2015年 3月 福祉文化をさぐる

2015年
3月 10 日
第 276 号
発行所 石 井 記 念 友 愛 園
宮崎県児湯郡木城町椎木 644 番地
ゆうあい通信
〒884-0102 ℡ 0983-32-2025
福祉文化をさぐる
園長 児嶋草次郎
2月 27 日から3月1日にかけて、岩手県の盛岡市、正確にはその隣りの滝沢
市に行って来ました。岩手県立大学で、「石井十次から学ぶ福祉文化と今日の社
会福祉実践」という題で講演をさせていただいたのです。社会福祉学部教授の三
上邦彦先生のお導きです。三上先生は、もう 10 年以上石井十次資料館の調査研
究を続けて下さっている方で、最近では、イギリスのバーナードホーム(現在バ
ーナードズ)より職員2名を招聘(しょうへい)する時、大変お世話になりまし
た。毎年、石井十次セミナーにも参加して下さっているのに、今まであまり親し
く交流させていただく機会もなかったのですが、今回声をかけて下さったことは、
私に与えられた一つのチャンスでした。
石井十次の名前を掲げて仕事をさせていただいている者として、一人でも多く
の方にその業績や理念を知っていただく努力をすることも、その使命であると考
えていますので、できるだけそのチャンスに答えるようにしています。
今回の講演は、あの震災から4年目の東北でした。石井記念友愛社の方針の4
番目として「自律主義」を加えるきっかけとなった東北の方々の「自戒自規」、
つまり家族を失い家やすべての財産を失いながらも、耐えながら互いに助け合い
支え合うその精神文化に触れてみたいという強い思いもありましたので、自分の
能力もかえりみず、出かけてきました。
私のイメージの中では、その精神文化は宮沢賢治につがっており、できれば宮
沢賢治の記念館等を訪ね、その精神・魂の片鱗にでも触れることができればと願
っていました。遠い青年時代、宮沢賢治の詩に親しみ、あの「下ノ畑ニ居リマス」
と書かれた「羅須地人協会の家」を訪ねたことがあります。他のことはすべて忘
れましたが、あの小さな黒板に書かれた白墨の字は、今だに強烈に思い出すこと
ができます。
27 日、羽田まで飛行機で行き、東京駅からは、新幹線「こまち 21 号」で2時
間ほど走ったら、もう盛岡でした。震災地に向かうという気持ちもあり、どこか
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緊張していて、旅を楽しむような気分にはなれませんでした。
盛岡の街は、道路の隅に雪が少し残っている程度で、吹雪の中を雪をかきわけ
歩くことを想像していましたので、なんだか拍子抜けしました。しかし、空気は
確かに冷たく、宮崎のように街に花がないので少々暗く、また建物もそれぞれが
飾り気がなく街も牢固な印象でした。
三上先生は、28 日の午前中や講演の後などに自家用車であちこち案内して下
さいました。宮沢賢治だけではなく石川啄木、そして、予想もしなかった新渡戸
(にとべ)稲造記念館にまでつれて行って下さり感謝しました。新渡戸稲造と言
えば、私にとっては 5000 円札よりも「武士道」の著者です。新渡戸が花巻出身
ということは、その本のどこかに書いてあったのかもしれませんが、私の頭の中
には全く残っていませんでしたので、その見学は私にとってはサプライズでした。
東北の精神文化を探し求めている私にとって、この三人の軌跡は、今お腹の中で
消化不良の状態です。そのうちとけ合いさらに何らかの形に結晶していくのかも
しれません。
宮沢賢治記念館は現在リニューアル工事中とかで、それらの資料は、花巻市博
物館に展示してありました。「雨ニモマケズ
風ニモマケズ」を貫いている弱者
へ寄り添おうとする人生姿勢と自然に対する畏敬、そのような感性は、石井十次
の「天は父なり 人は同胞なれば 互いに相信じ相愛すべきこと」の世界にも相
通じるような気がするのです。バックボーンとなる宗教は違うとしても、もっと
基盤の部分に同じような精神文化が流れているような気がするのです。
展示の説明文では、両親(政次郎・イチ)については「厳父慈母」というよう
な表現がしてあり、特に母親については次のように記してありました。
「イチは子どもを寝かしつけながら、『人というものは、人のために何かして
