日本史という学問の始まり。 日本という概念がまだなかった時代の話

 ①原始 日本史という学問の始まり。 日本という概念がまだなかった時代の話。いかにして現在の「日本の土地」で人々が
生き、どのような生活をしていたのかを学んでいこう(*^。^*) 私立、国立の試験にはあまりでないと言ってもいいかもしれない。 だから手を抜く人が多いけどセンター試験では当たり前のように出題されるから気を付けよう! 内容は簡単で、教科書をしっかり読みこめば得点しやすいところでもあるよ(・.・;) 1
1、 文化の始まり 旧石器時代 (人類は 650 万年前の第三期鮮新世後期にアフリカで誕生し、第四期を通じて発展
する。) 更新世 4回の氷期(3回の間氷期) ※海面が現代より低い→日本列島は大陸と陸続き 現在の日本に人類が渡来したのは約3万年前から1万年前の【更新世】末期である。
そして大陸と切り離され、ほぼ現在に近い日本列島が形成される。 北 マンモス ヘラジカ こいつらを 南 ナウマンゾウ オオツノジカ 追ってきた 【猿人→原人→旧人→新人】 アウストラロピテクス→ピテカントロプス→ホモサピエンス→クロマニョン人 日本各地で発掘された化石人骨が証拠 静岡県 明石人 沖縄県 湊川人 山下町洞人 兵庫県 明石人 〇旧石器時代の人々の生活 文化 旧石器時代→新石器時代 打製石器→打製石器 及び 磨製石器 1946年 【群馬県岩宿遺跡】 【相沢忠洋】により発見 【関東ローム層】の赤土の中から【黒曜石】を発見 2
※そもそも、日本には旧石器時代の遺跡が存在しないと考えられていたが、岩宿遺
跡の発見で旧石器時代の研究が本格化されるようになった。 ・黒曜石の産地 北海道 十勝岳 長野県 和田峠 熊本県 阿蘇山 大分県 姫島 〇石器の種類 ① 握槌 (ハンドアックス) 動物を殺すため(^_-) ② 石刀 (ブレイド) 肉切り ③ 尖頭器 (ポイント) 刺突用 槍 ④ 細石器 (マイクロリス) 細かい黒曜石の破片を木に埋め込んだ (中石器時代) ☆【狩猟】・【漁】による生活 農耕・牧畜・土器がなかった時代 2、 縄文時代の成立 【狩猟】・【漁業】・【採集】 約1万年前の【完新世】 気候が温暖になり、海面が上昇し日本列島が大陸から分
離し、現在に近い自然環境となる。 東日本 ブナ ナラ 落葉広葉樹林 西日本 シイ 照葉樹林 〇 日本史を学ぶということはその時代の文化を学ぶことだと僕は考える。その時代
の環境に適した生活を営んできた過程に人々の間でさまざまな事柄が発生した。と
いう思考が大事である。 3
自然環境が変化し人々は、それに適した生活を送るようになる。 そうして【縄文文化】が成立する。 のろい大型動物→すばやい小型動物 狩猟技術の向上 ① 【磨製石器】の使用 ・石斧 ・石槍 ・石錘 教科書で要確認 ・石匙 ・石皿 【弓矢】の使用 小型動物捕獲のため 【骨角器】の使用 漁に使用 〇土器の出現 【縄文土器】 【草創期→早期→前期→中期→後期→晩期】 Q.早期までの土器の特徴は? A.先が尖った尖底土器 Q.土器が装飾的になったのは? A.中期 特徴 低温で焼かれ、厚く、もろい 縄の模様 〇【竪穴住居】の集落を形成 狩猟・採集中心の生活で貧富の差がない ※後期・晩期らへんで稲作が伝来(原始農耕) 佐賀県菜畑遺跡 福岡県板付遺跡 4
〇交易 石の分布 ひすい 姫川 サヌカイト 四国 二上山 黒曜石 十勝岳 和田峠 〇信仰 【アニミズム】 土偶 石棒 抜歯 屈葬 〇覚えておきたい縄文時代の遺跡 青森県 三内丸山遺跡 東京都 大森貝塚 byモース 1877年 長野県 尖石遺跡 3、 弥生時代の成立 紀元前300~紀元300 【金属器】・【水稲稲作】・【階級社
会】 前期・中期・後期 ☆九州からだんだんと東へと広がっていった。 ※北海道ではサケやマスの採集 【続縄文文化】 沖縄では貝などを採集する【南島文化】 5
〇 水稲耕作 中国の長江の下流域から朝鮮半島南部へ、そして九州へ 【初期農耕】 湿田 →種籾を【直播】 【石包丁】で穂首狩り ・・・木製農具 田下駄、田船、木臼、鋤、鍬 【高床倉庫】に保存した ex 唐古遺跡 【後期農耕】 乾田 【鉄製工具】の使用 ex 登呂遺跡 〇金属器の使用 【青銅器】 銅剣 瀬戸内海 銅矛 北九州 祭器 銅鐸 近畿 【鉄器】 鉄剣、鉄刀 出雲政権? ※島根県荒神谷遺跡 358本の銅剣 16本の銅矛 6この銅鐸 加茂岩倉遺跡 39この銅鐸 6
〇土器 1884年 東京都文京区弥生町で発見 特徴 ・高温で焼かれ、うすく、硬い ・赤褐色 ・種類が豊富 Ex 甕、壺、鉢、高坏 〇階級社会の形成 集落 【環濠集落】 集落のまわりに溝 【高地性集落】 Ex 佐賀県吉野ヶ里遺跡 〇墓 【伸展葬】 甕棺墓 支石墓 墳丘墓 方形周溝墓 山川日本史教科書 P15.16 世界のいずれでも農耕社会が成立するとともに、戦いのための武器や防御的施設を
備えた集落が出現し、蓄積された余剰生産物をめぐって戦いが始まったことが知られ
ている。 【クニ】のはじまり ※このクニのはじまりは中国の歴史書から確認できる。 次ページからそれについて確認していこう! 7
史料は教科書 check 「漢書」地理史 前漢の歴史についての史書 by班固(後漢の人) ※朝鮮4郡 by前漢 武帝 のうちの楽浪郡 (ピョンヤン) 「後漢書」東夷伝 後漢の歴史についての史書 by【范曄】(宋の人) 57年 光武帝より「漢倭奴国王」 福岡県志賀島 107年 帥升、安帝に生口160人献上 倭国大乱 2c後半 〇大陸 中国 220年後漢滅亡 魏・呉・蜀の三国時代 朝鮮 馬韓・弁韓・辰韓 「魏志」倭人伝 by陳寿(晋の人) 239年 邪馬台国の卑弥呼が帯方郡(ソウル)を通じて遣使 (難升米) 「親魏倭王」・金印・銅鏡紫綬 卑弥呼 鬼道によるシャーマニズム的な政治 247年 狗那国との争い 卑弥呼死後 卑弥弓呼→壹与 266年西晋へ遣使 〇身分 王 大人 下戸 生口・奴婢 8
② 古墳時代 農耕等生活様式の変化、向上によって人々は群れるようになった(^_-)群れたら上に
立つものがあらわれた。支配するものと支配されるもの。そこには何が必要なんだろ
う(+_+)政治にはなにが必要なんだろう。 中国・朝鮮との関係はめちゃくそ大事だ!中国という大国の文化、その隣に位置する
朝鮮の文化ってのは今後数百年と吸収して国として日本が成り立つように日本の歴
史上の人物がまねてきたわけよ。律令とかな? 日本という国が1回目の脱皮をするのがこの古墳時代だ。 9
① まずは古墳文化から 前期4c・中期5c・後期6c 前期 中期 後期 分布 近畿 全国 全国・増加 形 前方後円墳 巨大な前方後円墳 円墳・群集墳 内部 竪穴式石室 竪穴式石室 横穴式石室 副葬品等 鏡・剣・玉 馬具・武器 日常生活用具 埴輪 形象埴輪 形象埴輪 円筒埴輪 Ex 古墳 前期 中期 後期 終期 〇生活 住居 竪穴住居 平地住居 土器 【土師器】 【須恵器】 衣服 男 (衣・袴) 女 (衣・裳) 信仰 祈年祭 新嘗祭 、禊・祓、太占の法、盟神探湯 10
② 大和政権の成立 〇東アジア ・朝鮮半島(4c) ヤマトと朝鮮の接触 北部 南部 313年 高句麗が楽浪郡を滅ぼす 馬韓→百済 弁韓→加羅(任那) 辰韓→新羅 日本は1、先進技術導入 2、鉄資源確保 を目的として朝鮮半島のかつての弁韓、
つまり加羅と密接な関係をもっていた。 4c後半 高句麗が南下政策 for 鉄資源確保 高句麗 VS JAPAN あんど 加羅 391年 開戦 404年 JAPAN 敗戦 【高句麗皇太王碑文】 414年 【長寿王】 が丸都 に建立 高句麗に負けちゃったから JAPAN の朝鮮半島での軍事・外向的な立場がガタ落ち
(+_+) 中国様!!!お助けください(;O;) 「宋書」倭国伝 by沈約 ☆倭王武の上表文 教科書 check 武は 【安東大将軍】の称号を得る。 11
