ふるさと相生の二十世紀写真集 相生まちづくり塾 ふるさと相生の二十世紀写真集発行委員会 0 ふるさと相生の二十世紀写真集 造船所とともに歩んだ私たちの想い出 昭和 44 年 大川弘 相生まちづくり塾 ふるさと相生の二十世紀写真集発行委員会 1 まえがき 私の家に、祖父が残した古い写真が小箱に一箱と、父が残した多くのネガフィルムがありました。2003年、50 歳のとき、ふと思いついて古い写真を調べ、相生の町を歩き始めました。私は、旭小・双葉中の卒業生ですから、 生まれながらの相生人なのですが、町で育つことと、町を知ることとはまったく別のものであることを痛感しま した。相生を歩き、相生のお店で食事をしながら、 「セピア色の港町」というホームページを立ち上げました。 今から思えば、拙いホームページですが、このホームページを通じて、相生まちづくり塾の皆さんと知りあい ました。まちづくり塾の橋本一彦さんは、相生の古いものが失われ、忘れられていくことを憂い、あちこちに声 をかけては古い写真や資料を集めてアーカイブを作ろうとされていました。 昨年から、橋本さんが集めた写真・資料をもとに、私の集めたささやかな写真を加え、パソコンで分類・整理 する作業を始めました。何千枚もの写真に一枚ずつ番号をつけ、撮影年代と撮影場所を特定していきます。今年 の三月、作業が一段落したところで、 「ふるさと相生の二十世紀写真展」を開きました。 この写真集は、三月の写真展をもとにして作ったものです。相生に関する写真集としては、1981年に平井漠先 生が編集された「ふるさとの想い出・写真集相生」があります。市内の小中学校で30年にわたって教鞭をとられ た先生らしい、温かい文章の解説がついたよくできた写真集です。今回、写真集を編集するにあたり、平井先生 の写真集を繰り返し読みました。この写真集は、 「写真集相生」を始めとして、右の参考文献にあげた、1980 年 前後に刊行された多くの書籍のうえに成り立っています。 この写真集の特長は、写真が原則として時系列で並んでいることです。写真集でありながら、相生の百年史と して読んでいただくことができます。扱っている時代は、1890 年頃から 1990 年頃までの百年です。この間に、 相生・那波・若狭野・矢野の四つの村ができ、四つの村が合併して相生市が成立しました。また、今年は、播磨 船渠(ハリマドック)の創立百周年です。そこで、写真集のテーマを「造船所とともに歩んだ私たちの百年」に しました。 「図南丸」については、IHI・日本水産の協力を得て、特集を作りました。 五年間にわたって、この町を調べ、本を読み、話を聞き、橋本さんに造船所のことや「おお」のことを尋ねな がら編集した写真集ですが、まだまだ勉強が足りないと思うところがたくさんあります。それは、今後の課題と したいと思います。写真集は、多くの方々が提供してくださった写真によって成り立っています。貴重な写真を 寄せていただいたことに感謝します。 最後に、この写真集は、相生に関するデジタル・アーカイブ(写真や資料をパソコンに収めたコレクション) を作る作業の副産物として生まれたものです。これからも、写真や資料の収集を続け、アーカイブを充実させて いきますので、 「うちにこんな写真・絵葉書・ビラ・チラシがあるよ」という方がおられましたら、ご連絡くださ い。相生まちづくり塾がスキャナーを持ってかけつけますから。 連絡先 橋本一彦 相生市まちづくり推進室 2008年8月 編集担当 松本恵司 オリエント・ビーナスとニューしらゆり 2003 年春、相生の町を調べ始めた頃、 初めて乗ったつぼね丸から撮影 写真集の編集中に、フェリーの「ニューし らゆり」が、相生の建造ドックで最後に建 造された船であることを知りました。知っ て見るのと、知らないで見るのとでは、写 真を見るときの気持ちが異なってきます。 ●写真集の表記について 原則として、各ページの上部に大きな写真、下部に小さな写真を収録しています。 上の大きな写真には、①写真の年代 ②写真の標題 ③写真の提供者 を書いています。 下の小さな写真は、上の写真と①②③が異なる場合に書いています。同じ場合は省略しています。 2 参考文献 写真集相生 1981 年発行 市内の小学校・中学校で 30 年にわたって教鞭をとられた平井漠先生 が編集した写真集。280枚の写真をテーマ別に収録している。 播磨造船所50年史 1960年発行 社史であるが、播磨造船所と相生の町が一心同体のように発展してい た時期のものなので、町の歴史書ともいえる。相生の近代史を学ぶ際の基本文献。 60 年のあゆみ 1977 年発行 本町商店街が 60 年史として編集したもの。商店街のおじさんやおば さんが大正時代に商店街が発足してからの出来事を語っている。 ふるさと想い出の記 1985 年発行 おお で生まれ育った江見練太郎氏が、父親の遺稿をもとに大正から 昭和初期の おお の様子をまとめたエッセイ集。 30 年のあゆみ 1954年発行 相生信用金庫の30年史 相生の経済の推移について詳しい。 相生市史第三巻 1988年発行 幕末から昭和までを扱っている。大学の先生を中心に専門家が分担執 筆している。相生についての確かな知識を幅広く吸収するのに適している。 相生ふるさと散歩 1992年発行 市教委生涯学習課 奥田宏氏が文と写真を担当。市内全域の社寺や旧 跡をコンパクトにまとめた小冊子。これを片手に町を歩くと歴史がわかる。 資料館だより 相生歴史研究会が、月 1 回発行していた。相生の歴史、昔のまちの様子などが紹介 されている。 那波を知る 1983年発行 河本英樹氏が那波について調べ、手書きで作り上げた一冊。 相生の文学 1982年発行 市内の中学校の国語の先生たちが執筆した論文集。 新播磨新聞 1951年から発行されていたローカル紙。図南丸の到着・出港の記事は熱い文章であ る。この熱い文章をもとにして、図南丸の特集を作った。 神戸新聞 相生担当者が残してくれたスクラップブックがあり、 昭和30年代以降の相生のでき ごとがよくわかる。 相生文化論 1973年発行 福永一仁氏が市長になる前「駟路通信」に連載していたエッセイをま とめたもの。電話・水道・生協など相生のできごとをテーマにして書かれている。 各種 50年史 1980 年代から 90 年代にかけて、明治時代に発足した小学校などは 100 年史、戦後 各種 100年史 発足した中学・高校・商工会議所などが50年史を発行している。関係の解説や年表 を作成するための参考にした。 日本水産50年史 1961年発行 図南丸の引き揚げ・曳航と捕鯨についての記述がある。 