第 1 章 仏教への帰依と信仰

第 1 章 仏教への帰依と信仰
仏教へ帰依し, 仏教徒であることの基本的要件は仏法僧への帰依
と五戒を受持することである.
仏法僧へ帰依するということは, 四諦八正道のみ教えを実践し, 六
波羅蜜の蜜行を実践することである.
仏教においては仏法僧を三宝といって崇拝している. 真如苑にお
いては仏法僧を一体のものと考え, 三宝一体としての仏法僧に帰依
する. これを真如一如といい, 涅槃原理によってこれをみ教えの中
心におく. これを讃題として表し, ご讃題「南無真如一如大般涅槃
経」をお唱えすることによって救われるとしている.
私は生きる意欲, 力が湧き出してくるような力を信仰に求めてい
るのである.
お釈迦様のみ教えが偉大であるのは, 人が生きるということの本
当の意味を悟り, 人がどのように生きるのが良いかを示されている
からである. 自分のことにこだわっていない. お釈迦さまはみ教え
の歴史を説かれなかった. 人の生きる道のみを説き示されている.
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信仰によって, 自分の生き方, 考え方の心の柱が立つことである.
これによって正しい生き方, 考え方の基本ができるということである.
み教えを信者全員で支えている. お寺の仕事では役割分担して共
同してお寺の仕事を支えている. これはご奉仕である. 信者はみ教
えを支えている. 信者はみ教えによって生きる道を見い出し生かさ
れている. 「私の教え」にこだわりすぎている.
真如教法を基盤としている接心修行は, それによって仏のみ心に接
し, 仏の慈悲に救われていく. ここに真如苑独自の密教精神がある.
仏の慈悲と救いとを現代に即応して涅槃原理で具現したのが真如
苑のみ教えである.
西欧文明, 西欧哲学は物質世界と精神世界の分裂と対立を生み出
した. 今私が考えている哲学は物質世界と精神世界の調和と融和の
復活である. 世界平和の実現のことである.
入信して教えを歩みはじめている人に対して教令輪身のような仕
方で導くのは誤りである. 寛容の心で, 広きこころを用いて導くの
が良いと思う.
やさしく, あたたかく接することが大切である.
護法善神様は人間界にあって, 一番身近にあってその人一人を守っ
て下さる神様である. 24 時間見守っていて下さる. 良い事をすれば
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それだけ恩恵を受けられる. 教えにはずれたことがあると覚醒があ
る. すぐに両童子様ではなくてその間を取り持つ神様である.
「天地調和」というのはどういうことをいっているのであろうか.
心あるいは精神に関することは形がないから, それをことばで表
現したとき, それを読んだり, 聞いたり, 見たりした人がそれによっ
て表そうとした表現意図を正しく受け取って, 正しく理解すること
は大変難しい. あたかも抽象芸術の抽象的表現のように, それを受
け取る人が表現者の表現意図を正しく受け取り, 正しく理解するこ
とが難しいのと同じである. 特に, 日本では「見立て」ということ
が行われる. 石をご神体と「見立てる」ことによって, その石は特
別な意味をもち, 神聖な存在と考えられるようになる. このように,
様々な表現方法がある. 宗教的表現の分かりにくさの一つはこのよ
うな表現方法にあると思われる.
石をご神体に見立て, 神聖視したり, 護摩の法によって煩悩を滅
し, 三業三毒の浄化をするということは, そのこと自体に霊力があ
るというより, このような象徴的表現によって伝えられるメッセー
ジによって人の心を立て替えて, 心を清浄にすることに意味がある
のである.
宗教は清浄であること, 清らかであること, 汚れのないことを最
も大切にする. 純潔, 処女性ということもその一つの象徴である. 純
潔だけを問題にするのではない.
命の誕生の不思議が出発点にある. 命の誕生を神秘的な事象と受
け止め, 天の恵と考え, それを継承していくことを最も大切なこと
と考えた. ここに, 先祖崇拝の考えがあり, 宗教へと結実していく.