☆倭の五王 讃 珍 済 允敬天皇 興 安康天皇 武 雄略天皇 ☆渡来人 5c前後 旧楽浪郡 帯方郡 の漢民族 5c後半~6c 百済の民 7c半ば 高句麗、百済の民 渡来人は未熟な日本にさまざまな高度な技術をもたらしてくれた。 品部・・技術者集団 韓鍛冶部 錦織部 陶作部 鞍作部 土師部 ※代表的な渡来人 弓月君 秦氏 阿知使主 東漢氏 王仁 西文氏 論語・千字文 儒教の伝来(本格化は五経博士来日) 〇漢字の使用 【ワカタケル大王】=雄略天皇=武 熊本県江田船山古墳 太刀銘 埼玉県稲荷山古墳 鉄剣銘 支配領域拡大の証 12
☆仏教伝来 【百済】の【聖明王】が【欽明天皇】に仏像・経典をプレゼント。 538年 戊午説 上宮聖徳法王帝説 元興寺縁起 552年 壬申説 日本書紀 ☆医・易・歴博士の来日 602年 観勒 (百済)暦法 天文地理を伝える 610年 曇微 (高句麗)紙・墨 ③ 大和政権の構造 ※大和政権成立過程確認 大王を中心とする畿内有力豪族の集合政権 4c 九州~中部地方 を支配下に 5c 関東 〇氏姓制度 豪族たちは血縁やその他の関係をもとに構成された氏と呼ばれる組織に編成され、
氏単位にヤマト政権の職務を分担し、大王は彼らに姓をあたえた。 【臣】 【連】 【君】 【直】 【造】 【首】 〇私地私民 大王 屯倉 「子代・名代の民」 豪族 田荘 「部曲」 ※奴婢という奴隷がその下にいる 13
④ 飛鳥時代 飛鳥時代は 【天皇】と【超有力豪族】が 【律令国家】の根本を築きあげる時代だ。ま
だ国として未熟であるから、ちゃんとした法がない。 時は明治時代、日本が憲法など
の法をもっていなかったがために列強から遅れた国とののしられ、対等な条約を結べ
なかった。国として成立するためには「法」というものが必要だったんだ。だから飛鳥
時代の人々はとにかく進んだ中国の文化をパクリまくるわけよ(^_-) この時代の天皇はめちゃめちゃはちゃめちゃな力を持っている。みんなが知ってる有
名な律令なんかをバンバン天皇の命令で有力家臣につくらせる。 継体天皇・・・欽明天皇~12cあたりまでの天皇は順に言えるようにしよう!めちゃめ
ちゃ楽になるぜ! 14
①大和政権の発展 東アジア情勢 朝鮮 朝鮮半島での高句麗の圧力が高まる→百済・新羅の南下→加耶諸国が支配
下る。 中国 589年隋が南北朝統一 高句麗とバトル!!! 日本は加耶諸国と密接な関係を持っていたがために、朝鮮半島での地位を後退させ
ることとなった。 512年 【大伴金村】が勢力を拡大→越前より【継体天皇】をむかえる 任那4県割譲 for 百済←大失敗 →【物部尾輿】により弾圧される。 539年 欽明天皇 をむかえる by物部 蘇我 百済に4県を割譲したが、百済は新羅・高句麗にどんどん圧力をかけられていた JAPAN{やべーよ、応援おくらねーと} 【近江毛野】を派遣 九州から朝鮮へ But 527年 【筑紫国造岩井の乱】 新羅と手を組んで反乱を起こす →【物部麁鹿火】によって鎮圧 ☆崇仏論争 538、552伝来 崇物派 排仏派 蘇我稲目 VS 物部尾輿 蘇我馬子 物部守屋 15
587年 蘇我馬子 が 物部守屋を滅ぼし 崇峻天皇 擁立 物部氏滅亡→蘇我氏が勢力拡大 592年 崇峻天皇 暗殺 by東漢直駒 →【推古天皇】の即位!初の女帝 in 豊浦宮 ③ 推古天皇の政治 592年 推古天皇即位 593年 聖徳太子 が 摂政となり 天皇を中心とする国家組織を目指す 603年 【冠位十二階】 氏姓制度を廃止 ・ 徳・仁・礼・信・義・智 それぞれ大小 ・世襲制の廃止 ・律令制度における位階制の第一歩 604年 【憲法十七条】 国家の官僚としてのあるべき姿 620年 国史編纂 【天皇記】【国記】 by聖徳太子・馬子 ☆推古朝外交 589年 隋 成立 607年 小野妹子派遣 (隋皇帝 煬帝) 隋とのつながりを強め、新羅の勢力拡大を阻止しようとした。 608年 裴世清来日 、 小野妹子 再び隋へ ☆高向玄理 南淵請安 旻 614年 最後の遣隋使 【犬上御田鍬】 第一回遣唐使メンバーでもある。 「隋書」倭国伝 日本書記 618年 隋 滅亡 唐成立 中央集権化 622年 聖徳太子没 16
④ 蘇我氏専横~大化の改新 聖徳太子没後 蘇我氏の勢力が拡大する 629年 【舒明天皇】が蘇我蝦夷のバックアップにより即位 642年 【皇極天皇】即位 女帝 in 飛鳥板葺宮 蘇我入鹿の力が最強モード 643年 【山背大兄王】が自害 in 斑鳩宮 645年 【乙巳の変】 【中大兄皇子】【中臣鎌足】が蘇我入鹿を暗殺、蝦夷自害 →蘇我氏滅亡 646年 【孝徳天皇】 即位 in 難波長柄豊碕宮 皇太子 中大兄皇子 左大臣 阿倍内麻呂 右大臣 蘇我倉山田石川麻呂 内臣 中臣鎌足 国博士 高向玄理・旻 【改新の詔】 1、 公地公民制 私地私民からの移行 食封 2、 地方行政区分 国司・郡司 3、 班田収授法 戸籍・計帳 4、 新税制 天皇中心の中央集権的な統一国家への道がこれより始まる。 ☆東北経営 647年 渟足柵 設置 648年 磐舟柵 設置 654年 孝徳天皇 没 655年 斉明天皇 即位 (皇極天皇の重祚) 飛鳥へ戻る 658年 ・阿倍比羅夫 蝦夷征討 660年蝦夷 粛慎 平定 17
☆半島緊迫状態 658年~唐・新羅連合軍が百済襲撃 660年 百済滅亡 百済王族により援軍要請 斉明「OK!」 朝倉宮へ 661年 斉明天皇 没 中大兄皇子の称制開始 663年 白村江の戦い で日本軍大敗 国防強化 (水城・大野城・朝鮮式山城) 668年 高句麗滅亡 676年 新羅半島統一 ⑤ 天智天皇~ 667年 中大兄皇子 近江大津宮へ遷都 668年 天智天皇 即位 近江令の制定(中臣鎌足ら) 669年 中臣鎌足 没 (藤原姓!!!!!!をもらう) 670年 【庚午年籍】の作成 初の全国的な戸籍 672年 【壬申の乱】 皇位継承問題は今後数百年の間起こり続けるが、これは初の争いです。 大海人皇子(弟) VS 大友皇子(子) 吉野 近江朝廷 大海人皇子が勝利し、 673年 【天武天皇】 即位 in 飛鳥浄御原宮 ☆皇親政治 で大臣をおかず 681年 飛鳥浄御原宮令 制定 by粟田真人 編纂 684年 【八色の姓】 真人 朝臣 宿禰 忌寸 道師 臣 連 稲置 国史 「帝紀」 「旧辞」 刑部親王ら編集 686年 天武天皇 没 (持統天皇の称制) 18
670年 持統天皇 即位 689年 飛鳥浄御原令 施行 690年 【庚寅年籍】 作成 694年 藤原京 へ遷都 ⑥ 律令制度について A. 法典確認 ・近江令 ・飛鳥浄御原令 ・大宝律令 【文武天皇】701年刑部親王 藤原不比等 ・養老律令 【元明天皇】718年成立 藤原不比等【孝謙天皇】757年施行 藤原仲
麻呂 B. 中央政府 【二官八省一台五衛府】 中務省( ) 式部省( ) 神祇官 治部省( ) 左大臣 左弁官 民部省( ) 太政官 太政大臣 大納言 少納言 右大臣 右弁官 兵部省( ) 刑部省( ) 大蔵省( ) 宮内省( ) 弾正台 衛門府 五衛府 左右衛士府 左右兵衛府 19
地方制度 【五畿・七道】 五畿 摂津・河内・和泉・大和・山背 七道 東海道 東山道 北陸道 山陰道 山陽道 南海道 西海道 国 国司 中央から派遣 任期6年 郡 郡司 地方豪族を任命 里 里長 微税役人 ・特別区域 京職 摂津式 大宰府 C. 律令官人制 【官位相当の制】・・・官職と位階が相応し、相当した官職に任命する 正一位~少初位までの30階 ex 太政大臣 正一位、従一位 左右大臣 正二位、従二位 大納言 正三位 【蔭位の制】 五位以上の貴族の子、三位以上は孫まで、21歳で位階をもらえる ※特権あり 【四等官制】 神祇官 太政官 省 衛府 大宰府 国 郡 長官 卿 守 大領 次官 輔 介 少領 判官 丞 掾 主政 主典 録 目 主張 20
〇 身分制度 良民 皇族・貴族・官人・班田農民・品部 賤民 【五色の賤】 陵戸・官戸・家人・公奴婢・私奴婢 売買の対象だった 〇 刑罰 【五刑八虐】 五刑 苔・杖・徒・流・死 八虐 国家・天皇・尊属に対する罪 〇 土地・税 【班田収授法】 ・6年ごとに戸籍を作成 ・戸籍は30年保存する。(庚午年籍を除く) ・税徴収のための計帳 ・6歳以上の男女に口分田を与える ・死者の口分田は次の班田年に回収 ☆班田面積 良民男子 ( )=720歩 良民女子 ( )=480歩 官有賤民男女=良民と同じ 私有賤民男女=良民の3分の1 ※条里制をとり、口分田の班給をしやすいようにした。 ☆田の種類 口分田・位田・職田・功田・乗田・・・ 21
