【武田彦五郎】 井口友治 ) ( 信豊袖判が付いて いる。こ の頃、信重に代わり 宮川保を支配。 永禄元年、前山・気山 三方郡 に侵攻 永禄 元年十一月廿七日彦五郎宛武田義統 彦次郎元 栄 感 状 「 尊 経 閣 文 庫 蔵 」)。 気 山 は 熊 谷 氏 の 支 配地。 ] ] [ ( 〈永禄九年〉 永禄九年、足利義昭は義秋と改め、二月十七 日太刀・馬代を進上 御湯殿上日記 。彦五郎は 「代始為礼」太刀・馬を進上した 三月廿二武 田彦五郎宛足利義昭書状「尊経閣文庫蔵」 。 七月、矢島に逗留の足利義昭は出兵を命令し た 永禄九年 推定 七月十三日武田彦五郎宛義 昭御内書「尊経閣文庫蔵」 。義昭は十市や畠 山義綱・粉河寺にも要請。永禄十年十一月九日 死去する義統は病中と思われ、彦五郎が武田氏 を 代 表して いたの か、三 月の御礼が 効 いて いる のか。 この文書に「尾・濃無事之段申遣処」とある が 、閏 八 月 信 長 は 斎 藤 方 戦 い を 交 え 中 島 文 書 、 「無事」は消滅。→佐久間 八月廿九日、足利義昭が①「若州御動座」② 「武田殿父子及取合乱逆」 「多聞院日記」閏 八月三日条 。 義昭は一ヶ月程若狭に滞在しただけで、九月 八 日 敦 賀 の 金 ヶ 崎 に 入 っ た 歴 代 古 案 。「 義 統 ・元明父子の争いがあり、他国への出兵は思い もよらず、敦賀へ入った」 『足利義昭』奥野 高廣 というが、義昭は当初から越前を目指し て いたと思われる。 ①については、八月には始まっていたが 八 月十五日本郷宛義統書状「本郷文書」 、閏八 月大方決 着がついて いた。 「其外小浜中老若致退散」 閏八月廿七日本郷 又三郎宛武田義統書状「本郷文書」 と小浜は [ 若狭武田氏の通史で五郎と彦五郎は同人とさ れているようだが、信長は彦五郎 六月六日武 田彦五郎宛信長朱印状 と五郎 三月十七日松井 友閑宛信長黒印状写 を書き分けており、両人 は別人。 五郎の足跡に次いで彦五郎の足跡も提起す る。 ) ( ( 武田彦五郎 若狭 彦五郎 白井家文書 。彦五郎信方 八月五日 明 通 寺 宛 武 田 彦 五 郎 信 方 書 状「 明 通 寺 文 書 」 。 右衛門佐信景 十月三日吉川元春宛武田右衛 門 佐 信 景 書 状「 吉 川 家 文 書 」、群 書 武 田 山 縣 本 。 彦五郎、右衛門佐。信景 群書武田、群書若州 武田之系図浅羽本 。 ( ( ) 陥 落 寸 前 で あ っ た 。 東 方 も 、「 昨 日 此 表 」「 敵 悉退散」 閏八月廿五日本郷治部少輔・本郷又 三郎宛武田信方書状「同」 とあり、彦五郎が 攻勢。敵は粟屋越中守だろう。両文書に「逸駿 ・ 武 上 」「 談 」 と あ り 、 か つ て 敵 対 し た 逸 見 駿 河守、血気盛んな武藤が義 統に味方して いた。 「取合」はほ ぼ終息して いた。義 統を中心に 彦五郎・逸見・武藤はまとまって いた。戦後、 熊谷一族にも義統につく者があり 永禄九年九 月吉日河辺宛熊谷新次郎統直起請文「大成寺文 書」 、永禄九年秋、義統は粟屋越中・熊谷治 部丞 の 支配す る三 方 郡を 除 いて 若 狭一 国を安 定 的に支配したといえる。 「武田父子殿取合」は、武田信豊と義統の抗 争と思われるが 、義昭が若狭に入ったころほぼ 終息に近づいていたと思われる。これを、義昭 は 「 当 国 事 」「 理 運 之 様 躰 」「 喜 入 」 閏 八 月 廿 五日武田彦五郎宛足利義昭書状「尊経閣文庫 蔵」 と表現。 ) ) ) ( ( )( ) ( ) ( ( 〈永禄十・十一年〉 永 禄 十 年 、「 彦 五 郎 」 は 「 宮 川 御 家 中 」 に よ って「引退」に追い込まれた 永禄十年七月廿 七日白井民部丞宛山縣秀政他二名連署状「白井 家文書」 。 これは、武田元明奉行人の山懸秀政等が、幼 少の元明の権力を確立するため、 「宮川御家中」 と組んで 起こ したものと考えられる。→武田五 郎 義景は義統・元明の庇護者であると共に、母 方の中務武田家を宮川保に復帰させることも期 待されて いた。元明を支持した義景は 、彦五郎 の「引退」後、中務武田家の五郎を宮川保に復 帰させたと考えられる。 同十一年 推定 、彦五郎は義昭に「侘言」を 入れて「赦免」された 七月十八日武田彦五郎 ) 【信長以前】 天文十一年 推定 、信豊へ「懸米」納入を指 示 二月九日明通寺月行事宛中村書状「明通 寺 」 。「 彦 五 郎 殿 様 」 へ 「 御 意 」 と あ り 、 武 田元光生 存中のことで あり、元光・信豊奉行人 として 明通寺に対応したものだろう。これが初 登場。 同十八年、信豊が 宮川保矢室観音堂別当職を 寄進 天文十八年十二月二日宛欠武田信豊寄進 状 「 明 通 寺 文 書 」)。 中 務 武 田 家 は 権 力 を 失 っ ている。 弘治二年十月六日、信重が死去 前述 。 同三年、彦五郎が寺領を安堵 弘治三年九月 四日宛欠信方判物「明通寺文書」 。これには -1- ( ) [ ) ( ) ( ( [ ] ( ( ( ) ( ) ) ) ( ) ) ] ( ( ) ) ( ) [ ] ( ] ( ) ( ( ) ] ) ) 宛 朝 倉 義 景 書 状「 尊 経 閣 文 庫 蔵 」 。 「向後 」 「分 別」 「 相 違 」な く 同 と 義 景 が 釘 を 刺 し て い る 。 一応、義景は一言入れて いる 永禄十一年 推 定 八月十四日朝倉義景宛足利義秋書状「尊経 閣文庫蔵」 。 「赦免」後、彦五郎は「男柱竹之儀」を申し 入れた 永禄十一年 異筆 八月五日明通寺宛彦 五 郎 信 方 書 状 「 明 通 寺 文 書 」)。 龍 泉 寺 に 田 地 を宛って いる 永禄十二年正月十七日宛欠武田 宮川保に 信方宛行状「龍泉寺文書」 。 権力を行使して いる。五郎とうまく棲み分けし ていたか。 [ ( [ 倉 見 庄 の 紛 争 に つ い て は 、「 春 」「 京 都 」 で 「一決」した 元亀元年 推定 八月十八日熊谷 治部丞宛信長書状「浜田勝次氏所蔵文書」 。 彦五郎に有利に裁定されたか。 四月廿二日、信長は熊河に着陣 公記 。この 時 、拝 謁 者のな かに 彦 五 郎 の 名を 欠 いて いるが 佐柿國吉之城粟屋越中以下籠城次第、若狭守 護代記 、謁したと考えるのが自然。信長との 関係は悪くなかったと思われる。 六月、信長は高島郡へ出陣を命令 元亀元年 推定 六月六日武田彦五郎宛信長朱印状「尊経 閣文庫蔵」 。彦五郎に浅井氏を牽制させた。 出兵したかどうか不明。 八月、倉見庄の件で、熊谷はまた信長に訴え 出た 元亀元年 推定 八月十八日熊谷治部丞宛 信長書状「浜田勝次氏所蔵文書」 。八月廿三 日、信長は上洛 公記 。今回は、熊谷に有利に 裁定された可能性もある。ならば、これが信長 に叛す る一因にな るか。→熊谷治部丞 同 年 末 、信 長 は 苦 境 に 陥 っ た 公 記 。こ の 時 、 信 長 と 朝 倉 義 景 と の「 一 和 」に「 馳 走 」し た 元 亀二年 推定 正月十九日武田彦五郎宛真木 嶋昭 光書状「尊経閣文庫蔵」 。 ( ) [ ] ( ( そ の 後 、 家 中 に 見 捨 て ら れ た 。「 国 衆 所 行 余 ニ無正躰仕立」と同情されて いる 元亀四年 推 定 十 二 月 廿 八 日 武 田 彦 五 郎 宛 久 我 宗 入 書 状「 尊 経閣文庫蔵」 。 ま た 同 文 書 に よ れ ば 、「 来 春 」 西 国 へ 使 者 と して下るようである。 彦五郎は由良に退いた義昭の下に居たのだろ うか。これなら若狭から退去したことになる。 天正四年、義昭に従い備後鞆 沼隈郡 に移る 十月二日小早川隆景宛武田右衛門佐信景書状 案 「 小 早 川 家 文 書 」、 十 月 三 日 吉 川 元 春 宛 武 田 右衛門佐信景書状「吉川家文書」 。 鞆時代、上杉謙信の出兵を要請 八月十九日 上杉宛武田右衛門佐書状「上杉家文書」 。名 門ゆえに諸大名への外交を任されて いる。 伊 予河野氏と「弓馬」道を交流 天正五年五月十 七日武田右衛門佐宛河野通直書状「尊経閣文庫 蔵」 。 同十四年三月廿四日死去 仏国寺所収武田系 図 、清 水 三 郎 右 衛 門 文 書 所 収 武 田 系 図 と い う 。 帰雲寺菊譚宗英 仏国寺所収武田系図 。 兄に上総介 元亀三年 推定 八月五日武田上 総介宛浅井久政書状「尊経閣文庫蔵」 。この 人物が信由。 信長は彦五郎 六月六日武田彦五郎宛信長朱 印状 と五郎 三月十七日松井友閑宛信長黒印状 写 を書き分けて おり 、両人は別 人である。 [ ] ] [ ( [ ) ] ( [ ) ] [ ) ] ( ( ) ) ) ) ( ) ( [ ( ( ] )( )) ) [ ) 【元亀二・三年以後】 元亀二年 推定 、在陣中の朝倉義景に音信し た 十 一 月 廿 五 日 武 田 彦 五 郎 宛 朝 倉 義 景 書 状「 河 野恒治文書」 。元亀二年末には反信長に転じ ている。 同 三 年 推 定 、 朝 倉 義 景 が 出 兵 を 要 請 。「 知 行分御目録」も送った 三月八日武田彦五郎宛 鳥居・高橋連署状「尊経閣文庫蔵」 。はっき りと反信長の立場をとった。 同四年三月 推定 、武田信玄とも通じる 年 次不詳武田彦五郎宛武田信玄書状「荒尾親成氏 所蔵文書」 。信玄は病中。 ( 【信長時代】 〈永禄十二年〉 永禄十二年 推定 十月、朝倉義 景は「今度当 表居陣中、於其国武藤逆心之由」 十月十二日 武田彦五郎宛朝倉義景書状「尊経閣文庫蔵」 と武藤を非難。義景は「彼家中」への工作を要 請。→武藤上野 同年 推定 十二月、これ以前、三方郡倉見庄 を熊谷治部大夫と揉めて いて 、義景が足利義昭 に裁定を依頼 十二月廿一日一色藤長宛朝倉義 景書状「尊経閣文庫蔵」 。熊谷を「押領」と いい、義景は彦五郎の立場に立っている。→熊 谷 彦 五 郎は 「 御 知 行 」に つ いて 中 川重 政を通 じ て信長にも訴えていた 永禄十二年 推定 十二 月十七日武田彦五郎宛中川重政書状「尊経閣文 庫蔵」 。これも 倉見庄のことか。 [ ) ( ] ) ( ( [ ] ) ) [ ) ] ] ( ) ) ) ( ( ( 【元亀元年以後】 永禄十三年正月、信長は畿内・近国の諸大名 に 入 京 を 命 令 「 二 條 宴 乗 日 記 」二 月 十 五 日 条 。 こ の 時 、「 武 田 孫 犬 丸 同 若 狭 国 衆 」 と い い 、 彦 五 郎は名代と して上洛し たか。 -2- ( ( [ ] [ ) ] ( ) (
© Copyright 2024 ExpyDoc