図南丸物語 2008年発行 第二図南丸の船医であった八木正宏医師の体験記。 企業城下町相生の場合 1990年発行 国立国会図書館調査立法考査局の調査官が、第一工場閉鎖後の相生を フィールドワークして作成した報告書。 石川島播磨重工社史 1992年発行 合併後の相生工場の歴史を調べるのに使用した。 素足の娘 佐多稲子が大正時代の相生を舞台にして書いた小説。 夏草の道 田山力哉が映画監督浦山桐郎を描いた小説。 悲しみの航海 伊井直行が80年頃の相生を舞台にして描いた小説。 3 目次・収録写真一覧① 1 2 3 4 7 左の数字はページ 表紙 まえがき 参考文献 収録写真一覧 相生の歴史 八野・矢野と相生(あいおい、おお) ( 戦前 ) 8 瓜生にあった矢野村役場と矢野郵便取扱所 9 五代目濱本弥七郎 1891/04/ 10 相生町消防第一分団出初式 1917/01/06 11 明治時代の那波港 1902/ 12 鶴亀高等小学校明治34年卒業生 1901/03/24 13 鶴亀高等小学校解散式 1902/03/ 14 明治 38年相生小学校高等科卒業生 1905/ 15 明治 42年矢野小学校高等科卒業生 1909/03/ 16 播磨造船所初期建造船 第六與禰丸 1918/03/ 17c 播磨船渠株式会社の株券 1907/04/01 18c 播磨造船株式会社の写真帖 1913/ 19c 建造番号2、吉備丸記念絵葉書① 1916/05/23 20c イースタンソルジャー絵葉書① 1920/04/03 21c イースタンソルジャー絵葉書② 1920/04/03 22c 独立初期の造船所全景① 1932頃 23c 造船所全景②と民国軍艦「寗海」 1932頃 24c 剛邦丸を建造中の造船所 1958/08/01 25 「我らのドック」とよばれた船渠 1913/ 26 甲崎埋め立て工事 1917/ 27 第八與禰丸の進水式 1918/08/21 28 船渠内の第六與禰丸 1918/ 29 造船所への渡船① 1918頃 30 帝国汽船の社員一家 1919頃 31 極東硝子日の浦工場全景 1920頃 32 私立済美幼稚園の卒園式 1920/03/ 33 千の山に移転した相生小学校 1920/ 34 イースタンソルジャー進水の日の本町通り 1920/04/03 35 本町売店組合のひしや呉服店 1920/06/29 36 相生町入口の一部 1921頃 37 相生港と魚市場 1921頃 38 薮谷社宅と磯際山 1924頃 39 薮谷社宅と苧谷川 1921頃 40 丘の台社宅と那波港 1921頃 41 那波八幡宮の参道と境内①② 1919頃 42 薮谷の葬斂場 1922/03/15 43 那波小学校、競技大会優勝 1922/10/18 44 松の浦の埋め立て① 1924/08/11 45 婦女会幼稚園の園児 1925/02/ 46 陪審法の模擬裁判 1926/08/07 47 天神祭の行列 1926/11/05 48 破魔呉服店の売り出し① 1926頃 49 消防出初め式の鯉上げ 1926頃 50 青い目の人形使節① 1927/03/ 大正 13 年 磯際山 那波駅 六代目濱本弥七郎 出初式記念写真の唐端町長 明治時代の大島山 1918頃 明治 38年那波小学校高等科卒業生 矢野尋常高等小学校校舎 第八與禰丸、扇洋丸 1905/ 1913/10/ 1918/ 1917/01/06 1902/ 最初の入渠船、岡崎汽船日英丸 1912/01/10 吉備丸記念絵葉書②建造中の吉備丸 1916/05/23 イースタンソルジャー絵葉書袋 1920/04/03 イースタンソルジャー絵葉書③ 1920/04/03 社章の変遷 御船丸・香椎丸の進水記念絵葉書 寗海・小牧丸・沖島の進水記念絵葉書 剛邦丸の進水記念絵葉書 1958/09/19 播磨造船時代の造船所全景 1913/ 第一船渠とボイラー室 1918頃 第六與禰丸の進水式 1918/01/12 鈴木商店店主 鈴木よね 造船所への渡船② 1918頃 帝国汽船時代の造船所 1919頃 極東硝子日の浦工場内部 1920頃 婦女会幼稚園の卒園式 1923/ 天神山の相生小学校 1919頃 港に立てられたゲート 1920/04/03 松の浦本町通り 1920頃 赤穂郡相生町全景 1921頃 うたせ船と魚市場 1921頃 寺田屋雑貨店と南本町社宅 1924頃 苧谷川と松並木 1921頃 西出町の社員社宅 1921頃 相生天満宮 1921頃 新町海岸を歩く葬斂の列 1922/03/15 実科女学校の授業風景 1919/ 松の浦の埋め立て② 1924/08/11 第二回国勢調査員 1925/10/ 播磨劇場 1942/ 天神祭の綾子 1926/11/05 破魔呉服店の売り出し② 1926頃 出初め式の集会 1926頃 青い目の人形使節② 1927/03/ 4 目次・収録写真一覧② 51 52 53 54 55 56 57 58 59 60 61 62 63 64 65 66 67 68 69 70 71 72 73 74 75 76 左の数字はページ 昭和の御大典 昭和初期の那波港 昭和初期の那波駅 港郵便局の電話交換所 遠見山梅林の開墾① カフェ新町食堂① 那波八幡宮秋季祭典 那波町公会堂と町役場 那波小学校の学芸会 沖島の進水式に向かう伏見宮 松の浦埋立工事竣工奉告祭 支那事変戦没者の相生町葬 移転した相生魚市場 天満宮に勢ぞろいしたバス 那波駅行きバスと車掌 相生信用組合大広間の踊り発表会 皇紀二千六百年祝賀式典 真広・大神宮社境内の舞台 横綱双葉山の相撲興業 水月前のペーロン船 相生館 相生市初の市会議員の天満宮参拝 相生警察署薮谷派出所開設 食糧増産に励む婦人 三石耐火での勤労動員 相生国民学校での防空訓練 1928/11/ 1931/ 1931/ 1931/10/11 1933/01/ 1933/ 1933/10/ 1934/ 1935頃 1935/11/15 1937/06/12 1937/11/18 1937/12/ 1930年代 1939/ 1940頃 1940/11/10 1941/ 1942/ 1942/05/27 1942/03/25 1942/12/01 1943/08/ 1943/11/11 1944/06/ 1944/ 矢野町での御大典 那波西通り 那波東方面 1928/11/ 1931/ 1931/ 遠見山梅林の開墾② カフェ新町食堂② 那波八幡宮での植樹記念 那波町公会堂の火事 鉄砲山での水泳の授業 水月別館 松の浦埋め立て起工式 支那事変に出征した兵士の家族 魚市場の建設現場 