☆税制 【租・庸・調・雑徭】 租・・・1段につき2束2把(収穫の3%)を国衙に納める 庸・・・布2丈6尺 or 年10日の歳役 調・・・郷土産物を一定量 雑徭・・・地方での労役60日(国司の権限) ※ 庸・調は都まで運ぶ(費用は自己負担)←めっちゃきつい(;O;) 正丁 次丁 中男 21~60 61~65 17~20 庸 調 雑徭 それ以外に ・義倉・・・凶作に備え、粟・米を貯蔵する。(貧富に応じて、納める量が変わる) ・仕丁・・・50戸から2人の割合で中央官庁の労役3年間 ※1里=50戸 ・衛士・・・京の警備1年 ・防人・・・大宰府警備3年 →正丁3人に1人の割合 ・出挙・・・稲を貸出し、利息をつけて回収する 私出挙・公出挙 22
⑤ 奈良時代 元明天皇に始まる奈良時代。日本史において難関テーマとされている荘園が成立す
る。天皇・皇親勢力・藤原氏の勢力争いも主立っている。日本史にとっては最初の重
要な時代と言ってもいいでしょう(・.・;) 。 奈良時代攻略ポイント ① 元明天皇~桓武天皇までは何も見ずに順に言えるようにしよう。 ② それぞれの天皇を助けた有力勢力の人の名前を天皇とセットで言えるようにしよ
う。 ③ そいつらが出した法令などを言えるようにしよう。 ④ 国立・上位私立目標の人はその法令のバックグラウンド(要因・目的)を講座・教
科書などでしっかり確認し言えるようにしよう。 荘園の成立は、間接的に未来の武士、戦国大名を産み出すものとなる 基礎の基礎が大事(^_-) 23
① 平城京 707年 【元明天皇】 即位 708年 【和同開珎】鋳造 ・中国の開元通宝をモデルとした ・武蔵国の銅 ・【皇朝十二銭】の最初(最後は村上天皇の【乾元大宝】 958年) (711年) 畜銭叙位令 710年 平城京遷都 条坊制 朱雀大路 左京 右京 大内裏 ・飛鳥の豪族勢力の力から離れる 712年 【古事記】 ・「帝紀」・「旧辞」を【稗田阿例】が読み、【太安万侶】が筆記 ・神話・伝承から推古天皇までを【紀伝体】で記す。 【出羽国】設置 713年 【風土記】 各地の伝説をまとめた 播磨・出雲・肥前・豊後・常陸 715年 【元正天皇】即位 718年 【養老律令】 制定 by藤原不比等 ※施行は757年 by藤原仲麻呂 720年 【日本書紀】 by舎人親王 神話・伝承から持統天皇までを編年体で記す。 ・日本書紀(720) 舎人親王 神話・伝承~持統 ・続日本紀(797) 菅野間道 文武~桓武 ・日本後紀(841) 藤原緒嗣 桓武~淳仁 ・続日本後紀(869) 藤原良房 仁明 ・日本文徳天皇実録(879)藤原基経 文徳 ・日本三代実録(901) 菅原道真 清和 陽成 光孝 24
② 政争 720年 藤原不比等 没 光明子立后計画の矢先 (722年 百万町歩開墾計画) (723年 三世一身法) 724年 【聖武天皇】 即位 (文武天皇と 不比等の娘 【宮子】の子) 【長屋王】の全盛期 ☆光明子立后の反対勢力 729年 【長屋王の変】 藤原四子が長屋王に謀反の疑いをかけ、自害に追い込んだ。 ・武智麻呂 南 ・房前 北 ・藤原4兄弟が政治の実権を握る(藤原四卿政権) ・宇合 式 ・光明子立后の成功 ・麻呂 京 737年 天然痘の流行 藤原4兄弟がそろって昇天 【橘諸兄】政権の始まり (不比等の妻 三千代と三野王の子) ・【吉備真備】・【玄昉】の重用 740年 【藤原広嗣の乱】 in 大宰府 ・太宰少弐 ・大野東人により鎮圧 ※ これより聖武天皇の遷都が始まる 平城京→恭仁京(741年)→紫香楽宮(742)→難波宮(744)→紫香楽宮→平城京
(745年) 741年 【国分寺建立の詔】in 恭仁京 ・国分寺 (僧20人) 【金光明四天皇護国寺】 【金光明最勝王経】 ・国分尼寺(尼10人) 【法華滅罪乃寺】 【妙法蓮華経】 ※ 総本山を それぞれ 東大寺 法華寺 とした 743年 【盧舎那仏造立の詔】in 紫香楽宮 (※この時の都は恭仁京) ・造立長官 国仲公麻呂 (743年 墾田永年私財法) 25
749年 【孝謙天皇】即位 (聖武天皇と光明子の子) 藤原家の再台頭 【藤原仲麻呂】の発言力が増す 755年 橘諸兄 が辞職 (聖武上皇への不敬発言を恥じた) 756年 聖武上皇 没 【橘奈良麻呂の乱】 (諸兄の子)失敗し獄死 757年 養老律令の施行 758年 【淳仁天皇】 即位 仲麻呂のバックアップ →仲麻呂の権力最強レベルになる ・淳仁天皇より【恵美押勝】の名を賜る ・近江国に(保良宮)を造営 ・官職名の唐風化 太政官→乾政官 太政大臣→大帥 ・【紫微中台】の長官となる (皇后宮職の唐風名) →光明皇后との関係 ・新羅征討計画をだしていた(未遂) ・【門民苦使】の設置 760年 光明皇后 没 仲麻呂勢力の低下 【道鏡】が【孝謙上皇】の寵愛を受け政界進出を果たす 764年 【恵美押勝の乱】 失敗 ・道鏡への権力移行に恐れをなした仲麻呂が権力復活をかけ挙兵 ・淳仁天皇は淡路に流される【淡路廃帝】 ・孝謙上皇が重祚し 【称徳天皇】 765年 道鏡 【太政大臣禅師】 766年 道鏡 【法王】 769年 【宇佐八幡宮信託事件】 ・【和気清麻呂】が道鏡のたくらみを阻止 大隅国へ配流 【下野薬師寺の別当】に左遷 ※以後、天武天皇系から天智天皇系の皇統へと移行させるby【藤原百川】 26
③ 土地制度 ※農民の負担は重い(ex 兵役、雑徭、運脚・・)かつ、飢饉等で不安定であった ・浮浪・・・戸籍地からはなれ 「調・庸」を納める ・逃亡・・・戸籍地からはなれ 「調・庸」を納めない ・私度僧・・・勝手に僧となり税を免除される ☆農民の貧困を述べた【山上憶良】の【貧窮問答歌】 口分田の荒廃が進み、班田が困難となっていた 715年 【土断法】 逃亡先で戸籍・計帳に登録させる(元正天皇) 722年 【百万町歩開墾計画】 (長屋王、元正天皇) 723年 【三世一身法】(養老七年の格) ※新地開墾すれば3世代・旧来の地開墾なら本人1代 回収はされるが私有地を認めた 743年 ☆☆☆【墾田永年私財法】(天平十五年の格) ※開墾地の永久所有を認めた。 ☆開墾面積は身分に応じて制限があった。一位で500町 初位で10町 ☆国司の許可が必要で、許可後3年以内に開墾しなくてはならなかった。 ☆開墾地は【輸租田】であった。 ※山川日本史教科書 P45 この法は、政府の掌握する田地を増加させることにより、土地支配の強化をはかる積
極的な政策であったが、その一方で貴族・寺院や地方豪族の私有地拡大を進めるこ
ととなった。 【初期荘園(墾田地系荘園)】 ☆荘園領主の直接経営 ☆律令制衰退とともに衰退 765年 【加墾禁止令】 (道鏡・称徳天皇) 寺院以外の加墾を禁止した。 772年 加墾禁止令 解除 (光仁天皇) 27
④ 遣唐使 (630~894) 第一回 630年 【犬上御田鍬】 (舒明) 廃止 894年 【菅原道真】の建議 (宇多) ・天武・持統朝では派遣されていない ・【四船】と呼ばれる ・航路 ※住吉大社で安全祈願後、福岡より渡航 〇北路 (630年~665年) 黄河 〇南島路 (702年~752年) 長江 〇南路 (773年~838年) 長江 A. 630年 犬上御田鍬 最後の遣隋使かつ最初の遣唐使 B.
C.
D.
E.
654年 702年 717年 752年 754年 高向玄理 粟田真人(遣唐使復活大使) 山上憶良 藤原宇合 阿倍仲麻呂(朝衡) 吉備真備 玄昉 藤原清河(河清) 【鑑真】 来日 【律宗】を伝える 【唐招提寺】 【東大寺】に戒壇を設ける (天下三戒壇 筑紫観世音寺 下野薬師寺) ※「唐代和上東征伝」淡海三船 F. 761年 【石上宅嗣】 (中止) 【芸亭】をつくる G.804年 橘逸勢 最澄 空海 三筆 空海・橘逸勢・嵯峨天皇 (平安前期) 三蹟 藤原行成・藤原佐理・小野道風 H. 838年 小野篁 円仁 「入唐求法巡礼行記」 当時の唐を知るための史料となる ※ライシャワーによって翻訳 ・「大唐西域記」 玄奘 ・「東方見聞録」 マルコポーロ I.
