからです。 5,江戸幕府の儒教政策と天皇制との関係 徳川幕府は武士支配と武士階級を維持するためのイデオロギーとして儒教を採用した が、その儒教の根本思想を骨抜きにして、代わりに天皇・天皇制をそこに入れてしまっ た。このことが、大きな禍根を残した。そのために、社会の変革・明治維新がややこし くなり、問題解決の本筋が見えなくなってしまった。その影響は現在まで強く強く続い ている。 また、真実の歴史を知りその本質に触れるには、宗教とイデオロギーという眼鏡を かけて眺めなければならないことを痛感する。 「参考文献(書籍) 」 参考になったものです、○は特に参考にしました。 1,半藤 一利:○幕末史、 ○もう一つの幕末史 2,松浦 玲:○日本人にとって天皇は何であったか、 ○暗殺、 ○続日本人にとって天皇は何であったか、 ○君臣の義を廃して ○横井小楠、 ○徳川慶喜 3,家近 良樹:○徳川慶喜、 ○幕末の朝廷、 江戸幕府崩壊 4,落合 莞爾:南北朝こそ日本の機密 5,佐々木 克:○幕末史、幕末の天皇・明治の天皇 6,安藤裕一郎:○幕末維新 消された歴史、 7,原田 伊織:明治維新という過ち 8,徳川 慶朝:徳川慶喜家にようこそ 9,徳川 宗英:○徳川300年 ホントの内幕話 10,星 亮一:奥羽越列藩同盟、偽りの明治維新 11,畑 敬之助:○戊辰怨念の深層 12,渋沢 栄一:徳川慶喜公伝(1~4)、昔夢会筆記 13,山川 浩:京都守護職始末(1,2) 14,村上 兵衛:守城の人 明治人柴五郎大将の生涯 15,中村 彰彦:逆風に生きる 山川家の兄弟 幕末・明治維新年表 西暦 1853 和 暦 嘉永6年 2 月 2 日 関東地方で大地震発生 6 月 3 日 ペリーが軍艦 4 隻で浦賀沖に到着し、国書受け取りを要求 7月18日 ロシア使節・プチャーチンが長崎に入港、国書受け取りを要求 7 月 幕府老中阿部正弘、米国の国書を諸大名に示し諮問する 11月 7 日 幕府、米国から戻っていた中浜万次郎を登用する 1854 嘉永 7 年・安政元年 1 月16日 ペリーが軍艦7隻で江戸湾に来航 1 月29日 阿蘇山噴火する 3 月 3 日 幕府、日米和親条約調印、下田と函館が開港する 1855 安政 2 年 10月 2 日 江戸で直下型地震(安政の大地震)、死者 7000 人以上 11月 西郷隆盛・大久保利通、熊本(肥後藩)の横井小楠を訪ねる 1856 安政 3 年 8 月 5 日 米国総領事・ハリス、下田に着任 1857 安政 4 年 8 月25日 広島・松山・大洲などで大地震 1858 安政 5 年 4 月23日 井伊直弼、大老に任命される 5 月 コレラが長崎で発生 6 月19日 日米修好通商条約に調印 7 月 4 日 将軍家定死去。家茂(慶福)、第 14 代将軍に就任 7 月 コレラが大阪、京都、江戸へ拡大 水戸藩に「戊午の密勅」が下される 7 月16日 薩摩藩主島津斉彬急死(享年 50) 1860 安政 7 年・万延元年 3 月 3 日 大老・井伊直弼、桜田門外で暗殺される 11月 1 日 幕府、和宮内親王の家茂への降嫁を発表 1861 万延2年・文久元年10月20日 皇女・和宮の一行が京を発ち、11 月 15 日に江戸に到着 12月23日 幕府の第二次欧州使節団出発、文久 2 年 12 月 10 日帰着 1862 文久 2 年 7 月 6 日 幕府、一橋慶喜を将軍後見職に任命 7 月 この頃、京都で攘夷運動が盛んになる 8 月21日 生麦事件勃発 閏 8 月 1 日 幕府、会津藩主・松平容保を京都守護職に任命 桑名藩主松平定敬、最後の京都所司代になる 1863 文久 3 年 3 月 4 日 将軍家茂、3000 人を率いて入京し、二条城に入る。 