愛車と平野政一氏 バス運転手の研修 相生信用組合事務所竣工 真広・大神宮社での式典 矢野郵便局 横尾家玄関で双葉山と ペーロン競漕 三徳理髪店・鈴木時計店 総選挙の投票所 相生警察署玄関にて 竜泉桃山の開墾 那波国民学校の運動会 相生国民学校でのバケツリレー 1933/01/ 1933/ 1943/ 1938/01/07 1932/ 1932/06/29 1937/ 1937/ 1930年代 1935/ 1938/07/ 1940/11/10 1940頃 1942/ 1939頃 1930年代 1942/04/30 1945/06/29 1944/ 1943/ 1943/09/16 ( 戦後 ) 77 才元小学校・矢野小学校 78 相生中学校・双葉小学校 79 県立相生産業高等学校 80 播磨造船所松の浦工場 81 那波港と中国艦船 82 魚市場前のペーロン競漕 83 第 24回ペーロン競漕 84 弁天社宅と苧谷川の分流 85 国鉄自転車旅行団 86 高松・小豆島への定期船みくに丸 87 相生湾にたどり着いた図南丸 88 鰯浜の海水浴場① 89 市制 10周年記念パレード 90 相生湾と造船所 91 ギリシア船アスパシア・ノミコス 92 本町通りにあった播磨病院 93 若狭野村村会議事堂 94 舗装前の国道二号線 95 松の浦に新築された電報電話局 96 国民体育大会ボートレース 97 那波八幡宮の獅子舞 98 Castellaの進水式 1946/ 1952/ 1959頃 1948/05/30 1949/07/21 1950/06/05 1952/05/25 1950/07/23 1951/05/27 1951頃 1951/04/15 1952/ 1952/10/ 1952/12/ 1952/ 1953頃 1954/08/ 1955頃 1955頃 1956/09/25 1956/10/ 1957/01/13 矢野町の学校統合に関する陳情 旭小学校 市立相生高等学校 係船中の戦時標準船 那波港 優勝したペーロン船 ペーロン競漕優勝記念 埋め立て中の苧谷川分流 移転した市役所 相生駅プラットホーム ドックを出る図南丸 鰯浜の海水浴場② 建設中の海員厚生会館 唐端清太郎顕彰碑と相生湾 アスパシアの船長夫妻 新築移転した播磨病院 若狭野村役場 舗装された国道二号線 昭和 31年の松の浦 凱旋する相工チーム 那波八幡宮の参道 永安丸の進水式 1963/12/10 1955/ 1950/12/ 1951/ 1959/ 1950/06/05 1952/05/25 1954/ 1951/05/ 1952/ 1951/10/18 1952/ 1954/05/13 1952/01/ 1953/ 1958/ 1954/08/ 1968/08/ 1956/ 1956/09/25 1963頃 1951/06/21 5 目次・収録写真一覧③ 99 造船所のヘリコプター① 1957/10/25 100 創業 50周年をむかえた造船所 1960頃 101 総合グランドと相生球場 1960頃 102 航空写真(旭区と相生湾) 1958/01 103 駅北から撮影した航空写真 1961/ 104 東七条石段下の紙芝居 1958頃 105 皆勤橋の渡し船 1958/03/ 106 天白神社神與の海上渡御 1958頃 107 造船所の陸上運動会 1958頃 108 総合事務所前を行くつぼね丸 1960/ 109 雨香園から見た相生港 1961/ 110 天神祭の行列 1960/04/ 111 親鸞聖人七百年遠忌法要 1961/11/ 112 播磨生協中央総合店 1960頃 113 本町商店街のアーケード 1961/09/25 114 市役所新庁舎竣工を祝う鼓笛隊 1962/12/20 115 厳島神社の灯篭流し 1963/07/ 116 三濃山にあった村 1964頃 117 那波の大避岬 1966頃 118 新幹線工事着工前の相生駅① 1967頃 119 山陽新幹線の試運転 1971/10/16 120 パレードする初代みなとの女王 1971/06/06 121 山津波で転落した両備バス 1971/07/18 122 ペーロン祭IHI家族会の踊り 1973/05/27 123 ペーロン競漕 1975/05/25 124 本町商店街のシャンデリア 1972/07/ 125 県立相生高等学校第一回入学式 1977/04/08 126 遠見山から見下ろす相生湾 1978/ 127 工事中のポート公園 1978/ 128 相生市准看護学校開校 1986/04/ 129c 秋の市立図書館 1986頃 130c 東部埋立地と牡蠣の筏 1987/ 131c最後の進水式ウェストウッドヤーゴ1987/04/24 132c 中央公園に搬入される機関車 1988/ 133c 女子ペーロン 1993/05/30 134c 相生港 1990/02/ 135c 相生の町を描いた観光絵地図 1952/ 造船所のヘリコプター② 造船所の相生総合事務所 造船所のプール 新苧谷川 苧谷川沿いの旧道 東本町七条通り 皆勤橋の退社風景 天白神社の神與 パン食い競争 相生港のつぼね丸乗り場 相生港に停泊している船 皆勤橋のたもと 長専寺の庭 衣料品売り場 旭館 新庁舎竣工祝賀風景 厳島神社の秋祭り 羅漢渓谷への道 三濃山求福教寺観音堂 新幹線工事着工前の相生駅② 新幹線開業に向けて改装中の相生駅 大谷橋を渡るパレード 濁流が流れる相生の町 ペーロン祭のパレード ペーロンのパレードで踊る小学生 水銀灯がついた中央通 県立相生高等学校の校舎 皆勤橋 ポート公園と竹島 昭和 61年度の戴帽式 相生大橋の開通式 ケミプロ化成相生工場の起工式 雨香園の唐端清太郎顕彰碑 佐多稲子文学碑除幕式 ヤングペーロン 中央通り、コスモス通り 昭和 24年頃の絵地図 ( 図南丸 ) 136c キャッチャーボートを従えて航行する図南丸 137 南氷洋で鯨を曳く図南丸 138 第三図南丸の進水 1938/05/01 139 トラック島での浮揚作業開始 1950/10/ 140 浮上した船首 1951/01/ 141 第二回船体引き起こし 1951/01/29 142 完全浮上に成功 1951/03/03 143 トラック島を出発、日本へ向かう 1951/03/26 144 紀伊水道の第三図南丸 1951/04/14 145 和歌浦沖を通過 1951/04/14 146 第二船渠で修繕中の第三図南丸 1951/06/ 6 1958/05/18 1958頃 1960/05/ 1967頃 1958頃 1954頃 1960/ 1961頃 1962/ 