894年 菅原道真 の建議 → 廃止 山川教科書 P63 すでに唐は、8世紀の内乱ののちは衰退をつづけており、多くの危険をおかしてまで
公的な交渉を続ける必要がない 28
⑥平安時代 いよいよ平安時代に入っていく。400年間も続いたこの平安時代には様々な変化が
起こる。「武士」—―摂関家に代わり武家が実権を握っていく鎌倉・室町の時代への第
一歩がこの平安時代に誕生する(+_+)こいつらのせいで暗記がめんどくさい。 平安攻略ポイント 1、もちろん天皇は順におぼえよう。光仁~後三条天皇、その他上皇 2、天皇に関連する摂関家を天皇でセットで言えるようにしよう。 3、荘園制度についてしっかりまとめよう。 29
①桓武天皇の政治 770年 称徳天皇 没 【光仁天皇】 即位 【藤原百川】のバックアップ 781年 【桓武天皇】 即位 784年 【長岡京】へ遷都 (大友・佐伯氏は反対) ・仏教政治の弊害を断ち、天皇権力を強化するため ・造営長官 【藤原種嗣】 785年 藤原種嗣暗殺事件 ・早良親王(桓武の弟)が容疑者となる ・早良親王のたたりか?長岡京はなかなか完成せず、遷都を断念 794年 【平安京】 遷都 (和気清麻呂の建議) ・藤原黒麻呂が造営大使 ・山背国を山城国にあらためる ☆桓武天皇の政治 地方政治改革 ・【勘解由使】を設ける 792年 【健児の制】 ・軍団制を廃止し、農民の負担を減らす ・郡司の子や有力農民から有志を募る ・東北や九州は除外して軍団を残した。 班田収授を励行させるための打開策 ・班田収授・・・6年一斑→12年1班 ・雑徭・・・60日→30日 ・公出挙・・・利率5割→3割 効果はなかった 30
②地方支配 ☆ちょっと振り返り 708年 出羽柵 (山形県 最上川あたり) 712年 【出羽国】 713年 【大隅国】 設置 720年 【大伴旅人】によって【隼人】征討 724年 【多賀城】 設置 (宮城県) 【鎮守府】、【陸奥国府】を置く 733年 出羽柵が【秋田】に移される ※秋田県じゃないぞ!出羽国の秋田! 760年 秋田城 780年 【伊治呰麻呂の乱】 ・俘囚・・・蝦夷が朝廷に帰順したもの ・一時多賀城占領 ☆この後30年ほど、東北で反乱が続く 789年 【紀古佐美】を征東大使に任命 ・阿弖流為の反乱により大敗 797年 【坂上田村麻呂】を征夷大将軍に任命 802年 【胆沢城】を築き阿弖流為を破る 803年 北上し【志波城】を築く →北上川にそって東北支配が進む 811年 最後の派遣 【文室綿麻呂】 (嵯峨天皇) 813年 徳丹城を築く ③藤原氏北家の台頭 805年 【徳政総論】(日本後紀) ・【藤原緒嗣】(式家)と【菅野真道】の議論 「天下の苦しむところ軍事と造作なり」 ・蝦夷征服 ・平安京造営 ・桓武天皇によりこの2大事業は終了する 806年 【平城天皇】 即位 ・式家 藤原薬子を寵愛 ・病弱ですぐ退位 31
嵯峨天皇の政治 809年 【嵯峨天皇】 即位 ・平城京遷都を画策する平城太上天皇との不仲 【二所朝廷】 政治的混乱 810年 【薬子の変】 平城側が負ける 藤原薬子・仲成は死 平城出家 式家の衰退 ・【蔵人】を設置 蔵人頭 ☆☆☆【藤原冬嗣】(北家)・巨勢野足 ・【検非違使】 設置 ・格式整備 格 律令の規定を補足・修正 式 施行細則 820年 【弘仁格式】編纂 by藤原冬嗣ら ※ 869年 【貞観格式】 清和天皇 三大格式 907年 【延喜格式】 醍醐天皇 ※上記3格式の格のみを編集したものを【類聚三大格】という ※令の解釈注釈書 833年 【令義解】清原夏野 (公式) 9c後半 【令集解】惟宗直本 ☆藤原冬嗣(北家)の台頭!!!!!!!!!!!! 娘の順子を仁明天皇に入内させ【外戚関係】となる →子が文徳天皇 ☆冬嗣の息子 【藤原良房】の時代 842 【承和の変】 伴健岑・橘逸勢に謀反の疑いをかけ流罪とする。 ※ 良房の娘 明子を文徳天皇へ入内させる→子が清和天皇 850年 【文徳天皇】 即位 857年 良房 太政大臣となる 858年 【清和天皇】 即位(9歳) 良房 事実上の摂政となる 866年 【応天門の変】 伴善男が源信を放火犯だと訴えるが良房がその無罪を証明 →伴善男・紀豊城・紀夏井を流罪とした 良房 正式に摂政となる 32
☆藤原基経(良房の養子)の時代 876年 清和天皇 没 → 【陽成天皇】 即位 884年 【光孝天皇】 即位 基経が【内覧】となる(事実上の関白) 887年 【宇多天皇】 即位 正式に関白就任 888年 【阿衡の紛議】 起草者 【橘広相】失脚 891年 藤原基経 没 ※ 以後、宇多天皇は【菅原道真】を重用(蔵人頭) →【寛平の治】 ④延喜・天歴の治 894年 遣唐使 廃止 (菅原道真) 897年 【醍醐天皇】 即位 ※【寛平御遺誡】 →【延喜の治】 899年 【藤原時平】が左大臣となる 【菅原道真】は右大臣 901年 【昌泰の変】 藤原時平の策謀により、道真が太宰権帥に左遷 【日本三代実録】 ☆醍醐天皇による親政 902年 最後の班田命令 【延喜の荘園整理令】(類聚三代格) ・897年以降の勅旨開田を禁じた ・成立の由来がはっきりとしていて、国務の妨げにならない荘園は対象外 905年 【古今和歌集】 (最初の勅撰和歌集)紀貫之 ・以後8回編集される(八代集) ・近き世にその名きこえたる人(六歌仙) 【在原業平・小野小町・大友黒主・文屋康秀・喜撰・遍昭】 907年 【延喜格】 (最後の格) 唐滅亡→960 南宋 成立 927年 【延喜式】 (最後の式) 930年 【朱雀天皇】 即位 【藤原忠平】摂関復活 935年 【承平・天慶の乱】 33
☆村上天皇による親政 958年 【乾元大宝】鋳造 (皇朝十二銭の最後) 【後撰和歌集】成立 967年 【冷泉天皇】 即位 969年 ☆☆☆【安和の変】 【藤原実頼】の策略により、源高明を失脚させる ※関白太政大臣 藤原実頼 左大臣 源高明 右大臣 藤原師尹 ※実頼は源高明の外戚関係構築の危機に恐れをなした ※【源満仲】の協力→源氏台頭の礎 その後、摂関が常置され、その地位は忠平の子孫がつく 藤原北家での家督(氏長者)争い ・兼道(兄) VS 兼家(弟) ・道長(叔父) VS 伊周(甥) 道長 彰子 ←紫式部 一条天皇の中宮へ 道隆 定子 ←清少納言 ⑤摂関政治 法成寺 ☆藤原道長(御堂関白)(内覧として一条・三条・後一条に使える) 1016年 【後一条天皇】 即位 【藤原道長】 摂政 1017年 息子の【藤原頼道】に摂政を譲り、自身は太政大臣に 娘入内まとめ 彰子→一条天皇 妍子→三条天皇 威子→後一条天皇 (1018年) 望月の歌 「小右記」藤原実資 嬉子→後朱雀天皇 ※摂関政治は、【陣】で行われ、そこで定められた法案を【陣定】という 34
☆藤原頼道(宇治殿)(後一条・後朱雀・後冷泉に使える)1017年~1067年 平等院 ※一人娘の寛子を後冷泉の中宮に入内させるが皇子が生まれず外戚関係をこうちく
できない →頼道以降、摂関家の勢力が弱まっていく ※番外 山川日本史教科書 P62 (摂関政治の)政治の運営は、摂関政治のもとでも天皇が太政官を通じて中央・地方
の役人を指揮し、全国を統一的に支配する形をとったが、しだいに先例・儀式を重ん
じる形式的なものとなり、宮廷では【年中行事】が発達した。その反面、地方の政治は
国司にゆだねられ、朝廷が国政に関して積極的な施策をおこなうことはほとんどみれ
なくなった。 1019年 【刀伊の入寇】 ・女真族が博多に侵攻 ・大宰権師 【藤原隆家】により撃退 キーワード 【武士】 藤原道長が1018年に調子こいて望月の歌なんか歌ってる次の年には刀伊の入
寇・・・外国からの侵攻を受けている。摂関家が調子に乗ってるその時期に九州には
武士団が形成されていたことを示している。その武士団っていうのはいつごろからで
きはじめたんだろうか? 山川日本史教科書 P72 9cから10cにかけて(1)地方政治が大きく変化していくなかで、地方豪族や有力農
民は、(2)勢力を維持・拡大するために武装されるようになり、各地で紛争が発生し
た。 東国では良馬が産出されたため、機動力のある武士団の成長が著しかった。 と、前置きはこれくらいでいいとして、次ページから武士の起りについて1から確認し
ていこう!!!! 35
☆地方政治の変化 9c 823年【公営田】 大宰府 → 【官田】 10c 「人身賦課」から「土地賦課」へ ・土地賦課以降、田地の課税単位は 【名】と呼ばれる ・その土地を支配する者を 【田堵】と呼ぶ ・・・大名田堵 ・租・調・庸→【官物】 その他 【臨時雑役】 ☆国司が徴税請負人化【受領】する ・【成功】・・・官位を私財で買う ・【重任】・・・追加料金を払って国司に再任される ・【遙任】・・・任国に行かない 【目代】・・・その代理人 【在庁官人】・・・現地の実務を行う連中 【留守所】・・・国司のない国衙 各地でその勢力を維持・拡大のための他氏排斥が進むなか、「武士団」
とよばれる武力が形成されていった。 ・【武士】・・・棟梁が家子、郎党などを率いて戦う 〇988年 【尾張国郡司百姓等解文】 藤原元命 受領の横暴な税の取り立ての例 ⑥地方の反乱と武士の成長 承平・天慶の乱(朱雀天皇) 桓武平氏 935年 【平将門の乱】 ○平将門 VS 平国香× ・下総国【猿島】を拠点 ・【親皇】と称する ・【常陸→下野→上野】の順で国衙を襲撃 ・【平貞盛】【藤原秀郷】(押領使)によって鎮圧 36
