11 第41代 文武天皇 文武天皇 第 41代天皇 文武天皇像(道成寺蔵) 在位期間 697 年 8 月 22 日 - 707 年 7 月 18 日 元号 大宝 慶雲 先代 持統天皇 次代 元明天皇 誕生 683 年 崩御 707 年 7 月 18 日 御名 珂瑠(軽) 異称 倭根子豊祖父天皇 天之眞宗豊祖父天皇 - 49 - 父親 草壁皇子 母親 阿陪皇女(元明天皇) 夫人 藤原宮子 子女 首皇子(聖武天皇) 皇居 藤原京 *漢風諡号「文武」は誰が名付けたの? 八世紀中まで漢風諡号(かんふうしごう)は無く和風諡号のみで日本書紀の大王名は 全て諡(おくりな)は和風であった。上記表で異称とされているのが和風諡号です。 中国での諡の制度を真似て漢風諡号を我国で初めて名付けたのは作者不詳とされて はいるが、 「釈日本紀」には大友皇子の曾孫にあたる淡海三船としており、 「神武」~「持 統」までと「元明」「元正」については三船が天平宝字6~8年(762~4)に一括 選上したと記されている。(「文武」と「弘文」が抜けている) しかし「文武」だけが抜けているのが謎で、「弘文」については明治になって追諡し たもので当時は即位したとは考えていなかったので無いのは当然である。 謎でありながら一括選上された 10 年前に編纂された我国最初の漢詩集「懐風藻」に 「文武」が作者として登場している。従って「釈日本紀」の記載に不信があり通説には 成りえていない由縁である。 更にはこの「懐風藻」の編纂者として淡海三船が有力視されているが石上宅嗣説も存 在している。淡海三船は漢書に通じており書も好んだとされ大学頭兼文章博士にも任じ られており有力視される説の根拠となっている。 また懐風藻には「文武」即位の逸話があり、 「持統」が親族会議で 15 歳と若い「文武」 の即位の是非を問った時に大友皇子の息子で淡海三船の祖父・葛野王が大王継承は父子 相続すべきで兄弟相続が騒乱の元となるとの発言し、「持統」がこれを善しとして譲位 に踏み切ったとされている。 *日本書紀はなぜ持統朝で終わっているの? 文武朝は「続日本紀」のスタートとなっている。日本六国史の最初は日本書紀で第二 の国史が続日本紀である。 日本書紀は「持統」が「皇極」の先例に倣って生前譲位をしたところで終わっている。 奈良時代以降は譲位が頻繁に行われるようになるが、未成年で 15 歳と推定される「文 武」に譲位したのは我国で第二回目であり異常である。 続日本紀においても「文武」の生年、没年が不明で懐風藻の記載から即位年を 15 歳 としているがこれまでの大王候補としてはあり得ない若年で「持統」としても躊躇した と考えられる。 - 50 - しかし即位寸前に亡くなった草壁皇子の例もあり直系血統を守るために譲位を強行 したと考えられるが「文武」は 10 年後に 25 歳で没したとされている。 常識的には平城遷都という一大イベントを契機に日本書紀を完了させるべきだと考 えられるが「持統」が太上天皇として生存している状態で終了しているのが謎である。 続日本紀は藤原仲麻呂が絶頂期(758~764)に 30 巻の創案が出来たが編纂者 は淡海三船説が有力なるも光仁朝(770~781)に政争が絡んで記述内容で意見が 分かれ紛失したとされ改訂された。最終的には「桓武」の命で菅野真道等が 797 年に完 成し、記載範囲は文武朝~桓武朝にわたるが全 40 巻なるも後半 20 巻では「桓武」の意 向が強く最終的に「平城」により削除・改訂が行われたと考えられている。 国史の編纂趣旨として日本書紀は国家形成過程を描き、続日本紀以降は勅選国史とし て国家形成後の歩みを描くことにあったと考えられる。 従って国家形成後の第一歩を文武朝にて完成した大宝律令を持参した遣唐使・粟田真 人が「倭」から「日本」へ国号の変更を初めて中国に公表し認知されたことを一大イベ ントと捉えたとすれば謎は解ける。 大宝の遣唐使が接見したのは則天武后で唐を排して国号を「大周」と変更しているタ イミングで、当時の中国は世界の覇者でもあり中国の認知は日本が律令国家として世界 に認められたと考えたのかもしれない。 *「文武」に皇后が不在なのはなぜ? 続日本紀巻一の冒頭に持統 11 年に皇太子を立て譲位して「文武」即位の記事があり 夫人(ぶじん):藤原宮子 嬪(ひん):紀竈門娘(きのかまどのいらつめ)と石川刀子 娘(いしかわのとねのいらつめ)をあげているのみで皇后の記載がないのが謎である。 