見る/開く - 琉球大学

【琉球大学法文学部紀要. 社会学篇】
【Bulletin of the College of Law and Literature, University of the
Ryukyus.】
Title
Author(s)
Citation
Issue Date
URL
Rights
軍神大舛と新聞 −軍神の誕生とその普及・効果の研究−
保坂, 廣志
琉球大学法文学部紀要. 社会学篇 = Bulletin of the College
of Law and Letters, University of the Ryukyus. Sociology(31):
267-292
1989-03
http://ir.lib.u-ryukyu.ac.jp/handle/123456789/12967
軍 神 大 舛 と新 聞
一軍神の誕生 とその普及 ・効果の研究-
Guns
hi
n(
WarHe
r
o)Ohmas
u andJour
nal
i
s
m
-A Cas
eSt
u
dyont
h
er
ol
eofJour
nal
i
s
mi
nt
hemaki
ngofa "Guns
hi
n'
'
-
保
坂
贋
志
Hi
r
os
hiHos
aka
目
次
は じめ に
第一章
大舛松市 の経 歴 一 出生 か ら陸士 卒業 まで
第二 章
大舛 の戦 歴 一 中国 ∼ カ ダル カ ナル そ して戦 死
第三 章
軍 神大舛 の誕 生 と新 聞 の役 割
おわ りに
- 267
-
軍神大舛 と新聞 (
保坂)
はじめに
昭和 1
8
年 (
1
9
4
3
)1月1
3日、ガダルカナル島 (
以下 「ガ」島 という)にお
いて大舛松市陸軍中尉 (
沖縄県与那国村 出身)が戦死 した。同年 2月 7日、
「ガ」島攻防戦の主力を担 った日本軍第 1
7
軍 (
百武晴吉陸軍中将 ) は、「国軍
(I)
創設以来最初の大損害」を被 り、同島を放棄、ブーゲ ンビル島に撤退 した。
日米双方の 「ガ島」攻防戦 は、「
大東亜戦争の戟勢を決定 した-大決戦であり、
(2)
近代的立体戦のもっとも苛烈なものであった」 と言われている。南方地域 に
おける日本軍の緒戦の敗北に遭遇 した陸軍省は、撤退の事実を昭和 1
8
年1
0
月
まで国民に秘匿 し続け、同月 7日、その事実を明 らかにす るとともに大舛中
尉の 「ガ」島における 「
武功」が 「
畏 くも上聞に達せ られたり」と公表 した。
これが沖縄地元紙に掲載 されるに及び、大舛中尉は一躍 「
軍神大舛」 とし
て賞賛 され、戦時非常時体制に軍 ・民を根 こそぎ動員す る精神的象徴 として
崇められるようになった。
本論文 は、沖縄近 ・現代史の中で初めて誕生 した 「軍神大舛」 に焦点を当
て、戦時体制下で新聞が如何に沖縄県民に国防意識を植え付け、「
軍神大舛」
運動を展開 していったのかについて明 らかにす るものである。
第一章
大舛松市 の経 歴一 出生 か ら陸士卒業 まで
マンナ
大舛松市 は、父満名、母ナサマの長男 として大正 6年 (
1
91
7) 8月 6日,
沖
縄県与那国村字与那国3
5
番地に生まれた。家業 は農家で、父病名 は島で も珍
(3)
しいほど教育熱心であったという。大舛は昭和 5年 (
1
9
3
0
)3月、同村立与
那国小学校尋常科を卒業 し、同年 4月与那国小学校高等科 に入学 した。母 ナ
サマや、妹八重子 (
大舛家の三女、現姓 は黒鳥)の話を総合 してみると、大
舛 は幼時より聡明ではあったが、他の子供 と比較 して特 に目立 った存荏では
(4)
なかったという。
昭和 7年 (
1
9
3
2
) 1月、大舛 は、陸軍士官学校への入学の希望に燃え、そ
-2
6
8-
の前段階として沖縄本島にあった県立第-中学校への進学希望を両親 に打 ち
明けたという。 しか し、学資難を理由に父病名は沖縄県師範学校への入学を
勧め、この決定に対 して大舛は、三日三晩自分の部屋で泣 き明か し、最後 に
は祖母のクヤマが中に入 り、大舛の希望をかなえさせてやることを決定 した
(5)
という。
こうして大舛は、昭和 7年 4月、念願の県立第一中学校に入学 した。彼 は、
数学がやや苦手だった他は各教科に優れた成績を修め、中学 4年 、 5年では
同級生約2
0
0
人中首席を通 している。一方、幼少時より寡黙 ・重厚な性格のた
めか、中学の同級生か らは、 「
沈黙の将軍」とか 「眠れる獅子」 と津名 され
た。
さて、大舛が自分の進路 として職業軍人の道を正式 に決定 したのは、当時
配属将校として県立-中に派遣されていた榊利徳大尉 との出会 いがあったか
らだ。榊大尉は、同校において軍事教練に当る傍 ら、成績優秀な生徒の陸軍
士官学校への進学斡旋に従事 していた。大舛の俊秀さに目をっけた榊大尉 は、
熱心に士官学校への進学を勧め、昭和 9年 (
1
9
3
4
)
、大舛 3
年の時その意志 は
(6)
固まったと言われている。
この決定を境に、 「
数学 ヲヤラヌ日ハ眠ラヌコ ト」 とい うほど受験勉強に
(7)
精進 したという。
こうした努力が実 り、大舛 は昭和 1
2
年 (
1
9
3
7)4月、沖縄県か らはただ一
人の現役合格者 として勇躍陸軍士官学校 (
濠科)に入学 した。士官学校か ら
戦死までの大舛の記録については日誌 2冊と戦地 よ り家族 に当てた手紙が保
管されていたというが、戦争のため散逸 し、今日では何 も残 っていない。 こ
こでは、大舛の戟死後 「
沖縄新報」や 「
朝日新聞」沖縄版、 「海南時報」等
に掲載された陸士在学中の日誌その他を手がかりに、大舛の人 となりを見て
みよう。
-2
6
9-
軍神大舛と新聞 (
保坂)
昭和 1
2
年 4月 1日
的 ヲ狙 ッテ矢ハ放 タレタ。右スベキカ左 スベキカノ混沌 タル状態 ヲ完
全二離脱 シテ路ハ決 ツタ。一路皇軍 ノー員 トシテ御奉公 ノ道へ。 (中略)
畏 クモ陛下 ノ股肱 卜選バ レタ身デアル。今 日ノ此 ノ光栄、此 ノ感激 ヲ忘
レズ責務 ノ童且大 ナルヲ念頭二置イテ業 ヲ励 マウ。
この日、大舛 は晴れて念願の陸軍士官学校 に入学 した。彼 の入学 には 「父
母、村民、学校、県民」 こぞって大 きな期待が掛 けられていた。
昭和 1
2
年 4月 9日
就床床中故郷 ヲ懐 シノ情切々タル。 ・・・祖母父母姉妹 、 自分 ヲ一人
東京二出 シ如何二案 ジオラルラン。一 目ナ リトモ見 テ上京 サセタカ ッタ
二相遵 ナィ 。ア-、サ レド自分-余 リニモ御無沙汰致 シタ リ何 ノ不 孝 ノ
大 ナルヤ。