935年 【藤原純友の乱】(伊予掾) ・伊予の日振島を拠点 ・瀬戸内海の海賊と結んで反乱を起こす ・【源経基】【小野好古】(追捕使)により鎮圧 清和源氏 清和天皇・・・・・〇→経基→満仲→頼信→頼義→義家→義親→為義→義朝→頼朝 →頼光・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→頼政 ※ 桓武天皇・・・・・〇→国香→〇→〇→〇→正盛→忠盛→清盛→重森 →〇→将門 →〇→〇→忠常 1028年 【平忠常の乱】(上総介) ・追捕使 平直方が征討に向かうが失敗 ・1031年 【源頼信】により鎮圧 ※ 源氏の東国進出のきっかけとなる 陸奥守として参戦 1051年 【前九年合戦】陸奥国 奥六郡が舞台 【陸奥話記】 ×阿倍時頼・貞任 VS 藤原頼義・義家○ 清原氏が助ける →鎮圧後【清原武則】が鎮守府将軍となり、清原氏が奥州覇者となる 1083年 【後三年合戦】 ・武則の孫の家衡・清衡の間で家督争いが起こる ・陸奥守 源義家が清原清衡を味方し乱を鎮圧 →清衡は「藤原」を名乗る →奥州藤原氏の繁栄、(平泉) 清衡・基衡・秀衡の3代 (泰衡が源頼朝に滅ぼされて滅亡) ・中尊寺金色堂 ※鎮圧をたすけた義家は政府に恩賞を要求するが、政府はこの戦いを私闘とみなし、
恩賞をあたえなかった。そこで義家は私財をなげうち、協力してくれた東国の武士に
自腹で恩賞をあたえた。それが起因し義家に寄進が集中するなど、関東源氏の武名
を高めることとなった。 37
⑦荘園制度 743年 天平十五年の格 →初期荘園の発生 A 浮浪・逃亡などで人頭税が不可能になり土地賦課となる B 国司が受領化する C 10cの田堵の一部は大名田堵と呼ばれる 税を集めまくりたい受領 VS できるだけ税は払いたくない開発領主 受領より権威のある人に寄付をして、徴税を抑える →【寄進地系荘園】の発生 例)少右記 「天下の地悉く一家の領となり、公領は立錐の地も無きか。」 受領が税を課税する土地 ・開発した土地を摂関家や有力な寺社に【寄進】するものが増える 1、寄進を受けた荘園の領主を【領家】と呼ぶ 2、1の荘園がさらに上級の者に寄進されたとき、その上級領主を【本家】と呼んだ 3、開発領主は預所職や公文、下司などの【荘官】となった 4、領家、本家などを【荘園領主】と呼んだ。 ※特権荘園の増加 太政官符・民部省符によって ・【不輸の権】・・・租税を免除してもらう 【官省符荘】【国免荘】 ・【不入の権】・・・検田使の立ち入りを拒否できる ※領家・本所のうち実質的な支配権を持つものを【本所】といった。 38
⑧後三条天皇の親政 1068年 【後三条天皇】 即位 ・ 【大江匡房】を重用 ・摂関家を外戚としない天皇権力を活かした政治 ・一応 藤原教通 を関白とする 1069年 【延久の荘園整理令】 ・【記録荘園券契所】が実務を行う (以前は国司が実務を担っていた) ・寛徳2年以降の新立荘園の停止 ・券契不明の荘園の停止 ・国務に妨げのある荘園の停止 ※ 石清水八幡宮領では34か所の荘園のうち21か所だけ認められ、残りは停止 成果)荘園整理は摂関家のものも例外でなく、かなりの成果をあげ、貴族や寺社の支
配する荘園と、国司の支配する公領(国衙領)とが明確になっていった。 【荘園・公領制】の確立 山川日本史教科書 P80 「荘園公領制では、耕地の大部分は【名】とされ、田堵などの有力な農民に割り当てら
れ、彼らは名の請負人としての立場から権利を次第に強めて【名主】とよばれた。名
主は、名の一部を下人などの隷属農民に、また他の一部を作人と呼ばれる農民など
に耕作させながら、【年貢・公事・夫役】などを領主におさめ、農民の中心になった。」 1072年 【宣旨枡】 度量衡を統一 太閤検地まで使用 ⑧院政のはじまり 1073年 後三条天皇 没 → 【白河天皇】 即位 親政を行う 1086年 白河天皇が【堀川天皇】に上位し、【白河上皇】(治天の君)となる →【院政】の開始 39
☆院政の特徴 1、上皇が天皇家の家長として国政の実権を掌握する→摂関家の後退 2、【院司】と呼ばれる役人が【院庁】で政治を行う。 3、上皇自らの命令を【院宣】といい、院庁がら出される公文書を【院庁下文】という 4、院司の中の中流貴族や受領は上皇に近づき【院の近臣】として勢力をふるった 5、院の御所を警備する組織として【北面の武士】を設置した 主に平氏 7、白河・鳥羽・後白河上皇は仏教をあつく信仰し、出家して法皇となり、六勝寺など
多くの大寺院を造営したり、しばしば熊野詣や高野詣を繰り返した。また京都郊外の
白河や鳥羽に離宮を造営したが、これらの費用を調達するために成功などの売位売
官の風が盛んになり、政治の乱れは激しくなった。 ※六勝寺 (法勝寺 白河) (尊勝寺 堀川) (最勝寺 鳥羽) (円勝寺 待賢門院) (成勝寺 崇徳) (延勝寺 近衛) ☆院の経済基盤 1、寄進地系荘園 院政初期は後三条天皇以来の荘園制度の趣旨を守っているのだが、やがて荘園の
寄進を受けるようになる。 ・鳥羽院政時 【八条女院領】→大覚寺統 ・後白河院政時 【長講堂領】→持明院統 2、知行国制度による収入 3、院分国制度 ☆寺院も同じように寄進が集まり力をつけていく→武装化 ・南都・・・・・奈良法師→興福寺の僧兵・春日神社の神人 ・北嶺—―山門・・・山僧→延暦寺の僧兵・日吉神社の神人 -寺門・・・寺法師→園城寺の僧兵 ※白河法皇の三代不如意「源平盛衰記」 「山法師、鴨川の水、双六の賽、これぞ朕の如意ならざるもの」 40
⑦鎌倉時代 源頼朝が約400年ぶりに征夷大将軍になり、長かった平安時代はここに幕をとじた。
わけなのだが、この鎌倉時代も「武士」によるつぶしあいそこに天皇家が介入したり、
血みどろのドロドロな昼ドラが繰り広げられるわけよ(・.・;)歴史上でも悪女5本指には
いる北条政子さんなどの北条氏の台頭とその滅亡までを学んでいこう! 個人的に鎌倉時代の土地制度は複雑で難しい。しっかりと理解していこう!!! うっし!まずは鎌倉幕府誕生までの流れ!!!! 41
①平氏の台頭 源義親の乱(出雲)を平正盛が平定 正盛の子、平忠盛は鳥羽上皇の信任を得る その勢力を伸ばしたのが忠盛の子である平清盛である 1156年 保元の乱 鳥羽法皇死去のため皇位継承争いが勃発 天皇側の勝利 天皇方 天皇家 後白河(弟) 上皇方 崇徳(兄) 藤原氏 藤原忠通(兄) 藤原頼長(弟) 平氏 平清盛(甥) 平忠正(叔父) 源氏 源義朝(子) 源為義(父)・為朝(弟) ※貴族の争いに、武士が調子に乗って参加した →武士の政界進出のきっかけ 乱後、後白河天皇は清盛を重用 1159年 平治の乱 平清盛 VS 源義朝 藤原通憲 藤原信頼 平家の勝利 → 源頼朝が【伊豆】へ流される 源義経が【奥州】へ流される 武士の実力でなんでも解決できてしまうという風潮 42
②平氏の政治 1167年 平清盛 が 武家初の 太政大臣となる ・娘の徳子(健礼門院)を高倉天皇へ入内させその子が安徳天皇 ・平家を地頭に任命した ・経済基盤 知行国(30か国) 荘園(500か所) 日宋貿易の収入(正式な国交は結ばれていない) 「平家物語」平時忠 この一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし ☆日宋貿易 音戸瀬戸・大輪田泊 輸入 宋銭・陶磁器・書籍 輸出 硫黄・刀剣・金 ※ 平氏は官職の独占を進めて支配の拡大をはかったために、排除された旧勢
力から強い反感をうけた 1177年 鹿ヶ谷の陰謀 首謀者 藤原成親・俊寛・西光 1179年 平重盛(親親政派) 没 清盛 後白河法皇を【鳥羽殿】に幽閉(治承3年の政変) 1180年 安徳天皇即位 以人王の令旨 ☆打倒平氏じゃ!!!!!!!!! 5月 源頼政・以人王の挙兵(宇治合戦)両者敗死 6月 福原京遷都断行(平家以外だれもついてこないので11月に戻る) 8月 源頼朝 が伊豆で挙兵 石橋山の戦い 敗戦→安房へ逃げる(梶原景時の助け) 43
9月 木曽義仲挙兵 10月 富士川の戦い 頼朝が平維盛を破る 11月 頼朝 侍所 設置 12月 平重衡 による南都焼き討ち 1181年 清盛 没 養和の飢饉 1183年 5月 砺波山の戦い 木曽義仲が平維盛を破り入京 →義仲 征夷大将軍に任命 ※平氏の都落ち(三種の神器とともに)→後鳥羽天皇の即位 10月 後白河法皇 源頼朝に 東国行政権を与える(寿永二年十月宣旨) 北陸道を除く→東山道・東海道 1184年 1月 源義経・源範頼が木曽義仲をやぶる 2月 一の谷の戦い (摂津国) 10月 頼朝 公文所 問注所 1185年 2月 讃岐屋島の戦い 3月 壇ノ浦の戦い →平氏滅亡 後白河法皇が義経に頼朝追討の命令 →11月 頼朝 守護・地頭 設置 ※義経は奥州藤原氏のもとへ逃げる →義経とともに奥州藤原氏ごと滅ぼされる(藤原泰衡) 1190年 頼朝 右近衛大将 任命 1191年 公文所を政所へ改める 1192年 後白河法皇 没 → 頼朝 征夷大将軍 任命 44
③鎌倉幕府の支配機構 【侍所】 別当 和田義盛 所司 梶原景時 【公文所】→【政所】 別当 大江広元 【問注所】 執事 三善康信 ・【守護】 ・一国に1名 ・ 報酬は無 ・ 大犯三箇乗(大番催促・謀反人の逮捕・殺害人の逮捕) ・【地頭】 国地頭→荘園地頭 ・ 租税徴収 ・ 荘園内の治安支持 ・ 農地管理 ・収入→ 段別 5升 の 兵糧米 ※幕府収入 ・関東御料 ・関東御分国 ④幕府と朝廷 ☆鎌倉幕府 将軍と御家人の主従関係 封建制度 【御恩】 ・本領安堵 ・新恩給与 ・守護・地頭の任命 45
【奉公】 ・戦時は軍役 ・平時には、京都大番役・鎌倉番役 ☆朝廷 ・親制 ・国司の任命 →国司と守護が国に1人ずついる&地頭と荘園領主 公武二元的性格 ④北条氏台頭 1199年 源頼朝 没 → 源頼家 第2代将軍就任 13人の合議制開始 大江広元 梶原景時 和田義盛 三善康信 北条時政 北条義時 三浦義澄 比企能員 etc 1200年 梶原景時 滅ぼされる 1203年 比企能員の乱 能員の娘が頼家と婚姻して一幡・公暁を産んでおり、将軍外戚の関係になる可能
