昭和30年代の古典教育の考察 - ASKA-R:愛知淑徳大学 知のアーカイブ

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昭和30年代の古典教育の考察
―経験主義から能力主義への転換を視座に-
A Study of Classic Education of the Showa 30s :
The Conversion from the Empiricism to the Meritocratic
中 嶋 真 弓
Mayumi NAKASHIMA
1.研究の目的と方法
教育実践には、社会状況、教育界の思潮、『学習指導要領』の改訂、さらには指導者の教育観・
指導観等多くのことが介在し反映してくる。そこで、本稿では、昭和30年代の古典教育が経験主
義から能力主義への転換、『学習指導要領』の改訂という変革の中で、どのように実践されたか
を史的に捉えることを目的とする。方法としては、時枝誠記、国分一太郎の経験主義に対する言
説、「系統的」の捉えを整理し当時の思潮をみた上で、能力主義が主流となるその状況下におい
て経験主義の教育観を具現する単元学習がどのようになされたかを大村はま実践を中心に考察す
るものである。先行研究としては、日本国語教育学会編『国語単元学習の創造Ⅰ理論編』
(東洋
出版
2010.8)
、田近洵一『戦後国語教育問題史増補版』
(大修館書店 1999.5)
、河野智文「昭
和二十年代における国語単元学習批判論の再検討」(『兵庫教育大学第2部言語系講座』2000.9)
、
渡辺春美『戦後における中学校古典学習指導の考究』(溪水社
2007.3)
、坂東智子『大村はま古
典学習指導の研究-具体像の解明と歴史的・現代的意義づけ-』(博士論文 2012.3)等がある。
しかし、経験主義の批判から単元学習の実践を捉えたものはみられない。そこで、本稿では経験
主義批判の状況下での古典教育を視座に考察する。なお、本稿で扱う古典は古文とする。
2.昭和30年代の教育の特徴
2-1.経験主義から能力主義への転換
昭和35年度高等学校『学習指導要領』
(以後35年度版と記す。また、昭和31年度高等学校『学
習指導要領』は、31年度版とする)は、
「現代国語」
(必修)を新設するとともに、「古典に関す
る科目」として「古典甲」・「古典乙Ⅰ」
(いずれか1科目必修)、「古典乙Ⅱ」を設け、4科目
とした。35年度版改訂前の昭和33年に、小学校・中学校『学習指導要領』(以後33年度版とする)
の改訂が行われている。33年度版(中学校)を見ると、今まで中学校3年にしか見られなかった
古典の文字が全学年に登場している。中学校の古典の位置づけ、高等学校の「古典に関する科目」
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愛知淑徳大学教育学研究科論集
第5号
の分離を考え合わせると、昭和30年代は、古典教育にとって大きな転換期だといえる。さらに、
昭和30年代は、経験主義から能力主義の転換期と言われ、能力主義、系統的な学習等の文言で示
されることが多い。渡辺春美は1951(S26)年から1999(H11)年版『学習指導要領』を(1)経
験主義、
(2)能力主義、
(3)言語活動主義の3つに分け、(2)能力主義について「1955年版
からの古典教育は、次第に能力主義的な傾向を強めていった。その展開を、定位(1955年版)→
展開(1961年版)→充実・停滞(1970年版)」1としている。また、田近洵一は、35年度版を改訂
3期とし「系統主義への転換期―能力主義国語教育への模索の時代―」2と位置づけている。昭
和20年代の経験主義による学力低下の批判を受け、昭和30年代は能力主義における系統的な学習
が盛んになったというのが一般的な捉えである。そして、能力主義、系統的な学習は、経験主義、
単元学習と対置するものとされることが多い。
経験主義批判の代表として挙げられるのが、時枝誠記である。時枝誠記は、昭和20年当初から、
経験主義の考えを厳しく批判している。31・35年度版において作成委員会委員長を務めた時枝誠
記は、35年度版について「新『要領』
(31年度版を指す
引用者補足)全体の組織が、国語学力
の分析を眼目として編成されていることは明らかに単元学習に対する批判を意味すると同時に、
今回の三十五年度の改訂における系統学習を示唆していると見なければならない」3と述べてい
る。これらの改訂によって、系統的な学習の考えが、小・中・高等学校一貫して打ち立てられた
ことになる。桝井英人4は、「能力主義=時枝主義はデューイ流の経験を完全に押し流すかたちで
不可逆の潮流となる。」と能力主義=時枝誠記の構図を示している。それでは、時枝誠記の批判
は、どのようなものであったろうか。次に整理してみる。
「戦後の経験主義の国語の学習・指導
は、生徒に国語的実践の経験を与える教育であって、実践的技能の教育を目ざしたものではなかっ
た。」5、「能力は、経験に即して錬磨されるのであるが、与えるべき主目的は、経験ではなくし
て、能力であり、能力を与えるための経験であるということになる」6、「学校は(中略)社会に
おいて遭遇するであろうと予想されるすべての経験を与えるところではなく、将来、経験を処理
することが出来るような基礎的な能力を教育するところである。
」7としている。経験主義への批
