第19回 翻訳は一字一句の直訳作業ではない

時事フランス語 和文仏訳の約束事
第 19 回 翻訳は一字一句の直訳作業ではない(2)
彌永康夫
「直訳」とか「逐語訳」というとき,単語一つ一つに拘ることだけでなく,原文の文章構造に
捉われることも含めて考えるべきだろう。もっとも,単語単位の「直訳」は,第 3 者から指摘さ
れて初めて気づくような,いわば無意識になされるものもある。最初にそうした例をいくつか挙
げてみよう。
「無意識の」直訳
1)「結果」
以前に,仏和辞書の編集に携わったことがある。その時の経験で今でも忘れられないものの一
つに,次のようなものがある。accostage という語の定義をするときに,仏仏辞書をまず参照して
いたため,「岸につけること le fait d'accoster」と書いたところ,先輩から「これは語義の説明で
はあっても,原語に対応する日本語をまず示すという,仏和辞書としての第 1 の役目を果たして
いない。最初に出すべき言葉は「接岸」である」といわれたのである。これと似たようなことが,
日本語からフランス語への翻訳をする場面でも起こることがある。次の例文とその生徒訳(イタ
リック体)を見てほしい。
1.-「今回の選挙結果がもたらす影響は,ギリシャだけにとどまらない。」
“La conséquence du résultat de cette élection ne s’arrêterait pas uniquement en Grèce.”
2.-「世論調査の結果を見ても,多くの人が景気がよくなったと感じていません。」
“Quand on regarde le résultat des sondages de l’opinion publique, la plupart des peuples ne sentent pas
l’amélioration de conjoncture économique. ”
1.については conséquence とか issue が使えるが,2.については「結果」という語を強いて訳す必
要はない。と言うよりもむしろ,それを訳すとフランス語としては不自然な文になる。例文の試
訳を見ればそのことを理解していただけるものと思う。
1.-L’issue de ce scrutin aura des conséquences bien au-delà des frontières grecques.
2.-Du reste, les sondages montrent que, pour beaucoup, le redressement de la situation économique n’est
pas perceptible.
2)「信者」
次の例はさらに「無意識」の度合いが強いのではないだろうか。
-「イスラム教信者は風刺画を「冒とく」と受け止め,不快感を持ったかもしれない。」(『毎
日新聞』)
ここで「イスラム教信者」(「イスラム教徒」でも同じ)を croyants en islam と訳した例を見た
ことがある。これはまさに直訳である。たとえば「仏教信者」を訳すのに croyant du bouddhisme
とか,「キリスト教徒」を croyant du christianisme というだろうか。イスラム教についても,「イ
スラム教」と「信者」を別々に訳さなくとも,musulman という語が存在するのだから,それを使
えばよい。それだけでなく,croyant du bouddhisme と bouddhiste,croyant du christianisme と chrétien
は必ずしも同じ意味ではないだろう。なぜなら bouddhiste とか chrétien という場合には,ただその
宗教を信じるだけでなく,「信仰 foi」を持つものとして,教会に通い,祭祀に参加する人間を指
すからである。もっとも,「信者」というものをそこまで厳密に解釈すると,日本には「仏教信
者」も「神道信者」もそれほど多くはないのかもしれない。
試訳 aux yeux des musulmans, ces caricatures ont sans doute fait figure de blasphème et inspiré du
déplaisir.
「結果」であれ「信者」であれ,こうした「直訳」をした人でも,日本語の原文がなく,直接
にフランス語で書いたり,話したりする中で同じことを述べるときに,いちいち résultat とか
croyant という語は用いないだろう。こうした例から得られる教訓は,翻訳とは一字一句の対応を
求めるのではなくて,訳した先の言語でいかに違和感なく,自然に読める(聞ける)文を作るか
が問われる作業であることをもう一度,確認する必要があるという点にある。
3)「公約」
これも「公」という字にひかれて public という形容詞を付ける訳をよく見かける(「約束」の
ほうを engagement とするなら public,promesse ならば publique となる)。しかし,日本語で「公
約」というときに,それが「公」な性格を持つことをわざわざ強調する必要が本当にある文脈は,
それほど多くはないのではないだろうか。たとえば
-「EU 離脱の国民投票を公約に掲げるキャメロン首相の EU 政策が問われていることも忘れては
ならないだろう」(『東京新聞』)
という文を訳すときに,「公」に拘って David Cameron qui promet publiquement l’organisation d’un
référendum などとすると,フランス語としてはいかにも「重い」。また,「約」を promettre とし
てはいけない理由は何もないとはいえ,これも原文にひかれすぎたという印象をぬぐえない。こ
の例文における「公約」は s'engager と訳せば十分だろう。たとえば次の試訳の通りである。
-Il ne faut pas oublier que la consultation du 18 septembre remet aussi en question le bien-fondé de la
politique européenne de M. David Cameron, qui s’est engagé à organiser un référendum sur une éventuelle
sortie du Royaume-Uni de l’Union européenne.