1965頃 1960頃 1962/12/20 1969/ 1964頃 1966頃 1967頃 1970/10/ 1971/06/06 1971/07/18 1972/06/05 1975/05/25 1972頃 1977/ 1978/ 1978/ 1984/08/01 1987/04/07 1983/10/18 1993/05/30 1990/02/ 1949頃 第三図南丸進水記念絵葉書 1938/05/01 浮揚作業の様子 1951/ 第三図南丸の甲板 1951/ 第三図南丸とタグボート 相生沖に到着した図南丸 1951/04/14 1951/04/15 目次・収録写真一覧④ 147 148 149 150 151 152 153 図南丸の命名式・引き渡し式 1951/10/17 第二ドックから出る図南丸 1951/10/18 岸壁を離れようとする図南丸 1951/10/18 相生湾を航行する図南丸 1951/10/18 別れを告げる図南丸の乗組員 1951/10/18 停泊中の図南丸 図南丸の銘板、鯨のヒゲに描かれた図南丸 引渡式後の記念撮影 1951/10/17 右舷側より見る図南丸 去り行く図南丸 1951/10/18 船渠の図南丸 第二図南丸で使用された六分儀、ペンギン 154 年表 160 あとがき 相生の歴史 八野・矢野(やの)と相生(あいおい・おお) 相生市は、中世の荘園「矢野荘(やののしょう)」の流れをひいています。 右の地図は、相生市史に掲載されている矢野荘の地図ですが、三濃山から 鰯浜まで、相生市とほぼ同じ領域を占めていることがわかります、 矢野荘は、 平安末期に、 鳥羽上皇の寵姫美福門院領の荘園として成立し、 東寺と南禅寺に継承されました。東寺には矢野荘に関係する文書が大量に 残っており、私たちは鎌倉時代の歴史を詳しく知ることができます。 矢野荘は、秦為辰(ためとき)によって開発されました。秦氏は、古代の赤 穂郡に勢力を持っていた豪族です。秦氏の始祖、秦河勝は。蘇我氏に追わ れて空船に乗り、那波の白鷺の鼻に漂着しました。今、この地に、秦河勝 を祀る大避神社があります。 ある日、秦氏の始祖、秦河勝が高取峠から矢を射ると矢が遠くまで飛び ました。そこで、それまでの八野郷を矢野と呼ぶようになりました。秦河 勝にまつわるもう一つの伝承が「三本卒塔婆」です。秦河勝が狩をしてい るとき、愛犬がやかましく吠えるので、怒った河勝が愛犬の首をはねまし た。 愛犬の首は宙を飛んで河勝を狙っていた大蛇にかみつきます。 河勝は、 愛犬を供養するため、弓を三つ折りにして犬の卒塔婆にしました。 能下のお宮に奉納されている左の絵馬が、秦河勝です。足元に河勝を守 った犬が描かれています。三濃山の麓には犬塚があります。三濃山頂の求 福教寺は、秦内麻呂の建立といわれ、源義家の信仰によって三濃千坊とよ ばれるほど栄えました。 鎌倉時代、海老名氏が相模から地頭として矢野荘に移り住みます。海老 名氏は「相模生まれ」を大浦にあて相生(おお)と名付けました。海老名氏 の居城は大島にありました。那波の八幡宮、相生の天満宮は、海老名氏が 鎌倉時代に勧請したお宮です。 室町時代になると上郡に本拠を置く守護赤松氏の勢力が伸びてきます。 1980年代に、赤松氏が築いた感状山城・光明山城が発見され、整備が進ん でいます。那波は、矢野荘の積み出し港として栄え、那波中学校のあるあ たりに那波浦城がありました。 戦国時代、矢野荘の地侍は宇喜多家の配下にありましたが、織田信長の勢力がこの地域にも及ぶようになり、 豊臣秀吉の太閤検地や刀狩りによって荘園は解体され、地侍は武装解除されてしまいます。海老名本家は、これ に抵抗して尼崎へ去り、当地に残った海老名一族や地侍は、庄屋・商家・学問などの道に進みました。 江戸時代の初期、旧矢野荘は姫路池田領となり、池田家が伯備に転封されてからは、赤穂藩・浅野分家・竜野 藩・天領をはじめ諸藩支配地が錯綜する地域になりました。 明治 21 年制定の町村制によって、旧矢野荘の村々は、矢野村・若狭野村・那波村・相生(おお)村に編成され ます。昭和 14 年に那波と相生が合併して相生(あいおい)町に、昭和 17 年に市制施行、昭和 29 年に矢野・若狭 野と合併して、今の相生(あいおい)市が成立しました。 7 町村制の施行と山陽鉄道の開通 唐端清太郎が相生村長になった明治 25 年頃の相生 瓜生にあった矢野 村役場と矢野郵便 取扱所 石野太造 明治 22(1889)年、帝国憲法が発布され、翌年第一回帝国議会が招集される。 地方では明治 21(1888)年、市町村制を定めた法律が制定され、明治 22 年から順次施行された。江戸時代 からの村(旧村)は合併して、村制による行政単位としての「村」を作ることになった。こうして、現在の 相生市域に四つの村、相生村・那波村・若狭野村・矢野村が成立した。矢野村は、瓜生村を中心に 16 の旧 村が合併して生まれた。 「矢野」は中世矢野荘以来の相生市全域を示す呼称である。若狭野村は、はじめ矢 野村という村名を考えていたが、隣村が矢野村と命名したので、浅野家の若狭野陣屋から名称をとって若狭 野村となった。 南部では、那波・陸・池ノ内・佐方が集まって那波村になり、相生は規模が大きかったので単独で相生村に なった。野瀬は揖西郡であったが、地域的つながりの強い相生村と合併した。 1918(大正7)年頃の那波駅 足羽恵 明治 23(1890)年 7 月 10 日、山陽鉄道が有年まで延伸され那波駅が開業した。西国街道と赤穂道が交わる 小さな宿場町「陸」の北に那波駅ができ、駅前には人力車の溜まりと飲食店ができた。明治 28 年の「山陽 鉄道旅客案内」は那波について、このように書いている。 「那波港は、室津・坂越の中間にある一海港にし て、海水遠く陸地に侵入す。然れども、港内水浅く、岸遠くして大船巨舶の停泊に便ならざれば、商業また 従て盛ならず、戸数わずか六、七十あるのみ。 」 江戸時代の相生は、赤穂藩・天領をはじめ、多くの藩の支配が錯綜し、統一した統治の行われない地域であ った。しかし、20 世紀に入り、相生は地域的まとまりを回復して近代化を推進し、竜野や赤穂に先立って 市制を実現する。その原動力となったのは、鉄道の那波駅と海路の相生港、そして唐端清太郎が村の将来を 託した造船所である。 8 (明治24)年4月 五代目濱本弥七郎 濱本家 濱本家は、 江戸後期に 干鰯の商いで成長し、 この頃、 赤穂郡で有数 の大地主であった。 1890 年代に入ると産 業界に進出し、相生・ 那波・赤穂・網干など 地元の銀行をはじめ として北浜銀行や山 陽鉄道に投資した。 