沖縄を離れ、東京での生活が始まり、1
0日はどたって大舛 は、初めてホー
ムシックに躍 った。後 に 「
軍神大舛」 として沖縄県民の憧憶の的となったが、
ここには大舛 も家族思 いの人間的感情を持っ一人 の人間であ った事が窺われ
る。
大舛が幼児より寡黙 な性格であったことは、関係者 の指摘す るところであ
るが、陸士入学後 もその傾向は依然 として変わ らなか った。大舛 は、次のよ
うに自戒 している。
昭和 1
2
年 6月 1日
自己ノ余 リニ無 口ナル ヲ痛感ス。男子殊 二軍人 ガ多弁 ナルハ最 モ慎 シ
ムベキコ トナ レ共、自分ノ如 ク無口ナルハ如何 卜信 ズ。語 り得 テ語 ラヴ
ルニア レバ可ナルモ、自分 ノ場合ハ語 り得ザルニハ非 ザルカ。而 シテ此
-2
7
0-
ノー事ハ早 クヨリ気付キ、正サ ントカ ムルモ今 日尚依然 タ リ。今少 シ語
得ル人間 トナル如 ク不断ノ努力ガ必要ナ リ。
大舛 は、陸士において職業軍人 となるための学科 、兵科等 の学習 ・訓練 を
約-年間にわたって受けるが、日誌に見 る限 り特定の親 しい友人はできなかっ
たようだ。学友たちは大舛の事を幾分かは郡旅 して 「ヒヒ公」 と呼んでいた。
それは多分大舛の歩 き方がややガ二股気味で、動物 のそれの歩 き方 に似 てい
たことと、 もう一つは、軍事教練のさい日頃の寡黙 さとは打 って変わ り猪突
(8)
猛進す る傾向があることか ら付けられたものである。
ところで、次に掲げる日誌は、大舛が 「ガ島」において戦死後、 「軍神大
舛」の言葉 として大政翼賛会沖縄県支部や、教育関係者が好 んで使用 した も
のである。
2
年1
0
月 5日
昭和1
勝 トハ自ラ勝チタリト信 ジ敗 ト-自ラ敗 レタ リト思 フ事 ナ リ。 ・・・
然 ラバ必勝 ノ信念ノ因 リテ来ル物-何 ゾ。日ク 「死」 ナ リ ト。死 ヲ決 ス
レバ勝 タザルナク、生 ヲ求 ムレバ敗 レザルナシ。依 リテ日 ク勝敗 ノ機ハ
生死ノ超越二在 リト。 (
中略)一人ノ勝敗ハ軍 ノ勝敗 トモナ リ軍 ノ勝敗
ハ一国ノ勝敗 トモナレバナ リ。吾人ハ思 ヲ将来 二致 シ、勝敗一瞬 ノ機 ヲ
撞ルベク不断ノ努力 ヲ要ス。
大舛にとって死 とは軍人最高の名誉であり、 「
死」 を何事 によ らず出発点
にお くことが最大の関心事であった。
3
年 5月2
7日、陸士橡科 1年 の卒業式前 日で終 っている
大舛の日誌 は昭和1
が、その中には沖縄に対する無知か ら派生す る学友 たちの差別的言辞 に対 し
憤慨 している箇所が幾つかある。
ー
271-
昭和 1
2
年 5月 7日
「
琉球 ッテ ドンナ処 ダイ」 トテ認識不足モ甚 ダシキ事 ヲ言 フ者ア リ。
全 ク吾人 ノ想像 ダニセヌ奇想天外 ノコ トヲ言 フモノア リテハ又何 ヲカ言
ハ ン。中等教育 ヲ受ケタルモノニシテ然 り。高等教育 ヲ受 ケ ンモノニシ
テモ然 リト。先輩 ヨリ聞キタル言 ナ レド、今 自己 ノ眼前 二事実 トナ リテ
展開サ レタル-無念ナ リ。県当局者 ノ慨嘆モ宣ナルカナ。
上記の日誌 は大舛が陸士に入学 して 1か月はど経 って級友か ら言われた質
問であるが、翌年 3月の同種の質問に対 してはそれな りに自分 の意見を述べ
ている。
昭和 1
3
年 3月1
8日
戦友日ク 「
沖縄-支那人ナ リ。何 トナレバ姓-一字 ナル ヲ以 テナ リ」
ト。沖縄ハ位置的関係上世 二誤解セラレイルハ度 々見聞 シァル所 ニシテ
全 ク奇想天外 ノ質問 ヲナス者 モー人ナラズ。果 シテ彼 ノ戦友 ノ言 ノ如 ク
ナラバ漢字漢文 ヲ取入 レ、又ハ支那 ナ リト言ハザルベカ ラズ。又空海、
最澄等 モ支那人ナ リト言 フベシ。只彼 ノ考ノ誤 レル ヲ憐 ムノ ミ。
不言実行を範 とす る大舛にとって、おそ らく表面的 には差別発言 について
とりたてて反論 はしなかっただろう。 しか し、軍 のエ リー トを養成す る最高
学府 においてす らこの種の言動がなされていることに対 してかな り憤慨 して
いたことが文面か ら窺える。
3
年に入 ると、陸士橡科 1年生 は各人 の兵科 を選択 しなければ
さて、昭和 1
な らなか った。一般に人気の高かった ものは航空兵科 (トンボ と称す る)で
あ り、 これ以外に歩兵科 (
足音をもじりパ タと呼ばれる)、砲兵科 (
が らが ら
引 っ張 るのでガラ)、工兵科 (
土方)
、騎兵科 (
局)、稚重科 (
味噌を運ぶ とい
希望 に騎兵科 、第 2希望 に歩兵
う意味か ら味噌)等があった。大舛 は、第 1
-2
7
2-
科 を選んだ。大舛が騎兵科 を第 1志望 に選 んだの は、彼 の生地 の与那 国島 と
関係があ った.同島には在来種 の与那国馬がお り、幼少 時 よ り彼 は馬 の世 話
を任 されていた。元来が馬好 きで、馬 と一緒 に生 活 して いた と言 った方 が よ
いほどであ った。陸士入学か ら約 4週間後、大舛 は 5年振 りに馬 に乗 った。
その日の感動 を次のよ うに記 している。
昭和1
2
年 4月2
0日
馬術
五 カ年振 リニ馬 二乗ル ヲ得 タ リ。朝 ハ早 ク ヨ リ夜ハ遅 クマデ乗
馬 二耽 り居 リン少年 ノコロ思 ヒ出サ レテ嬉 シクナ リヌ。少年 ノ コ ロヨ リ
大好 キノ馬 ナ リ。騎兵二志願 ノ心 アルモカク馬 ヲ好 ムガ故 ナ リ。
大舛 はこの時期 、いわゆるホームシックに躍 って いただ けに、 この 日の乗
馬 はよほど嬉 しか ったに相違 ない。大舛の日誌全体 に流 れ る傾 向 は、 か な り
控え目な自己反省心であった ことか ら判断す ると、 「馬術 」 とい う言葉 で始
まるこの日の日誌 は心が大変高ぶ っていた と言 ってよい。
昭和1
3
年 4月 に入 ると、学校 において各種 の軍人適正検査 が行 われ、同年
4月 1
5日、兵科が発表 になった。大舛 は自分 の意 に反 し 「歩兵科 」 に配属 さ
れた。その 日の日誌 にはこう述 べている。
昭和1
3
年 4月1
5日
運命 ノ定 マルベキ時ハ釆 リヌ。 ・・・予ハ ココニ歩兵 ヲ命 ゼラル。
騎兵騎兵 トノ ミ思 ヒ居 リシニ今 日歩兵 卜聞 キテ何 ラノ未練 ノ残 ルナ シ。
却 ッテ喜 ビノ色 サへ蓑- レヌ。我学生 ヲ托 スベキ兵科 ハ軍 ノ主兵 ナ リ。
断然奮発 セ ンコ トヲ誓 フ。
大舛 を して後 の記録 を見 ると、沈着 、冷静 、寡黙、決断力 、実行力等 が人
並 はずれて優 れていた ことがわか る。戦場での任務 ・役割分担を考慮す る と、
-2
7
3-
軍神大舛と新聞 (
保坂)
