﹃ 狐草紙 ﹄ と ﹃ 文観阿舎利絵巻 ﹄

﹃狐草紙﹄と﹃文観阿舎利絵巻﹄
内
田
啓
一
容は詞書を欠き、錯簡もあり、絵の細部においての若干
と表紙題簽に外題が記される絵巻が所蔵されている。内
││ 文観房弘真の後世におけるイメージ化 ││
早稲田大学
図書館所蔵
はじめに
の相違を認めるが、構成や構図など﹃狐草紙﹄とほとん
ど同一である。つまりほぼ同一内容で、二つの画題を持
つ絵巻ということになる。また、一図だけだが﹃狐草紙﹄
お伽草紙のひとつ、﹃狐草紙﹄はある僧都が女狐にた
ぶらかされて屋敷にて快楽を享受するが、錫伺をもった
若い僧に地蔵菩
にはみられない絵も含まれていることも﹃文観阿舎利絵
が応化し、狐のたくらみをあばくと、
そこは寺の床下で髑髏や雑物が散らばる現実となり、ぼ
巻﹄を特徴づける。
弘真である。立川流の大成者として汚名を着せられた僧
延文二年・一三五七︶と思われる。文観房は仮名で法諱が
醍 醐 天 皇 に 重 用 さ れ た 文 観 房 弘 真 ︵ 弘 安 元 年・ 一 二 七 八 ∼
2
早稲田大学図書館本にみられる文観阿舎利とは文観阿
闍梨のことで、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて後
ろをまとった僧都は笑われながら故郷に帰るという内容
の霊験譚で成立す
である。動物との交わりがある、いわゆる異類物と称さ
れるもので、破戒僧の愚行と地蔵菩
1
る。
早稲田大学図書館には﹃狐草紙﹄が所蔵されるが、こ
のほかに、﹃文観阿舎利絵巻﹄との箱書と﹃文観阿舎利﹄
﹃早
狐稲
草田
紙大
﹄学
と図
﹃書
文館
観紀
阿要
舎﹄
利第
絵六
巻十
﹄二号︵二〇一五年三月︶
─ ─
27
としても知られる。文観房弘真は文観上人と称されたり、
文 観 と 呼 ば れ た り す る。 南 北 朝 の 動 乱 を 描 い た 軍 記 物
﹃太平記﹄によってその姿は歪められておもしろおかし
く描かれ、さらに邪教立川流と結びついて、より一層悪
僧・妖僧・破戒僧としてのイメージが後世になって定着
したようである。それゆえに女狐にたぶらかされる破戒
僧の物語が文観房弘真の名前を冠する絵巻として伝来し
たと思われる。
しかし、単純にそれだけではなく、﹃狐草紙﹄のなか
には種々の点で文観房弘真のイメージの形成から盛り込
一
﹃狐草紙﹄と﹃文観阿舎利絵巻﹄概要
①
形状と画風
﹄ 紙本淡彩一巻。全七図。
A
﹃狐草紙 3
縦十五・一センチ、本紙縦十三・七センチ
全十八紙
︵請求記号へ十二 一五八六︶
早稲田大学図書館本﹃狐草紙﹄は奥書に、
右狐草紙
御伽草子ではなく、歴史的背景をもって成立したもので
い。それによって﹃狐草紙﹄が単なる異類譚・霊験譚の
なり、写し崩れが多々あってもよさそうであるが、探幽
されたものである。単純に考えれば第三転ということに
淵潭守純所蔵
藤原 ︵朱文法印︶︵図①︶
4
とあり、土佐絵として伝来したものを狩野探幽が縮図と
5
し、 そ れ が 淵 潭 守 純 に よ っ て 嘉 永 二 年 ︵一八四九︶に 写
古土佐絵探幽斎法印守信縮図
己 閏 四月䇭之
嘉永二 酉
あることを指摘できるかと思われ、さらに文観房弘真に
の転写が優れていたためか、伝土佐光信本の系譜で忠実
まれたと思われる箇所が散見される。
ついての後世のイメージがもたらした点を見ることがで
な模写となっている。なお第三段の詞書に五行分の欠脱
本稿ではもう少し﹃狐草紙﹄の内容を検討することで、
﹃文観阿舎利絵巻﹄と称される経緯について考えてみた
きるかと思う。
─ ─
28
−
6
が認められる。
画風は細線を駆使して速筆で模写し、彩色は淡彩を中
心とし、施色は丁寧ではないが、かといって雑というわ
けでもなく、すみやかにかつ的確に色をさしている。そ
れは草花も同様で、花も葉も側筆をもちいてた点描でリ
ズミカルな描写である。江戸末期の絵師の模写本はえて
して手慣れた筆使いのものが多く、本図も小気味よい仕
﹃狐草紙﹄と﹃文観阿舎利絵巻﹄
上がりになっている。
絹本着色である点がいわゆる小絵の類いとしては珍し
い。また、本絵巻の特色は濃彩であることで、霞み引き
は濃紺の顔料が施され、畳も濃緑で、これほど濃彩作例
も類例も乏しく、しかも虫損の上からも塗られている箇
所もある。人物の顔には隈を施す丁寧さであり、狐の背
には薄く茶色を施し、胸や尾には白による毛描きもみら
れる。また、美女狐の衣や檜扇、ひてうの衣や文箱にも
金泥描きによる文様が認められ、豪奢な仕上がりとする
意図がみられるが、補彩と思われる施色も多く、巧みな
絵とはいえない。詞書を欠き、絹本着色しかも濃彩であ
るので、元来、巻子装であったかは疑問であり、画帖な
どの形式とも考えられるが、虫損から復元することので
─ ─
29
−
﹄ 絹本着色貼付一巻。全八図。
B
﹃文観阿舎利絵巻 7
画面
縦十五・五
横三十九・一∼三十九・五
︵請求記号 文庫三〇 E三八〇︶
図① 早稲田大学図書館本『狐草紙』奥書
きる形態はかならずしも各図が一致するものでもなく、
ることはできず、江戸後期であろう。
原初形態を現状から想像することは難しい。制作時期は
江戸中期を
﹃文観阿舎利絵巻﹄は全八図であり、図数としては﹃狐
草紙﹄全七図と一図多いが、最終段の娘の所に帰る図は
なく、﹃狐草紙﹄の第六図が﹃文観阿舎利絵巻﹄では二
図に分割され、なおかつ美女狐が一人だけで描かれる図
─ ─
30
が入っているので結果的に一図多くなっている。大きく
い出る姿になっ
図様が異なるのは、第七図で、坐す僧都のもとへ童と近
衛院の侍が走る場面で、
﹃狐草紙﹄では
ている。その他は図様はほとんど一致するが、総じて﹃狐
草紙﹄の主要な部分のみ描かれている点も特徴である。
つまり僧都と美女狐の図を中心とする ︵ ∼図様比較参
応 の 場 面、 地
御伩のむこうに几帳を置き、小袿を着て檜扇を持ち頸を
が錫伺を持った僧となって、屋敷に入ってくる場
蔵菩
几帳の文様が芝で、檜扇には木瓜文様がある。几帳があ
れる小野小町や伊勢、斎宮女御の姿を手本としている。
傾ける姿である ︵図②︶
。これは明らかに歌仙絵にみら
図② 『文観阿舎利絵巻』第五紙 部分拡大 美女狐図
、物語の展開図とし
面などは省略されており ︵ 表参照︶
。牛車で迎えに行く場面や狐たちの
照︶
P58
さて、﹃文観阿舎利絵巻﹄だけに見られる美女狐図は
てはやや断片的である感を免れない。
P58
本図が原本をどこまで ることができるものか明らか
にできない。﹃狐草紙﹄にも配されていた図なのか、﹃文
精進を出してもらう。宮仕の人々はみな綺麗で、僧都は
れるが魚料理であったので、それは戒律に反するとして
にもまさる美人がいた。炊いてある香もかぐわしく、つ
観阿舎利絵巻﹄に独自に配された図なのかはこれだけで
心落ち着かず疲れるが、男たちは酒を飲み、優雅に遊ん
るという点で三十六歌仙の上畳本や佐竹本、などを参照
は判断できない。順序としては現状では僧都が食事をす
でいた。そんななかで年月を送る。そうして女と戯れて
いには和歌を詠み、それに対して返歌があって同衾とな
る場面の次に来ているが、これは不自然である。僧都が
いるところに、錫伺を持った若い僧たちが三、四人ほど
すれば、斎宮女御が最も近いものといえようか。
美女狐に近づいて和歌を詠む場面の前に来るのが順当で
門から入ってくると、女をはじめ皆が逃げ出し狐となっ
い出ると、
たので、すくんでいると、身にまとう衣は古い草紙であ
のは伪、菰切れ、牛や馬の骨であった。臆病な性格であっ
しょう院の大床の下で、美しい楽器や調度と思っていた
てしまう。僧都は夢か現かと思うほどに気がつくと金剛
り、戒律を破ってしまうのである。次の朝、食事が出さ
あろうか。
②
﹃狐草紙﹄のあらすじと特徴8
9
詞書については宮次男氏の論考や﹃御伽草子絵巻﹄に
翻刻されているので、ここではおおまかな筋書きについ
ることにも気がつき、なんとか南の大門に
とある老僧都のもとに女からの誘いの手紙が侍女に
よって届けられ、夜更けにお迎えにくるという、僧都は
直垂を脱いで貸し与えてもらう。しかし、僧都は背が高
侍で、よく知っている僧都ということで、哀れに思い、
て記すこととする。
訪問することとする。迎えの牛車に乗り、秋草が咲く邸
く、直垂を着た姿も滑稽でまた笑われてしまう。故郷に
童たちに笑われるが、そこを通りかかったのが近衛殿の
に到着し、室内には琴や琵琶が置かれ、楊貴妃か李夫人
﹃狐草紙﹄と﹃文観阿舎利絵巻﹄
─ ─
31
帰るが、娘もその姿に驚き悲しみ、自らの小袖を渡して
笑されながらしかも娘の所に帰るという、愚僧の話に終
始している点も霊験譚としてはやや異質なるものである。
の御本誓は有り難いものとし、
くれる。結びに、地蔵菩
説諭もなければ、訓戒もない。御伽草子なのだから読み
て一時の栄華を過ごした単なる愚かな僧の話である。