判として、経験・能力について言及しており、学校教育が基礎的な能力育成の場であるとしてい
る。また、時枝誠記は古典について「文法は、古典に近づける手段として編成を考慮する」、「(古
典教育は現代語の教育とは違うために
引用者補足)古典を独力で読みこなすことが出来る能力
の養成といふことを目標とすることはない。ここでは、教材は、読むべき標準的な範囲を示すも
のとして、予め精選されて与へ」8としている。しかし、持論は述べているものの、具体的な能
力分析や指導法については言及していない。
時枝誠記同様、国分一太郎も、批判的な立場を取っている。国分一太郎は、飛田隆との対談の
中で、
「方法(経験を与えること
引用者補足)が目的になってしまっている。」(p28)
、「体系
的知識をどのように与えるか」
(p28)
、「順序を経た計画的な、意図的な、指導をする学校教育
の中の国語教育」
(p30)9と主張し、国語や文字についての知識を授けるよりは、読むこと、話
すこと、聞くことの活動を活発にさせる経験主義に対して本末転倒と批判し「読み・書き」中心
の国語教育を提唱した。国分一太郎が考える知識の中心は、「文字の書き方・日本語の単語の意
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味・語法」
(p31)である。さらに「大きな単元を一ヶ月も続けるようなのにはむしろ反対で、
価値ある狭い話題をめぐって書かれた文章を(中略)順序立てて(中略)ていねいに指導」
(p32)
して行くことが大切だとしている。国分は、「『よみ・かき・算』を基礎学力として位置づけ、『読
み・書き』能力を『武器』として、文章から『知識』を得ること、また『国語の語い・語法の体
系を理解させること』」10の重要性を説く構えから、経験主義ではそれがなされていないことを指
摘するのである。この対談で、国分一太郎は「経験主義という考え方に対立するものとして能力
主義」を考えることは反対とした上で、
「ただ経験によりそいさえすれば、ひとりでに子供たち
に国語の力が身について行くという考え方に対立するものは、やはり体系的な知識をどのように
子供たちのものにして行くかという、『知識の体系主義』が対立すべきだ」11と述べている。国分
一太郎にとって能力主義が先にあるのではなく、
「語い・語法」の体系化・系統化がなされてい
ないという考えが能力主義にあてはまるとみた方が妥当であろう。時枝誠記と国分一太郎の批判
についてみてきたが、2人の主張には重なりがある。それは、①経験と能力の問題、②能力の体
系化・系統化の問題、③能力の分析の問題、④学力低下の問題である。
2-2.系統の捉え
鎌田正は、35年度版古典についての座談会で「系統」の解釈の曖昧さを指摘している。鎌田正
は、教科構造が現代国語と古典に分離したことですっきり系統的に学習できること、「古典乙Ⅰ」
それ自体においても系統的学習が存在することを挙げ、どのようにでも解釈できるというのであ
る。12この質問を受けて当時文部省教科調査官であった藤井信男は、「今のお話のように従前の高
等学校の国語科の諸科目のありかたと、今度の科目のたてかたとを比較してみたり、さらに中学
校との関連から指導事項も分析できていて指導が効果的にできると考えたりすることも系統性が
ある」13と応えている。この藤井信男の文言から、①教科構造の系統性、②各科目独自の系統性、
③中学校との系統性の3点から捉えていることが分かる。藤井信男の「考えたりすることも系統
性がある」の文言からは、受容する者によって多様に解釈できるということをうかがわせている。
それでは、「系統的」ということばがどのように捉えられていたかを、35年度版および当時の
雑誌からみていくこととする。
先ず、35年度版『高等学校学習指導要領解説(国語)』に、系統がどのように記されているか
を、古典の部分から挙げてみた。
・2科目(
「現代国語」と「古典に関する科目」を指す
引用者補足)にしたことは、指導を
系統的にする上にも効果が多い。(p8)
・(「古典乙Ⅰ」の
引用者補足)指導の内容も、古文と漢文とに分け、作品の背景やことば
のきまりなどにもふれながら学習を系統的にさせる(p65)
・指導計画を立てるにあたっては、
(中略)生徒の発達段階に応じて、系統的に学習できるよ
うに配慮する。教材を易から難へ、簡単なものから複雑なものへと、形態別、作品別、時代
別などを考慮したり、学習段階をじゅうぶん考慮して、総合的な取り扱いや分析的な取り扱
い、また、程度の深浅などについても適切にしたりなどして、順序に従って秩序ある無理の
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ない学習を系統的にさせるようにする。(p80)
(下線、波線とも引用者による。)
上記のことから、「系統的」であるための要件として、次のことが挙げられる。
◆教材について・・・(1)難易
(2)簡単・複雑
◆指導について・・・(1)教科相互の連関
(3)形態別・作品別・時代別
(2)学習段階
(3)総合的・分析的
(4)程度の深浅
それでは、「順序に従って秩序ある無理のない学習」とは、どのようなことであろうか。時枝
誠記の文言からみていく。時枝誠記は、
「学校は、種々な経験や知識や実践に、予め一定の秩序、
段階を設けて、易より難に入るように配列されることによって、始めて、その目的を達成するこ
