小堀遠州について 1.小堀遠州を学習の柱に 毎年 、1 月 下旬に 、 6年 生を対 象 に小 堀町 の遠 州会 館で 「遠 州流 茶道 体験 」を 実施 しし て います 。 最 初 に小 堀 遠 州に つ い ての 偉 業 や生 涯 に つい て お 話し を う かが っ た 後、 遠 州流 によ るお 茶 をたて て い た だき 温故 知 新の精 神 に触 れさせ て いた だき ます 。 遠 州 流は、江戸時代初期の大名で文化人、そして茶人として有名な小堀遠州を流租とする武家茶道の代表的 な流儀で大名茶道とも呼ばれ 400 年の歴史をもち、格式ある茶道として今日まで受け継がれています。 遠州の茶道は「格より入り、格より出る」ことをモットーとされています。これは、常に基本に忠実な実行と 更に創意工夫の精神を大切にして茶道を学んでいく心を表現する言葉です。 また「主人は客の心になれ、客は主人の心になれ」という言葉にあるようにお茶会などでお客様をお招きした とき、常に相手の立場に立ってものを考える思いやりの心を「茶の湯の心」としてとても大切にされています。 さらに、遠州流では日本の伝統文化である茶道を現代から次代に正しく継承していくために「稽古照今-けい こしょうこん-」(いにしえを考えて、今に照らす)をテーマとされています。 このことは「温故知新」すなわち「昔のことをかんがえてよいところを大切にし、それを現代にいかしていく」 ということで、私たちもこの精神を受け継いでいきたいものです。 〈 以下 、「遠 州流 茶道 体験 」で いた だく 小堀 遠 州につ いて の 説明資 料 より 引用。〉 2.小堀遠州について【長浜市小堀町遠州会館資料より】 遠 州 流は 、 江 戸時 代 初 期の 大 名 で文 化 人 、そ し て 茶人 と し て有 名 な 小堀 遠 州を 流祖 とす る 武家茶 道 の 代 表的 な流 儀 で大名 茶 道と も呼ば れ 400 年の 歴史 をも ち、 格 式あ る茶 道と して 今日 まで 受け 継が れて ま い りま した 。 遠 州 の茶 道 は 「格 よ り 入り 、 格 より 出 る 」こ と を モッ ト ー とし て い ます 。 これ は、 常に 基 本に忠 実 な 実 行と 更に 創 意工夫 の 精神 を大切 に して 茶道 を学 んで ゆく 心を 表現 する 言葉 であ りま す。 ま た 「主 人 は 客の 心 に なれ 、 客 は主 人 の 心に な れ 」と い う 言葉 に あ るよ う に私 たち はお 茶 会など で お 客 様 を お招 き し たと き 、 常に 相 手 の立 場 に 立っ て も のを 考 え る思 い や りの 心 を「 茶の 湯の 心 」とし て と て も大 切に し ていま す 。 そして今、遠州流では日本の伝統文化である茶道を現代から次代に正しく継承してゆく為に「稽古照 今 け い こ し ょ う こ ん 」( 音 を 稽 え て 、 今 に 照 ら す ) を テ ー マ と し て い ま す 。 こ の こ と は 「 温 故 知 新 」 す な わ ち 「昔 の こ とを か ん がえ て よ いと こ ろ を大 切 に し、 そ れ を現 代 に いか し てい く」 とい う ことで 、 私 た ちは 時代 と 共に発 展 して いくべ き 茶通 を育 てて ゆき たい と思 って おり ます 。 3.小堀遠州の生涯【長浜市小堀町遠州会館資料より】 年号 天 正7 年 西暦 1 5 79 年齢 1 13 年 1 5 85 7 16 年 1 5 88 10 文 禄1 年 2年 3年 1 5 92 1 5 93 1 5 94 14 15 16 こと がら 近江国・坂田郡小堀村で生まれる。母は浅井氏の家臣・磯野 員正 の娘 。幼 名は 作介 豊臣秀長が郡山城主になり、家臣だった父正次と共に大和郡 山に 移る 。 郡山城内豊臣秀長館で千利休に会う。翌日、豊臣秀吉の茶の 給仕 をす る。 母死 去。 大徳 寺・ 春屋 宗園 に参 禅を 開始 。 父・ 正次 と共 に奈 良の 茶人 ・松 屋久 政の 茶会 に招 か れる。 -1- 慶 長1 年 1 5 96 18 2年 4年 5年 1 5 97 1 5 99 1 6 00 19 21 22 7年 8年 9年 1 6 02 1 6 03 1 6 04 24 25 26 11 年 13 年 1 6 06 1 6 08 28 30 14 年 17 年 1 6 09 1 6 12 31 34 19 年 元 和1 年 1 6 14 1 6 15 36 37 3年 4年 5年 6年 7年 8年 9年 寛 永1 年 2年 3年 1 6 17 1618 1 6 19 1 6 20 1 6 21 1 6 22 1 6 23 1 6 24 1 6 25 1 6 26 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 4年 1 6 27 49 5年 6年 10 年 1 6 28 1 6 29 1 6 33 50 51 55 11 年 1 6 34 56 13 年 17 年 19 年 1 6 36 1 6 40 1 6 42 58 62 64 20 年 1 6 43 65 正 保2 年 4年 1 6 45 1 6 47 67 69 伏 見の 自邸 に 洞水 門 ( 水 琴窟 ) を 造り 、 茶人 ・ 古 田 織部 を 驚 かす 。 藤堂 虎高 の養 女を 正室 とし て迎 える 。 伏見 の自 邸に 松屋 久正 らを 招い ては じめ て茶 会を 催 す。 関ヶ原で徳川方につく。父正次は備中中国奉行に任ぜられ備 中松 山に 越任 。遠 州も 同道 。 父正 次、 検地 奉行 とし て近 江の 検地 を行 う。 この 年か ら慶 長1 7年 まで 、古 田織 部か ら茶 湯伝 授を 受け る。 父正次、江戸への途中藤沢宿にて死去。備中国奉行と備中松 山城(1万3千石)を受け継ぐ。伏見城本丸数奇屋の作事の 助言 をお こな う。 御陽 成院 御所 の作 事奉 行を 命ぜ られ る。 家康の居城・駿府城作事奉行を命ぜられる。その功で従5位 下 遠 江 守 に 任 ぜ ら れ 、「 遠 州 」 と 呼 ば れ る 。 翌 々 年 に か け 備 中松 山城 を整 備。 大徳 寺・ 春屋 宗園 より 「大 有」 の道 号を うけ る。 大徳寺龍光院内に弧篷庵を創建。名古屋城天守の作事。翌年 にか けて 内裏 拡張 の作 事奉 行。 大坂 冬の 陣に 参戦 。 大坂冬の陣に参戦。家康の京都凱旋に従う。大和・宇陀松山 城を 破脚 。茶 道の 師・ 古田 織部 切腹 。 河内 国奉 行と なる 。伏 見城 本丸 書院 の作 事奉 行。 女御 御所 の作 事奉 行。 備中 国の 領地 を近 江国 浅井 郡に 移さ れる 。 大阪 城二 の丸 の作 事奉 行。 東海 道旅 日記 (上 り) を書 く。 近江 国の 国奉 行に 任ぜ られ る。 伏見 奉行 に任 ぜら れる (死 去す るま でそ の職 にあ る ) 二条 城お よび 同城 行幸 御殿 の作 事奉 行。 伏見 奉行 就任 披露 を兼 ね 22 回 の茶 会を 催す 。 大阪城天守・本丸の作事奉行。御水尾天皇の行幸には諸道具 の調 達に あた る。 仙洞女院御所の作事。金地院八窓席を建築。以後、金地院の 新築工事に関与。御水尾(仙洞)東福門院(女院)の院御所 の作 事奉 行。 二条 城二 の丸 の作 事奉 行。 江戸 西の 丸御 庭御 水工 事指 導の ため 江戸 にい く。 二条 城本 丸数 寄屋 の作 事奉 行。 水口 城、 伊達 御殿 の 普請を 担当 。仙 洞・ 女院 御所 の庭 泉水 の普 請担 当。 水口城にて畿内近国八か国を総監する「上方郡代」に任ぜら れる 。 三代 将軍 家光 への 献茶 を行 う。( 将軍 の茶 道師 範に なる ) 内裏 新築 工事 の総 奉行 を任 ぜら れる 。 こ の 年 よ り 、 四 年 間 江 戸 に 滞 在 ( 遠 州 江 戸 四 年 詰 )。 明 正 院 の院 御所 作事 。東 海道 旅日 記( 下り )を 書く 。 将軍家光、品川東海寺へ来訪の際、遠州が庭石に「万年石」 と名づけ将軍から褒美の羽織を賜る。孤篷庵を龍光院内から 現地 に移 築。 江戸 四年 詰を 終え る際 、将 軍か ら立 花丸 壺の 茶入 れ を拝領 。 2月6日伏見奉行屋敷で死去。享年69歳。孤篷庵に葬られ る。 -2-
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