この時の学校当局の決定はある意味で "的を射ていた "とも言える。大田昌
秀琉球大学教授の言糞を借 りて言えば、「
我」の無いことと、「防御的戦闘」
(9)
に沖縄県出身兵士 は秀でていたと言 う。これか らす ると、大舛の人 となりは
沖縄出身兵士の特性を見事なまでに具現化 していたと言って過言ではなかろう。
昭和 1
3
年 (
1
9
3
8)5月2
8日、この日大舛 は、約 1年間の学業を終了 し、同
年 9月 3日、正式に神奈川県座間市にあった陸軍士官学校本科 に入学 した。
本科では、1年 1
0カ月にわたり軍事学を中心に戦術、戦史、軍制、築城 、測
図を学んだ。特に教科の中心は軍事学で、最初に教室 において原則を学 び、
次いで図上、最後に現地において実践訓練を行なった。
これ らの学科、訓練を修了 して昭和 1
5
年 (
1
9
4
0
) 2月27日、天皇の観閲の
もと陸軍士官学校第5
3
期生の卒業式が行われた。同年 3月、大舛 は約 5カ年
振 りに故郷の与那国島に帰省 した。滞在 はわずか 4日程であったが、 この間
恩師の墓参 りや親戚訪問、国民学校での講演等多忙な毎 日であったとい う。
島で初めての士官学校卒業生 ということもあり、大勢の島民が大舛家を訪問
した。祖母のクヤマの要求がある度に大舛は、私服を軍服 に着替え、来訪者
をもてな したという。束の間の故郷訪問の後、大舛 は台湾経由で、新任地 の
中国広東市へと向かった。
第二章
大舛 の戦歴一 中国∼ ガダル カナルそ して戦死
2
年 (
1
9
3
7
)7月、中国全土の占領を画策 した日本軍 は意溝橋事件を
昭和 1
起 こし、ここに日中全面戟争が勃発 した。日本軍 は 「短期速決」 の方針の も
と、昭和 1
3
年1
0
月までに武漢 ・広東を占領するなど中国の主 たる政治 ・工業
都市を押 さえた。 しか し、同年末か らは中共軍 (
八路軍が主体)が日本軍 の
前面に出るに及び、いわゆる対時戦化に入 った。
さて、昭和 1
5
年 3月、故郷与那国島か ら台湾に向かった大舛 は、その時広
東省三水 に駐屯 していた第3
8
師団第2
2
8
連隊第 1大隊 (
大隊長 早川菊夫少佐)
-2
7
4-
の第 1中隊に配属 された。見習士官の大舛 は、そこで、同地 区駐屯警備 に配
属 されていた兵士の教育係 となり軍人勅諭の復唱や兵器 の手入れ等 を指導 し
た (
一般に教育訓練 と称す る)
。同年 5月 1日、大舛 は少尉 に任官 され るが、
以後 「ガ島」において戦死するまで一貫 して歩兵部隊の小隊長 ・中隊長 として
前線を渡 り歩いた。とくに、歩兵部隊の中隊長 は最前線 の作戦 に従事す る事
が多 く、さらに激戦に耐え得 る現地兵士の養成 という役割を担わされていた。
6
年1
2
月 8日、太平洋戦争の勃発 と同時に、南支派通草 (司令官
昭和 1
酒
井隆陸軍中将)は、英国領香港島の攻略にとりかか った。 この戦闘において
2
8
連隊の第 1大隊 (
大舛隊 と称する)第 1中隊長 として英国
大舛は、歩兵第2
2
月2
0日に攻撃 を開始
軍の拠点の一つである 「ニコルソン」山を攻撃 した。1
2日そこを占領 した。本戦闘において日本軍将兵8
し、多大の犠牲を払い同月2
5
人が戦死 し、負傷者 は2
4
0
人を数えた。「ニコルソン」 山での戦闘 において
(
1
0
)
0
人 もの兵士が犠牲 となった。
大舛隊は主戦部隊 となったため、2
香港島を攻略 した第2
2
8
連隊は、昭和 1
7
年 1月3
1
日、今度 はモルツカ群島の
アンボン島に上陸 した。大舛隊は、同島において も左翼攻撃部隊 の最前線 に
1
4
高地 (アンボ ン市周辺の最高峰、オランダ ・オース トラリア
立ち、鉄帽嶺5
連合軍の要塞基地があった)を攻撃 した。同隊は、三 日三晩攻撃 を続 け、小
隊長を含む部下 7名余 りの戦死者 を出 しそこを占領 した。戦闘 の間、大舛隊
(
l
l
)
は一睡 もせず、ひたす ら山頂の征服を目指 し、攻撃を繰 り返 したという。
緒戦の勝利に勢 いづ く日本陸軍 は、次にオランダ領東 イ ン ド諸 島 と、オー
ス トラリアに連なる空 ・海交通の要衝 としてあったチモール島の攻略 にとり
かかった。当時、同島は東西に分割 され、東はポル トガル領 、西 はオ ランダ
領 として、東 はデ リーに、西 はクーパ ンに政庁が置かれ両国が互 いに島半分
を統治 していた。
7
年 2月1
7日、海軍 の援護 の もと同
アンボン島を占領 した日本軍 は、昭和1
0日チモール島 クーパ ン地区に上陸、 ただちにオ ランダ軍 と
島を出発、2月2
交戦状態に入 った。 この戦闘 は 2月2
2日まで続 き、日本軍 の勝利 に帰 した。
-2
7
5-
軍神大舛と新聞 (
保坂)
ところで、チモール島における戦闘では、大舛隊 は攻撃部隊の予備隊に回
され、戦闘終了後 はクーパ ンか ら北東 1
6
0
k
m 離れたソエ地区に設けられたオ
ランダ兵の掃虜監視にあたった。大舛隊に対するこの措置 は、同隊が、香港
島か ら始まってアンボン島と続いた一連の戟閲の過程でたえず第-線の矢面
に晒され、他のどの隊よりも死傷者が多かったためにとられた緊急措置であっ
た。大舛は、ソエ地区において暫 し戦闘か ら解放 され、オ ランダ軍が遺棄 し
(
1
2
)
ていったオルガンを弾 き、家族に手紙を普 くなどして休養に努めたという。
さて、昭和 1
7
年 (
1
9
4
2
)2月以来ポル トガル領チモールに駐屯 していた歩
兵第2
2
8
連隊は、同年 9月 7日同島警備任務を解かれ、同日クーパン港を出航、
ジャワ島のスラバヤに入港 した (9月1
2
日)。当初の予定では、同連隊 は、
ジャワ地区にてニューギニアのポー トモレスビー作戦 の攻撃部隊 として軍装
を整える予定であったが、南東太平洋に位置するガダルカナル島において日
本軍の劣勢が伝え られ、急拠予定を変更 し、 「ガ島」に派通 されることになっ
た。第2
2
8
連隊は、昭和 1
7
年 9月3
0日スラバヤを出航 し、1
0
月 9日ブーゲ ンビ
ル島プイ ンに到着、「ガ島」上陸に備えることになった (これ以後同連隊は第
(1
3)
1
7
軍の傘下に入 った )
。そ して1
1
月 7日、第2
2
8
連隊主力は、駆逐艦数隻に分
乗、翌 8日大小発動艇に移乗 し同島タサファロングに上陸 した。ちなみに、
第2
2
8
連隊の 「ガ島」上陸兵員総数 は2
,
4
3
1
人、 この うち上陸地周辺で死亡 し
(
J
I
)
た者が2
0
人、合計 2
.