とが出来るのである。今回の改訂に当たって、系統学習ということがうたわれるようになったの
は、(中略)経験学習の批判に根ざしていると見ることが出来るのである。(中略)経験、知識、
実践等に、秩序や段階を設けるには、その前提として、それらが完全に分析されている必要があ
る」14と述べている。時枝誠記は、論文中に「秩序や段階」を多く用いている。時枝誠記が35年
度版の作成委員長であったことから、35年度版にある「順序に従って秩序ある無理のない学習」
という文言は、時枝誠記の考えが反映されているとも考えられる。ここでの解釈は、「経験や知
識や実践に、秩序、段階を設けて、難易の序列に従って学習が行われるようにしていくこと」
、
すなわち「系統的な学習」を行うことと捉えることができる。つまり、経験は「能力の段階に従っ
て、適切に配分組織されるもの」15で、ただ与えるだけでは教育ではないとするのである。時枝
誠記は、国語の能力を培うために、経験、知識、実践等を分析し、計画的、意図的な指導が必要
であり、そのためには能力も含めて、完全なる段階を明瞭にする必要があるというのである。し
かし、前述したように時枝誠記は、その具体的なものは示していない。
次に、35年度版を受けて、「系統的」がどのように捉えられていたかを、『文学』、『国文学解
釈と教材の研究』、『国文学解釈と鑑賞』、『国文学言語と文芸』の4雑誌からみていく。4雑誌を
対象としたのは、当時の35年度版の特集を組んでいることによる。各雑誌における「系統的」の
内容に関わるものを挙げてみる。なお、以下の下線は引用者によるものである。
(a)
『文学』岩波書店
1960.8
・(益田勝実):文語文法を体系的に系統的に教えることが前提(p78)
(b)
『国文学解釈と教材の研究』學燈社 1960.12
・(渋谷宗光):言語と文学に関する知的な理解も系統をもって指導(p24)
(c)
『国文学解釈と教材の研究』學燈社 1961.1
・(宮崎健三):(35年度版「古文乙Ⅰ」の指導事項について触れた上で、特にエについて述
べている
引用者補足)エは、古文読解の技能を分析した場合のもっとも常識的な要素とし
ての語句の修辞である。系統的な学習にはこの項目とキの項目(文語のきまり)をどのよう
に効果的に計画・実践するかがポイント(中略)指導事項の整理・系統化はいっそう必要(p
59)
・(宮崎健三):乙Ⅰは系統的に学習することを目ざしているから、文法や文学史の指導も系
統的に学習することを目ざしている(中略)どこまでも古典の読解に即して系統的な指導を
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する(中略)指導内容を十分に精選しなければならない。
(中略)教材を時代別に、また形
態別に把握する行き方も一種の系統であろう。(p61)
・(小谷野藤寿):系統的ということばは、いろいろな意味に解されるので問題にされること
が多い。(中略)複雑なものへ、低度なものから高度なものへというようなものもあり、内
容の「古文」(2)にある活動に示されたジャンル別、また時代別などの点が考えられるが、
これが相互に関連することを認めた上で、順序や秩序に従った学習指導であると考えたい。
(p65)
(d)
『国文学解釈と鑑賞』至文堂
1962.6
・(宮崎健三):(
「古典乙Ⅰ」発行教科書21社を対象にした分析16
引用者補足)教材の配列
(1)時代別 (2)書目別 (3)文学領域別 (4)総合的単元別(p77)
・(宮崎健三)
:教材の排列そのものが系統学習の考えから割り出されることであるが、文法・
語彙・修辞の面はもとより、古典内容の受容についても、こまかいしくみを工夫するように
努めたい。
(p78)
(e)『国文学言語と文芸』明治書院
1965.7
・(益田勝実)中世・近世の散文系統(p67)
宮崎健三は、
「古典乙Ⅰ」の指導事項と教科書から分析し、「系統的」にするために指導事項の
整理・系統化、指導内容の精選が必要としている。また、教科書分析からは、「系統」をはかる
ために「教材配列」や「文法や語い」
「文学史」の指導の工夫が大切だともしている。これらは、
2-1の経験主義批判である「語句やことば」を中心とした「系統的」と呼応しているといえる。
そして、これらの解釈は、当然のことながら教科書にもみられる。
「三十八年度高等学校国語教科書一覧」17と教科書から特徴をみていく。35年度版対応教科書
「古典乙Ⅰ」の検定教科書21冊を対象にみると、(1)教材配列、(2)冒頭単元、(3)文語文法
の3点から特徴が見えてくる。(2)冒頭単元、
(3)文語文法に触れておく。(2)冒頭単元の
工夫では、教科書最初の単元が、「古典の意義」・「古典入門」・序論・「古文入門」ではじま
るものがある。学習者に古典学習の概要を把握させるねらいがあると思われる。これも、学習内
容を体系的・系統的にする工夫と考えられる。(3)文法事項・語句の扱いでは、35年度版では、
文法や文学史の扱いについて「取り立てて指導するのではなく、古典を読む中で必要かつ基本的
なものを重点に指導する」ことから、教科書には「品詞論から文法まで、随所に挿入した小設問
により発展的に配列」
、「各単元の終わり・効果的と思われる箇所・相当する位置」
、「『文語文法
のあらまし』
『ことばの研究』の設定」という形式で採録されている。読解に即して適当に配置
することによって、文語文法の体系化をはかったのである。
