梨本宮 近代とは、それまで続いてきた中世国家の諸制度が根本から揺さぶられ、個人が、そして 国家が、世界の荒波の中にたたずむ時代である。欧州の中世国家は、新たな脅威を前に、近 代国民国家を創り上げ、体内的には祖国繁栄の物語を歴史の中に求め、対外的には新大陸、 アフリカ、アジアへ進出して重商帝国主義に走った。 日本における近代は、中世幕藩体制の崩壊という形で始まった。伝統的な東亜秩序は欧州 近代国家の前に崩壊していった。日本は、遅ればせながら近代国家の列に加わった。国家の 物語の中心にあったのは、2500 年の昔からその命脈を保ってきた天皇であり、皇族であり、 華族であった。彼らは近代国家の歴史の中で、かつてない役割を演じ続けた。 近代国家誕生 幕末の佐賀藩主であった鍋島直正は、西洋文明の藩政導入に熱心で、藩士に積極的に技能 なお はる を身につけさせ、維新後の国政の中枢にも参画した。その嫡子鍋島直大もその気風を受け継 ぎ、旧藩主家としては珍しく官吏として出世した。明治 15 年(1882 年)当時、直大は駐イ タリア公使としてローマに駐在していた。 この年の 2 月 2 日、直大に二人目の女児が生まれた。女児はイタリアの首都で生まれた い つ こ ことにちなみ伊都子と名付けられた。9 月、直大は任期を終え、一家は日本へ帰国。伊都子 は華族女学校へ通った。 鍋島家は維新の功労をたたえられて侯爵に叙せられていた。それ故、皇室との付き合いも あったのである。明治 25 年(1892 年)、麹町区永田町に鍋島家の邸宅が新築した時には、 天皇・皇后の行幸啓を仰ぐ栄誉を受けた。伊都子は琴を弾き、人形などをもらう。また、明 治 33 年(1900 年)には、婚儀を終えて日光に滞在していた皇太子が鍋島家の別荘に度々予 告なく現れ、家の者たちは当惑して、皇太子妃が立腹して東京に帰ってしまう、という事件 も起こった。 明治 29 年(1896 年)10 月 13 日、伊都子は梨本宮守正王との婚約が決まる。梨本宮は、 明治 7 年(1873 年)3 月 9 日生まれ。幕末の政治に深くかかわった久邇宮朝彦親王の第四 もり おさ 皇子である。梨本宮の宮号は、大叔父の守脩親王が創設したものを受け継いだ。 皇太后崩御(明治 30 年)などを挟んで、婚儀が行われたのは明治 33 年(1900 年)11 月 28 日、この日をもって伊都子は梨本宮妃となった。翌明治 34 年(1901 年)11 月 4 日、伊 都子妃は女児を出産する。方子女王である。 陸軍に所属していた梨本宮は明治 36 年(1903 年)3 月 28 日、フランスへと留学に旅立 つ。近代の男性皇族は、軍人となることを定められていた。日本が欧州近代国家を手本とす る時、王族が軍務についているのを真似たものである。そもそも天皇は祭祀を司ることがそ の存在の本質であり、日本におけるその立場を欧州に比定するならば、ローマ教皇にあたる。 古代の一時期を除けば皇室の成員が軍服を帯びることは無きに等しかった。しかし、国家の 危機に瀕してはそのような矛盾もなし崩し的に追認された。 一方伊都子妃は、赤十字で看護学を学んだ。近代の女性皇族は、銃後の守りを体現するた め、赤十字活動に積極的に取り組んでいたのである。伊都子妃が婚姻と前後して学び始めた のは、丁度大陸で義和団の乱1が発生した頃であった。 近代国家の外交安全保障とは、自衛と外征の一体化である。日本は明治 27 年(1894 年)、 東亜中世国家の筆頭であった大清帝国と戦い、勝利した。近代国家が世界中に広まりうるこ とが証明された瞬間であった。 明治 37 年(1904 年) 、日本軍は満洲を制圧して南方に進出しつつあったロシア帝国と軍 事衝突した。日露戦争である。先の戦争が東亜に近代国家が生まれることの是非を問うもの であったならば、この戦争は東亜の近代国家が世界に通用するかを問うものである。 開戦直前の 2 月 5 日、赤十字にも陸軍動員令が掛かった。伊都子妃は巻軸包帯製造に努 めた。皇族としての他の公務の合間を縫い、年間で 30 日程これを行った。更にそれと並行 して、帰還した傷痍兵の慰問も行った。梨本宮も留学を中断して帰国、7 月 10 日、広島の 宇品軍港から大連へ出征した。年の暮れは、二〇三高地占領の過程で傷痍兵が増え、赤十字 の仕事は多忙であった。伊都子妃は、義手補助具の提案なども行っている。 明治 38 年(1905 年) 、海軍が日本海海戦で勝利し、アメリカ合衆国の仲介で有利な講和 を勝ち取る見込みが立った。近代国家日本は、世界に通用したのである。東京中で連日祝い の旗行列があり、伊都子妃も何度か、自ら出向いた。 8 月、梨本宮が満洲で赤痢に感染し、看護兵が死亡した。伊都子妃は北白川宮の戦病死2 を想起し、 「陰膳」をそなえて、無事を祈った。10 月には海軍大将東郷平八郎ら出征将兵が 凱旋し、今度は公式の祝賀が相次ぐ。英国国王エドワード 7 世の弟コノート公アーサー王 子の来日が続いた。 梨本宮は、一旦大分で療養をした。そして、帰還兵と混じって明治 39 年(1906 年)1 月、 東京に無事帰還したのである。 5 月 11 日、伊都子妃は再び妊娠した。ところが 17 日夜、大量の出血が起こった。看病が 1 清で発生した暴動に対して列強が共同出兵して、日本とロシアの大陸権益を巡っての対 立が深まった。 よし ひさ 明治 28 年(1895 年) 、台湾に出兵した北白川宮能久親王は、現地でマラニアに罹って薨 去した。北白川宮は、梨本宮の叔父にあたる。 2 続いたが、20 日、流産に至った。伊都子妃の日記は、20 日と 21 日のみ、日付が黒く塗り つぶされている。 8 月、梨本宮は職務を終え、留学先のフランスへ戻った。その直後、伊都子妃は三度妊娠 をした。今度は宮邸の事務官一同細心の注意を払った。明治 40 年(1907 年)4 月 27 日、 の りこ 伊都子妃は女児を産んだ。規子女王である。 