世之介と中居女

1女を見る行為の近世的転換1
世之介と中居女
はじめに
生
子
ただし、西鶴のパロディの力法の具体相については、十分に説明されてきたとはいぇない。古典作品にみられる伝統的価値
方法かとられているのである。
には﹃伊勢物江巴第一段の彬響が色洪といぇる。﹃一代男﹄の他の章にもしばしぱみられる方法である、一誓パロディの
というアイテムを^捌かりに、四代将軍家綱や^川^宣の^^の^^を^^する浅^^^の目^解もあるものの、話の^開自^
話の展開には原梁指摘されている。全体の枠組みに関わるものとしては、﹃伊勢物語﹄第一段である。その他にも﹁述霊﹂
この章での世之介は九歳で、巻一のブや二と同様、{際のところが伴わない最{さが生み出すおかしみが拙かれているが、
テンポよく栗展開することから、﹁阿蘭陀器の面目器たるもの﹂と評される印象的な一話となっている。
それを見られたために、世之介に言い寄られることとなる。述眼鏡、女のヌード、自慰行為などの刺激的な小道具が配されて
の屋根から﹁中居ぐらいの女房﹂響水をしているのをみつけ、述眼竿見物する。女は行水中にいつしか自尉、芥為に及び、
﹃好色一代男﹄巻一の三﹁人には見せぬ所﹂は、三代男﹄五十四芳中でも特に有名な一辛ある。主人公世之介は四阿屋
祀
観を近Ⅲ的価値観に転換し、新たな粘杣にょって新しい文学を生み出したということはいわれるものの、それは旦、本均こ可を
-35-
羽
どのように揣いて転換することにょって一磯されたものなのだろうか。
、
この問題についして^、えるために、^^では、赤上の一、^人には見^ぬ一^^を、主に原^との関^から^制したい。^鶴文学
におけるパロディのあり方、いかなる点に新しさを見出すことができるのかについてぢぇてみたい。
一﹃伊勢物語﹄第一段との関連
まず﹃一代男﹄巻一の 三 の あ ら す じ を 祀 し て お く 。
^以も非常に血由いものだ^、Ⅲ之^ハか^鋤より恋の賀めくれば^の部^だけを瑚^リ^し^習するものだからだんだん
と親もうるさく思、つよ、つになった。鼓をやめさせて、世渡りに必斐な男芸だとい、つことで、母力の親族かいる両扶耐の春
日^に、金^貨の^い見習いに預けておいたところ、似之^ハはさっそく^死に一倍^で針三百目を備りた。
^之^刈九歳の五河四Hのこと、^中^ぐらいの女一房^か菖浦湯で行^をしていた。まさか見る人はいまいと、女^^袋
を使って肉尉行為に及んでいたところ、世之介か四阿の棟力ら亭四、論鏡を予に取ってあ力らさまに見てした。見られて
いることに気づいた女は、世之介に手を介わせて井んだが、世之介は顔をしかめて指さして笑う。女はたまりかねて行水
を切り上げたが、世之介は杣垣の透かしから女を呼び止めて今夜の迩瀬を迫る。扣否する女に、世之介は今の那を言い触
らすと脅す。
女は仕方なく世之介の側手をし、人形などで世之介の機嫌をとっていたが、世之介は大人びた振る狸いで言い寄る。せっ
ぱつまった女が世之介を抱きしめたまま乳母のもとに駆け込み、一部始終を語ると、みな腹を抱えて等たことであった。
七歳ですでに^に目覚めていた^之介であるか、いまだその一央質は^つてはいない。繰上の一から拙かれている^世之^打の
早熟さ﹂か引き続き揣かれ、最後に女の機耘にょってすべてが.Π鞭するか、也之介の行動を皆か笑うという、好色を歓迎する
-36-
価値観がこの逓でも緤り返されている。
い
0
さて、原拠である﹃伊勢物逃第一段﹁初冠﹂との類似点はどこにあるのだろうか。これまでに指摘されてきたことである
