豊 昭和四十六年八月五日 発行 l 1−−′ ’ l− 岩 井 寺 原川大和守関係者顛末 掛 ○ 原 川 城 主 原 川 大 和 守 原川城址は遠江磐田郡久努相国本北原川にあり、各卸原の南に尽きて水田に接せんと珪る問に一段の丘阜あ り。東西三丁南北二丁許少の平城にて昔時は四周濠あごりし形蹟今筒田と注∵りて存せり、東北方僅かに丘陵につ ゞさて真北に宇佐八幡宮おごり、原用城の鬼門に当る、原野谷川の奔流八幡宮の北を衝き社の東側まで懸崖削立 し要害をなす。 − 原川氏いつの頃より此に居りしかは明らかをらざるも、地勢崇高ならず四方濠を廼らし、鎌倉時代地方豪族 居館の地を想はしむ、現に土地台帳に堀先と云享有し、又馬場跡射場と云小地名もあ÷9、大体を見て城址たる を疑わず。 遠江風土記伝に熊鷹遺書を引て、原川大利等北原川は任し以て氏となすとあるも其出自及寧蹟明か亙らず、 永正三年 ︵皇記二一六六年︶ 駿遠の太守今川氏親が伊勢新九郎長氏 ︵後の北条早雲︶ を大将として駿河遠江東 懸川 蔵見 西郷 角笛 天方 堀越 タラ・・、 カクハ ブでカタ 応リブレ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 三河及豆粕の軍勢一万余蘭を催して、徳川家康五代の祖松平長親を薗三河に攻めし時の遠江の軍勢中に原川氏 きり、武徳大成記に記せる其遠江衆とは 、、、クラ ムカサ ハイパラ 寺澤山 浜名 堀江 奥山 乾 二俣 浜松 馬伏塚 久野 原用 見蔵 無笠 鷺坂 森−高天神 馳原 の廿二家を挙ぐ、三河物語本朝三国志には此外に井伊谷を加えあり。 元来遠江には応仁乱頃に三十六人衆とて豪族の有りたること掛川誌に見え、又石川依平め柳国籍話中遠江三 十六人衆の中とて十名を記したるものあり、即ち左の如し。 初馬に川合宗仲 西郷は西鶴殿 倉真に松浦兵庫 増田に松浦次郎右衛門 掛川に鶴見因幡守 本郷に原殿 原谷に寧石主水 堀越に堀越殿 平川に赤堀主轄 小山に増田周防守 比の十人中には原川氏は掲げられざるも、永正三年の三河攻に加わり居たることゝ、原川城址の現状より考 察して三十六人中の一人若くは天に次ぐ豪族たこり・しと想わる。 原川氏此地に占拠の初は明かならざるも、余程古くより此地に居たる豪族なるべく思わる。永緑十一年今川 民兵の掛川に来り朝比奈暴動に頗るに及んで、原川大和守は弟讃岐入道と共に掛川城に入りて籠賎し、間もな く大和守は民兵の命により引佐郡の刑都城に赴きしが、此城徳川勢に攻落されし前後に掛川城に帰りたるものと 認めら才、当時の古文書二通比を証す。 今川民兵制物等 久努村足立曹一郎氏蔵 一 − − ︶ 一 一 民兵 ︵花押︶ − 一 子 − 今度念劇之動輪財宝兄弟共に懸川に柏越し走り廻之餞忠節之至也於本意之上中加講当之扶助弥々可描忠節者 也依而如件 永藤十一年十二月二十八日 原川讃肢入道殿 大日本史料十編の二 諸州古文書二十三、持主城東郡高瀬村名圭角十郎 於駿河国宛行知行之事 香 二 一 一 右今度錯乱之刻捨置過分財宝兄大和守、刑部在番為留守之処当城江相移段太以忠節之至也為一咄賞−由比美作分 中村之内五拾貫文所出置永領掌了殊今度籠城中各雑説申之処木為其沙汰無二両全忠節之閲縦自余江出置先判 ● 事 一 Li∴豊 ︶ 轟 ︶ ー2− ︶ ‡ 言− 善誓言 −てー軍で一 〇 形離有之一切不可許容者也伽両件 永諒十二己己卯月十四日 原川讃岐入道殿 川与一石衛門宅に頼り、此地に隠棲して余生を終りたるものえごり。 