和仏辞書を引くと確かに「公約」は promesse publique となっているかもしれない。しかしこれ
は単なる直訳を超えて,ほとんど間違いというべきかもしれない。なぜなら,「公約」とは「公
になされた約束」のことであり,「公的機関がなした約束」ではないのに,辞書の訳は無理に解
釈してもそのようにしか受け取れないからである。「公になされた約束」ならば engagement
publiquement pris とでもしなければならないだろうが,それではあまりにもぎこちない。Antidote
で engagement と promesse の用例を見ると,これらの語に直接形容詞が付く例は engagement で 121,
promesse で 86 も掲載されているというのに,public はない。どうしても「公約」に近いニュアン
スを訳したければ,public ではなく solennel とか ferme といった形容詞を用いるべきだろうが,そ
こまでする必要は多くの場合にとくにない。
続いて取り上げたいのは,日本語の原文を見たとき,それに対応するフランス語があまりにも
当然のように思えるために,それ以外の訳し方があるということさえ考えずに,いわば「機械的
に」訳す危険がある語の例である。
「機械的な直訳」
1)「なぜ」
「なぜ」はどのような場合にも pourquoi と訳せばよいだろうか。たとえば,アメリカの先端 IC
企業「アップル」の創業者スティーヴ・ジョブズが死去した際に『日本経済新聞』が掲載した社
説に,「そうした新しい商品をなぜ次々と生み出せたのか」という文があった。これを例として
取り上げよう。少し考えればわかることだが,ここでの「なぜ」は「理由」を問うものではなく,
「どのようにして」という「手段」を問題にしていると捉えるべきだろう。それならば pourquoi
ではなくて comment となるのが正しい。実際,和仏辞典をよく読めば,
「なぜ」の項目には pourquoi
だけでなく comment も掲載されている。
引用部分を訳すとすれば,
次のようなものが考えられる。
試訳 Comment a-t-il fait pour mettre au point toute cette série de marchandises innovantes ?
2)「思う」
「思う」は「見る」とか「聞く」などと同じようにきわめて多様なニュアンスを含む,ある意
味で便利ではあるが,それだけに「のっぺらぼう」で面白みに欠ける言葉である。とくにこれを
フランス語にしたとき,penser はあまりにもイージーゴーイングな訳だと言わざるを得ないケー
スが大半だろう。一つの例を出そう。
「あの時,首相が毎年代わるとだれが思って民主党に一票を投じたろう」(『朝日新聞』)
これは 2011 年 9 月に野田佳彦氏が民主党の代表に選出された時に,『朝日新聞』に掲載された
解説からの引用である。この「思う」は penser よりも imaginer とか prévoir,あるいは s'attendre
としたほうが,はるかにスマートな訳になるだろう。たとえば qui a alors voté pour le Parti démocrate
en imaginant que le chef de gouvernement changerait tous les ans ?とするのである。あるいは,qui a alors
voté pour le Parti démocrate en s'attendant à voir le premier ministre changer tous les ans ? も,なかなか
すっきりとした表現と言えるだろう。ただせっかく s’attendre à を使うならばそれに続くのは名詞
にして à cette valse des premiers ministres という,フランスのマスコミ好みの言い回しを利用した方
がさらに良いかもしれない(valse de +定冠詞付きの名詞で「頻繁に変わること」を意味する。こ
の言い回しはとくに「物価の急上昇」を表わす valse des prix (des étiquettes)で用いられている)。
「思う」の含む種々のニュアンスごとに penser の言い換えを試みると,きりがないほど多くの
言葉があることに気づくだろう。「判断する」,「みなす」,「思索する」,「計画する」など
など,それぞれについていくつかの可能性を挙げてみると,considérer, croire, estimer, juger, tenir
pour, trouver ; méditer, raisonner, réfléchir, songer, spéculer ; imaginer, présumer, prévoir, s’attendre,
supposer ; être d’avis ; envisager, préméditer, projeter などがある。
3)「反省」
日本語ではきわめて日常的に用いられ,しかも使用頻度も高い語であっても,いざ訳そうと思
うととても一筋縄ではいかないものがある。その一つの例が「反省」という語である。これはあ