以上、経験主義への批判、系統的の捉えをみてきたのであるが、何をどのようにといった具体
的なものが明瞭でないように思われる。教材配列を例えばジャンル別にすることが学習者にとっ
てどのような能力を育てるのに役立つか、学習として意味があるのか等々を具体的にしていかな
ければ教育現場での実践に結びつかないのではないだろうか。
ここで、再び時枝誠記の言説を振り返ってみるが、能力の段階に合わせた経験や知識等を設け
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る学習をする必要性を時枝誠記は主張するが、能力の分析、経験、知識の分析観点が明確でない
ために、教育現場ではどのように実践したらよいか迷う事態となるのではないだろうか。
「系統
的」という文言は、教育界に蔓延したが、その内実は、各自がそれぞれの捉えで解釈したり、文
法的な部分のみに着目したり、さらにはドリル学習的な活動に終始したりしていくのではないか
という危惧が生じる。桑原隆は、「単元学習」の中で、「単元学習の系統性は、言語要素的な系統
性を中心にはしない。系統性への見方は、複合的で柔軟である。」18と述べているが、能力主義に
みる系統もある面ではで「複合的で柔軟」といえるのではないだろうか。前述した飛田隆と国分
一太郎との対談の中で、国分一太郎が「能力主義という仮の言葉をつかっている場合には、反復
練習とか訓練みたいなものを重視するというのではなくて、何かもっと子供たちの身について、
ほんとうに役立つような国語の力(中略)というように解釈されているわけですね。」19と質問し
たことに対して飛田隆が「そういうわけです。」と答えるやり取りがあるが、見方を変えれば、「能
力主義における系統」が理解されないまま、反復練習、訓練、ドリル的な方法のみが強調され、
受容された内実をここに見ることができるのではないだろうか。
倉澤栄吉は、時枝誠記の「今日の学校教育とは、ある時期に最低限のものを子どもに与えなけ
ればならないことである。したがって経験は大切にちがいないが、人生において必要な経験を学
校で与えなければならないという理論は正しいかどうか、私には疑問である。
」という意見に対
して、「能力主義ということは経験主義的方法に流れた言語教育の方法にたいして、能力という
“目あて”をしっかりつけるという主張であると思われる。(中略)国語教育は、今日問題にされ
てきた能力主義という批判に応えて、経験主義教育をさらに深めようという態度にならなくては
ならない。(中略)実践をくりかえすその場が問題であると思う。そのような場で、どのような
経験を与えるかを考えなければならない。」20と述べている。適切な経験を、どのような場で、さ
らにはどのように与えるかについては課題となることだと自ら捉えているのである。
経験主義への批判、系統的の捉えについてみてきたのであるが、能力主義の不明瞭な部分、そ
して、経験主義が批判に応えながら教育観をより確かなものとしようとしている内実が見えてき
た。
それでは、経験主義批判の中で、その教育観を具現する単元学習がどのようになされていたで
あろうか。大村はまの実践を中心に、考察していく。当然、大村はまも当時の経験主義、単元学
習への批判は認識していたであろうし、それに応えるべく日々の実践にあたったものと思われ
る。そこで、前述した経験主義への批判①経験と能力の問題、②能力の体系化・系統化の問題、
③能力の分析の問題、④学力低下の問題の中で、特に②能力の体系化・系統化の問題、③能力の
分析の問題を中心に考察していくこととする。
3.大村はま「古典へのとびら-古典に親しむ-」の考察
3-1.本単元の概要
経験主義への批判、31・33・35年度版における能力主義、系統的な学習への方向転換、これらの
状況下で大村はまは、昭和34年6月「古典へのとびら―古典に親しむ―」(中学3年生対象)21の
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実践を行っている。本実践の先行研究には、望月敬幸『中学校における古典指導の研究』
(修士
論文
1993
鳴門教育大学大学院)、佐々木勝司『中学校における古典指導の研究Ⅰ』(修士論文
1994
鳴門教育大学大学院)
、渡辺春美『戦後における中学校古典学習指導の考究』(溪水社
2007.3)
、坂東智子『大村はま古典学習指導の研究-具体像の解明と歴史的・現代的意義づけ-』
(博士論文 2012.3)等がある。本稿では、先行研究の知見に学びつつ、特に経験主義批判にお
ける授業実践という視点から考察する。
本単元の概要は、以下のようである。整理22して記す。
「単元設定の理由」として、「①中学校を義務教育の完成段階であると考えると、現代文化の
もとになっている、また、近代文学の伝統的背景となっている古典に生徒を結ぶ学習をして、現
代の文化・文学の理解に奥行きを加えさせ、新しいものを生み出す源泉にする。②古典への正し
い目の向け方、態度を養う。③読書範囲を広げる。④古典に触れる。⑤修学旅行前にふさわしい
学習。⑥1・2年では短歌・俳句。3年2学期では韻文。本単元では、散文の学習としての位置
づけ。」の6点を挙げている。目標は「1.古典文学を身近なものとして味わわせ、古典に深く
親しみを持たせること。2.古典文学を読むことの意義を体験によって味わわせ、今の文学も古