律令制では皇后・妃・夫人・嬪の順に階位が決められており、皇后・妃は皇女でなけ ればならず、夫人は上級豪族の娘、嬪は豪族の娘と定められていた。 「持統」は最愛の孫でもある「文武」に天皇家の皇女を妃として権威にかけても選定 していたと考えられ皇嗣のためにも不可欠であったはずである。 従って一説には「天武」の娘である紀皇女が妃となっていた可能性があるため梅原猛 氏著「黄泉の王」で仮説を立て、かって文武妃であったが弓削皇子と密通したため妃の 身分を剥奪され皇后記事が削除されたとしている。 紀皇女と弓削皇子との関係は万葉集巻2・119~122に弓削皇子からの相聞歌が ありこれが仮説の原点となっている、一方紀皇女の恋歌が万葉集巻3・390にありこ の歌は恋人の高安王が伊予に左遷させられた時に詠んだとされており、いずれにしろ紀 皇女は夢多き女性だったのだろう。 更には夫人である藤原宮子は藤原不比等の娘であり、不比等は「持統」による官僚制 度の整備により取り立てられ急速に階位を上げているのは単に鎌足の息子と云うだけ でなく優秀な官吏であったのでしょう。従って外戚として権力を保持するためには皇后 を排斥する必要性があったと考えられ、宮子の産んだ首皇子(おびとのみこ)を後生大 事に育て上げ、成長する間二代にわたって女帝を立て聖武天皇として即位させている。 - 51 - *「文武」の御陵はどちらなの? 続日本紀では慶雲三年に「持統」と同じ飛鳥・崗で火葬にされ檜隈安古山陵(ひのく まあこのさんりょう)に葬られたと記されているが、具体的な場所は不明で現在宮内庁 が文武陵と指定しているのは高松塚に谷を越えて隣接する栗原塚穴古墳で明治になっ て指定された古墳である。江戸期には高松塚が文武陵とされていたとの伝説もあるがそ のまま維持されていたら、宮内庁管轄下で壁画古墳の発見も無かったでしょう。 高松塚壁画古墳を保護管理するために国営飛鳥歴史公園が創設され、その域内にある 中尾山古墳を発掘調査したところ八角基段の火葬墳であることが判明し、天智陵や天 武・持統陵が八角基段で構成されていることからその前後の天皇陵の可能性が高いとさ れ学会では中尾山古墳を文武陵とするのが通説となっている。 「持統」に引き続き「文武」も火葬にされているが、自ら詔(みことのり)で火葬を 選択した記録は無く可能性としては「元明」の意向が強く働いたのでしょう。「元明」 は「持統」の異母妹であり「文武」の母親で最も近い肉親であった。 この時期薄葬令が徹底されていたのは事実で薄葬の究極が火葬であり、「元明」は自 ら詔を出し火葬とした最初の天皇である。 <註> 淡海三船:大友皇子の曾孫に当たるが臣籍降下して「真人」の賜姓が与えられ淡海真人 とされた、皇族には姓が無く名前に皇子、皇女、親王等の尊称が付加される。 懐風藻の編纂者とされ、鑑真の伝記『唐大和上東征伝』を記したとされる 「懐風藻」 :現存する日本最古の漢詩集で近江朝~奈良朝の 64 人の作者による116首 の漢詩を収めるも序文には 120 首とあり現存写本は原本ではない可能性があ るが和風詩集である万葉集に対しての漢風詩集である 譲位:現在の天皇制は終身とされているが古代の大王も終身制を守られていたが乙巳の 変で「皇極」が「孝徳」に譲位したのが我国の最初で非常事態の処置と考えられ ていたが、 「持統」の譲位は平常時のもので「持統」は太上天皇の尊称を付与され た最初である。 藤原仲麻呂:藤原四家の南家の始祖、叔母にあたる光明皇后の信任を得て「孝謙」即位 で権力を一手に握った 光仁朝:天武系の「称徳」没後に天智系の白壁王が即位し「光仁」となり、以降の皇継 は天智系に入れ替わり、その間に種々の政争が発生した 桓武朝:「桓武」は「光仁」の皇子で百済系渡来人を母とするも傑物で藤原氏を取り込 んで朝廷を支配し長岡京、平安京遷都を実行した、 「平城」は「桓武」長男 「大周」:唐の高宗が没した後、皇后であった則天武后が独裁し国号を唐から大周に変 更したが則天武后の死後また唐に戻した 弓削皇子:「天武」の皇子で当時大王の最有力候補だったが「持統」に阻止された可能 性が高い - 52 -
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