民兵 ︵花押︶ 是に於で原川大和守兄弟の先祖以来数百年住み慣れたる原出城を跡に見て、一族郎党t共に城東村高瀬の石 船にて相模の北条氏に依ることゝなり。 五月六日には掛川開城、民兵は北条氏に寄寓の身とな少しが故に空文に終りしなり。云々、民兵は掛塚港より 誌百家説林、鵜庵遺書等はまれば凡そ四斗俵五六百依託少の地に当る。比の証文は四月十四日何にで受け、其 で今川家の士由比美作が元領地五十貫文の地を新に給与せらる。此節五十貴史の地と云うは日本田剛史、掛川 さればこそ古文書に過分の財宝を捨置きとあるなるべし。讃岐入道は氏真より其忠節を賞せられ駿河国に於 に不入斗と云︶に屯すとあれば恐らくは入山瀬と無下に近さ原川城は此時家康軍の楚操に遭ひたるペく想わる。一 の十二月十八日には家康岡崎より来りて浜松に入り、二十日には天竜川の船橋を渡り入山瀬 ︵磐田郡久努村一一 古文書中兄大和守刑部在番中とあるは此事を指すなり、原川城は城主兄弟掛川籠城にょり空域となり、十一年 たる城址なり、今筒異形顕を存す︶を守れる庵原庄太郎忠良及長谷川次郎右衛門秀匿の援軍として此奴にあり 廿四日より翌年正月七日まで滞降し、天下に名垂る好雄信玄が死ぬ年の正月を此地に迎えしにより名高くたこり 川を隔てゝ三方原台地の支脈曲折して平地に接せんとする山脚にあり、後元亀三年三方原大戦後信玄が十二月 永憩十二年の古文書の示す如く原川大和守は今川氏の領地刑部城 ︵引佐郡中川村刑部なごり、気賀町の東都田 ヽ l \ \ 田園 此墓は城東村岩井寺にありと足立系図に見ゆ、其位牌は高瀬八相寺と原川大和守後裔原川平松氏の家に存す。 原川大和守一族郎党が佃の線虫おごりて高瀬に来りしか、明かならざ少しが、昭和十六年二月足立曹一郎氏蔵 嫡子石川左近 石川権之守 弟讃暇人道 子孫なし の古文書を見るに及で漸く其謎を解き得たる心地す。其文書は大和守の一族親欄を書き連ねたるものにて左の 如 し 。 原川豪古文書の一 原川大和守殿 越後に住所 園子又兵衛 子 石川興一右衛門 孫 角之助 右の石 有之 輿八郎西方有 J ∴  ̄軍事 ̄」十一 原川家古文書英二 又兵衛といとこ母方之内 ● 0 0 ○ ○ 白いしゃ 伊達 本学 又兵衛いとこ 大納言家 ︵託紀伊頼宜なるべし︶ 藍川甚五兵衛 同 権太夫 油井 七兵衛 同 与五左衛門 三浄武石衛門 水戸様衆 藍川久次郎 村崎与十郎 ● この文書を研究して読みもて行くと、初めに原用大和守と書出し、其弟讃肢入道は子孫なしとし、大和守に は長子又兵衛あり、之は掛川落城後北国の越後に赴きしこと足立氏系図にも見抄。大和守には長子又兵衛の上 に姉ありで之が高瀬の石川権之守に嫁し、英子石川左近英子石川与高石衛門、英子角之助合せて四代の石の墓 が小笠原与八郎類従の墓の西にありと、読めば其大意が解け得ペしと思わる。