福音を恥とは思わない ローマ人への手紙1章16節~17節 2015年10月

福音を恥とは思わない
ローマ人への手紙1章16節~17節
2015年10月25日(日)礼拝説教
皆さん、お早うございます。
神場兄弟が植えて、くださったのに、あの、八月の猛暑の時には、瀕死の、状態で、あった、教会の入口のスロープ
の脇に、育っている、菊の花が、遂に、開花、いたしました。
この菊の花を見ておりますと、何やら、私たち、クリスチャンの、歩みを、彷彿と、させるものが、あります。
今から、丁度、102年前、1913年、大正2年の10月に、内村鑑三が講演した内容を、一寸そのまま朗読させてい
ただきます。‶よくあることですが、少し学問の上から、「キリストによらずに、いかにして、ほんとうの救いに、入れる
か。」などと、言われますと、神は、論理から考えても、無からざるべからずと、すぐに、感服して、マア、学校にいる
間は、キリスト信者である。ところが学士になる、地位ができる、他から誘いが来る、キリストの御名を、となえると、
不便ができてくる。キリストの福音が恥ずかしくなってくる。さかずきを、さされて、理屈をつけて、一口飲む、そのう
ちに、キリストの福音は、いずれかにやってしまい、「私ももとは、教会に、行きました。」というようになるのでありま
す。″
2015年に生きている、私たちの中で、一体、何人の方が、職場や、地域の集まりの時に、‶私は、クリスチャンで
す″と、胸を、張って、仰って、おられるのでしょうか。
私たちの教会の、祈祷会では、現在、新約聖書の、使徒の働きを、読み進めておりますが、それが、来年早々には、
読み終わりそうです。読み終わった後は、ローマ人への手紙の聖書研究に入って行くことに、なっております。今日
は、その、予告編として、ローマ人への手紙の、中心的な、聖書箇所を、紐解きながら、福音って、そんなに、恥ず
かしいものなのか、どうか、ご一緒に、考えて、まいりたいと、存じます。
初めに、ひとこと、お祈りさせて、いただきます。
父なる神さま、御子イエスさま、聖霊なる神さま。八月の猛暑の、さなかには、ほとんど死にかかっていた、教会の
菊の花が、遂に、開花いたしました。感謝いたします。今日、私たちは、これから、ローマ人への手紙を通して、福音
は、
本当に、恥ずかしいものなのか、どうか、ということに、ついて、学んでまいります。どうぞ、あなたが、ご一緒して、
ください。 感謝して、イエスさまの尊い御名前によって、お祈りいたします。
アーメン。
ローマ人への手紙1章16節。
私は福音を恥とは思いません。 福音は、 ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、 信じるすべての人に
とって、救いを得させる神の力です。
‶福音を恥と思う″とは、一体、どういうこと、なのでしょうか。私たちが、自分を、恥と思う場合、たいがいの場合は、
‶私と私の言葉の、本当の値打ちを、裏切る・割引をする″ような思いに囚われてしまっているようなことが、多いの
では、ないでしょうか。パウロは、ギリシャのアテネでは、馬鹿にされて、随分、厭な、恥ずかしい思いを、させられ
ました。今、コリントから手紙を書いて、その手紙を、コリント教会の女性役員である、フィベが、ローマへ旅立つに
当たって、彼女に託そうとしている、パウロは、自分も、近い将来、花の都・ローマに、行って、みたいものだと、思っ
ておりました。大都会・ローマに行ったら、何とか、都会的なセンスで、福音を語ってやろうとか、或いは、時代のトッ
プを行く、ローマなのだから、新しい時代の感覚で、斬新的な福音を、語ってやろうなどと、いうことは、考えなかっ
たのです。それが、実は、‶福音を恥と、思わない″ という、御言葉の、本当の、意味なのです。
何故、そう、思ったのでしょうか。その理由として、御言葉は、第一に、福音は、力であると、私たちに、語りかけてお
ります。
‶神の国は、ことばには、なく、力に、あるのです。″と、コリント人への手紙第一4章20節に、記されております。
‶力″という言葉は、‶ダイナマイト″の、語源となった言葉です。トンネルの工事をする場合、小さなダイナマイトで、
堅い岩石を一瞬にして、砕くことが、出来ます。それが、福音なのです。
それに対して、倫理・道徳は、‶つるはし″で、地道に、堅い、岩石に、穴を開けようとして、努力、しているような、も
のです。
第二に、福音は、‶神の″力で、あると、御言葉は、語ります。‶人の力″では、ありません。‶神の力″すなわち、イ
エスさまの力なのです。私たちは、ただ、イエスさまの福音宣教の、お手伝いをするように、召されているだけの者
なのです。決して、決して、‶福音は、力なのだから、そのパワーを、皆の前に、ご披露して、皆に、ひとあわ、吹か
せてやらなければならないのだ。″などと、力んで、しまっては、いけないのです。