、
が゛、、
その内容ナ椛認しておきた
﹁いとなまめいたる女はらから﹂を垣闇見る。←﹁中居ぐらいの女一房﹂の行水姿を倒阿の上か長眼竿見る。
られた。
D所^の御^^ある^^日の^^に村りに出かけた。←厩力の^^かいる^^白町の^^日^、^に、^玉^^向お^い月^習いに一^け
)
2
信者男は姉対の姿を見て心が動揺し村衣の裾を切って歌を書きつけて送った。←世之介は女ガ月勢勺為に及んでいるのを
見とかめる。女が川之介に気判くと吐之介は指さして笑い、これをネタに女に言い寄る。
ゆ少り
Dは^伊勢物語^に^太木良の京^Uの里、しるよしして﹂とあったものを、^、向^日町に^日^とて、厭かた四^や^あり^と
力才
いうように、昔男か祥日の県に行ったことに対して、世之介は厩力の親族である春日屋に預けられたとするパロディである。
元服した昔男は狩りに出かけたのであるが、世之介は﹁枇をわたる男芸﹂として﹁銀見習ふため﹂^金銀貨の扱い見習いのため^
一似けられたのであった。^^勢物^叩^第一^のイメージを^成するものとして印象的な^^Hの単、^や元^したばかりの^男
の狩りを、皆蔽吸吽研の^北達した町人世界に^^したところに而白み^ある。さらには^之^ハは^.^一^^の俳^玉をするという、
九歳の少年らしからぬ行動をとっている。一ゴ代男﹄では世之介の近世町人としてのあり方が強調されているといぇる。
^は、井男^^いとなまめいたる^はらから^を垣刷見たのに^して、世之介は^中居ぐらいの女房^四^^する姿を見た
とするパロディである。昔券王朝長倫套である﹁畑舸見﹂をしたのに対して、世之介は泰慥鏡﹂を用いている。述眼
鏡は近世に入ってからかなり一般化していたというが、近世的な新しいアイテムであるとはいぇるだろう。この部分について
-37ー
(注岡)
は前田^^^キ^^^に お い て 次 の よ う に 指 ^ し て い る 。
﹃伊勢為﹄の﹁その里に、いとなまめいたる女はらから住みけり﹂ならぬ、﹁中居ぐらいの女房﹂を、﹁このをとこ、
かいまみてけり。おもほえ^、ふるさとに、いとはしたなくてありければ、、^地まどひにけり^のパロディー^、^行^
であって、垣開見どころか、世之介蛙微鏡で、脂ぎった女の、いとはしたない姿一芋あるヌードを、堂々と鑑賞してい
るのである。
この﹃全注釈﹄の説明は簡単なものなので、いま少し説明を加えてみたい。世之介がな^中居の行水姿(さらには白慰行為^
を同^たというパロディになるかといぇば、それは^はしたなし^の貢米の^^^行われているからである。^伊勢物^叩^の^は
(証上)
ふ、心
したなし﹂は﹃日本鼎叩大辞典﹄の﹁はしたない﹂の唄の①﹁どっちつかずで、中途はんぱなさま。しつくりしない﹂の恵味
③も、貢巣を直接転換するというレベルのパロディではない。色好み・好色という価値観に生きようとする男が、ターゲツ
トとなる女に対してどのような一勗をとったかとい1一味でのパロディであり、普男が女姉妹の姿を垣岡見て心を惑わせ、狩
衣の切れ端飯を霄きつけて喫たのに対して、世之介は中居女のあられもない姿を兄たことをネタに一吾い寄っている。甘男
熊乱ぶりと女性への真っ直ぐな思いに対して、也之介は真情あふれるとは言鉦い行為で言い寄っており、それを九歳の少
年が行っているということでパロディ化している。もつとも、このパロディは世之介がまだ{際のことはなしえない小ノ年であ
