第16号 言葉の力 - mockle.net

言
a
葉
の
力
グローバル社会の訪れとともに、『言葉の力』の必要性
が改めて重視され始めている。とは言っても、単に話し合
い活動のためといったレベルの話ではない。つまり、コミ
ュニケーション能力の育成と同時に必要とされる認識の
仕方や思考、判断の力の育成にとって大切な要素となる言
葉の力のことである。
と言うのも、言葉というものは、従来から多くの識者が
唱えてきたように、印象的にも感覚的にも未整理な状態、
混沌とした世界に対して秩序を与えるものだからである。
「加賀の三太郎」と称されたわが国を代表する哲学者である西田幾太郎氏。その代表作とも言
える『善の研究』は、誰もが一度は見聞きしたことのある著書であろうが、私も学生時代にその
明快な論に魅入り、一時のめり込んだことがある。
氏の研究のキーワードは『純粋経験』。仏教的な無の境地を様々な角度から論理化したもので、
当時、その思索の深さに一種独特な魅力を覚えたことだけ記憶に残っている。
例えば、ある人が、庭で、ただ何となく赤い花を目にするという場面を考えた時、その人にと
っては、それが突然の気づき、驚きにつながる。これが、『純粋経験』と言われるものである。
さらに、その気づき、驚きが、
「瑞々しい赤いバラの花だなあ!」等に発展し、さらにそれが、
「な
んと美しい!」「庭にとても調和している!」等々と感覚が広がっていく。つまり、純粋経験が
次々と新たな「言葉」を獲得しながら、成長していくというのである。
“行動と思想は一体のものである“とする西田哲学の真髄と言える。つまり、人間とは、こう
した一連の意識の流れの中で、自らの思いというものを整理しながら、「言葉」を使って、より
確かな認識に高まっていくのだと西田氏は分析しているのである。
他方、薩摩藩士で我が国の初代文部大臣となった森有礼氏は、『感覚の処女性』という概念を
もとに理論を構築している。つまり、人は、最初の気づきをそれだけに終わらせないで、
「言葉」
で整理しながら認識の段階へと深め、さらに、きめの細かい認識へと高めていると分析している。
なおかつ、戦後の文学界を代表する三島由紀夫氏は、自らが若い時代に辞書を片端から読み漁
ることによって多種多様な“ボキャブラリ(語彙)”を知るようになったという経験から、人間
とは、そうしたことによってきめ細かい認識ができるようになるものであり、多くの語彙を身に
付けるための努力をしなければ人間にはなれないとまで断じている。
それぞれ特徴的な思想を展開させているが、こうした識者の理論を考えてみても、人の認識や
思考にとって、いかに「言葉」が重要であるかがわかる。
文化庁は、国語の施策の参考にするために、平成七年から毎年、日本人の国語意識の現状につ
いて世論調査を実施している。
平成二十三年度の結果を見ると、日本人の日本語能力が低下していると思っている人は、「書
く力」で87%、
「読む力」で78%と高く、
「話す力」や「聞く力」でもそれぞれ六割以上の低
下を危惧している。しかも、その数は、平成十三年度と比べても、年々高くなっているのである。
日本人の日本語能力の低下は、今、社会的にも深刻な問題なのである。
その上、情報化の進展に伴って、「漢字を正確に書く力が衰えた」と答えた人が67%にも上
り、十年前の調査より25ポイントも増加している。情報交換手段の多様化が、日常生活におけ
る言語活動を確実に浸食し始めている実態が垣間見られる。
さて、
『言葉の力』を指導する場合、ポイントは二点あると思っている。それは、
“確かさ”と
“豊かさ”の両視点である。
言うまでもなく、学校教育において“確かな言葉”を獲得させることは実に重要なことである。
その際の留意点は、
“ボキャブラリを増やす”ということと、
“キーワードを覚える”ということ
であろう。例えば、学校で指導する際に使う各教科の言葉、例えば「重力」とか「足し算」「掛
け算」といった用語は、人類の文化が発達していく中で、人類自身が作り上げてきた考え等を集
約したものであり、それがキーワードとなっているわけである。
さらに、もう一点大切にしたいことは、“5W1H的な受け止め方ができる力”をつけてやる
ことである。その中でも、特に、「なぜ」については大切にしなければならないと思う。
こうした点に留意しながら、身辺に様々にあふれている断片的な知識を論理的に組み立てると
いう意識を大切にしながら子ども達に向き合いたいものである。
『言葉の力』を指導する場合のもう一つのポイントは、
“豊かな言葉”の獲得である。
これは、メタファ※1の世界、比喩的な使い方と言い換えていいかもしれない。そして、子ど
もたちの指導においては、出会った言葉からイメージを広げさせ、それを広く感性として捉えさ
せていく手立てが必要と言える。
例えば、『古池や蛙飛び込む水の音』という有名な句を考えた場合、この句が二百年もの長き
にわたり大切にされてきた理由は、その写実的表現の巧みさによるものではないと言われてい
る。というのは、俳句の世界で“蛙”といえば“山吹”が定番だそうだが、だからと言って、こ
の句に「山吹や」という言葉を使うと、イメージのつながりがなくなってしまう。だから、下の
句である『蛙飛び込む水の音』に最もそぐう上の句としては、『古池』しかないということにな
る。そうした言葉の豊かさに作者の感性が見られると言えるのだそうである。
学んだことを認識するためには、今述べたとおり『確かな言葉』は重要な要素である。ただ、
しかし、それだけでは感性的にさびしいと言えよう。つまり、『確かな言葉』が『豊かな言葉』
に展開されてこそ、認識として深まりが見られると言えるのである。
「教育とは、人を人間に育てることである」という考え方がある。ここでいう「人間」の学名
は、
「ホモサピエンス」。そして、この「サピエンス」とは、知性、知恵のことであり、この知性
の土台が“確かで豊かな言葉”なのである。
情報機器が急激に普及し始めている昨今、『言葉』が人を人間に高める唯一の道具であること
を、私たち教育関係者は、改めて思い起こさなければならないと思う。
※1 メタファ
比喩表現
暗示的な演出