写真は、 五代目濱本弥 七郎襲名にあたり、26 歳のとき姫路で撮影 した硝子写真である。 濱本家は、1892(明治 25)年相生村長に就任 した唐端清太郎を支 え、1907(明治 40)年 の播磨船渠創立にあ たっては、 神戸財界と ともに大株主となっ た。 六代目濱本弥七郎 濱本邸の前栽で撮影され た。濱本邸は明治初期の 建築で「ひょうご住宅百 選」に選ばれている。 9 1917(大正6)年 1 月 6 日 相生町第一回出初め式 天神山の相生小学校にて 消防第一分団 二列目、和服が唐端相生町長。唐端清太郎 は、飾磨郡で生まれ、1892 年相生村長、1913 年相生町長となる。1903 年から県会議員、 1907 年県会議長、1918 年に憲政党の代議士 となり、普通選挙実現を目指した。 明治に入り、相生を支えていた漁業に陰り が見えていた。造船と港湾で繁栄する神戸 を目にした唐端村長は、漁業に代わる村の 産業として造船業に着目し「西の神戸」を 作ろうとした。唐端村長は、神戸財界と地 元の有力者の出資をあおぎ 1907 年播磨船 渠株式会社を創立、相生の将来を造船所に 託した。 10 1902(明治35)年 明治35年頃の那波港 田中藤治商店 那波は矢野荘の積み出し港である。中世から市が立ち、矢野荘の産物が京都に運び出された。江戸時代にな り、赤穂藩が「那波を商港、相生を漁港」に指定したので、那波の商業は一段と賑わい、田中家など商家が 連なっていた。海岸には、薪・炭が山積みされている。船は竹島の東の水路から那波港に入っていた。この 頃、那波港は土砂の堆積が進み、干潮になると中央部しか水路がなかった。 明治時代の大島 鎌倉時代に地頭海老名 氏の居城があった大島。 海中の島であったが、 江戸時代末期の新田開 発で陸続きになった。 海老名氏は、1221 年の 承久の乱後、新補地頭 の一人として矢野荘に 移住し、地頭・地侍・ 庄屋として、長年にわ たり勢力を維持した。 11 1901(明治34)年3月24日 鶴亀高等小学校 明治34年卒業生 石野太造 明治時代、小学校は尋常科 4 年が義務教育であった。西播磨は、中学が竜野に、高等小学校が郡に一校ずつ おかれた。赤穂郡は赤穂高等小学校一校であったが、教育熱の高まりにより、相生地区・上郡地区にも高等 小学校を設立することになった。相生地域の四か村が共同で設置したのが鶴亀高等小学校である。鶴亀高等 小学校は、明治 26 年 7 月 5 日に開校し、矢野村・若狭野村・那波村・相生村から選ばれた生徒が、4 年制 の高等科に進学した 写真は明治 34 年の卒業生で、この頃は、矢野村・若狭野村・那波村の三か村組合立であった。男子は木の 銃剣を持っており、日露戦争直前の緊張感が感じられる。生徒のなかに水守亀之助がおり、この学年が最上 級生になった明治 33年、 校長として岡虎十郎(こじゅうろう)(32歳)、 教員として光葉十郎(19歳)が赴任した。 水守亀之助は光葉十郎をこのように回想している。 「先生は何でもよくできた。各課授業の真剣さはもちろん、講義が面白くて熱があり、出でては強行軍や軍 事教練を猛烈にやり、時に二、三里にわたる大規模の演習もやらされた」 水守亀之助 明治19年、若狭野下土井の生まれ。明治39年、三木露風を頼って上京。一方、故郷の家族は次々と亡く なり、大正 6 年下土井の水守分家は消滅する。大正 8 年「新潮」の編集に加わり、祖母や父を題材とする 「小さな菜畑」「帰れる父」などを発表、新進作家として注目された。 12 1902(明治35)年3月 鶴亀高等小学校解散式 那波小学校 鶴亀高等小学校は、明治 26 年 7 月に民家を借りて開校し、明治 28 年 6 月、写真の校舎に移転した。この建 物は明治 16 年に赤穂警察署の入野分署として建設された鹿鳴館風の洋式建築である。明治 28 年、分署が陸 に移転したので建物を改修し、鶴亀高等小学校の校舎とした。明治 30 年、相生尋常小学校が改築とともに 高等科を併設したので、鶴亀高等小学校は、矢野・若狭野・那波三か村の組合立となる。明治 34 年、矢野 村が矢野尋常小学校への高等科併設を決定、明治 35 年 3 月をもって、鶴亀高等小学校は解散した。建物は、 八洞に移築されて若狭野村役場になり、昭和 30 年代まで使用されていた。 市内小学校の変遷 1893 鶴亀高等小学校(1902 閉校) 1872 1876 1877 1874 1874 相生小学校 → 1891 相生尋常小学校 那波小学校 → 1891 那波尋常小学校 八洞小学校 → 1891 八洞尋常小学校 矢谿(しけい)小学校→1891 菅谷尋常小学校 才元小学校 → 1891 才元尋常小学校 → → → → 1897 相生尋常高等小学校 1901 那波尋常高等小学校 1902 若狭野尋常高等小学校 1902 矢野尋常高等小学校 1924 年度∼28 年度高等科を併設 1872 年の学制で相生市内に 10 校が設置された。現在の学校の原型ができたのは、1891 年である。 13 1905(明治38)年相生小学校高等科卒業生 相生小学校 1905(明治38)年那波小学校高等科卒業生 那波小学校 14 1909(明治42)年 矢野小学校高等科卒業生 石野太造 明治 35 年、 鶴亀高等小学校が廃止され、 各村の小学校は尋常科 6 年と高等科 2 年を併設するようになった。 この 3 枚の写真は、収集できた各小学校の卒業記念写真のなかで、最も早い時期と推定されるものである 1913(大正2)年 矢野尋常高等小学校 明治 34 年 12 月、菅谷に 校舎を新築して移転。明 治 35 年 4 月に高等科を併 設して矢野尋常高等小学 校になる。明治 45 年、講 堂を増築した。 15 1918(大正7)年 播磨造船所初期の建造船の絵葉書 足羽恵 第七番船 第六與禰丸 大正 7 年 3 月 21 日竣工 3165 総トンの貨物船 正式に船台で建造された最 初の船。米国との船鉄交換 により、米国へ輸出された。 米国名 WAR AMAZON 第九番船 第八與禰丸 大正 7 年 10 月 10 日竣工 6806 総トンの貨物船 この船も米国との船鉄交換 により、米国へ輸出された。 米国名 EASTERN SHORE 第十八番船 扇洋丸 大正 7 年 3 月 3 日竣工 1238 総トンの貨物船 船主は岩田可盛氏 船台が完成する以前の大正 5 年∼6年に仮設船台で吉備 丸、御崎丸、扇海丸などを 建造している 16 1907(明治40)年4月1日 播磨船渠株式会社の株券 モロコシ屋 唐端清太郎は、船渠(ドック)を作れば大型船が入港して人が集まり、相生が世界につながると考え、播磨 船渠株式会社を設立した。