第三に、福音は、‶救いを得させる″、神の力なのだと、御言葉は、私たちに、語りかけて、おります。ここに記され
ている、‶救い″とは、一体、何なのでしょうか。‶救い”とは、ただの悔い改めを意味する言葉では、ありません。
‶救い”とは、私たちが、現在、生活させていただいている、この世界に在っては、罪に死んで、イエスさまに在って、
生きて行く。
私たちが、どうしても、イエスさまに背を向けて歩んでしまいたくなってしまうという、罪の性質を、イエスさまの十字
架の赦しという、コートで、すっぽりと、私たちの全身を、覆っていただき、すなわち、罪赦され、罪の性質から救わ
れて、イエスさまに在って、イエスさまからプレゼントされている、‶永遠のいのち″の道を、歩み続ける、という、こ
と、なのです。
第四に、福音は、‶信じる、すべての人に、とって″救いを得させる、神の力なのだと、御言葉は、私たちに、語りか
けております。真の、唯一の神さまから選ばれた、ユダヤ民族だけでは、なく、私たち、日本人のような、人種や、住
んでいる地域を、問わず、イエスさまを、主また救い主と信じて、心の中心に、お迎えしている、すべての人々に対
して、イエスさまは、‶十字架の恵みを、豊かに、与えて、いて、くださって、おられるのです。″
ローマ人への手紙1章17節。
なぜなら、 福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるから
です。 「義人は信仰によって生きる」 と書いてあるとおりです。
法然や、親鸞が、始めた、浄土宗の、他力本願と、福音とは、似ているように、見えますが、本質的な、点において、
異なっております。それは、浄土宗の根底に流れているものが、慈悲であるのに対して、福音の根底は、真の、唯
一の神さまの、義の上に立って、イエスさまの、慈悲が、築成されている、点です。‶神の義″とは、神さまから、人
間に、与えられる義、そして、神さまから、あらわされる、義であって、人間の側の努力の産物である、‶人の義″で
は、ありません。人間は、自分の行いや、功績によるのではなく、ただ、信仰によって、神さまから、義と、されるの
です。
すなわち、神さまの義を、信仰によって、受けるのです。そして、その、信仰によって、受け入れた義を、持続する道
は、ただ、信仰を、保つ、のみ、なのです。信仰によって、義とされた後の生涯は、ただ、信仰によって、聖められ、
信仰によって、保つのです。それが、‶福音の うちには 神の義が 啓示されていて、その義は、信仰に 始まり
信仰に 進ませる″という、御言葉の、意味で、あるのです。
それでは、‶義″というのは、一体、どういうこと、なのでしょうか。
私たち人間は、真の、唯一の、創造主であられる、神さま、イエスさまとの、関係において、正しい、ことが、求めら
れて、おります。イエスさまに、背を向けて、歩みたくなって、しまうという気持ちが、心の奥底から、湧き上がって来
る、状態を、‶不義″すなわち、‶罪″と、聖書では、呼んで、おります。
‶啓示されていて″とは、一体、どんな、意味なのでしょうか。それは、‶覆いを、取られて″という意味です。
永い間、真の、唯一の神さまのうちに、秘められていた、事態が、今や、明らかに、された、という、こと、なのです。
どのように、して、でしょうか。イエスさまの、十字架と、復活において、明らかに、されたのです。
‶義人は、信仰によって、生きる。″とは、一体、どんな、意味なのでしょうか。それは、‶世の終わり″という、或い
は、‶おひとり、おひとりの、人生の、たそがれ時″という、危機的な、状況に、在って、イエスさまに、信頼を、寄せ
る者、すなわち、‶義人″は、生きるであろうと、いうこと、なのです。
誰でも、いずれは、自分の人生には、終りが、やってまいります。その時に、又は、そこに至る、過程において、いろ
いろな事に、心煩わされていても、この御言葉を、この、ビジョンを、見上げてまいりましょう、という、ことなのです。
お祈りさせて、いただきます。
父なる神さま。御子イエスさま。聖霊なる神さま。御言葉を、ありがとうございました。あなたの、ご栄光を、賛美いた
します。 私たちは、ついつい、恰好を付けて、福音を、別のものに、すり替えて、語ってみようとしたり、或いは、福
音を恥じて、隠れキリシタンに、なろうとしたりする、弱い者です。どうぞ、そんな、弱い、私たちのために、あなたが、
十字架に、架かってくださり、それによって、真の、唯一の神さまの義が、明らかに、されたのだ、という事実を、しっ
かりと、受け留めて、今週、一週間も、イエスさまからプレゼントされている、永遠のいのちの道を、歩み続けること
が、出来ますように、弱い、私たち、ひとり、ひとりを、励まし、導き、支えて、ください。
感謝して、イエスさまの、尊い、御名前によって、お祈りいたします。
アーメン。