富士山 が生 んだ 御殿場特有 の 気象 わたくし あ め みくりやの私雨 山々に囲まれた複雑な地形のため局 地的な前線が発生し、他の地域は晴れ ているのに「みくりや(御殿場の古い 呼 び 名 )」 だ け が 雨 や 雪、 霧 に な る こ とが多い。 御殿場の「夏」 標高が高いため、夏は涼しく、熱帯 夜・ 猛 暑 日 が 観 測 さ れ た こ と は な い。 梅雨の時期は雨や霧が多い。 御殿場の「冬」 冬は晴れの日が多いが、静岡県内の 都市としては寒さが厳しく、大雪にな か 湧き出ます。 〝美味しい水〟となって 流れていき、ふもとで ろ りやすい。 新富士火山の噴出物によって にそって長い年月をかけて 濾過され、古富士泥流の傾斜 雨や雪どけ水は、図のように 性質があります。富士山にしみこんだ 表面にあたる古富士泥流は水を透しにくい 富士山の表層をおおっている新富士火山の噴出物は、 よく水を透します。これに対し深層の古富士火山の 富士山・湧水のメカニズム 私たちは限りない恩恵を受けている。 様々な命を生み育て、 豊富な地下水。 火の山の溶岩流が作りだした 母なる 水の山 雨を呼ぶ 富士山の笠雲 7 GOTEMBA CITY の 恩恵 富士山をつくる溶岩や火山 灰の中には無数の割れ目や 空洞があり、降り注いだ雨 や雪どけ水がこれらの空間 を満たすことで、富士山全 体が巨大な水がめとなって います。水は下方へと流れ 続け、ふもとからこんこん と湧き出しています。富士 山全体での湧水量は、毎日 ま す。 こ の よ う な 湧 水 は、 500万トンと言われてい 観光スポットとして人々を 楽しませるだけでなく、飲 料水や農業・工業用水とし て広く利用されています。 御殿場口から出発した 富士山の気象観測にかけた夢 )年 、研 究 所の観 測 機 材や関 係 資料が御殿場市に寄託されました。 (昭和 果は長く忘れられていましたが、 1968 れる 人 もな くな り 、博 士 と 研 究 所の 成 富士山の気象にまつわる人物の物語と御殿場との関わりをご紹介します。 べ まさなお 雲と気流の研究に取り組んだ あ 阿部正直 阿 部 正 直 博 士は 、 1927 (昭和2)年、 の な か いたる ち よ こ 富士山頂冬季気象観測のはじめ 野中到・千代子 高層気象 観 測の必 要 性を唱え、 明治時代に 初めて富 士 山 頂での冬 季観測に挑戦したのが野中到・千代子夫 度以 下となる 冬の富 士 山 妻でした。気 圧は 平 地の約3分の2、気 温マイナス 頂 。到 は 欧 米の高 山 気 象 台の構 造 や 越 冬 方 法 を 研 究し 、中 央 気 象 台の協 力 を の可能性を示しました。 が、国による富 士山観 測 所開設へとつな ふじわらひろ と にっ た じ ろう 富士山観測所に勤務し 1937 (昭和 ) 年 までの約5年 間 、臨 時 藤原寛人〔新田次郎〕 戦 後1964( 昭 和 )年には山 頂に 富士山レーダーが建設され、世界に誇る がりました。 台風予報と高層気象観測の拠点となり ました。 ふじむらいく お 藤村郁雄 佐藤順一の応援という形で富士山頂冬 季気象観測に参加。 1938 (昭和 )年 8月、富士山頂観測所の所長に就任。 年にわたり 富 士 山 測 候 所 所 長として重 責を担いました。 山頂での観測生活を体 )年に帰国後気象台に復帰。 1951 (昭 験。 ソ連での抑留生活を経て1946 (昭和 和 ごうりき )年「新田次郎」 のペンネームで富士山 測候所の強力をモデルにした小説 『強力伝』 賞を受賞。 以後気象庁勤務のかたわら小説 を執筆。 処女短編集 『強力伝』 で第 回直木 家としても活躍し、富士山レーダー建設の 責任者として難事業の実現に尽力。 1964 一度途切れた冬 野中到の意志を継ぎ、 季 山 頂 観 測に再 挑 戦したのは筑 波 山 観 計 測 機 器の開 発にも 尽 力 。碁 、歌 、俳 句 富 士 山 頂という 特 殊な 条 件 下で用いる 山頂』 、 野中到夫妻を扱った 『芙蓉の人』 、 宝 富士山関係の作品には、『強力伝』 のほか、 富士山レーダー建設をテーマにした 『富士 さ と う じゅんいち この間、送電線敷設やレーダー建設な (昭和 )年レーダー完成を見とどけ気象 ど測候所設備の近代化に貢献したほか、 庁を退職、 執筆活動に専念しました。 測所所長の佐藤順一でした。 1927 (昭 永噴火後の伊奈 半 左衛 門 忠 順の苦闘を描 富 士 山 頂 剣ヶ峯の 「野中小屋」 で気 象 観 けん が みね 測を行いました。 にも親しむ 風 流 人でもあり、「 富 士 山 頂 い な はん ざ え もん ただ のぶ 和2)年、富士山頂に観測所を建て夏季 いた 『怒る富士』 などがあります。 佐藤 順 一 12 34 気象観測の歌」 など山頂での観測生活を 月1日から 月 日まで、 21 26 テーマにした作品を多く残しています。 )年 取り付け、御殿場を拠点として1895 こんこんと湧き出る水は、私たちの暮ら しの中にとけ込んでいます。 気象観測を再開。 1930 (昭和5)年に 冬季山頂観測への挑戦後、到は、1898(明 治31)年頃から御殿場市中畑の山王塚に住み、 1909(明治42)年、この地に富士登山者の 休憩所と山頂との比較観測をするための施設を 兼ねた「大麗閣」を新築、富士山頂での通年観 測と高層気象学への夢を抱き続けました。現在 大麗閣のあった場所は「野中山」と呼ばれ、野 中夫妻を顕彰する記念碑が建てられています。 やさしい天然のお湯も、自然からの贈 り物です。 39 ふる里の味「水かけ菜」は、稲を刈りとった 豊富な伏流水から、様々な食品、飲料、 あとの田んぼに、伏流水をひいて作ります。 農作物が生まれ育ちます。 昭 和 時 代 初の冬 季 観 測に成 功したこと ( 明治 13 30 御殿場市新橋に私財 年 間 にわ を 投 じて「 阿 部 雲 気 流 研 究 所 」を 設 立 し 、以 後 たって富 士 山と 雲・気 流の観 測・研 究を 研究所は、やがて中央気象台の委嘱観測所となり、 後に「博物館」として公開されました。 博士の残した富士山と気流の研究は昭和41年、 富士山で事故を起こした BOAC 旅客機事故の原 因解明に活用されました。 デリケートなわさびは、冷たく清らかな 水でなければ育つことができません。 観 測 機 器の故 障や夫 妻の健 康 問 題な どのため、 3ヵ月 足らずで下 山となった 21 43 富士山から生まれた冷涼な気候が、豊 かな実りを結びます。 ものの、夫妻の挑戦は富士山頂冬季観測 12 39 15 10 続け、 日本の高層気象学に貢献しました。 (昭和 )年、中央気象台の委 1937 嘱観測所となったのを機に 「雲気流参考 館 」( 後に「 阿 部 雲 気 流 博 物 館 」 に改 称 ) を増築し、研究成果を広く一般市民にも 公開して普及に努めました。 28 19 戦後、博士が御殿場を去ってからは訪 緑きらきら 人いきいき 御殿場 8 12
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