- 1 - 別紙1 『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』 原文 読み下し文 法興元卅

別紙1
『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』
●原文
法興元丗一年歳次辛巳十二月 鬼前太后崩
明年正月廿二日 上宮法皇枕病弗悆 干食王后仍以労疾 並著於床
時 王后王子等 及與 諸臣 深懐愁毒 共相發願
仰依三寳 當造釋像 尺寸王身 蒙此願力 轉病延壽
安住世間 若是定業 以背世者 往登浄土 早昇妙果
二月廿一日癸酉 王后即世
翌日 法皇登遐
癸未年三月中 如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘嚴具竟
乗斯微福 信道知識 現在安隠 出生入死 随奉三主 紹隆三寳
遂共彼岸 普遍六道 法界含識 得脱苦縁 同趣菩提
使司馬鞍首止利佛師造
(『日本金石図録』*119頁)
●読み下し文
やど
かみさきの
かむさ
法興元卅一年歳は辛巳に次る十二月。鬼 前太后 崩 りたまふ。
こころよ
明年正月廿二日、上官法皇病に枕し、食に 悆 からず、王后仍りて努疾を以て、並に床に着きた
まふ。
時に王后王子等及び諸臣と、深く愁毒を懐き、共に願を相ひ發す。
仰ぎて三寶に依り、當に釋像の尺寸王身なるを造るべし。
此の願力を蒙りて、病を轉じ壽を延し、世間に安住したまはむことを。
若し是れ定業にして、以て世に背きたまはば、浄土に往登し、早く妙果に昇らせたまはむこ
とを。
二月廿一日癸酉、王后世に即きたまふ。
翌日、法皇登遐したまふ。
癸未の年三月の中に、願の如く敬みて繹迦の尊像并に侠侍、及び荘嚴の具を造り竟る。
○
斯の徽福に乗り、信道の知識、現在には安隠(穩)にして、生を出でて死に人らば、
三主に随ひ奉り、三賓を紹隆して、遂に彼岸を共にし、
普遍の六道、法界の含識、若縁を脱することを得て、同に菩提に趣かむことを。
司馬鞍首止利佛師をして造らしむ。
*1
(『日本金石図録』19頁)
『日本金石図録』:神田喜一郎監修、大谷大学編、二玄社、1972年11月。
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別紙2
『伊予風土記』逸文
●原文
(伊豫國風土記曰)
湯郡
大穴持命 見悔恥而 宿奈毗古那命 欲活而 大分速見湯 自下樋持渡来 以宿奈毗古奈命而
漬浴者 蹔間有活起居 然詠曰「眞蹔寝哉」 践健跡処 今在湯中石上也
凡湯之貴奇 不神世時耳 於今世染疹痾万生 爲除病存身要薬也
天皇等 於湯幸行降坐 五度也 以大帯日子天皇与大后八坂入姫命二軀 爲一度也 以帯中日子
天皇与大后息長帯姫命二軀 爲一度也 以上宮聖徳皇子 爲一度 及 侍高麗惠慈僧葛城臣等也
于時 立湯岡側碑文
其立碑文処
謂伊社迩波之岡也
伊社那比来
因謂伊社尓波本也
所名伊社迩波由者
当土諸人等
其碑文欲見而
碑文記云
法興六年十月
欲叙意
日月照於上而不私
何異干寿国
冀子平之能往
巻葉映照
才拙
逍遙夷与村
玉菓弥葩以垂井
正観神井
於大殿戸
百姓所以潜扇
詎舛于落花池而化羽
実想五百之張盖
經過其下
後定君子
万機所以妙応
沐神井而瘳疹
椿樹相廕而穹窿
実慚七歩
以後岡本天皇
神井出於下無不給
随華台而開合
以岡本天皇并皇后二軀
干時
我法王大王与惠慈法師及葛城臣
歎世妙驗
聊作碑文一首
惟夫
私
歳在丙辰
臨朝啼鳥而戯哢
可以優遊
若乃照給無偏
窺望山岳之巗崿
何暁乱音之聒耳
反
丹花
豈悟洪灌霄庭意歟
幸無蚩咲也
爲一度
有椹与臣木
於其木
近江大津宮御字天皇
集止鵤與此米鳥
天皇爲此鳥
浄御原宮御宇天皇三軀
枝繋稲穂等
爲一度
養賜也
此謂幸行五度也
(新編日本古典文学全集『風土記』*1508~510頁。返り点、句読点を除いた。)
●読み下し文
(伊予の国の風土記に曰ふ)
こおり
湯の郡。
お お あ な
す く な
ひ
こ
な
い
おほきだ
はや み
した び
大穴持の命、悔い恥ぢしめらえて、宿奈毗古那の命、活けむに、大分なる速見の湯を下樋ゆ持
わた
す く な
ひ
こ
な
ゆ あ む
しまし
ほど
よみがへ
を
さ
なか゜
ち度り来て、宿奈毗古那の命を以ちて漬浴ししかば、 暫の間ありて活起り居り。然て詠めて曰
ま しま
いね
ふ
たけ
あ
と
いは
はく「真暫にも寝つるかも」といふ。践み健びし跡処は今も湯の中なる石の上にあり。
すべ
くす
や ま ひ
しづ
あをひとくさ
凡て湯の貴く奇しきことは神世の時のみにあらず、今の世にも疹癖に染みし万 生の病を除き身
たも
く す り
を存たむが為の要薬なり。
い で ま
くだ
ま
いつたび
