ルチオ・ダッラといっても、日本ではまだ、ほとんど無名

 ルチオ・ダッラといっても、日本ではまだ、ほとんど無名にちかい。しかし、イタリアでは超有名人である。よほど世
事にうとい人ならともかく、大半のイタリア人はルチオ・ダッラをよく知っている。彼の名前は外国人のためにイタリア
でつくられたイタリア語の教材にさえとりあげられているほどである。
ミラノの店で、ちょっとした買物をしたときである。キャッシャーのところにおかれてあった小さなラジオから、ルチ
オ・ダッラの声がきこえてきた。買ったものをつつんでもらうのを待つ間の手もちぶさたもあって、よせばいいのに、こ
れって、ルチオ・ダッラじゃない?、と店の女の人に声をかけてしまった。それから後が大変だった。
ルチオ・ダッラのどの歌が好きか、とか、ルチオ・ダッラは日本でも有名なのか、とか、矢継ぎばやに質問をあびせら
れて、貧しいイタリア語で応対するのに冷汗をかかなければならなかった。どう
やら、彼女は熱烈なルチオ・ダッラ・ファンのようであった。ぼくの、ミラノでのそそっかしいおこないは、日本を訪れ
た外国人が、店で買物をしているときに、たまたまラジオからきこえてきた歌をきいて、片言の日本語で、これって、井
上陽水じゃない?、といったのに似ていなくもないようだった。
ルチオ・ダッラはイタリアのシンガー・ソングライターである。一九四三年に、ボローニャで生まれている。自作自演
歌手、つまりシンガー・ソングライターのことを、イタリアではカンタウトーレという。これまでに録音しているCDの
数も多く、ヒット曲もいろいろあって、ルチオ・ダッラはイタリアを代表するカンタウトーレのひとりである
しわがれた、
その声には独特の男の色気が感じられ、
シンガーとしてもあなどりがたい魅力をそなえている。
おまけに、
ルチオ・ダッラは多彩な音楽に対応できるだけの音楽家としての柔軟性や高度の歌唱力もそなえているので、そのうたう
歌は変化にとんでいる。しかし、それ以前に讃えるべきはルチオ・ダッラのソングライターとしてのとびきりの才能であ
る。この人は、いい歌をたくさんつくっている。
「カルーソー」という、一度きいたら忘れられなくなる素晴らしい歌がある。イタリア的な情熱とききてをほろりとさ
せずにおかないセンチメンタリズムが微妙にとけあった、心にしみる歌である。この歌を、ぼくは、最初、テノールのル
チアーノ・パヴァロッティがうたったCDできいた。思いもかけない機会に、生涯の宝物となるような歌に出会うことが
ある。パヴァロッティのうたった「カルーソー」をきいたときも、そんな気持だった。
素敵な曲を見つけると、だれかに自慢しないと気がすまなくなってしまう、生まれながらの性分もあって、「カルーソ
ー」を相手かまわずきかせまくった。みんな、異口同音に、いい歌だといってくれた。なかには、涙ぐんだ男までいた。
なにも泣くことはないではないか、と思いもしたが、その男の気持がわからなくはなかった。彼らは、ひとしく、そのC
Dの番号を手帖にメモした。
「カルーソー」をつくったのがルチオ・ダッラである。ルチオ・ダッラはカンタウトーレであるから、当然、彼自身の
うたった「カルーソー」も存在するにちがいなかった。しかし、ルチオ・ダッラが「カルーソー」をうたっているCDを
見つけるのには、かなり手こずった。
ミラノやボローニャのレコード店を片はしからまわったこともあった。今、売り切れなのよ、と気の毒がってくれた店
員がいた。きみが探しているルチオ・ダッラの歌って、この歌だろうと、うたってみせた店員もいた。苦労しただけに、
ミラノに住む若い友人の尽力で探しつづけていたCDを手にいれることができたときは、とてもうれしかった。ききたい
CDをあちこち探しまわったことのある方であれば、そのときのぼくの喜
びがどれほどのものかわかって下さるにちがいない。
「カルーソー」はルチオ・ダッラの「DALLAMERICARUSO」というCDの一曲目にはいっていた。このア
ルバム・タイトルになっていることばは、「ダッラ」と「アメリカ」と「カルーソー」の三つのことばをおりこんだ造語