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放逸であることと正法護持の心は両立し得るのであろうか. 正法
護持の心がなければ常楽我浄の境涯に生きられないとすれば, 放逸
な生活をしない方が良いということであろう. 純潔の問題もこのよ
うな心の働かせ方と結び付けて考えればあるべき方向が見つかるよ
うに考えられる. 興味本位の議論は混乱を招くだけで真の解決は得
られない.
心の浄らかな人しか入信が許されないとすれば, 信仰し, 修行する
ことによって心を浄化するということは問題ではなく, 入信するこ
とははじめから無意味なことである. 三業三毒の浄化が入信し, 修
行することの目的であるとすれば, 業深き人こそ入信して, 修行す
る必要があるのではないだろうか. 入信するということはそのよう
な覚悟が必要であるということである.
薬や手術によって治療しなければならない病気は医師によってし
か治すことはできない. これは信仰とか何とかには無関係である.
仏のみ教えによって治そうとしているのは煩悩の病であり, 心の病
である. 仏教の信仰の力によってもできることとできないことがあ
るのは当然のことである. 心に仏を念ずる人は人をいじめたり, 傷つ
けたりする考えを持つ余地はないのである. 合掌する手は人の物を
盗んだり, 人をたたいたりしないのである. これが信仰の力である.
仏教でいうところの「病」というのは現在の医学を修めた医師が
治療するような「病気」とは異なっていたと考えられる. 医王とし
てのみ仏が治そうとしたのは, 「煩悩の病い」であり, 「諸の毒箭」
を抜くことであった. すなわち, み仏が衆生を救うということは, 無
知無明を因とする諸々の煩悩の苦しみを克服することであり, 我欲
など様々な悪因縁に執着する心を解き放つことであった. 悪因縁か
ら遠離することであった.
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転生出離し, 懺悔し, 三業三毒の浄化のために修行し, 精進するこ
とが大切である.
土台がしっかりできていないと大きな建物は建たない.
大般涅槃経による仏教に転生してしまえばまだ助かる道はある.
三業三毒を浄化するための修行をし, 信仰生活をする覚悟なしに
は入信することの意味はあまりはっきりしない.
覚悟をもってとりくむ.
信心は仏性を磨き, 仏性を輝かせる.
「正法の護持あるのみ」ということである.
「護法の精神というものを我が心として歩む」.
仏教にもとめるものは次のことである.
お釈迦様のみ教えを説いた経典について学ぶこと. そのための講
話を聴くこと.
お釈迦様のみ教えを指針として日常の生活を行い, 職場の規律に
従って仕事をする. 仕事をすることは世のため人のためである.
仏教徒としての規律を守り, 正法護持に努めることである.
「真如苑の接心修行は, この個々のこころを, 自己本位からみ仏本
位, すなわち大乗利他の道へ立て替えていく修行です」.
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「天部の神々の観念を深めるとは自分の力を出し切ることなので
す. 人間以上の力を出し切っていく. これが護法の精神なのです. 」
「人間界に一番近いといわれる天部の神々は汚れすなわち不浄を
嫌う」. 故に, 三業浄化と護法善神というのは「自分の心と行いの
汚れの浄化の大切さを教徒に教えるためのもの」である.
「正法護持の心と行いが肝心」である.
「護っていただくだけの信仰」は初信の人を導く方便と考えら
れる.
み仏の教えは損得抜きの教えである. ただ正法護持あるのみであ
る. 自分の心の迷いがなくなり, 安心できれば良いのである. 損得
勘定は迷いのもとである.
日々の生活において行うこと, 考えることに迷いがなくなり, 心
安らかに, 安心して取り組めるようになることを目指す. そのため
の心の柱となるのが信仰と仏の智慧である.
相手の思いをくみ取るように対応する. 相手が伝えたいというそ
の思いをサインや所作として表現している. それを読み取ることも
必要で大切なことである.
難行・苦行の意義は困難に耐える忍耐力や困難に立ち向かう意志
力を鍛えるところにある. しかし, それだけでは悟りの智慧を得ら
れない. 瞑想し, 正しく考えることが必要である.
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困難に耐える忍耐力や困難に立ち向かう意志力を鍛えることは,
困難な仕事を達成するために努力することによっても行うことがで
きる.
