第一回 旧東中野小学校(そのー) 東中野尋常小学校は昭和7 (鋼) 年9月

区協議会委員でもあります。 岸恒夫さん。岸さんは小滝町会の副会長。住 ☆本項の執筆者は東中野5丁目にお住まいの
りの校舎は区内で最もスマートな校舎でした。 囲まれ'赤瓦の屋根'クリーム色のタイル張 歌にある如く、校舎の北側は丘陵で緑の森に
(下記参照) は1 3回、卒業生の総数は135 名です。 翌年3月廃校になりました。従って卒業回数
この校舎も昭和20年5月の空襲で焼失し、
年から五年生まで) 校舎に転校してきました。(転校したのは一 期は塔山小学校で過ごし'二学期からこの新 学校に通学していましたo 私は1年生で1学 塔山小学校に、三・四丁目の人は桃園第二小
続けて式をやった記憶があります。 摩郡中野町が東京市中野区になった日へ 二目 30日に開校しました。翌日(10月1日)は豊多
この小学校ができるまでは'五丁目の人は
「起伏す丘陵 緑樹に埋めて」 と当時の校
第一回
東中野尋常小学校は昭和7 (32)年9月
旧東中野小学校(その1)
旧東中野小学校(初代校長塩脇菊松氏)
旧東中野小学校卒業生(単位:人)
卒業亘数
卒弊軟
傴ゥ
男子
鼎
女子
鉄
合計
涛
2
4
10
34
38
72
塔R
B
鉄
92
免ツ
55
迭
12
2
鼎r
37
涛b
6
鼎
100
途
8
14
54
R
田R
46
湯
16
63
鉄B
146
10
r
都B
83
C2
免ツ
18
80
田
12
59
139
2
20
鉄"
田r
54
B
51
105
鼎
r
684
671
1,355
て開校しました。 在地に木造で6教室、昭和小学校の分校とし
とは前号で述べました。
には奉安殿がありました。
そして新東中野小学校は昭和31年4月、現
を作ったのですo は'2階の3つの教室の仕切りを取り'式場 典や学芸会の時 せんでした。式 体育館はありま いで、講堂とか 室があったくら 楽、裁縫、保健 職員室の他は音 なく、校長室、 は教室の数も少 昭和7年開校時 の木造でした。 ように2階建て
校舎の入口には二宮金次郎の銅像が、校庭
ては後日詳述します) が蛇行して流れていました。(神田川につい にありましたo 出来る前は原っぱで'神田川
校舎は写真の
第二回
旧東中野小学校は現在の区立三中のところ
旧東中野小学枚(その2)
aEL-ED笹■ Tr-た毛
運動会の風景(昭和1 3年ごろ)
廃校となったこ
Lt 翌2 1年3月
襲によって焼失 年5月25日の空 したが'昭和20 民学校となりま 和1 6年東中野国 常小学校も、昭
その東中野尋
どが男性でしたo 生以外'ほとん 保健と裁縫の先
また'先生は
学芸会の様子(昭和1 3年ごろ)
伺いました。(敬称略) の日実際に空襲を経験された方々にお話しを の空襲のことは全く知りません。そこで'
け、終戦を挟んで中国の上海にいため'こ
襲で焼失し、昔日の姿は失われました。 部(山手通りに面したところは4月13日の空
当時私は20才で、その年 2月に招集を受
(別表1)。
この日 空襲で'五丁目全域と四丁目の一
襲警報が何度も繰り返し出されていました。
大本営発表を伝える記事は左記の通りです。 読売、毎日などの5社が共同で発行) の冒頭、
資料によると、当日は朝から警戒警報と空
(別表1)
25日 7時58分警戒警報発令
8時25分 〝 解除
11時47分 〝 発令