411
人が戦闘可能な人員だった (
昭和 1
7
年1
1
月2
0日現在 )O
そもそもこのソロモン群島のガダルカナル島を日本海軍が占領 したのは昭
和1
7
年 7月 6日のことであった。日本海軍は、同島内に航空基地を設営 し、
(
1
5
)
アメ リカとオース トラリア間の連携を遮断 しようと目論んだ。一方、オース
トラリアにとって同島は、自国領土の安全にとって生命線 とも言 うべきとこ
ろで、さらにアメ リカにとりオース トラリアは、太平洋地域での緒戦の敗退
を挽回すべ く対 日反抗作戦の最大拠点であった。
同年 8月 5日、飛行場の第 1
期工事 (
滑走路8
0
0
m、幅6
0
m)がほぼ完成 し
た 2日後の 7日にアメ リカ軍は支援艦隊7
5
隻、輸送船 2
6
隻 に約 2万人の地上
-2
7
6-
兵士を分乗させ上陸作戦を行 った (
主力 は米海兵第 1師団 師団長 ア レギザ
(
1
6
)
ンダー ・バ ンデグリフト少将)
。米軍 は、なん ら日本軍の抵抗 もなくその日の
うちに飛行場を占拠 し、付近一帯に橋頭隻を確保 した。
これを知 った日本海軍部は 「ガ島」飛行場奪回確保のため大本営陸軍部及
び第1
7
軍に対 して援助出兵を要請 した。これを受け第 17軍司令官 の百武晴吉
中将は、 8月1
8日、北海道旭川市に本部をもつ第 7師団歩兵第 28連隊 の一木
支隊 (
一木清直大佐 兵力 2千人、作戦当時はグアム島に駐留)の将兵91
6
人
を敵前上陸させた。 しかし、火力に勝 るアメリカ軍の猛攻にあい、死者871
人
を出し、計画は失敗に終わった (8月2
0日)
。
この後 も、日本軍は海上輸送により歩兵第3
5
旅団 (
旅団長 川口清健少将)
配下の川口支隊 3千人を 9月 5日同島に上陸させたが、アメ リカ軍 2万人の
攻撃とジャングルに阻まれ一夜にして将兵1
,
5
0
0
人余を失 って しまった (
第回総攻撃)
。
この時、約 3千人 (
川口支隊以下残存の兵士を含む)の日本軍将兵が現地
にとり残 され、食糧の補給 もないままジャングルを防捜 し、後に 「
餓島」 と
言われる原因となった。
(
)
1
)
第-回の総攻撃の失敗にも懲 りず、日本軍は 「戦術的判断 よりも主情的」
となって、1
0
月2
4日未明より第二回総攻撃を行 った。本攻撃の主力を担 った
のは第 2師団 (
師団長 丸山政男中将)の歩兵 5個大隊で、その他 に川口支
隊、一木支隊の各残存将兵を合わせると約 1万人 ほどであ った。兵士 のほと
んどは上陸後極度の栄養失調に陥 り、そのうえ熱帯特有のマラリアに も感染
し、勝敗は初めか ら明かであった。事実、第二回総攻撃 も多大な戦死者を出
し、日本側の敗北に終わった (
戦病死その他2
,
0
0
0
人余)
0
こうした日本軍の悲劇的な戦況が伝わる中、昭和 1
7
年 11月 8日、大舛隊 は
「ガ島」に上陸 し、直ちに活動を開始 、11
月1
5日には日本軍第 2拠点 (
通称堺
台西側)に陣地構築 した。陣地前方5
0
m先にはアメ リカ軍が布陣 してお り、
しかも拠点付近は岩石地質のため掩壕構築は難渋をきわめた。同拠点 は、連
-2
7
7-
軍神大舛 と新聞 (
保坂)
日連夜 アメ リカ軍の攻撃にさらされ、ほとんど毎 日といってよいはど隊内か
ら戦死傷者が出た。大舛 も、11
月2
2日、11
月2
8日と二度にわた り顔面、膝関
節部分に砲弾破片を受けたが、それで も自軍の作戦指揮をとったと言 う。
昭和 1
8
年 1月1
0日、アメリカ軍第2
5師団 (アレグザ ンダー ・パ ッチ少将)
は、4,
0
0
0
人程度の兵力をもって歩兵第2
2
8
連隊正面に全面攻撃をかけた。 1
月1
3日、大舛隊はついに兵員2
0
人余 りになり、動ける一人を後方 に連絡係 と
。「ガ島」上陸時に大舛隊が何人いたのか
して派遣 し、残 り全員が戦死 した
は明かではないが、戦死者名簿で見 る限 り、大舛を含め1
0
9
人が同位置で死亡
している。ちなみに、大舛隊の生存者 は1
1
人だが、 この内の1
0
人 はいずれも
傷病者か大隊本部付 き将校であり、最前線にいて生 き存えることが出来たの
はわずか 1人だけだった。
さて、相次 ぐ日本軍の敗北をようや く正面か ら見据えた大本営 は、昭和 1
7
年1
2
月3
1日、御前会議の席上、天皇に対 してガダルカナル島撤退 を上奏 し、
同日その裁可を受けた。 ここに日本軍の 「ガ島」撤退が正式 に決 ま り、昭和
1
8
年 2月 1日より暫時船舶輸送 により同島か ら約4
0
0
k
m 離れたブーゲ ンビル
島に撤退 した。ちなみに、昭和 1
7
年 8月以降、 「ガ島」上陸日本軍総数 は、
3万 1,
4
0
4
人、そのうち戦死者 は 5,
0
0
0
人か ら6,
0
0
0
人、病死者はおよそ 1万
5,
0
0
0
人 と言われている。一方、アメ リカ軍側は、作戦参加総数約 6万人、 こ
のうち戦死者 は約 1
,
0
0
0
人、負傷者4,
2
4
5
人 となっている。前述 したように、昭
和1
7
年11
月までの歩兵第2
2
8
連隊の 「ガ島」上陸将兵は、2
,
4
3
1
人であったが、
撤退時の1
8
年 1月2
6日には4
6
0
人に激減 し、さらに撤退地点のブーゲンビル島
(
1
8
)
にて約 1
0
0
人ほどが病死 したという。
以上、大舛の出生か ら戦死までの2
5
年間の歩みを辿 って きたが、そこには
自らを一途なまでに死地へ と追 いやる生 き様が感 じられる。半封建的な生産
関係に縛 られた与那国島の、 しかも代表的な零細農家出身の大舛 は、元来が
寡黙で、決 して奮 ったところがなかったという。ところが、一度戦場 に出る
と、どの将校よりも人並はずれた指導力を発揮 し、実行力 も旺盛だったとい
-2
7
8-
(
1
9
)
われている。沖縄県という離島県の、そのまた離島の出身で、優れた頭脳の
持ち主であった大舛が、軍隊という階級制度の厳 しい所 で絶大の信用をかち
得ることが出来たのも、他の誰よりも勇敢で、 しか も二度 と生還を期待 しな
いという生き方を戦場においてそのまま実践 したか らに相違ない。
第三章
軍神大舛の誕生 と新 聞の役割
昭和 1
8
年 (
1
9
4
3
)1
0
月 8日付の 「
朝日新聞」 「
読売新聞」 「
毎 日新聞」各
紙に 「
感状上聞に達す 大舛中尉」という記事が掲載 された。 これが、いわ
ゆる 「
軍神大舛」の誕生である。1
0
月 7日、陸軍省 は第 2
2
回大詔奉戴 日を選
んで大舛の勲功を発表 した。折 りLも、沖縄県民 の戦意高揚 に励んでいた県
内新聞や教育界にとって、大舛の武勲は千載一遇の好機 であ った。1
0月 8日
付 「
朝日新聞」沖縄版は、 「
雄大な自然に育まる 大舛 中尉
兄弟揃 って秀
才」という記事を掲載 し、関係者の大舛評を述べている。続 いて、同月 1
0日
から1
