ダウンロード

先週講壇
な心の揺れ動きは誰しもが多かれ少なかれ経験し
ているのではないでしょうか。そうした密かな悩み
戸惑いの中で
の中でクリスマスの出来事が始まっていったのだ
2015年12月 6 日 第二アドベント
ということを、福音書記者マタイは伝えているので
松本雅弘牧師
す。
イザヤ書7章 1~17 節
ヨセフは苦闘し、悩み、怒り、悲しみ、いつしか
マタイによる福音書1章18~25節
疲れて眠りこけてしまったのでしょうか。そのヨセ
フに天使を通して御言葉が与えられます。
「ダビデ
Ⅰ.洗礼式を迎えるにあたって
の子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マ
リアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリ
今日の11時礼拝は洗礼式礼拝です。今日は、
『地
アは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。
の塩別冊証し集』が皆さんのお手許に届いているか
この子は自分の民を罪から救うからである。
」
と思います。そこには御一人ひとりの「歴史」が綴
(1:21)
られています。一人の人がキリストの福音に触れて
この結果「問題」は全くちがう方向に展開してい
主イエスを救い主と信じ、主イエスを人生の主と告
くことになりました。夢から覚めたヨセフは、この
白して歩むことを決心して洗礼へと導かれました。
信じられないような出来事を、愛する婚約者と共に
そのようにして洗礼を受けてクリスチャンになり、
分かち合えるようになっていきます。迷う事なくマ
神さまの家族の一員として共にキリストに倣う歩
リアを妻として迎え、
「胎の実」が救い主であるこ
みをスタートするということは、その人の人生にと
とを認め、マリアをいたわり、救い主誕生のために
って、とても大きな区切りの出来事だと思うのです。
ベストを尽くすのです。
ちょうど、歴史が紀元前、紀元後と、キリストを
境に真っ二つに分けられているように、キリストと
Ⅲ.神に用いられた男
の出会いを通し、新しい歩みがスタートすることだ
いかがでしょう? 私を用いてくださるお方が
と思います。クリスマスに登場する人々もそうした
神さまであると知る時に、むしろ積極的な意味で、
出会いを経験しました。今日はその一人、ヨセフに
「私を差し出したい、お捧げしたい」と思うのでは
焦点をあてて御言葉に聴き入っていきたいと思い
ないでしょうか。それがこの時のヨセフの気持ちだ
ます。
ったのではないかと思います。
Ⅱ.戸惑いの中で
この時、マリアと幼子を守ることの出来る人はヨ
セフを他にしてだれもいませんでした。彼は自分に
マタイは淡々と事実を伝えています。
「母マリア
託された本当に困難な役割、自分自身を生きるとい
はヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、
う彼自身の命を、不平も言わずに黙々と引き受けて
聖霊によって身ごもっていることが明らかになっ
いきました。私はそうした姿に感銘を受けるのです。
た。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのこ
羊飼いや博士たちが押しかけて来ても彼は決し
とを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろう
て迷惑がりませんでした。むしろ、待ち望んできた
と決心した」
。(1:18~19)
救い主である息子イエスの誕生をみんなと共に喜
この時のヨセフはどんなことを考えていたので
んでいます。
しょうか。マリアの妊娠の責任を自分が負い、マリ
敬虔な信仰者として、息子イエスに対してきちん
アを救おうと考えたのではないかと思います。
と旧約聖書で決められている通りの割礼を受けさ
本当はマリアのことを信頼したいのですが、実際
せ、神殿参りをしています。そのようにして信仰の
に彼女のお腹が大きくなっていく現実を前にして、
継承という、親としての責任を果たしています。
様々な疑い、そしてマリアに対する変わらない愛、
エジプトへの砂漠の旅にしても、そこに別段問題
その狭間で悩み苦しんだ末に選択した道が「ひそか
があったという記録が福音書にはありません。この
に縁を切る」ことでした。でも決心したからと言っ
ようにして、ヨセフは家族を不自由や危険な目に合
て心の中は依然、激しく揺れ動いていたことだと思
わせないで、立派に父親としての責任を果たしてい
います。
ったのではないでしょうか。
こうしたことは簡単に人に相談できるものでは
こうした父親ヨセフの姿が息子であるイエスさ
ありません。しかし、よく考えてみると、このよう