4 月11日 孝明天皇、石清水八幡宮に行幸し、攘夷を祈願する 6 月 7 日 高杉晋作、奇兵隊を創設 7 月 2 日 生麦事件報復のため来襲した英艦隊と薩摩藩が交戦(薩英戦争) 1864 文久4年・元治元年 7 月19日 禁門の変。長州藩が会津・薩摩藩と蛤御門付近で交戦し敗れる 8 月 2 日 第一次長州征伐 西暦 和 暦 8 月 5 日 四カ国艦隊、下関砲撃・占領 1864 1866 慶応 2 年 1 月22日 薩長盟約締結 6 月 8 日 幕府、長州藩を攻撃(第 2 次長州征伐) 1866 7 月20日 将軍家茂、大阪城内で死去 12月 5 日 慶喜、第 15 代将軍に就任 12月25日 孝明天皇崩御 1867 慶応 3 年 1 月 9 日 睦仁親王、践祚 10月14日 慶喜、大政奉還を上奏。朝廷はこれを勅許する。 長州藩へ倒幕の密勅が下がる。 10月24日 慶喜、朝廷に将軍職返上を奏請 11月15日 坂本龍馬・中岡慎太郎、京都伏見屋で襲撃され、龍馬死亡 12月 9 日 王政復古の大号令。幕府を廃絶し、総裁・議定・参与の三職設置 12月25日 江戸の薩摩藩邸、徳川方により焼き討ち 1868 慶応 4 年 1 月 3 日 鳥羽・伏見の戦い。幕府軍が敗退する。 1 月 8 日 慶喜、大阪城を出て、江戸に軍艦で戻る。 2 月 9 日 新政府、有栖川宮熾仁親王を東征大総督に任じる 3 月13日 江戸の薩摩藩邸で、幕府全権・勝海舟と西郷隆盛が会談 3 月14日 明治天皇、五箇条の御誓文(明治新政府の基本方針)を発する。 5 月 3 日 東北 25 藩は仙台藩を盟主として奥羽越列藩同盟を締結 1868 明治元年 9 月 8 日 明治に改元 9 月22日 会津藩、新政府軍に降伏 10月13日 江戸城へ天皇が入城し、ここを皇居と定めた。 1869 明治 2 年 1 月 5 日 横井小楠、暗殺される。 6 月17日 諸藩の版籍奉還を許し藩知事に任命、公卿・諸侯を華族とする。 1870 明治 3 年 7 月14日 廃藩置県を実施。 11月12日 岩倉使節団派遣。 1871 明治 4 年 御親兵(後の近衛兵)創設 4 月 4 日 戸籍法制定。散髪脱刀令。 1872 明治 5 年 7 月19日 参議・西郷隆盛、陸軍元帥・近衛都督になる。 1873 明治 6 年 8 月 3 日 西郷隆盛、征韓の意見書を太政大臣・三条実美に提出 10月24日 明治天皇、朝鮮遣使を却下。西郷隆盛、辞職して鹿児島へ帰郷。 1874 明治 7 年 2 月 1 日 佐賀の乱。江藤新平が処刑される。 1875 明治 8 年 9 月 朝鮮で江華島事件起こる 1877 明治10年 2 月15日 西南戦争。西郷隆盛 15000 の兵を率いて北上。 5 月26日 内閣顧問・木戸孝允死亡。 9 月24日 鹿児島県城山陥落。西郷隆盛自刃。西南戦争終結。 1878 明治11年 5 月14日 内務卿・大久保利通、東京紀尾井坂で暗殺される。
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