るということにょって成立するものであり、もし似之介が十分な大人であったならば、この世之介の行為は卑劣以外の何物で
-38 -
で^^するの^一^的なようである。^この旧い^に、ひどく不^介いなさまで美^たち^いたものだから^^新^日^古^<
文N^^条^とい、?愆味になる。それを西^は、^^でも一^的に^用される^はしたなし^の^怠味である^^み^なく艮化古
ティであるが、﹁はしたなし﹂とい之暴を直接転換するのではなく、中居女の行動とし
しいさま﹂(﹃Π本鼎叩大辞典﹄﹁はしたなし﹂の項では④に挙かる)に転換しているのである。この②も山と同様、﹃伊勢翻塑
の戸県を乎捌力りとした耘^
口
て表現している点は、パロディの力法としてはDとは児<なっているといぇる。
ノ\
もなくなり、笑いを生み出すものとはなりえない。
以上、、^^^物^四^第一^との^^点について^^した。^において、^^は但之介の^^町人としての要^糸を^西^し、干
朝の色好みから近世町人への価価転換を行っていた。このような近世町人としての属性を世之介のあり方とし張調してみせ
たのは、世之介の②と③央品に深く関連しているからであろう。②③は、①にみられた語句レベルのパロディとは異なるパ
、
ロディであったが、それは西鶴か本告十で表現しようとしたものにもかかわるものといぇる。さらに検討を続けたい。
二﹁垣間見 ﹂ と ﹁ 覗 き 見 ﹂
世之介か一哉鏡で行水姿を見る様子について、前田氏は
世之介蛙嶺鏡で、脂ぎった女の、いとはしたない姿態であるヌードを、堂々と鴛貝しているのである。
と、世之介が逃げ隠れせずに﹁堂、々と鱗R﹂していたと述べていた。ただしこのような解釈は一般的であるとはいぇない。一
般的にはここでの世之介の行動は﹁盗み同凸﹁覗き見﹂として解釈されている。松田修氏は次のような解釈を示している(傍
4/'1 一
五打四Πの夜中居女の入一冷の餅靡なふるまいを、一臂鏡で窃視してそれをたねに脅迴する。
九歳の彼は、述目鏡のメカニズムをかりねぱ窃視できなかった。
ヴ"ワイユール
ケプー
このほかにも^窃^﹂を^一^男^に散見される要素として^^した上で、西鶴の浮^背^子の^質について^油を展開してい
(よ・ご
る。また篠原進氏も﹁Ⅲ之介はここで、ボードレール四育う<覗く男>として心場する。窃視、それは美を求めて昔キ破る
ことである﹂というように、世之介受品を﹁盗み見﹂﹁覗き見﹂として觧釈しているのである。
しかしながらこの﹁盗み見する世之介﹂のイメージは、本文の挿竿目に焼き付け、さらに本文を航れて沓十全体をイメー
-39-
あ力,りざよ
ジ化した際に生まれるものといぇるのではないだろうか。本文をみてみると、盗み見とはいぇないⅢ之介の姿が描かれている
十コ人
のである。本文は次のようなものであった。
世之介四阿屋の棟にさし膨fゞ〒四微鏡を取"て、かの女を偸闇に見やりて、わけなき*どもを見とがめゐるこそおか
し0
ここには世之介^^偸闇^に見ていたとある。この^倫冏^とい、つ語については、前田^の^<忠^^^に^しい。それにょ
ると、この用字で﹁アカラサマ﹂と訓む場合は、中也以来豊眛である﹁急に・暫く・ちょつと﹂豊味であるという。その
﹁女の行水姿をちらりと見付けて、そのまま、ずうずうしく眺め続けている﹂としている。
一方で、塑代男﹄刊行以前の﹁あからさま﹂の用例から、﹁明白・ありのまま﹂とい、?愆味も含んでいるとし、ここでの鯛釈
は
-40-