3日にかけ 「感状に輝 く大舛松市中尉」を 3匝l
にわたって連載 した。 さ
らに同紙は、1
0
月2
0日、 「
大舛精神を活か し尽忠報国の誠 を致せ」 という沖
縄連隊区司令官井口大尉の談話を掲載 しているが、その記事 の リー ドのとこ
ろでさりげなく新聞社の本音を吐露 している。すなわち、 「本土を遠 く南 に
離れて黒潮のなかにぽつんと浮 く孤島、この郷土 よ り軍人関係へ送 り出 した
人材がこれまで極めて少数であったことは確かに県民 として淋 しいものの一
つであった。さればこそ大舛大尉のこのたびの栄誉 は全県民 の心を強 く揺 り
動かす大 きな感激であった」と。ちなみに、井口司令官 は、 「
大舛の精神 を
活か して銃後の県民ます ゝその職場において一層尽忠報国の誠を致 し若 い青
少年はこの先輩につづいて米英撃滅の第一戦へ総決起す るのだ。戦争 はいよ
いよ職烈を極めている。県民のなかより第二の大舛、第三 の大舛がどしどし
出てもらいたい」と談話を発表 した。
一方、軍部、新聞の大舛賛美 とはぼ同時に県教学課 において も逸速 く顕彰
-2
7
9-
軍神大舛と新聞 (
保坂)
運動が展開された。同課では、大舛情報がもたらされるや否や緊急打 ち合せ
会を召集 し、県下各学校において一週間にわたる 「大舛中尉顕彰運動」期間
を設けることを決定 した。さらに、教学課では同運動を学校現場 にのみ留め
るのではな く、教化報国会関係にも呼び掛け、全県民に "大舛中尉に続 け "
と、県民総決起を促 している.ちなみに、緊急打ち合せ会では、①大舛顕彰
式敢行 ②健民行軍 ③中尉を語る座談会 ④全生徒その他一斉決意文、及
び中尉に続 けのポスター作製 ⑤戦力増強に関す る特別常会の開催 ⑥県民
(
2
0
)
精神昂揚大会の 6項 目が実践目標として挙げられた。 さらに、同運動を県民
にあまね く知れわた らさせるため、大舛を讃える歌詞 ・歌曲の懸賞募集を呼
びかけることも併せて決定 した。
同運動 と軌 を一 に して、大舛の母校であ る県立一中の田端-村教諭 は、
「
大舛大尉伝」を著わすため与那国島に急拠赴 くことになった。田端教諭 は、
1
0
月13日には石垣入 りし、同1
6日には与那国島に到着 した。同教諭 はそこで
大舛の両親をは じめ、関係者 と面談 し、さらに大舛が書 き綴 った陸士在学中
の日誌、手紙、写真等を収集 した。
こうして、大舛顕彰運動は、最初より県庁サイ ドの指導 の もと、教育関係
者のみならず各種 の団体を仲介者 として急速に県民の間に浸透 して行 った。
なかで も大舛にゆか りの深い那覇市近郊在の八重山郷友会 と大舛 の出身校の
県立-中が積極的であった。八重山郷友会主催の大会 は 「大舛大尉遭烈顕彰
大会」 と銘 うって1
0
月1
7日に那覇市で開催 された.一方 、県立-中では、同
月20日校内集会を開 き、席上、藤野憲夫校長は、 1千人余 の生徒を前に 「け
よか ら大舛大尉の母校、一中は大尉に続 く兵営であり、戦陣である。皆志を
(
2
1
)
立て、大舛に続 く烈々の気迫を示 し総決起すへ し」 と生徒 を叱噂激励 した。
集会終了後、同校では卒業後の進路を生徒達に尋ねているが、その日出席 し
た991
人の生徒 は全員、陸軍 (
4
7
5
人)、海軍 (
2
2
7
人)、空軍 (2
89人)のい
ずれか一つを志願すると答えている。
これを受 け、藤野校長 は 「(
学校は)完全に兵営化 の必要 を痛感 した。近
-2
8
0-
く従来の学校経営方針を一蹴 して、わが-中は兵営であ り陣地であるといふ
新理想のもとに9
9
1
名の将兵志願者を してすべて大舛大尉の後を継がせたい」
と、決戦下の教育方針の是正を提言 した。
さらに同校では、大舛顕彰運動をより堅固なものにす るため、①遺烈を偲
ぶ会 ②伝記編纂 ③忠魂碑建設 ④英霊室設置 ⑤作詞作曲
⑥校葬
⑦
記念日設定 (1月1
3日戟死の日) ⑧講演会等 8項 目に及ぶ実践事業を取 り決
めた。
か くして大舛顕彰運動は、郷友会、教育関係者が先行す る形 で進行 し、つ
いで同年1
1
月 8日、那覇市奥武山公園運動場にて開催 された 「
大舛大尉偉勲
顕彰県民大会」において最高潮に連 した (
第一次大舛精神浸透運動)
。 この日
の大会は、沖縄県、大政翼賛会沖縄県支部、那覇市の共同主催によるもので、
裁判所、検事局、沖縄連隊区司令官及びその部員、那覇市各町内会代表、那
覇市男女青年団、各男女中等学校生徒等 1万人余が参加 したO式中、各階 ・
各層の挨拶があり、その後約 6千人の学徒が分列行進を行ない、 「燃え立つ
(
2
2
)
滅敵の意気を益々高揚」 したという。
さて、大舛顕彰運動は1
1
月 8日の県民大会においてひとまず一段落するが、
それを境に新聞は 「
軍神大舛」キャンペーンを展開 し、 さ らに、教育関係者
を中心に運動は地方へと拡大 していく。例えば、 「
朝 日新聞」 は、沖縄版 に
おいて1
1
月1
6日より同1
9日にかけ 4回にわたって 「大舛大尉の生家を訪ふ」
を連載 し、その先鞭をなした。この文章は、先に与那国島を訪問 した県立中の田端-村教諭の手記を掲載 したものだが、内容的 には大舛 の人 とな り、
両親、さらに大舛の性格等を伝えるものでそれまでの激越的な大舛賛美 とか
なり趣が違っている。田端教諭は、連載の中で両親の言葉を紹介 している。
それによると、大舛の戦死の感想を訪ね られた父親の満名 は、 「あの子の こ
とだから・・・」とのみ語 り後は黙 って しまったという。一方 、母親 のナサ
マは、 「出発の時から帰 って来 るとは思いませんで した。ただ立派に死んで
くれたで しょうか」と、これまた言葉少なに述べたという。 ここか ら田端敬
一2
8
1-
軍神大舛 と新聞 (
保坂)
(
2
3
)
諭 は、 「
我が子に全幅の信頼をお く父の面目がいかに も躍如 たるもの」があ
り、この両親あってこの子あり、と 「
軍神大舛」を讃えている。
また、 「
沖縄新報」では、-中教諭で花城具志の筆名を持っ中野東朗教諭
が、同年 1
2
月 8日より1
3
6
回にわたって 「
大舛大尉伝」を連載 した (この連載
物 は、昭和 1
9
年1
2
月大 日本雄弁会より同名の書名で刊行 されることが決まっ
。
たが、戦局悪化 と用紙事情困難のため中止 となった) 「
沖縄新報」はこの時、
同紙の普及を通 して大舛顕彰運動を県内全域に周知徹底 させ るという名目で
大政翼賛会地方支部 と連携 し、 「
沖縄新報」県民皆買運動を起 している。
さらに、大舛の故郷八重山群島にある 「
海南時報」 も、昭和 1
8年11
月2
3日
より翌 1
9
年 2月11日迄の合計2
7
回にわたり 「
大舛大尉陸士在学 日誌」を掲載
し、大舛の人 となりを郡民に啓蒙 し、その武勲を讃えた。
一方、宮古島では昭和 1
8
年1
2
月1
1日、郡下の臨時教育総会が開催 され 「
大
舛大尉に続け !