公はあくまで
﹃ 狐 草 紙 ﹄ と い う 名 で あ り な が ら、 主 人
C
も女の誘惑にのってしまった破戒僧であり、美女によっ
るわけでもない。
でだが、愚僧の話としてもそれ程楽しい物語の展開があ
物として面白ければそれで可、と言ってしまえばそれま
七年と思った歳月は七日であったという。
以上が、簡略な筋書きであるが、老僧都には美女と関
係を持とうとする明確な意図もなく、積極性もない。単
純に美女に化けた狐にだまされたというもので、だまし
た狐にもさしたる利益も役得もない。
人が狐に化かされる話として﹃扶桑略記﹄巻二十二の
善家秘記があり、
﹃元亨釈書﹄にも収められ、狐との異婚、
観音の大悲の力、三年と思ったのが実は十三日であった、 破 戒 僧 の 話 と し て 著 名 な も の に﹃ お よ う の あ ま ﹄ や
A
という点が主要な筋で﹃狐草紙﹄と同型であるという。 ﹃ささやき竹﹄、﹃地蔵堂草紙﹄がある。﹃おようのあま﹄
であり、﹃ささやき竹﹄のように自らが託宣を述べる僧
の場合は、日常の生活のために誘いに乗る人間味ある僧
確かに狐と僧侶が結ばれるのであるから、怪婚譚である
B
し、観音ではないが、地蔵菩 によって女の正体が明か
の伶智さがあるわけでもなく、進んで破戒行為をしよう
紙﹄にはそれもない。狐との怪婚として﹃木幡狐﹄そし
D
て﹃いなり妻の草子﹄があり、狐嫁によって富貴を得る
情をかもしだし、それがまた滑稽なのであるが、﹃狐草
としたわけではない。ともに僧侶の男としての下心の感
されるのであるから、霊験譚でもある。
その地蔵菩 の霊験で話の結末へと移行するが、地蔵
菩 を改めて礼賛する場面もなく、最後に﹁地さうの御
ほんせいありかたくこそ、おほしけれ﹂と付けたりのよ
うに語られるにすぎない。僧侶が悲惨な結末を遂げ、
─ ─
32
ことができるもので、狐による求福があるが、それもな
い。ましてや﹃玉裳前﹄のように女狐にまつわる話の壮
が門から入って
大な展開があるわけでもなく、一時のはかない夢を享受
した愚僧に対し、僧侶となった地蔵菩
くるだけで狐にもどって、現実となる単純さである。
二
﹃狐草紙﹄にみられるの固有性
①
﹃狐草紙﹄の原本
宮次男氏が個人藏本を論じており、その論考をもとに
﹃狐草紙﹄の初出を記してみると、
E
十月十五日の条に、
﹃実隆公記﹄明応六年 ︵一四九七︶
が、宮島新一氏や相澤正彦氏は光信であることに対して
G
疑問を持っている。一方、﹃狐絵﹄との呼称については
佐伯絵里子氏が﹃木幡狐﹄にも﹃狐絵﹄と称されていた
H
作例を紹介している。
土佐光信筆ではないにしても、また、﹃実隆公記﹄の
義尚所蔵品かいなかの問題もあるが、十五世紀末∼十六
世紀初期と考えてよく、絵も御伽草子としては画格が高
いものであろう。そして原本の図様がすぐれているため
か転写本は多い。絵としては完成されているので、多く
転写されたのであろう。写本は早稲田大学図書館の他、
大東急記念文庫、西尾市図書館岩瀬文庫、国会図書館、
宮内庁書陵部に所蔵されている。
多く、将軍足
室町時代初期にはいわゆる狐憑き事件がI
利義持をも巻き込んだ事例も指摘されている。したがっ
常徳院殿
御物也
、 一巻八幡臨幸絵也
とあり、狐絵なるものが常徳院、すなわち足利九代将軍
て﹃狐草紙﹄も狐との関わり合いですんなりと受け入れ
中 山 中 納 言 来 談、 滋 野 井 絵 二 巻 令 見 之、 一 巻 狐 絵
義尚 ︵寛正六年・一四六五∼長享三年・一四八九︶の所蔵で
ある点が面白いのであろう。しかも破戒僧として堕落し
あったことが記されている。義尚は二十五才で没したが、
F
その絵巻収集については名高い。宮氏はこの狐絵が個人
ていくのは普段は清廉な僧で、僧階が高ければ高いほど
られた物語と思われるが、やはりだまされるのが僧都で
蔵の﹃狐草紙﹄で、土佐光信筆となるものとされている
﹃狐草紙﹄と﹃文観阿舎利絵巻﹄
─ ─
33
面白いはずである。
②
﹃狐草紙﹄の詞書から
ここでは詞書のなかで特有である点と判じられること
と、その背景に焦点を当ててみるが、文観房弘真を念頭
に置いておきたい。
わかために
ありける物を
よし野山
人にしられ
屋敷を訪れた僧都が狐が化けた絶世の美女を前にして
歌を詠む。それが
枝ならぬ
身なれは風も
しらぬにや
はれのすみ
ぬ
花のすみ家は
という歌である。それに対して、
かと
君はいえども
との返歌があり、吉野と花をかけていることは明白であ
節的には全く異なる。また、美女の家であるのに、吉野
山が突如と詠まれていることは問題であろう。花を愛で
た僧侶として西行も考えられるが、それ以上に、南朝の
ことを示しているのではなかろうか。しかも名所として
名高い吉野山に対して﹁人にしられぬ花のすみか﹂とし
ている点で南朝は世間から遠ざかっているかのような意
図が感じられまいか。
J こ の﹁ 我 が た め に あ り け る も の を ﹂ の 歌 は﹃ 平 治 物
語﹄巻中の﹁常葉 進並びに信西子息各遠流に処せらる
る事﹂で、平治の乱を招いたとして追われ、自害した少
納 言 入 道 信 西 ︵藤原通憲︶が 著 名 だ が、 そ の 四 子 息 の 一
人であるが故に東国・下野国にながされた播磨中将成憲
かんなる室の八島とて見たまえば、煙心細く立ち上
さる程に、中将、下野の国府に着きて、我が住むべ
︵藤原成憲︶のことが述べられた場面で、
り、折からの感懐留めがたくて、泣く泣くかうぞ思
り、
﹁花のすみ家﹂としているのも、その前段に庭に様々
な花が咲き乱れていることが記されている点をみれば、
我がためにありけるものを下野や室の八島に堪へ
ひける。
巧みな歌の挿入とも思える。詞書による季節は女郎花な
どが咲く秋だが、吉野山の花といえば春の桜であり、季
─ ─
34
たが、あることに堕ちたという象徴的な事象なのであろ
そも戒律を護持する立場であり、日常的には遵守してい
この所をば、夢に見んとは思はざりしかど、今は栖
う。精進物が出されたのであるが、宮使いの人々は皆綺
ぬ思ひは
と跡を占め、慣らはぬ鄙の草の庵、何に譬へん方も
羅であり、物も食べることができなかったという。これ
さて、地蔵菩 の霊力によって狐たちが逃げ去り、僧
都が目覚めるのは﹁こんかうしやういん﹂である。つま
活には溶け込むことができないということである。
も普段は質素な生活をしているので、公家の華麗なる生
なし。
と播磨中将成憲が詠んだ歌を本歌としていることは明ら
K
かである。しかも成憲の下野と僧都の吉野山が対になっ
とになる。また、僧都の﹁人にしられぬ、花のすみ家﹂
り金剛﹁しょう﹂院ということになる。この﹁しょう﹂
ており、吉野山が僧都の場合の注目すべき土地というこ
や狐美女が返した﹁はれのすみか﹂が﹃平治物語﹄の﹁今
には﹁聖﹂﹁性﹂などが想定される。しかし、ここで注
目したいのはその根拠を明確にしていないが、宮次男氏
M
が指摘された美福門院 ︵藤原得子︶︵永久五年年・一一一七
は栖﹂に掛かっていることも見逃せない。そしてこのな
因果による哀れな末期の地が下野であったという背景が
∼永暦元年・一一六〇︶の金剛勝院である。康治二年 ︵一
かには保元の乱で権勢を誇った信西とその息子が負った
ある点でも吉野山とも共通する。
あった。他の御願寺同様に准御斎会などの法会が行われ
N
ていた。鳥羽院に寵愛され、権勢をふるった美福門院で
一四三︶に創建され、造営は美福門院乳父の藤原親忠で
ふしきの身なれともうを鳥くふ事は、ゆめ〳〵なしと﹂
ある。二条天皇の即位に尽力したが、藤原通憲との関係
O
から平治の乱の原因ともなったとされている。後世にい
さて、一夜明けて、僧都が起きると食事が用意される。
出されたメニューは魚という生臭物なのだが、﹁かゝる
言って断るのである。女人と交わった破戒僧であっても
L
食事だけは殺生戒を守るということか。この僧都がそも
﹃狐草紙﹄と﹃文観阿舎利絵巻﹄
─ ─
35
たっては世の中が乱れた先例として、保元の乱・平治の
動乱という点で注目されよう。美福門院は第七十六代の
とを知るのが近衛殿の侍となっている。つまりこの破戒
その近衛家だが、僧都が南の大門を出でて、童に笑わ
れているのに気づいて見ると、知り合いの僧都であるこ
藤原忠通の嫡子の基実が近衛家の祖となっている。
近衛天皇 ︵保延五年∼久寿二年、在位は永治元年・一一四二
僧と近衛殿とは親しい関係にあったという想定である。
乱があった。先の歌の吉野山と関連づければ、南北朝の
∼一一五五︶の 国 母 で あ り、 後 に 述 べ る 近 衛 殿 と も 連 関
ここに突如として実名が記される近衛殿にも意図があろ
うか。そこで注目したいのは近衛経忠 ︵乾元元年・一三〇
P
する。
ところで妖狐の話として名高い﹃玉藻前﹄は近衛院の
時の鳥羽院の仙洞にあらわれた化女で八百歳の狐が主役
だが、その美しさと才覚から鳥羽院に寵愛されるという