前Ⅷ氏の解釈は浴于複埜ぐあるが、世之介の行動が﹁盗み見﹂や﹁覗き見﹂というような秘事として不文に叙述されていな
いことは明らかであろう。そもそも、﹁盗み見﹂や﹁覗き兒﹂であれば、小居女に見つかっ轟の川之介の反応も不豐雫ある。
小居女が自型打為に及んでいたとはいぇ、女の行水を覗き見する川之介の行為や製められたものではない。覗き見、盗み見で
あるならぱ、^に見つかった時点で小ノなくともいったんは逃げ隠れしよ、つとするのではないだろ、つか。しかし^之^ハは逃げ隠
れするどころか、﹁な在顔しかめ、指ざして笑﹂うのである。世之介はなぜ逃げ隠れすることなく、堂々と女を指さして笑っ
たのだろうか。これは覗き男がとる行動ではないはずである。
三中居女の行水・自慰行為
ここでいったん^削を中^女の行^と内刷児打為に戻したい。中^女の白^"^為^^はしたなし^の近^的転換であることにつ
ては先に触れたとおりであるが、ここで行水が出てくる必然性について、もうひとつの可北佳を指摘しておきたい。それは
し、
﹃太平記 ﹄ と の 関 述 で あ る 。
^代男"^巻一の二^はづかしな^ら文藁来^^、^太.^記^に^る、兼^法師の艶^脚代筆^件を下^きにしたものであるこ
︹1八)
とは、^来指摘されているとおりである。赤上の三において、^円鶴は^太平記^にみられた中^的共同^における恋文を新し
い近Nアイテムとしてょみがえらせていた。それ編く赤上の三においても、西鶴は﹃太平記﹄を利用しているとみられる
のである。
Ⅱ
きの二において利用されていた兼好の染武瑞件は、﹃太平記﹄竺十一﹁師何官課死ノ那﹂およびヌ見五性連平
家の*﹂に載る工。ヒソードである。内容は次のようなものであった。
高師直は、侍従の局から塩冶■貝の奥力が絶世の美女だと剛き、契方を何とか手に入れようとするが、なかなかうまくい
きんよし
力ない。そこで吉田兼好に恋文を代第させ下奥方に恋文キ趣る。この恋文は不首尾に惚わり、機嫌を悪くした抑直は、そ
れ以後勲^の出入りを禁じた。師辿は、恕^師寺二郎^衛門刷、^糸^の是^でもう一度^^を送ることにする。八令^は田芋^し
て、和歌だけを弐いた千紙を送ると、奥方から﹁靈きが上の小夜衣﹂との返りごとがあった。さらに,奥力への恋心を募ら
せた師直は、付従の局にさらなる手引きを求めて責め立てる。困り果てた侍従の局は、﹁奥方の湯上がり參をみせたら
熱も冷めるだろ、つ^と^フえ、^呂1^りの,^^の^をの^ぐか^る^、その^メを見た師^旧はさらに思いを"^ら^る。ついに
肺西は挺罰一Hを誘一許して追い誥める。火婦は子供を迎れ二手に分かれて領鼎貫逃亡を図るが、師女の追っ千こかか
り恋惨な最Wを遂げる。
、
この中 で 小 居 女 の 行 水 の 原 拠 と し て 指 摘 し た い の
しは、古儲直が,奥方の丹口上、がりの姿を見に行った災刀である。概要は次の
とおりである。
女製した師雨は、侍従の局と共に,熨力の屋敷に入り込んだ。倩従の局よ師直を卜部屋のふす壽十子の内則こ戀し、自分
ひとりか,奥へ入ると、,奥方はすでに湯上がりであった。師直が障子の破れから中を覗くと、そこには湯あみ後にくつろぐ
-41-
奥方の姿があった。侍従の局は師沌黒をさますために画策したのであるが'忠図に反して、湯上がりの奥方はたとえよ
うもなく美しく、化粧もしていないことがかえって長所を際立たせることになっているよ、つに師直には見えた。
湯上かり姿と行水・肉型1という籾述はあるか、風呂にかかわる女の姿であるという゛は共通している。