その後、梨本宮の留学が終わるのにあわせて伊都子妃が渡欧、そのまま欧州を歴訪する話 が持ち上がる。9 月 21 日、田中光顕宮相から要請され、正式決定した。東亜近代国家とし て立場を確立した日本の国際的地位が可能にしたことである。 明治 41 年(1908 年)1 月 13 日出発。神戸・下関(安徳天皇陵参拝) ・上海・香港・シン にお ガポール(ドリアンという「尿のくさった様な香ひ」のするものを食べる) ・コロンボ(蛇 つかひを見る) ・スエズ運河( 「梨の花の印」をつけた煙草を買う)を経て、3 月 3 日、マル セイユで梨本宮と落ち合った。駐仏大使加藤高明の手配で翌日、パリにて衣装を整える。伊 都子妃は、三越のようなデパートがたくさんあることに驚く。 衣装が完成するのを待ち、4 月 4 日、スペインへ行き、闘牛や日系人の曲芸を見る。17 日、パリに戻り、アルマン・ファリエール大統領と会見。27 日モナコ、28 日生まれ故郷イ タリアを経て、5 月 8 日オーストリア。皇帝フランツ=ヨーゼフ 1 世に謁見。5 月 17 日には ロシアに入り、皇帝ニコライ 2 世に謁見。その額の傷跡を見たとき、伊都子妃は皇帝が来日 した時に襲撃を受けて傷を負ったことを思い出した。27 日、ベルリンでドイツ皇帝ヴィル ヘルム 2 世の大観兵式を観る。6 月 5 日、ロンドンの英国大使館で松平恒雄夫妻と会う。妻 信子は、伊都子妃の妹であった。11 日、丁度年一度の謁見式に招かれ、国王エドワード 7 世と高位の貴族の謁見を目の当たりにする。 帰路はシベリア鉄道を利用することとなり、6 月 28 日にパリを発った。ハルビンに着い たのは 7 月 9 日、入浴しようとすると、湯は茶色く濁っていた。10 日、ロシア軍団の記念 祭に招かれたが、ひどい砂埃であった。その後、一行は体調を崩し、下痢をしている状態で あった。日露戦争の跡地を見学しながら南下し、21 日、京城で韓国の純宗皇帝に謁見。 韓国は李氏国王が治める中世国家であったが、日本が東亜伝統の華夷秩序から離脱させ3、 国内の行政権の殆どは日本が握っていた。純宗の父高宗は前年に日本に無断でハーグ国際 会議に使節を送った責任をとらされて純宗に譲位していた。近い将来、朝鮮半島は日本に併 リ ウン 合される公算であった。弟の王世子李垠王子は、伊藤博文主導で日本に留学していた。 7 月 24 日、下関。その後ゆっくり東へ進み、29 日に新橋駅に降り立った。8 月 11 日、 みちのみや やす ひと てるのみや 葉山御用邸で皇太子に拝謁、迪 宮 裕仁親王、淳宮雍仁親王、光 宮 宣仁親王の三皇子に欧州 の玩具を献上した。9 月 13 日、宮中晩餐会にて、天皇が伊都子妃の手を取り先導した。 3 中国大陸中原の勢力は有史以前から政治・文化面で東亜随一の威信を誇っており、その 指導者は代々皇帝を名乗っていた。周辺諸国は皇帝から国王の称号を授かり、地方長官と してその領国支配を正当化させていたが、沖合の島国として距離をとっていた日本はいち 早くその秩序を脱することが出来た。 日韓合邦 この年の 4 月、方子女王は学習院女学部に入学した。院長には天皇の強い要望で、陸軍大 将乃木希典が任官していた。同年に入学した皇太子の長子迪宮の教育の為である。乃木が強 調したのは、華族の家風に反しない限りで「質素」を行うことであった。 皇族にとつぐ令嬢は、同じ皇族または華族の出身者と決まっていた。ましてや迪宮はいつ かは皇位に着く身であるから、その妃は宮家と摂家にほぼ限定される。迪宮と同年齢の方子 女王は、有力な候補の一人であると目されていた4。 明治 42 年(1909 年)9 月 14 日、韓国皇太子の垠王子ははじめて梨本宮邸を訪れていた。 垠王子は表向きは留学ということであったが、日本主導の皇帝の譲位の直後という時期か ら見て、人質にされたと見る向きは多かった。直後の 10 月 26 日、伊藤は長春駅で民族運 アンジュングン 動家の安 重 根 に暗殺された。日本政府は、韓国併合に舵を切った。明治 43 年(1910 年) 8 月 29 日、東京では提灯行列があり、方子女王も宮邸で行列のまねごとをしていた。 明治 44 年(1911 年)秋、清帝国で皇室打倒の蜂起が相次いだ。辛亥革命の始まりであ る。11 月になると名古屋第六連隊勤務の梨本宮は連日会議に忙殺された。日本は帝室援助 のための軍事介入をしようとしたが、同盟国の英国は清朝滅亡を見越して共同出兵を拒否 したため、在留邦人保護の名目で小規模に派兵をした。 翌明治 45 年(1912 年)2 月 12 日、宣統帝が退位、清朝は滅亡した。中国においても皇 帝は廃され、新たな国民国家たる「中華民国」が建国された。しかし、広大な中国大陸を新 たな国家体制で直ちに統治するのは至難の業である。騒乱は収まらず、6 月には第六連隊か らも派兵された。 その最中の 7 月 20 日、天皇の様態が悪化したとの報せが届く。梨本宮は 22 日に帰京し て 23 日参内、以降も度々参内して医師の説明を聞いた。天皇は回復することなく、29 日深 夜、崩御。翌日未明、皇太子が即位し、元号は大正に改まった。 9 月 13 日、大喪の礼が執り行われた。翌朝、方子女王は、乃木院長が殉死したことを知 った。 大正 3 年(1914 年) 、第一次世界大戦勃発。欧州列強の重商帝国主義は飽和状態に達し、 本国同士の戦争にまで発展したのである。 当時梨本宮は高崎第 28 旅団に属していた。日本も、日英同盟を根拠として参戦を表明す る。やがて、伊都子妃の日常は日露戦争の時と同じになった。包帯製造である。 しかしその大戦の最中、梨本宮家にとって更に重要な要件があった。大正 5 年(1916 年) 8 月 3 日、読売新聞が李王世子李垠王子と方子女王の婚姻が内定したと報じた。これは、梨 本宮や朝鮮総督の寺内正毅らが極秘に進めていた物であったが、方子女王は当日の新聞を 4 な がこ その後、正子女王の従妹で一学年下にあたる良子女王が妃に選ばれた。 