とされている。後醍醐天皇が吉野にて南朝を設立すると、
二∼正平七年・一三五二︶とその嫡子近衛経家 ︵元弘二年・
R
一三三二∼元中六年・一三八九︶である。
S
には関白と氏長
特に近衛経忠は元徳二年 ︵一三三〇︶
者となるが、それは後醍醐天皇から信任が厚かったから
み取れるのではなかろうか。﹃玉藻前﹄で美福門院がモ
延 元 二 年 ︵一三三四︶四 月 に 南 朝 に 出 奔 し た。 し か し、
設定である。この女狐は美福門院がモデルともされてい
Q
る。狐│美福門院│金剛勝院というイメージの関連が読
デルであったのかいう問題があるが、それと後世に美福
門院のイメージが重ねられたかの問題は異なるのであり、 後 醍 醐 天 皇 の 崩 御 の 後、 興 国 二 年 ︵一二四一︶に は 京 都
金剛勝院という寺院名があえてここで記されている以上、 に戻ったが、亡屋一宇と所領二カ所を受領しただけで、
浮かばれなかった。ついには藤原一揆を企てたがこれも
後世の人々がイメージを重ねるのは自然であろう。
T
うまくいかなかったという生涯である。嫡子の経家も終
一方、美福門院と結びついていたのが藤原忠通であり、
生 か わ ら ず 散 位 で あ り、 正 平 八 年 ︵一三五三︶に は 南 朝
雅仁親王を即位させて後白河天皇としたのである。その
─ ─
36
経忠と同時期に北朝で関白・氏長者となった近衛基嗣と
その落ちぶれた近衛殿の侍から施しを受けるのである。
家からみれば悲惨な末路の近衛経忠と経家の父子である。
へ赴いたとも考えられている。いずれにせよ、北朝の公
ではなく、愚僧の夢を現実に引き戻したのが地蔵菩
仰は格段である。﹃扶桑略記﹄のような観音菩
氏自筆の地蔵菩
るのが地蔵菩
氏である。留意されるのは尊氏の信仰でよく知られてい
しかもこの近衛殿の侍が直垂を脱いで着せてあげるの
だが、破戒僧の背が高いために可笑しく、さらに 笑の
なにか意味を探したくなる。ちなみに元弘の乱にて後醍
最後に七年程の楽しみは実は七日間であったとして、
この狐草子は終わる。この七年という年月も唐突であり、
と
の霊験
である点だろう。簡略な図であるが、尊
U
図像 ︵図③︶も数点知られており、信
その子もおり、家系も続くが、僧都と同様に惨めな結果
設定したことにも隠喩があると思われるのである。
対象となったとし、恥の上塗りのような展開となってい
醐天皇が隠岐に流されるが、名和長年の勢力を頼り、伯
─ ─
37
を見いだすのであれば、経忠・経家の近衛殿であろう。
る。あまり益とならない近衛殿の侍なのである。
詞書の内容とは前後す
るが、美女狐の誑かしを
明かしたのは錫伺を手に
僧侶と応化した地蔵菩
である。ここに意味を考
えるとすると、後醍醐天
皇の親政から足利武家政
権へと移行させたのは尊
﹃狐草紙﹄と﹃文観阿舎利絵巻﹄
図③ 地蔵菩 図 足利尊氏筆
栃木県立博物館
延 元 四 年 ︵一三三九︶八 月 で あ り、 六 年 少 々、 あ し か け
て吉野に赴いて南朝の成立、ほどなくして崩御したのが
︵一三三三︶五月であり、その後、親政の崩壊と京都を出
耆 の 船 上 山 経 由 で 京 都 に 戻 り、 親 政 の 開 始 が 元 弘 三 年
きなかったということの暗示であるようにも思われる。
紙﹄で僧都が日常とは異なる雅な生活に馴れることがで
けではない文観房弘真の座主や長者という地位も﹃狐草
後に文観房弘真も補任される点も含めて、出自が良いわ
者が多い。仁和寺から補任されることも多い東寺長者に
どによって読まれ、一部の階層だが享受されはじめた。
元年 ︵一五〇四︶閏二月六日に見られるように物語僧な
年 ︵一四三六︶五月六日、七日の条、﹃蔭涼軒日録﹄文正
徳二年 ︵一四九〇︶五月十六日の条、﹃看聞日記﹄永享八
①
﹃太平記﹄から
W
﹃太平記﹄は後世になって親しまれた。﹃後法興院記﹄
文正元年 ︵一四六六︶五月二十六日の条、﹃親長 記﹄延
三 後世における文観房弘真のイメージ
七年である。特定することが難しい七年ではあるが、後
醍醐天皇に重用された文観房弘真とこの破戒僧のイメー
ジから考えると、美女狐と過ごしたと感じられた年月が
七年であるという理由とも思われるのである。愚僧が享
受した七年の年月が儚い七日のようだったのも、文観房
弘真の栄華の期間で一致するのである。
最後に宮使いの人々は皆綺羅で、物も食べることがで
きなかったという点に注目すれば、これも文観房弘真に
V
関する資料で﹃醍醐寺新要録﹄︶第十四巻﹁醍醐座主次
第﹂をみてみると、
太平記読みの活動によって広く知られるようになるのは
近世になってからであるが、義尚所持の狐絵が﹃実隆公
記﹄にみられる明応六年︵一四九七︶の頃には、﹃太平記﹄
道順大僧正入壇資、一階
第六十四権僧正弘真 僧
正也、号後小野僧正。
とあるが、割注に一階僧正とあるように、僧階を飛び越
して権僧正となったらしい。これも後醍醐天皇からの信
とその内容が賞
されていたと考えられる。
任によるものだが、醍醐寺座主には村上源氏や公家出身
─ ─
38
は播磨に生まれ、南都・西大寺に入り、第二世長老信空
教・立川流の大成者とされる文観であろう。文観房弘真
﹃狐草紙﹄のキーワードとして、破戒僧や吉野山、
さて、
転 落、 狐 に 注 目 し て み る と、 想 起 さ れ る の は や は り 邪
ろう。
後まで南朝の僧であった点など複合的な要因が考えられ
僧として後醍醐天皇に重用され、座主・長者となり、最
る。その理由として西大寺の律僧出身でありながら密教
小島法師や円観房恵鎮などがその編纂者と考えられて
いる﹃太平記﹄だが、比叡山天台系の僧侶には寛大かつ
るが、とくにイメージを決定づけたのは﹃太平記﹄であ
する、栄華を極めたなどのレッテルを貼られることにな
に灌頂を受け、その後、醍醐寺の報恩院流道順の法脈に
X
連なり、次第に後醍醐天皇に重用されていくのである。
島に流されるが、後醍醐天皇が隠岐から京都に戻ると文
好印象に描かれ、真言系の僧侶には辛辣な文言が多い感
元弘の乱にて鎌倉幕府に捕縛され、鹿児島の南・硫黄ヶ
観房弘真も京都に戻っている。さらに醍醐寺座主、東寺
がある。そのなかで文観房弘真は最低の評価で描かれて
僧徒六波羅へ召し捕る事付けたり為明詠歌の
第二段
②巻第二
中宮御産御祈りの事付けたり俊基偽つて籠居
第五段
の事
①巻第一
いるのである。
a
しての﹃太平記﹄に文観房弘真が文観上
その読み物とb
人として記されるのは以下の通りである。
長者に補任され、真言僧としての頂点を極めるが、それ
に反発した高野山衆徒の弾劾状が発せられるなどした。
後醍醐天皇が京都を逃れて吉野に南朝を成立させると、
Y
述を行っていた。あく
それに随って吉野にて事相書の
までも後醍醐天皇のために活動していた文観房弘真であ
迫し、最後は河内・金
り、後醍醐天皇の崩御後も引き続き後村上天皇の護持僧
となる。しかし、南朝の政局は
剛寺にて八十才にて示寂した。律僧かつ真言の事相僧と
Z
しての生涯だったが、立川流の大成者、䆣枳尼天法を修
﹃狐草紙﹄と﹃文観阿舎利絵巻﹄
─ ─
39
事
第三段
三人の僧徒関東下向の事
③巻第十二
第一段
公家一統政道の事
千種殿ならびに文観僧正奢侈の事付けたり解
第四段
脱上人の事
④巻第十四
第七段
将軍御進発、大渡・山崎等合戦の事
⑤巻第三十
吉野殿相公羽林と御和睦の事付けたり住吉の
第六段
松折るる事
に近づきたてまつて、肝胆を砕いてぞ祈られける。
とあり、後醍醐天皇から別勅にて宮中において中宮懐妊
宮の御産に寄せて、かやうに秘法を修せられけると
後に子細を尋ぬれば、関東調伏のため為に、事を中
の御祈をするが、
なり。
とそれは実は関東調伏、つまり鎌倉幕府北条氏の降伏秘
法を修していたというものである。
次いで、②巻第二第二段﹁僧徒六波羅へ召し捕る事付
けたり為明詠歌の事﹂に、
君をば承久の例にまかせ
相摸入道大いに怒つて、﹁いやいや此君御在位の程
は、天下静まるまじ。所
まず、①巻第一第五段﹁中宮御産御祈りの事付けたり
俊基偽つて籠居の事﹂には、
てまつて、当家を調伏したまふなる、法勝寺の円観
てまつるべきなり。まづ、近日殊に龍顔に咫尺した
元亨二年の春の頃より、中宮懐姙の御祈りとて、諸
上人・小野の文観僧正・南都の知教・教円・浄土寺
と五巻七段分となる。
寺・諸山の貴僧・高僧に仰せて様々の大法・秘法を
の忠円僧正を召し捕りて、子細を相尋ぬべし﹂
て、遠国へ移したてまつり、大塔宮を死罪に処した
行はせらる。中にも法勝寺の円観上人、小野の文観
と、幕府に調伏が知られ、十四代執権北条高時によって、
僧正二人は、別勅をうけて、金闕に壇を構へ、玉体
─ ─
40
後醍醐天皇と大塔宮の処分が言われ、円観や文観をはじ
めとして調伏に関わった僧の捕縛命令がくだる。第三段
が、幕府に捕らえられると、
﹁さらば此僧達を嗷問せよ﹂とて、侍所に渡して、
