メモ帳 司祭 パウロ 小林進

逗子聖ペテロ教会『いわお』77 号
日本聖公会横浜教区逗子聖ペテロ教会
メモ帳
主教
牧師
発行
ローレンス 三鍋裕
司祭パウロ 小林進
〒249-0006 逗子市逗子 6-5-2
Tel/Fax 046-871-2764
http://nskk.org/yokohama/zushi/
日本聖公会横浜教区逗子ペテロ教会
いわお編集委員会
2021 年 3 月 25 日発行
司祭 パウロ 小林進
2006年1月下旬、畏友であった
故太田博之氏に誘われて、インドはヒ
マラヤ山系東の麓の一角、晴れた日に
は山系第二の威容を誇るカンチェンチ
ェンガ山が天空に姿を見せるダージリ
ンを訪れた。かつて青年時代に何度か
行ってみたいと憧れたインド、一度も
実現することがかなわず、すでに還暦
に一年を欠く歳になってしまっていた。
理事長を務める太田氏による現地の教
育 支 援 プ ロ グ ラ ム ( Education
Sponsorship in Asia)の視察計画を煮
詰める段階で、同行させて下さいと義
務めいて言ってはみたものの、正直に
言えば気おくれが心から取り払えず、
その時は気の乗らぬ旅であった。が、
しかし、人生は思わぬ展開を時折見せ
る。結果的には予期とか期待というも
のを何も持たない旅ではあったが、後
から振り返れば、人の歩みには不思議
1
とか神秘(ミュステリオン μυστ
ηριον)と呼ばれる出来事が確か
に伴う。そのあたりのいくらか詳しい
事情については、『風は思いのままに』
記しておいた。
ところで、
インドの旅で
今でも思い起
こせば不思議
な気分に襲わ
れるのが、縦
15センチ、
横10.5セ
ンチ、そして厚さ5ミリのメモ帳を携
帯したことである。学校のチャプレン
をしていた頃は毎年夏に大学生と三週
間の海外キャンプを行った。しかし、
メモ帳を携帯することなど一度として
考えたこともなかった。英国の五年間、
日記まがいの記録さえひとつも付けて
いない。ソロモン群島を一人で旅した
ときも、決まっている飛行便のフライ
ト・スケジュールには拘束されたが、
その他の日々については何も記してい
ない。
そういう、いい加減な性格の自分で
はあったが、インドの旅だけは例外で、
旅の前日の1月22日から記録を付け
ている。その晩に「飲んだビール、五
百ミリ・リットル3缶」、また出発当日
の成田飛行場で、
「太田氏から4000
逗子聖ペテロ教会『いわお』77 号
ルピーを手渡される。日本円1万だけ
支払い、残りの1160円は小林が太
田氏に借金」などという具合である。
そして2月1日に無事成田に帰国して、
「17時17分発の成田エクスプレス、
18時41分新宿着、所要時間1時間
24分」の記述でインドのメモは終わ
っている。全体が40ページ強の記録
で、メモ帳の半分を費やし、自分でも
気まぐれかと思うようなイエズス会本
部の前庭に咲いていた見事なダリヤの
スケッチまでしている。
このインドの旅が引き金となって、
それ以後メモ帳を手放すことが出来な
くなってしまった。殆ど何処へ行くと
きでも、メモ帳をバッグの中に入れた
かどうかを確認するのが習慣となり、
それなしに出掛けることはまずなくな
った。メモ帳携帯の利点はやがて気付
くのだが、まず説教の素案が外出先で
ひらめいた時にそれこそ文字通りメモ
しておけるという点である。それまで
は A4の用紙を使って前日か当日かに
一気に説教を書くのを習慣としたが、
この苦労が大分緩和された。同じこと
は、巻頭言の原稿にも当てはまり、メ
モ帳を持っているが故に、題材を鵜の
目鷹の目で自分の周囲に探すことにな
る。
このメモ帳が6冊に及んだ2008
年頃、林間聖バルナバ教会の青木一子
さんという信徒の方が、メモ帳に美し
い布を張って
僕にプレゼン
トしてくださ
った。礼拝の
説教に使うメ
モ帳はこれに
よって格を一
段も二段も上
2
げることにな
る。もっとも、
説教の格が同
じように上が
ったとは決し
て思えないの
だが。この布
製のメモ帳は
現在8冊目と
なって説教と
原稿の同伴者として僕のバッグに居を
占めている。逗子へ引越しする際、青