読むまで知らなかった。方子女王はショックを受け、伊都子妃は方子女王に明かす前に暴露 されたことに動揺した。この婚姻が成り立った背景については定説の確定には至っていな いが、伊都子妃の娘の将来を想っての行動に過ぎないとも、韓国併合後の内地と朝鮮の“和 解”の象徴であるとも云われている。また、日本人と在日韓国人との婚姻を促進する狙いも あったという。 しかし、ここで皇室典範との整合性が問題となった。典範では女性皇族の婚姻相手は皇族 及び華族に限定されており、朝鮮李氏の王公族は含まれていなかったのである。王公族の法 的位置付けは、併合の際に「皇族に準ずる」とされたのみであった。宮内省や枢密院などで 議論をして、新たに公爵の上に「王爵」を新設するという案も出されたが、典範が増補され て決着した。王公族は皇族と同格だが別の地位とされた。この問題が決着するまで 2 年を 要した。 大正 7 年(1918 年)11 月、大戦終結。欧州列強は大打撃を受けたが、重商帝国主義は維 持され、戦勝国は敗戦国ドイツ改めワイマール共和国から搾り取った賠償金や植民地を山 分けした。日本は、東亜のドイツ領であった山東省を得た。 前後して皇室典範が増補され、12 月 5 日、垠王子と方子女王との婚姻に勅許が降りる。 婚儀は大正 8 年(1919 年)1 月 25 日に予定されていた。年が明けるとともに、梨本宮家で は準備が慌ただしく進んだ。ところが直前の 21 日、荷物の移動が始まった直後に高宗危篤 の報が届いた。翌 22 日、高宗は崩御した。直後、婚儀の延期が発表された。 この時、大戦の講和会議がパリで開かれており、朝鮮は再び日本には内密に密使を送ろう としていた。そのため、高宗は毒殺されたのではないか、との噂が広がった。朝鮮民族の独 立の機運は高まり、3 月 1 日から学生を中心に「独立を祝う」形式のデモが全土で行われた (三・一運動) 。この間、梨本宮率いる京都の第十六師団が防衛勤務を命ぜられ、4 月に満 洲へ発った。5 月には中国で反日運動が起き、7 月には満洲で日中両軍の衝突があったが、 大事には至らなかった。梨本宮は 10 月に肺炎にかかり、療養を命ぜられ、11 月に帰国した (のちに軍事参議官となる) 。年末には大磯の別邸にて一家 4 人で過ごした。垠王子も延期 となった一年間で度々宮邸に足を運び、宮家の人々と交流を深めていた。 大正 9 年(1920 年) 、喪が明けた。方子女王の荷物も、鳥居坂の李垠邸に運び込まれた。 4 月 27 日、垠王子は陸軍中尉に進級。28 日、婚儀が挙げられた。当日、方子女王は二頭立 て馬車に乗って宮益坂の宮邸から李垠邸に向かい、式を挙げた。婚儀は通常十二単を着用し ていたが、今回は外国皇族との婚儀なので改め、垠王子は陸軍中尉の礼装、方子妃はローブ やすひこ の ぶこ デコルテー5で執り行われた。列席者は、皇族代表の朝香宮鳩彦王、妃允子内親王、久邇宮 ち かこ よし 邦彦王、俔子妃、親族代表の鍋島直大・栄子夫妻、王公族代表の李達鎔侯爵、宮相波多野敬 なお 直、朝鮮総督斎藤実などであった。29 日、朝鮮の所謂政治犯に恩赦が下され、約 3000 人が しょうしゃく 出所した。また、垠王子の教育や今度の婚礼に功があったものに、 陞 爵 ・金盃下賜・授章 5 ドレスのデザインの一種。女性皇族の正装の一つとして、現在に至るまで採用されてい る。 が行われた。 李邸の事務官は、朝鮮出身の者も多く、皇族の宮邸とは違う雰囲気があった。方子妃は努 めて朝鮮の風習に慣れ、朝鮮服の作法も教わった。 大正 10 年(1921 年)8 月 18 日、第一子誕生。皇族と同じく出生から 7 日目の 24 日、 チン 晋と命名された。 翌大正 11 年(1922 年) 、結婚後初めての挨拶の為、垠王子、方子妃、晋王子はそろって 朝鮮へ渡る。明治天皇陵参拝を経て 4 月 26 日、釜山上陸。その日の内に京城へ至る。28 日、 ト ケ 朝見の儀。李王純宗、尹妃、垠王子の妹徳恵王女と共に写真に納まる。29 日、宗廟への奉 審の儀。5 月 5 日、李王主催の園遊会。6 日、斎藤実主催の午餐会。7 日には、垠王子主催 の晩餐会。更に帰国前日の 8 日には、別れの晩餐会が行われるという忙しさであった。 その夜、晋王子が下痢と嘔吐の症状を起こした。総督府の医師の診断は「急性消化不良」 。 9 日早朝に様態は悪化し、食塩水の注射などをしたが、11 日午後、晋は息をひき取った。医 師は長旅の疲れが祟ったのだろうと結論付け、方子妃は牛乳が原因だと考えた。世間では、 高宗の報復として毒殺されたのだろうとの噂がもっぱらであった。以降葬儀について方々 と相談するなどして、埋葬は 17 日に行われた。守刀は、最初は共に埋葬しようとしたが、 東京に礼拝所を設け、そこに祀ることとなった。 18 日に帰路につき、20 日東京着。22 日、随行の者が顛末の説明の為梨本宮家に向かっ た。宮と伊都子妃は気丈に振る舞っていたが、伊都子妃は、本当は毒殺されたのではないか、 と疑っていた。 方子妃は伯母(梨本宮妃の姉)の前田朗子の薦めで、写経を始める。大正 12 年(1923 年) 春には妊娠するも流産し、その夏は日光輪王寺の離れを借りてそこで静養した。 9 月 1 日、大地震が発生。梨本宮・伊都子妃・規子女王は宮邸で、垠王子・方子妃も自邸 で遭遇した。梨本宮は皇居へ向かい、摂政に拝謁。深夜には李邸の近くにまで火事が迫り、 垠王子と方子妃が宮邸に避難してきた。2 日には暴動が多発したとの報せを受け、事務官ら が徹夜の警備にあたった。 垠王子と方子妃は一旦自邸に戻ったが、暴動は朝鮮人が主体となって起こしたとの噂が 起こり、宮内省が大事をとって省庁舎へ二人を避難させ、そのまま 1 週間留まった。5 日、 町はようやく落ち着きを取り戻し、梨本宮は宮内省や各宮邸を訪問、缶詰などを受け取る。 8 日、交通網が復旧し、物資の供給や避難民の移動が始まった。