1 1時58分空襲警報発令
12時10分(空襲一次)
1 2時40分空襲警報解除
13時0分警戒警報解除
22時2分 〝 発令
22時22分空襲警報発令
22時30分(空襲二次)
26日 1時0分空襲警報解除
1時30分警戒警報解除
2
炎上せり・・ 」
右により宮城内表宮殿其の他並に大宮御所
し焼夷弾による無差別爆撃を実施せり。 半に亘(わた) り主として帝都市街地に対 月二十五日二十 時三十分頃より約二時間
「南方基地の敵B29約二百五十機は昨五 宮城、大官御所に被害 帝都を無差別爆撃 47機撃墜 昨晩、B29約二百五十機は
焦土と化してしまったからです。 都心を離れた閑静な東中野地域は1夜にして た方にとって生涯忘れ得ぬ日となりました。 年のこの日は、当時この地域に住んでおられ 今月もその25日が来ました。しかし昭和20
昭和20年5月27日付の共同新聞(朝日、
第三回 (特創編)
毎月25日は地域l=-スの発行される日'
昭和20年5月2 5日
落ちてくる火の粉を払うのに懸命でした。火 木が多く、燃えることはないと思いましたが'
るで火の川 ようでした。幸いこの場所は植 通り) は'両側の家が盛んに燃えてい 'ま
した。そこから見る早稲田通り (当時は昭和 団の人は荷物を捨てるよう声を大にしていま ます。それに火がついたら危険なので、警防 来ましたが、皆持てるだけの荷物を持ってい
しており'安全と見てぞく と人が入って 込みました。そこにはすでに相当の人が避難 んの植木場 (現'落合ハイム) に全員で逃げ 合の方は駄目'あすこなら、と思い'中村さ
いつもと様子が違うとまず感じました。下落 が上 りましたo警報に慣れた私も今日のは 家(上落合八幡神社の近く) の周囲に火の手 子がおりました。空襲警報が出されるや私の
現早稲田通りが火の川に
滝町会婦人部長) えない異臭が周囲に漂いました。(五丁目小 体を焼く光景があちこちに見られへ何とも言 の焼死体がありました。そして後日、その死 てくれませんでした。途中の道路には数多く
きました。でも重症患者がいっぱいで治療し 夷弾のため目が痛く、聖母病院まで歩いて行 けと もに火勢は治まり したが、催涙性焼 に飛び込み熱さをしのぎました。やがて夜明 海でした。体は熱くて仕方なく九鬼邸の風呂
四丁目の方も真っ赤.完全に周囲1面は火の げ込みました。華洲園の屋敷も次々に燃え' て九鬼さんの屋敷(現へ 東中野小学校) に逃 赤'もう逃げる所は後の方しか無いと判断し 家の方も燃え始めましたo上落合の方も真っ 新宿) は既に火の手が上 り、見る間にわが へ逃げ'新宿方向を見ると柏木地区(現'北 五丁目24) のあるところ〕 た。空襲と同時に「山」 〔滝山稲荷(東中野
私には当時、母と4才になる娘と1才の息
体が熱くて・・
当時'父は出張で不在、母と姉の三人でし
岡本富子 (当時1 4才女学校2年)
寺村佐喜子 (当時29才主婦)
◇
ました。 ったことを聞き、万感やるせないものがあり
います。 って防空壕に入った人が多数'命を落として
無事でしたが'近所の方がこの空襲で亡くな の惨状を目の当たりにしました。幸い家族は 年の1月4日。東中野の駅を降りて初めてこ
私が内地 (日本国内) に引き揚げたのは翌
いが生死を分けたということです。安全と思 ことは、どこへどう逃げるかという判断の違
上燃えることはないと考えたからです。
柱1本残っていませんでした.