である。そのようなアルバム・タイトルのことばにも暗示されているように、「カルーソー」の後には、アメリカはニュ
ーヨークの有名なジャズ・クラブ、ヴィレッジ・ヴァンガードでルチオ・ダッラがおこなったコンサートが収録されてい
る。
音楽好きも、しばしば柳の下の二匹目の泥鰌探しをする。あの歌があんなによかったのだから、他にももっといい歌が
あるにちがいない、と思って、泥鰌探しにはげむことになる。音楽好きのはしくれとして、ぼくも、二匹目の「カルーソ
ー」を探して、目についたルチオ・ダッラのCDを手あたりしだいに買ってきて、きいた。今のところ、まだ、「カルー
ソー」をこえる傑作には出会えていないが、そのおかげで、彼がたくさんのいい歌をつくっていることがわかったし、彼
の音楽的な語彙やひきだしが、想像以上に豊かなことも感じとれた。
ほぼ同じアレンジのバックでうたわれているにもかかわらず、パヴァロッティのうたった「カルーソー」とルチオ・ダ
ッラのうたった「カルーソー」では、きいての印象で、少なからずへだたりがあった。たしかに、オペラ歌手としてみが
きあげられたパヴァロッティの声で朗々とうたわれて、背筋をぴんとのばしている「カルーソー」も素晴らしかった。し
かし、ルチオ・ダッラが切々とうたった「カルーソー」では、この歌が身
上とすべき情感のひだの微妙さが一層鮮明になっているように感じられた。
ようやく、「カルーソー」のおさめられている「DALLAMERICARUSO」が、日本でも、BMGビクターか
ら発売される、ときいた。むろん、一枚のCDが発売されたからといって、一気にルチオ・ダッラが人気者になるとは考
えがたい。
イタリアの、ルチオ・ダッラのようなタイプのミュージシャンの音楽は、今の日本で、不当と思われるほど、かえりみ
られないまま放置されている。大手の輸入CD店でも、この手のCDを充実させているところはごくわずかしかない。そ
れには、おそらく、それなりの事情があるのであろうが、それにしても、こんなに素敵な歌があるのにと、ルチオ・ダッ
ラのうたう「カルーソー」をきくたびに思わずにいられなくなる。
※ シグネチャー 99回
カルーソー 黒田恭一訳
ここ、海がきらめき
風の強く吹きつけるところ。
ソレント湾を望む古いテラスで、
少女を抱きしめ
涙を流した男がいた。
そして、男は咳払いをして
ふたたび、うたいはじめた
「ぼくはきみが大好きだ。
でも、きみも、ぼくがきみを大好きなことはよくわかっているよね。
すでにぼくらの自由をしばっていた鎖は
きみの熱い血に溶けてしまった,わかっているよね。」
沖でまたたく灯りに目をやって
男はアメリカで過ごした夜を思い出していた。
でも,水面に光るのは
夜釣りの船の灯りと船の白い航跡でしかなかった。
男は音楽を耳にして悲しみをおぼえ
ピアノの前から立ちあがった。
でも、雲間から顔をのぞかせている月を見ているうちに、
死までどことなく甘いものに思えてきた。
男は少女の目を見た
まるで海のように青い、少女の目を見た
すると、途端に男の目から涙がこぼれ
そして、男は息苦しさをおぼえた。
「ぼくはきみが大好きだ。
でも、きみも、ぼくがきみを大好きなことはよくわかっているよね。
すでにぼくらの自由をしばっていた鎖は
きみの熱い血に溶けてしまった、わかっているよね。」
偽りのドラマがすべてのオペラでも化粧して、演じれば
別人になれる
それがオペラの力だけれど
でも、こんなに近くに
思いつめた彼女の目を見ていると
ことばを失い
思い乱れて
なにもかも
アメリカで過ごした夜さえも、とるにたりないものに思えてきた。
男はふりかえって
船の航跡にも似た人生を思った。
たしかに、人生には終わりがあるけれど
男はすでに、そのことをあまり考えようとさえしなかった。
そして、なぜか気分をよくして
また、あの大好きな歌をうたいはじめた。
「ぼくはきみが大好きだ
でも、きみも、ぼくがきみを大好きなことはよくわかっているよね。
すでにぼくらの自由をしばっていた鎖は
きみの熱い血に溶けてしまった、わかっているよね。」
ルチオ・ダッラの歌う「カルーソー」は YouTube で見る事ができる。