あげるために生まれてきたのス』と語り聞かせたという。」
宮沢賢治自身も「農民芸術概論綱要」の中で、
「世界がぜんたい幸福にならな
いうちは個人の幸福はあり得ない」と書き記しており、母親の感性をそのまま受
け継いでいるとも言えます。
他者への思いやりが深まれば深まるほど人間というのはストイック、つまり自
律的になっていくのでしょう。賢治はあまりに禁欲的になりすぎて、私にとって
は息苦しいほどです。しかし「慾ハナク 決シテ瞋(いか)ラズ イツモシズカ
ニワラッテ井ル」というような感性は、読めばよむほど賢治特有のものというよ
り、東北の人々を自律的な生活に規制する東北人共有のものではないかとも感じ
られて来ます。
それら東北の人々の精神文化をうまく整理しまとめたのが、1862 年、盛岡の
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中級武士の家に生まれた新渡戸稲造ではないかと思えて来ます。賢治は明治 29
年(1896 年)生まれで、家は古着商で生活も落ち着いていたので日本人として
のアイデンティティについて深く考えることもなかったでしょうが、新渡戸は明
治維新を体験しており、また外国暮らしが多かったので、日本人とは何かと考え
ることも多かったはずです。
宮崎に帰り、新渡戸の「武士道」
(奈良本辰也訳・解説)を再び開くと、その
序文でその動機を次のように書いています。
「いったいあなたがたはどのようにして子孫に道徳教育を授けるのですか」と
繰り返し著名なベルギーの法学者にたずねられ、がく然として即答できなかった。
ヨーロッパにはキリスト教という確固たる精神文化があり、それらの教育によ
って子ども達は道徳的価値観を身につけていくのだが、日本人は道徳教育をどう
しているのかと問われたわけです。
敬虔(けいけん)なクリスチャンであった新渡戸が、その問いに答えようと書
いたのが「武士道」であったのです。自らの家系が「武士」であり、ルーツ捜し
のようにその精神文化を掘りおこしていったのでしょう。この本の中から、以前
傍線をほどこした所をいくつか拾ってここに写してみます。
・
「義をみてせざるは勇なきなり」
「この格言を肯定的にいいなおすと『勇気とは
正しいことをすることである』となる。
」
・
「仁は、やさしく、母のような徳である。」「か弱い者、劣った者、敗れた者へ
の仁は特にサムライに似つかわしいものとして、いつも奨励されていた。
」
・
「礼は『長い苦難に耐え、親切で人をむやみに羨まず、自慢せず、思いあがら
ない。自己自身の利を求めず、容易に人に動かされず、およそ悪事というものを
たくらまない』
」
・
「
『道は天地自然の物にして、人はこれを行なふものなれば、天を敬するを目的
とす。天は人も我も同一に愛し給ふゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也』
(
『西
郷南洲遺訓』二四)
・
「武士道の影響は今なお深く根づきかつ強力である。」「その影響は必ずしも意
識されたものではなく、無言の感化である。
」
書き写してみると、日本人としての精神文化が石井十次、宮沢賢治、新渡戸稲
造と共通して流れているように感じられて来ます。
この新渡戸と賢治の中間、明治 19 年(1886 年)に盛岡市で生まれたのが石川
啄木です。新渡戸が世界を舞台に活躍し、賢治が故郷の大地にしっかり足をおろ
して農業の理想世界を描いたのに比べ、啄木は家族もろとも故郷(渋民)を追わ
れ、啄木自身も困窮した生活の中で東京や北海道を放浪しています。父親は住職
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であったわけで、啄木もちゃんとしたしつけも受けていたと思われます。生活苦
の中で、自分のプライドやアイデンティティをつらぬけない葛藤と孤独感を描い
たのが彼の詩の世界なのでしょう。
いのちなき砂のかなしさよ さらさらと 握れば指のあひだより落つ
たはむれに母を背負いて
そのあまり軽きに泣きて 三歩あゆまず
何となく汽車に乗りたく思ひしのみ 汽車を下りしに ゆくところなし
あたらしき心もとめて名も知らぬ 街など今日もさまよいて来ぬ
友がみなわれよりえらく見ゆる日よ 花を買い来て 妻としたしむ