山無双の碩学也。文観僧正と申すは元は播磨国法華
浄土寺慈勝僧正の門弟として、十題判断の登科、一
てまつて、関東に下向す。かの忠円僧正と申すは、
同じき年六月八日、東使、三人の僧たちを具足した
正、天性臆病の人にて、いまだ責ざる先に、主上山
状せられけり。その後忠円房を嗷問せんとす。此僧
によつて、調伏の法行つたりし条、子細なし﹂と白
ければ、身も疲れ、心も弱くなりけるにや、﹁勅定
問れけれども、落ちたまはざりけるが、水問重なり
水火の責をぞ致しける。文観房、暫が程は、いかに
寺の住侶たりしが、壮年の頃より醍醐寺に移住して、
門を御語らひありし事、大塔の宮の御ふるまひ、俊
真言の大阿闍梨たりしかば、東寺の長者、醍醐の座
基の隠謀なんど、有もあらぬ事までも、残るところ
﹁三人の僧徒関東下向の事﹂では、
主に補せられて、四種三密の棟梁たり。円観上人と
一山に光有るかと疑はれ、智行兼備の誉れ、諸寺に
を修したことを認め、忠円は天性の臆病であったので、
と、拷問を受けることで文観房は勅定によって調伏の法
なく白状一巻に載せられたり。
人無がごとし。しかれども久しく山門澆漓の風に従
あることないことすべて白状したという。ところが円観
申すは、元は山徒にておはしけるが、顕密両宗の才
はば、情慢の幢高くして、つひに天魔の掌握の中に
体にて並み居たりと見たまふ。夢の告げただ事なら
ども二三千群がり来て、此上人を守護したてまつる
その夜、相摸入道の夢に、比叡山の東坂本より、猿
は、
落ちぬべし。
と、忠円・文観・円観が鎌倉に護送され、忠円は﹁一山
無双の碩学﹂、文観は﹁四種三密の棟梁﹂、円観は﹁智行
兼備の誉れ、諸寺に人無がごとし﹂と三人の僧を讃える
﹃狐草紙﹄と﹃文観阿舎利絵巻﹄
─ ─
41
ずと思はれければ、未明に預人のもとへ使者を遣は
し、上人嗷問の事、暫くさしおくべし﹂と下知せら
人の事﹂になると、
かの文観僧正の振舞ひを伝へ聞くこそ不思議なれ。
がなかったとしている。他の二人の僧とは待遇が全く異
の姿が不動明王に見えたとあり、夢と示現によって拷問
をみて、さらにこの後、円観の監視者が障子に映ったそ
と、高時が比叡山東坂本の猿が円観を守護したという夢
だ、文観僧正の手の者と号して、党を建て臂を張る
りを結ぶ輩には、忠無きに賞を申し与へけらるあい
武具を集めて士卒をたくましうす。媚を成し、交は
に、財宝を倉に積み、貧窮をたすけず、かたはらに
道場に入りたまひし益もなく、ただ何の用ともなき
たまたま一旦名利の境界を離れ、すでに三密瑜伽の
なることは明らかである。いずれにせよ、この結果、円
者、洛中に充満して、五、六百人に及べり。されば
観は上野国、忠円は越後、そして文観房弘真は最も遠い
程遠からぬ参内の時も、輿の前後に数百騎の兵打ち
るるところに、
硫黄ヶ島に流された。
囲んで、路次を横行しければ、法衣忽ちに馬蹄の塵
法勝寺の円観上人をば、預り人結城上野入道具足し
をも集めているなど、奢れる文観僧正の姿を描き、その
と三密瑜伽 ︵密教︶の僧であったが、財宝を蓄え、武具
に汚れ、律儀、空しく人口の譏りに落つ。
たてまつり上洛したりければ、⋮中略⋮文観上人は
次いで、③巻第十二第一段﹁公家一統政道の事﹂では、
鎌倉幕府が崩壊し、後醍醐天皇が隠岐より京都に戻り、
法流相続の門弟一人も無く、孤独衰窮の身と成り、
迷はせり。ついに幾程無く建武の乱出で来しかば、
うたてかりける文観上人の行儀かなと、愚蒙の眼を
末路については、
硫黄嶋より上洛し、忠円僧正は越後国より帰洛せら
るる。
と流されていた三人の僧も京都に戻った。ところが、第
四段﹁千種殿ならびに文観僧正奢侈の事付けたり解脱上
─ ─
42
て、④巻第十四第七段﹁将軍御進発、大渡・山崎等合戦
ある。これはあまりにも史実と異なる描写である。そし
しかも﹁聞へし﹂として風聞の終わりとした無責任さで
てたと記されており、酷評へと変化していくのである。
と罵倒し、付法者もなく孤独となって吉野に漂白して果
吉野の辺に漂泊して、をえたまひけるとぞ聞えし。
c
と﹁うたてかりける文観上人﹂は﹁愚蒙の眼を迷はせり﹂
相公羽林と御和睦の事付けたり住吉の松折るる事﹂のな
﹃ 太 平 記 ﹄ に 登 場 す る の は、 ⑤ 巻 第 三 十 第 六 段 ﹁ 吉 野 殿
持っていないことは首肯されよう。最後に文観房弘真が
の名が記されているのか不明だが、文観房弘真に好意を
観の手の者は役に立たないとしている。なぜここに文観
前が記されている。しかも京都の人々の言葉を借りて文
して脇屋右衛門佐を大将としたなかに﹁文観僧正﹂と名
あらたまの春立ちぬれども、皇居はなほも山中なれ
なかで、
乱 の 際、 正 平 七 年 ︵一三五二︶の 正 月 の こ と に つ い て の
戦闘に参戦していることになって後醍醐天皇側の軍勢と
の 事 ﹂ に は、 建 武 三 年 ︵一三三六︶正 月 の 足 利 尊 氏 に よ
かで、足利尊氏と南朝が一時的に和睦となった観応の擾
言・ 文 観 僧 正・ 大 友 千 代 松 丸・ 宇 都 宮 美 濃 将 監 泰
山崎へは脇屋右衛門佐を大将として、洞院按察大納
る京都奪回の場面で、
藤・海老名五郎左衛門尉・長九郎左衛門以下、七千
ば、白馬・踏歌の節会なんどは行はれず。寅の時の
四方拝、三日の月奏ばかり有りて、後七日の御修法
家の人、僧正の御房の手の者などと号する者ども多
は文観僧正承つて、帝都の真言院にて行はる。
余騎の勢を向けらる。⋮中略⋮又防ぐべき兵も、京
ければ、この陣の軍はかばかしからじとぞ見えたり
としながら、宮中の後七日御修法を文観房弘真が修した
と、南朝は山中だから正月の儀礼は行うことができない
と、この時は宮中にて後七日後修法を勤仕し、その後、
と 記 さ れ て い る。 こ れ は 正 平 七 年 ︵一三五二︶正 月 の 史
ける。
中断して、避難しているはずなのだが、ここでは山崎の
﹃狐草紙﹄と﹃文観阿舎利絵巻﹄
─ ─
43
実である。しかし、先にみた巻第十二の四段にて﹁吉野
の辺に漂白して終給ける﹂とは矛盾する内容となってい
ることは明らかであろう。
さて、ここで注目したいのは、巻二第三段の文観房に
ついての記述ではないが、忠円の﹁天性臆病の人﹂とい
う点と十二巻第四段の﹁只利欲・名聞にのみ赴て、更に
観念定坐の勤を忘たるに似り﹂と破戒僧の姿に描かれ、
﹁ 建 武 の 乱 出 で 来 し か ば 、 法 流 相 続 の 門 弟 一 人 も 無 く、
孤独衰窮の身と成り、吉野の辺に漂泊して、をえたまひ
る。
最後に美女狐の喩えとして取り上げられる楊貴妃と李
夫 人 に 関 し て み て み る と、 藤 原 公 任 の 寛 仁 二 年 ︵ 一 〇
d
一八年︶頃成立の﹃和漢朗詠集﹄巻上、十五夜の条にも、
楊貴妃帰つて唐帝の思
李夫人去つて漢皇の情
とあるように認められ、﹃玉藻前﹄でも﹃木幡狐﹄でも
対として用いられている定型句のようである。根津美術
e
館本﹃玉藻前﹄上巻には、
詞少し盈心をあらはし声やわらかにして事ニ通す綾
羅を身に纏蘭麝を衣に薫してしかもにならす才覚人
にすくれ世法仏法共に知すと云事なし人皆申しける
終わったという点である。一時の栄華が建武の乱によっ
は唐の玄宗の代なりせは楊貴妃にも嫉まし漢武帝の
けるとぞ聞えし﹂と孤独衰窮の身となって漂白のうちに
て消えてしまったとされていることである。
臆病であることは﹃狐草紙﹄のなかで、金剛勝院で目
覚めたときに﹁そうつきわめておくひやうなる物にて﹂
らしく、楊貴妃や李夫人を超えるものとしてる。口数や
とあり、口数が少なく、蘭麝の香りがして、才覚も素晴
時ならは李夫人にもかはられまし
とすぐには動くことができない様を描いているが、﹃太
さるほどに中将殿は、此姫君を御覧じて、夢か現か
平記﹄に記されたのは忠円だとしてもこれも拷問の時の
香りも美女の要件らしく、これも﹃狐草紙﹄に共通する。
f
次いで、﹃木幡狐﹄には、
イメージがそれまでの生活とは全く異なる状況下に突如
として置かれた立場での性格につながると思えるのであ
─ ─
44
りなく、まことに玄宗皇帝の楊貴妃、漢の武帝の世
おぼつかなしと御覧じけるに、そのかたち云ふはか
きても迷ひぬべし、いはんやその色を見ん人をや。
葉のまさに卑しからん事を恥ぢなん。その語るを聞
の神女を賦せし宋玉も、これを讃せば、みづから言
のとし、李夫人も絵に描くことのできない存在、つまり
なりせば、李夫人かとも思ふべし、さて、わが朝に
と、楊貴妃と李夫人を取り上げるが、日本の小野小町を
人間離れした美人とされている。﹁楊貴妃、李夫人の装
と、楊貴妃と李夫人が登場する。楊貴妃は楊の枝から落
引き合いにだし、それ以上だとしている。﹃狐草紙﹄の
ひもこれには過し﹂と讃えられた狐美人も人間を超絶し
は、小野良実が女、小野小町などいふとも、是程あ
狐美女についても楊貴妃と李夫人の二美人が記されるの