9 日、垠王子と方子妃は 邸宅へ戻る。邸宅は無事であったが、事務官で被災した者がおり、古着を分けるなど援助し た。 朝鮮人が暴動を起こしたとの情報は誇張された風説であったが、自警団によって多数の 朝鮮人が殺された。垠王子は方子妃と共に慰問袋をつくりながら、この事態に憤っていた。 併合後の列島地域と半島地域は表向きは同等であったが、歴史的に違う文化圏にあった国 家同士の合邦は、国民同士の排他的な雰囲気を孕んでいた。 国家の矛盾 翌大正 13 年(1924 年)規子女王の縁談の話がもちあがる。相手は、山階宮武彦王。山階 宮は震災で妃の佐紀子女王を亡くし、その後妻として規子女王が想定されたのである。11 月 15 日婚約。 婚儀の準備が進む最中、大正 14 年(1925 年)3 月 30 日、垠王子の妹徳恵王女が学習院 へ転校して来日、李垠邸に同居を始める。4 月、女子学習院本科中期二年に編入された。 大正 15 年(1926 年) 、純宗が危篤になり、垠王子、方子妃、徳恵王女が朝鮮へ向かった。 4 月 24 日、純宗崩御。垠王子が後を継ぎ、李王となった。国葬は 6 月 10 日になされた。 7 月 14 日、山階宮の病気の都合で、規子女王の婚約は破棄された。山階宮はその後、生 ただみつ 涯独身を貫く。規子女王の新たな結婚相手に選ばれたのは、伯爵広橋真光であった。広橋家 は鎌倉以来の公家の家柄で、伊都子妃の遠縁にあたった。真光はこの年に帝国大学を卒業し、 内務省に入省したばかりであった。縁談はまとまり、12 月 2 日、式を挙げた。 13 日、天皇の様態が悪化した。16 日、様態が急変し、梨本宮と伊都子妃は天皇の滞在す る葉山御用邸に向かい、近くの逗子ホテルに宿をとった。李王と方子妃もここに入った。皇 族は全員、医師の経過説明を受け続けた。25 日未明、天皇崩御。直ちに摂政が即位した。 翌昭和 2 年(1927 年) 、大喪の礼が終わったのち、李王は方子妃とともに訪欧に出た。朝 鮮李王のお披露目を兼ねたものであり、純宗と天皇の崩御が相次ぎ、数年越しの実施であっ た。 5 月 22 日、横浜発。上海では韓国独立運動家の襲撃を警戒して上陸を断念、インド洋か らスエズ運河を通り、マルセイユから上陸。7 月 5 日、パリでガストン・ドゥメルグ大統領 に面会。大戦で激戦地となったベルダン要塞を視察した。その後ロンドンへ向かい、8 月 9 日、バッキンガム宮殿で英国王ジョージ 5 世とメアリー王妃に拝謁、スコットランドまで 足を延ばす。 その後、ベルギー(国王アルベール 1 世)、オランダ(女王ウィルヘルミナ) 、デンマーク (国王クリスチャン 10 世) 、ノルウェー(国王ホーコン 7 世)の国王、ドイツ(パウル・フ ォン・ヒンデンブルク大統領) 、ポーランド(イグナツィ・モシチツキ大統領)、オーストリ ア(ヴィルヘルム・ミクラス大統領)、チェコスロバキア(トマーシュ・マサリク大統領) の大統領を訪問する。道中、李王はゴルフや乗馬を楽しみ、方子妃は病院や地元の赤十字を 訪問した。12 月 23 日、最後の訪問地であるイタリアに到着、ここで年を越した。国王ヴィ ットーリオ・エマヌエーレ 3 世、教皇ピウス 11 世、ベニート・ムッソリーニ首相に面会、 ポンペイ遺跡などを見る。 昭和 3 年(1928 年)3 月 3 日、マルセイユを出る。米国は訪問しなかった。日系移民問 イ スンマン 題を巡って日米間は良好ではなく、李承晩が盛んに韓国独立のロビー活動を繰り広げてい た。一行は元来た路を引き返し、4 月 9 日、神戸港に帰着した。 ししんでん 11 月、即位礼が京都で執り行われた。挙行日は 11 月 10 日。御所の紫宸殿に皇族・王公 族が居並ぶ前に天皇皇后が出御し、首相田中義一が奉祝の語を奉り、参列者が万歳三唱した。 23 日、伊勢へ向かい、神宮に即位を奉告した。 大戦後、分裂状況にあった中国大陸は、中華ナショナリズムの下に収斂しようとしていた。 即位礼の直前に張作霖が関東軍に暗殺されて以降、その勢いは強まっていた。 政党内閣の利益誘導に憤っていた天皇は事件の処理を巡って田中と対立、翌年に田中は 辞官に追い込まれる。この事件以降、天皇の発言権、日本の外交は共に大きく制限を受ける こととなる。維新以来の指導者が没し、近代国家体制の矛盾点が表面化し始めた。軍部は陸 海軍本省の統制を受けなくなり、暴走する危険に常にさらされた。 徳恵王女は異国暮らしの中で、神経衰弱の症状を発していた。昭和 5 年(1930 年)9 月、 体調不良で登校拒否になる。その中でも縁談話がもち上がり、11 月に婚約を結ぶに至る。 相手は、朝鮮王朝とも縁の深い対馬藩主家の伯爵宗武志である。以降も徳恵の体調は好不調 の波が大きかった。 昭和 6 年(1931 年)9 月 18 日、満洲地方の奉天で日本軍と中国軍が衝突を起こした。戦 闘は東京の政府の意向とは無関係に拡大を続け、満洲全土がその制圧下に入り始めた。伊都 子妃が「満洲派遣軍の上をおもひて」歌をつくったところ、和歌を教えていた千葉胤明が感 激し、それを新聞上に公表しようとして、宮邸の事務官と衝突した。皇族が時局について何 らかの発言をすると、それを口実に政府が攻撃されかねない、というものである。この時公 表された数首が山田耕筰作曲でレコードになった。その内の一首: 霜こほる のべにおきふす ますらをの ゆめやすかれと ただいのるかな ク 12 月 27 日、方子妃は第二子を出産した。新たな王世子は玖と名付けられた。玖の成長 は、その 2 年後に生まれた天皇の嫡子継宮明仁親王の成長と併せて盛んに報道された。 近代国家は、貿易を通じて外貨を獲得するため、政府を挙げて特定の産業或いは企業を保 護する重商主義を採用する。その結果、国内においても保護される資本家とそれ以外の労働 者の間で格差が拡大し、社会の調和はみ出されやすい。