まに大きな影響を与えて行った事を聖書は伝えて
います。それは、イエスさまが神さまを紹介する時
に父親を例に出して説明していることからわかり
ます。それは取りも直さず地上の何者よりも父親ヨ
セフが、天の父なる神の義と愛を体現する者として、
幼子イエスさま、少年イエスさまの目に映っていた
からだろうと思うのです
Ⅳ.インマヌエルの恵み―共に生きることを
決意された神
ヨセフは私たちと同じごく普通の人でした。しか
し、そのヨセフには私たちにとって模範とすべき大
切な点があると思うのです。それは彼が主の願い、
主の御心を選択しようと心掛けていたという点で
す。
ここで、選択をしたのはヨセフだけではなく、も
う1つの選択、もう1つの決心があることに注目し
たいと思います。それは「神さまの選択」
、
「神さま
の決心」です。
カール・バルトは、
「神はイエス・キリストにおい
て、永遠に罪人と共にあることを決意された」と語
りました。クリスマスとは、神が私たちと共に生き、
私たちを生かして用いようとされる神の愛の選択、
「神さまの決心」の時です。
神さまは十字架のどん底までも私たちと共にい
てくださると決意されたのです。だから、私たちに
も神さまと共に生きる新しい決意が生まれるので
す。
使徒パウロもこうした神の選択、決意を次のよ
うに語ります。
「あなたがたは、わたしたちの主イ
エス・キリストの恵みを知っています。すなわち、
主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しく
なられた。それは、主の貧しさによって、あなたが
たが豊かになるためだったのです。
」
(Ⅱコリント
8:9)
ここでパウロは、クリスマス以前のイエスさまの
状態を「豊かであったのに」と表現しています。こ
れに対して「肉体を取って人間となられた事」を、
パウロはイエスさまにとっては「貧しくなられた」
事を意味すると教えます。そして、豊かであったイ
エスさまが貧しくなられた理由を「それは、主の貧
しさによって、あなたがたが豊かになるためだった
のです」と記しているのです。この事が、
「私たち
を、キリストの恵みに富む者へと導くのだ」という
のです。
御子が人間として、しかも「赤ん坊」としてこの
世に来てくださった。ここにも徹底したイエスさま
の「選択・決意」があります。仮に、イエスさまが
偉い学者、強い王様、ユダヤの英雄として出現した
ら、近づく事が許されるのはごく限られた数の人々
になってしまったことでしょう。
でもイエスさまは一人の赤ちゃんとして生まれ
て下さったのです。このような御子の「貧しさ」の
故に当時の社会からのけ者にされていた羊飼いが、
御子を拝みにやって来る事が出来たのです。イエス
さまが赤ん坊として生まれて下さったので、どんな
に小さい子どもでも、悲しみや苦しみの中にある
人々でも、だれもが、少しも怖がらないで、喜んで、
安心して近づき、そして、そのお方を信じる恵みを
いただくことが許されたのです。
成人なさった後も、最後まで「貧しい道」
「捨て
られる道」を選んで行かれました。そうです、十字
架です。憎しみやねたみ、保身のための裏切り、損
得勘定の嵐の吹き荒れる中、ただ独り十字架の道を
進んでいかれたのです。
そのイエスさまの最後の最後、息を引き取られる
様子を、福音書を書いたヨハネは「頭を垂れて息を
引き取られた」と記録します。
「頭を垂れて」とは
「枕する」という言葉です。イエスさまが「人の子
には枕する所もない」
(マタイ8:20)と言われ
た言葉を思い出します。主がその命の最後に選ばれ
た枕する場所、それが十字架でした。
神さまは御子を十字架に付けるためにこの世に
送ってくださいました。それは私たちに永遠の命を
与え、恵みに富む者とするためでした。まさに、
「飼
葉おけ」と「十字架」は初めから1つでした。
いかがでしょう。私たちが生きている現実、それ
は、この時のマリアのように背負いきれない重荷、
色々な意味での負債を担うことを強いられている
かもしれません。また、この時のヨセフ同様に、誰
にも相談できないような密かな悩みを抱え込むこ
とだってあることでしょう。でも、まさにそういう
ところで神さまは私たちと出会ってくださるので
す。
私が抱える重荷、密かな悩みを本当に分かってく
れて、共に歩んでくれる人が、誰か一人でもあった
ら、私はどんなに心強いことでしょう。私たちの神
さまはその一人になってくださるのです。神さまは
「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」と言って、
インマヌエルの恵み、クリスマスの喜びを告げ、キ
リストにあって共に歩んでくださるお方なのです。
お祈りいたします。