まりにも頻繁に使われるので,重みがなくなったようにも見えるが,文脈によっては決して軽く
とってはならない言葉である。たとえば
1.-「イラク戦争で反省すべきは」(『朝日新聞』)
2.-「戦後欧州の歩みは排斥主義,民族主義の暴走が招いた前世紀の悲惨な失敗に対する反省か
らスタートしている。」(『東京新聞』)
などの例文にみられる「反省」の用法は,日本語ではきわめて自然だし,頻繁に見られるもので
ある。ところが「反省」を辞書で引くと最初に出てくる réflexion という言葉には,à la réflexion
とか (toute) réflexion faite などの成句に見られるように,「熟慮」,「熟考」などの意味はあるが,
例文において「反省」が意味している「熟慮した結果,教訓を引き出して,行いを正す」ことま
では意味しない。そこまでのニュアンスを含めるとすると,réflexion はもちろん regrets でも不十
分だろう。その場合にはむしろ「...から得た教訓の上に立って sur la base des leçons (enseignements)
tirées de …」などの意訳を試みる必要があるのではないか。また,日本とアジアの近隣諸国との間
で,「歴史」を巡ってしばしば問題になったように,「反省」と「謝罪 repentance」はまた別のも
のである。
Antidote で réfléchir の定義を見ると“tenter de créer dans son esprit des idées ou des liens entre les
idées”となっているし,PR では“faire usage de la réflexion (= Retour de la pensée sur elle-même en vue
d’examiner plus à fond une idée, une situation, un problème)”とされている。そしてその同義語ないし
は言い換えとして挙げられているのは Antidote では méditer, penser, raisonner, se concentrer, songer,
spéculer などであり,PR では penser; chercher, cogiter, se concentrer, délibérer, (familier) gamberger,
méditer である。
例文の試訳を以下に挙げておこう。
1.-Quelles leçons tirer de la guerre en Irak ?
2.-A la fin de la deuxième guerre mondiale, le Vieux Continent a pris un nouveau départ en tirant les
leçons des tragiques erreurs qu’il a commises au XXe siècle à travers les dérives de la xénophobie ou du
nationalisme.
4)「評価(する)」
和仏辞典で「評価する」を調べると出てくる apprécier や évaluer, estimer については,使い方に
注意しなければならない。というのも,日本語で「評価する」というときには多くの場合,単に
「価値を測る」だけでなく,「積極的に価値を認める」ことを意味するからである。ところがフ
ランス語では本来,上に挙げた 3 つの単語はどれも「価値を測る」ことしか意味しない(apprécier
にだけは肯定的な価値判断が含まれるといえなくもないが,それほど強いニュアンスとは言えな
い。また,estime という名詞になるとそれだけで肯定的な意味を持つことは,avoir qn. en grande
(haute) estime という成句があることでもわかるだろう)。日本語の語感を正しく訳すためには,
positivement など適当な副詞(句)を加える必要がある。たとえば次の用例を見てほしい。
-「民主化の歯車がひとつ回ったと評価できる。」(『朝日新聞』)
これはミャンマーの民主化運動を象徴してきたアウンサンスーチー氏が長年にわたる監禁状態
から解放されて,2012 年春に実施された議会の補欠選挙に参加したことを受けて,『朝日新聞』
が掲載した社説の一節である。これを原文のニュアンスを考慮して訳そうと思えば,
Cette consultation aura permis, est-on en droit de se réjouir, au processus de démocratisation en Birmanie
de faire un pas en avant.
とでもしなければならないだろう。これで分かるように,原文と比べると,この訳にはかなり多
くの「説明」があって,原文の舌足らずの面を補っている。実際,日本語では「評価できる」だ
けでも大きな違和感がないが,フランス語では「誰が,何を評価する」のかを文として成り立た
ない。ただし,こうした「説明」は最低限にしなければならない。
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