他の近代国家においても問題は同様 で、皇帝専制の強かったロシアでは労働者の蜂起により帝国が崩壊、カール・マルクスの共 産主義思想に則った新しい国家体制の模索が続いていた。 昭和 7 年(1932 年)の日本では、治安、政情ともに不安定であった。1 月 8 日、陸軍観 兵式から還御する途中の天皇の馬車が、朝鮮人から爆弾を投げつけられ、近衛兵が負傷した (桜田門事件) 。犬養毅内閣は総辞職を申し出るが、天皇に慰留される。 あい しんかく ら ふ ぎ 3 月 1 日、清朝の先帝愛新覚羅溥儀が関東軍に迎えられて、満州国の建国が宣言された。 4 月、出征部隊の凱旋が始まり、伊都子妃らは慰問を始めた。5 月 15 日、犬養が陸海軍青 年将校に官邸で射殺された。 10 月 15 日、梨本宮邸に皇族が集まり、国連が満洲へ調査に派遣したヴィクター・ブルワ ー=リットン伯爵による調査団について説明を受ける。その日の晩、宮邸に賊が侵入した。 宮邸の者が駆けつけると、短刀が詰所に落ちていた。侵入犯は、遂に判らなかった。 昭和 8 年(1933 年) 、国際連盟は満洲国を無効とする決議を採択し、日本は国連脱退を決 定。8 月、関東地方で防空大演習が始まった。昭和 10 年(1935 年)4 月、満洲皇帝が来日。 当時の軍部将校には、重商帝国主義路線を維持し、大陸での更なる権益拡大を目指す中堅 佐官(統制派)と、格差拡大などの社会矛盾を解消し、帝国主義社会からの転換を図る若手 尉官(皇道派)との対立があった。昭和 11 年(1936 年)2 月 26 日、皇道派将校は永田町 一帯を占拠、革命に踏み切った。幸い皇居は占拠の対象とならず、梨本宮は直ちに参内する。 天皇は事態への対応では一貫して青年将校に与せず、梨本宮もその方針に忠実に従った。29 日、将校たちは投降した。梨本宮は陸軍元帥の辞退を申し出たが、容れられなかった。 以降軍部は統制派で一統されたが、皇道派の思想はその後も残った。 昭和 12 年(1937 年)5 月、梨本宮は満洲の国境地方を視察する。帰国直後の 7 月 7 日、 北京郊外で日中両軍が衝突、戦争が始まる。梨本宮は陸軍省で連日和平を模索したが、容易 ではなかった。一方の伊都子妃は、徹底抗戦を続ける中国軍へのいらだちを日記につづって いる。9 月には赤十字社での奉仕が始まり、先の大戦で、欧州で使用された毒ガスについて 講習を受ける。 12 月、首都南京制圧。しかし蒋介石ら首脳はいち早く脱出し、奥地に拠点を構えた。や がてインド洋方面から欧米列強の支援を受けるようになり、日本では欧米の傀儡と化した 蒋への反感が大きくなる。首相近衛文麿は蒋政権との交渉打ち切りを大々的に宣言したが、 それで状況が好転するわけではない。 昭和 13 年(1938 年) 、皇后の提案で、大規模な慰問が行われた。皇族妃が皇后名代とし て、全国の病院を慰問するというものである。11 名の皇族妃が名代となり、4 月から 5 月 にかけて、伊都子妃は福岡・佐賀・大分、方子妃は岩手・青森・秋田・山形・新潟を廻った。 伊都子妃は鍋島藩が治めた佐賀で特に大歓迎を受けたが、約 10 日間で 100 か所以上を廻る 強行軍には、あまりのせわしなさに閉口した。6 月には更に外地へ向かい、台湾、朝鮮、満 洲などで慰問を行った。伊都子妃は大連・旅順などを廻り、二〇三高地などを視察した。 昭和 14 年(1939 年)9 月 1 日、この頃は毎年この日を震災記念日として追悼が行われて いたが、それと共に、最初の興亜奉公日でもあった。戦場の労苦をしのび、毎月 1 日は贅澤 を控えるというものである。奇しくもこの日、ドイツがポーランドに侵攻、欧州で再び戦争 が始まった。 けいしょく 昭和 15 年(1940 年) 、梨本宮は大勲位菊花章頸 飾 を授与される。日本の勲章の最高位で あり、また天皇含む国家元首を除く生前の受賞は、梨本宮が最後となった。11 月 10 日、皇 紀 2600 年祝典。 大東亜戦争 昭和 16 年(1941 年) 、大陸進出を巡って、米国との間で軋轢が生じていた。4 月 2 日、 宮家に一つずつ防空壕を造るよう指示が来る。特に梨本宮家には、梨本宮が防空協会総裁を 務めている関係上、どうしても造っていただく、とのことである。9 月には陸軍省から人手 が来て、裏門近くに掘り始めた。しかし一方で、妃殿下方は郊外の御用邸に避難して頂きた い、という。伊都子妃は、そんなときに逃げたところでどうなるだろう、とこぼしている。 宮邸の事務官は、バケツリレーの訓練を始めた。 10 月 18 日、東條英機内閣が発足。梨本宮の婿にあたる広橋真光は首相秘書官となる。東 條は近衛内閣の陸相として対米開戦を訴えていたが、9 月 6 日の御前会議において、天皇は 開戦に反対であるとの考えを暗に表明した。近衛内閣は対米交渉に失敗し退陣するが、東條 は組閣にあたって天皇より、もう一度外交努力を行うよう命ぜられた。東條は自身の開戦論 を押えて命に従ったが、陸軍省内や世論の突き上げを喰らった上に、コーデル・ハル米国務 長官との交渉も失敗に終わる。 12 月 1 日、御前会議において対米開戦を決定。天皇は、渋々の黙認であった。帰路、広 橋が「総理は何をぐずぐずしているのか」という投書が増えている、と云うと、東條は「腰 抜けだと云っているだろう」と笑った。12 月 8 日、日本は米国に宣戦布告し、開戦した。 広橋の視点から見るに、東條は非常に周囲への気遣いの細かい人間であり、部下からは慕 われていた。病気で会議を欠席した人間には見舞いの果物を届けるし、下士官にも部下の兵 たちの家庭状況を把握しておくように指示した。昭和 17 年(1942 年)2 月に東南アジアの 要である英領シンガポールを占領した時には、奉祝行列が官邸内に入るのを許可し、玄関先 でこれに応えた。 また、上奏の頻度も多かった。少なくとも、週に一度は上奏を行う。天皇は東條を「話せ ばよくわかる面白い奴」と評した。後の東條は閣議を宮中で行うことを考えている。 