即ち大和守の長女が高瀬の石川 権之守へ嫁し属たりし縁故によりて大和守一類空母瀬に隠棲したるものなりと認む。又右古文書の末にある又兵 衛いとこ伊達本学は小笠郡東山口村牛頭の伊藤文平氏′︵今東京世田谷住︶ の祖先なり。 予察∴ 5 現在小笠郡城東村高瀬に石川小作氏あご具英位牌及過去帳によれば天文廿年 ︵永藤十二年大和守が高瀬より十 九年前︶ に残したる石川左近左衛門尉と云人あ古、又弘治三年に残したる此人の妻あり、共役左近太夫左近尉 筆名次々に見妙、四百年近く続きて今に連綿として古さ家なり。然れども石川家の過去帳には与一石衛門と云 名前を見出さず。却て原川本家の位牌過去帳に延宝・天和・貞享・元藤時代に於で与一右衝門の名前数ヶ所に 0 0 0 00 0 00 0 000 .見ゆ、而して是より先承応元年殉せる人に原川家過去帳には宴宝意安庵主彦左衛門と記せるもの参り、石川家 過去帳ほは、愛妻異安庵主著名石川左近尉後彦左衛門と記せり。これは同一人にて石川家より入りて原川家を 嗣ぎし人と想わる、彦左衛門とは原川家の﹁通り名﹂にて過去帳には此名前多く見ゆ、又大日本史料に載れる 高瀬村名圭角十郎は原川本家の当時の戸主にして現今の平松氏の先代壷ごり。 ● ・ : ら 原川大和守が永藤十二年高瀬に隠棲せLt﹁り今昭和四十六年まで実に四百年をごり、此間家に盛衰あ÷少と艶脈 々として絶えず、佐東村高瀬原川平松家は異本系にして、其分家高瀬に四家小貫に四家もりで本支繁栄せり。 原川氏の事是にて大体の筋道は分りたるも、大和守以前の事及高瀬へ隠遁し長女の婿石川家へ藩付きたる後 何人を以後継者としたるかの点筒疑問克ごり後の研究に待つ。 筒原川家に寛保二年の古文書等あ〓少しが、同家極裏のとき中方の人鈴木梅吉 ︵昭和十五年八十金蔵︶ に売却 , 謹書正治三年今月白 秋葉山右京の書 し、其後行方不明との昏なり、巽中正和三年画の摩利支天の囲碁法可睡啓へ轟附したりとのことなれ共今不へ明 たこり。 寛保二年の古文書写 差上申書物之昏 一、摩利支天絵像 ・l 志 ● ● 永穣十一年十二月廿八日 慶長六年二月十一日 一遍 一通 慶長十八年子三月二日 一、今川氏真と御座候書物 ニー松下勘兵衛 一遇 諸川甚四郎より 都合書物五通並絵一幅 永藤十二年己巳年卯月十四日 一、松下勘兵衛 一遇 一、今川民兵と御座候書物 二 通 一、進上今川殿 右の者今度書籍書物共外旧記等御尋記仕儀に付室賀下総守知行所内吟味候遠州城東郡高瀬村名圭角十郎右書物 室賀下総寺内 土井弥兵衛 ︵印︶ 沖十右衛門 ︵印︶ 五通並絵一幅所持佳麗在候に竹本紙取集め写仕り指上申候以上 寛保二年壬戌五月 大草太郎左衛門様 御役所 右の説明。寛保の大草太郎左衛門は同家大代政永と云う人にて代々御厨村に住み、真申中泉代官を勤めし人 数人あり、今英子藤森ごり。中泉代官は遠江三河両国の幕府直轄地を管せる職にて政治的手腕ありで文学もある 7 人を擢用す、林鶴梁・羽倉簡堂も中泉代官た。し事あ。。