ジリジリとした強い陽ざしの昼下がりだった。 空襲で鹿児島の家を焼かれ、私たち家族はようやく見つけた吉野台地の疎開先に行くことにな っていた。残り少なくなっていた家財道具を荷馬車に積み、小学六年の私と三歳になる妹の二人は、 荷台の最後尾に並んで足をぶらぶらさせ、遠ざかる桜島を眺めながら坂を登った。昭和二十年七 月、太平洋戦争で日本の敗色が濃くなっていた夏である。 それからわずか一週間後、妹は突然他界した。疫痢だった。医者も呼べず、梅肉エキスの薬しか なく、ほとんど見殺しに近かった。何のための疎開だったのか―。家族ばかりの通夜の席で、母 は荷物の中の柳行季から一枚。藍染めの大島紬を取出し、妹の亡骸の上に重ねて身体を何度もさ すった。ろくな食べ物もなく、ひもじかったであろうわが子への悔いだったろうか。私は妹の死と いうものの実感がなく、涙も出なかった。 その大島紬は、母と仲の良かったお隣の奄美出身の川畑さん夫妻から「大きくなったら着せて あげて…」と、疎開でお別れの記念に妹へプレゼントされたものだ。翌日、ささやかな野辺送り をして、妹は天国へ旅立った。 やがて終戦。もう少し早く戦争が終っていればとの思いは今でも残る。川畑さんご夫妻とは戦 後も永くおつきあいが続いたが、すでに鬼籍に入られた。 軍国少年だった私は、中学に入って民主主義の洗礼を受け、戦争のない時代を生きてきた。 しかしそれから六十九年たってなお、あの夏の日のことは忘れない。亡くなった妹への大島紬 は今、小学四年の孫娘に引き継がれるよう、わが家のタンスの中で出番を待っている。
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