JOMF NEWS LETTER No.251 (2014.12) 病気の世界地図・トラベルドクターとまわる世界旅行 第4回「エボラ熱爆発のメカニズム」~リベリア・モンロビア 東京医科大学病院 渡航者医療センター 教授 濱田篤郎 なぜ大流行になったのか 2014 年はデング熱の国内流行とと もに西アフリカでのエボラ熱流行が感 染症関係の大きなニュースになりまし た。患者数はギニア、リベリア、シエ ラレオネの 3 か国を中心に約 1 万 7000 人にのぼり、 このうち 6000 人以上が死 亡しています(11 月末時点) 。8 月には 世界保健機関(WHO)が公衆衛生上 の緊急事態であることを宣言し、この 病が世界に拡大するのではないかと不 安になった方も多かったと思います。 しかし、WHOや各国衛生当局による 懸命の制圧対策が功を奏し、12 月には エボラ熱の流行が次第に鎮静化に向か っています。 エボラ熱はウイルスによっておこる病気で、アフリカのザイール(現在のコンゴ民主共 和国)やスーダンで 1976 年に流行が初めて確認されました。それ以来、中部アフリカのジ ャングルの中で流行が散発していましたが、今回のように大流行をおこすことはありませ んでした。1995 年に公開されたハリウッド映画「アウトブレイク」にもエボラ熱を彷彿と させる架空の感染症が登場し、アフリカから米国に侵入するという展開をとりますが、今 回の西アフリカでの流行ではそれが現実のものになってしまったのです。 それでは、なぜ西アフリカの流行がここまで拡大したのか。筆者は 1984 年に流行国の一 つであるリベリアの首都モンロビアを訪問したことがありますが、その時の経験からこの JOMF NEWS LETTER No.251 (2014.12) 謎を解明してみましょう。 最悪の第一印象 私がリベリアを訪問したのはオンコセルカ症という寄生虫病の調査のためでした。この 病気は吸血性のハエが媒介するもので、皮膚病や目の病気をおこします。現在でも西アフ リカなどに約 2500 万人の患者がいます。私は米国に留学していた時に、この病気に用いる 薬剤の研究をしていましたが、その薬の効果を判定するためリベリアを訪問したのです。 この調査には研究室の同僚であるホワイト医師も同行しました。彼はリベリア出身の留学 生で、オンコセルカ症の専門家です。 モンロビアの空港に到着すると、まず入国手続きで驚かされました。いきなり兵士がラ イフル銃を向けて、 「荷物を開けろ!」と命じるのです。呆気にとられていると、ホワイト 医師が「言うとおりにした方がいい」と小声でささやきました。言われるままに荷物を開 けて中身を見せると、兵士は「よし!先に進め!」とライフルで出口の方をさしました。 あまりの横柄な態度に 「どういうこと!」とホワイト医師を問い詰めると、 「すまないね。 4 年前にクーデターがあってからこんな状況だよ」との答え。この国が戒厳令下であるこ とは聞いていましたが、到着早々の出来事に、私はリベリアという国のイメージをかなり 悪く感じました。 モンロビアの天国と地獄 リベリアは 1847 年に独立しており、これは日本の明治維新より前のことです。18 世紀 まで西アフリカ一帯では欧米諸国による奴隷貿易が盛んに行われていましたが、19 世紀初 頭に奴隷解放の機運が高まると、解放した奴隷をこの地に植民させるようになります。英 国はシエラレオネを建国し引き続き植民地として支配しましたが、米国はリベリアを建国 し独立国として自立させます。ただし、経済的には米国が支配を続け、とくにゴム農園の 経営に力を注ぎました。1926 年からはタイヤ会社のファイアーストーン社がリベリア各地 にゴム農園を建設し、これがリベリア経済を豊かにさせていきました。 私たちが研究の場所に選んだのもモ ンロビア郊外のファイアーストーン社 のゴム農園で、その中は周囲とは別世 界でした。米国本土と遜色のない従業 員の住居やゲストハウスが立ち並び、 従業員専用の病院も建てられていまし た。この病院の一室を借りて、患者へ の薬の投与や検査が行われたのです。 研究の合間にホワイト医師と町へ買 い物に出かけることもありましたが、 農園のゲートを一歩出ると、そこには モンロビアのファイアーストーン病院 本来のリベリアの姿がありました。粗 末な家が立ち並び、路上で生活している人も数多くいます。そして沢山の兵士たちが殺気 立った目をして、住民を常に監視していました。遠くから銃声が聞こえることもありまし たが、まさに天国と地獄を見るような思いでした。 JOMF NEWS LETTER No.251 (2014.12) この訪問から 5 年後にリベリアで内戦がおこります。それまで米国の支援でこの国を支 配していた人たちが排除され、現地の勢力が力を持つようになり、部族間の紛争が勃発し たのです。私が訪問したのはちょうど支配者の入れ替わる時期でした。 リベリアの内戦は 2003 年まで続き国土は荒廃しました。約 25 万人の死者が発生したと ともに、 人口の三分の一が国外へ脱出したのです。ホワイト医師も母国に帰ることを諦め、 米国で開業することになりました。ファイアーストーン社のゴム農園にも内戦は及び、病 院も破壊されたと聞きます。そんな医療が崩壊した状況下にエボラ熱の流行がおきたので す。 流行の発端 今回の西アフリカでおきたエボラ熱流行は、2014 年 3 月にWHOによって確認されまし た。しかし、後の調査で最初の患者は 2013 年 12 月に発生していたことがわかりました。 その場所はギニアのゲゲドウという町で、ここで 2 歳の男の子が発熱や下痢をおこして死 亡しました。