た美しさ以上の存在としてあらわしていると思われる。
ちた露が母に宿って生まれたのであり、天人の化したも
も約束事であるのだろう。﹃太平記﹄第巻三十七﹁畠山
楊貴妃は唐時代、李夫人は漢時代であるので、二人は時
りつらん、
事付楊国忠事﹂をみてみると、
これはその母昼寝して、楊の陰に寝たりけるに、枝
ここに弘農の楊玄琰が女に、楊貴妃といふ美人あり。
れていることが知られるのである。
と思われるが、﹃太平記﹄をみることで、超人化が図ら
代を超えた美女の喩えとして、﹃狐草紙﹄にも記された
入道々誓謀
より余る下露、婢子に落ち懸りて胎内に宿りしかば、
さらさら人間の類ひにてはあるべからず、ただ天人
② 狐と䆣枳尼天
g
という点を考えたときにその接点は稲荷信仰
僧侶と狐h
か䆣枳尼信仰であろう。伏見稲荷社は空海と稲荷神との
の化してこの土に来たるものなるべし。紅顔・翠黛
の仮なる色を事とせん。漢の李夫人を写せし画工も、
盟約関係から都の巽に勝地を選んだとされるのが縁起と
は元来天のなせる質なれば、何ぞ必しも瓊粉・金膏
これを描かばつひに筆の及ばざる事を怪しみ、巫山
﹃狐草紙﹄と﹃文観阿舎利絵巻﹄
─ ─
45
題となるところだが、䆣枳尼を祀るとして攻撃されたこ
る。実際に䆣枳尼天法を修したことが史実であるのか問
も取り入ったとしている。注目すべきは二度に渡って䆣
此文観之祭荼吉尼也、近龍顔而奏事矣、
と䆣枳尼を祀って龍顔に近づいた、つまり後醍醐天皇に
さらに、
i
もなっている。廃仏毀釈までは境内には愛染院があった
著述も多く、醍醐の報恩院流の聖教を基として改変を加
k
ものとして著名である。しかし、﹃狐草紙﹄にまつわり、 えたものが多いが、䆣枳尼法を行じていたわけではない。
ここで興味深いのは文観房弘真に対して䆣枳尼天法を専
と は 事 実 で あ る。 宥 快 ︵ 興 国 六 年・ 貞 和 元 年・ 一 三 五 四 ∼
枳尼天について記している点であり、執拗な記述と言う
l
べきであろう。このようにして文観房弘真に䆣枳尼天法
ら修したとして高野山衆徒から非難されたという点であ
応永二十三年年・一四一六︶の﹃宝鏡鈔﹄には、建武二年︵一
のイメージが定着するのである。
弘真御信仰之間有威勢。本雖為律僧、成僧正、披見
而後後醍醐天皇御謀反之企御座之時分、為御祈祷、
﹃図像抄﹄や﹃別尊雑記﹄に載る閻魔天曼荼羅に閻魔天
像 容 を み て み る と、 胎 蔵 曼 荼 羅 外 金 剛 院 や 平 安 末 期 の
、
䆣枳尼天法は平安時代末期から修され始めたようでm
﹃ 平 家 物 語 ﹄ の な か で 清 盛 と 䆣 枳 尼 つ い て 語 ら れ て い る。
j
三三五︶五月の高野山・金剛峯寺衆徒の非難として次の
処々聖教、作書籍千余巻重々大事、印信三十余通、
の眷属として配されるが、小袋をもった童子形であり、
ような一文がみられる。
付醍醐流造之、其中多借名事在之、無智者見之、謂
狐と結びついていないが、次第に狐がもつと考えられる
密宗最極、更非実説、又行䆣枳尼法、以呪術立効験、 遮文荼と相対させられている。また、閻魔天曼荼羅では
と、いわゆる聖教を千余巻・印信を三十余通も制作した
霊力と結びついていったようである。
奈良・西大寺蔵で叡尊十三回忌追善に造像された文殊
が、これは実説ではないとし、䆣枳尼法を行じ、呪術を
もって効験があったとしている。確かに文観房弘真には
─ ─
46
重守︶があり、その一図に䆣枳尼天があらわされている
代の作例で大阪市立美術館本は白狐に乗る三面十二臂の
その䆣枳尼天は現存作例からみれば、白狐に乗った天
女形の像容で見目美しく表されるのが常である。室町時
騎獅像の像内納入品の中に諸尊図像・陀羅尼等 ︵九
。弘安八年 ︵一二八五︶の刊記を持つので、図像と
︵図④︶
䆣枳尼天像であるが、䆣枳尼・聖天・弁財天の三天合体
菩
しては四天王・韋駄天の次に配される。正面向きの乗狐
図⑤ 䆣枳尼天図 称名寺本
『諸尊図像・陀羅尼等
(九重守)
』
より
で女天形、右手に剣、左手に三弁宝珠
を持ち、やはり乗狐の四眷属に囲まれ
ている。西大寺本の場合版本であるの
─ ─
47
で、図像の普及という点では広範囲な
影響力が想定され、乗狐で女天形の姿
の定着にもなったと思われる。それは
像の像内納入品諸尊図像・陀羅
天正年間の追納と思われる称名寺藏弥
勒菩
尼等︵九重守︶でも乗狐の女天形︵図⑤︶
n
となっている。したがって、䆣枳尼天
の図像で正面向きで乗狐で女天形の図
像は十三世紀後半には確実にあらわれ、
それが踏襲されていったと推察される
のである。
﹃狐草紙﹄と﹃文観阿舎利絵巻﹄
図④ 䆣枳尼天図 西大寺本
『諸尊図像・陀羅尼等
(九重守)
』
より
o
像で、中央の䆣枳尼天は柔やかな女天に描かれている。
から﹃狐草紙﹄へと名を変えたことも想像されよう。
は巻頭が欠如しており、内題も不明なので﹃狐草紙﹄が
と判明する段であったのかもしれない。文観房弘真の名
r
が付された聖教は焼かれたとされるし、美術作例でも室
すべき段であったのかもしれない。明らかに文観房弘真
たとなると、なにかあってはならない段、もしくは削除
想像される。これが文観房弘真のイメージをモデル化し
面であるが、前段にはなにかしら僧都の話があったとも
﹃狐草紙﹄の詞書巻頭は﹁ひてうは⋮﹂に始まり唐突
である。この段の前にもう一段の図と詞書が欠落とも想
q
定されている。絵はひてうが届けた手紙を僧都が読む場
当初からの題名であるのかも判然としない。異なった名
個人蔵本の䆣枳尼天曼荼羅とも伏見稲荷曼荼羅とも称さ
p
れる曼荼羅の主尊も白狐に乗った四臂の見目麗しい女天
である。狐と美女は不可分の関係にあると考えてよかろ
う。
その䆣枳尼天法を得意としたとのイメージがある文観
房弘真が狐美女に誑かされたということになろう。
おわりに
﹃文観阿舎利絵巻﹄では詞書が欠失しているが、﹃狐草
紙﹄とほぼ同一の図様と順序であることに鑑みれば、詞
書もほぼ同様と考えるのが自然である。となると﹁僧都﹂
の言葉はそのまま文観阿舎利ということになる。
町時代以降と思われるが、当初の墨書銘が削除されたり、
s
本
﹃狐草紙﹄が﹃文観阿舎利絵巻﹄の増幅本であるのか、 墨によって塗りつぶされたものが多い。東京・室泉寺t
もしくはその逆で省略本であるのか、これだけの資料で
叡尊画像や個人藏の大威徳転宝輪画像がその好例である。
u
は判断できない。しかし、増幅本であるとすれば、文観
﹃太平記﹄を題材とした御伽草子は多いことはよく知
の名を冠した絵巻があまりにも物語としては直裁すぎて
られている。﹃狐草紙﹄は直接的に﹃太平記﹄に取材し
v
ている訳ではないが、文観房弘真の見立てと判じられる
おり、避けられた可能性もあろうか。そもそも﹃狐草紙﹄
─ ─
48
メージがある僧という統一テーマのもと、﹃平治物語﹄
に暁通していた人物である。幻のような栄華と凋落のイ
w
点が多々あり、詞書の作者は南北朝の動乱や﹃太平記﹄
点から考えてみた。繰り返すようだが、文観房弘真がモ
いないので、文観房弘真の後世におけるイメージという
て娯楽という点では劣るためか内容について論じられて
る。
デルなのではなく、後世におけるイメージがモデルであ
と尊氏、狐と䆣枳尼、近衛殿、七年などが
の藤原成憲の歌と吉野山、金剛勝院と美福門院、精進料
理、地蔵菩
巧みに盛り込まれており、それが狐や文観房弘真と微妙
残された問題として﹃狐草紙﹄と﹃文観阿舎利絵巻﹄
の成立の前後関係である。﹃文観阿舎利絵巻﹄は早稲田
大学図書館に所蔵される一本しか知られていない。今後、
に連関しながら展開していく見事さである。しかも幻の
栄華が僧都が積極的に望んだのではなく、用意されたお
類例作品が見いだされることを願ってやまない。
十一・一+三十八・五+三十八・七+二十三・六+十四・
九+二十二・一+三十八・〇+三十八・〇+二十七・一+
三十八・五+三十七・四+三十八・五+三十八・七+十五・
︵2 ︶ 拙著﹃文観房弘真と美術﹄︵法藏館、二〇〇六年二月︶
︵3 ︶﹃狐草紙﹄紙継寸法は次の通り。︵請求記号
ヘ十二│一
五八六︶
の世界﹄︵三省堂、一九八二年︶
︵1 ︶ 横山重・松本隆信編﹃室町時代物語大成﹄︵角川書店、
一 九 八 五 年 二 月 ︶ 及 び 奈 良 絵 本 会 議 研 究 会 議 編﹃ 御 伽 草 子
注
膳立てに載ってしまった結果であるとの点も真の文観房
弘真の姿を描いているように思えるのである。﹃狐草紙﹄
の詞書を読んだ室町時代の公家や武家にはこれが文観房
弘真がモデルであることは容易に理解されたことだろう。
しかし妖僧とのレッテルを貼られた文観房弘真の事績は
抹消され、時代の流れとともに単なる異類譚・霊験譚の
話として伝来されたと想像したくなるのである。
以上、﹃狐草紙﹄の構成から読み取れるものと﹃文観
阿舎利絵巻﹄との題を冠する内容との関連を考えてみた。
﹃狐草紙﹄は物語の展開としては他の御伽草子と比較し