社長は阪神財界の重鎮、小曾根貞松、唐端清太郎は専務に就任し、神戸財界が 60%、濱本家を中心とする相生村民が 14%を出資した。この株券の持ち主は若狭野村在住で 15 株を保有し ていた。株券は 1 株が 50 円。この頃、小学校訓導の給与が 15 円から 18 円、ドック工事の日当が 50 銭なの で、当時の 50 円は現在になおせば 50 万円以上の価値があった。 播磨船渠は甲崎にドックを建設しようとしたが、ドックの完成直前に渠口が崩壊したため会社は破綻、この 株券は価値を失うことになる。 造船所経営の変遷 1907.播磨船渠株式会社(破綻)→ 1911.播磨船渠合名会社(船渠を完成させる) → 1911.播磨造船株式会社 → 1916.鈴木商店が買収・株式会社播磨造船所 → 1918.帝国汽船株式会社・播磨造船所 → 1921.神戸製鋼所・播磨造船工場 → 1929.株式会社・播磨造船所 → 1960.石川島播磨重工業 → 2007.IHI 17 1913(大正2)年 播磨造船株式会社の写真帖 足羽恵 播磨船渠は 6000 トンの船渠建設を進めたが、明 治 42 年 10 月、工事中の船渠が崩壊し、播磨船渠 株式会社は解散してしまう。船渠は放置され、子 供たちの遊び場になっていた。高橋為久は事業の 再建を決意し、明治 44 年 1 月、播磨造船合名会 社を設立して工事を再開した。明治 45 年 1 月、 高橋為久は船渠を完成させると、神戸の海運資本 と提携し、播磨造船株式会社を設立した。播磨造 船は修繕専門の企業で、開業から一年間で 34 隻 が入渠した。小規模であったが、機械工場・製缶 工場・鋳造工場が建設され、従業員は請負制で 100 人∼300 人であった。 明治45年1月10日入渠 最初の入渠船、岡崎汽船の日英丸 2302 トン 大きな船が初めて相生湾に入り、村人を驚かせた。 18 1916(大正 5)年 建造番号2 貨物船吉備丸の絵葉書 足羽恵 1914(大正 3)年、第一次世界大戦が勃発する。鈴木商店の支配人金子直吉は、造船事業への進出を決意す る。当時、鈴木商店は、三井物産と並ぶ大商社であった。大正 5 年、鈴木商店は、播磨造船株式会社を買収 して株式会社播磨造船所を設立し、新造船に進出した。最初の新造船は播磨造船から建造を引き継いだ木造 曳船神の浦丸、二番船が 1174 総トンの鋼鉄製貨物船吉備丸である。 吉備丸は、豊崎昌三郎氏 発注の貨物船で、ドイツ 製の気缶を搭載した。 大正 4 年 12 月起工、5 年 5 月 23 日進水。造船所は 拡張工事を進めており、 仮設船台で建造された。 絵葉書に、建造風景が印 刷されている。 19 1920(大正9)年4月3日 イースタン・ソルジャー進水記念絵葉書 神谷泰彰 大正 4 年、鈴木商店は、播磨造船株式会社を買収して、株式会社播磨造船所を設立した。鈴木商店は、海面 を埋め立てて造船所を拡張し、新造船を建造できる船台を建設した。大正 9 年には 6000 総トンの 4 船台が 完成、10 隻が進水した。造船所の従業員は 300 人から 6000 人に急増して相生の町は活気にあふれた。 大正 7 年 5 月、第一次大 戦の終結を予測した鈴木 商店は、海運・造船事業 を帝国汽船に集約、造船 所は帝国汽船播磨造船所 となった。帝国汽船の時 代に、薮谷社宅・那波西 社宅・本町売店組合など が造られた。 20 第一次世界大戦中、船舶が大量に建造されたが、世界的に鉄鋼が不足した。日本は米国と交渉し、鉄鋼を輸 入する代わりに米国へ船舶を輸出する契約を締結した。これを船鉄交換船という。 大正 9 年 4 月 3 日、米国船舶局代表をはじめとする来賓数百名を迎えて、船鉄交換船イースタン・ソルジャ ーの進水式が行われた。この日、駅前・港や商店街には進水を祝うアーチなどが飾られ、相生は、町始まっ て以来の賑わいをみせた。 造船所の拡張とともに近代化していく相生の町に一人の少女が移り住んだ。彼女(佐多稲子)の小説「素足 の娘」のなかに、大正時代の相生の様子がいきいきと描かれている。 佐多稲子年譜 1904 長崎に生まれる 1917 父親、播磨造船に就職 1918 佐多稲子 14歳 父親 によばれ相生に住む 1920 単身上京 1921 一時相生に帰る 1824 結婚 1925 相生に帰り長女出産 1926 両親と上京 1929 窪川鶴次郎と再婚 1940 「素足の娘」執筆 21 1932(昭和7)年頃の播磨造船所全景 山下家 1920 年代、第一次世界大戦後の不況とワシントン海軍軍縮条約の締結によって、造船業界は不況が続いた。 1921 年、鈴木商店は事業を再編成し播磨造船所を神戸製鋼所に移管した。1927 年の金融恐慌で鈴木商店は 破綻するが、神戸製鋼所播磨造船工場は有力造船所として存続することができた。 播磨造船所の社章の変遷 右は、播磨造船株式会社 1912(大正元)年 6 月 2 日∼ 以下、左上から 播磨造船所 50年史より抜粋して作成 1916(大正 5)年 4 月 25 日∼ 鈴木商店が買収 株式会社播磨造船所 1918(大正 7)年 5 月 31 日∼ 帝国汽船株式会社播磨造船工場 1921(大正 10)年 2 月 15 日∼ 株式会社神戸製鋼所播磨造船工場 1929(昭和 4)年 11 月 27 日∼ 神戸製鋼所から独立 株式会社播磨造船所 神戸製鋼所播磨造船工場時代に建造した船の進水記念絵葉書 左 山本汽船の貨物船御船丸 3110 総トン 昭和 3 年 2 月 24 日進水 右 八幡製鉄の貨物船香椎丸 3176 総トン 昭和 4 年 2 月 6 日進水 22 足羽恵 1929(昭和 4)年 11 月、神戸製鋼所は規模が大きく業態の異なる播磨造船所の分離・独立を決定する。松 尾忠二郎社長以下、職員 187 工員 1220 社外工 700 計 2107 名。それから、30 年近く、株式会社播磨造船所 は本社・主力工場を相生におき、相生の町と一体となって発展を続けた。 上の写真の左に停泊している船は中華民国の軽巡洋艦「寗海」 。 中華民国軽巡洋艦 寗海 2520 排水トン 福田功 英米や国内先進造船所との競争の結果、受注に成功した 軍艦。河川航行のため。喫水が浅い。艦の建造中に満州 事変が勃発したが、昭和 6 年 10 月 10 日に進水、翌年 8 月 25 日、上海へ向けて出港した。 国際汽船の貨物船 小牧丸 6465 総トン 足羽恵 ディーゼル機関搭載の優秀貨物船で播磨造船所の傑作 と称された。