その直後に子どもの家族 3 人も同様の症状で亡くなっていますが、この 4 人 の患者がエボラ熱だったのです。これが流行の発端とみられています。その後、エボラ熱 はギニア国内で静かに流行を拡大していきましたが、5 月に大きな転機が訪れます。この 流行が隣国のリベリアとシエラレオネに波及し、患者数が急激に増えていったのです。 最初に患者が発生したと推定されるゲゲドウは、リベリアとシエラレオネの国境近くに位 置しています。この町は商業の中心地であるため、近隣国から多くの人々が集中し、感染 症が発生しやすく、また、その拡大がおこりやすい場所でした。しかも、この町はリベリ ア内戦中に多くの難民が押し寄せて人口が急増したそうです。その影響で、今もゲゲドウ 周辺では国境を越えて移動する人が数多くいます。 もともとギニア、 リベリア、シエラレオネの 3 か国は経済的な結びつきの強い国でした。 1973 年にはマノ川同盟という経済協力関係が締結されていますが、そんな人の行き来を可 能にしたのが 3 か国の位置する地理的環境でした。 エボラ熱が以前から流行を繰り返していた中部アフリカの地形は、熱帯雨林すなわちジ ャングルになります。自然の障壁があるため交通網はあまり発達せず、そこに住む人々は 分断されて生活しています。エボラ熱が発生しても、患者が移動できないため、流行は拡 大しないのです。その一方、今回流行が発生した西アフリカの国々は、サバンナすなわち 草原地帯に位置し、住民の行き来が頻繁にみられていました。 エボラロード 私がリベリアに滞在していた時、モンロビアから国境付近の町まで車で往復したことが あります。その町にある病院に顕微鏡を借りに行ったのですが、約 200 キロの道のりを一 日で往復することができました。道路を走る車の数は多く、乗り合いバスも走っていまし た。このバスで驚いたことがあります。停留所に止まると乗客達が一目散に降りてきて、 男女を問わず道端で立小便をするのです。ホワイト医師によれば、この国ではよく見かけ る光景とのことでした。 こうした交通網の整備はリベリアだけでなくギニアやシエラレオネでも行われています が、これが 3 か国の間で人の移動を活発にしているのです。そして、この整備された交通 網を介してエボラ熱の患者が移動し、流行が拡大していきました。まさにエボラロードと JOMF NEWS LETTER No.251 (2014.12) 言ってもいいでしょう。これが西アフリカで大流行を招いた第一の原因なのです。 さらに、エボラ熱が到達したリベリアは内戦からの復興途上にあり、医療は未だに崩壊 したままでした。実は、シエラレオネでも 1990 年代に内戦が勃発しており、リベリアと同 様に医療が崩壊していました。そんな国々でエボラ熱が蔓延をし始めたため、患者の治療 や隔離ができないまま、急速に拡大していったのです。最近は流行地域にWHOやボラン ティア団体の運営する医療施設が数多く建設されていますが、流行が始まった当初、患者 は家で家族による看護を受け、そのために家族内に感染が拡大するという事態を招きまし た。このように内戦による医療の崩壊が、大流行の第二の原因というわけです。 病気の正体が明らかになってきた 今回、西アフリカで多くのエボラ熱の患者が発生したことで、この病気の実態が明らか になってきました。まず患者は発熱や全身の痛みとともに発病しますが、3 日から 7 日す ると大量の下痢や嘔吐といった消化器症状をおこします。この下痢は一日に 5 リッター以 上にも及び、体液が急速に失われるため、患者はショック状態に陥ります。こうした症状 は重症のコレラを彷彿とさせるものですが、エボラ熱はまさに重症の消化器症状をおこす 病気でした。 このショック状態の時期に患者の多くは死亡し、それをうまく乗り切れば回復していく のです。また、この時期に出血症状がみられることもありますが、それは患者の 20%ほど であまり多くありませんでした。このため、以前はエボラ出血熱と呼ばれていましたが、 今ではエボラウイルス病とかエボラ熱という呼称が使われています。 こうした病気の実態が明らかになったことで、治療法もわかってきました。すなわち下 痢が始まったら大量の輸液をして、ショック状態に陥るのを防ぐことが有効になります。 この治療法がとられるようになってから、致死率が低下してきたという情報もあります。 また、感染経路も解明されてきました。原因となるウイルスは患者の体液や血液に潜んで おり、これに接触して感染がおこります。では、どの時期に感染しやすいかというと、発 病した初期ではなく下痢の始まる時期から感染性が強くなります。ですから、患者の下痢 や吐物に接触しないような対策をとれば、感染の連鎖は止められるのです。このような対 策がとられるようになってから、西アフリカでの流行はようやく鎮静化に向かいました。 ディスコ・モンロビア 私たちのリベリア滞在は 2 週間ほどでしたが、帰国前にゴム農園の医療スタッフが送別 会を開催してくれました。モンロビアの郊外にあるディスコで、スタッフの皆と夜遅くま で酒を酌み交わし、現地の民族音楽のステップを踏みました。ホワイト医師も久しぶりに 母国の夜を満喫していたようです。到着した時、私が抱いたこの国の悪いイメージも、帰 国する頃にはすっかり良い印象に変わっていました。 あれから 30 年がたちますが、あの時のスタッフはどうしているのでしょうか。内戦で亡 くなった人や、今回のエボラ熱の被害を受けた人もいたと思います。最近のニュースでモ ンロビアの光景が流れるたびに、そんな昔のことを思い出しています。
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