3人の方貴重な空襲体験を聞いて感じた
◇
4月の空襲で焼け野原になっており、それ以 る。そこで三丁目へ逃げることにしま た。 へ逃げようか'五丁目も盛んに炎をあげてい 間に火の手があちこ に上がりました。どこ 照明弾が落ちると もに焼夷弾が落下、見る のは大きい」と感じました。午後10時すぎ、
ようでした。 惨状を見て自制を失ったのでしょう、狂犬の ありませんでした。犬も、いつもと違うこの
5月2日の空襲ときは'直感的に「今日
翌朝になって家に戻ってみると'そこには
幾人かが重なりあっており'頭髪はまったく
た。途中焼死体を幾つも見ましたが、大抵' 母の実家のある杉並の大宮八幡まで逃げまし な被害を受けましたo私はリヤカーを引いて、
り沿いの地域が、隣接の三丁目ともに大き
の死体がありました。(小滝泉会相談役) も多かったようですo また道路の上にも多く
わが家が焼けた日
されていました。
4月13日の空襲では四丁目の現在の山手通
当時私は中島飛行機の田無工場に勤労動員
大嶋一敏(当時1 5才中学3年)
◇
◇
(元四丁目町会長)
3
ため、火と煙で逃げられず壕の中で死んだ人 ましたが'入り口が早稲田通りに面している
えました。この植木場の下には防空壕があり
の熱さのため喉が渇く息子には一晩中乳を与
(別表2)中野区内の空爆被害状況
項目
滴ネ
2
と言われていることを付け加えておきます。 区内の死者だけで数千人に及ぶのではないか 明者や家族だけで埋葬した者などを含めると、 だし25・6日については、未確認の行方不 の日以外の空襲でも被害は出ています)。た
I?「
5月25-26日
死者(名)
418
負傷者(名)
1,611
被災者(名)
テ
全焼家屋(戸)
都
地域 偖ィカy*ツ
ノ(inネ賈)ゥm「咤
c
なります。 はのちに「山の手大空襲」と呼ばれるように
東京の息 根を止めたといわれる25日の空襲
中野区の被害状況は別表2の通り(これら
空襲の傷あと
焼け残りの町をしらみつぶしに襲い、帝都
72,523
20,707
住吉町、小滝町(東中野五
昭和通-.二、上高田-、
ゥm「唏諸
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大和町、鷺宮など 冏ケ*ノ,ェI8ネサル,ェI h ,ェB (y*ハInノ_ケ*ハHユリフ96:I メ 69*ネ, r
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1、・七∴
(参考とした資料)()内は編者加筆
「東京大空襲・戦災編」 (東京空爆を記録する会)
「中野区史」 「中野区民生活史」
「平和への祈りを次代へ∼中野区民戦争体験記録集」
(以上3点、中野区)
で開通しました。 都バスが昭和12年7月小滝橋から四谷旭町ま
橋から新宿東口に(三往復/日、大人5銭)'
になりました。関東バスが昭和7年1月小滝
から現在の舗装道路になり'バスも通るよう
いました。 これを商売とする者が、小滝橋の際に立って
∼14年)が終わるころ、早稲田通りは砂利道
昭和の初期、神田川の改修工事(昭和5年
W.I )適rj・;3・7.
写真は昭和15年の早稲田通り
上右:都バス車庫の方向の様子
上左:中華料理「幸楽亭」付近(写真の女性
は写真提供者のお母様)
撮影場所 季節料理「岸由」付近
(東中野5-25)
写真提供 岸吉郎氏(上落合在住)
4
他人の手を借りなければなりません。そこで が'大八車やリヤカーは1人では引き れず、
はムチで尻をた いて車を引かせていました にとつては難渋を強いられる道でした。馬方 で中野の方へ向かつては上り坂、車を扱う者 牛'大八車'リヤカーでした。しかも砂利道 物を運ぶ手段は専ら馬力(荷馬車のこと)、 ていますが、昭和初期以前は車の数は少なく、
を結ぶ貴重な道路です。 田通り」。青梅街道などと もに都心と郊外 井町)、下井草そして石神井に通じる「早稲
今は交通量も多く、常にどこかで渋滞をし
第四回
早稲田から高田馬場、小滝橋から中野(新
早稲田通-(その1)