第2回 翻訳と日本語

時事フランス語 和文仏訳の約束事
第 2 回 翻訳と日本語
彌永康夫
古くから「翻訳は裏切りである traduttore, traditore — traducteur, traître」といわれるよう
に,誤訳がまったくない翻訳はおそらく不可能である。そもそも翻訳というものは可能な
のか。翻訳とはいかなる知的営為なのか。
こうした「翻訳の理論的な問題」を扱った著書がある。1976 年に言語学者の Georges
Mounin が著した Les problèmes théoriques de la traduction (Gallimard, Collection Tel)であ
る。その中で著者は「現代の言語学によれば,翻訳とは相対的な成功を収める作業だが,
それが可能とするコミュニケーション・レベルについてはぶれの大きいものである la
linguistique contemporaine aboutit à définir la traduction comme une opération relative dans son
succès, variable dans les niveaux de la communication qu’elle atteint」と書いている。また別の
言語学者は,翻訳を定義して,
「原文の言語から訳文の言語に,まず意味について,次い
で文体について,もっとも自然に対応する,最も近いものに置き換えること la traduction
consiste à produire dans la langue d’arrivée l’équivalent naturel le plus proche du message de la
langue de départ, d’abord quant à la signification, puis quant au style」といっている。ただし,
Mounin はこの「もっとも自然に対応する,最も近いもの」が一度確定されれば,常に同
じであるとは限らないと,指摘している。前掲書の前書きを書いている,自身が翻訳者で
ある Dominique Aury は,
「言語学的な構造の罠,文化の罠,用語法の罠,文明の罠,こ
うしたすべての罠にはさまれて,翻訳家は「すべては翻訳可能である」という過信から,
「いかなるものも翻訳できない」という絶望へと導かれる entre les pièges des structures
linguistiques, pièges des cultures, pièges des vocabulaires, pièges des civilisations, le traducteur
est rejeté de l'outrecuidance (tout peut se traduire) au désespoir (rien ne peut se traduire)」と書い
ている。
実際,翻訳をしていると,「日本語に特有の言い回し」や「フランス語的な表現」を訳
すために四苦八苦することはしばしばである。それどころか,フランス語と英語のように
「近い」言語の間でさえ,簡単には訳せない言い回しはいくらでもある。たとえば前出の
Mounin の本に出ているごく単純な次の文章がある。J'ai traversé la rivière à la nage. これを
英語に訳すと I swam accross the river となるが,これで明らかなように,フランス語では
「泳いで」は動詞ではなく補語になっているのに対して,英語では「泳ぐ」が動詞で,
「渡
る」が補語である。当然ながら,日本語とフランス語の間では文章構造がはるかに大きく
違うことが多く,それだけ翻訳に苦労させられる。
世間には翻訳に関する多くの著作がある。それどころか,翻訳を専門とする雑誌さえ出
版されている。そこで取り上げられる主要な問題の一つに誤訳の問題がある。時として
は,他人の誤訳をあげつらって喜んでいるとしか思えない本や記事もある。もちろん誤訳
を指摘することはそれなりに有意義なことだし,とくに有料で出版されている書籍なり記
事なりについては,そうしなければならない場合もある。いずれにしろ,どのような原因
で誤訳が生まれるかを知ることは,自分で翻訳するときの教訓としても必要である。
その前に一つ考えておかなければならないことは,翻訳と日本語の問題である。柳瀬尚
紀『翻訳はいかにすべきか』
(岩波新書)によれば,
「翻訳は日本語圏内における営みであ
る」
。この晦渋な文章のいわんとするところは「翻訳といえども(あるいは翻訳だからこ
そ)良い日本語でなければならない」ということだと,勝手に解釈している。つまり,日
本語として「とおりの悪い」訳は困るのである。ただし,いかに日本語として「とおりが
良く」ても,誤訳の場合もある。それどころか,その危険が増えることを認識しておかな
ければならない。この点については,1999 年 8 月 25 日付の『東京新聞』夕刊で,作家の
久世光彦がおおむね次のように書いている。
「私はこのごろ,私たちが若いころ読んでき
た海外文学の翻訳は,いったい信用してよいものだったのかどうか,ふと気になり始め
た。...読むほうに語学力がないから文句を言う筋合いではないが,どうも胡散臭くてなら
ないのだ。...確かに翻訳文は読みやすく,分かりやすくなった。けれど現代的ならいいと
いうものでもない。私は今でも,逍遥のシェクスピアにはシェクスピアらしいリズムがあ
ると思うし...辰野隆訳の「シラノ・ド・ベルジュラック」で,
「羽飾」を「こころいき」
と読ませるといった翻訳を,「気持ちのいい」訳とするのだ。正しいだけでは翻訳ではな
い。リズムを感得して,それを美しい日本語に移す力,つまり文章力に欠ける翻訳が,近
頃多すぎる」
。
この翻訳における日本語の問題は,もちろんのことだが,訳す文章の性質にかかわる部
分が大きい。たとえば,シェクスピアやエドモン・ロスタンであれば,
「気持ちのいい」
訳のほうが「正しいだけ」の訳に勝るだろう。この点については,村上春樹と柴田元幸の
『翻訳夜話』
(文春新書)の中で,村上春樹が「翻訳されたものと原文とは一卵性双生児の
ようなものとお考えですか」という質問に答えて,
「多分,別のものになるのでしょうね。...
(一つの作品の)いくつかの訳を比べて読んでみると,一つの全体像が漠然と浮かび上が
ってくるということはあるかもしれませんが」といっている。
しかし,外交文書については,このような「漠然とした全体像」では,訳す意味がそも
そもなくなってしまう。この場合には,たとえ「日本語として読みやすさ」あるいは「心
地のよさ」を犠牲にしても,「正確な」訳が求められるのである。有名な例を挙げると,
イスラエルが占領したアラブの領土を返還することを定めた国連安保理の決議がある。そ
の「占領地」にかかわる部分が,フランス語では restitution des territoires occupés と,定
冠詞で示されていて,すなわちすべての占領地を返還すべきだとしているのに対して,英
語では単に return of occupied territories と,冠詞抜きでかかれているため,占領した土地
のすべてなのか,その一部なのかが明確ではない。当然ながら,アラブ諸国はフランス語
の文章を正文としているのに対して,イスラエルは英語を正文としている。
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