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「狩 野 芳崖 と 《 悲母 観音 》 につ い て 」
狩 野 芳 崖 ( か の う ・ ほ う が い 1828~ 1888)
狩野 芳 崖は 、 徳 川時 代の 末 期か ら 明 治時 代の 前 半に か け て、 長門 国 長府 ( 現
在の 下 関市 長 府 ) と 江戸 ・ 東京 を 舞 台に 活躍 し た画 家 で 、下 関ゆ か りの 美 術 家
とし て 、そ の 筆 頭に あげ ら れる 人 物 です 。
ながとの くに ちょうふ
芳崖 は 、 長門 国 長府 (現 在 の下 関市 長 府 ) に 長 府藩 の御 用 をつ と め る 絵 師の
子と し て 生 ま れ 、 藩 政時 代 は、 自 ら も長 府 藩 の 絵師 と な って 活動 し まし た 。 明
治時 代 に入 っ て から は 、 長 府を 離 れ 東京 に居 を 移し 、 新 政府 に招 か れ来 日 し て
い た ア メリ カ 人 学者 アー ネ スト ・ フ ェノ ロサ に 見出 さ れ たこ とを さ かい に 、 亡
おかくら てんしん
くな る まで の 数 年間 、 岡倉 天心 らと とも に 新 時代 にふ さ わし い 日 本絵 画の あ り
方を 求 め、 改 革 と 実 験に 取 り組 ん で 、後 年「 近 代日 本 画 の祖 」と 呼 ばれ る こ と
とな り まし た 。
狩 野 芳 崖 筆 《 悲 母 観 音 》( 明 治 2 1 年 、 東 京 藝 術 大 学 蔵 、 重 要 文 化 財 )
とうきょう び じ ゅ つ が っ こ う
とうきょうげいじゅつ だ い が く
芳 崖 は 、 亡 く な る 直 前 に 東 京 美術 学校 ( 現 在 の 東 京 藝 術 大学 の 前 身 ) の 開
校準 備 にた ず さ わり まし た 。こ の 頃 手が けた 作 品が 、 現 在、 東京 藝 術大 学 が 所
ふどうみ ょうおう
ひ
ぼ かんのん
蔵し 、国 に よ っ て 重 要文 化 財に 指 定 され てい る《 不動 明 王 》や《 悲母 観音 》
(絶
筆 ) で す。
ひ
ぼ かんのん
《 悲 母 観 音 》( 重 要 文 化 財 ) は 、 観 音 菩 薩 に よ る 救 い と い う 仏 教 信 仰 に か か
わる テ ーマ の 作 品で すが 、 芳崖 は 、 東洋 なら で はの 精 神 世界 を表 現 する に あ た
って 、 西洋 絵 画 の 空 間表 現 など も 取 り込 んだ 、 まっ た く 前例 のな い 画法 を も っ
てこ た えよ う と し て いま す 。本 作 品 は、 完成 間 近に 芳 崖 が死 去し た こと で 、 未
完の ま ま遺 さ れ まし たが 、 盟友 ら の 手に よっ て 完成 さ れ まし た 。 狩 野芳 崖 の 絵
画の 頂 点で あ る ばか りで な く、 明 治 時代 以降 の 「 近 代 」 に新 たに 誕 生し た 「 日
本 画 」 の記 念 碑 と い うべ き きわ め て 重要 な作 品 です 。
か の う ほうがい
狩野 芳 崖 筆
ひ ぼ かんのん
《 悲母 観 音 》
明 治 21 年
びょうぶ
ちょう
屏 風 ・1 幀
東京 藝 術大 学 蔵
※下 関 市立 美 術 館が 所蔵 す る 複 製 は 、昭 和 59 年 度、 大 塚巧 藝社 に よっ て 、 原
画を 忠 実に 再 現 して 製作 さ れた も の です 。