室賀下総守は高瀬舟の領主たこ少、此時領主r︽hソ領内寵 にかかる古文書ある事を中泉代官へ届出たる書面注ごり、何の為めに当時かゝる取調をなしたるかは今不明なれも∴ 明治三十六年版の小笠郡誌佐東村の条に白く、寛文五年より小貫村高瀬村は室賀甚四郎の知行所となり以て明 治維新に至るとあり、下総守は甚四郎の子か孫なるぺし。 . ヾ . 、 古文書中永藤十一年民兵の文書は今度足立曹一郎氏方にて英等を発見したり、永線十二年民兵のものは大日 本史料に採用されあ÷9其他は不明注﹁り。 足立寛氏の系図中に原川家随身の感状二道武具皆与一石衛門の家にありと記し、又原川家の伝に同家の武器 槍と薙刀とを人相寺へ寄附したりとの事た﹁りし故昭利十五年四月十四日同寺につきて之を調査するに、槍一本 総長一丈、穂の長一尺五寸五分、込の長一尺七寸武州周重の銘あり、周重は車線頃の人武蔵下原住の刀匠にて弟も 刀匠たり、三代の孫に照重ありたる事古刀銘鑑に見ゆれば永蔵前四十年頃の作にて、年代より見ても共作の頑 丈なる戦国時代の実用的なるより見ても大利守の梓橋にふさわしさものと認む、他に総長七尺無銘短穂のもの 一本あり年代不明注ごり、筒他に大確刀あり人相寺附近断崖の草を刈りたる事ありきと古老の説なれとも今実物 なし。 駿 河 に 於 げ ろ 原 川 氏 其一旗川新三郎家、志太郡東益津村右脇に原川新三郎と云旧家あり、元遠州原川の住士なりしが故ありて当 所に住す。天正中徳川家康遠目陣のとき唱師となり十七ケ付の農夫を狩立徳川勢に見方し教導をなす、異質と して諸役免許の朱印を受けたり。後家康の鷹狩りのとき此家へ立番りしと一子。家の近くに大石二あり旗立の石 という。松三本あり馬繋松という、現在の松は柄継ぎのもの注÷少という。其東北一丁許は家屋ありきと云えは 相当大なる邸宅たこ。しと見ゆ、天正伝間ほかゝる大邸宅に任し、旧家と云わ−るゝより見れば永緑の原川大和村 ‘ より遙か先苔に分れて此地に来任せしものなるべく想わる。駿河誌料に白く 駿河誌科巻十五 右脇 開園 8 旧家 原川氏 新三郎 先祖は遠江国原川の住士なりしが故ありて本国に移り右脇に任し原川新三郎と云、天正年間武田領たりしと き神君当日筋御陣に忠節を尽しげろに亭宅へ大衡あり、宅の古図に凡一丁許西南に堀の′路もり、御撰立石唐繋 松等は其古跡なり、今は家衰えたり。天正十二年甲申八月甘二日御印章を給わり、方の上・大賞寺;八橋;越 / 後鴫・策牛・関方・右の郷中十五歳始め六十を限り一揆を立、年寄は乗鞍、物主は原川新三郎指図次第走廻り 可由の由、駒井帯刀坂本豊前奉り命せられしなり。 松と石とに太さ注連を張れり、こぼ古より正月四月九月の十七日比里近村の里民集ひ振替へ新三郎が家へ来 り一体を述ぶる例た﹁りと去。︵駿国雑誌も大体同じ︶ 英二、田中久兵衛、原川大利守の次子三助足立家を嗣き、足立規長と去、三子あり三男足立五郎左衝門分家 して大和守の城址に任す、英子を源五郎夢世と去、夢世の次子伏見浪人田中作動の養子となり田中久兵衛と云 後志太郡勧請新田を開発して此居る、英名を採りて其村を久作兵衛新田と称す、今の青嶋村内なり、即此青嶋村 の田中久兵衛家は原川氏より出てたる分系弄ごり。 