﹃一代男﹄において中居女が行水し、それを世之介が見ていたのは、﹃太平記﹄における師直の奥方の湯上がり姿と、それを
覗く師十哩のパロディといぇるのである。さらに戸っならば、中居女が自慰行為に及んでいるのも、^太平製のこのエピソー
大
ゆくへ
ド器新があるといぇそうである。﹃太平記﹂では師画が湯上がりの奥力を目にした後には、奥力の美しさに関する具体的な
、.しん、ゞ、
叙述が一机く。たとえぱその中の、
おお
油
かたち
^玉^玉骨の^^恕、^欣^にだも^^^して、しほれ^びな^ら井^れ髪の、一^^もなく^れてたまれるを、てもたゆくかき
きよ寸い
揚げ玉へぱ、こほれ膨祭れる髪筋の開より、ほのぼのと灯に対して見逃りたる目使ひのつきづきしさ、掩ふ傍その貌、
大花の藥水を出でて、弦田の玉Πに映ずるもかくやと覚え、
といった行文は、中居女 の ■ 心 行 為 に つ い て の 行 文 、
ながれはすねのあとをもはぢぬ滅のあたりの垢かき流し、なをそれよりそこらも鷲六にみだれて、かきわたる湯玉、
ぎりてなん
と同じような券囲気を醸し出しているといぇないだろうか。中居女の乱れた姿は、長く乱れた湘れ髪をかきあげる湯上がり姿
の奥力の姿とオーバーラップするものがある。
以上、繰上の三において批之介が女を見るとい、ユgが、﹃伊勢物語﹄第一段の普男に加えて﹃太平記﹄の高師直四品を
ふまえたものである可能性について述べた。次に、この男たちの﹁見る行為﹂について、さらに杉{祭を進めたい。
-42-
師直は弓・線を持たぬばかりこそあれ、あばらなる倉に隠れ居し昔男の心地して、とある障子の破れより内をほのかに閖
見た。﹃ 太 平 託 ﹄ 本 文 に は 、
^^勢物^叩^の^目男が^いとなまめいたる女はらから^を垣開見たのと同^、^太平記^の師直は^冶判官の^方を物陰から
四﹁見る行為﹂の転換
やなぐひのぞ
ι
1
ナま、
とあり、師直自身が昔男のような気分であったことが示されている。女装して邸内に侵入しているため、師直がとった手段は
垣開見ではなかったか、その内実は﹃伊勢物江巴と同じ頒一冏見であったといぇる。そしてそれは、相手からは知られることな
く姿を見るという、覗き見ともイコールのものであった(﹃伊勢地皿の災口は、そ四傑に歌を噌っているから、垣間見たと
い、つこ と は 知 ら れ る こ と に な る の で あ ろ う か ) 。
それでは世之介が女を見る方法は、昔男や師直の垣開見・覗き見と同じで、それに遠眼鏡というアイテムを加えることにょっ
て近世的に転換しただけ の も の だ っ た の だ ろ う か 。
そもそも世之介か四阿屋の屋根から遠眼鏡を覗いていたのはなぜなのだろうか。この目的については本文からは明らかには
ならない。本文では、中居女か端午の節句の前日に、見越しの柳の木陰響需湯で行水をし、そのうちに誰も見ていないから
と均尉"竹為に及んだことが述べられている。そして﹁世之介四阿屋の棟にさし懸り、亭の遠眼鏡を取持て、かの女を兪問に見
やりて、わけなき事どもを見とがめゐるこそおかし﹂と続いているのである。世之介は中居女がそこで行水していることを知っ
ていて屋根に上り、一朕 鏡 で 覗 い た の で あ ろ う か 。
や、そうではないだろう。近世期に蛙嶺銚が一般的与及しつっあったことはすでに指摘されている。﹃西鶴大矢数﹄
い
三十四に﹁一文墨も世界の重fや一嶺誓て東西南北雑式もお辧台に上りけり﹂とあるように、遠眼鏡はあくまで
-43 -
