⑪聖徳太子像

G-11
聖徳太子像
救世観音菩薩像
(伝聖徳太子等身像)
*なぜ太子は仏像になったの?
古代より神仏を表現するのに象徴的な「印」(しるし)を活用していた。神への祈
りの対象として太陽、月、山、磐、樹木等の自然物を採用し、必要に応じて神殿を創
建していた。
偶像信仰はエジプトやヒンズー教では比較的早くから活用されてはいたが多神教に
限定され、一神教では偶像崇拝は禁じられていた。
イスラム教は現在も偶像崇拝禁止を継続しており、キリスト教はキリストの復活で
十字架を象徴として使用するようになったが、仏教は釈迦入滅時の遺言として釈迦自
身ではなく<釈迦の教え>を信仰対象とすることとして数世紀守られてきた。
- 38 -
釈迦入滅で荼毘(だび)に賦した遺骨を「仏舎利」として八部族に分骨し、ストウ
ーバと呼ばれる舎利を収める塚を建造して信仰の対象とした。これが汎用化して仏塔
となり各地に多数創建されることとなった。
AC2C前後にインドを統治したカニシカ一世による仏教保護政策で各地に仏塔と
祈念石塔が多く設置され、特に石塔には碑文が刻まれており釈迦の生涯に関する確定
資料として活用されている。
仏教では信仰対象としては仏塔以外に図形化した宝輪、菩提樹、仏足石で象徴的に
表現されていたがパキスタンのガンダーラ地域やインド北部のマトウーラ地域に仏教
が伝来されたと考えられるクシャーナ朝時代に両地域に信仰対象とする釈迦像が出現
したとされるが正確な出現時期と場所には諸説あり確定はしていない。
最初は釈迦如来像に限定されていたがアレクサンドロス大王の東方遠征でヘレニズ
ム文化が定着していたガンダーラ地域では次第に釈迦の修業時代を示す王冠菩薩や弥
勒菩薩等の種々の仏像が作成されるようになり、仏塔信仰から変化して<仏像信仰>
が興隆し偶像崇拝的性格を持つようになった。
この傾向は仏教が中央アジアから中国、日本へと伝来する中で定着し、我国に伝来
した六世紀ごろには仏像が信仰対象の中心となっていた。
我国で神仏以外の実在人物が神・仏として崇められる例は古代では神功皇后や倭タ
ケルが記紀に、天武天皇が万葉集に存在している。
奈良期以降になると権力闘争や天災による世情不安に付随して怨霊思想がはびこり、
不遇のうちに亡くなった人物の霊を慰める事例が多発する。崇道天皇、菅原道真、崇
徳上皇等があり道真は天神信仰として全国に広く祀られるようになった。
これらの歴史の流れの中で法隆寺再興目的として「聖徳太子信仰」を創造したのが
法隆寺僧・行信だったのでしょう。行信は聖徳太子の等身仏としての「救世観音」を
祀るために法隆寺東院伽藍の造営を時の権力者である光明皇后・阿部内親王の母・娘
に願った。この背景には後述する天平期の藤原一族に多発する不祥事があり、藤原氏
隆盛の基礎を築いた中臣鎌足が大化改新で蘇我本宗家を謀殺したことに起因する怨霊
の所作で蘇我一族を慰撫する必要があるとした。ここで慰撫する対象として蘇我氏の
血を濃く引き継いでいる厩戸皇子が選択され、既に聖人化されている聖徳太子として
祀るべきと説得したと考えられる。光明皇后は中臣鎌足の孫娘であり阿部内親王もそ
の娘で藤原一族となり、頂点に登りつめたのは藤原氏の支援であったことからも聖徳
太子を祀ることに異存はなかったのでしょう。
尚法隆寺の聖霊会(しょうれいえ)の太子怨霊説については梅原猛氏著「隠された
十字架」に詳述されていますのでご参照下さい。
*法隆寺再興とは?