性があった →能員・一幡ともに滅ぼされる →頼家は修善寺に幽閉される(1204年 時政により殺害) →源実朝第3第将軍就任 「金塊和歌集」 1213年 和田義盛の乱 政所・侍所を北条義時が兼任→執権の地位 1219年 源実朝 公暁により暗殺される in 鶴岡八幡宮 →源氏血統の断絶 →摂家将軍の擁立 4代 藤原頼経 5代 藤原頼嗣 46
1221年 承久の乱 後鳥羽上皇による義時追討の院宣 西面の武士を設置し軍事力強化 史料 「吾妻鏡」 北条政子 幕府を開いて以降、御家人は出世した。その恩は山より高く海より深いだろ!!!! 北条泰時・時房を京に攻めさせる→勝利 六波羅探題任命 戦後処理 後鳥羽上皇→隠岐 土御門上皇→土佐 順徳上皇 →佐渡 ・上皇の3000か所の所領は没収→新補地頭の派遣 新補立法 ・1段につき5升の加徴米 ・11町につき1町の土地 ・土地調査のために大田文の作成 ・六波羅探題の設置(→京都守護廃止)し、朝廷及び西国の御家人統制 初代 【北条泰時】 乱時の天皇は仲恭天皇 ※順徳が承久の乱に参加したいがために仲恭へと譲られたが、上皇側がそっこーで
負けたがために即廃帝となり、次の後堀川天皇が即位した。 ※山川日本史教科書 P94 この乱によって朝廷と幕府との二元的支配の状況は大きく変わり、幕府が優位に立っ
て、皇位の継承や朝廷の政治にも干渉するようになった。 47
⑤執権政治 ☆3代執権 北条泰時 1224年 連署 設置 (執権補佐) 初代 北条時房 1225年 評定衆 設置 合議制を制度化した 1232年 御成敗式目(貞永式目) ・初の武家法(51条) ・右大将家(頼朝)以来の先例や、道理とよばれた武士社会での慣習・道徳に基づい
て、守護や地頭の任務と権限を定め、御家人同士や御家人と荘園領主との間の紛争
を公平に裁く基準を明らかにした ※武家以外は対象外であり ・公家法 ・本所法 がそれぞれ効力を持っていた 内容 ・守護の権限は大犯三か条のみである ・二十年知行年紀法 ・悔返権を認める ・女人養子の許可 ※泰時消息文 御成敗式目の趣旨を六波羅探題の重時に述べる ☆5代執権 北条時頼の時代 ※前摂家将軍 藤原頼経 を京都に送り返し、その子 頼嗣の力を弱めた 1247年 宝治合戦 三浦泰村と北条時頼が対立 1249年 引付衆 の設置 所領に関する訴訟の公正・迅速化を図る 48
1252年 皇族将軍 宗尊親王 擁立 (後嵯峨上皇の子) 山川日本史教科書 P96 執権政治は時頼のもとでさらに強化されたが、同時に北条氏独裁の性格を強めてい
った。 ⑥武士の生活 武士=開発領主の子孫 武家造(寝殿造を簡素化) 館を構え生活し、その周辺部には年貢や公事のかからない直営地(佃・門田・正作・
用作)を設け、下人や所従に耕作させていた。武芸の修練のために犬追物・笠懸・流
鏑馬(騎射三物)を行った。 武士の道 ☆惣領制 鎌倉時代の武士は一族(血縁的関係)で団結していた 惣領(家督)=一族のリーダー=本家 庶子=分家 ※原則 分割相続 子は皆、相続権を持っている。もちろん女子にも相続権がある 後期になると、一期分 ⑦武士の土地支配 支配権を自ら拡大しようとする武士たちは、荘園・公領の領主や、所領の近隣の武士
との間で年貢の徴収や境界の問題をめぐって紛争を起こすことが多かった。特に承
久の乱以降、東国武士が近畿・西国地方にも多くの地頭が任命されたため、現地の
支配権をめぐりますます紛争は拡大した。 49
☆地頭の荘園侵略 例)紀伊国阿氐河荘民訴状 →荘園領主は地頭に対して妥協せざるをえない 地頭請 荘園管理いっさいをまかせて、一定の年貢納入を請け負わせ、超過分は 地頭のものにする 下地中分 荘園を2分割し半分を地頭のものにする。 ・強制中分 ・和与中分 例)伯耆国東郷荘 ⑧社会変動 (農業) ・畿内や西日本では麦を裏作とする二毛作が行われた ※刈敷・草木灰、牛馬の使用 ・紙の原料となる楮や、染料の原料である藍、灯油の原料である荏胡麻が栽培 (商業) ・月三回開かれる定期市を三斎市という 例)「一遍上人絵伝」福岡市 ・行商人の出現 ・定期市の他に常設の小売店(見世棚)があらわれる →座 の結成 ・商品の中継と委託販売や運送を業とする問丸の発達 (貨幣経済の発達) ・宋銭の流通 ・遠隔地の取引方法には為替が行われるようになった ・借上のような高利貸業者があらわれる ・年貢の銭納も行われるようになった 50
⑨蒙古襲来 13cはじめ チンギスハンがモンゴル民族統一 1271年 フビライハンが国号を元とする ※首都 元都 (北京) 1270年 三別抄の乱で高麗を服属させている →調子に乗っている元は、日本にたびたび服属を要求 →当時の8代執権 北条時宗 はこれを断固として拒否 1274年 文永の役 (蒙古襲来絵巻・竹崎季長) ・元・高麗連合軍(3万人)で対馬・壱岐を攻めたのち博多湾に上陸 ・てつはう の使用 ・神風(^_-) →幕府の対応は? ・異国警固番役を強化 ・長門警固番役を設置 ・博多湾沿いに石塁を設置 1279年 南宋滅亡 元は中国全土を完全支配 1281年 弘安の役 ・東路軍(元・高麗) ・江南軍(元・南宋) ・上陸前に神風(^_-) → 上陸していない 幕府の対応は? 1293年 鎮西探題の設置 西国防備と九州統治 51
⑩幕府の衰退 ※9代執権 北条貞時の時代 全国支配が強化されるなか、北条氏の権力が強大となる →得宗 →後内人と御家人の対立強化 1285年 霜月騒動(安達泰盛の乱) 安達泰盛(御家人) VS 平頼綱(内管領) 1293年 平禅門の乱 北条貞時 VS 平頼綱 ※生産や流通経済のめざましい発展と社会の大きな変動の中で、幕府は多くの困難
に直面していた。 ・元寇に対する恩賞が不十分 ・分割相続による所領細分化 ・貨幣経済の発展 →御家人の窮乏化 1297年 永仁の徳政令(東寺百合文書) 内容 1、御家人の所領の質入れについて →御家人がすでに手放してしまった所領は? A.相手が非御家人や凡下の者の場合、無償で取り戻すことができる 相手が御家人の場合は二十年知行年紀法を参照 2、越訴の禁止 再審請求みたいなもの 52
☆最後の得宗 14代執権 北条高時 の時代 この頃、政治に関心のない高時に代わって、内管領 長崎高資 が猛威を振るう ※得宗専制体制において、御家人の窮乏化が顕著になってくると、御家人の社会構
造が壊れてくる。長崎高資はワイロを忌憚なく受け取り政治が乱れ体制そのものを維
持することが難しくなってくる。 御家人の境遇は? 分割相続による細分化で窮乏していた さらに→嫡子単独相続へと変化したため所領を持てない御家人が出てくる。 恩賞はもらえないし、幕府に奉公して意味があるのだろうか?ない!!!! →楠木正成などの 悪党 の出現 年貢の納入等を武力に訴えて拒否する →血縁的結合から地縁的結合へ ⑪南北朝の対立から幕府滅亡へ 1246年 後嵯峨天皇 退位 →皇位継承や皇室領荘園相続についての問題発生 ・後深草天皇=持明院統 ・亀山天皇=大覚寺統 1317年 文保の和談 幕府「仲良くしましょうよ!交代交代でいきましょ!」 →両統迭立 53
1318年 後宇多天皇の父 後醍醐天皇 即位 (大覚寺統) 天皇親政を復活させ、天皇の権限強化を推し進める ・院政停止 ・記録所の再興 ※当時の幕府は執権 北条高時のもと長崎高資が猛威をふるっていた ☆両統迭立を支持していた幕府に不満を抱いていた後醍醐天皇は討幕計画をたて
る 1324年 正中の変 (第一回討幕計画) →失敗 1331年 元弘の変 (第二回討幕計画) →失敗 ・後醍醐天皇は京都の笠置山へ逃げるが捕えられ隠岐へ流された ・計画者の日野資朝・日野俊基は殺される ・後醍醐天皇の代わりに持明院統の光厳天皇が即位 鎌倉幕府最後の天皇 ※この後醍醐天皇の動きに乗じて御家人や悪党が挙兵する 赤松則村・・・播磨国で挙兵 楠木正成・・・河内国で挙兵 名和長年・・・隠岐から後醍醐天皇を脱出させる 足利高氏・・・幕府側で反幕勢力鎮圧に派遣されたが反旗を翻し六波羅探題を攻撃 新田義貞・・・鎌倉で挙兵し、東勝寺で北条高時を滅ぼす 菊池武則・・・鎮西探題を攻撃し戦死 1333年(元弘3年) 鎌倉幕府滅亡 →建武の新政~室町幕府へ 54
⑧室町時代
おそらく日本一有名な金閣寺が建てられた時代だな!(時代としてあんま特徴が無い
からコメントに困ってる) しいて言えば・・・うーん。中国では明、半島では李氏朝鮮が
できたりして他国との貿易が行われていて、日本の経済発展に大きく貢献したわけ
よ。・・・・・・・・うん。(笑) 武士が政治を行い、農民は一揆して・・・そんな時代です
(^_-) 55
①建武の新政 1333年 光厳天皇 廃位 1334年 建武の新政 ~梅松論~ ・延喜・天歴の治を手本とする後醍醐天皇の新政 ・綸旨による裁断 土地訴訟における天皇の持論を伝えるための文書 ☆建武政府の統治機構 ※山川日本史教科書 P116 天皇中心の新政策は、それまでの武士の社会につくられていた習慣を無視していた
ため、多くの武士の不満と抵抗を引き起こした。また、にわかづくりの政治機構と内部
の複雑な人間的対立は、政務の停滞や社会の混乱を招いて、人々の信頼を急速に
失っていった。 →その証拠を示した資料「二条河原落書」 (試験でよく見る史料の一つ。教科書でしっかり確認しよう。暗記必要ワードは動画に
て) 1335年 中先代の乱 最後の執権 高時の子である 北条時行が鎌倉幕府再興を懸け決起 結果)直義を破る(死んでないよ)が、京都から助けに来た尊氏に敗れる ※この時、直義は家臣に前征夷大将軍の護良親王を殺害させている このまま尊氏は鎌倉に居座り建武政権から離反(延元の乱) 56