も世間を同徒すためのツールであった。世之介は中居女を見るために四阿屋に上ったわけではなかったのではないだろうか。
それは本章において、U乎仞に世之介の町人約側面が強調されて揣かれていたことからもいぇる。﹁銀月曹ふため﹂に預けられ﹁死
一倍﹂の災立をしたという、峡欝活動にかかわる側而之裟されていたのはなぜか。それは川之介を形成する要素として、﹁近
^町人^という要索が^よりも重、一^であったからではないだろうか。
このように考えると、世之^刀か述眼鏡を^^いて^女を見ていたことは、昔男や師十世が女を^^き見^していたこととは木
質的に卯<なる行為であったこと^わ力る。一伊勢物劃川^はル、H男力^^はら力ら^を圷・冏見に下っ九峡脚急は轡力れてしなし力、
これは^いとなまめいたる女はらから^かいるという帖^を小前につかんでいたからこその行動であったといぇる。師直も侍
征の局から奥力の話を剛いたのか始まりであった。つまり昔男も師皿も、垣岡見の前捉条付として白己が鵬するコミユニティ
内で*肌通している^^を入^しているのであり、^冊見はそれを^かめるために{^見しに行くという^吐^になっているのであ
る
それに対して世之介の場合は、中居女そのもの、あるいは女か村水をしているという情縦を那前に衡てはいなかったと少、え
られる。世之介は階叔をもつていない状態で四阿屋の屋根にーつて速眼鏡を覗いていたのでありたまたま中居女の行水する
姿を見つけたのであろう。しかもそれは覗き見とはいぇない堂々たる見力であった。
つまり両者は一見、同じ﹁覗きΠ凸を行っているようにみぇるが、その内{夫はまったく則むったものだったのである。昔男
師辿は小前に怖鍬を得ていた。それぞれの共同付の小で恬智を小前に劉てその悍秤の鷄ルを行ってしるのであるそれに対
して世之介は、内ら惰報を探し出し、そしてそれを白分のΠで吟眛しているのである。世之介の惜報の入手方法は、小さな共
同休において情報を交換していた前時代までのものとは妥なるものといぇる。近世の都市で形成されるWしい共同体において、
町人たちは新しい力法で惰報を入手するようになっていた。Ⅲ之介の速眼鏡を使った﹁見る行為﹂には、その新しい枯報収染
のあり方が尓されていたのである。
-44-
江一"代の文学条本的にパロディの瑞糸をもつている。洪お作品や索材を踏まえて、新しい世界を創りあげるわけであ
る。西鶴Xでみられるパロディは、これまでさまざまな論者にょってとりあげられてきたように、西鴫文学の本質にもかか
はらか
わる埀要な力法である。浮俳十子の咲火である﹃一代男﹄のパロディ業、それまでのものとはいかに一線を画すものであっ
かル小
たのかを硫認するために、﹃仁勢物語﹄との述いをみておきたい。
をかし、男、頬被りして、太木良の■森Πの里へ、酒飲みに行きけり。その里にいと生奥き魚、摸赤といふ有けり。此男、
買ふて見にけり。おもほえず、古巾着に、いとはした銭もあらざりけれぱ、、心地まどひにけり。男塁府たりける昔り着る
物を砂ぎて郁の価にやる。呉男、渋染の着る物をなむ着たりける。
一吾うまでもなく、﹃伊勢物語﹄第一段の聖部(誤の前まで)のパロディである。一言一句を言い換えて、卯俗・卑近な
世界に転換しているその粘御は、まさしく近世的精祁の発現といぇるのであろうが、西鶴のパロディと@いは一目駆一であ
る。西鶴のパロディは語句レベルを超えて、近世町人の新し父品原理や価値観ナ衾現するものなのである。
おわりに
