⑧大津皇子

D-8
大津皇子
うつそみの人なる我や明日よりは
二上山を弟(いろせ)と我(あ)が見む:大伯皇女
*大津皇子の出自は?
大津は天武天皇の第3皇子で母は天智の長女・太田皇女、祖母は蘇我石川麻呂の娘遠智
媛で、白村江の戦の年663年斉明の九州遠征に太田が同行したとされており、那の大津
(博多)で生まれたとされている。
幼年で母を失い姉・大伯皇女と共に母の父・天智が長女の孫でもあり可愛がっていたよ
うで天智の手元で育てられていたが、天智歿後壬申の乱勃発直前に近江を脱出し、桑名で
天武軍に合流したのが十歳で、天武と同行していた母の妹・鵜野讃良皇女に引き取られて
第2皇子・草壁(鵜野讃良皇女の長男)と共に育てられた。
*大津皇子の生い立ちは?
第1皇子の高市皇子は壬申の乱当時成人に近く天武の片腕として大活躍するも婢母出
身のため王位継承権は下位とされ、皇后持統の子・草壁皇子が本命で、大津皇子は次位と
されていた。
しかし天武は武力で大王位を簒奪したことでもあり、新体制確立のために徹底した実力
主義を貫き、壬申の乱で打倒した近江朝の主要豪族を官人として平等に活用した。
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従って皇后の庇護で育った凡庸な草壁に対し、父・天武に似て偉丈夫で才能に恵まれて
いた大津に人望が集まり、王位継承権が微妙になっていた。
天武は壬申の乱の勝利で独裁権を握り、従来の氏姓制度における有力豪族の解体を計り、
律令制度による官人化することで天皇家による絶対君主国家の確立を意図した。
そのため律令による官僚制度の整備を計ると共に、天智の皇子・河嶋皇子に史書の編纂
を命じ天皇家の権威付けを計り、草壁皇子を皇太子とし21歳になった大津皇子をも朝政
に参画させ天皇家一族による支配体制を固めたが、これが大津の悲劇を生む要因となった。
人望のある大津の朝政への参入で皇太子草壁の影が薄れ、母・持統の皇継への疑惑を生
む結果となり、更には万葉集巻2に記される大名児(石川郎女)を挟んでの草壁との確執や
無断での伊勢斎王である姉・大伯皇女との出会い等奔放な大津の行動が疑惑を深め、天武
の死により決定的瞬間を迎えることとなる。
大津に関する生い立ちの資料は日本書紀以外では懐風藻と万葉集にあり、「懐風藻」は
我国最古の漢詩集で8世紀中頃に編纂されたとされ、壬申の乱で没した大友皇子の曾孫・
淡海三船を編者とする説が有力で、大津の才能を高く評価し五言絶句が記載されている。
「万葉集」では石川郎女との相聞歌(巻2-107,108)や最後に伊勢神宮の斎王
であった姉・大伯皇女に出会うため都を抜け出した時の惜別歌(巻2-105,106)、
更には刑死直前の辞世歌(巻2-116)が残されている。
*大津皇子の最後は?
天武の死後一月経ぬ間に大津を謀反容疑で逮捕し、翌日には訳語田の舎(おわりだにい
え)で死を賜り、連座者30余名を逮捕するも舎人の礪杵道作(ときのみちつくり)を伊
豆に、新羅僧行心を飛騨に流刑としたのみで他は全て赦免していることから持統による大
津の排除を目的とした謀略説がある。
大津の死を知り妃・山辺皇女が髪を振り乱し裸足で駆けつけ自刃したとあり、翌月には
姉・大伯皇女が伊勢斎王を罷免され飛鳥に戻り、弟への哀傷歌が万葉集に残されている。
大津皇子は漢詩や和歌にもその才能を発揮し、宴を催して衆望を集めていたことも持統
の疑惑を生む要因となるも、懐風藻でもその才能を賞している。
大津皇子の辞世歌
懐風藻:金烏西舎に臨み 鼓声短命を催す 泉路賓主なく この夕家を離れて向かふ
万葉集:ももづたふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ
大津の死後三年で草壁が歿し、怨霊説もあり二上山に祭られたとされ、姉・大伯皇女の挽
歌が万葉集巻2-165に残されている。
うつそみの 人にあるわれや 明日よりは 二上山を 弟世とわがみむ
*大津皇子の墓は?