﹃狐草紙﹄と﹃文観阿舎利絵巻﹄
─ ─
49
三十八センチの料紙が主に使われているが、十センチ代、
五+三十八・一+三十八・五+三十八・五+三十四・三
合 等 ま で 一 致 し、 早 稲 田 大 学 図 書 館 蔵 本 が か な り 忠 実 な 模
による解題でも﹁さらに本文も、改行のしかた、字詰の具
九巻︵早稲田大学出版部、一九九一年三月︶深町健一郎氏
︵ ︶﹃文観阿舎利絵巻﹄の横寸法は次の通り。︵請求記号
文
写本たることがわかる﹂としている。
え
いは単純に模写であるがための間
二 十 セ ン チ 代 の 料 紙 も 含 ま れ て お り、 必 ず し も 紙 幅 は
られていない。この不
に合わせの紙継と考えられる。
︵4︶ 箱の中に書付があり︵二十一・七×五・一︶、それには、
狐物語絵狐草紙
類聚目六、狐物語絵、光信筆、品月云狐草子、不記画﹂
天文十一
内 侍 所 へ 触 向 余 源 氏 □ □ ﹂ 帰 候、
工、 言 継 記 正
廿二
略されている。
翻刻文を載せているが、採録では編集者の意図によって省
一九八五年六月︶に採録。宮氏は﹃美術研究﹄論考の末に
行会編﹃お伽草子﹄︵日本文学研究資料叢書、有精堂出版、
︵8 ︶ 宮次男﹁足利義尚所蔵狐草紙絵巻をめぐって﹂︵﹃美術研
究﹄二六〇号、一九六九年九月︶後に日本文学研究資料刊
帖であったことも重々考えられるだろう。
苦 し む が、 当 初 は こ の 形 態 で は な い こ と は 確 実 で あ る 。 画
な っ た の か、 だ と し た ら 巻 子 装 に な っ た の が い つ か 判 断 に
た し て も と よ り 巻 子 装 で あ っ た の か、 改 装 さ れ て 巻 子 装
であり、各図の寸法はほぼ同一。絹本着色であるので、は
五+一・七+三十九・三+七・〇
七+三十九・五+一・七+三十九・五+一・七+三十九・
九・五+一・八+三十九・五+一・七+三十九・五+一・
庫三十
E〇三八〇︶
五・八+三十九・一+一・七+三十九・六+一・七+三十
7
︵9 ︶ 奥平英雄編﹃御伽草子絵巻﹄
︵角川書店、一九八二年五月︶
─ ─
50
狐の絵見度候よし女房衆申候間、二巻借﹂遣す
とある。
︵ ︶ 早稲田大学図書館には淵潭守純の模写本が数作例ほど所
蔵されている。そのなかのひとつ相撲之節の、︵請求記号
︵6 ︶ 中 野 幸 一 編﹃ 早 稲 田 大 学 藏 資 料 影 印 叢 書
国書編﹄第十
りご教示を得た。
しの系統であろうという。この点については成澤勝嗣氏よ
史は京狩野のことで、本図は山楽が描いた譚相撲之節の写
淵潭斎守純 藤原︵朱文法印︶
とあり、﹁藤原﹂の印章は異なるが、筆致は同じ。金門画
チ〇四
〇一〇三四︶奥書には、
戊 晩穐中旬日
嘉永元 申
京師於金門画史絵所䇭之
5
こ こ で は 全 図 の 図 版 が モ ノ ク ロ で 掲 載 さ れ、 巻 末 に は 詞 書
じている。
義 尚 の 絵 巻、 し か も 小 絵 の 収 集 に つ い て 資 料 か ら 綿 密 に 論
︵ ︶ 宮島新一﹃宮廷画壇史の研究﹄
︵至文堂、一九九六年二月︶
及び相澤正彦﹃土佐光信﹄︵新潮日本美術文庫2、新潮社、
の翻刻がある。
︵ ︶ 野村八良﹁代表作品の研究﹂︵﹃室町時代小説論﹄巌松堂
書店、一九三八年五月、後に藤井隆編﹃御伽草子研究叢書﹄
月︶
第二巻研究書集成Ⅰに所収、クレス出版、二〇〇三年十一
︵ ︶﹃今昔物語﹄︵日本古典文学大系二十四、岩波書店、一九
六一年三月︶巻十六には﹁備中国賀陽良藤、為狐夫得観音
助語第十七﹂があり、狐から救済するのはやはり観音の霊
験である。
︵ ︶ 中野幸一編﹃早稲田大学藏資料影印叢書
国書編﹄第十
九 巻︵ 早 稲 田 大 学 出 版 部 、 一 九 九 一 年 三 月 ︶ 深 町 健 一 郎 氏
による解題には﹁怪奇性よりもむしろ、狐にたぶらかされ
た 破 戒 僧 の 愚 か さ が 前 面 に 出 て お り、 絵 巻 の 図 柄 も 僧 の 滑
稽な姿を印象づけている。﹂として、破戒僧と滑稽さ中心
の展開としている。
︵ ︶ 大坪俊介﹁﹃いなりの妻の草子﹄に見る狐女房譚の継承
と稲荷信仰﹂︵﹃國文學試論﹄第十八号、二〇〇九年三月︶
一九九八年五月︶
︵ ︶ 佐伯英里子﹁新出の﹃木幡狐﹄について﹂︵﹃美術史学﹄
十三号、一九九一年六月︶このなかで佐伯氏はローマ東洋
美術館寄託の﹃木幡狐﹄を紹介、検討されているが、箱の
貼り紙や極め札に﹁狐草紙︵子︶﹂とあることから﹃木幡狐﹄
ると、﹃実隆公記﹄の﹃狐絵﹄が﹃木幡狐﹄である可能性
の 異 称 が﹃ 狐 草 紙 ﹄ で あ っ た 可 能 性 を 示 唆 し て い る 。 と な
﹄
︵日本エディター
もでてくるが、その辺については不明。
︵ ︶ 中村禎里﹃狐の日本史
古代・中世
スクール出版部、二〇〇一年六月︶
︵ ︶ 柳瀬喜代志・矢代和夫・松林靖明・信太周・犬井善壽校
なお、﹃いなりの妻の草子﹄は狐妻によって富を得るもの。
︵ ︶ ち な み に 、 在 家 が 守 る 五 戒 は ① 不 殺 生 戒、 ② 不 偸 盗 戒、
③不邪 戒、④不妄語戒、⑤不飲酒戒であり、出家者の菩
︵ ︶ 前掲注︵ ︶﹃平治物語﹄の頭注によると、この歌は﹃続
詞花和歌集﹄
﹃今 集﹄
﹃治承三十六人集﹄
﹃今鏡﹄
﹃宝物集﹄
注・訳﹃将門記
陸奥話記
保元物語
平治物語﹄︵﹃新編
日本古典文学全集﹄四十一、小学館、二〇〇二年二月︶
︵ ︶﹃実隆公記﹄
︵ ︶ 高岸輝﹁足利義尚の絵巻狩り﹂︵徳田和夫編﹃お伽草子
百花繚乱﹄、笠間書院、二〇〇八年十一月︶高岸氏は足利
﹃狐草紙﹄と﹃文観阿舎利絵巻﹄
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にも載るという。著名な歌だったようである。
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戒を守れなかった破戒僧となるのである。
戒 は さ ら に 五 戒 増 え て、 十 重 禁 戒 と な る の で あ り、 五 戒
の③不邪
︵ ︶ 前掲︵8︶宮次男論文
︵ ︶ 金剛勝院については、丸山仁﹃院政期の王家と御願寺﹄
︵高志書院、二〇〇六年六月︶に詳述されている。東山の
法 勝 寺 の 西、 三 条 坊 門 小 路 の 北 に あ っ た 。 落 慶 供 養 は 延 暦
寺座主行玄が勤めたが、近衛天皇の護持僧でもあった。
︵ ︶ 安田元久﹃後白河法皇﹄︵人物叢書新装版、吉川弘文館、
一九八六年十一月︶
︵ ︶ 真 鍋 俊 照 氏 は 山 折 哲 雄 氏 の 論 を 引 用 し、 立 川 流 の 祖 と さ
れ る 仁 寛 は 輔 仁 親 王 の 護 持 僧 で、 後 に 鳥 羽 天 皇 を 呪 詛 し た
と し て 伊 豆 に 流 さ れ た と い う 点 に 注 目 さ れ て い る。 鳥 羽 天
皇と美福門院、そして仁寛と文観という点でも関連すると
考 え る の は 想 像 し す ぎ だ ろ う か 。 真 鍋 俊 照﹃ 邪 教 立 川 流 ﹄
︵筑摩書房、一九九九年一月、後に同題で再刊﹃邪教・立
川流﹄、ちくま学芸文庫、筑摩書房、二〇〇二年六月︶
︵ ︶﹃玉藻前﹄の女狐と美福門院について関連がないとする
の は 美 濃 部 重 克﹁ 鎮 魂 と 家 の 伝 説 │ 御 伽 草 子 ﹃ 玉 藻 前 ﹄ 謡
曲﹃殺生石﹄の原話の成立│﹂
︵同氏﹃中世伝承文学の諸相﹄
所収、和泉書院、一九八八年八月 ︶ 一方、関連して考え
るのは、小松和彦﹃異界と日本人絵物語の想像力﹄︵角川
選書三五六、角川書店、二〇〇三年九月︶
︵ ︶ 近 衛 経 家 が モ デ ル と さ れ る 御 伽 草 子 に﹃ は に ふ の 物 語 ﹄
がある。真下美弥子﹁﹃はにふの物語﹄論﹂︵福田晃編﹃日
の新しい評釈
年 一 月 ︶ こ の 中 で 真 下 氏 は 経 忠、 経 家 に つ い て も 詳 述 し て
本 文 学 の 原 風 景 ﹄ 三 弥 井 選 書 十 九 、 三 弥 井 書 店、 一 九 九 二
いる。
︵ ︶ 久 保 田 淳﹁ 徒 然 草 講 釈・ 百 八 十 二
名
近衛殿着陣し給ひける時﹂︵﹃国文学
解釈と教材の研究﹄
第三十九│十三号、一九九四年十一月︶
︵ ︶ 近衛経忠については、佐藤進一﹃南北朝の動乱﹄︵﹃日本
の歴史﹄九、中央公論社、一九六五年一月︶及び森茂暁﹃南
北朝期公武関係史の研究﹄︵文献出版、一九八四年六月︶、
同 氏﹃ 南 朝 全 史
大覚寺統から後南朝へ﹄︵講談社メチエ
三三四、講談社、二〇〇五年六月︶
︵ ︶ 足 利 尊 氏 自 筆 地 蔵 菩 図 に は 栃 木 県 立 博 物 館 本 の 他、 神
奈川・浄妙寺本が知られ、栃木県立博物館には伝尊氏筆の
地蔵菩
像のX線撮影によって、頭部に遺髪と判