(「一握の砂」)
福祉的発想から言うならば、賢治が弱き者に寄りそう側であり、啄木はその弱
き者側の心境を歌ったものなのでしょう。東北の精神文化の表と裏ということも
できます。啄木にとっては、誇るべき東北魂を持てず、また故郷で生きられない
劣等感と焦燥感(しょうそうかん)をエネルギーにして生きたのでしょう。
まだ消化不良ですが、三人の偉人から大切なことを再確認できたような気がし
ます。案内下さった三上先生に感謝です。
さて講演の方では、石井十次や職員、子ども達が築きあげようとした岡山孤児
院の福祉文化とそのルーツ、また、それらを今石井記念友愛社がどう受け継ぎど
う次の世代に伝えようとしているのかを話そうと試みました。内容としてはいつ
もの話とあまり変わりませんので、ここでは省略させていただきます。
人は皆、それぞれの地域の風土と文化の中で育っていくのでしょう。子ども達
は子ども達のままではおれず、日に日に成長しいずれ大人になっていきます。自
立するための知恵、生活習慣を確実に伝えていかねばなりません。我々はその支
援者であり、その「自立」の意味をしっかり理解しておかねばなりません。
こんなことを書きながら、頭の一方では、この度川崎市の多摩川河川敷で起き
た 18 歳少年等による殺人事件のことを考えています。犯罪をおかした少年達に
も親はいるのでしょう。小学校、中学校を通して、人並に道徳教育も受けて来た
はずです。彼らにとっての日本人としての精神文化はどこに行ってしまったので
しょうか。
「ゆうあい通信」の先月号で「石井十次青春物語」を紹介させていただきまし
たが、実はそれを元に現在「紙芝居」を作成中です。イラストライターの松本こ
ーせいさんが作って下さっています。木城町からの財政的支援によって作ること
ができることになりました。この「紙芝居」が、迷える少年、挫折した少年の一
人でも二人でも救うことができればと強く願います。以下にその解説をそのまま
掲載させていただきます。
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紙芝居「石井十次青春物語」解説
石井十次の少年時代のエピソードで有名なのが、「縄の帯の話し」です。浴衣
の上から縄の帯を締め、それでいじめられていた貧しい友人を救い、自分の新し
い帯と交換するという話しです。いかにも勇敢で心優しい少年のように見えます。
その強さ、勇敢さが、後に「児童福祉の父」と言われた石井十次を作りだしてい
ったと理解されがちです。
この「石井十次青春物語」は、もっとその少年時代に踏み込んで、十次の実像
に迫ろうとするものです。生れるころから17歳で岡山医学校(現在の岡山大学
医学部)に入学するまでの成長ぶりを、22編の物語としてまとめています。
石井十次の少年時代は、明治維新後の社会の混乱に翻弄されながら、失敗と挫
折の繰り返しでした。しかし、彼は親の愛情と人との出会いにも恵まれ、自暴自
棄にもならず何度も立ち上がります。そのあきらめない生き方、常に人の役に立
とうとする志の高い前向きの生き方にこそ注目すべきかもしれません。
石井十次は、決して強い少年ではありませんでした。同時代の少年達に比べて、
十次少年のすぐれている面があるとすれば、勇気とあきらめない心、そして自律
しようとする強い意志ではないかと思います。
現代の、厳しく鍛えられることの少なくなった少年達にとって、自立するため
に少年時代に身につけておくべき力とはどのようなものでしょうか。生きる力と
か人間力というような言葉が使われますが、この物語を参考にしていただければ
と思います。
ただ小学校下級生には、この紙芝居は長すぎる、あるいは難しすぎると感じら
れる人もいるかもしれません。例えば『論語の素読』というような学び方が日本
にはあります。『読書百遍意自ずから通ず』という言葉もあります。妥協して言
葉や内容を平易に短くしていくより、「志」というような言葉を時間をかけて我
がものとするような方法、つまり、何度も触れることで理解を深めていくやり方
を選んでいます。低学年から高学年にかけて何度もこの物語に親しんでいただき、
それぞれに「志」を育ててほしいと願っています。
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