松平宮司のひん曲がった歴史観

松平宮司のひん曲がった歴史観
保阪正康著『「靖国」という悩み−昭和史の大河を往く−』(2013年4月、中央公論
社)によると、松平宮司のひん曲がった歴史観について、保坂正博はその中で次のように
述べている。すなわち、
『 松平宮司の父・慶民(よしたみ)は、戦前から天皇に仕えた宮内官僚だが、とくに
戦後すぐは宮内大臣のポストにあって天皇の側近の一人となり、対GHQとの交渉に当
たった。天皇が「平和に強い考があった」と評するのは、自らの意を受けての敗戦後の国
家再生の路線を忠実に守ったという意味を含んでいる。このことをわたくしなりにかみく
だいて説明すれば、次のようになる。「天皇は、昭和20年8月15日に第日本帝国は
「君主制の軍事主導体制」から「君主制の民主主義体制」に移行すべきだと考えた。その
ことをもっともよく理解をして、この方向を目指してくれた側近の一人が松平 慶民(よし
たみ)であった。その息子が、この父親の心境を理解しないことこそ、「親の心子知ら
ず」というべきではないか』
『 天皇のいう「平和に強い考」とはこうした意味である。「平和」とは、「君主制下の
民主主義体制」をさしている。そのことを歴史的に俯瞰(ふかん)すれば、天皇にも、宮
中官僚にもあえて口に出さないまでもあたりまえのことなのに、その息子はそんな歴史上
の変革をまったくわかっていないとの「怒り」である。(中略)このことは、松平永芳宮
司は「君主制下の軍事主導体制」の考えから今なお脱していないという意味でもある。天
皇は、侍従長だった徳川義寛を通じて、靖国神社にその意思を伝えたにもかかわらず、あ
るいは徳川義寛から松平宮司のA級戦犯合祀の強引な手法を耳にして、激しい怒りの感情
をもち、それを昭和53年以後は一貫して持ちつづけていたと解釈することができる。』
『 靖国神社の宮司に松平永芳(ながよし)が就任したのは、昭和53年7月である。松
平氏は大正4年生まれで、祖父は福井藩主の松平春嶽(しゅんがく)、父は 松平慶民
(よしたみ)である。(中略)松平氏は宮司に就任したその年の例大祭でA級戦犯14人
を合祀した訳だが、そのことを表面上は明らかにしなかった。その後少しずつ一般にも知
られるようになり、やがてこのA級戦犯合祀は重要な政治問題となっていく。なぜ松平宮
司は合祀したのか。そのことについて退職後のある後援会でその心情を率直に打ち明けて
いる。この後援会の記録は、平成4年12月の「諸君!」に「誰が御霊を汚したのか・・
靖国奉仕14年の無念」と題して収められている。また靖国神社側もこの稿をもとに小冊
子を作成している。松平宮司のこのA級戦犯合祀論はきわめて特異な歴史観を根拠にして
いる。わたくしはことがなぜ今まで大きく採り上げられなかったのかが不思議である。そ
こでまず松平宮司はここでどういう歴史観を披露しているのか、そのことを明らかにして
おかなければならない。』
『 松平氏の考えをわかりやすくかみくだいていくと、次のようになる。「大日本帝国が
軍事的に戦争に敗れたのは昭和20年8月28日である。しかし政治的に大東亜戦争が終
わったのは昭和27年4月28日である。したがってこの間は国際法では戦闘状態にあっ
たことになる。この戦争状態にあった時に死亡したA級戦犯28人のうちの14人は戦場
での死と同じである。当然、靖国神社に合祀すべき御霊である。」」
『これがまず松平宮司のもっとも強調したい点であった。そしてこれこそが松平宮司の歴
史観となる。』・・・と。