日本油化学会 60 年を回顧して

オレオサイエンス 第 15 巻第 7 号(2015)
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特別寄稿
日本油化学会 60 年を回顧して
名誉会員 北 原 文 雄
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2.2 油脂研究の具体的な動き(主として文献 1)による)
1.はじめに
本年(2015 年)は日本油化学会の前身日本油脂化学
日本油脂技術研究協会
協会が発足して 60 年余を経過している。2012 年には九
この協会は戦後 1 年半にして 1947 年,東京工業試験
州佐世保にて 60 周年記念式典,記念国際会議が盛会裡
所(渋谷区幡ヶ谷)内に,川上八十太,西村実 , 馬詰哲郎,
に開催されたことは会員諸氏のご承知のとおりである。
土屋知太郎,岩井正昌らが設立し,主として米糠油の研
実はこれら行事はその前年東京で開催される予定であっ
究をおこない会誌も発行した。1948 年 2 月社団法人と
たが,東日本大震災の勃発のため延期されたものであっ
しての認可を受けた。会誌発行は 1948 年から 1952 年ま
た。
で 4 巻 18 号に及んだ(論文の表題,著者名は文献 1)
60 周年記念式典で筆者は会員として祝辞を述べるよ
に掲載されている)
。この活動は戦後すぐのことで関係
う依頼を受けた。長老の一人としてお受けすることとし
者の苦労が察せられる。この協会の設立,運営は当時の
た。ついては単なる祝辞ではなく本会の歴史のようなも
学界,業界に大きな刺激を与え,本会誕生の遠因ともなっ
のを語らせていただくことの了解を得た。本稿はそのお
ている。
りの話を基にして多少補筆したものである。
油脂化学同好会
2.戦後日本の復興と本会の前史
照)助教授であった石井義郎と浅原照三は連れだって川
2.1 全般的状況
上八十太を訪ねた。川上は当時東京工業試験所(東工試)
1949 年の秋のはじめ,当時東大第二工学部(注 2)参
本会の発足は第二次世界大戦における日本の敗戦と深
内にあった解放研究室で現在の川上ファインケミカル
くつながっている。1945 年終戦とよく言われるが実は
(株)の基礎となる研究をしていた。その帰途,廊下で
敗戦であった。筆者も当時 25 歳さまざまの忘れられな
馬詰哲郎(油脂技術研究協会に勤務していて,のち岐阜
いことどもがある。戦後の東京は焼野が原の中にぽつん
大学教授となる)に呼び止められた。馬詰は二人に油脂
ぽつんとコンクリートの建物が残っていた。人々は戦争
化学同好の研究者の集まりを創ることを熱心に勧めた。
の圧迫から解放され気分的には晴れやかであったが,日
共感した石井,浅原の二人の呼びかけに応じて,第 1 回
常の食べ物に事欠き,空腹に耐えかねて,農村へ米の買
の油脂化学同好会が同年(1949)12 月 21 日,日大工学
い出しに行くと帰りの列車で警察の臨検にあい,食糧管
部の松本太郎の研究室で開かれた。集まった人は次の
理法違反でせっかくの米を没収されてしまうということ
15 名であった:桑田,功刀(東大一工),石井,浅原(東
もしばしばあった。工業施設は破壊され,研究用のガラ
大二工),桜井(東工大),阿部(慶大工),松本(日大工)
,
ス器具など消耗品の補充がつかない。戦後数年はそんな
馬詰(油脂技術研究協会),神保,村田(旭電化)
,富山,
悪戦苦闘の連続であった。
高尾(ライオン),中村(杉山産研),竹田,中原(第一
そんな中から研究者,技術者は立ち上がった。戦後復
工業製薬)。油脂化学同好会の旗上げであった。
興が合言葉であった。戦前油脂工業関係論文は工業化学
以降同会は 2 か月に 1 回開かれ,研究会として研究発
雑誌の約 3 割を占めるというほど,油脂化学は日本の化
表 , 学界,業界の話題提供,討論などを行った。とくに
学工業の重要な一翼を担っていたのであるが戦争の被害
第 7 回(1951,昭和 26 年 1 月)の会合では「油脂化学
は他と変わることはなかった。しかし戦後の困難さを切
協会設立について」熱心な議論が行われた。それに基づ
り抜け,立ち上がる人材が豊富であった。
き 1951 年 2~9 月にわたり,桑田研で協会設立について
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具体化が進んだ。関西から佐藤正典,小森三郎も参加し
高度成長に歩を合わせて量的に発展し,1979~1980 年
た。同年 9 月 18 日発起人会が開かれた。
には最大の会員数に達した(個人会員数約 2500 名)
。
日本油脂化学協会の発足
一方高度成長に伴う負の部分が顕れるようにもなっ
いよいよ 1951(昭和 26)年 11 月 21 日,東大山上会
た。1968 年ごろになると,全国的に大学紛争が発生し,
議所にて 50 名の参列者の下で,日本油脂化学協会創立
1969 年東大安田講堂の攻防戦など世人の目を惹いた。
の式典が行われた。これがまさに現日本油化学会の誕生
また水俣病,四日市ぜんそくなどの公害が発生し,1967
日である。初代の会長は田中芳雄,副会長は佐藤正典,
年には公害対策基本法が発布された。公害は化学工場か
桑田勉であった。1952 年 2 月油脂化学協会誌第 1 巻第 1
らの有機水銀などの廃液,河川を汚す合成洗剤など,化