4 月 18 日、米国からの最初の空襲。20 日の総選挙には影響なかったものの、早くも日本 は守勢に立たされる。 日本の東南アジア進出は、当初は石油などの資源確保であったが、やがてかつての皇道派 の思想が入り込んでくる。欧米列強の重商帝国主義の真似ごとはいい加減止めて、東亜諸国 で反欧米共同体を築くという、民族主義、或いは東亜版社会主義というべき新しい思想が生 まれた。これにより、朝鮮・満洲を始とする制圧地は植民地ではなく、友邦とみなされる。 この思想の下、南方地域の行政組織として、 「大東亜省」を設置することが決まった。そし て戦争の目的は「大東亜共栄圏」の建設となる。 ところが、大東亜共栄圏の思想は内実を伴わなかった。実際の現地では、冷徹な重商帝国 主義に照らした統治が行われた。勝算も無く始めた自衛戦争であったため、友邦とみなして 力を貸す余裕が無く、中途半端に併合した時にはむしろ戦争遂行に協力させる口実としか ならなかったのである。 植民地支配への後ろめたさから、戦争の目的がより実行困難で、しかし「高尚な」ものに なったため、やがて戦争を続けることが目的となり、途中で戦争を打ち切ることは事実上不 可能となった。戦争に反対することは道義上許されなくなり、国家は国民に対して無理な統 制をかけ始めた。東條は屑鉄のために国民の気分を暗くすることは本意ではない、と繰り返 したが、そのような意向はあっさりと反故にされた。国政の決定権は天皇にも東條にも無く、 国民の空気が全てを押し流していった。 昭和 18 年(1943 年) 、梨本宮は神宮宮司となり、伊勢へ向かう。 この頃から男性の労働力は戦場に釘づけにされ、内地における労働力として女性や学生 が動員され始める。6 月、伊都子妃は兵庫県と鳥取県を視察する。工場を視察したほか、婦 人会で話を聞き、戦死者の未亡人を見舞い、託児所を訪れ、国民学校で薙刀教練を見学、農 村にも足を延ばし、湊川神社を参拝した。帰京後皇后へ事情を報告し、「いかにもめざまし く、何事も成し遂げられぬものなどない。モンペ姿の女性こそ、銃後を守る日本女性である」 と感想を綴っている。 9 月 8 日、イタリア王国が降伏し、枢軸国の一角が崩れた。伊都子妃は「裏ぎりものにな った。なさけない国であろう」と痛烈に批判した。11 月 3 日には京都、滋賀へ視察に向か う。留守中の 11 月 5 日には、日本統治下の各地の指導者が集まり、大東亜会議が開かれた。 しかしこの時すでに、日本の勝ち目は非常に薄かった。 昭和 19 年(1944 年) 、市販の日記帳は入手困難になり、伊都子妃は以降 8 年間、手作り の帳面に日記をつけている。 6 月 19 日、日本軍は大逆転をかけてマリアナ沖で米軍に決戦を挑んだが、惨敗に終わる。 制海権は米国に抑えられ、日本は敗戦へ向けて突き進み始める。大本営は成果を強調したが、 国民生活は逼迫していた。24 日、三笠宮の帰還祝いに皇族が集まったが、祝い飯の手配に も苦労した。 政府内では東條弾劾の声が高まり、複数の暗殺計画が立てられるに至る。7 月 18 日、東 條内閣は総辞職した。22 日、後任の小磯国昭が内閣を組織した。閣議が行われたため、事 務引き継ぎは翌日である。夕方、秘書官が東條に最後の挨拶をする。広橋が代表して挨拶す ると、東條は「諸官は永い間御苦労でありました。どうか今後もそれぞれの任で御奉公を望 む」と礼を述べた。官邸別館で最後の会食。数日後に首相退官の挨拶の為、伊勢、橿原、熱 田の各神宮を参拝し、旧秘書官も同道した。 制海権を失った日本は、米軍の本土への攻撃を避けようがなかった。11 月 24 日以降、東 京は盛んに空襲を受けた。29 日、伊都子妃は赤十字社へ出社したが、社屋の防備が不十分 で安全が保障できないため、作業は中止された。銃後の守りにも支障をきたすようになり、 国民の間でも終戦を望む気持ちが大きくなり始めた。 昭和 20 年(1945 年)1 月 14 日、伊勢への投爆で神宮に被害が出る。宮内省が確認に向 かい、梨本宮が参内、境内無事を奉告する。しばらく後、梨本宮は宮司職を終え、帰京した。 3 月 9 日夜、梨本宮の 71 度目の誕生日であったが、ここ数年と同様、大した祝い事も無 く過ごした。その日の深夜、米軍の大空襲が東京を襲った。夜が明けてみると、都庁その他 が焼けたという。宮内大臣官邸も焼けた。当時の宮相は、伊都子妃の義兄の松平恒雄である。 伊都子妃は、おにぎりや衣服などを届けた。26 日、沖縄戦が始まる。 4 月 29 日、天長節のため皇族一同参内したが、控えで待っていると空襲警報が連発し、 拝謁はかなわず、侍従長の藤田尚徳に祝詞を託して退出した。3 月の春季例大祭はかろうじ て行われ、梨本宮が皇族総代として列席していたが、もはや宮中行事にも支障をきたすまで になっていた。 5 月 25 日深夜、再び空襲が起き、梨本宮邸は全焼する。翌朝になってわかったところで は、御所はじめ宮邸の殆どが焼け落ちたとのこと。皇族は全員無事であった。李王邸は無事 だったので、暫くそこに住みながら焼け跡の整理を行う。6 月 7 日、宮内省から見舞い金 1 万円が入ったため、やはり被災した広橋家へ 3 千円送り、事務官にも分け与えた。10 日、 広橋の一家と共に河口湖の別邸に移る。各方面の献上品や配給では間に合わず、山で野草を 探すなどした。 グウ 8 月 6 日、原爆投下。李王の甥にあたる李鍝は広島で被爆し、翌日死亡した。 11 日、宮内省から電話が入り、陛下の思し召しにより、明日参内して頂きたい、という。 12 日、宮中の御文庫に成年男性の皇族・王公族が集められた。御文庫は防空壕代わりに立 てられた仮宮殿で、天皇は数年前から過ごしていたが、彼らがここに入るのは初めてであり、 また弟の高松宮、三笠宮を除き、そもそも天皇に拝したことが最近なかった。 現れた天皇は憔悴しきっていた。皇族たちは、思わず目を伏せた。天皇は、10 日に連合 国のポツダム宣言を受諾したことを伝えた。