上記(万葉集巻2-165)の大伯皇女の万葉歌から、おそらく江戸期に二上山山頂に
大津皇子の墓を設定したのではないかと考えられ「大和名所図会」(1791年)に紹介
されている。
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明治政府は尊王思想に基づいて江戸期の伝承をそのまま陵墓指定に採用し、戦後になっ
ても宮内庁は殆ど見直しすること無く引き継いでいる。
従ってこの陵墓は宮内庁指定のため調査未済なるも学会では古墳とは認定されておら
ず、大津皇子の墓探しが過去にされてきた。
現在有力視されているのは二上山麓にある鳥谷口古墳で、出土土器から7世紀後半の築
造で石槨の石材に石棺として製作されたものを転用しており急造したと予測され、改葬墓
とも見られているが実証性ある遺品は出土していないため通説には至っていない。
*大津は悲劇の英雄物語の主人公か?
大津の出生から謎で斉明7年(661)の百済救援の遠征軍に大海人皇子の参加の記録
は無いが途中の備中・大伯湊で大海人皇子妃・太田皇女が大伯皇女を生んだとあることか
ら同道していた可能性はある。しかしその年の7月に斉明は崩御しており、11月に飛鳥
で殯(もがり)したとあるが喪に服していたはずで誰が遠征先の九州から帰国したかの記
載がなく、再度九州に出かけた記録も無いが斉明の意思を継ぐ意味ではトップは最前線に
居るべきでしょう。
次の年に大海人皇子妃・鵜野讃良皇女(太田の妹)が草壁を生んでおり、663年に倭
軍は白村江の戦で唐・新羅軍に完敗したが、この年に大津皇子が九州・那の大津で生まれ
たとしているが、懐風藻では天武の長子としている謎がある。
しかし大海人皇子が白村江の戦に如何に関わっていたかは不明で、何処に居たかも記録
無く、天智期での初登場は天智3年(664)の冠位26階制定で大皇弟とあり、天智8
年の鎌足の死で大織冠と大臣位を授ける為に東宮大皇弟(ひつぎのみこ)を遣わすとある。
いずれにしろ日本書紀・天智期での大海人皇子の記載が僅かで、天智4年に太田皇女が
亡くなったために大津皇子は姉の大伯皇女と共に祖父の天智に引き取られ大津宮遷都後
に大津皇子の名前が付けられたとの説もある。
一方持統3年に草壁皇子が即位できず死亡し、孫の文武天皇も25歳で若死したことか
ら大津皇子・怨霊説が早い時期に生じていた可能性が在り、刑死した大津を美化する伝説
や鎮魂伝説が生まれたのではないかと考えられる。
現に「薬師寺縁起」では大津を祟り霊として鎮魂に関わったとされており、伝大津皇子
座像(重要文化財)を秘仏として所蔵しており、若宮社の存在がこれを裏付けている。
また万葉集に大津を二上山に移し葬るとあり改葬説が有力で、刑死者の墓をどのように
扱ったかは不明だが本薬師寺から移したのかもしれない。
天武が定めた律令では謀反は刑死が当然ではあるが、あまりにも見事なタイミングでの
謀反罪で三十数名の逮捕者のうち二名の流刑のみで他は特赦した事実や、斎王・大伯皇女
の伊勢への逃避行、妃・山辺皇女の行動、万葉集や懐風藻の辞世歌等は中国の故事に倣っ
て後世に英雄伝説として造作された可能性が在る。
その要因はここに登場する人物や舞台、道具立てが見事で出来過ぎではないかとの疑問
が出されている由縁である。
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<註>
壬申の乱:673年勃発の天智の長男・大友皇子と大海人皇子との権力闘争で大海人側の
勝利となり天武朝を確立した
「懐風藻」:752年に完成されたとする我国初の漢詩集 編者は複数候補あり確証なし
作者は文武、大友、河嶋、大津、不比等等が見られる
相聞歌:万葉集の構成は雑歌・相聞歌・挽歌の三部立てになっており 相聞歌は譬喩歌を
含めた恋愛歌
斎王:伊勢神宮と賀茂神社に巫女として仕えた未婚の内親王で 伊勢神宮の斎王を斎宮と
賀茂神社は斎院と呼ばれる
新羅僧行心:天文卜筮を解するとされ大津皇子を嗾けて謀反を企画させたとする
「大和名所図会」
:江戸時代の観光案内資料で観光地毎に作製されていた大和版
陵墓:I-10 宮内庁指定陵 参照
鳥谷口古墳:昭和58年に工事中に偶然発見された横口式石槨を有する辺8M の方墳
所在地は葛城市染野
白村江の戦:663年百済救援のため倭軍が朝鮮半島・白村江に援軍を送ったが唐・新羅
軍により攻められ完敗し唐軍の進駐を受けることとなった
冠位26階:先に在った冠位19階を改正して大海人に宣命させた 天武14年に48階
に改正している
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