以上、﹃好色一代男﹄巻一の三﹁人には見せぬ所﹂の世之介央品について検討した。その過程において、中居女の行水や
自刷心行為^、^^.^司ル^に揣かれる、高師直か^方の^呂上^りの^を見に一^つた^・^刀から導きだされたものであることこつ
い ても指摘した。
従来、皿之介の行動は﹁窃視﹂﹁覗き見﹂とみなされてきた。それは木'芳原拠である﹃伊勢物語﹄第一段の而而見を、遠
朏銃という新しいアイテムを使うことにょって硫ハ世界を近世的にパロディ化したという畔釈であったといぇる。しかしなが
ら本文を詐細に吟味すると、世之介央品は﹁窃視﹂﹁盗み見﹂といぇるものとしては揣かれていなかったといぇる。
-45-
本章の白品では、近世の進↑活動にかかわる世之介の側面が強羽されていた。従来の解釈では、ここは単なる年齢不相応の
ふるまいのおかしみが描かれているとされていたに過ぎない。しかし注目すべきは、冒頭部でⅢ之介の近世叩人としての側面
が強調されていることなのである。それは、この後の世之介四勗原理を理解する上系要な器糸なのであった。
冒頭部に続いて、;嶺鏡﹂を使った中居女のヌードをめぐる世之介のふるまいに展開しているか、その世之介の行為は堂々
としたものであった。それは決して、窃視や覗き見とは解釈しえない姿であった。也之介の近但町人としてのあり方の強調や、
中居女のヌードを堂々と鱗貝する一櫨といった系糸をおさえると、否十での価値観の転挨は、垣冏見であったものを、遠眼鏡
を使用した窃視、覗き見に転換するとい1一昧での近世化にょって示されているとみることはできないのである。
本,冴近也的価仙観は、一哉鏡を使用している世之介四勗にこそ尓されているのである。昔男や師直か一勗を起こしたの
-46-
は、自らが属する共同体において恬梦ど手に入れていたからであった。彼ら四品は、自己の属するコミユニティ内の惰報を
硫かめに行くという行為であった。それに対して世之介の行動は、張則に何らかの情報を得て行われたものではなかったと考
えられる。それは様々な階解や地城の人々にょって形成されている新しい都市の共同体のあり力を示すものなのである。世之
需釜円十、ニ,号、昭和五
介は少劇に情報を得ることはなく、何らかの情蛾を手に入れるために四阿で遠眼鏡を手にしたのである。そこで目にしたのが
中居女の行水姿なのであった。
世之介の姿には、近世町人として昇しいあり方が示されているのである。
前田金五劇﹃庁色一代男全"一上巻(角1店畷和五十五年)
十年.二打)
浅野晃二お述眼鏡﹂考1 ﹃一代男﹂赤上の二の綴と表現1﹂(﹃西鶴込崔勉誠社、平成二年。詔
狂ι
^剛^註一一^.ばヒ^^ヤ^^円^と力^^^f
一剖どリ一征
四
一●和と見る説は採らない。屶のどうしてょいかまごつく気持であろう﹂とする。
一^加^^タン一プイズムと世,^^^^一^^則^院^
松田修﹁西鶴における竹家的出発﹂(一松賜修著作架﹄第八集、平成卜五午。初出・﹃文三:-t余上弓、昭打川卜五下一河)
七
非好の艷卞4ポ判を、西鶴かいかに新しい価仙観倫示§ぴつけたのかについては、拙高﹁枇之介黒文1近世都市文学としての冉
^子・^ル削当^院^^^^子勺^、^^ト\弓、ⅢU^ト七fご^月^
八
J/
一\
﹁勳新日本"典文災十条一(少,京)など。ただし﹁新Π水古典文孚大系﹂金裂古古)は﹁﹁はしたなし﹂を荒れたⅢ都と美し、姉株との
Ⅱ11U
五
文
生1﹂(﹃Π木語H木又学鱸ど八号、平成二十五午三月)に論じた。
(はにゅう・のりこ杢流教授)
-47ー
ニノ亡、