典を受けついだものであり、これからの文学も古典からの発展であることを考えさせる。3.と
くに次のような能力を高める(として、〈聞くこと話すこと〉〈読むこと〉
〈書くこと〉について
触れているが、省略する
引用者補足)。」の3つ掲げられている。活用資料は、①「物語の中の
少女」(『更級日記』の現代語訳ともいえる創作 堀辰雄)
、②扇の的(
『平家物語』現代語訳)
、
③木のぼり(『徒然草』45・109・185段
原文と現代語訳)
、④うつくしきもの(
『枕草子』から「う
つくしきもの」
「にくきもの」原文と注解
①から④は西尾実編『国語三上』のもの)、⑤生徒の
作文、⑥『更級日記』の一部、「扇の的」の一部の原文(プリント)、⑦ワークブック(教科書に
付属のもの)。本単元は17時間で計画された授業で、授業は次のように構想23されている。
(導入)単元「古典に親しむ」への期待を書いて、発表し合う。(1)「物語の中の少女」(更
級)で、多くの生徒のもっていた、古典をかたいものとする偏見を破り、ぐっと古典に引き寄せ
る。(2)「扇の的」(平家)で心をひかれるものの一致を発見して、また自分たちだけでなく国
民一般との一致を発見して、古典を自分たちの身の内のものと感じさせる。
(3)「木のぼり」(徒
然草)で、古典といってとくべつに見る考えが消えて現代の随筆を中心に話しあっているのと同
じ気持ちを味わわせる。(1)(2)と進めてきた心持ちをここでさらにもりあげる。(4)「うつ
くしきもの」(枕草子)で、かるい気持ちで、別の面からもう一度、以上の古典と自分たちとの
間に通じるものの多いことを味わい返す。(まとめ)古典学習の結びとして作文を書く。(以下(導
入)(1)(まとめ)等は、授業構想を指すものとする。)
大村はまは、古典と学習者が結びあっていない存在として位置することを前提に、「結ぶ学習」
を行うために「体験」させるのである。坂東智子は、
「古典の学びは学習者の実生活と結びつき
にくく、狭い教室の中での学びとなりやすい。生活と乖離した机上の知識や教養は、学習者と共
同体との関係性を育むことが少ない。」24としている。そのために、結ぶ学習をすることが必要と
なる。そして、この学習によって、古典に親しむ、古典の意義を考える、そして次への創造力を
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愛知淑徳大学教育学研究科論集
第5号
培う力をつけることができると考えたのであろう。大村はまは、導入においていろいろな方法が
考えられるが、「古典に親しむ」への期待を書いて発表させることが早く「自分の学習」にでき
るとしている。
「結ぶ学習」は、
「自分の学習」にさせるところから始まり、
「体験」を重ねて目
標に迫っていくこととなる。
3-2.能力の体系化・系統化の問題から
(導
大村はまは、本単元を次のような段階を設定し学習を進めている。それを整理25してみると、
入)「自分の学習」つくりの段階→(1)古典に近づく段階→(2)古典を身の内と感じる段階
→(3)古典への特別意識・違和感を払拭する段階→(4)古典と自分たちとの関係を味わい返
す段階→(まとめ)古典に深く親しみ、古典を学ぶ意義を味わい、今の文学も古典を受けついだ
ものでこれからの文学も古典からの発展であることに気づき、
考える段階となる。これを見ると、
大村は、古典学習には、学習者の意識改革が重要であり「自分」と結びつけながら考えさせるこ
とが大切だと捉えていることが分かる。そして、それを学習者が学びの中で自分の学習として受
け入れ、変革していくためには、学習者自らが、自分の考えさらにはその変容も自覚し、自己の
今までの既習学習そして、自己の生活をも視野に入れて思考し次へ向かう学習としていく必要が
あったのである。それを行うためには、必然的に段階を追った学習を意図的・計画的にしていく
こととなる。そこには意識改革をするための段階に応じた学習材があり、指導がなされる。さら
に、大村はま実践では、学習者自ら意識化、変容の自覚をするために、総合的に話す・聞く・読
む・書くの活動が組み込まれている。その学習者の変容は、(まとめ)に書いた生徒作品から看
取することができる。下記のものは生徒のまとめの文章である。これを考察の対象として、大村
はまの授業構想と対応させて示していく。
・古典というと、ただ、
「昔の話か」と言ってしまったり・・・(導入)
・今までの自分も、じつは、そのようなものとしか考えていなかった。図書館の本棚に、古典
の本が並んでいても見向きもしなかったぼくが、
(中略)本に熱中してしまうくらい、古典
がおもしろくなってきた。もう「おとぎばなし」程度などという考えはとんでいってしまっ
た。・・・(1)
・「扇の的」を読んでみても、
(中略)扇を落とした話などと言っていられない。これをしん
まで読めば、(中略)親しみが出てきた。昔の生活習慣と今日との生活習慣との違い、おも
しろく思うことの違いと違わないことと、考えれば考えるほど親しみがわいてくる。・・・
(2)
・徒然草にしても、枕草子にしても、
(中略)読めば読むほど味が出てくる。現代から考えて
も、もっともだ、なるほどと感心するところがいろいろある。・・・(3)
・この話が書かれた平安時代、十二単衣を来て、上品な、物静かな女の人が、(中略)こんな
憎らしいと思うようなことを書いたとは、全然、想像もつかず、しまいにはふきだしてしま
うほど・・・(4)