昭和 8 年 7 月 8 日進水。ニューヨーク航路 で活躍した。 帝国海軍の敷設艦 沖島 5200 排水トン 足羽恵 機雷の敷設を任務とする日本海軍初の大型敷設艦。14 センチ砲 4 門を搭載している。昭和 10 年 11 月 15 日の 進水式は、伏見宮軍令部総長が出席し、盛大に催された。 23 1958(昭和33)年8月1日 龍山公園から見る播磨造船所 橋本一彦 戦後、造船は日本の主力輸出産業となり、播磨造船所はタンカーメーカーとして躍進した。拡張された船台 でジャイアントタンカー剛邦丸の建造が進んでいる。創業 50 周年を迎えた造船所は、播磨病院・総合事務 所・総合グランドを建設し、相生の町は新しい時代を迎える。1960 年、安保闘争が終結、政府は所得倍増 計画をうちあげる。播磨造船所は石川島重工と合併、日本は高度経済成長へと邁進した。 剛邦丸 足羽恵 昭和 33 年 9 月 19 日に進 水した飯野海運剛邦丸。 セミ・ドライ・ドックの 第二船台で建造された。 剛邦丸は、28400 総トン、 4.3 万トンの原油を輸送 できる、当時日本最大の タンカーである。 24 播磨造船株式会社の船渠(播磨造船発行の写真帖) 足羽恵 唐端清太郎が播磨船渠を設立して建設しようとした船渠は、工事の失敗によって放置される。高橋為久は、 見るに忍びず、この事業の再建を決意し、明治 45 年 1 月、船渠を完成した。相生の造船業の原点といえる 船渠で、町の人たちはこの船渠を「我らのドック」 、造船所を「ハリマドック」と呼んだ。 播磨造船株式会社全景 大正 2 年発行の写真帳に 掲載されている写真。左 が船渠、中央が事務所、 右手に機械工場や鋳造工 場が見える。電力設備は 未完成で、蒸気機関で船 渠の排水を行った。 25 1917(大正6)年 甲崎埋め立て工事 神谷泰彰 第一次世界大戦が勃発すると、鈴木商店は造船業への進出をめざした。大正 5 年 4 月、鈴木商店は播磨造船 株式会社の事業を継承し、株式会社播磨造船所を設立する。鈴木商店は、大正 6 年 1 月、甲崎の第一期埋立 に着工、埋立地に新造船のための船台を建設した。右端が神谷令三氏。停泊している船の煙突に鈴木商店社 章の「米」が見える。 大正 7 年頃の造船所 足羽恵 発電所が未完成のため、 船渠の動力としてボイラ ーを使用していた。船渠 の左の煙突はポンプ室。 大正 8 年に藤戸に発電所 が完成し、8月 7日から送 電を開始した。 26 1918(大正7)年8月21日 建造番号 9 第八與禰丸(EASTERN SHORE)の進水式 松井照男 大正 6 年 7 月、工事中の船台で建造が始まった。翌年、EASTERN SHORE の進水式で鈴木商店支配人金子直吉 は、赤坂城での楠木正成の戦いを引用し、 「播磨造船所は設備も器具も未完成で、他の造船所に比べて誠に 貧弱であるが、 諸君は部下を統率して知謀をめぐらし先進造船所に負けないような立派な船を作ってもらい たい」と訓示した。(播磨造船所 50 年史) 大正 7 年 1 月 12 日 第六與禰丸の進水式 足羽恵 大正 6 年、船台で最初に起工 された大型鋼船の第一船。 第六與禰丸の進水式は、鈴木 商店店主鈴木よねなど多数の 来賓が出席して盛大に挙行さ れた。 27 1918(大正7)年 船渠内の第六與禰丸 足羽恵 1916 年 4 月、鈴木商店は造船所を買収し、膨大な資本を投入して拡張を図った。甲崎を埋め立て、新造船 建造のための船台を造るとともに、発電所などの施設を建設した。工員は 250 人から 5000 人に急増し、播 磨造船所は西播磨で随一の大工場に成長する。1917 年、ロシア革命が勃発し、日本でも労働運動が勢力を 増していた。北村徳太郎など鈴木商店が派遣した少壮店員たちは、マルクス主義に対抗できる修正資本主義 の経営をめざし、青年会を組織する一方、良好な住宅の整備を重視した。修正資本主義の経営の理念は、従 業員にも利益を配分し、労使共生によって企業・資本主義の発展をめざそうとしたものである。 参考北村徳太郎随想集 「播磨造船五十年史に寄せる」 播磨造船所 50 年史掲載の工員数 大正 5 年 3 月 252 → → 大正 7 年 12 月 5728 → → 大正 9 年 12 月 5255 大正 6 年 12 月 2300 大正 8 年 12 月 6372 鈴木商店店主鈴木よね刀自 28 1918(大正7)年頃 造船所への渡船 足羽恵 水月旅館前で馬車を降りた上品な一老婦人があった。そこには、舢舨が横付けされて待っていた。舢舨には 二人の船頭が乗り込んでいて、丁寧に老婦人を迎え入れるような態勢にあった。気軽に舢舨に乗り込んだ老 婦人が「ご苦労さんです」と声をかけたのを合図に、船頭が船を押し出す。程なく舢舨が向岬桟橋に着くと、 船頭はもやいをとって桟橋につける。 老婦人は手にした巾着の紐をゆるめて中から五十銭銀貨を二枚とり出 すと「ご苦労さまでした」と無雑作に櫓をおいた船頭に渡した。 この老婦人は造船所の社主 鈴木よね刀自で、子供の頃、 この話を体験した老人に聞 いたと江見練太郎氏が「ふ るさと想い出の記」に書か れている。 29 1919(大正8)年頃 帝国汽船の社員 松本住設 1918 年 7月から 1921 年ま で、播磨造船所は帝国汽 船の造船部門であった。 造船所は、社宅・播磨病 院・播磨劇場・済美幼稚 園などの施設を次々に建 設した。その中心になっ たのが、鈴木商店が送り 込んだ俊英達である。 海運・造船は厳しい階級 組織で、社員と職工は峻 別されていた。こうした 人たちが、相生の近代化 を推し進めたのである。 帝国汽船播磨造船所 足羽恵 1914 年∼18年の造船所別 進水量のシェア 1.川崎造船神戸 26.1% 2.三菱造船長崎 14.5 3.大阪鉄工桜島 12.1 4.浦賀船渠 8.9 ・ 8.三菱造船神戸 2.6 9.播磨造船所 2.1 相生市史 30 1920(大正9)年頃 極東硝子日の浦工場 足羽恵 大正 7 年、大阪の極東硝子が日の浦 1 万 6 千坪を買収して進出した。播磨造船所に次ぐ大工場であった。続 いて、那波の海岸に、三石耐火煉瓦の工場が操業を開始し、相生湾は工業地域に変わる。この時期、相生町 民の職業の主流は漁業から工業へ転換した。 極東硝子は昭和初期の金 融恐慌で倒産し、工場は 撤去されてしまう。 昭和 16 年、造船所が跡地 を購入、戦時中に造機部 門の工場を建設した。 大正5 年、唐端清太郎町長は「町勢発展」についてこう提案した 相生町が漁業をもって町勢を維持することができないことは明白な事実である。