」 と宣言 し、決議文を採択 している。 それによると 「今や東
亜1
0
億に、栄光の還 る日を憶い、億兆一心、戦闘配備 につ き、必勝不敗の態
勢を強化さるるの秋、我等教育報国の重責に任ずる者 、顕然 、奮起せざるべ
か らず。今後、只管に、匪窮の誠を致 し、大舛の後 に続かんの決意を固め、
(
2
り
滅私以て実践に生 き、大尉の忠魂 に応え、聖戦完遂 に通過せん こと」を宣言
した。同総会では宣言に引き続 き 3項目か らなる決議 を採択 したが、そこに
は戦時下において教育は戦争 目的の遂行のためだけに棒 げ られねばな らぬと
宣言 している。
結局、この時期の新聞は、 「
軍神大舛」の 「
責任感」 や 「
指導力」を美化
す ると共に、皇軍の華々 しい戦果を讃え県民に戦争協力を呼びかけることに
終始 した。また、県当局 は、 「
軍神大舛」運動が大衆 レベルでの戦意高揚に
つながると判断 し、挙げてその普及に努めた。そこか ら、為政者や新聞が声
高に 「
軍神大舛」を賛美すればする程、それだけ県民 の大舛熟 は高まり、や
がて非合理な精神世界のみが強調 され、やみ くもな戦意高揚へ とっながって
い った 。
-2
8
2-
ところで、昭和 1
8
年1
1
月の県民大会の後、県教学課ではさらに県下 の有識
者からなる思想対策委員会を召集 して、 「
大舛精神浸透運動」 を研究す るこ
とにした。同委員会は、同年 1
2
月 2日、 「
朝 日新聞」の求めに応 じ、 「軍神
大舛」運動を次のように結論づけている。
県民の総決起を促す大舛大尉賛仰運動は各地 に展開 されて相当の効果
を収めっっあるが、徒 らに一時的な感慨に終わっては何に もな らない。
そんなのは女性的な感激です ぐさめて しまふものだ。それで何 よ りも大
切なことは大舛魂を完全に把返 してわが ものとす ることだ。大舛大尉 か
ら我 ら何を学ぶべきかを知 る必要がある。
では一体県民は大尉から何を学ぶべきであるか。それについて、十分
研究を遂げた結果 ・・・先ず大舛大尉が武人として も、また幼少 の頃か
らの日常生活においても至忠の中に生 き抜いて来 たことで、忠孝両全 の
自覚に徹底 した大舛大尉の一生がそのままわれわれの学ぶべ き辞典 であ
る。大尉は日頃非常な親思ひであった。その親を思ふ切々たる情愛 は士
官学校時代の日記に細か く記されている。 しか し、夏休みになって も決
して帰省 しなかった。すでに身を軍籍に置いた者 には郷里 もな く、親 も
ない、と大尉は日記に述べている。 ・・・いまこそ大尉のこの心 を心 と
して国に報いるべきである。
以上は、同会を主催 した県教学課の佐々木課長の談話であるが、第一次の
"浸透運動 "はいわゆる護国の華 として戦死 した大舛の一生を県民 にあまね
く流布することにあったといえる。そのため、県教学課や地方 の教育部会及
び思想対策委員会等を最大限活用 し大舛精神の浸透に腐心 した。
ところが、昭和1
9
年に入ると大舛顕彰運動は、さらに戦時色を強 め、非常
時体制により見合 った形で提唱されて くる。例えば、県学務課 の永山寛視学
は、決戦非常時事態に対する教育界の目標 として①死ね る教育
-
28 3 -
②必教必学
軍神大舛と新聞 (
保坂)
(
2
5
る
)
の実践 ③学校を兵営化 ④工場 も戦場の 4項 目を挙 げてい 。 また、泉守
紀沖縄県知事 は、県民に 「
戟時生活に徹せよ」と、次のような談話を発表 した。
県民各位 は本県の誉れたる大舛大尉偉勲に続 き "常在戟場 "たる鉄火
の信念に徹 し戟場生活の徹底的実践に適進 し自戒一切の不健全 な事象を
根絶 し各人は経済戦、思想戟において自ら省みて悔 いなき戦士 とな り、
銃後強化 に挺身 し官民上下の区別な く和をもって事に当 り、必勝の信念
を もって国土防衛に敢闘する所なか らしめ、他面常に大東亜各民族の指
導者 たる大国民の錬磨堅持 と教養の向上 とに遥進 し、物心両面 にわたり
一大国防国家の建設を実現 し、聖戦の目的完遂 に努力遭進 し御稜威を八
(
2
6
)
紘 に光被せ しめねばならぬ。
か くして、戦時体制下での県民生活、学校生活 は、形式的にも内容的にも
軍事一色に塗 りつぶされ、県民 はあたかも夢遊病患者の如 く集団熱狂の中に
巻 き込まれていった。とくに、南方地域での日本軍 の劣勢が伝え られるに及
び県民は政府 ・軍部の増産貯蓄奨励に動員 され、 これに呼応す るかのように
大舛顕彰運動 は新たな進捗を見せることになる。
大舛運動を繰 り広げる責務を担 った県教学課は、第一次の大舛精神高揚運
動を総括 し、第二次運動は 「
大舛精神を実践に移 し、物心両面一加 に県民性
に反映させる」 とし、とりわけ 「
今後は増産へ、貯蓄へ、決戦生活へその忠
(
2
7
)
誠心を体得せ しめる」 ことに当てることを決定 した。 ここか ら、第二次大舛
顕彰運動 は、従来の戦争に対する精神動員の補完物か ら、人的に も物的にも
県民を動員す るいわゆる県民 "根 こそぎ動員 "の道具へ と様変わ りしたとい
える。 もちろん、ここに到る過程には指導者層の積極的な戦争指導があった
ことは当然だが、他面、庶民サイ ドか らの戦争へののめり込みもまた大きかっ
たことは否定できない。たとえば県民 は、新聞社 に大舛賛美 の激越 な投香を
投函 したり、街頭に軍神を讃えるポスターを貼 り巡 らした りなど して、大舛
-2
8
4
-
顕彰運動を下から支えた.また、児童生徒は 「
軍神大舛」の紙芝居作 りに励
み、その優秀作品は新聞紙上で発表されもし、さ らに子供達 は各種の集会 ・
会合等において次のような 「
軍神大舛」の歌を高 らかに斉唱 した。
3 -月十 日の 夜は明けて
1 決戦続 く ソロモンの
ガダルカナルは 堺台
篠突 く敵の 弾丸の雨
ひしめく米鬼 斬 り伏せて
砲爆撃の 火の嵐
起てり大舛 中隊長
何を小痛 と 毅然たり
2 数をたのみて 寄す敵を
4 激戦死闘 三昼夜
奇襲撃砕 幾そたび
されども敵の 猛爆に
おどろに惑ふ 米鬼ども
陣地 は崩れ 弾丸っきて
撃ちて し止まむと 征 さに征 く
今は最期 と 中隊長
(
歌詞は 8番まであるが以下省略)
この歌 は、当時石垣国民学校 の教師を していた浦崎賢方が作詞作曲 した
「
噴暗大舛中隊長」という歌で、戦意高揚の折、県民 もまた好んでこれを斉唱した。
こうして見ると、戦争 と生活不安という暗い世相 の中にあ って もなおかつ
県民は 「
軍神大舛」運動に酔いしれ、必勝の信念で もって社会生活を営んで
いたといえよう。
さて、大舛精神を鼓舞 し戦意高揚を図ろうとする県下の指導者 は、昭和 1
9
年 (
1
9
4
4) 1月1
3日、大舛の一周忌慰霊祭に名を借 りた 「大舛精神第二次高
揚運動」を軍をはじめとし、県庁や大政翼賛会の主催の もと奥武山公園運動
場において催 した。また、大舛の母校である県立一中では、特 にこの日を選
んで大舛の武勲を顕彰する胸像の除幕式を行 った。一中の式典 には、大政翼
賛会県支部事務局長の当間重剛、県兵事更正課長の浦崎事務官、新聞社代表一
沖縄新報社専務 (
後に社長)の当真嗣合 らも参加 した。更 に同校では、大舛
