知覧を旅して - 草 薙 順 一

特攻基地を旅して
草 薙 順 一
戦後 70 年に、鹿児島県にあった陸軍特攻基地知覧と海軍特攻基地鹿屋に行っ
た。敵艦に向かっての自爆攻撃によって、露と消えた若人。途中で攻撃され死
亡した者。死の強制であった。
「九死に一生」を得る望みはなく、
「十死に零生」
である。特攻隊戦没者慰霊顕彰会によれば、特攻による戦死者は6、418人
である。これらの若人は、この悲劇を聖戦遂行という美談に仕立てられた。海
上自衛隊鹿屋航空基地の資料館には、特攻第1号の敷島隊の指揮官であった愛
媛県西条市出身の関行男大尉(23歳)の写真がある。出撃前に「日本はおし
まいだよ。僕のような優秀なパイロトを殺すなんて。しかし命令とあればやむ
を得ない」との言葉を残し、遺書には「国の為に、わが命捧ぐ」と書き遺した。
1944年10月25日フイリピンのレイテ島沖の米艦に向かって、零戦5機
の隊長として飛び立った。新居浜市出身の大黒繁男(20歳)も名を連ねた。
この時点では、既に同年7月7日にはサイパンが陥落し、日本の戦争は絶望的
であった。しかし、マスコミは特攻による成果を大々的に報道し、同年10月
29日の愛媛新聞には一面トップで「空母、巡洋艦など3隻を体当たりで轟沈
破」との見出しで、関行男大尉らを「忠列萬世に」と讃えている。他紙も同様
であった。
なぜこのような非人間的作戦が採用されたのか。わが国では武士には、武士
道の倫理があった。
「武士道とは、死ぬことと見つけたり」が当然視されていた。
そして明治になり、軍人勅諭では「忠義は山獄よりも重く、死は鴻毛よりも軽
し」とされた。1941年には東条英機大将が、戦場における行動を示した戦
陣訓で、「生きて虜囚の辱めを受けず」とされた。捕虜になることは許されず、
組織的な戦力が壊滅した後も、投降は許されず、死ぬまで抗戦を強要された。
特攻、玉砕という形で死を重ねたのである。
特攻が陸海軍の組織的戦術であり、国策であるならば、国の責任はどうなっ
ているのか。日本人の手による責任は誰も取っていない。軍事博物館では各種
の書物があるが、国の責任については触れていない。
戦前の国家の為に尽くし、自己を滅失して死ぬことが最高の美徳とされた生
き方は、戦後180度転換された。それが憲法13条の「個人の尊重」の規定
である。人類が長い時間と闘争によって獲得した最高の価値としての「個人の
尊重」を基底的価値として、平和との関係では、憲法前文の「平和のうちに生
存する権利」であり、憲法第9条の「戦争と戦力と交戦権の放棄」で具体化し
ている。「命を何よりも大切にする」こと。「人を殺したくもないが、殺された
くもない」ことを、特攻で散った戦没学生の手記「きけわだつみのこえ」
(岩波
文庫)は叫んでいる。胸を刺すこの悲痛な叫びをいつまでも忘れてはならない。