・古典をただ「昔の話」だとか、「おとぎばなし」だとか考え違いしていないで、これからもっ
昭和30年代の古典教育の考察
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ともっと古典に興味をもって古典の味をかみしめよう。・・(まとめ)
この学習によって、学習者は、(導入)で、「昔の話か」からも分かるように古典を批判したり、
自分なりの解釈による判断をしたりしている。それが(1)によって、自己が感じていた古典へ
の批判や判断が間違っていたことに気づき「
『おとぎばなし』程度などという考えはとんでいっ
てしまった」と反省する、(2)によって「昔と今」「違いと違わないこと」を考える中で古典と
の距離が近づくのを自覚、それは「しんまで読めば」「親しみがわく」という〈読み〉の過程で
知ったとしている。そして、考えを改めるのである。さらに、(3)で(1)(2)を振り返り、
さらに一歩深めた見方・考え方をする。
「もっともだ、なるほどと感心する」には、共感する中
で古典の中に入り込んでいる姿をうかがうことができる。(4)で、「ふきだしてしまう」とある
が、学習者が古典を受け入れている、大村が意図した「現代の随筆を中心に話しあっているのと
同じ気持ち」のあらわれだと思われる。
(まとめ)を書くことによって自己の変容を自覚すると
ともに、新たに自己の体験を他者に発信し、他者の変容を促す存在として、次への読みを創造す
る姿をここにみることができる。
学習者は、古典のイメージを一新し、古典に興味をもち、その味わいを他者にも体験してほし
いと働き掛ける。そして、ここでの学習体験が、読書行為に結びついていることも分かる。この
一連の学習を最終的に書いて言語化したことによって、学習者の自覚は確かなものとなる。
ここに、綿密な教材研究に立脚した、単元における学習の体系化・系統化そして、段階を踏ん
だ学習者の学びの変容をもたらす学びの過程をみることができる。坂東智子は、
「物語の中の少
女」の学習活動を6時間としてその学習活動を(a)から(f)で記している。そして、その学習
活動について「a から e は、一つ一つが独立したものでありながら、学習活動 f の準備学習とも
なっている。学習者個人個人が、自由に書いた作文と、読み取ったものを学習記録に書き写した
ものが、f の活動のまとまり、ここで、学習者は、古典を身近かなものとした味わい、それを言
語化することになる。」26と述べている。これを、先に考察してきた本単元全体の授業構想と重ね
て考えると、一つ一つの学習材の学習活動においても学習の構造化がなされ、それが一つの単元
の中で螺旋的につながり、体系化・系統化がなされていることが分かる。
3-3.能力の分析の問題から
大村はまは、本単元では前述した3つの目標を掲げているが、大村はまが最も古典において大
切にしたことが「古典に親しむ」ということである。そこで、「親しむ」学習がどのように展開
され、学習者がどのような〈読み〉の能力を付けていったかをみていく。
田近洵一は、〈読み〉について「〈読み〉の成立自体が、学習内容であり、また学習活動(中略)
充実した〈読み〉の体験とは、『創造的な〈読み〉』の体験である。すなわち、作品のことばと関
わって、自分の中に一つの意味世界を創出していく、過程的な〈読み〉の体験である。それは、
一人の読者として、『私』の〈読み〉を成立させると共に、その『私』をも自己対象化し、その
向こうに未だ見えざる世界を見据えて、さらに文脈の掘り起こしをはかり、
〈読み〉を深めてい
く体験」27と述べている。そして、「私」の〈読み〉を明確にするために、
「言語化を通して本文
38
愛知淑徳大学教育学研究科論集
第5号
の成立を確かにすると共に、それ(言語化したもの
引用者補足)を手がかりにさらに本文の意
味を追究し、それを書き換えたり、価値づけたりしていく」(pp.16-17)ことが必要だとしてい
る。この考えに依拠し、大村はまが〈読み〉の能力をどのようにつけていったかをみていくこと
とする。
「扇の的」は、「心をひかれるものの一致を発見して、また自分たちだけでなく国民一般との
一致を発見して、古典を自分たちの身の内のものと感じさせる」「古典に深く親しみを持たせる」
ことを目標としている。教材研究の中で大村はまは、「扇の的」が、「ひろく国民に親しまれてき
た、好まれてきた、国民的に愛されるいくつかの要素が含まれている」として、その要素を表現
の美しさ、登場人物の魅力、作品が醸し出す雰囲気と分析した。学習者の実態分析としては、た
いていの生徒はこの作品を知っているだろうとした上で、
「細かい点で新しく知る面も多く、新
しい目で見直すことができると思う。そして、この物語の中に、日本人の好みを考え、自分たち
との共通点に気づくことができると思う。」としている。「扇の的」では、わずかながらの知識を
学習者がもっている位置づけからスタートし、そこに、「新しい目で見直す」場として「調査」(第
2時に調査の説明がなされている)という方法を導入し、「日本人の好み」「自分たちとの共通点」
を見出す学習を設定している。
「調査」は、多くの人に「A『扇の的』の話(那須与一の話)を
知っていますか。B どういうところが印象に残っていますか。
(心に残っていますか)
(どういう
ところを思い出す?)(どういうところが好き?)」を尋ね記録するという方法がとられている。
