朝鮮通信使講演会 - 徳川みらい学会

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た後、家 康 公は早いタイミングで朝 鮮
半 島から兵 を 引 き 上 げ、朝 鮮 と国 交
を回復した。また東南アジアでも国交
の樹 立 を 始めていて、家 康 公はオープ
ンな考 え 方 を 持っていた 。清 見 寺には
朝 鮮 通 信 使からの素 晴らしい書や詩
が多 数 ある。朝 鮮 通 信 使が滞 在した
清 見 寺で、現 代においても詩の競 作な
どやってみてはどうか﹂という 提 案が
ありました。
また辻 原 登 氏の講 演では、﹁ 秀 吉の
朝 鮮 出 兵以来 泥 沼 化していた日朝 関
係 を 、家 康 公がさまざまな 方 法で改
善 し、朝 鮮 通 信 使 をはじめとした 外
交の足 場 をつくった ﹂と述べられまし
た。また、
朝鮮通信使を題材にした自
身の小 説﹁ 韃 靼の馬 ﹂や森 鴎 外の﹁ 佐
橋 甚五郎 ﹂に触れ、何らかの理 由で朝
鮮に残 留・帰 化した日本 人が、朝 鮮 通
信 使に混 じり 込んでいた 可 能 性 など
にも言及されました。
﹁400年 前の通 信 を 甦らせよう ﹂
と 題 して講 演 した 河 棕 文 氏 からは、
昨年の内閣府の調査で﹁韓国に親しみ
を 感 じる﹂と 答 えた 人の割 合 が5年
前から半減したことが紹介され、
一方、
韓国でも﹁日本を侵略者として描き、
ナショナリズムをあおり立てる映 画や
ドラマが放 映されている﹂と両 国の関
係 悪 化を危 惧されました。
﹁このよう
な 時にこそ 、朝 鮮 通 信 使 が 実 現 した
文 化 交 流やお互いの配 慮 と尊 重 をモ
デルとし、〝 共に生 きる日韓 〟
のような
取 り 組みを、政 府レベルではなく 民 間
レベルで静 岡から始め、
日 韓 を 軸 とし
た新しい東アジアの平和体制を築いて
いってほしい﹂と望まれました。
︵文責
企画広報室︶
講演会終了後には清見寺にて﹁瓊瑶
︵ けいよう ︶世 界の夕べ﹂と題し懇 親 会
を開催しました。清見寺には朝鮮通信
使がかいた書画などが多数残っており、
鐘 楼には﹁ 瓊 瑶 世 界 ﹂と書かれた扁 額
があ り ま す 。
﹁ 瓊 ﹂も﹁ 瑶 ﹂も 玉のこと
で、
2つの玉は互いに光を照らし合うこ
とを意味して
お り 、日 韓 友
好への 思いが
込められてい
る もので す 。
参加者は家
康公が関係
修復に努めた
ことに思いを
馳せ交流を
深めました。
河 棕文 氏
徳 川 家 康 公 顕 彰四百 年 記 念
日韓国交正常化 周年記念
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朝鮮通信使講演会・
徳川みらい学会第2回講演会
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德川恒孝氏からは﹁秀吉が亡くなっ
德川 恒孝 氏
辻原 登 氏
清見寺「瓊瑶世界」の扁額
徳川 時 代に再 開した朝 鮮 通 信 使は
旧 暦の1607年6月 日、大 御 所 家
康公に謁見したと言われています 。ま
た、前日の6月 日、家 康 公は清 水 港
に船を浮かべ、清 見 寺 潮 音 閣にて朝 鮮
通 信 使 を もてなしたと 言 われていま
す。
これに倣い、
本年6月 日に朝鮮通
信使講演会・徳川みらい学会第2回講
演会﹁朝鮮通信使と日韓友好促進﹂を
駐 横 浜 大 韓 民 国 総 領 事 館との共 催で
開 催しました。当 講 演 会では、德川 宗
家第 代当主
の德 川 恒 孝 氏
の特別講話のほ
か、小説家辻原
登 氏 と韓 信 大
学 教 授の河 棕
文 氏の講 演 を
行い、徳 川 みら
い学会の会員な
ど約450人が
参加しました。
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