に対する帰依を物語る。さらに近年、滋賀・
には神奈川・宝戒寺像や京都・等持院像があり、
日課観音地蔵図も伝わる。また、尊氏念持仏とされる木造
尊氏の地蔵菩
三井寺蔵地蔵菩
じ ら れ る も の が 見 い 出 さ れ て い る。 そ れ は 尊 氏 か 義 詮 の 可
能性があるという。
︵ ︶﹃醍醐寺新要録﹄︵法藏館、一九九一年一月︶
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︵ ︶﹃ 太 平 記 ﹄ が 後 世 に ど の よ う に 受 け 入 れ ら れ た か に つ い
ては、加美宏﹃太平記享受史論考﹄︵桜楓社、一九八五年
五 月 ︶ を 参 考 に し た が、 一 般 に 広 く 普 及 す る の は 江 戸 時 代
のことで、室町時代には入手しやすいものでもなかったと
、講
物 語 僧 の 読 誦 に よ っ て 享 受 さ れ た も の ら し い。 及 び 兵 藤 裕
いう。しかし、公家や武家などの一部上層階級には好まれ、
己﹃太平記︿よみ﹀の可能性﹄︵講談社選書メチエ
談社、一九九五年十一月︶参照。
︵ ︶ 前掲注︵2︶拙著
︵ ︶ 阿部泰郎氏の文観房弘真についての一連の論考は次の通
り。
福寺善本叢刊、 国文学研究資料館編﹃中世先徳著作集﹄
①﹁﹃秘密源底口決﹄﹃一二寸合行秘次第私記﹄解題﹂︵真
屋大学出版会、二〇一三年三月︶
︵ ︶ 中川善教氏は立川流の思想が文観房弘真の著述のなかに
見られず、むしろ真伨な解釈を行っていると指摘している。
中 川 善 教﹁ 立 川 流︵ 秘 め ら れ た 文 学 ︶﹂︵﹃ 国 文 学
解釈と
鑑賞﹄三十三│九、一九六八年七月︶
︵ ︶ 山下宏明校注﹃太平記﹄一∼五︵新潮日本古典集成、新
潮社、一九七七年十一月∼一九八八年四月︶
︵ ︶﹃太平記﹄に記された文観像を客観的に論じたものとして、
田 中 正 人﹁ 建 武 三 年 正 月 の 文 観 │ ﹃ 太 平 記 ﹄ で の 人 物 形 象
│﹂︵﹃同志社国文学﹄三十六号、一九九二年三月︶があり、
﹃太平記﹄の疑問点を論じている。
︵ ︶ 文 観 房 弘 真 の 評 価 と し て 記 さ れ た﹁ う た て か る ﹂ と の 語
句を﹃太平記﹄にもとめると、巻二十の﹁義貞自害事﹂で、
﹁匹夫の鏑に命を止めし事、運の極とは云ながら、うたて
新 田 義 貞 が 敵 の 矢 に 討 た れ 犬 死 に の よ う な 状 態 に 対 し て、
②﹁文観著作聖教の再発見│三尊合行法のテクスト布置と
︵一三四九︶のことである。さらに巻二十九の﹁師直以下
云、うたてかりける事共也﹂としている。これは正平四年
対 し て﹁ 剃 髪 染 衣 の 姿 に 帰 し 給 ひ し 事 、 盛 者 必 衰 の 理 と 乍
七の﹁直義朝臣隠伿事付玄慧法印末期事﹂で直義が出家に
更冥加の程も如何がと覚てうたてかりしは﹂とし、巻二十
さ れ た 高 師 直 の 振 る 舞 い の な か で 女 性 に 対 す る 乱 行 に﹁ 殊
か り し 事 共 也 ﹂ と し、 巻 二 十 六 の ﹁ 執 事 兄 弟 奢 侈 事 ﹂ に 記
第二期第三巻、二〇〇六年十一月︶
35
その位相﹂︵﹃比較人文学研究年報﹄六号、二〇〇九年三
月︶
③﹁宝珠の象る王権│文観弘真の三尊合行法聖教とその図
像﹂︵内藤榮﹃舎利と宝珠﹄日本の美術五三九号、ぎ ょ
うせい、二〇一一年三月︶
ト﹂︵同氏﹃中世日本の宗教テクスト体系﹄所収、名古
④﹁ 中 世 密 教 聖 教 の 極 北 │ 文 観 弘 真 の 三 尊 合 行 法 テ ク ス
﹃狐草紙﹄と﹃文観阿舎利絵巻﹄
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、
仰﹂
︵﹃性愛の日本中世﹄所収、洋泉社、一九九七年十二月︶
平凡社、二〇〇六年三月︶及び同氏﹁中性の性愛と稲荷信
一九九三年六月、後に同題で再刊、平凡社ライブラリー
は知ながら、うたてかりける不覚哉﹂としている。新田義
同氏は﹃渓嵐拾葉集﹄を中心として䆣枳尼天について言及
被誅事付仁義血気勇者事﹂で高師直の死に対し﹁天の責と
無 残 に 散 っ た 者 へ の マ イ ナ ス 評 価 で あ り、 文 観 房 弘 真 に 対
571
貞、足利直義、高師直と南北朝の動乱のなかで、結果的に
し、多くのテーマを展開させている。また、䆣枳尼法の歴
︵ ︶ 東寺本﹃弘法大師行状絵﹄巻八第三段﹁稲荷来影﹂には
空 海 が 紀 州 田 辺 で 異 相 の 老 人 に 会 い、 昔 霊 鷲 山 で 会 っ た 時
められている。
︵﹃朱﹄伏見稲荷大社、二〇一四年二月︶が最も的確にまと
史 的 な 流 れ に つ い て は 西 岡 芳 文﹁ ダ キ ニ 法 の 成 立 と 展 開 ﹂
する形容もそれと同じ扱いということになる。
なお、﹁うたてかる﹂については、池田敬子﹁﹃おとりた
るもの﹄こそ﹃うたてけれ﹄│宗盛│﹂
︵﹃軍記と室町物語﹄
家物語﹄での﹁うたてし﹂は嫌悪感をも示す言葉になる場
所収、清文堂出版、二〇〇一年十月︶を参考にした。﹃平
合もあるらしい。
︵ ︶﹃日本古典文学大系﹄七十三︵岩波書店、一九六五年一月︶
︵ ︶ 前掲注
︵9︶奥平英雄編﹃御伽草子絵巻﹄
︵ ︶﹃木幡狐﹄詞書は市古貞次校注﹃御伽草子﹄
︵上︶所収︵岩
波文庫、岩波書店、一九八五年十月︶を用いた。
︵ ︶ 稲荷信仰については、五来重﹁稲荷信仰と仏教﹂︵同氏
編﹃稲荷信仰の研究﹄山陽新聞社、一九八五年五月︶及び
大森惠子﹃稲荷信仰の世界稲荷祭と神仏習合﹄︵慶友社、
二 〇 一 一 年 十 二 月 ︶ 五 来 氏 に よ る 広 範 囲 な 調 査 に よ る と、
稲荷社の本尊には䆣枳尼天が祀られている場合が極めて多
いという。
︵ ︶ 田中貴子﹁䆣枳尼天法と︿王権﹀﹂︵1︶、︵2︶、﹁䆣天行
者の肖像﹂︵﹃外法と愛法の中世史﹄所収、︵砂子屋書房、
の 誓 約 を 確 認 し た。 後 に 東 寺 に こ の 老 人 が 稲 を 担 ぎ 、 両 婦
と二人の子供を連れてやってくると、空海は喜び、都の巽
に勝地を定め七日七夜の間鎮壇したのが今の伏見稲荷であ
は五巻第八段に﹁稲荷契約﹂、白鶴美術館本には五巻二段
るとしている。なお、﹁稲荷来影﹂は高野山・地蔵院本で
項であった。
に﹁稲荷契約﹂であり、諸本にみられる空海行状の基本事
︵ ︶﹃大日本史料﹄六 の二十一
︵ ︶ 前掲注︵ ︶阿部泰郎論文
︵ ︶ 教舜﹃秘鈔口決﹄︵﹃真言宗全書﹄第二十八︶第二十四、
焔魔天法の﹁次拏吉尼﹂をみると、
私云。荼吉尼ハキツネ即悪鬼所業也。又常食人精悩乱
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43
人 身 衆 類 也。 仍 鬼 主 閻 魔 天 為 眷 属 歟
大 日 経 二 云。 荼
如次
吉尼真言 第
形食人血勢
疏 十 云。 能 知 人 欲 命 終 者。
六月即知之。知己即作法。取其心食之。所以爾者。入
身中人黄也。若得食者得大成就。一日周遊四域随意所
為皆得
と あ り、 こ の 時 点 で は 䆣 枳 尼 天 は 狐 と 結 び つ き 、 恐 ろ し い
尊格となっている。
戊丑二 月 二 十 九 日。 根 来 寺 中 性 院 坊。 求 聞 持
正安二年
一方、頼瑜 ﹃秘鈔問答﹄巻第九︵﹃大正新脩大蔵経﹄
第七十九、№二五三六︶虚空蔵には、
憲│
仰云。三宝院流無荼吉尼法者。
法記続畢。故僧正御房
流者彼法事踈簡不及委細云云
三宝院僧正時依夢想吉除却畢。求聞持法雖有之。於当
と 求 聞 持 法 伝 授 の 時 に 受 け た 記 述 だ が、 三 宝 院 流 で は 䆣 枳
尼 法 は 修 さ な い と い う。 流 派 に よ っ て は 修 さ れ る こ と の な
いものだった。
︵ ︶﹃平家物語﹄の清盛と䆣枳尼天については、美濃部重克
﹁﹃源平盛衰記﹄ 史の筋書き│平清盛の䆣枳尼天信仰ある
いは平家の運命についての解釈原理│﹂︵同氏﹃中世伝承
文学の諸相﹄所収、和泉書院、一九八八年八月︶及び濱中
修﹁玉藻前物語考
䆣枳尼天と王権﹂︵徳田和夫編﹃お伽
草子
百花繚乱﹄、笠間書院、二〇〇八年十一月︶等参照。
﹃狐草紙﹄と﹃文観阿舎利絵巻﹄
︵ ︶ 拙稿﹃日本仏教版画史論考﹄︵法藏館、二〇一一年二月︶。
また、西大寺本﹃諸尊図像・陀羅尼等﹄は町田市立国際版
画美術館編﹃大和路の仏教版画﹄︵東京美術、一九九四年
二月︶に全図を掲載した。また、称名寺本﹃諸尊図像・陀
羅 尼 等 ﹄ は 神 奈 川 県 立 金 沢 文 庫﹃ み ほ と け と ご り や く ﹄ 展
カタログ︵二〇〇四年二月︶に掲載されている。
︵ ︶ 林温﹁咤枳尼天曼荼羅について﹂︵﹃佛教藝術﹄二一七号、
一九九四年十一月︶
︵ ︶ 白原由起子﹁﹃伏見稲荷曼荼羅﹄考│個人本﹃䆣枳尼天