つまり、降伏したということである。「どうか 私の心中を察してくれ、そしてこれからは日本の再建に皆真剣に取り組んでもらいたい」と 続けた。 皇族たちはみな軍人であるから、日本の敗北は避けられないことは解っていた。天皇が事 実上封印されてきた大権を漸く行使できたことも理解した。最年長の梨本宮は、皇族を代表 して奉答した。 「陛下の御英断に謹んでお従い致します。そして今後共国体の護持に全力を 尽くします。 」 15 日、天皇の声がラジオで放送され、国民はこれを聴いた。 新しい近代国家 17 日、東久邇宮稔彦王(梨本宮の弟)が首相に任ぜられた。陸海軍にはなおも抗戦を主 張する者が多く、若い皇族たちが手分けして各地へ向かい、これを押えた。 一方朝鮮半島では、情勢は混沌としていた。日本が撤退した後に米国が海側から、ソ連が 大陸側から進駐して領土はほぼ二分された。南部は李承晩が掌握したことはすぐに分かっ キムイルソン たが、北部を占めた親ソ派の金日成は当時無名の共産主義者であり、事態の推移は容易につ かめなかった。李王の周囲はすわ王政復古か、と浮足立ったが、むしろ本国では李王家に対 する反感が非常に高かった。 「帝国主義の手先」とみなされていたのである。 30 日、連合国軍のダグラス・マッカーサー司令官が厚木飛行場に降り立つ。9 月 4 日に は臨時議会が始まり、5 日、東久邇宮が議会で演説、国家の復活を宣言して国民を鼓舞した。 日本が連合国の施政権下に入った直後から、戦争の指導者層の社会的・経済的排除が始ま った。11 日には当時の首脳に対して戦犯として逮捕が命令され、12 日には東條が自殺未遂 を起こす。27 日、天皇とマッカーサーが会見。この時二人で撮影した写真の公表停止の可 否が問題となり、10 月 5 日、東久邇宮は内閣総辞職に至った。宮内省は、このようなこと で本当に天皇と皇室が守られるのか、半信半疑であった。 28 日、司令部の命で皇室財産の調査が入った。9 月の時点で日本の産業を支配した財閥 を解体する方針が決まっており、皇室も財閥のうちの一つしてみなされていた。調査の結果 公表された皇室財産は、美術品、宝石、貴金属や宮家の財産を除いて 16 億円に達した。11 月 20 日、皇室財産は差し押さえられ、経常費を除いて取引は封鎖された。 12 月 2 日、外相吉田茂が宮を訪れた。宮は当時、梨本宮邸跡の茶室に落ち着いていた。 吉田が云うには、司令部が宮の出頭命令を出したというのである。梨本宮は戦争そのものに はさほどの協力はしておらず、自身の逮捕は夢にも思わなかった。思うに、神宮祭主をやっ ていたから目をつけられたのだろう、これは天皇に対する圧迫である、と云った。各方面か ら見舞いの訪問や食料、報道記者の取材が相次いだ。11 日、伊都子妃と共に参内して天皇 皇后に別れの挨拶をした。天皇は高齢の宮をねぎらい、毛布二枚を賜った。出頭日の 12 日 朝、李王家、広橋家、松平家ら親族が見送りに来た中を、梨本宮は風呂敷包みの肌着を手に 宮内省の車に乗り込み、巣鴨へ向かった。 梨本宮は拘置所の独房に入れられた。暫く経ってから二人部屋に移され、若い士官と一緒 になった。士官は親切に世話をしたが、暖房の無い部屋は身にこたえ、手にはしもやけがで きた。 23 日、広橋真光が友人からの情報を仕入れて来邸した。やはり梨本宮の拘禁は見せしめ 或いは不十分な捜査による誤認で、天皇の取り扱いに一段落がついたら無罪で釈放される というものである。しばらく後に外務省からもそのような報せが届く。宮との面会は許可さ れていたが、宮は金網越しだから来るに及ばぬと葉書を出してきたため、伊都子妃は一度も 行かなかった。 昭和 21 年(1946 年)4 月 4 日、梨本宮は尋問を受け、戦争に積極的に関与していなかっ たことを改めて確認した。13 日、梨本宮は釈放された。伊都子妃も宮邸の事務官も直前に 新聞記者がやって来るまでそのことを知らず、ジープが茶室前まで乗り付けると、大騒ぎに なった。髪は耳にかかり、頬はこけて、少々やつれた表情ではあるが健康は損なわれていな かった。風呂に入っていると親族が集まってきて、皆で祝杯を挙げた。15 日、参内して出 所の挨拶。 5 月 21 日、司令部は皇室の財産上の特権を剥奪した。これにより、免税特権や配給面で の優遇が無くなった。そして財閥解体の過程において、高い財産税が課せられることは確実 であった。 7 月、梨本宮家でも財産整理をして、河口湖別邸を売却した。宮の印がついた品や伊都子 妃愛用の琴も手放した。河口湖別邸が片付く前に伊豆山別邸の売却も決まり、11 月までか かって整理。買い手の一家と会った時の伊都子妃の感想は、 「とにかく成金で、相当の財産 を持っているらしい。あんないなかものゝババーや青二才に此家を勝手につかはれるのか と思ふと、くやしくてくやしくてたまらない。」 10 月 11 日、議会で財産税法が可決、最高で 90%の財産税が課せられることとなり、皇 室の財産には 90%が適用、各宮家にも、差はあれどもそれぞれ高税が課された。 この時点で、14 ある宮家の内いくつかを臣籍降下させることが内々に決まっており、い くつを残すかが検討されていた。天皇の弟宮である秩父、高松、三笠の三宮を残すことは決 まっていたが、残りの 11 宮は男系での遠さは全て同じである。皇后の実家の久邇宮、明治 天皇の血を引く竹田、北白川、朝香、東久邇の四宮などが残留の候補に挙がった。然し結果 は、11 宮全ての降下であった。11 月 29 日、皇族が宮中に召され、天皇から直々に申し渡 された。天皇は、これからも貴賓ある生活をしていただきたい、こちらも出来るだけの補助 はする、と云った。 昭和 22 年(1947 年)3 月 15 日、財産税の納付期限日。梨本宮家は財産 3686 万円、課 税は 2565 万円。李王家は朝鮮の分を除いて財産 960 万円、課税は 750 万円。 