以下-中出身者3
0
人余の戦死者を顕彰する為、評議員会 において 「1.忠魂
-2
8
5-
軍神大舛と新聞 (
保坂)
碑の建設
2.英霊室の完備
3.大舛大尉を讃える作詞作曲
4.大舛大尉
の伝記編纂」等を決定 し、生徒一人当り2円以上 の拠出金を払 い込むように
(
2
8
)
直ちに指示 している。
一方、県外か らの動 きとしては、自らもガダルカナル作戦 の参謀 として現
地体験がある親泊朝省中佐 (
当時は、陸軍士官学校教官)が、大舛大尉慰霊
祭に対 し次のような特別談話を発表 した。
(
前文略)ややもすれば郷土の出身 (
者)は優柔不断の非難を受 けが
ちであり、特 に軍隊あたりではその感を深 くす るが、大舛君 は平素の強
い自己反省 と実行力で もってこれを吹き飛ば して くれたのである。郷土
出身の知名士が少ないとか、高位にある人が少 ないといふ点で幾分 ひけ
目を感 じたが、大舛大尉が出て くれたのは自分 として胸がす くや うな感
が した。大舛大尉の働 きはこの意味において も県民 に大 きな力を与へ る
と恩ふ。 (
中略)大舛大尉の偉勲顕彰 こそ県民精神運動 の中核たるべ き
で恐 らく県民の想像以上に関係者が大舛大尉 の武勲 に対 して十分 に認 め
(
2
9
)
ているといふ ことを県民はよく考へて貨ひたい。
親泊の談話 は、大舛精神を実践化 して郷土の英雄 の名 を恥ずか しめぬよ う
県民に呼びかけたものである。親泊中佐 と言えば、当時の沖縄出身者の中で
は最高の知名士で、それだけに彼の発言は将来ある有為な学徒に必要以上 に
戟意を煽 る結果を招 いたことは否めない。
ところで大舛の命 日に、石垣町でも町民約 3千人が参集 し、 「軍神大舛大
尉慰霊祭」を挙行 している。式典終了後会場が登野城国民学校 に移 され 「海
南時報」社の後援 による 「
軍神大舛大尉偉勲顕彰決意開明青年大会」が開か
れ、1
5
人の青年男女がそれぞれ決戦下における青年 の役割 と決意のほどを披
露 した。
さて、昭和 1
9
年 2月、大本営は、米軍の沖縄来攻 は必至 とみな し、新たに
- 28 6 -
第3
2
軍を創設 し、沖縄に配備することを決定 した。同年 3月2
7日、第32
軍司
令部が福岡市で編成され、直ちに大がか りな軍事基地の建設が沖縄で開始 さ
れた。この時以後、大舛顕彰運動 は、文字通 り国家 (
氏)総動員法の沖縄版
となって県民に強B]
な決戦非常時意識を植え付け、物資、資金の供出や労働
力の提供に到るまで大 きな力を発揮させる原動力となった。 また、新聞は大
政翼賛会とも協力 し、献金者の氏名を新聞紙上で発表 した り、市町村 ごとの
献金高を競わさせたりして創意工夫をこらした献金、献納運動を展開 した。
昭和 1
9
年の大舛顕彰運動のうち特筆に値するのは、この年 の 7月 1
3日、奥
武山公園運動場において沖縄県主催の 「
大舛慰霊祭」 (
県葬)が挙行 された
ことである。慰霊祭には与那国島か ら大舛の両親 も参列 し、同月22日 「白木
(
3
0
)
の箱に入った遺骨を貰 って」与那国島に帰 ったと言 う。
カゝ
たはる
また、ちょうどこの時期、県都那覇市の潟原近 くにあった 「珊瑚座」 に於
て福地友珍 (
筆名は中城龍)作、真書志康忠主演の 「大舛大尉 に続かん」 と
いう沖縄芝居が上演され、好評を博 している。福地 は元新聞記者で、職 を辞
した後は脚本家として 「
輝 く瞳」、 「
撃ちて し止まん」等を相次いで発表 し話
題をまいた人物であった。灯火管制のもと、娯楽とて何 も無 い時に、標準語
でなされた沖縄芝居は、演ずる役者にとっても、見ている観客 にとって もひ
(
3
1
)
どく肩の凝るものであったが、それでも人気は非常に高かったという。
ところが、こうした束の間の庶民の喜びも、同年1
0
月1
0日の早朝突然那覇
市を襲 った米軍の艦載機の攻撃によって、 もろくも潰え去 ることになる。 こ
の日の米軍の攻撃によって、県都那覇市の約9
0
パーセ ントが焼失 し、死傷者
は7
5
8
人を数え、那覇港および那覇市内に集積 してあった県民 1カ月分相当の
食糧が灰塵に帰 して しまった。
米軍の空襲はこれ以後 も断続的に続 き、県民は、疎開に、陣地構築 と焦燥
困燈 した生活を強いられた。新聞社 も同様で、新聞機材の分散配置や記者 そ
のものの転出に伴い一時期大舛関連記事は紙面から消えて しまった。
大舛関連記事が再び紙面に現れるようになったのは昭和 2
0
年 1月、すなわ
ー2
8
7-
軍神大舛 と新聞 (
保坂)
ち大舛の二度目の命日の時か らである。大政翼賛会県支部 は、それ こそ最後
の力を振 り絞 り、大舛の命 日か ら一週間にわたり 「
大舛精神顕彰運動」を繰
り広げた。県支部は、主 として青少年を対象に週間行事計画を立て る傍 ら、
県下各市町村の国民学校や家庭においてもその実践に当たるように提唱 した。
さらに同支部は、自らの発議によって各中等学校生徒を県社護国神社に集め、
大舛精神を継承 して 「
全員特攻隊員になれ」と鼓舞 し、 「
征空戦へ若人の使
(
3
2
)
命完遂せよ」と叫んだ。こうした大舛週間の運動中、県下の各学校 は独 自に
会合を開 き、熱狂的な顕彰運動を展開 している。一連 の動 きに遅れ じとばか
り「
沖縄新報」は昭和2
0
年 1月 1
4日、 「
指導者に想 う」 と題す る社説を掲載
し県下の各団体 ・組織に次のように呼びかけた。
大舛精神は体当 りの精神であり、所謂特攻精神である。戦場 に於いて
は勇敢奮闘 し、最後に死を選ばなければならない場合 に於て は死 ぬこと
によって不滅の勝利を確信する精神であり、銃後に於 いては自か らの実
践が前線に直接結びっいて居 ること、職域に於 ける敢闘 は直 に国家の戦
力 となるものであることを自覚 し、一切を君国に捧 げて不退転の努力を
つづけるの精神である。
県下の指導階級は、大舛精神をもって職域を守 り、更 に集B]
の民衆を
指導す るの断固たる態度をもたなければならぬ。戦争が負 けた らどうな
るかに思いを致す場合、日本国民は一人たりとも安閑 としては居れない
はずである。
この日の 「
沖縄新報」の社説 は、昭和 1
8
年1
0
月以来展開 されて来 た 「
軍神
大舛」運動の全てを凝縮 したものといって過言ではない。 というの も、大舛
運動は、単にその華々 しい武勲を讃えるのみならず、当初よ りそれを通 して
県民に戦場での 「
死」を強要す るものを含蓄 していたか らに他ならない。
ちなみに、本土での同種の軍神運動 と比較すると、沖縄県の場合足りなかっ
-
288-
たものは 「
大舛神社」だけであった。その代わ り、 「
軍神大舛」の出現以来、
(
3
3
)
同運動を担 った指導者達はこれを 「
青少年の信仰の対象」 た らしめることに
腐心 し、さらに戦時経済の中で窮乏を余儀なくされている県民に対 して飽 く
なき 「
生産増強の推進者」たる役割まで押 しつけて しまった。
翻って 「
軍神大舛」運動を見ると、同運動は戦争 という特異な時代 によっ
て創造され、優れて県民の戦意高揚の道具 として使用 されたことが解 る。そ