学習の展開の概要は次のようである。①「扇の的」を読んで、「『扇の的』と自分」との関係を箇
条書きする。②今まで知っていた話と「扇の的」を比べて、どういうことを、新しく、くわしく
知ったか書く。また、「調査」した事柄を整理する。③グループで調査結果を見ながら那須与一
の話がどんなに多くの人々に知られているかを話し合い、愛され好まれる要素について考える。
④「扇の的」の朗読発表と調査結果の発表をする。そして、他のグループの発表と自分たちの好
みとを比べ合わせて全体で話し合い、まとめを書く。調査は、時間外に行っている。(以下①②
は、学習展開を指すこととする。)
①②では、調査のために事前に「扇の的」を読み何人かに質問しているために、一人一人の『私』
の〈読み〉は成立している。学習記録には「本を読んだのと伝えられた話とは、ちがうようなと
ころが多い。聞かされた話というのは、かんじんなところがぬけることも多いと思う。
」と記さ
れている。この段階で、古典を介して既習の〈読み〉と現在の〈読み〉との葛藤があり、そして、
今までの〈読み〉の読み替えをしているのである。つまり、今までの『私』の〈読み〉を自己対
象化し、さらに自己の意味世界を問い返す作業がなされている。この繰り返しの中で、次に示す
のは、④で書いた生徒のまとめの記録である。一部整理して記す。
・(書き出し)「扇の的」のどういうところが長く、広く、国民に愛されてきたのだろう。
・物語を読んでもっとも印象に残ることは、読みながら浮かんでくる景色の美しさであろう。
(具体的によさを挙げている。
引用者補足)
・今もそうだと思うが、名人というのか、なにかの道に特別すぐれているというような人に対
する尊敬のきもちなんかも、愛される原因といえる(中略)また、物語の中には神秘的なと
昭和30年代の古典教育の考察
39
ころもある。
・私が教えられたことで、(中略)与一がみごとに扇を射落としたとき源氏も平氏も、敵味方
なく、一つの成功を喜んだところがあった。ここには、近代的とでもいうのか、いわゆるス
ポーツ精神のあらわれともいえる性質のものがある。とかく島国根性といわれやすいわれわ
れ日本人は、この場面について、考え直す所があると思う。(下線は、引用者)
古典から「教えられ」「考え直す」という考えを導き出している。古典を異次元のもの、与え
られた読みの対象ではなく、自己の生活と結びつけての〈読み〉だと考えられる。そして、
「近
代的」には、時間軸を意識した思考がうかがえる。「扇の的」が醸しだす時間と作品が今まで存
在してきた時間に、学習者の時間が加わり、一体化したようにも感じる。時間の共有は、古典と
の対話ともいえる。それは、「われわれ日本人」という一般化したものによって、改めて自己の
祖先から脈々と続く日本人としての在り方を学習者が捉えていることからもいえる。さらに、
「日
本人」という同一言語を有する共同体であることを意識することにつながったと考えられる。こ
れは、③④の中で、他者とであうことによって、新しい世界に気づいた、「未だ見えざる世界を
見据えて、さらに文脈の掘り起こしをはかり、〈読み〉を深めて」いったからであろう。そして、
表現の美しさや「考え直す」所があると感じたとき、「古典を読む意義」「古典の価値」を学習者
自らが捉えた瞬間だといえる。
田近洵一の〈読み〉に依拠して、大村はまの「扇の的」の授業を考察したのであるが、これら
の学習の積み上げによって、学習者たちは、より高い古典の読み手に育っていくのではないだろ
うか。
渡辺春美は、「古典を読む力を高めるためには、それを構造的にとらえる必要がある。そうす
ることによって、授業の個々の場面で、どのようなねらいのもとにどのような力を育成するかが
明確となりより効果的に展開することが可能になる。古典を読む力の究明は、なお今後に待たね
「知識」
「技能」
「態度」の観点から、列挙している。渡
ばならない課題である。」28とした上で、
辺春美の読む力を視座に、
「扇の的」での〈読む〉力を前述した大村の学習展開と重ねてみてい
くと次のような〈読む〉力が見えてくる。
①「扇の的」を読んで、「『扇の的』と自分」との関係を箇条書きする。
・言語要素に関する知識29。
・古典の書かれた時代背景や時代思潮に関する知識。
・文章の内容のあらましを、よりすばやく、より的確に把握する能力。
・自己の経験とことばを結びつける能力。
②今まで知っていた話と「扇の的」を比べて、どういうことを、新しく、くわしく知ったか書く。
また、「調査」した事柄を整理する。
・作品の形態や傾向に応じた読み方をする能力。
・作中人物の思想や性格および心理の動きを読み分ける能力。
・文体の特色や表現のうまみなどを感得する能力。
③グループで調査結果を見ながら那須与一の話がどんなに多くの人々に知られているかを話し合
40
愛知淑徳大学教育学研究科論集
第5号
い、愛され好まれる要素について考える。
・読んだ古典を主体との関わりにおいて理解し、批評する能力。
④「扇の的」の朗読発表と調査結果の発表をする。そして、他のグループの発表と自分たちの好
みとを比べ合わせて全体で話し合い、まとめを書く。
・古典を読むことによって、豊かに生きようとする態度。
「分析された能力」の上に、「適切な経験」30「体験」を重ねあわせた意図的・計画的な学習展
開をみることができる。渡辺の文言を借りるならば、
「授業の個々の場面で、どのようなねらい