其三、原川治郎八、志太郡諸所の人文学好む、維新の際田中藩の安房に移ろに及び、治郎八は其輌石井頼水 を慕い笈を負て赴き学ぶ、帰郷後明治十四年同志と謀り、原川塾を郷里に創め頼水を聴す、頼水名は述、字は 覧語、巻蔵と称す、昌平贅に学び橋本左内頼三樹と篤交あり、家を紹きて田中藩の文学となる。門に遊ふもの 七百人、本多候安房に移ろの後少参事に挙げらる、後治郎八の請によりて来りて原川塾を管す、贅を執るもの 官有余人、居る事四年、原川の族和田港修築の挙あり、事髄臨して家財蕩尽義塾亦維持する能わず、頼水まで 東京に移る、是より駿南絃詞の声を絶つ、独り治郎八の遺憾のみに非るなり。︵池谷観海翁の記︶ 9 i足立盛長の後裔とl原川大和守との関係 遠州の豪族原州民と有名なる頼朝の従士足立藤九郎盛長の後裔とが永録十二 二年掛川籠域を機縁として、 結合し、原川氏の血脈が入て足立氏を嗣ぎ、上古の久努国今の磐田都久努村久津部鴇山南に連綿四百年今に繁 昌を棲むる足立家の略歴史を一瞥せん。 足立藤九郎盛長は大織冠鎌足十八世の孫に当り、源頼朝に仕へ蛭ケ小嶋・伊東I・北条と転々居所は変るも、 いつも側近を離れず非常に信任せられたることは吾妻鏡等の書に見え能く人の知る所、英子景盛は秋田城介と なる此職重任なれば世人之を栄とす、寮盛の女北条持氏に過ぎ経時時頼を生み、松下禅尼と称し天下執権の母 として自ら障子の切張りをなせし有名な賢婦人たごり。最盛の子議案に八子もり、第三子泰盛家を襲ざ、秋田城 介評定衆となる、足立氏素と北条氏と姻を連ね議案の女 ︵一に泰盛の女とあり︶ も復た元冠の時の絵師相模太 郎時宗に適室員時を生む、貞時執権たるに及んで勢を悸み姥横なり、貞時の家幸平頼嗣頗る威福を斉し泰盛と 相軋る、泰盛の子宗寮狂巌奮修自ら誘う曾祖最盛実は頼朝の子なりと、遂に姓を源氏と改む頼綱困て貞時に説で 白く、宗景私に鍵餌の心を懐く改姓の一事最も掩うペからずと、貞時之を信じ遂に泰盛父子を殺し、且つ殆ん ど其族を減す、時に弘安八年十一月十七日なり。鎌倉幕府に北条氏と肩を並べ栄華を誇りし足立氏も此に至り で哀れなる衰亡を見るに至れり。 後遠州山名郡津久部に移り鶉山の麓に任す、当時の地頭今川氏より久津部庄司を合せられ八幡社務を兼ぬる こと足立家系図に見ゆ。 J J 永藤十二年今川氏真掛川城を没落し、従士原川大和守も亦原川城を棄てゝ高瀬に隠る、大利守の次男三助幼 一 −10− 3 0 年なるを以之を晴長に托す、晴長子なし後三助を以て己の女に嫁はせ、足立氏を襲がしむ、名は規長、通称弥 六又三郎九郎と去、家康より八幡社領諸役免除の書を給わる。元利二年丙辰四月八日頼、法名松泉院源清居士 と去。規長三子あり長男茂左衛門宗長政ありて分地し、鶴山の西南本家の西に任す、元利七年居を東海道筋に 移す、今浜松市連尺町足立平七氏の先なり、次男五郎右衛門本家を家督相続す、元利七年居宅を東海道筋に移 す、是れ現今の足立総本家隆二氏の先なごり、三男五郎左衛門も亦分家し、大和守の旧跡に任す、即ち原川城址 尤ごり、是今の足立曹一郎氏の先方ごり、足立氏系図にょれぼ久津部を中心として北原川・名栗・原川・袋井に亘 以 上 り足立氏十八家の多きに至るも、其源背旗川大和守の次男三助規長が足立晴長の間と看∵りて其家を酸さ、英子 三人ありて各家を成し此三家より生じたる分派なり。 