4 月 20 日、第 1 回参議院議員選挙。千葉県庁に転属していた広橋は、知事の小野哲が出 馬のために退官したため 3 月 14 日に急きょ知事に就任。翌月の民選知事が誕生するまでの 1 ヶ月間の知事であった。5 月 2 日限りで貴族院は廃止され、皇族議員であった梨本宮は失 職する。 5 月 3 日、日本国憲法施行。皇室に先立ち王公族および華族はこの日限りで廃絶となり、 李王家は法的には在日朝鮮人に、広橋、松平、鍋島の各家は平民になった。 臣籍降下は形の上では各皇族が自発的に行うこととされ、宮内庁起草の請願書に署名し た。10 月 13 日、皇室会議で 11 宮家 51 名の降下が決定、その日の内に新たな戸籍取得の 手続きを踏み、14 日に平民となった。 18 日、最後の挨拶のために賢所を参拝し、天皇皇后に拝謁、天盃下賜。夜に赤坂離宮で 晩餐会が開かれた。天皇が、御家御発展を祈る、と述べられると、守正は 51 名を代表して 晩餐の御礼を言上し、皇室の隆昌を祈った。 20 日、梨本家は盗難に遭った。伊都子の物は和服と小紋少しであったが、守正のものは 冬物が「背広のこらず、下着のこらず、靴下大かた、パジャマ大かた、和服羽織などのこら ず」奪い去られた。 26 日、赤坂離宮で御茶会が開かれた。正式な晩餐会とは違ってくだけた雰囲気に参加者 は談笑したが、守正は着ていく服が無く、伊都子一人の出席となった。 昭和 25 年(1950 年) 、李垠と方子は朝鮮に渡ることが未だ出来なかった。2 月に来日し た李承晩と面会し帰国の意思を示したが、李承晩は歓迎しなかった。北の金日成との微妙な 関係の中、旧王族を国内に入れることによる影響は何としても避けたかった。6 月 25 日、 朝鮮戦争が勃発。 この年の参院選に、広橋は吉田茂率いる自由党公認で出馬した。自由党は第一党になった が、広橋は落選。その後は企業の取締役を勤め、絞首刑となった東條英機の研究に協力する などして余生を送った。 11 月 28 日、守正と伊都子は金婚を迎える。 昭和 26 年(1951 年)1 月 1 日未明、守正の体調が急変する。明け方、臨終を迎えた。10 日、豊島ヶ岡墓地に葬られる。皇族としては初めての火葬であった。 9 月 9 日、講和條約締結、日本の独立が決まる。占領期間中に、維新以来の社会の矛盾は 概ね溶解されたといって良く、格差も大幅に縮小されていた。 この頃、韓国政府は李邸を韓国の所有物件として夫妻を退去させようとした。当時李邸は、 参議院議長公邸として貸し出されていた。李垠は参議院との契約を打ち切って応じようと したが、韓国政府からの送金は無かった。結局、邸は衆議院議長の堤康二郎に売り渡し、田 園調布に引っ越した。 昭和 27 年(1952 年)3 月 19 日、守正の公職追放が解除され、名誉を回復した。昭和 29 年(1954 年)には伊都子に陸軍大将未亡人として恩給が支給された。 李家の一人息子玖はマサチューセッツ工科大学に進学し、現地の建設会社に就職する。卒 業に際し、垠と方子は那須の別邸を売却し、米国を訪問する。はじめての二人きりでの旅で あった。 昭和 33 年(1958 年) 、李垠は脳血栓で倒れる。滞在資金も減り、方子は日本に帰国する ことを決断する。玖が同僚のジュリア・ミューロックと結婚するのと同時期であった。吉田 茂の尽力で日本政府から生活費の補助が出ることになった。 帰国直後、皇太子の婚約が発表される。伊都子は、平民籍の正田美智子が選ばれたことに、 そしてまるで芸能ニュースのようにあつかう世間に憤慨している。この時に詠んだ詩。 あまりにも かけはなれたる はなしなり 吾日の本も 光おちけり 国民が こぞりていはふ はづなるに みせものごとき さわぎ多かる 妹の信子はあからさまに反対していたが、元皇族の伊都子はさすがに自重した。 昭和 35 年(1960 年)に李承晩は辞任して亡命、朴正煕が政権を握る。朴は韓国の経済発 展を優先し、韓国社会もようやく落ち着きを取り戻し始めた。その矢先の昭和 36 年(1961 年) 、垠は脳軟化症で倒れる。11 月、朴は渡米の途中に訪日し、垠を見舞った。方子に対し て、用意はこちらで責任を持つので、どうかいつでもおかえりいただきたい、と伝えた。心 を病んで離婚し、入院していた徳恵が先に帰国し、次いで昭和 38 年(1963 年)11 月 22 日、 垠と方子が韓国へと還った。垠が日本に留学してから、56 年が経っていた。空港で歓迎を 受け、垠はそのまま入院した。方子は介護を続けた。昭和 45 年(1970 年)5 月 1 日、垠は 歿した。 旧皇族は、社会の荒波にのまれて数奇な運命を辿るものも多かったが、老齢で独り身の伊 都子は落ち着いた日々を送った。趣味の歌舞伎を楽しみ、皇族との交流も続いた。「最後の 貴婦人」と呼ばれた伊都子は長命したが、乳がんの手術の経過が思わしくなく、昭和 51 年 (1976 年)8 月 19 日、生涯を閉じた。 方子に対する韓国社会の空気は必ずしも良くは無かった。誹謗中傷もあった。方子はその 中で、貧者、障碍者福祉に取り組んだ。福祉活動そのものに対する理解も十分ではなかった が、晩年には政府の人間から感謝の言葉が贈られた。 方子は「一韓国人として悔いなく」生き切った。平成元年(1989 年)4 月 30 日没。奇し くも、没年も天皇と同じ年であった。韓国政府は、皇太子妃の準国葬をもって方子を讃えた。 参考文献 伊藤隆・廣橋槇光・片島紀男編「東條内閣総理大臣機密記録」 (東京大学出版会 1990 年) 小田部雄次「梨本宮伊都子妃の日記」(小学館 1991 年) 小田部雄次「李方子」 (ミネルヴァ日本評伝選 2007 年) 竹田恒泰「語られなかった皇族たちの真実」 (小学館 2004 年) 林茂「日本の歴史 25 太平洋戦争」 (中公文庫 2006 年)
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