②室町幕府の成立 1336年 竹の島の戦い ○足利尊氏 VS 新田義貞× But この後 北畠顕家に攻められ、尊氏は九州へ逃走 湊川の戦い ○足利尊氏 VS 新田義貞・楠木正成× →後醍醐天皇が吉野宮へと逃れる →後醍醐天皇(南朝)と 光明天皇(北朝) の南北朝の動乱の始まり (北朝) 尊氏・直義の二頭政治 建武式目 の制定 ・2項17条 ・政治の当面の方針を明らかにした ・足利尊氏の諮問に二階堂是円・真恵の答申 1338年 石津の戦い ○足利尊氏 VS 北畠顕家× 藤島の戦い ○足利尊氏 VS 新田義貞× →足利尊氏 征夷大将軍 となる (南朝)北畠親房が中心となって政治を行う 神皇正統記・職原抄 1339年 後醍醐天皇 没 → 後村上天皇(義良親王) 即位 1350年~1352年 観応の擾乱 ×高師直 VS 足利直義○ ・武力推進・尊氏の執事 ・法秩序守ろうぜ! その後 足利尊氏が直義を殺害(尊氏が生き残ったってことを覚える) この戦いは各々の子にも受け継がれる 義詮(尊氏) VS 直冬(直義)(南朝へ接近) 57
山川日本史教科書 P116 (観応の擾乱)の抗争は足利直義が廃止したあとも続き、尊氏派(幕府派)・旧直義
派・南朝勢力の三者が、十年余りもそれぞれ離合集散を繰り返した。このように、動乱
が長引いて全国化した背景には、すでに鎌倉時代後期ごろにはじまっていた惣領制
の解体があった。このころ武家社会では本家と分家が独立し、それぞれの家の中で
は嫡子が全部の所領を相続して、庶子は嫡子に従属する単独相続が一般になった。 ③守護大名 動乱の中、地方武士の力が増してくると、これらの武士を各国ごとに統括する守護が
軍事上大きな役割を担う。 ☆守護の権限強化 これまでの守護の権限は 大犯三箇条 これに加えて 刈田狼藉の取り締まり・使節遵行 これらの権限を利用し守護は国内の荘園や公領を侵略し、これらを武士に分け与え、
彼らを統制化に置こうとした。 ※守護が荘園や公領の経営を請け負わせる守護請も盛んに行われる。 そして守護の中には 国衙の機能を吸収して、一国全体におよぶ地域的支配権を確立するものも居り、従
来任命制で派遣されていた守護であるが、しだいに世襲的なものへと変わっていった。
このような守護を守護大名と呼ぶ。(守護領国制) ※任国に赴かない守護は守護代を派遣 EX.大内氏 大内義弘は6か国の守護を兼任 山名氏 山名氏清は11か国の守護を兼任→六分一殿 1352年 観応の半済令 (建武以来追加) ・近江・美濃・尾張で実地 ・荘園・公領の年貢米の半分を兵糧米として徴収する権限 58
④幕府の機構 (中央) 管領・・・将軍補佐、侍所・政所などの中央統治機構を統括 →三管領 畠山・細川・斯波 侍所 所司→四職 京極・山名・赤松・一色 ※山城国の守護を兼ねる。 ※政所・問注所の長官は執事 将軍権力を維持するためには?→軍事力強化 奉公衆 幕府の直轄軍(足利一門・守護一族・有力地方武士) ・普段は京都で将軍の護衛や、地方の御料所の管理 (地方) 鎌倉府 長官 鎌倉公方 足利基氏 執事 関東管領 上杉氏が世襲 関東8か国と伊豆・甲斐の10か国を統括 奥州探題 陸奥将軍府以降の北畠勢力に対抗するため 羽州探題 奥州探題より分離 九州探題 九州を統括 1371年 今川了俊が南朝勢力を制圧 懐良親王を奉じる菊池氏 59
⑤室町幕府の政治 尊氏→義詮→ 1368年 足利義満 征夷大将軍 就任 (※この時、朱元璋が明を建国) ・京都の室町に花の御所を建てる→室町幕府と呼ばれる ・管領 細川頼之 の補佐 ・幕府の機構はこの時代にはほぼ整い、安定期をむかえた。 ☆義満は動乱の中、強大になってしまった外様有力守護を攻め滅ぼす 1390年 土岐の乱 美濃・尾張・伊勢の守護 土岐康行が攻め滅ばされる 1391年 明徳の乱 11か国の守護(六分一殿)山名氏清が攻め滅ばされる (1392年 南北朝の合一、李氏朝鮮建国) 後亀山天皇(南朝)→後小松天皇(北朝)に三種の神器が手渡される 1394年 義満 太政大臣 就任 1399年 応永の乱 周防・長門など6か国の守護 大内義弘を攻め滅ぼす ☆義満は京都の市政権を手にする →貨幣経済の中心である京都に貨幣による課税を行う WHY? 鎌倉将軍家はあんま所領をもってなかったから。 ・田んぼ1段につきかけられる税は? 段銭 ・家一軒につきかけられる税は? 棟別銭 ・京都の倉庫業者・金融業者は? 土倉 ・土倉にかけられた税は? 倉役 ・酒屋にかした税は? 酒屋役 ・関所を通るための税は? 関銭 ・勘合貿易の権利を得るための税は? 抽分銭 ・債務をチャラにするために納めた税は? 分一銭 60
※義満は1401年に明との正式な国交をひらく →⑥東アジアとの交易 室町幕府がその権力を確立していく14世紀後半から15世紀にかけて東アジアの情
勢は大きく変わりつつあった。 ☆倭寇の出現 (南北朝の動乱の頃)対馬・壱岐・肥前松浦の海賊集団で朝鮮半島、中国沿岸の
人々から略奪を繰り返す 高麗は日本に倭寇の取り締まりを要求するが、日本は内乱のさなかのため無理だっ
た。 ☆初期外交 1339年 後醍醐天皇 没 1341年 天龍寺船 派遣 足利尊氏が臨済宗の夢窓疎石のすすめにより実地する 後醍醐天皇の冥福を祈るために天龍寺を建立しようとした。 →その費用を得るために元に博多商人の至本を派遣 ※これは1325年北条高時のときに建長寺建立のための建長寺船派遣を倣ったもの
である。 (明との関係) 1368年 明 建国 by朱元璋 ・首都 南京 → 北京 ・初代皇帝洪武帝 ・海禁政策をとる ・明を盟主とする東アジア国際秩序(冊封体制) ※明は日本に対し倭寇の禁圧と朝貢を求める ☆☆☆当時はまだ南北朝が統一されていない(九州が未統治) →明は九州の懐良親王(南朝)に対して来ちゃったから「???」 1371年 今川了俊 が九州探題 として制圧完了 したんだよな(^_-)復習しろよ! 61
1401年 義満が明に遣使 出典 善隣国宝記端渓周凰 内容 明は最強です(^_-)あなた様の下僕でいいので、私をにしてください! 遣使 正使 祖阿 副使 肥富日本国王 1402年 明から返礼 内容 いいよ(^_-) お前を日本国王にしてやるよ 日本国王源道義 1403年 日本国王として認められた義満は「日本国王臣源」の名で国書を送る 1404年 日明貿易(勘合貿易)スタート 特徴) ・朝貢貿易 倭寇対策の海禁政策により交易を禁止していた →貢物を送り、返礼の品を受け取る ・費用負担はすべて明持ち ・遣明船は勘合を持参しなくてはならなかった。 ※明では勘合は底薄とよばれる。これを寧波に持っていく ※明への日本船は本字勘合、明からの船は日字勘合を持参 ☆交易品 輸出 金・銅・硫黄・刀剣 輸入 明銭・生糸・織物 ←唐物と呼ばれて重宝される 貨幣経済発達のため需要が半端じゃない(+_+) →洪武銭・宣徳銭・永楽銭等 1411年 4代将軍 足利義持が日明貿易を中止 1432年 宣徳要約 6代将軍 足利義教 →1434年に日明貿易復活 ・貿易は10年に1度 ・船は3隻、定員300名 15世紀後半に幕府の衰退→貿易の実権は守護大名へ移っていく 細川氏・・・堺商人 利益の10パーセントを 大内氏・・・博多商人 抽分銭として徴収した 1523年 寧波の乱 ×細川氏 VS 大内氏○ 以後滅亡まで大内氏の独占 62
(朝鮮との関係) 1392年 李氏朝鮮 建国 by李成桂 ・倭寇の取り締まりを要求し、日本と国交樹立 ☆日朝貿易 (特徴) ・富山浦、乃而浦、塩浦の3港で行われた。 →この3港と漢城に倭館を置く ・当初より幕府、守護、国人、商人が参加 →朝鮮側は対馬の宗氏を通した通行についての制度を定める ・通信符を用いた ☆交易品 琉球貿易で手に入れたもの 輸出 銅・硫黄・蘇木・香木 輸入 木綿・人参・大蔵経 1419年 対馬当主 宗貞茂 没 →息子の宗貞盛が継ぐがまだ若い →応永の外寇 対馬を倭寇の拠点だとみなして朝鮮が攻撃してきた。 1423年 貿易再開 (義教) 1443年 癸亥約定 (義勝) 内容) ・貿易船は1年に50隻まで ・宗氏による許可証(文引)を持つもののみ入国可能 1510年 三浦の乱 恒居倭(在留日本人)が朝鮮の貿易制限に反発した 以降日朝貿易は衰えていく 1512年 壬申約定 貿易港を乃而浦のみにする 63
(沖縄との関係) ・北山、中山、南山の3地方で按司と呼ばれる豪族が勢力争い 1429年 琉球王国 成立 by中山王尚巴志 ・首都 首里 琉球は、明 及び 4代義持の日本に朝貢 →中継貿易という性格 ・那覇港は重要な国際港となる (蝦夷地とアイヌ) すでに14世紀には畿内と津軽の十三湊を結ぶ日本海交易がおこなわれていた。 ・和人・・・本州から蝦夷が島(北海道南部)へ移り住んだ人々 →道南十二館という居住地域に住む →津軽豪族 安藤氏の支配下に属し勢力拡大 →アイヌ人との交易 1457年 コシャマインの蜂起 →武田信弘により鎮圧 64
⑦室町時代の経済 (農作) ・二毛作→三毛作(全国的×、畿内や山陽道○ ・稲の品種改良が進む →早稲・中稲・晩稲 ・大唐米と呼ばれる輸入米も使われた ・竜骨車という用水機の使用が始まった ・刈敷、草木灰の他に下肥などの肥料が一般化 生産性の向上が農民を豊かにし、その結果、物資の需要を高め、農村にも次第に商
品経済が浸透していった。 →商工業の発達 (商工業) ・産業の発達につれて市の開催日数が増え、応仁の乱以後は六斎市が生まれた ・行商人のなかで、背中に背負う運搬具の名を冠した者を連雀商人と呼ぶ ・女性行商人の中で、炭や薪を売り歩く者を大原女、鮎や朝鮮飴を売り歩く者を桂女