今後は工業及び商業地として立つ計画 をなさなければならない。現在の播磨造船所を拡張させる方法を講ずることが、最も緊急で重要であると思う。 31 1920(大正9)年3月 相生最初の幼稚園、私立済美幼稚園の卒園式 相生幼稚園 造船所の事務課長として赴任した北村徳太郎は、 キリスト教を相生に広めようとして天神町に教会を作った。 また、幼児教育を重視し、大正 7 年、東京高等師範学校倉橋教授の指導のもと、藪谷に済美幼稚園を設立し た。済美幼稚園は、相生婦女会に受け継がれ、婦女会幼稚園になる。 大正12年 婦女会幼稚園の卒園式 大正 11年、 婦女会幼稚園が、 相生小学校隅のバラックを 借りて発足した。写真は第 一回の卒園式。 昭和 10年に町営移管される まで、珍しい婦女会立幼稚 園として活動した。 32 1920(大正9)年 千の山に移転した相生小学校 相生小学校 造船所の活況にともない生徒数が増加し、天神山の校舎が手狭になった。相生町は、千の山(ちのやま)に相 生小学校の木造二階建て校舎を新築し、11 月 14 日に移転を完了した。大正 10 年の尋常科生徒数 1502 名。 昭和 6 年、第二運動場の北に新校舎ができた。 大正 8 年頃 天神山の校舎 足羽恵 相生小学校は、明治 5 年民 家を借りて開校。明治 9 年 に。海を埋め立てて校舎を 建設した。明治 30 年、天神 山に移転、生徒数の増加に よって、校舎の増設や二階 建てへの建て替えが続いた。 奥に見えるのは裁縫教室。 33 1920(大正9)年4月3日 イースタン・ソルジャーの進水を祝う町 足羽恵 大正 9 年、米国へ船鉄交換船として輸出されるイ ースタン・ソルジャーの進水式が華やかに行われ た。その日の本町商店街。左に森下履物店、背景 に苧谷川の松並木が見える。 港に立てられたゲート 進水式の日、町は祝賀ムードに包まれ、各地に歓 迎のゲートが立てられた。右は港に立てられたゲ ート。中央は帝国汽船の社章。濱口組は造船所の 埋立工事を請け負った土木業者である。 この 2 枚は絵葉書であるが、構図の関係で大幅にトリ ミングしている。 34 1920(大正9)年6月29日 本町商店街、ひしや呉服店 松本住設 造船所は従業員を定着させるため、藪谷に大規模な社宅を建設し、中央に売店組合を置いた。これが、本町 商店街の始まりである。ひしや呉服店は、北西の棟にあった。 大正9年頃 松の浦本町通り 田中藤治商店 田中絵葉書店発売の絵葉 書である。本町商店街の 南の棟から北を写してい る。商店街には、相生町 をはじめとして、西播一 帯から商人が集まってき た。 35 1921(大正10)年頃 相生町入口の一部 足羽恵 兵庫県赤穂郡相生町全景 大正から昭和初期にかけて、全国的に絵葉書が流行した。各地の町並みや名所を印刷した絵葉書が各地で発 行された。相生でも、造船所の興隆とともに近代化していく町の様子を写した絵葉書が、久我商店・寺田屋 書店・田中絵葉書店などから発行された。相生に限らず、この時代を扱った写真集に収録されている写真は 絵葉書からとったものが多い。絵葉書は、下段に発行所と説明が印字されているが、写真集ではこの部分を トリミングする。しかし、この写真集では、原則として発行所と説明も印刷した。 36 1921(大正10)年頃 相生港と魚市場 大川弘 天神山から見た相生港。魚市場は蛭子神社の近くにあり、漁船のための掘割があった。 うたせ船と魚市場 中央の三角屋根が魚市場 手前に停泊している帆柱 のある漁船をうたせ船と いう。 港口の大きな呉服屋の裏 手を覗くとそこが石垣で 防波堤の作ってある魚市 場で、魚船などもつない であり、その向うは、山 の裾の道に海にむかって 銘酒屋などを挟んで・・・ (佐多稲子 素足の娘) オオとオウ 相模生まれを大浦にかけて「相生」と書くが、仮名では「オオ」か「オウ」か。明治 22年に村になったときは「おお」 村で、丸に大を描いた旗を使っていた。しかしオウと表記している例も多い。この写真集では、 「オオ」と表記し、引 用した原文が「オウ」の場合はそのまま「オウ」としている。 37 1924(大正13)年頃 藪谷社宅と磯際山 大川弘 江戸時代末期から、藪谷は相生(おお)の新田になったが人家はなかった。造船所は、長崎や呉など日本各地 から引き抜いた従業員を定着させるため、大規模な社宅街を建設した。米国のニュータウンの形式を取り入 れ、中央に広い道を通し、直交する細い道を一条・二条となづけ、道に沿って住宅を建てていった。磯際山 頂の慰霊碑は造船所が殉職者のため、大正 13 年 11 月 2 日に建立したもので、昭和 32 年 10 月、桜が丘に移 設された。 寺田屋雑貨店と 南本町社宅 町は、港の方から開け た。左が最初に作られ た南本町社宅、右は寺 田屋雑貨店。寺田屋は 大正 8年4月1 日創業、 樫本商店は大正 7 年 8 月 10 日の創業である。 38 1921(大正10)年頃 藪谷社宅と那波の村 足羽恵 大正時代、苧谷川には境橋と大島橋がかかっていた。川の流れは今の旭橋あたりから二つに分かれていた。 川の堤防に松並木が見える。佐多稲子は、藪谷社宅の建設を「そういう計画は造船所の一つをもとにまるで 町をでも造るほどの意気込みに見えた。 ・・・何にもなかったところに新しく町の出来てゆく過程は、不思 議みたいであった」と書いている。薮谷に新しく開いた店には、相生や那波だけでなく、西播の各地から商 人が集まってきた。寺田屋・三方屋・中嶋屋などの屋号から出身地がわかる。 苧谷川と松並木 藪谷社宅の西側には苧 谷川の分流が流れてい てアヒルが飼われてい た。 この川は昭和 30 年頃に 埋め立てられて中央通 りになっている。 39 1921(大正10)年頃 丘の台社宅と那波港 田中藤治商店 那波港は浚渫されているが、松の浦には干潟が広がっている。那波では、丘の台に職工の社宅が立ち並び、 西出町に社員社宅が建設された。社員は港からランチで造船所へ通った。 西出町の社員社宅(上) 薮谷の職工社宅(下) 足羽恵 戦前の造船所では幹部従業員を社員とよん だ。造船の技術者には、帝国大学の卒業者も おり、それなりの待遇が必要であった。上は、 一戸建ての社員社宅で、家庭風呂の煙突が見 える。下は、職工の社宅で、共同浴場の煙突 が見える。造船所と社宅は「相生にいけば、 仕事と家がある」と人々を引きつけ、相生は 流入者の多い都会型の住民構成になった。 40
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