号が出版された。発足時の個人会員数は 300 名であった。
学工業が作り出すのだという考えが流布し,化学が若者
同じような名,内容の協会は一つでよいだろうと,川
に不人気となり,大学の応用化学,工業化学系への入学
上,馬詰らが運営していた日本油脂技術研究協会から,
志願者が減少するという傾向が高度成長期からしばらく
「社団法人」の資格が快く油脂化学協会に譲られ,諸官
の間続いた。
庁の認可を経て正式に「社団法人日本油脂化学協会」と
1980~1990 年頃から,公害問題,バブル崩壊により
なった。田中芳雄は油脂化学が戦前の化学工業の中心の
産業活動は停滞するようになり,これは本会にも影響し
一つであること,工業化学会という全国的な組織がある
会員数は減少し始めた:1990 年 2300 名,2000 年 1940
ことから,立案のころは本協会の設立の要はないのでは
名となった(Fig. 1 参照)。本会は反省期に入ったとい
ないかとの考えであったが,桑田らの熱心さに打たれて
える。量的縮小は質的充実を促し,改革の試みが積極的
了承されるに至ったという。
になされ始めた。1995(平成 7)年,本会は日本油化学
会と改名された。1999 年には改革のためのミレニアム
3.社会の動きと本会の歩み
委員会が活動を開始した。
日本油脂化学協会の発足した 1951(昭和 26)年は敗
戦以来の連合国による占領時代を経て講和条約が調印さ
4.新しい世紀と本会の展開
れた年であった(この調印にはソ連は参加せず,ソ連し
新しい世紀を迎えた 2001(平成 14)年には,長年 1
たがってロシアとの平和条約はいまだに締結されていな
本 で あ っ た 機 関 誌『 油 化 学 』 は 欧 文 学 術 誌 J. Oleo
い)
。再生日本は独立国となった。
Science と情報誌『オレオサイエンス』とに分割され,
このころから国内の諸方面の発展が始まった。1955
学術情報,学会情報の充実を計ることとなった。そして
年ごろは産業の発展とともにその構造も変化しつつあっ
2002 年 50 周年を迎え,オレオサイエンス誌 vol 2, No9
た。油脂化学関連では石油化学の急速な発展,界面活性
(2002)を全号「日本油化学会 50 年の歩み」の特集に当
剤の登場と進歩があった。本協会は 1956(昭和 31)年
てた。本会の機関紙には 10 年ごとに過去を回顧する特
日本油化学協会と改名し,対象として油脂の他に石油化
集を組むという良き編集方針があるが,60 周年を迎え
学製品,界面活性剤を加えることとなった。
た 2012 年も第 9 号の全号を 60 周年の記念号にあてた。
このころ,日本の化学界全般にかかわる大きな事件が
なお同号には記念国際会議(WCOS2012)の会告も載っ
あった。それは 1953(昭和 28)年の旧日本化学会と工
業化学会とが大合併して,新しい日本化学会が発足した
ことであった。これは日本の化学業界にも大きなインパ
クトを与えた。このような情勢は協会にも影響した。桑
田,野中正夫(油脂化学協会)らは油脂化学分野でも従
来の工学系のみでなく,理学系の分野も取り入れ,とく
に界面化学の研究も必要であることを認識したのであろ
う,佐々木恒孝(都立大理)
,立花太郎(御茶ノ水大理)
を油化学協会に勧誘し,界面化学部会の基礎づくりをし
た。
(文献の 3)参照)
1960(昭和 35)から 1980 年頃は日本の高度成長期と
いわれる時期である。1960 年には新安保条約が成立し,
1964 年には東海道新幹線が開通し,東京オリンピック
が開催され,1970 年には大阪万博が開かれた。本会は
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Fig. 1 社会の動きと個人会員の変化
オレオサイエンス 第 15 巻第 7 号(2015)
た。注目すべきはこの号の「アジア油化学会の設立」と
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兵として祈る次第である。
いう阿部会長の記事である。これは 2014 年の秋,北大
で の 第 1 回 Asian Conference for Oleo Science と し て
文献と注
結実した。本会の国際化に向けての着実な歩みが見られ
1)
石井義郎「本協会設立までの前史」
『油化学』21,550554(1972)
.
2)
戦時中高度の技術者が要請され,東大工学部は学生定
員を約倍増し,第一工学部,第二工学部に分割された.
前者は本郷,後者は西千葉に置かれ,教員もそれぞれ
別に配置された。この制度は昭和 19 年の卒業生から
26 年の卒業生まで続いた(この内容については鹿島実
氏のご協力を頂いた)
.
3)これに関連した事項を筆者は学会情報として次に詳述
した:北原文雄,
「界面科学と油化学-回顧と展望」『オ
レオサイエンス』3,281-285(2003)
.
るのである。
5.おわりに
本会の 60 年を大略回顧した。とくに前史における戦
後混乱の中での尽力,活動をたどること,発足後日本の
社会,産業の盛衰と本会の盛衰との関連をしらべること
に重点を置いたつもりである。最後に,本会が今後質的
にも充実しつつ,会員と社会のために発展することを老
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