曼荼羅﹄に対する異見﹂︵﹃MUSEUM﹄五六〇号、一九
九九年六月︶白原氏は背景に描かれる山並みを稲荷社背景
︶に
の 景 色 と し て、 伏 見 稲 荷 曼 荼 羅 と の 名 称 と し た 。 䆣 枳 尼 天
画像については他に入江多美﹁ダキニ天︵辰狐王菩
関する一詩論│日光山輪王寺藏﹃伊頭那︵飯縄︶曼荼羅図﹄
を中心として﹂︵﹃美術史論集﹄八、二〇〇八年二月︶参照。
︵ ︶ 前掲注︵8︶宮次男論文
︵ ︶ 守山聖真﹃立川邪教とその社会的背景の研究﹄︵国書刊
行会、一九九〇年九月︶及び田村隆照﹁文観房弘真と文殊
信仰﹂︵﹃密教文化﹄七十六号、一九六六年九月︶
︵ ︶ 東京・室泉本興正菩 御影の裱背押紙には、
西大寺興正菩 御影
上御願文
興正菩 御真筆也門
徒
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真重□
取筆西大寺二聖院殊□
正安二年
後七月廿一日於和州吉野現光寺図絵之
生年廿二歳時奉図真影今生歳及六十満重奉拝此尊像忽
如値於昔願生
浄戒而已
前東寺一長者醍醐寺座主
︵ ︶﹃太平記﹄を題材とするものに徳田和夫編﹃お伽草子事
典﹄︵東京堂出版、二〇〇二年九月︶をたよりにまとめて
鷺合戦物語﹄、﹃さよごろも付ゑんや﹄﹃北野通夜物語﹄
みると、﹃中書王物語﹄︵舞の本では﹃神曲﹄︶、﹃さごろも﹄、
﹃
ているものに﹃俵藤太物語﹄、﹃硯破﹄、構想と詞書の影響
﹃大森彦七絵巻﹄など数多くあり、さらに、詞書や引用し
園精舎絵巻﹄、部分的に取り入れたも
では﹃秋の夜の長物語﹄、内容が関わるものでは﹃羅生門﹄、
のとして﹃石山物語﹄
﹃弘法大師の御本地﹄、﹃かなわ﹄、﹃花
﹃あやめのまへ﹄、﹃
□
持菩
法務□
とあり、﹁殊音﹂や末尾の法務□など法務弘真とあるはず
さらに多い。
子もの狂ひ﹄となんらかのかたちで手本としているものは
の箇所が明らかに削除されている。
荼羅﹂﹃國華﹄一一七六号、一九九三年十一月︶の裱背墨
︵ ︶﹃太平記﹄を典拠としているわけではないが、南朝の武
将を題材にしたものとして﹃三人法師﹄に登場する篠崎六
郎左衛門がいる。楠木正儀が北朝と和睦をしようとしたこ
とを諫めたが、足利氏に帰順したために出家したというも
の。これは正儀が細川頼之を頼り、正平二十四年︵一三六
九 ︶ 足 利 義 満 に 降 り た こ と が 題 材 に な っ て い る と 思 わ れ る。
モデルとも無関係ともされているが、関係ありとすれば、
また、公家では﹃為世の草紙﹄は二条為世をは二条為世が
やはり南北朝の動乱の時代を生きた者をベースとしたこと
と﹃三人法師﹄第三話について│﹃三人法師﹄の成立は果
になる。関係があるとするのは、橋本直紀﹁﹃為世の草紙﹄
─ ─
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56
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個人藏本大威徳転法輪画像︵林温﹁新出の大威徳転法輪曼
書は、
︵大威徳転法輪曼荼羅 ︶ 御開眼□□□□□□務前大僧正
乙
正平十年 未正月十七日図絵開眼供養之大絵師法眼厳雅
︵別筆︶
⋮
であり、□や大僧正の次には弘真とあるばずである。
︵ ︶ 文観房弘真の事例ではないが、大阪・大念仏寺本﹃融通
念仏縁起明徳版本﹄の詞書きにも﹁清凉寺﹂﹁成阿﹂など
︵2︶拙著参照。
都 合 が 悪 い 場 合 は 抹 消・ 削 除 が あ っ た よ う で あ る。 前 掲 注
の 箇 所 が 切 り 取 ら れ て い る。 伝 来 の 途 中 で 所 蔵 者 に と っ て
55
たして古いか│﹂
︵﹃国文学﹄六十一号、一九八四年十一月︶
であり、伊藤慎吾﹁為世の草紙﹂解説︵徳田和夫編﹃お伽
︶真下論文参
草子事典﹄、東京堂出版、二〇〇二年九月︶では別人とする。
また他に﹃はにふの物語﹄がある。前掲注︵
照。
︵ ︶ 実 在 の 僧 侶 を 題 材 と し た お 伽 草 紙 に﹃ 弘 法 大 師 の 御 本
地﹄や﹃恵心僧都物語﹄、﹃源海上人伝記﹄があるが、逸話
27
と し て モ デ ル に な っ た﹃ 硯 割 草 紙 ﹄ の 書 写 山 円 教 寺 の 性 空
上人や﹃秋の夜の長物語﹄の瞻西上人、﹃百万物語﹄の導
御上人などの作例がある。﹃百万﹄については、細川涼一
﹁金剛院導御の宗教活動﹂︵﹃仏教史学研究﹄二十六︵二︶、
会﹃百万﹄﹂︵﹃文学﹄五十四︵三︶、一九八六年三月︶後に
一九八四年三月︶及び同氏﹁導御・嵯峨清涼寺融通大念仏
同氏﹃女の中世
小野小町・巴・その他﹄︵日本エディター
スクール出版部、一九八九年八月︶に収録︶
︵うちだ
けいいち
文学学術院教授︶
﹃狐草紙﹄と﹃文観阿舎利絵巻﹄
─ ─
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﹃狐草紙﹄と﹃文観阿舎利絵巻﹄図様比較
数字は絵巻における図版の順番を示す
※屋敷門、牛車、侍者、ひてう、前の間なし。
室内。奥の間に僧都と美女狐
※行水、牛車なし
4
狐草紙
文観阿舎利絵巻
ひてうが僧都に手紙を届ける。庭にはすすきが描かれ、赤の樹木が ひてうが僧都に手紙を届ける。畳の上には文箱が置かれる。
2
描かれる。※文箱なし。
縁側にて行水をして身を清める僧都︵潔斎︶。
部屋隅に立つ僧都とそれを迎えるひてうが檜垣の門に立つ。僧都は
墨染めの衣に白の五条袈裟。※手燭なし。
迎えの牛車。牛飼い童と侍者三人。雲間には三日月。
食事をする僧都と美女狐、給仕の女。
※隣の 応なし
5
1
2
屋敷門と中に入った牛車、侍者三人とひてう。
室内。前の間に琵琶、奥の間に僧都と美女狐
御伩、几帳の向こうで檜扇を手にする美女狐。
3
1
3
食事をする僧都と美女狐、給仕の女。
隣の部屋で 応をする人々。盃を手にする男と女二人、次女一人。
囲碁をする男二人。
︵なし︶
短 め の 墨 染 め の 衣 を 着 て、 門 か ら 泣 き な が ら 立 ち 去 る 僧
都。それを囃す子供五人。
8
※赤子を抱き笑う女一人なし。
金剛勝院の縁の下に坐す僧都。
墨染めの衣。
狐が二匹逃げ去る。
7
それを知らせる童と近衛院の侍が僧都の元へ走る。※軒か
ら い出る僧都なし。
※門なし。囃す童たちなし
部屋隅に立つ僧都とそれを迎えるひてうが檜垣の門に立
つ。縁側には手燭が置かれる。
4
︵なし︶
※錫伺を手にした僧侶なし
座敷には僧都と美女狐。※琴はなし。
6
その後方で慌てて、狐となる二匹。︵二匹とも頭に髑髏。︶
5
室内。娘のもとに帰った僧都と嘆き悲しむ娘。
金剛勝院の縁の下に坐す僧都。草紙をまとう。
※狐二匹なし。
軒から い出る僧都。
門にて近衛殿の侍より直垂を渡される僧都。坐す侍者。周りには童
五人。
短い直垂をまとい歩く僧都。それを囃す童五人と赤子を抱き笑う女
一人。
門より錫伺を手にした僧侶二人が入る。
座敷には僧都と美女狐。琴が置かれる。
その後方で慌てて、狐となる四匹。︵長髪一匹、背に草紙を背負う
狐一匹、頭に髑髏を載せる狐一匹。尻尾だけみせる狐一匹︶。
6
7
─ ─
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『狐草紙』第一図
﹃狐草紙﹄と﹃文観阿舎利絵巻﹄
『狐草紙』と『文観阿舎利絵巻』図様比較
『文観阿舎利絵巻』第二図
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『狐草紙』第二図
『文観阿舎利絵巻』第一図
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60
『文観阿舎利絵巻』第三図
﹃狐草紙﹄と﹃文観阿舎利絵巻﹄
『狐草紙』第三図
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『狐草紙』第四図
『文観阿舎利絵巻』第四図
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﹃狐草紙﹄と﹃文観阿舎利絵巻﹄
『文観阿舎利絵巻』第五図
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『文観阿舎利絵巻』第六図
『狐草紙』第五図
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『文観阿舎利絵巻』第七図
﹃狐草紙﹄と﹃文観阿舎利絵巻﹄
『狐草紙』第六図
『文観阿舎利絵巻』第八図
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『狐草紙』第七図
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