天皇たち、湯に幸行し降り坐ししこと五度なり。
おほたらし
ふたはしら
ひとたび
大帯日子の天皇と大后なる八坂入姫の命との二軀を以ちて一度とす。
たらしなかつ
ひとたび
帯 中日子の天皇と大后なる息長帯姫の命との二躯を以ちて一度とす。
かみつみや
み
こ
みとも
こ
ま
上宮の聖徳の皇子を以ちて一度とし、また侍なる高麗の恵慈僧と葛城の臣たちなり。
いしぶみ
時に湯の岡の側に碑文を立てたまふ。
い
さ
ひ
は
い
い
さ
ひ
は
このくに
それ、碑文を立てたまひし処を伊社尓波の岡と謂ふ。伊社尓波と名くる由は、当土の諸人等その
*1
新編日本古典文学全集『風土記』:植垣節也校注・訳者、小学館、1997年10月
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い
ざ
な
ひ
い
さ
ひ
は
このもと
碑文を見むと欲ひて伊社那比来れり。因りて伊社尓波と謂ふ、 本 なり。
碑文に記して云ふ。
やど
い
よ
法興六年の十月、歳は丙辰に在るとし、我が法王大王と恵慈法師また葛城の臣と、夷与
せうえう
くす
ゐ
み
しるし
あはれ
の村に逍遙したまひ、正に神しき井を観たまひ、世に妙なる験あることを歎 みたまひ
こころ
の
ほ
いささか
て、その意を叙べまく欲りしたまふ。さて 聯 に碑文一首を作りたまふ。
おも
それ
ひ つき
まつりこと
惟ふに夫、日月は上に照りて私せず。神しき井は下に出でて給はずといふことなし。万機は
そ
え
うるは
かな
そ
え
あふ
てれる
たまへる
かたぶき
ごと
所以に妙しく応ひ、百姓も所以に潜く扇けり。乃ち照 と 給 とに 偏 も私もなきが若く、何
ことな
うてな
まにま
と
ゆあみ
やまひ
いや
なに
而そ寿国に異らむ。華の台の随に開きては合ぢ、神しき井に沐して疹を瘳す。詎そ落る花
そむ
あめへゆ
しはきし
さら
へ い し
よ
ゆきしこと
ねが
つ ば き
かげ
の池に舛きて化羽かむう窺ひて山岳の巗崿を望み、反に平子が能く 往 を冀ふ。椿樹は相廕
おほぞら
い
ほ
きぬがき
すなは
たはむ
りち穹窿となり、実に五百の張れる 蓋 を想ふ。朝に臨みては啼く鳥而ち戯れさへづり、何
かま
あか
すなは
かかや
このみかさな
はなひら
そ暁の乱る音も耳に聒しき。丹き花巻ける葉は 而 ち映 て照り、玉の菓 弥る 葩 は以ちて井
よ
き
ゆたかな
べ
もし
こころ
に垂れたり。その下に経過れば、以ちて 優 る遊びにある可く、豈「洪灌・霄庭」の意を悟
か
らむ歟。
をぢな
は
ねがは
わ
ら
才拙く実に七歩に慚づ。後の君子、幸くはな蚩咲ひそ。
ふたはしら
ひとたび
岡本の天皇と皇后との二軀を以ちて一度とす。
むく
いかるが
し
め
すだ
時に大殿戸に椹と臣の木とあり。その木に 鵤 と此米との鳥、集き止まれり。天皇、この鳥が為
か
に枝に稲穂どもを繋けて養ひ賜ふ。
後の岡本の天皇と近江の大津の宮に御宇ひし天皇、また浄御原の宮に御宇ひし天皇の三軀を以ち
ひとたび
み ゆ き いつたび
い
て一度とす。幸行五度と謂う。
(新編日本古典文学全集『風土記』505~508頁)
※1
底本
・前田家本『釈日本紀』巻十四「幸于伊予温湯宮」条。
・冷泉家本『万葉集注釈』巻第三、三二二番歌条。
・仁和寺本『万葉集注釈』巻第三、三・三二二番歌条。
2
頭注で、『釈日本紀』に欠ける文章があり、それを『万葉集注釈』により補ったと述べてい
る。下線部分が該当する。
①506頁頭注
『釈日本紀』(前田家本)は「碑文記云」として「法興六年」に続き、「其立碑文処
……
因謂伊社尓波本也」の四十
五字が省かされている。『万葉集注釈』(冷泉家本、仁和寺本)で補った。
②508頁頭注
『釈日本紀』は、「干時、於大殿戸
……
枝繋稲穂等養賜也」の三十四字を欠く。『万葉集注釈』(冷泉家本、仁和
寺本)によって補った。
3
校訂(抜萃)
①「碑文記云」:506頁頭注
『万葉集注釈』は、以下を「云々」で省略。『釈日本紀』では「記云」のみで「碑文」の二字はないが、前後の意味を勘
案し省略、前条の「碑文」を補った。
②「恵慈」
・506頁頭注
前田家本は「総」。冷泉家本、仁和寺本による。……
・507頁頭注
底本の「忩」は「総」の省文。注二より、意改。「慈」が「忩」に誤られ「総」となった。
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【参考】
法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘
(『日本金石図録』による)
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