木さんから様々な紋様からなる布製の
メモ帳を40冊ほどプレゼントされて、
机の中に大事に保存してあるし、先日
は翻訳作業のために一回り大きいもの
も10冊頂戴した。しかし、どんなに
頑張ったとしても、40冊分の説教を
する時間はこれからの自分に与えられ
ていないであろう。
逗子聖ペテロ教会『いわお』77 号
日本聖公会における旧
約聖書学の伝統
~アンダーソン先生と
ワイブレイ先生のこと
パウロ
小林進
ヘブライ語という個人的には未知の、
しかし聖書の古代語としてはよく知ら
れている言語に初めて接したのは神学
校 2 年時、1972 年の春であった。当時
聖公会神学院には中部教区で長く働き、
その後聖公会神学院で旧約聖書学を担
当したカナダ人宣教師ドナルド・アン
ダ ー ソ ン 教 授
(Prof. Donald
Anderson)がおり、日本の旧約学会の
中で控えめながら日本聖公会として旧
約聖書学の一角を担っていた。われら
入学してギリシャ語の基礎1年の学び
を終えた同期神学生のうちの 3 名が、
次の年 1973 年の 2 年次にヘブライ語の
授業に果敢に挑むことになる。アンダ
ーソン先生は詩編の 150 編を殆どすべ
て英語で暗記しているという強者で、
そのジェントルマンとしての風貌、気
質は神学生の間でひそかな尊敬の的で
あった。しかし、アンダーソン先生は
3
1974 年にフィリッピンはマニラの聖ア
ンデレ神学校に赴任されることが決ま
り、せっかく学び始めたヘブライ語の
教師を失うのは、個人的には非常に残
念なことであった。
アンダーソン先生が授業の中で折に
触れしばしば言及したのがワイブレイ
教授(Prof.Roger Norman Whybray、
PhD, D.D.)であった。このワイブレイ
先生はキングストン・グラマー・スク
ール(Kingston Grammar School)を卒
業してオックスフォード大学でフラン
ス文学を専攻し、後に神学部に移籍し、
碩学 G.R.ドライバー教授(G.R.Driver,
M.A, F.B.A.)に師事して旧約聖書学を
専攻し、弱冠 25 歳で 1948 年アメリカ
聖公会系のジェネラル神学校(General
Theological Seminary)の教授となり、
下って 1952 年に東京の聖公会神学院
教授に就任している。筆者が 1979 年に
ハル大学に留学したその年には、リー
ダー(reader)と呼ばれる英国独特の
教鞭職から教授に昇進しており、イス
ラエル知恵文学の中で互いに微妙な関
係にあるヨブ記とコヘレトを扱った
「 二 つ の ユ ダ ヤ 教 神 学 」( The Two
Jewish Theologies)という教授就任講
演の演題ポスターが、当時ハル大学構
内の掲示板に威風堂々と張られていた
のを懐かしく思い起こす。
留学の翌年 1980 年には英国旧約学
会の会長となり、同年母校のオックス
フォード大学から神学博士(D.D.)を
授与され、ハル大学で英国旧約学会総
会を開催し、1982 年に早期退職した後、
ケンブリッジ近郊イーリーに居を移し、
逗子聖ペテロ教会『いわお』77 号
生涯 30 冊ほどの研究書を公にしてい
る。日本をよく理解し、かつ愛した優
れた宣教師であった。当時アンダー先
生の話を上の空で聞いていたのである
が、やがてワイブレイ先生のもとで旧
約聖書学の薫陶を受けることになると
は当時想像もしなかったことであった。
ワイブレイ先生も拙生の眼には巨人と
映るが、ある時自分の師である G.R.ド
ライバーを「巨人だ!」
(gigantic)と
評した言葉が強い印象に残っている。
こ の 評 は ド ラ イ バ ー の 著 Semitic
Writing、(London, 1976)などを読ん
でみると、同師の古代語に長けた学者
としての面目躍如たる趣が全ページに
わたって遺憾なく発揮されており、如
何にもワイブレイ先生の言葉が当を射
ていたものと思われるのである。
このワイブレイ先生、1998 年に 77
歳で逝去されている。当時チャプレン
職にあった拙生はこの訃報に接し、す
ぐさま渡英して、葬送式に出席するこ
とになる。
4