クラウス・キンスキーの監督・主演した映画「パガニーニ」をみましたか? ニコロ・パガニーニは、十九世紀のヨーロッパにあって、超絶技巧を駆使した絢爛たる演奏をくり ひろげ、名声をほしいままにしたヴァイオリニストでした。パガニーニはまた、艶福家としてきこえ、 その生涯は華麗な女性関係で彩られてもいました。 同じように、19世紀のヨーロッパにあって超絶技巧を駆使した絢爛たる演奏をおこない、名声を ほしままにしたのが、ピアノのリストでした。リストもまた、パガニーニのように艶福家としてきこ えたひとでしたが、しかし、同じ時代に生き、ひとしく演奏家として特別な名声を誇ったパガニーニ とリストではあっても、彼らの音楽も人生も大いにちがっていました。パガニーニとリストのちがい は、そのまま彼らの楽器のちがい、つまりヴァイオリンとピアノのちがいのように思われます。 映画「パガニーニ」には、ひとりの女が、パガニーニのひいたヴァイオリンの音を思い出しつつ、 自分の股間をまさぐるという、なかなか刺激的な場面がありました。ひとたびパガニーニのようなと びきりの名人によってひかれると、ヴァイオリンは、そのひびきによって女のひとの官能を刺激しな いではおかないのかもしれません。たしかに、そういわれてみると、ヴァイオリンによってかなでら れる音楽には、発情した官能がしたたらせた涎のようなところがなくもないようです。 その点、ヴァイオリンに較べればはるかに近代の楽器であるピアノによってうたわれる歌は、どう しても頭脳を経由しがちです。ヴァイオリンはききての官能を刺激するのが得意ですが、ピアノは音 楽の論理を展開するのに適した楽器です。 パガニーニは、ヴァイオリンをひいて、現代のロック・スターの流儀で、女たちを性的に刺激した ようでした。映画「パガニーニ」でパガニーニに扮したキンスキーには、十九世紀のミック・ジャガ ーとでもいいたくなるような雰囲気が感じられなくもありませんでした。リストがいかにピアノの達 人であったとしても、パガニーニのように感覚的にききてを煽りこむことはできなかった、と思いま す。ここで思い出しておくべきは、ヴァイオリンがイタリアで完成された楽器である、ということと、 パガニーニのようなヴァイオリンの名人もまたイタリアでうみだされた、ということかもしれません。 パガニーニのヴァイオリンに発情した女のひとがいたからといって、すべての女のひとがヴァイオ リンを好む、とういうことでもないでしょう。あの甲高い、キーキーいう音がどうも好きになれない、 というひともいるにちがいありません。それに、これまでにも、パガニーニをはじめとして、数多く の男性ヴァイオリニストがいたことからもあきらかなように、ヴァイオリンを女性的な楽器、ときめ つけるわけにもいきません。 ただ、数多くいる女性ヴァイオリニストのなかには、男性ヴァイオリニストとはあきらかにちがう、 独特の演奏をきかせるひとがいる、ということはいえなくもないようです。往年の、ジネット・ヌヴ ーとか、エリカ・モリーニ、といったひとたちがそうでした、現役のヴァイオリニストでは、ヴィク トリア・ムローヴァとか、チョン・キョンファ、それにアンネ=ゾフィー・ムター、あるいは、日本 の、五嶋みどり、前橋汀子、堀米ゆず子、といったひとたちにも、そのことがあてはまるでしょう。 第一線で活躍しているひとの数ということでいえば、ピアニスト同様、ヴァイオリニストでも、女 性より男性のほうが圧倒的に多いのですが、ここにあげたひとたちのきかせてくれる演奏には、男性 ヴァイオリニストによる演奏とはあきらかにちがうサムシングがあきらかにされているように思われ ます。そういうことがあったりするので、ヴァイオリンという楽器の不思議と、ヴァイオリンと女の ひととのかかわりを考えてしまうことになります。 そして、また、最近になって、ヴァイオリン界に、女流ヴァイオリニストの新星が登場して話題に なりました。チャイコフスキー・コンクールで優勝した諏訪内晶子さんです。チャイコフスキー・コ ンクールは、数ある音楽コンクールのなかで、もっとも権威のあるコンクールのひとつです。しかも、 これまでこのコンクールで優勝した日本人はいなかったこともありまして、諏訪内さんが優勝したと いうニュースは、テレビや新聞で大々的に報道されました。 たしかに、諏訪内晶子さんがチャイコフスキー・コンクールに優勝したというのはビッグ・ニュー スではありましたが、この段階でジャーナリズムがあまり大騒ぎするのは、どんなものであろう、と 考えたりもしました。というのは、いかにチャイコフスキー・コンクールのような権威のあるコンク ールに優勝したとはいえ、コンクールに優勝するというのは演奏家として第一歩を踏み出したことで しかないからです。諏訪内さんの演奏家としての正念場は、むしろこれから、と考えるべきでしょう。 先ほども例にだしたヴィクトリア・ムローヴァは、一九八二年のチャイコフスキー・コンクールの 優勝者でした。しかし、今、ムローヴァの演奏をきくひとたちの多くは、彼女がチャイコフスキー・ コンクールの優勝者であることを忘れてきいています。たしかに、チャイコフスキー・コンクールに 優勝しなければ、今日のムローヴァはなかったのでしょう。しかし、すでにムローヴァは、チャイコ フスキー・コンクールの優勝者という看板を過去のものとしてしりぞけたところで、活躍しています。 おそらく、近い将来、諏訪内晶子さんも、今日のムローヴァのようなかたちで積極的な演奏活動を 展開されるようになるのでしょうが、ぼくらききてに、今、できることがあるとすれば、性急になり すぎることをつつしみつつ、ヴァイオリニストとしてのスタート台にたった諏訪内さんの明日をゆっ くり待つことだけです。熱しやすく冷めやすいのが日本人の気質のようですが、そろそろぼくらも、 若い演奏家の成長を静かにみまもる西洋人の流儀を学ぶべきかもしれません。 それにしても、ヴァイオリンは、とても不思議な、独特の魅力をそなえた楽器です。名手によって ひかれたヴァイオリンの音をきいていると、ぼくら男でも、すぐれた音楽をきいたときの感動とはあ きらかにちがう、妙な胸騒ぎをおぼえます。この理屈が先導する時代だからこそ、音楽のうちの官能 性がたっとばれているヴァイオリンによる音楽に乾きをいやす一滴の水を捜してみるべきなのかもし れません。
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