山崎常磐宮司著より抜翠 大蔵冠鎌足の孫北家房前より十六代 藤九郎三河固守麗人通運西 景 従五位上石野門尉 秋田城介 居甘縄 足立五紙右衛門大永中京粒将軍義晴は杜ふ世乱れ聴長京を去りて三河国に来り℃ 土岐某の家に寓す後遠謀曲名荘勝山の詩作住す当村八幡宮社務人となる残年不明。 12 請 規長婁 女 子 法名華漢貞義大姉 原川大和守次男初原川三助後足立家を韻ぎ足立三郎九郎と称す ! 期 忠 l 親 房i l 成 規 」 ∴新 :田 iに 住 十 ° を筋 以へ 本移 覆す を“ 相寛 続永 す三 〇年 当 笠 置 の 内 四 百 八 十 有 余 を 華 家康浜松在城の晴より随従八幡宮社領を給わる、元利二辰四月八日卒、父原川大和守今川家の族下ほて遠江国 山名郡原川城主也、永諒年間同国懸川へ民兵君と一所に篭城し、懸川落城につき大和守は城東郡の内佐東之谷・ 高瀬村与一石衛門と申百姓の所に隼人致され候、大和守長男は又兵衛と申候で北国の方へ赴候由、二男三助は 幼少故久津辺材神主足立五秒右街門は預憧かれ候、此三助足立氏の養子となる、後三郎九部と改む高瀬村与一 石衛門方峰氏貴君より給はり候感状二道並太和事武具共作有之墓所城東郡の内岩井寺はあり。 規定 − 華道∼1−英三部 − 隆二 右足立家系図終. 円め 次徳 男道 i郡 御‘ 房 殻 長 卒を 永 “0−鴇 駿 洲 と 庚 五山 改 む 午 _」 郎南 志 太 ハ 、月 右護 衛よ 七 衛 ハ居 り す子 兵 り 規 後 政 l 月七 自宅 な 廿年 ._し− すヽ寛 家 な 作 oと l− 四す 丑元 分 四和 址 :の 男 老 新中 一団氏 長 との 永相 十続 川 城 衛 門 徳田 、家 足立茂左衛門規長の長子なり故ありで勝山の南に分家す 石渡 り 後次 馳 久男 兵也 左 の左 村の右 分子 ÷ 子1 村法 な す り と 第衛 へ次衛 “衝 部 村五 称 関南 す 親 清 l 発の 五 l 長郎 川長郎 五 ll 足足 立立 規五:原規五 郎/ 九 郎 、田 中‘ 久 兵 夢 ̄ 源世 原川大和守末裔の分派家 袋井 原 川 七 舟 国 本 一 け 名 栗 一八 藤枝 青 嶋﹂〓 あ と が 袋井 焼津 去︶ 七 八 一 一 にたえません。時あそしと艶も、昭和四十四年で原川大和守硬してより四百年の歳期が過ぎ去りました。其の 昭和十六年九月末日、一ノ宮神社宮司山崎常盤老翁の研究の内、原川大和守の顛末を知り得たる車は誠に欣快 脇 東、松 梨 年を記念してパンフレットを皆様に配布したさ予定でしたが、遂い仕事に︽追われて今日になりました。 遠い先祖の追慕を思い浮べてお読下さい。 昭和四十六年十二月 共編 掛川高岩井寺三二 岩井専任職 太 田 実 態 原 川 定 雄 小笠郡城東村高瀬 ノ , ー14− 石 城 浜 山
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