50 た後、家 康 公は早いタイミングで朝 鮮 半 島から兵 を 引 き 上 げ、朝 鮮 と国 交 を回復した。また東南アジアでも国交 の樹 立 を 始めていて、家 康 公はオープ ンな考 え 方 を 持っていた 。清 見 寺には 朝 鮮 通 信 使からの素 晴らしい書や詩 が多 数 ある。朝 鮮 通 信 使が滞 在した 清 見 寺で、現 代においても詩の競 作な どやってみてはどうか﹂という 提 案が ありました。 また辻 原 登 氏の講 演では、﹁ 秀 吉の 朝 鮮 出 兵以来 泥 沼 化していた日朝 関 係 を 、家 康 公がさまざまな 方 法で改 善 し、朝 鮮 通 信 使 をはじめとした 外 交の足 場 をつくった ﹂と述べられまし た。また、 朝鮮通信使を題材にした自 身の小 説﹁ 韃 靼の馬 ﹂や森 鴎 外の﹁ 佐 橋 甚五郎 ﹂に触れ、何らかの理 由で朝 鮮に残 留・帰 化した日本 人が、朝 鮮 通 信 使に混 じり 込んでいた 可 能 性 など にも言及されました。 ﹁400年 前の通 信 を 甦らせよう ﹂ と 題 して講 演 した 河 棕 文 氏 からは、 昨年の内閣府の調査で﹁韓国に親しみ を 感 じる﹂と 答 えた 人の割 合 が5年 前から半減したことが紹介され、 一方、 韓国でも﹁日本を侵略者として描き、 ナショナリズムをあおり立てる映 画や ドラマが放 映されている﹂と両 国の関 係 悪 化を危 惧されました。 ﹁このよう な 時にこそ 、朝 鮮 通 信 使 が 実 現 した 文 化 交 流やお互いの配 慮 と尊 重 をモ デルとし、〝 共に生 きる日韓 〟 のような 取 り 組みを、政 府レベルではなく 民 間 レベルで静 岡から始め、 日 韓 を 軸 とし た新しい東アジアの平和体制を築いて いってほしい﹂と望まれました。 ︵文責 企画広報室︶ 講演会終了後には清見寺にて﹁瓊瑶 ︵ けいよう ︶世 界の夕べ﹂と題し懇 親 会 を開催しました。清見寺には朝鮮通信 使がかいた書画などが多数残っており、 鐘 楼には﹁ 瓊 瑶 世 界 ﹂と書かれた扁 額 があ り ま す 。 ﹁ 瓊 ﹂も﹁ 瑶 ﹂も 玉のこと で、 2つの玉は互いに光を照らし合うこ とを意味して お り 、日 韓 友 好への 思いが 込められてい る もので す 。 参加者は家 康公が関係 修復に努めた ことに思いを 馳せ交流を 深めました。 河 棕文 氏 徳 川 家 康 公 顕 彰四百 年 記 念 日韓国交正常化 周年記念 19 20 朝鮮通信使講演会・ 徳川みらい学会第2回講演会 19 德川恒孝氏からは﹁秀吉が亡くなっ 德川 恒孝 氏 辻原 登 氏 清見寺「瓊瑶世界」の扁額 徳川 時 代に再 開した朝 鮮 通 信 使は 旧 暦の1607年6月 日、大 御 所 家 康公に謁見したと言われています 。ま た、前日の6月 日、家 康 公は清 水 港 に船を浮かべ、清 見 寺 潮 音 閣にて朝 鮮 通 信 使 を もてなしたと 言 われていま す。 これに倣い、 本年6月 日に朝鮮通 信使講演会・徳川みらい学会第2回講 演会﹁朝鮮通信使と日韓友好促進﹂を 駐 横 浜 大 韓 民 国 総 領 事 館との共 催で 開 催しました。当 講 演 会では、德川 宗 家第 代当主 の德 川 恒 孝 氏 の特別講話のほ か、小説家辻原 登 氏 と韓 信 大 学 教 授の河 棕 文 氏の講 演 を 行い、徳 川 みら い学会の会員な ど約450人が 参加しました。 18
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