聖徳太子は生存中斑鳩宮を造営し斑鳩寺(いかるがでら)を創建したが皇子の山背
大兄が政争に巻き込まれ蘇我入鹿に攻撃され寺と共に滅亡した。その後法隆寺(斑鳩
寺・若草伽藍)が造営され官寺として維持されていたが、
「天智9年(670)4月に
- 39 -
火災」と日本書紀に記されており法隆寺は焼失したが異論も多く永年論争されてきた。
近年に若草伽藍の発掘調査や年輪年代法等の解析から法隆寺再建論が通説となって
きた。再建されたのは現在の法隆寺・西院伽藍で飛鳥期から奈良期にかけて長期にわ
たって造営されたと考えられるが、日本書紀に記されている<天武9年の「勅」>で
数多くあった官寺が整理され法隆寺も官寺から除外され、与えられていた食封(へひ
と)も期間限定を命じられたために再建中の法隆寺は経済的に大打撃を受けることと
なった。この苦境を救う道としては聖人化されつつあった聖徳太子を太子信仰で祀り
上げることが法隆寺再興に繋がると考えたのが行信であった。
720年に編纂された日本書紀では既に聖徳太子は聖人化されていることやそれま
でに収集された播磨風土記の石の宝殿の記述に「聖徳王御世」の時とあり、伊予風土
記に伊予湯岡碑文の「法王大王」の記載がある。
更には738年大宝令の注釈書「古記」に上宮太子の諡(おくりな)を「聖徳王」
としたとあり、奈良時代初期には太子信仰の基礎は出来つつあったと考えられる。
この時代の流れを巧みに利用して太子信仰を決定付けたのが法隆寺僧・行信で、聖
徳太子の居住戸故地・斑鳩宮跡に東宮伽藍を造営しその中心になったのが「救世観音」
であったと云えるでしょう。
*行信とは誰なの?
出身については不詳で当時資料に記載は無いが我国では一人しか任命されない「律
師」、「大僧正」を奈良時代中期に歴任したことが正史に記されていることからそれな
りの人物であったことが伺える。
僧界を指導する立場にある「律師」は永年務めていた道慈の後任であり、「大僧正」
は玄昉が左遷された後任として指名されたが大仏開眼前には交替したようである。
太子信仰は聖徳太子の死を契機として周辺の縁者を中心に発生したと考えられ、天
寿国繍帳や釈迦三尊像に見られるように釈迦(シッタル太子)を聖徳太子に写し込ん
だ思想が生まれていた。兵庫県揖保郡太子町の斑鳩寺は推古から賜った地を「鵤荘」
(いかるがそう)と名付け寺院を建立して法隆寺に寄進したとされるが、最近の法隆
寺発掘調査で「鵤」の文字が墨書された土器が発見されている。
天平年間には不祥事が重なることになる、天平元年には長屋王の変があり、天平5
年には光明皇后の母・橘三千代が没し、疫病流行で天平7年には時の権力者・藤原四
兄弟が相次いで死亡すると云う事態となり、天然痘退散祈願として救世観音像を祀る
ことを提案したのは行信ではないかと考えられ光明皇后・阿部内親王に法隆寺東院伽
藍の建造を願い出たのはこの頃でしょう。
天平8年には行信主導で太子忌を開き太子ゆかりの法華経の講会には当時の律師・
道慈を招きその実力を見せたと考えられる。天平10年には我国初の女性皇太子とし
て阿部内親王が立太子するが反対の声が多くある中で、行信は女性立太子の正当性の
ためのデモンストレーションを強力に進めたと考えられその年に律師に命じられるこ
ととなり、光明皇后・孝謙天皇との関係が伺える。
- 40 -
天平11年(739)に法隆寺東院伽藍が完成し、東院の本尊として「救世観音菩
薩」を祀ることで太子信仰を確たるものにしたのでしょう。天平18年前後には玄肪
が太宰府に左遷された後任の「大僧正」に任じられたとの記録がある。
この頃から東大寺大仏建立が始まり天平勝宝4年(752)に開眼会が実施された
ことから行信はこの大事業に関わっていたはずであるが、特に記録がなく天平勝宝2
年に没したとの説もあるが、天平勝宝6年に下野国薬師寺に配流されたとの記録が「続
日本紀」にありこの人物が行信だと云う説が有力である。
従って行信は生死共に不詳で謎の人物ではあるが実在して太子信仰普及に貢献した
のは事実である。しかし太子信仰が盛んになるのは平安期になってからである。
*なぜ「救世観音」(ぐぜかんのん)なの?