お釈迦様の教えに, 正見, 正思, 正語ということがる. 見たり, 聞
いたり, 感じたりしたことを正しく考えて, 正しく理解し, 正しいこ
とばで正しく表現することが大切である. 正しい正確な知識が正し
い判断の根拠である.
縁起の法のいうところによれば, 「此れあるとき彼あり, 此れ生
ずるにより彼生じ, 此れなきとき彼なく, 此れ滅するにより彼滅す」
とある. 無明によって苦が生じ, その滅に至る縁起の法である.
お釈迦様は僧の資格をもっていない. それにもかかわらず多くの
人を救っている. 人を救うために資格がなければならないと決まっ
ているわけではない.
お釈迦様はテストを受けて仏になったわけではない. お釈迦様の
説法が人々の苦悩を解決し, 人々を救うことができたから, 人々に
よって仏として尊敬されるようになったのである. 人が生きる上で
何が本当に大切なことかよく考える必要がある.
一般に在家仏教徒が僧階を得る必要はない. 僧階というのは出家
者の位である. そこは, はっきりと区別しておく方が良い.
出家者と在家教徒は役割の違いである. 身分を差別するものでは
ない.
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一般の在家仏教徒は 2 年間位に集中的に仏教の教えについて学び,
修行する時間を持つ. その後は, その教えに従って日常の生活をし,
職場の規律に従って働く. 修行と言って長々と同じ事を繰り返す必
要はない.
宗教家として僧職につく人とは別の修行があってよいのである.
宗教家として僧職につく人はさらに深く修行すればよい.
在家も出家も同じ修行をする必要はない.
これは在家の修行と出家の修行を両方とも修めようとするひとを
とめるものではない.
社会即道場, 生活即修行. 社会にあって, 日常の生活を日々に行う
ことが仏道の修行であり, 仏道に従って生活するのである.
お釈迦様の説かれた経典はわからないからといって切り捨ててし
まうのではなく, その経典に書いてあることをわかるまで考え抜く.
その上で, 今の社会に生き残るものとそうでないものを区別して, い
いものは生かしていく. そうしないと, お釈迦様のみ教えを本当の
意味で相承したことにならない.
人々が仏のみ教えを護って生きている社会, 正法護持して平和に
生きている社会を仏国土という. 仏道修行の目的の一つは, そのよ
うな仏国土をこの世に顕現するように精進して生きていこうという
ことである. それは, 誰かが誰かの奴隷となるような社会ではない.
人の命の器である心身を傷つけるような社会ではない.
集団として協同行動することは奴隷としてはいつくばって生きる
こととは違う. 互いに相手を尊重し, お互いの力を生かし合って協
同することである.
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仏を念じ, 正法護持の一心で生きている.
仏法僧に帰依する. その法は, 般若心経と法華経と大般涅槃経で
ある. 中心は大般涅槃経である. 心経は根本経典の一つである. こ
のような新しい仏教があればよいと考えられる.
信者は仏の前に皆平等である. 経験の違いによって指導者となり,
弟子となる. 皆同じ仏弟子である. 皆仏教徒である.
一人の仏弟子としてその人格は尊重される. 誰かが誰かの土台で
あったり, 奴隷となるようなことはない. 一人一人が独立した仏弟
子として協同し, 仏のみ教えを相承し, 伝承していく.
仏法僧を信じているという一心で心安らかに生活できるという救
いがある.
信心の生活において大切なことは, 心に仏を念じつつ, 生かされ
ていることに感謝し, 生活し, 仕事をしていくことである.
心に仏を念じつつ, 五戒を受持し, 一日に一度の読経をし, 正法護
持の生活をする. これが私の信仰生活である.
現在社会において生きるとは何か. 仕事をして働くことをしない
で生きることなど考えられない. 信仰という生き方と仕事の関係は
どのようにあるのが良いのであろうか.
信仰によって, 正しい考え方, 正しいものの見方の柱を立て, 筋を
通すことができるようになる.
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信じて祈るは, 心中に無形の仏を刻むことと知るべし
病気で長期の入院をしている人や死を前にした患者に対して仏教
の教えとは何であろうか. 三つの歩みだけを強調する教えにとって,
このような場合にどのような救いが可能であろうか.
苦の因をたやすために出家するのである
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