のもとにどのような力を育成するかが明確となりより効果的に展開する」学習がここにあるとい
える。決して、経験だけではなく、能力をつけるためにどの活動の中でどのような力をつけてい
くかといった能力の分析がなされ、それを系統的に秩序と段階を明確にして〈読み〉の経験・体
験がなされている。大村実践の能力の系統化をみていくことにより、能力の構造化が可能になる
と筆者は考えている。
4.まとめ
経験主義と能力主義との関係を対置するもの、経験の捉え方が異なるものといった見方があ
る。それぞれの教育観や指導観の違いはあるだろうが、単元学習が、経験や知識の秩序や段階が
分析されておらず、体系的・系統的でないという批判で捉えられることには以上の考察から疑問
が残る。そして、能力主義も、能力の分析の曖昧さ、系統的の在り方の不明瞭さなど多くの課題
を内在しているといえる。昭和30
年代は、
「系統的」という文言のみが教育界に氾濫し、各教
師の指導の在り方にそれが委ねられてきた現状もみえてきた。飛田隆は、国分一太郎との対談の
中で、「(教師が
引用者補足)経験主義の方法を、ほんとうの効力が出るところまでやりこなせ
たかどうかというところに一つ問題がないか」31と単元学習を行う教師の問題に触れている。そ
して、その理由として「資料活用の指導が不十分」であると指摘している。そのような中で、大
村はま実践は、「古典に親しむ」ための学習に向けて、学習者の学びに寄り添いながら、古典を
〈読む〉力を付ける指導がなされている。経験主義批判の一つの要因は、飛田隆がいうところに
もあったのではないだろうか。学習指導において、指導者自身にもその方法がうまく受容されず、
表面的な活動のみが先行した結果のことで、理論を具現化していくことに問題があったのではな
いだろうか。今なお訓詁注釈中心の授業がなされている中で、大村実践から示唆を得ることが多
くあると考える。
〈引用文献〉
1:渡辺春美「戦後における古典教育課程の検討―高等学校学習指導要領の変遷を中心に―」
(『高知大学教育学部研究報告』第72号 2012.3 p67)
2:田近洵一『現代国語教育史研究』冨山房インターナショナル 2013.7 p277
3:『国文学解釈と教材の研究』學燈社 1960.12 p9
4:
桝井英人『「国語力」観の変遷 戦後国語教育を通して』溪水社 2006.3 p209
昭和30年代の古典教育の考察
5:時枝誠記「国語教育における文法教育」(『口語文法講座1』明治書院
1965.2
41
なお、本稿
は、浜本純逸『現代国語教育論集成 時枝誠記』明治図書 1989.3 p244による。)
6:時枝誠記『改稿 国語教育の方法』有精堂 1970.4 p17
7:注6に同書 p89
8:東京大学国語国文学会『国語と国文学』至文堂 1956.4 p6
9:児童研究会『児童心理』金子書房 1955.3 pp.28-30
10:河野智文「昭和20年代国語単元学習をめぐる論争の再検討―学力の問題を中心に―」
『広島
大学教育学部紀要第二部 第46号 1997 p14
11:注9に同書
p28
12:『国文学解釈と教材の研究』學燈社
pp.112-113
13:注12に同書 pp.112-113
14:時枝誠記「高等学校学習指導要領『国語科』の改訂について」
(『国文学解釈と教材の研究』
學燈社
1960.12 p11)
15:時枝誠記「改訂指導要領を教科書に具体化するについての諸問題」(『国文学解釈と鑑賞』
至文堂 1962.6 p9)
16:宮崎健三
「古典乙Ⅰ・甲
(古文)
の展望と進路」
(
『国文学解釈と教材の研究』
學燈社1962 .
6
pp.73-79)
17:注16に同書 pp.166-186
18:田近洵一他1『国語教育指導用語事典』教育出版1984.10 p209
19:注9に同書
p29
20:『時事通信内外教育版』1954.10
21:大村はま『大村はま国語教室第三巻』筑摩書房
1983.5
なお、
「古典のとびら」の引用は
すべてこれによる。
22:注21に同書
「単元の概要」を整理して示した。
23:注21に同書
「授業構想」を整理して示した。
24:坂東智子『大村はま古典学習指導の研究-具体像の解明と歴史的・現代的意義づけ-』
(博
士論文
2012.3)
25:注21に同書
26:24に同書
p407
「段階的指導」を整理して示した。
p419
27:田近洵一他5『文学の教材研究』教育出版2014.3 pp.9-10
28:渡辺春美「古典の学習指導」(倉澤栄吉・野地潤家『朝倉国語教育講座2
読むことの教育』
朝倉書房2005.11) p146
29:注28に同書 以下①から④における「・」印は、注28の pp.146-148によるもの。
30:倉澤栄吉「国語の基礎学力と単元学習」(東京教育大学教育学研究室編『国語科教育』「続教
育大学講座第7巻」金子書房 1955.7 なお本稿は『倉澤栄吉国語教育全集1』角川書店
1987.10 pp.473-478による。
)
42
愛知淑徳大学教育学研究科論集
31:注9に同書
第5号
p28
〈参考文献〉
河野智文「昭和二十年代における国語単元学習批判論の再検討」(『兵庫教育大学第2部言語系講
座』2000.9)
田近洵一『戦後国語教育問題史増補版』(大修館書店
1999.5)
日本国語教育学会編『国語単元学習の創造Ⅰ理論編』(東洋出版 2010.8)
渡辺春美『戦後における中学校古典学習指導の考究』(溪水社 2007.3)