この仏像は様式論から見て止利式の飛鳥仏であることは学会でも定説となっている
が行信が何処から持ち込んできたかは謎で記録に一切とどめられていない。
しかも救世観音という名称は経典にも見えず儀軌(ぎき)にも定められていないた
め正統な仏像名と云えないが、救世=観音の意味で法華経信仰と太子信仰が結びつく
ことで民間に定着したのでしょう。
本像はクスノキの一木造りで漆塗りの上に金箔を押しているが、当時の止利式仏像
は殆どが金銅仏であることから金銅仏の木彫原型として作成されたのではないかとす
る説が有力である。
しかし761年「法隆寺縁起幷資材帳」
(東院資材帳)に「上宮王等身観世音菩薩木
造壱躯」と記されていることから東院伽藍完成時には法隆寺に存在していたことは事
実でしょう。
明治17年にフェノロサによる秘仏公開まで全身布で覆われており、誰もが見たこ
とがないとの伝説は事実で何時頃から秘仏にされたのは不明なるも江戸期以前である
ことは確認されている。12世紀の大江親道「七大寺日記」でも帳(とばり)に遮ら
れて実像が観られなかったと記されていることからこの時期既に秘仏化されていたの
でしょう。
法隆寺東院伽藍の本尊として「救世観音」が祀られたことで観音=聖徳太子として
太子信仰の観音信仰が定着したと考えられる。
太子信仰が普及した要因のもう一つは天台宗二祖・南岳恵思大師の再来が聖徳太子
であるという説が渡来僧により唱えられ淡海三船にも支持され「懐風藻」に聖徳太子
という呼称が記されておりこれが史料での初出であるが、これは天台宗の依拠する経
典「法華経」の注釈書が太子義疏説によるものと考えられ最澄も恵思大師の後身が聖
徳太子であると明言しており、兵庫県の一乗寺所蔵の天台高僧画像の中に太子画像と
恵思大師画像が含まれている。
更には浄土真宗の開祖である親鸞も太子の示現を得て法然の門に入ったとされ、真
宗は太子信仰と阿弥陀信仰との結合といわれ太子信仰の普及に繋がっている。
- 41 -
*太子像とは?
平安期に太子信仰が盛んになると厩戸皇子の幼少~成人像が数多く、全国的に作成
されるようになり偶像崇拝的に祀られるようになってゆく。
太子の没日(旧暦2月22日)に毎年開催される法隆寺・聖霊会には本尊として祀
られている「太子七歳像」が太子一族の象徴として扱われている。本像は1069年
に円快・秦致真の造立で胎内に聖観音真言を記しており、太子=観音の思想を明確に
している。またここには秘仏とされている「聖徳太子像」が在り勝曼経を講讃する四
十五歳太子の姿を写したとされ、胎内仏として救世観音に似た観音像を収めている。
また元興寺極楽坊に1268年造立の「太子十六歳像(孝養像)」があり父・用明天
皇の病気平癒を願う太子像で仏師・善春の作とされている。
更には太子二歳像として奈良・円成寺の「南無太子像」や興福寺や元興寺にも木造
として残されているが13~14Cの作品である。
一方画像としての太子像も多く残されており、兵庫県鶴林寺蔵の「太子二王子・二
天像」や兵庫・斑鳩寺蔵の「太子勝曼経講讃像」がいずれも鎌倉期の作品として地元
に残されている。また最も有名な「聖徳太子二王子像(唐本御影)」は献納御物とされ
ているが明治期に法隆寺が献納48体仏と共に国に収めたものである。
<註>
光明皇后:藤原不比等の娘で聖武天皇の妃となるが長屋王の反対を押し切って皇族出
身以外の皇后が初めて誕生した
阿部内親王:聖武天皇と光明子の娘で基王が早く亡くなったため聖武天皇の皇太子と
なり、譲位されて孝謙天皇となった。後に譲位したが重祚して称徳天皇
となる
法隆寺東院伽藍:聖徳太子が隠遁した斑鳩宮の跡地に再建した伽藍で中心に夢殿があ
り救世観音を祀り、周辺に中宮寺が在る
斑鳩寺:建立地名で呼んだ名、法名は法隆寺で聖徳太子が建立した七寺の一つで焼失
した若草伽藍と考えられている。また推古から賜った兵庫県太子町の荘
園に建立し法隆寺に寄進した太子ゆかりの寺でもある
食封:
「じきふ」とも呼び律令制で皇族、貴族、寺社に与えられる封戸(ふこ)でそれ
に課される税が収入となるもの、荘園もその一種
上宮太子:聖徳太子の呼び名で用明天皇の上の宮で養育された伝説による
長屋王の変:高市皇子の長男で天武の孫で歴代天皇に信頼されており、光明子の立后
に反対しており、基王の夭折で皇位継承問題で藤原氏と争い、藤原氏の
策謀で讒言に会い自殺した
- 42 -