れだけに、軍民 もろとも沖縄戦に投げ出され、辛酸 を嘗 め尽 くした戦場 にお
いて軍神という金玉の声が脆 くも潰え去 ったのは理の当然 と言えよう。
おわ Uに
そもそも 「
軍神大舛」運動を理論的に指導 したのは、県当局 と大政翼賛会
県支部であった。彼 らが、一種の政策立案者 となり同運動を領導 し、学校 ・
新聞がその組織化 ・運動の拡大に大 きく貢献 した。 もちろん、軍神 という言
葉が代表するよう、その仕掛けた張本人は軍部であ り、末端 の行政や各種の
組織は、時代の流れにそって運動を展開 しただけだ、 という論 も成 り立っ。
しか し、 「
軍神大舛」運動を詳細に検証 してみると、事 の起 こりはともか く
として県民の日常生活の末端につながる組織が自らの体型にあった運動を行
い、結果として県民を根 こそぎ戦場へと駆 り出す機関 と化 して しまったこと
は否めない。とりわけ戦時中唯一の言論機関としてあ った新聞の責任 は大 き
く重い。軍神大舛運動に対する新聞の動向を見 ると、 この時期新聞が県民に
主張 したものは、戦場下の沖縄で軍民等 しくことごとく 「
死を選択せよ」 と
いうことであった。即ち、政府 ・軍部指導の言論状況 の中で、新聞はどこま
でも権力者の意図を体得 し、県民の意識 と生活を否応 な しに沖縄戦へ と駆 り
立てていく働 きを したのである。ここか ら、結果的に 「
軍神大舛」 という言
葉は激越なスローガン、いわゆる 「
死の号令」として機能 し、やがて県民 も
ろとも破局 と滅亡をむかえて しまうことにつながったのである。いっの時代
にあっても新聞は人々を指導 し、意見形成を助ける責任がある。ところがもし、
-2
8
9-
軍神大舛 と新聞 (
保坂)
新聞が権力に迎合 し、誤 った考え方でもって大衆を指導 した らどうなるか。
ここか ら、戦前における言論機関の実態 と、庶民の精神形成 の有 り様 を検証
する一つの事例 として軍神運動がさらに研究される意義があると思われる。
最後に、 「
軍神大舛」を人間的に検証 し直 してみると、そこには他 の誰 と
も変わ らない人間味溢れ、親思いの人物像が浮かんで くる。一般 に軍神 と呼
ばれる者は、生前の軍隊内での態度 ・行動が人並 はずれ優秀だ った事が条件
として挙げられる。さらに、死後においては本人の神格化に耐え得 る家族の
存在が重要な鍵 となる。大舛が、沖縄本島か らさらに南下 した与那国島 とい
う寒村の出身であ りなが ら、兄弟姉妹のほとんどが当時 としては最高位の学
問を修めている事 も手伝い、県民は半ば熱狂的に 「軍神大舛」 を支持 して し
まったとも言える。こうした状況か ら判断すると、 「軍神大舛」 は生 まれる
べ くして生まれたとも言えよう。私事になるが、戦後の大舛家のす ぐれた歩
みを見 るにつけ平和時に大舛がいればと、重ね重ね残念でならない。
脚 注
(1)防衛庁防衛研修所戦史室
F
南太平洋陸軍作戦
2 ガダルカナル ・ブナ作戦』
4
年 、5
7
3
頁。
朝雲新聞社、昭和4
(2)越智春海 『ガダルカナル』 図書出版社 、1
9
7
4
年 、2
7
8
貢。
(3)昭年 1
8
年1
0月現在の大舛家の家族構成 は次の通 り。
父
満名
母
ナサマ (
5
0
歳)
(
5
2
歳)
長女 静枝
(
31
歳 県女子師範卒 元小学校訓導)
長男 松市
(
2
5
歳 陸士卒 昭和1
8
年 1月戦死)
二女
(
2
4
歳 県立看護婦養成所卒 看護婦)
トミ
21
歳 県女子師範卒 国民学校訓導)
三女 八重子 (
二男 重公
(
1
9
歳 山口家に入籍 東京商科大在学中)
-2
9
0-
四女 晴子
(
1
6
歳 沖縄師範学校女子部在学中)
三男 重盛
(
1
4
歳 県立一中在学中)
五女 恵子
(8
歳 与那国国民学校在学中)
祖母
クヤマ (
7
2
歳)
(4)1
9
8
8年 5月2
5
日、黒島八重子氏とのインタビュー及び同年 7月1
7日大舛ナサマ氏
とのインタビューから。
(5)同上、大舛ナサマ氏とのイ ンタビューか ら。
(6)沖縄県教育会
『
沖縄教育』 昭和1
9
年 2月号 (
第3
2
8
号)所載の榊中佐談 「
見込
0
-4
2
頁参照。
んだ生徒」、4
(7)小野重朗
「
大舛大尉倖」 「
沖縄新報」 連載第4
2
回 目、なお原資料は新聞切抜
き帳からのため年月日不明。
(8)小野重朗
「
同上」
、連載第7
1
回目。
(9)大田昌秀
『
沖縄の民衆意識』 弘文堂新社 昭和4
2
年、3
9
3-4
0
2
貢を参照。
(
1
0
)歩兵第2
2
8
連隊史編纂委員会
『
歩兵第2
2
8
連隊史』、昭和4
8
年所中の戦没者名簿
(
3
5
9
-3
6
1
頁)より作成。
(
l
l
)歩兵第2
2
8
連隊史編纂委員会
(
1
2)沖縄県教育会
『
前掲書』、早川少佐談 「
命令退れに押問答」、3
1
頁。
(
1
3
)歩兵第2
2
8
連隊史編纂委員会
(
1
4
)防衛庁防衛研修所戦史室
(
1
5
)五味川純平
『同上』
、1
3
1
-1
3
2
頁O
『
前掲書』、1
7
5
頁。
『
前掲書』
、付表第 1「
在ガ島第 1
7
軍戦力表」を参照。
『ガダルカナル』 文芸春秋社、昭和5
0
年、1
3
頁。
(
1
6
)Edwl
nP.Hoyt
,Guadal
c
anal
,Ml
l
l
t
al
yHe
r
i
t
agePr
e
s
s
,1
9
8
2
,p.
l
l
,
(
1
7)越智春海
『
前掲沓』、1
2
7
頁。
(
1
8
)歩兵第2
2
8
連隊史編纂委員会
(
1
9)沖縄県教育会
『
前掲書』、2
2
8
頁。
『
前掲専』、親泊中佐談 「
黙々と異彩を放つ大舛大尉の実行力」、
2
3
貢参照。
(
2
0
)「朝日新聞」沖縄版、昭和 1
8
年1
0
月1
3日。
(
2
1
)「朝日新聞」沖縄版、昭和 1
8
年1
0
月2
7日。
-2
9
1-
軍神大舛 と新聞 (
保坂)
(
2
2)「朝 日新聞」沖縄版、昭和 1
8年1
1
月1
6日。
(
2
3)「朝 日新聞」沖縄版、昭和1
8
年1
1
月1
7日。
(
2
4)西平秀毅 『戦時下の沖縄教育』 沖縄時事出版、昭和5
5
年 、2
8
6-2
87
頁。
(
2
5)「朝 日新聞」沖縄版、昭和 1
9
年 1月 1日。
(
2
6)「朝 日新聞」沖縄版、昭年 1
9
年 1月 1日。
(
2
7)「朝 日新聞」沖縄版、昭和 1
9
年 1月1
4日。
(
2
8)沖縄県教育会
『
前掲書』、6
2
頁参照。
(
2
9)「朝 日新聞」沖縄版、 昭和 1
9
年 2月 2日。
(
3
0)黒島八重子氏 とのイ ンタビューより。なお、白木の中に入 っていたものは 「ガダ
ルカナル島の老木を燃や した灰だった」 と述べているO
(
31
)1
9
8
8年 7月2
1日、福地友一郎氏 とのイ ンタビューより.
(
3
2)「沖縄新報」、昭和2
0
年 1月1
4日。
(
3
3)沖縄県教育会 『前掲書』、44
頁参照。なおこの言葉 は、田端-村教諭が親泊中佐
か ら聞いた話 として伝えている。
-2
9
2-