という ・店舗としての見世棚を構える商人もいた ・京都の三条・七条に米場を、淀に魚市など特定商品のみを売る者もいた ・座と呼ばれる同業組合を結成して生産・販売を独占した。 →本所(大寺社や天皇家)に座役を納めるかわりに、神人・供御人の称号をもらい、
関銭の免除や広範囲の独占販売権を認められた ※・石清水八幡宮の大山崎油座 商品経済がさかんになると、貨幣の流通が著しく増え、農民も年貢・夫役を貨幣で納
入するようになる (貨幣) 従来の宋銭とともに明銭も使われるようになった →私鋳銭の流通(国内産の粗悪な貨幣) →撰銭の発生→撰銭令を発布する ・洪武銭→永楽銭→宣徳銭 ※永楽銭が最も流通し、標準貨幣として用いられた。 65
貨幣経済の発達により、金融業者の活動が盛んになった。 (金融業) ・ 土倉・酒屋は高利貸業者である →幕府は彼らを保護・統制し営業税を課した 地方産業が盛んになると、遠隔地取引が活発になる (運送業) ・年貢や商品の保管・輸送・売買をおこなう問屋が発達 ・京都周辺では、馬借や車借などの陸上輸送者が活躍 ・廻船の往来が頻繁になった (製塩業) ・揚浜法→入浜法 (地方特産品) ・朝鮮から輸入された木綿は三河地方で生産可能になった ・播磨 杉原紙 、越前 鳥の子紙 ⑧惣村 鎌倉後期には、近畿地方やその周辺部を中心に、惣が発展した ・惣を構成する村民を惣百姓という ・村の自治運営のために行われる会議を寄合という ・惣において、地代として加地子を徴収する名主が勢力をのばした。 ・農民でありながら侍身分を獲得した者を地侍という ・惣の指導者をおとなという ・惣村では村掟を定め、村内秩序を維持するため、地下検断を行使した ・村の祭礼は宮座と呼ばれる祭祀集団が中心におこなった ・惣の共同利用地を入会地という ・年貢徴収を惣がまとめて請け負う地下請がしだいにひろがった →次ページへ 66
惣村を構成する農民は強い連帯意識、団結意識で結ばれるようになった。 →一揆・逃散・強訴などの実力行使をおこなう →惣村の有力者のなかには、守護などと主従関係を結んで、武士化するものが多く
あらわれたため、荘園領主や地頭などの領主支配がしだいに困難になっていった。 ⑨室町時代の一揆(支配層に対する農民の反抗) 1428年 正長の徳政一揆 近江国の坂本で馬借が蜂起 ・これに農民が呼応して、酒屋・土倉・寺院を襲撃 借用証書を破り捨てる!! ・管領 畠山満家により鎮圧 参考史料 「大乗院日記目録」by尋尊 結果 徳政令は出ていないが、私徳政はでた →柳生の徳政碑文 ※この時 足利義教 6代将軍に就任 1429年 播磨の土一揆 「土民、侍をして、国中に在らしむべからず」 ・赤松満祐により鎮圧 1441年 (嘉吉の乱)→嘉吉の土一揆 ・代始めの徳政一揆 ・7代義勝の就任に際し、京都周辺の土民が蜂起し徳政を要求 結果 山城一国の徳政令が出た 1454年 享徳の徳政一揆 in 京都 ※このあたりで、徳政令を実地する代わりに分一銭を徴収する分一銭徳政令も多く
なる 67
(1467年 応仁の乱) 守護大名が京都で戦いを繰り返す →守護代や有力国人が力をのばし領国支配の実権が移る →権力争いなどの混乱がおこる →自身の権利を守るために一揆をおこす 1485年 山城の国一揆 京都で畠山氏の国外退去を求め国人が蜂起 背景 畠山政長と畠山義就の勢力争い←うざい ●戦争をするにはお金がかかる そのお金はその国に住む人々の税で賄われるわけだから、そりゃうざい 結果 追い出し成功→8年間の間、36人の月行事により南山城を自治的支配 宇治平等院で寄合を開き、国中掟法を定める 参考史料 「大乗院寺社雑事記」by尋尊 つまるところ☆下剋上ってこと(^_-) 1488年 加賀の一向一揆 加賀守護 富樫氏の内紛に乗じ、一向宗徒が蜂起 背景 1477年 富樫政親 蓮如の助けで弟の幸千代を破り守護になる →その後蓮如と政親が敵対 →一向宗徒に攻められ自害に追い込まれる 結果 富樫泰高を一応の守護に置き 1580年に織田信長に攻められるまで実質支配 1536年 天文法華の乱 比叡山の僧兵らが日蓮宗信者と衝突 68
⑩応仁の乱までの流れ 1416年 上杉禅秀の乱 関東管領 上杉氏憲(禅秀)が反乱を起こす →鎌倉公方 足利持氏が鎮圧 1428年 足利義持 没 →足利義量 5代将軍 (譲ったあと死んで、死んだ) 1429年 第6代将軍 足利義教 就任 1438年 永享の乱 足利持氏が関東管領 上杉憲実が衝突 義教が憲実に味方し持氏を討つ →一応、鎌倉公方に足利成氏が就任するが、実権は憲実が握る 1440年 結城合戦 結城氏朝が、持氏の遺児である安王丸・春王丸を擁し、憲実を討とうとするが失敗 1441年 嘉吉の乱 播磨国守護 赤松満祐が義教を殺害(犬死) →赤松満祐は山名持豊に討たれる →第7代将軍 足利義勝 就任 1454年 享徳の乱 鎌倉公方 足利成氏が関東管領 上杉憲忠を殺害 →幕府より成氏追討の命 →成氏逃げる →古河公方となる →幕府は足利政知を任命するが、鎌倉に入れない →堀越公方となる (政知は1491年北条早雲に倒される) 鎌倉で実権を握った上杉氏も 山内上杉と扇谷上杉に分かれ対立 69
1467年 応仁の乱 背景 将軍権力の弱体化及び 8代将軍 足利義政の失政 →守護家の争いが激化、将軍相続問題の発生 畠山氏・斯波氏の家督争い 足利義視と義政の相続争い 東西の軍に分かれ京都で戦争 細川勝元と山名持豊の対立 足利義政は弟の義尚に 義政の妻日野富子は息子の義視に継がせたい 西軍 東軍 将軍家 義視 義尚 畠山家 義就 政長 斯波家 義廉 義敏 幕府実力者 山名持豊 細川勝元 結果 京都は荒廃し焼け野原に。1477年終了 京都の文化人が地方へ流入。地方に公家文化が広まる 荒廃した要因は? 足軽の存在 →「真如堂縁起」では足軽が略奪をする場面が描かれている これら一連の動きはなにが言いたいかというと ☆下剋上の風潮☆ ってこと(^_-)2回目だけど ほいじゃ次からは下剋上でのし上がった戦国大名についてやっていこう ハイパー暗記モードでいこう☆ 70
⑪戦国大名 ☆応仁の乱に始まる戦乱の中、守護代や国人などの地域に根をおろした実力のある
支配者が台頭してきた。 ※16世紀前半、幕府では細川氏を中心に内部紛争が続いていた。 →自らの力で領国を作り上げ、一円支配をするものの出現 =戦国大名 戦国大名一覧 ※絶対に教科書 P141の当時の勢力図を見ながら勉強しよう(^_-) ※分国法とともに覚えよう (東北) 伊達氏 伊達稙宗により「塵芥集」(171条) 仙台 (関東) 北条氏 北条早雲が堀越公方を滅ぼし、伊豆の大名となる 息子の北条氏綱が武蔵にも進出 孫の北条氏康が古河公方を倒し下総まで進出 【早雲→氏綱→氏康】 早雲寺殿二十一箇条 結城氏 「結城氏新法度」 (中部) 長尾氏 越後国守護代→戦国大名 長尾景虎(上杉謙信)が山内上杉の上杉憲政から家督を譲り受け関東管領となる 武田氏 清和源氏の支流、甲斐国守護出身 武田晴信(信玄)により「甲州法度之次第」 朝倉氏 越前国守護代出身 「朝倉孝景条々」 キーワード 一乗谷 71
斎藤氏 斎藤道三が、守護の土岐氏を滅ぼし下剋上 美濃国 今川氏 足利一族 駿府・遠江・三河(駿・遠・三)を支配 今川氏親により「今川仮名目録」33箇条 今川義元(子)がそれに21箇条を追加 守護大名と戦国大名は違うんだぜ?と説く珍しい分国法であーる。 浅井氏 京極氏家臣 浅井長政が京極氏を倒す 六角氏 「六角式式目」 織田氏 斯波氏の守護代 織田信秀が斯波氏を倒す (中国・四国) 大内氏 周防・長門国守護 大内義隆が家臣の陶晴賢に討たれる →安芸の国人 毛利元就が陶晴賢を破り戦国大名へ 長宗我部氏 「長宗我部氏掟書」 ※いちばん最後の分国法 (1599年) 三好氏 「新加制式」 (九州) 大友氏 キリシタン大名 大友義鎮が有名 島津氏 薩摩国守護 島津隆久 ※その頃京都では・・・ 管領 細川晴元が家臣の三好長慶により追放。 その三好長慶は松永久秀に下剋上される。 松永久秀は足利義輝を自殺させる 72
⑫都市の発達 (自治都市) 京都 ・町宗を中心とする町が形成される ・町法を定め、住民の生活を守る ・月行事によって自治 堺 ・港町として発達 ・36人の会合衆による自治 ・ガスパルビレラ「耶蘇会士日本通信」にて「東洋のベニス」と紹介 ・日明貿易の拠点 博多 ・港町として発達 ・12人の年行司による自治 ・大宰府の外港 (城下町) ・北条氏(小田原) ・今川氏(府中) ・大友氏(豊後府内) ・上杉氏(春日山) ・大内氏(山口) ・島津氏(鹿児島) ・朝倉氏(一乗谷) (門前町) ・宇治、山田(伊勢神宮 内宮・外宮) ・長野(善光寺) ・坂本(延暦寺) 73
(寺内町) ・摂津(石山) ・加賀(金沢) ・河内(富田林) ・大和(今井) (港町) ・薩摩(坊津) ・備後(尾道) ・津軽(十三湊) ・越前(敦賀) ・伊勢(桑名) ・草戸千間町 ・京都(淀) 1A1Q(^_-) 1、古代に松原客院が置かれた港町は? 2、伊勢神宮参詣のための要地で、東海道の宿駅があったのは? 3、京都の外港として栄え、魚市が有名なのは? 4、大宰府の外港として栄えたのは? 5、薩摩半島南西部の港町で、対明・琉球貿易の拠点は? ⑬各国の富国強兵策 ☆鉱山開発 (金山) ・佐渡(上杉氏) ・駿河(今川氏) (銀山) ・石見大森(大内→尼子→毛利) ・但馬生野 博多商人 神谷寿禎により灰吹法が伝えられ、銀の産出量 UP! ☆商工業保護 ・関所撤廃 ・楽市・楽座 ☆土地支配 ・指出検地の採用 ・貫高制・・・国人や地侍の収入額を、銭に換算すること 第1巻 END 74